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足利 義詮 | |
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時代 | 南北朝時代 |
生誕 | 元徳2年6月18日(1330年7月4日) |
死没 | 正平22年/貞治6年12月7日(1367年12月28日) |
幕府 | 室町幕府第2代征夷大将軍 |
氏族 | 足利将軍家 |
足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府の第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男[註 1]。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。
Contents
生涯
幼少時から将軍就任まで
元弘3年(1333年)、伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために父・高氏(尊氏)が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに北条家の人質として鎌倉へ留め置かれた。
高氏が丹波国で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略すると、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した。この際千寿王は、父の名代として、家臣らの補佐により、鎌倉攻め参加の武士に対し軍忠状を発付し、後に足利氏が武家の棟梁として認知される端緒を作る。これが新田義貞と足利高氏の関係が悪化する元となる。建武の新政では、叔父の直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦い、主に鎌倉において関東を統治した。
尊氏による幕府開府後、足利家の執事である高師直と尊氏の弟の足利直義の対立が激化して観応の擾乱が起こり、師直のクーデタにより直義が失脚すると、義詮は京都へ呼び戻され直義に代わり幕府の政務を任される。正平6年(1351年)8月には、尊氏が直義派に対抗するために義詮と共に南朝に降伏し、11月に年号を南朝の「正平」に統一する正平一統が行われる。翌年に南朝方の北畠親房や楠木正儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江国へ避難した結果、光厳、光明、崇光天皇の三上皇及び皇太子の直仁親王を奪われたが、観応の年号を復活させるとともに兵を募って京都を奪還し、三種の神器の無い状態で新たに後光厳天皇の即位を実現させる。また、正平8年(1353年)6月、正平10年(1355年)1月にも異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われている。
将軍就任後
正平13年(1358年)4月に尊氏が没し、12月に義詮は征夷大将軍に任命される。この頃には中国地方の山名氏や大内氏などが向背定まらず、九州では懐良親王などの南朝勢力は健在であった。早速、河内や紀伊に出兵して南朝軍と交戦し赤坂城などを落とすが、一方幕府内では、正平16年(1361年)に細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降るなど権力抗争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった。しかし細川清氏や畠山国清が滅ぼされ、正平17年(1362年)7月、清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命。正平18年(1363年)には大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめ、仁木義長や桃井直常、石塔頼房も幕府に帰参し、南朝との講和も進んでいた。同年、義詮の執奏により、勅撰和歌集の19番目にあたる『新拾遺和歌集』は後光厳天皇より綸旨が下った。正平20年(1365年)2月には三条坊門万里小路の新邸に移っている。この間に義詮は訴訟制度の整備に着手し、評定衆・引付衆を縮小して将軍の親裁権の拡大を図った(御前沙汰)。園城寺と南禅寺の争いでは、今川貞世に命じて園城寺が管理する逢坂関等を破却させた。正平22年(1366年)に斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命した(貞治の変)。
正平22年(1367年)11月、側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男・義満を細川頼之に託し、12月7日に病により死去した[1]。享年38[1]。死の2日前に鼻血を多量に噴出したと、三条公忠の日記『後愚昧記』は伝えている。なお、同年3月5日には弟の基氏が義詮に先立って死去している。義詮の遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の善入山宝筐院)の楠木正行の墓の傍らで眠らせ給え」とあり、遺言どおり、正行の墓(五輪石塔)の隣に墓(宝筐印塔)が建てられた。 又、静岡県三島市の宝鏡院にも墓標が存在する。
通称と邸宅
三条坊門に邸宅を営んだため「坊門殿」と呼ばれた。また、室町季顕から「花亭」を買い受け別邸とした。のちに「花亭」は足利家より崇光上皇に献上され仙洞御所となったが、第3代将軍義満は再び皇室から「花亭」を譲り受け御所とした、世にいう花の御所である。
官歴
※日付=旧暦
西暦 | 南朝 | 北朝 | 月日 | 内容 |
---|---|---|---|---|
1335年 | 建武2年 | 4月7日 | 従五位下に叙す。 | |
