永山則夫
永山 則夫(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件)を引き起こした刑死者(元死刑囚)である。北海道網走市生まれ。明治大学付属中野高等学校定時制中退。
1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。
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生い立ち
北海道網走市呼人(よびと)番外地に、8人きょうだいの7番目の子(四男)として生まれる。3歳のとき、一家で郊外の呼人から市内中心部に引っ越す。父親は腕のよいリンゴの枝の剪定師だったが、稼ぎの大半を博打につぎ込み、家庭は崩壊した状況で現在で言うネグレクトの被害者であった。母親代わりの長姉は婚約破棄や堕胎から心を病み地元の精神科病院に4年間入院。
1954年(当時5歳)に、母親が青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。自分の子供達全員分の汽車賃までは用意できず、則夫を含む4人の子を網走に残したままの家出だった(後に書かれたノートでは母親はこれを悔いている)。残された則夫を含む4人のきょうだいは、漁港で魚を拾ったり、ゴミ箱を漁ったりして極貧の生計を立てていたものの、年少の則夫は始終兄や姉たちから虐待を受けていた。しかし、1955年、近隣住民が福祉事務所に通報したのをきっかけに、4人は板柳の母親の元に引き取られた。その後、母親は行商で生計を立て、きょうだいを育てた。また、それ以降も則夫は板柳中学時代に、函館と福島に家出をしている。
1965年3月、板柳から東京に集団就職する。渋谷の高級果物店に就職した。身長が160cmほどと小柄な体格で、目が大きく、北海道育ちのため「東北弁コンプレックス」もなく、果物店では接客を要領よくこなしていた。同店の当時の常連客には女優の岩下志麻もいた。やがて新規店を任される話が持ち上がるほどの信用を得る。しかし、板柳にいた時期に集団就職のための衣類を盗んでおり、そのことを店長が知ったと思い込み、自身が耐えられなくなりわずか半年で退職した。またこの果物店に務めていた頃、勤務先の近くで少年ライフル魔事件が起き、これを目撃している。果物店を退職後、香港へ密航を図るも失敗。栃木県小山市に住んでいた長兄に引き取られ、宇都宮市の自動車修理工場で働く。市内の肉屋で窃盗を働き捕まったが、宇都宮家裁で不処分となった。その後も宇都宮市の牛乳配達店、守口市の米屋、羽田空港の「東京エアターミナルホテル」(寮は川崎市)など職と住所を転々とする。ホテルで働き始めた3か月後、横須賀米軍基地で窃盗を働き、保護観察処分となる。保護司の紹介で川崎市のクリーニング店で働くも1か月で辞める。
守口市の住み込みで働いていた職場では正社員登用の話もあったが、本人がそれに必要な戸籍謄本を取り寄せた際、本籍の欄に「北海道網走市呼人無番地」との記載があり、当時有名だった映画の『網走番外地』シリーズから連想し、自分は「網走刑務所生まれ」だと誤解し、また、この戸籍謄本を提出したらそう思われるに違いないと思い込んで提出せずに隠していた。この行動を雇用主が怪しんでいる、と思い込んだほか、雇用主の子息が東京の大学に進学したことについても、自分の東京時代の身辺調査に向かったに違いないと思い込み、本人が一方的に逃走するように退職している。
次兄が保証人となり、新宿区の牛乳配達店で働きながら勉学し、1967年4月、明治大学付属中野高等学校の夜間部に入学。しかし同年7月に不祥事で除籍処分を受け、牛乳店も辞める。その後、1968年に熱海市で定期便トラックをヒッチハイクして神戸に向かい、二度目の密航を企てるも失敗、船内で手首を切って自殺を図ったが、横浜に戻される。同年2月に三番目の兄の紹介で杉並区の牛乳店で働きながら、同年4月、明大付属中野高校に再入学し、クラス委員長に選ばれる。同年5月、退学し故郷の板柳町に帰る。帰郷後、9月に長野県で陸上自衛隊入隊試験を受けるが、不合格となる。
1968年10月8日、アメリカ海軍横須賀基地に侵入し、ピストルと弾丸50発などを窃盗後、同年11月にかけて連続ピストル射殺事件を起こす。一連の犯行後、中野のアパートに潜伏しながら新宿歌舞伎町の酒場でボーイなどをして働き始める。永山が新宿区の喫茶店ヴィレッジヴァンガードに早番のボーイとして勤めていた際、同店の遅番のボーイとしてビートたけしが働いていた。また同店の客には、村上春樹や、のちに永山の足跡を追った映画『略称・連続射殺魔』を撮った足立正生らがいた[1]。
