マレー作戦
マレー作戦 | |
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戦争: 太平洋戦争/大東亜戦争 | |
年月日: 1941年12月8日 - 1942年1月31日 | |
場所: マレー半島 | |
結果: 日本軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | イギリス オーストラリア イギリス領インド帝国 |
戦力 | |
35,000[1] | 88,600[2] |
損害 | |
戦死1,793、戦傷2,772 | 損害約25,000 うち遺棄死体約5,000、捕虜約8,000[3] |
マレー作戦(マレーさくせん、馬来作戦、日本側作戦名「E作戦」)は、太平洋戦争(大東亜戦争)序盤における日本軍のイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。
太平洋戦争(大東亜戦争)における最初の作戦である(つまり、「真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まった」という一部の記事にある記述は誤りである)。世界史的には、本攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパやアフリカのみならずアジア太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。
1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入した。これは世界の戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。
Contents
背景
開戦時における日本軍の戦略目標は、石油や天然ガス、ゴムなどの豊富な天然資源を持つオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかるイギリスの植民地であるマレー半島およびシンガポールを攻略する必要があった。
当時シンガポールは、新造戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを基幹としてアジア太平洋地域とインド洋一帯を確保せんとしたイギリス東洋艦隊の根拠地であった。またイギリスの東南アジアにおける植民地支配の中心拠点でもあった。そのため、ヨーロッパやアフリカ戦線においてイギリスの抵抗に手を焼くドイツにとってもイギリスの資源補給線であるインド洋を抑える意味から日本軍による攻略を切望するところであった。
長年イギリスの植民地支配下に置かれていたシンガポールは、日英同盟の破棄以降イギリス軍によって防御設備の強化が進められ「東洋のジブラルタル」とも称されていた。海に面した南側には戦艦の主砲並みの15インチ(38センチ)砲をはじめとする重砲群とトーチカ群が構築され、さらに多数の戦闘機群が配備されて難攻不落の要塞と言われていた。北側のジョホール海峡側および同じく植民地であるマレー半島におけるイギリス軍の防備は手薄であったが、広大なマレー半島そのものが天然の防壁となると考えられていた。
上陸可能地点であるタイ領内のシンゴラ(ソンクラ)からシンガポールまでは1,100キロの距離があり、マレー半島を縦断する道路は一本道で両側には鬱蒼たるジャングルとゴム林が広がっていた。さらに半島には大小約250本の河川が流れ、南に撤退するイギリス軍が橋梁を破壊すれば容易に日本軍の進撃を阻止できると考えられた。その間にイギリス軍はシンガポール北側の防備を強化することができると考えていた。
日本軍が持つことのできる時間的余裕は長くはなかった。大本営は、「(マレー半島内のイギリス軍を放逐しつつ)マレー半島を70日以内で縦断してシンガポールを攻略する」という目標を立て、作戦準備を開始した。
参加兵力
日本軍
- 第25軍 - 司令官:山下奉文中将、参謀長:鈴木宗作中将、参謀副長:馬奈木敬信少将、高級参謀:池谷半二郎大佐、作戦主任参謀:辻政信中佐
- 第5師団 - 師団長:松井太久郎中将、4個歩兵連隊(歩兵第11、第21、第41、第42連隊)、捜索第5連隊、工兵第5連隊、砲兵第5連隊基幹