1344年 | 興国5年 | 康永3年 | 3月16日 | 正五位下に昇叙。 |
3月18日 | 左馬頭に任官。 | |||
1347年 | 正平2年 | 貞和3年 | 12月3日 | 従四位下に昇叙。 |
1350年 | 正平5年 | 観応元年 | 8月22日 | 参議に補任し、左近衛中将を兼任。 |
1356年 | 正平11年 | 延文元年 | 8月23日 | 従三位に昇叙。参議左近衛中将如元。 |
1358年 | 正平13年 | 延文3年 | 12月18日 | 征夷大将軍宣下 |
1359年 | 正平14年 | 延文4年 | 2月4日 | 武蔵守兼任。 |
1363年 | 正平18年 | 貞治2年 | 1月28日 | 権大納言に転任。 |
7月29日 | 従二位に昇叙。権大納言如元。 | |||
1367年 | 正平22年 | 貞治6年 | 1月5日 | 正二位に昇叙。 |
12月7日 | 薨去。 | |||
12月20日 | 贈従一位左大臣。 |
墓所・肖像画・木像
- 墓所
法名は寶篋院瑞山道權。墓所は京都府京都市北区の萬年山等持院。また、京都府京都市右京区の善入山宝筐院や静岡県三島市川原ケ谷の地福山宝鏡院にも伝承がある。
- 肖像画
記録上では義詮の画像はいくつか確認できるが、現在そう言い伝えられている作品は、これ以外殆ど無い。美術史学者の米倉迪夫は、神護寺三像(国宝)の一つ「伝藤原光能像」について、足利義詮像とする新説を唱えている。伝光能像の容貌が等持院像に酷似しており、共通の紙型を元に制作された可能性が高いことが根拠である。また日本中世史家の黒田日出男は、米倉の論旨や当時の政治状況をふまえて、神護寺三像のうち特にセット性が明瞭な伝源頼朝像と伝平重盛像がそれぞれ足利直義像と足利尊氏像とすると、残りの伝光能像は義詮像としか考えられない、と論じている[2]。一方、従来の宝筐院本について見ると、本作品が発見され義詮像とされたのは意外に新しく、戦後になって日本史学者の赤松俊秀によって紹介されてからである[3]。しかし、宝筐院本の面貌表現を比較すると、等持院像や或いは伝光能像よりも、安国寺にある尊氏像との共通性が感じられる。また、宝筐院は幕末に一時全くの廃寺になり、義詮像は大正8年(1917年)に宝筐院が再興された時に他からもたらされた蓋然性が高いことから、宝筐院本は義詮ではなく尊氏像である可能性が指摘されている[4]。
- 木像
等持院像は、幕末に尊皇攘夷派により尊氏・義満の木像と合わせて三条河原に梟首されたことで有名(足利三代木像梟首事件)。
人物
古典『太平記』では、他者の口車に乗りやすく酒色に溺れた愚鈍な人物として描かれているが、実際には父の尊氏が不在の際に半済令を発して武家の経済力を確保する一方、異母兄の直冬からの侵攻により幕府が窮地に陥った際も神南の戦いから京都市中での合戦でこれを破るなど内政や軍略で功績を残している。さらに細川清氏の失脚や、斯波氏の一時失脚(貞治の変)に乗じて守護勢力を抑制し中央の将軍権力を高めるなどの政治力も発揮している。また義詮時代に大内弘世・山名時氏ら有力守護をはじめ仁木義長や桃井直常・石塔頼房も幕府に帰参しており、彼の治世に南北朝動乱をほぼ終熄させて幕府政治に安定をもたらしたことも無視できない。奥州には石橋棟義を、九州には斯波氏経、渋川義行を派遣したが、九州平定は実現しなかった。太平記は、義詮が没し細川頼之が管領に就任する章(巻第三十七)で物語を終えている。
尊氏同様に文人でもあり、連歌や和歌が多く後世に伝わっている他、正平22年3月には京都の新玉津島神社において新玉津島社歌合を開いている。また尾道に、天寧寺を建立した。
正室は足利一族の渋川幸子だが、彼女との間に生まれた男子は早逝。その後しばらく子に恵まれず、後継ぎを得たいためか不明だが公家の娘や天皇に仕える女官など多くの女性と交わり、義詮は腎虚になって寿命を縮めたと言われている。
系譜
- 父:足利尊氏
- 母:赤橋登子
- 兄弟
- 正室:渋川幸子
- 子:千寿王(早世)
- 側室:紀良子
- 生母不明の子女
義詮の偏諱を受けた人物
- 「義」の字
- 「詮」の字
- (補足)
- 「義」の字は、足利氏の祖先にあたる清和源氏の通字であり、統治にあたってその子孫であることを示す意図があったものとみられ、子の義満以降の足利将軍家でも代々用いられるようになった。尚、室町時代においては、この字が与えられることは破格の待遇を意味していた。
- 「詮」の読み方について、義詮とその子である満詮は「あきら」、その他の人物は「あき」と読まれる。また、後者では「のり」と読まれることもある。
- 年代的にほぼ同時代の人物であることから、上記のほか、斯波義将・斯波義種兄弟[註 2]や畠山義深、また高師詮(師直の子)、畠山(二本松)国詮(二本松氏、畠山国氏の子)や京極高詮など(諱の二文字目に用いている人物)も義詮から偏諱を受けた者と考えられるが、今のところ確証はない。
脚注
註釈
出典
- ↑ 1.0 1.1 引用エラー: 無効な
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タグです。 「足利直冬p177
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 黒田日出男 『国宝神護寺三像とは何か』 (角川学芸出版、2012年。ISBN 978-4-04-703509-6)など。
- ↑ 赤松俊秀 「足利氏の肖像に就いて」(東京文化財研究所発行 『美術研究』 52号、1949年)。また同論文は、本画像を紹介すると同時に義詮像として問題なしと論じ、この論旨が広く広まっている。
- ↑ 米倉迪夫 「足利氏の肖像 --宝筐院蔵足利義詮像を中心に--」(栃木県立博物館発行・編集 『開館三〇周年特別企画展 足利尊氏 その生涯とゆかりの名宝』展図録、2012年。ISBN 978-4-88758-069-5)。
参考文献
- 書籍
- 史料
足利義詮が登場する作品
- テレビドラマ