連続射殺事件
神奈川県横須賀市の米軍宿舎から盗んだ22口径の回転式6連発拳銃で、1968年10月から11月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で警備員やタクシードライバー4人を射殺し、「連続ピストル射殺事件」(広域重要指定108号事件)を引き起こし、1969年4月7日(当時19歳10か月)に東京で逮捕された[注 1]。 1979年、東京地方裁判所で死刑判決が言い渡された。弁護側が控訴し、1981年、東京高等裁判所で死刑判決が破棄され、無期懲役判決となったが、その後検察側が最高裁判所に上告した。
1983年(昭和58年)7月8日、最高裁判所第二小法廷(大橋進裁判長)は、第一次上告審判決で、検察側の上告を認め、無期懲役判決を破棄し、審理を東京高裁に差し戻す判決を言い渡した。1983年、決で、死刑を選択する基準(永山基準)が示され、今日に至るまで、最高裁判所判例として使用されている。この最高裁判決の際、判決理由で「同じ条件下で育った他の兄たちは、概ね普通の市民生活を送っている」と[注 2]事実認定がなされた。
その後、1987年に東京高裁にて、再び死刑判決が言い渡された。弁護側は、差し戻し控訴審の死刑判決を不服として、最高裁に上告した。
死刑確定
1990年(平成2年)2月6日、最高裁判所第三小法廷(安岡満彦裁判長)にて、第二次上告審口頭弁論公判が開かれた[3]。弁護側は、死刑制度違憲論・世界的な死刑廃止の潮流を訴えるとともに、永山については「犯行当時、心神喪失か心神耗弱状態にあった。また、拘置中、文学作品を次々と発表するなど、自ら更生しており、当時少年でもあった。死刑は重過ぎる」と主張し、死刑判決の破棄を訴えた[3]。一方、検察側は、「永山が成育歴などを原因と強調するのは、責任転嫁の意図によるものだ」と主張し、死刑判決の支持(永山被告人・弁護人側の上告棄却)を訴え、結審した[3]。
1990年4月17日、最高裁第三小法廷(安岡満彦裁判長)にて、第二次上告審判決が言い渡された[4]。同小法廷は、差し戻し控訴審の死刑判決を支持し、永山被告人・弁護側の上告を棄却する判決を言い渡した[4]。これにより、永山の死刑判決が確定することとなった[4]。
永山は判決を不服として、最高裁第三小法廷(坂上寿夫裁判長)に対し、判決に対する異議申し立て(判決訂正申し立て)をした[5]。しかし、この申し立ては同年5月9日までに、同小法廷の決定により棄却された[5]。これにより、逮捕から21年ぶりに、永山の死刑が確定した[5]。
獄中での心境の変化
- 参照: 永山則夫連続射殺事件
作家として
獄中で、読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を開始し、1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表した。この印税は4人の被害者遺族へ支払い、そのことが1981年の高等裁判所判決において情状の一つとして考慮され、死刑判決破棄につながった(前述の通り差し戻し審ののち最高裁の上告棄却により死刑確定)。
1980年に以前から文通していた在米日本人・和美(フィリピンと日本のハーフ)と獄中結婚。
1983年には小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞した。1990年には、秋山駿と加賀乙彦の推薦を受けて日本文藝家協会に入会を申し込むが、協会の理事会にて入会委員長の青山光二、佐伯彰一など理事の一部が、永山が殺人事件の刑事被告人であるため入会させてはならないと反対した結果、入会が認められず、それに抗議した中上健次、筒井康隆、柄谷行人、井口時男が、日本文藝家協会から脱会するという出来事も起こった[6]。なお理事長の三浦朱門とその妻曽野綾子は入会賛成で、江藤淳は反対の立場からテレビで中上健次と討論した。その一方、1996年、ドイツ・ザールラント州作家同盟には正式入会を果たしている。
獄中から手記や短歌を自ら発表する死刑囚は多い。しかし、自らの罪を認める一方で、自己の行動を客観的にふりかえるという手法で創作を行い、文壇において一定の地位を獲得するまでに至った永山は、死刑囚としては稀な例といえる。
また連合赤軍の永田洋子死刑囚ら収監されていた多くの殺人犯に影響を与えた。
手紙