- 近衛師団 - 師団長:西村琢磨中将、3個歩兵連隊(近衛歩兵第3、第4連隊、第5連隊)、近衛捜索連隊基幹
- 第18師団 - 師団長:牟田口廉也中将、3個歩兵連隊(歩兵第124連隊(川口支隊)欠)、歩兵第56連隊(佗美支隊)は12/8コタバル上陸、歩兵第55連隊(木庭支隊)は12/28コタバル着、歩兵第114連隊と師団主力は1/23シンゴラ着
- 第3戦車団 - 戦車第1、第2、第6、第14連隊
- 独立工兵第4、第15、第23連隊
- 独立山砲兵第3連隊、野戦重砲兵第3、第18連隊
- 第3飛行集団 - 集団長:菅原道大中将、作戦機459機、予備153機、作戦後半には一部を残し蘭印方面へ転用
- 南遣艦隊 - 鳥海以下重巡5隻基幹、司令長官:小沢治三郎海軍中将
- 第22航空戦隊 - 司令官:松永貞市少将、作戦機158機、予備29機
- 第56師団(マレー作戦には最終的に参加せずビルマ戦線へ転進)
大本営は南方作戦の中でもマレーを最重要視し精鋭部隊をこれに当てた。第5師団(広島)は建軍以来の精鋭師団であり、1941年初頭に馬匹編成から自動車編成に改編された虎の子の機械化師団であった。近衛師団(東京)は宮城警護を任務としており日露戦争以来一部の部隊を除き実戦経験がないという不安はあったが、やはり数少ない機械化師団の1つであり本作戦には不可欠と考えられた。
第18師団(久留米)は馬匹編成であり機動力では劣っていたが、精鋭師団の一つとして期待されていた。また、イギリス軍は橋梁を破壊して遅滞を図ると予想されたため、橋梁修理のために独立工兵連隊が増強された。参謀陣にも鈴木中将、辻中佐ら大本営の逸材が参画し、資材も最良のものが割り当てられた。
1941年3月に第5師団はマレー戦を想定して佐世保で大演習を行い、ジャングルやゴム林での戦闘の演習も進めていた。さらに辻中佐らは6月から海南島で作戦研究を行っていた。海南島一周は1,000キロでマレー作戦の進撃路の長さに匹敵し、熱帯性気候や一本道の地形も共通する。日本軍はこうした万全の準備をもって作戦に臨んだのである。
イギリス軍
- マレー軍(司令官アーサー・パーシヴァル中将)
- イギリス領インド帝国軍(英印軍)
- 第3軍団(Indian III Corps) - 第11師団第6、第15旅団(ジットラ)、第9師団第8旅団(コタバル)、第9師団第22旅団(クアンタン)、第28旅団(軍団予備、イポー)
- 第12旅団(軍予備、ポートディクソン)
- 第45旅団(1月上旬シンガポール着[4])、第53旅団(1月中旬同着)、第44旅団(1/25同着)
- オーストラリア軍
- 第8師団(Australian 8th Division) - 第22旅団(メルシン)、第27旅団(クルアン)
- イギリス軍
- 第18師団(British 18th Infantry Division) - 第53旅団(1月中旬シンガポール着)、第54、第55旅団(1/28同着)
- シンガポール要塞守備隊
- マレー人部隊 - 第1、第2旅団(シンガポール)
- イギリス領インド帝国軍(英印軍)
- 東洋艦隊
- Z部隊(司令長官:トーマス・フィリップス海軍大将) - 戦艦プリンス・オブ・ウェールズ及び巡洋戦艦レパルス基幹
- 空軍(246機)
イギリス軍は国際情勢の悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点(植民地)であるマレー半島及びシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600、インド兵37,000、オーストラリア兵15,200、その他16,800の合計88,600に達していた。兵力数は日本軍の開戦時兵力の2倍であったが、訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。軍の中核となるべきイギリス第18師団はいまだ輸送途上であった。
また、ヨーロッパ戦線およびアフリカ戦線に主要部隊が張り付かざるを得ない状況であったことから、これらの植民地に配置された兵士の多くは世界各地のイギリスの植民地から集めた異なる民族の寄せ集めであり、統帥には苦心があった。特に多数を占めたインド兵たちは、生活の糧を得るためにイギリス軍に入隊したものの、祖国を植民地支配し抑圧するイギリス人のために、祖国から遠く離れたマレーの地で命を投げ出す理由など持ち合わせていなかった。
空軍については現地司令部から本国へ幾度も増強の要請がなされたが、ドイツ軍に対して劣勢でその対応だけで手一杯であった本国はこれに対応できなかったため、開戦当時のイギリス空軍の中心はバッファローの二線級機とならざるを得なかった(開戦後の1942年1月後半以降は主力機ハリケーンを順次投入)。さらに、日本軍に対する研究が不十分なイギリス空軍は「ロールス・ロイスとダットサンの戦争だ」と人種的な偏見からも日本軍の航空部隊を見くびっていたという。しかし、イギリス空軍は日本陸軍航空部隊の飛行第59戦隊・飛行第64戦隊の一式戦闘機「隼」を相手に完全に圧倒されることとなる。
作戦開始時刻
大本営はマレー上陸とアメリカの属領であるハワイに対する真珠湾攻撃との関係に考慮を要した。陸軍はマレー上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対条件とし、海軍も真珠湾での奇襲に期待をかけていた。しかし、一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。マレーとハワイとでは18時間の時差があるため、双方を両立させるのがマレーの深夜、ハワイの早朝という作戦開始のタイミングであった。
1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊がマレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。アメリカ領ハワイの真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、太平洋戦争はこの時間に開始された。
この上陸作戦自体は、駐米日本大使館の失態による遅延により結果的に開戦後の宣戦布告となってしまった対米宣戦布告予定時間より前に開始されており、開戦前に宣戦布告を行う予定であった対米開戦とは異なり、日本軍が宣戦布告無しで対英開戦することは予定通りであった。この時の日本軍の開戦日の暗号は「ヒノデハヤマガタ(ヒノデハヤマガタトス)」である。
なお開戦直前の12月7日午後には、マレー作戦に参加する上陸部隊を乗せた輸送船団の上空護衛を行っていた日本陸軍の九七式戦闘機(第12飛行団に属す飛行第1戦隊窪谷敏郎中尉機)が、哨戒中のイギリス海軍のPBYカタリナを撃墜した。この撃墜によりイギリス軍基地に対する日本海軍艦艇の来襲の報告がなされなかったことから、その後の日本陸軍の上陸作戦を容易にした。なおこれは太平洋戦争における最初の連合国軍の損失であった。
経過
コタバル強襲上陸
マレー半島東岸は断崖地形が続き、上陸作戦が可能な海浜はイギリス領東北端のコタバル(コタ・バル)か、数少ないアジアにおける独立国であるタイ王国領内のみであった。イギリス軍はコタバルに1個旅団を配置しトーチカ陣地を構築していた。コタバルへの上陸作戦の方法としては、制空権を奪取した上で敵陣へ準備砲爆撃を加えるという正攻法も検討されたが、マレー作戦全体の所要日数を考えればそのような時間の余裕はなかった。かくして準備砲爆撃なしにいきなり敵前への上陸を敢行するという強襲上陸が決行された。
第18師団歩兵第56連隊を基幹とする佗美支隊5,300名は、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内基幹の第3水雷戦隊)に分乗し、加藤隼戦闘隊による一式戦闘機7機の護衛の下、12月8日未明(日本時間)にコタバルへ接近した。波高は2メートルを超え上陸用舟艇への移乗は困難を極めた。午前1時30分、コタバルの海岸線で英印軍第8旅団6,000名との交戦が始まった。
第1次上陸部隊の松岡大隊、数井大隊と那須連隊長は予想外の激しい抵抗を受け両大隊長とも負傷し、中隊長以下多数の死傷者を出した。第2次上陸部隊の中村大隊と佗美支隊長は運悪くトーチカ正面に突き当たり中村大隊長は上陸と同時に戦死した。イギリス空軍も出撃し、淡路山丸は多数の命中弾を受け炎上沈没、太平洋戦争に於ける被撃沈第1号となった。綾戸山丸、佐倉丸も被弾し、船団は一時退避を余儀なくされた。
佗美支隊は苦戦しながらも8日正午までに橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲により飛行場を制圧。9日昼にコタバル市内を占領した。上陸作戦によって戦死320、負傷者538の損害を受け、舟艇も多数を失ったものの作戦は成功した。佗美支隊はその後、1月3日までに東海岸の要衝クアンタンを制圧し、第25軍主力と合流した。