永山は獄中からたくさんの手紙を書いている。内容は獄中結婚した妻や支援者とのやり取りから本の読者からの悩み相談まで多岐に渡る。また永山は返信する文面を写していたため遺品の中には受け取った手紙と返信した手紙が対になって保管されている。手紙のやり取りの中で国家に対する心情から贖罪意識に変わる様子がうかがえる。
死刑執行後
1997年(平成9年)8月1日、法務省(法務大臣:松浦功)の死刑執行命令により、東京拘置所において、永山の死刑が執行された(48歳没)[7][8]。なお、同日には東京拘置所で他に死刑囚1名、札幌拘置支所で夕張保険金殺人事件の死刑囚2名に対しても、それぞれ死刑が執行された[7]。
差し戻し上告審で国選弁護人を務めた、遠藤誠弁護士は、死刑執行を受け、8月2日午後、東京拘置所に連絡を入れた[9]。その際、永山の遺体は、同日正午過ぎに火葬されたことが判明した[9]。永山について、岐阜県内在住の動物美容院経営者が身元引受人となっていたが、この業者は同年春になり、引受人を辞退する届出をしていたため、この死刑執行時点では、永山の身元引受人は不在となっていた[9]。そのため、遺骨は4日午後、遠藤が引き取った[9][10]。
生前、永山は知人に「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていた。実際に処刑の際、永山が激しく抵抗したとする数人の証言がある[11]。
永山の死刑執行については、執行同年6月28日に逮捕された神戸連続児童殺傷事件の犯人が少年(当時14歳11か月)であったことが、少なからず影響したとの見方も根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発、厳罰化を求める声が高まる中、未成年で犯罪を起こし死刑囚となった永山を処刑する事で、その反発を和らげようとしたのではないか、とマスコミは取り上げた[注 3]。しかし、8月5日の閣議後記者会見で、松浦功法務大臣は、「神戸の事件と、永山死刑囚の刑の執行は、まったく関係ない」と語り、永山の死刑執行が、神戸連続児童殺傷事件と関連付けて論議されていたことに対し、強い不快感を示した[12]。
永山の葬儀は、遺骨を引き取った遠藤が喪主となり[10]、東京都文京区の林泉寺で、同年8月14日に営まれた[13]。葬儀には、死刑制度廃止を求める支援者ら、約120人が参列し、祭壇には遺骨と、1969年に逮捕された当時の永山の写真が、遺影として飾られた[13]。
遺骨は故郷の海であるオホーツク海に、元妻だった和美の手によって散布された(差戻し決定時に離婚成立)。
死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された[14]。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。
主な作品
- 手記
- 『無知の涙』合同出版(1971年)のち角川文庫、河出文庫
- 『人民をわすれたカナリアたち』辺境社(1971年)のち角川文庫、河出文庫
- 『愛か-無か』合同出版(1973年)
- 『動揺記1』辺境社(1973年)
- 『反-寺山修司論』JCA(1977年)
- 永山則夫の獄中読書日記-死刑確定前後 朝日新聞社 1990
- 日本 遺稿集 冒険社 1997
- 文章学ノート 佐木隆三監修 朝日新聞社 1998
- 死刑確定直前獄中日記 河出書房新社 1998
- 小説
- 『木橋(きはし)』立風書房(1984年)のち河出文庫- 第19回新日本文学賞受賞作品
- 『ソオ連の旅芸人』昭和出版(1986年)
- 『捨て子ごっこ』河出書房新社(1987年)
- 『なぜか、海』河出書房新社(1989年)
- 『異水』河出書房新社(1990年)
- 『華』1-4、河出書房新社(1997年)
- その他
- 『死刑の涙』(1988年)
永山則夫を扱った作品
- 映画『略称・連続射殺魔』(1969年) - 製作:足立正生、松田政男、佐々木守他。永山が生まれてから事件を起こすまでの足跡を追いながら実際の土地を訪ねて、永山が見たであろう風景の映像を繋ぎ合わせ、それにナレーションだけを被せる手法(「風景論」と呼ばれた)で、永山の人生を追ったドキュメンタリー。正式なタイトルは、『去年の秋 四つの都市で同じ拳銃を使った四つの殺人事件があった 今年の春 十九歳の少年が逮捕された 彼は連続射殺魔とよばれた』
- 映画『裸の十九才』(1970年) - 監督:新藤兼人、主演:原田大二郎。
- 土曜ワイド劇場『死刑囚永山則夫と母』(1998年8月1日) - 岡田義徳が永山則夫役を演じる。