マレー沖海戦
イギリス海軍の最新艦であったプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは、12月2日にシンガポールのセレター軍港に到着したばかりであった。12月8日に、日本軍がマレー半島に侵攻した(en:Bombing of Singapore (1941))との報を受け、両戦艦は上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃した。
しかし、イギリス海軍は航空機による戦艦に対する攻撃能力を甘く見ただけでなく、両戦艦に直掩機をつける余裕がなかったため、両戦艦は10日にマレー半島東方沖で九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機による雷撃と爆撃を受け、撃沈された。これによりイギリスの東洋艦隊主力が壊滅してしまったため、マレー半島東岸の制海権が日本軍の手に帰したのみならず、後のインド洋におけるイギリス海軍の敗北の序章となってしまう。
なお両艦の撃沈は、「行動中」の戦艦が航空機の攻撃だけで撃沈された世界初のケースであった。また、当時イギリスの首相であるウィンストン・チャーチルは「あの艦が」と絶句し、「戦争全体で(その報告以外)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と後に回顧録の中に記している。
ジットラ・ライン突破
第5師団は、マレー半島北端のタイ王国の領内のシンゴラおよびパタニに上陸した(陸軍船舶部隊の特種船こと揚陸艦神州丸に座乗の山下中将以下、第25軍司令部もシンゴラに上陸)。
日本軍は、当時の東南アジアにおける唯一の独立国であり、親日的なタイに対する攻撃意図は全くなく通過を申し入れるのみであったが、中立を守ろうとするタイ軍との間で一部で小競り合いも起きた(日本・タイ双方で少なくとも約270名が戦死している[5])。プレーク・ピブーンソンクラーム首相と坪上貞二駐タイ大使との間で、12月に日泰攻守同盟条約が締結され、日本軍はタイ領を通過した(en:Operation Krohcol)。第5師団の先頭を突き進むのは佐伯静雄中佐率いる捜索第5連隊(騎兵部隊から改編された機械化部隊)に砲兵・工兵を加えた佐伯挺進隊581名であった。
対するイギリス軍はタイ経由の日本軍侵攻を警戒しており、対日開戦直後にタイ領南部へと侵略を行い、タイ警察の抵抗を排除して防衛線を築いていた。しかし、進撃してきた佐伯挺進隊により、短時間で突破されてしまった。
イギリス軍は、タイとイギリス領マレーの国境近くのジットラには、ジットラ・ライン(ジットラ陣地)と呼ばれる防御陣地を構築していた。狭隘な地形を利用しており、英印軍第6、第15旅団からなる兵力6,000、装甲車90両が展開、強固さは「小マジノ線」とも称され、イギリス軍はこの要塞で日本軍を3ヶ月は足止めできると豪語していた。
だが、本来ジットラは湿地帯であり構築段階での工事は難航、工事を請け負っていたタイ政府も半ば匙を投げかけていた。そこに目をつけた日本軍は、「マレーのハリマオ」として現地で名をはせていた盗賊・谷豊と彼を引き入れた諜報員・神本利男をジットラ・ラインに潜入させた。 まず谷が仲間とともに陣地の測量を行い、神本がそのデータをタイ王国公使館附武官の田村浩大佐を通じ本国へと送った。第5師団はこのデータを基にして、半年にわたって演習を重ねた。
続いて一党は二人一組に分かれて労働者の中に紛れ込み、資材の投棄や建設機器の破壊などの実力行使に入った。この結果、ジットラ・ラインの工事は大幅に遅れた。
12月10日、佐伯挺進隊は九七式軽装甲車を先頭にタイ・イギリス領マレー国境を通過。さらに11日にアースンの国境陣地を突破したため、九七式中戦車10両・九五式軽戦車2両を装備する戦車第1連隊第3中隊等が佐伯中佐の指揮下に入り特別挺進隊を編成、ジットラ・ライン突破に当たった(en:Battle of Jitra)。12日未明予期せず砲撃を受け、特別挺進隊は東側の敵陣地に戦車で夜襲をかけ一角を占領、夜が明けるとその場所こそがジットラ・ラインであった。12日昼間は猛烈な砲撃を受けるが午後には歩兵部隊も到着。その夜の夜襲を決意し準備を進めていたところ、午後5時に英印軍はジットラ・ラインから全面退却した。
ジットラ・ラインをわずか1日で、しかも581名の佐伯挺進隊が突破するとは大本営ですら驚愕した勝利であった。佐伯挺進隊の戦死27、戦傷83。英印軍の捕虜は1,000名以上。この勝利により山下中将は作戦のスケジュールを繰り上げた。
マレー半島進撃
マレー半島のイギリス軍は軽く抵抗して時間を稼ぎながら、大小250本の河川にかかる橋梁を逐次爆破し後退した。日本軍は、当時のマスコミが「銀輪部隊」と名づけた自転車部隊を有効活用し、進撃を続けた。日本軍の歩兵は自転車に乗って完全装備で1日数十キロから100キロ近くを進撃し、浅い川であれば自転車を担いで渡河した。戦前からこの地域には日本製の自転車が輸出されていたため部品の現地調達も容易であった。
馬や自転車を活用した日本軍であったが、重砲や車両の前進には橋梁の修復が不可欠であり、第25軍の進撃速度はすなわち橋梁の修復速度であった。この作業には各師団の工兵隊と独立工兵連隊とが文字通り不眠不休であたった。西海岸では舟艇機動も効果を発揮した。20人乗りの舟艇30隻を用意して運び込み、十数回にわたって海上をつたってイギリス軍の背後を奇襲した。マレー半島西岸の制海権はいまだイギリス側にあったが、イギリス海軍はこれに対して何の手も打てなかった。
年が明けて1月6日、日本軍はスリム(en)でイギリス軍の堅陣にぶつかった(en:Battle of Slim River)。ここで戦車第6連隊の島田豊作少佐は戦車の機動力を頼りとする戦車夜襲を決行する。島田は7日午後11時から、九七式中戦車と九五式軽戦車が中核となった夜間突撃を敢行した。これにより1日で全縦深を突破し、逃げ遅れた英印軍1個師団を包囲し壊滅させた[6]。イギリス軍によるマレー半島有数の都市であるクアラルンプールの防衛計画は崩壊し、12日に同市は放棄された。
1月14日にはイギリス軍を追撃中の向田支隊(戦車第1連隊基幹)がゲマスでオーストラリア第8師団の逆襲を受け壊滅するという一戦もあった(en:Battle of Gemas)。1月中旬、近衛師団が前線に到着し、疲労した第5師団に代わって第一線に立った。19日、近衛歩兵第5連隊第2大隊はバクリ(en)で英印軍第45旅団と対戦し、大柿大隊長以下6割の死傷者を出しながらも英印軍を殲滅、第45旅団長を戦死させた(en:Battle of Muar)。
エンドウ沖海戦
1月27日、マレー半島南部のエンドウ沖で日本軍の輸送船を狙って攻撃したイギリス軍の駆逐艦サネットが沈没。
ジョホール・バル到達
1月末、日本軍はマレー半島最南端のジョホール・バルに迫り、イギリス軍はマレー半島内での抗戦をあきらめシンガポール島内へ退却した。1月31日、最後の部隊がジョホール・バルを脱出し、工兵隊がマレー半島とシンガポール島とを結ぶ土手道(コーズウェー)を爆破した。同日、第5師団と近衛師団の先頭部隊は相次いでジョホール・バルに突入、ここにマレー半島での戦闘は終結した。
日本軍は12月8日の上陸から55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復しつつ1,100キロを進撃した。海上機動も650キロに及んだ。日本軍の損害は戦死者1,793名、戦傷者2,772名。イギリス軍は遺棄死体5,000名、捕虜8,000名を数えた。
シンガポール攻略
2月8日に、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入するが、そこでイギリス軍の強力な砲火を受け動けなくなった。その後は日英軍ともに消耗戦が続き、15日には日本軍の砲弾も底をつき一時的な攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が日本軍により破壊され、上下水ともに給水が停止したことが抗戦を断念した最大の理由であった。
シンガポール攻略戦での日本軍の戦死者は1,713名、戦傷者3,378名。イギリス軍は約5,000名が戦死し、同数が戦傷したと言われ、さらに10万人が捕虜[7]となった。これはアメリカ独立戦争におけるヨークタウンの戦い以来のイギリス軍史上最大規模の降伏であり、近代のイギリスにおいて最大かつ歴史的な屈辱であった。
影響