- 舞台『tatsuya -最愛なる者の側へ-』鐘下辰男-芸術選奨新人賞受賞。以下はハシモトタツヤ(永山則夫)役
- 1991年8月14 - 8月22日 千葉哲也
- 1992年8月26日 - 9月2日 塩野谷正幸(改訂決定版tatsuya)
- 1994年7月27日 - 7月31日 佃典彦
- 1999年9月2日 - 9月19日 KONTA(近藤敦)
- 2006年2月28日 - 3月5日 津田健次郎
- 「ETV特集 死刑囚 永山則夫~獄中28年間の対話~」(2009年10月11日)- ディレクター:堀川惠子 制作統括:宮田興 出演:和美(永山の元妻)、新藤兼人ほか
- 「ETV特集 永山則夫 100時間の告白~封印された精神鑑定の真実~」(2012年10月14日) - ディレクター:堀川惠子 制作統括:増田秀樹 出演:石川義博(鑑定医)ほか
- 漫画『アンラッキーヤングメン』(大塚英志原作、藤原カムイ作画)では、モデルを特定している訳ではないが、Nというキャラクターが登場する。
脚注
注釈
- ↑ 逮捕のきっかけは、永山が窃盗目的で東京都渋谷区内の専門学校に侵入した際、専門学校に設置されていた警備会社の警報装置からの警報であり、警報を受けて駆けつけた警備員が永山と対峙している。
- ↑ 「しかし、長男は永山が逮捕される前に詐欺罪で逮捕され刑務所を出て以降消息不明。次男はその後定職に就く事もなくギャンブルに明け暮れ42歳で亡くなりました。妹は成人してから心を病んでしまいます。一緒に育った姪も行方が分からないままです[2]」との指摘もある。
- ↑ 永山の身元引受人である井戸秋子は、「酒鬼薔薇事件(神戸連続児童殺傷事件)の犯人が少年だったと知ったとき、とっさに永山さんがやられるんじゃないかと思った」と述べている(実際には死刑は判決が出された順に執行されるものではなく、永山よりあとの時期に確定して先に執行された死刑囚も存在する)。
出典
- ↑ びーとたけしの新宿を歩く東京紅團、2004年2月28日
- ↑ ETV特集『「永山則夫 100時間の告白」~封印された精神鑑定の真実~』、2012年10月14日放送。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 『中日新聞』1990年2月6日夕刊第一社会面13面「『連続射殺』上告審結審 夏前にも判決か 永山被告の弁護側『死刑廃止』を主張」
- ↑ 4.0 4.1 4.2 『中日新聞』1990年4月17日夕刊1面「永山被告の死刑確定 連続射殺事件 最高裁が上告棄却 『罪責は誠に重大』 情状考慮しても妥当 違憲主張退ける」
- ↑ 5.0 5.1 5.2 『中日新聞』1990年5月10日朝刊第二社会面30面「永山被告の死刑確定 最高裁 異議申し立て棄却」
- ↑ 創出版 月刊「創」1991年10月号 p.60 「暗く憂欝な出来事-文芸家協会入会拒否騒動の顛末」 加賀乙彦
- ↑ 7.0 7.1 『中日新聞』1997年8月2日朝刊1面「連続射殺事件 永山則夫死刑囚の刑執行 計4人、北海道の夫婦らも」
- ↑ 年報・死刊廃止編集委員会 『死刑と憲法 年報・死刑廃止2016』 インパクト出版会、2016-10-10、215。ISBN 978-4755402692。
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 『東京新聞』1997年8月3日朝刊第二社会面22面「永山死刑囚 拘置所内で火葬」
- ↑ 10.0 10.1 『中日新聞』1997年8月5日朝刊第二社会面24面「永山死刑囚 『印税を貧しい子に』 刑執行4日前 弁護士あてに手紙」
- ↑ 一例として大道寺将司『死刑確定中』太田出版、1997年12月、ISBN 4-87233-366-7 の、「九時前ごろだったか。隣の舎棟から絶叫が聞こえました。抗議の声のようだった。すぐにくぐもったものになって聞こえなくなったので……案じていました」がある。
- ↑ 『東京新聞』1997年8月5日夕刊第二社会面10面「『神戸事件と関係はない』 死刑執行で法相」
- ↑ 13.0 13.1 『中日新聞』1997年8月15日朝刊第二社会面24面「永山死刑囚の葬儀 支援者ら120人参列」
- ↑ 永山子ども基金公式サイト
関連項目
- 永山則夫連続射殺事件
- 島秋人 - 元死刑囚の歌人。
- 坂口弘 - 死刑囚の歌人。
- 正田昭 - 元死刑囚の小説家。
- 佐木隆三 - 殺人犯に関する著作が多い作家。