日本軍は驚異的な速度でマレー半島を進軍し、イギリス軍を急追して開戦以来70日でマレー半島およびシンガポールを陥落させた(当時のシンガポールの状況)。日本軍は戦前から周到な準備を重ね、陸軍の進撃を海軍と航空部隊が支援し(ただし第3飛行集団は作戦後半になって蘭印方面へ転用された)、また歩兵、工兵、戦車がよく協力しあった。日本軍の南方作戦は順調なスタートを切り、その後3月にはオランダの植民地のジャワ島、5月にはイギリスの植民地の現ミャンマーを制圧して、開戦時に於ける作戦目標を達成した。
一方、イギリス軍は本土防衛に注力せざるを得ない状況であったうえに、情報不足ということもあり敵の戦力を過小評価して準備不足のまま戦争に突入した。植民地から調達した多民族からなる軍隊はまとまりを欠き、陸海空相互の協力も不十分であった。
兵站に関しては、日本軍はイギリス軍から鹵獲した食糧、燃料、軽火器等を活用した。糧食は日本軍のものより味も良く兵士たちは「チャーチル給養」と名づけて喜んだという。当時マレーには500万の人口が居住し肥沃で農業が盛んで食糧は豊かであったため、現地での食糧などの調達も円滑に進んだ。このようにして本来兵站能力に欠けた日本軍は、貧弱な補給部隊に依存することなく軽快に行動できた(後日、兵站能力に欠ける日本軍は人口希薄で食糧生産の乏しいガダルカナルやニューギニアで飢餓に苦しんだ)。
なお、逃げ遅れたイギリス軍のホーカー ハリケーンやブリュースターF2A バッファローなどの主力戦闘機や、ロッキードハドソンなどの輸送機が完全な状態のまま多数鹵獲され、一部の機材は現地で日本軍によりそのまま利用されたほか、後に日本本土に送られ性能テストなどに使用された。
マレー作戦で日本軍は初めて英印軍と対戦した。難なくこれを破ったことで、「中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回を行えば必ず退却する」(牟田口中将)[8]という認識を持った。その後のセイロン沖海戦における日本軍の圧勝もこの認識を後押ししたが、このような驕った認識が後に連合国軍に対して劣勢に回った中で行われたインパール作戦における悲劇の一因となる。
東南アジアにおける最大の植民地であるマレー半島およびシンガポールの陥落は、そして同時期の香港の陥落と併せて、これまで数世紀にわたって行われたイギリスのアジア植民地支配の転換点となり、「植民地帝国」としてのイギリスの崩壊を決定づけた。
戦後これらの地は日本軍の撤退を受けてイギリスの植民地として復帰したものの、同じアジア人である日本人に打ち破られたイギリス人やオランダ人、アメリカ人やフランス人の惨状を目にしたアジア各地では、独立指導者を中心とした民族主義が高揚した上に、本土も戦火で荒廃したイギリスはもはや遠方の植民地を維持するだけの国力を持たなかったため、これまでの様なイギリスの地位は長くは持たなかった。十数年後のことであるが、(タイ領土除く)マレー半島一帯は1957年にマラヤ連邦としてイギリスから独立する。
マレー作戦を扱った作品
映画
- 『ハワイ・マレー沖海戦』山本嘉次郎監督、東宝映画、1942年
- 『シンガポール総攻撃』島耕二監督、大映、1943年
- 『マライの虎』古賀聖人監督、大映多摩川、1943年
- 『大日本帝国』舛田利雄監督、東映、1982年
- 『ハリマオ』和田勉監督、松竹、1989年
- 『少年義勇兵』ユッタナー・ムクダーサニット監督、タイ映画、2000年
- 『アドナン中尉』アズィズ・M・オスマン監督、マレーシア映画、2000年
歴史ゲーム(ボードゲーム)
- コマンドマガジン日本版第57号「1942」国際通信社
脚注
参考文献
- 防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 マレー進攻作戦』、1966年
- 陸戦史研究普及会(編)『マレー作戦 第二次世界大戦史』原書房、1966年
- 越知春海『マレー戦記』図書出版社、1973年
- 片倉衷『インパール作戦秘史―陸軍崩壊の内側』経済往来社、1975年
- 島田豊作『サムライ戦車隊長 島田戦車隊奮戦す』光人社、1984年
- 森山康平『マレー・シンガポール作戦』フットワーク出版、1991年
- 伊藤正徳『帝国陸軍の最後〈1〉進攻篇』(文庫)、光人社、1998/1、ASIN: 4769821875
- 藤原岩市『F機関』