楠木正儀
楠木正儀 | |
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時代 | 南北朝時代 |
生誕 | 元徳2年(1330年)? |
死没 | 元中6年/康応元年(1389年)? |
幕府 | 室町幕府河内・和泉・摂津住吉郡守護職 |
主君 |
後村上天皇→長慶天皇→足利義満 →後亀山天皇 |
氏族 | 楠木氏 |
楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将。南朝の有力武将楠木正成の三男。楠木正行、正時の弟。
生涯
京都の争奪
正平3年/貞和4年(1348年)、四條畷の戦いにおいて兄正行・正時が高師直の軍に敗れて討死すると、楠木氏の家督を継ぎ、南朝方の先鋒武将となる。同年、北朝方の高師泰の軍と河内国石川で戦い、翌正平4年/貞和5年(1349年)にも河内国南部の各地で北朝方と小規模な戦闘を繰り広げている。
正平5年/観応元年(1350年)に勃発した室町幕府の内紛(観応の擾乱)に際しては、これを機として南朝の勢力挽回に努めるとともに、南北両朝合一に向けての活動を行う。正平一統後の正平7年/文和元年(1352年)に北畠顕能、千種顕経らとともに足利義詮を駆逐して17年ぶりに京都を奪還するが[1]、勢力を回復した義詮に男山八幡で敗れ、わずか1月あまりで京都を追われた。
しかし、その後も畿内各地に兵を広げ、摂津国・河内国において勢力を拡大する。正平9年/文和3年(1354年)、足利直冬が南朝方として九州から上洛した際には、ともに戦い、京都を再び奪還するが、義詮の反撃の前に敗れ撤退した。
正平16年/康安元年(1361年)、室町幕府の政争(康安の政変)で失脚し南朝に降った元幕府執事の細川清氏らとともに、三度目の京都奪還に成功するが、翌月には撤退している。
その一方、正儀は南北朝合体を佐々木道誉らに働きかけ、正平22年/貞治6年(1367年)、管領細川頼之を仲介して北朝と和睦を結ぼうとするが、将軍義詮の拒否により成立しなかった。
北朝へ投降
翌年、正儀に信頼を寄せられていた後村上天皇が崩御する。その後に、和睦派の熙成親王(後の後亀山天皇)ではなく、北朝に対して強硬だったと言われる長慶天皇が即位し、和睦派の中心であった正儀は南朝内で孤立することになる。正平24年/応安2年(1369年)に正儀は知己であった細川頼之を介して将軍足利義満に帰服し、北朝方に投降する。このため、南朝の朝廷や楠木一族から反発を買い、攻めこまれたが、頼之の差し向けた援軍に助けられている。 なお、官位は左衛門督のまま安堵され、和泉、河内の守護も北朝方で引き継いだ。
南朝へ帰参
ところが、頼之の幕府内での権力に陰りが見え、頼之を頼る正儀の立場も弱くなっていく。天授5年/永和4年(1378年)、義満から河内国守護職を罷免され、翌天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変により頼之が失脚すると、正儀は今度は北朝内で孤立することとなる。弘和2年/永徳2年(1382年)に再び南朝に帰参し、参議に任じられた。翌年には主戦派の長慶天皇が、和睦派の後亀山天皇に譲位している。その後、元中2年/至徳2年(1385年)に二王山での合戦への参加、また同年に紀伊国三谷城で挙兵したものの北朝方の山名義理との合戦で敗れた記録が残っている。
元中6年/康応元年(1389年)に死去したとされるが、元中8年/明徳2年(1391年)8月22日に赤坂で討死したとも伝わる[注 1]
人物
- 『太平記』では、正儀の性格を「父正成や兄正行と違い、少し間が抜けたところがある。[2]」と酷評しているが、これは他方では、慎重で勝算のない戦いは避けるという面を示しているともいえる。
- 生涯にわたり京を巡り戦いを繰り広げているが、南朝の公家らの性急な京奪還論には、批判的だったとされる[3]。
- 近世になり、水戸学を中心とする南朝史観においては、正儀の北朝投降は疑われていた。また、同じく南朝正統論を取った頼山陽は『日本外史』では両論併記している。
- 同世代の南朝方の武将の中では最も優秀な戦術家であり、劣勢の中、高師泰を初めとする北朝の大軍を少数の軍勢で食い止める、撃退するといった善戦を幾度も見せている。一方では捕虜に衣服や医薬を与えて解放するなど、人道家の一面も持っていた。
- 『太平記』には、京都占領の際の北朝方の佐々木道誉との邸を巡る逸話なども記されている。
- 一休宗純の祖父、もしくは曾祖父とする巷説がある。詳細は一休宗純の項目参照。
脚注
出典
- ↑ 『大日本史料』第6編16冊209頁
- ↑ 『太平記』巻第三十一“楠は父にも不似兄にも替りて、心少し延たる者也ければ、今日よ明日よと云許にて、主上の大敵に囲まれて御座あるを、如何はせんとも心に不懸けるこそ方見けれ。尭の子尭の如くならず、舜の弟舜に不似とは乍云、此楠は正成が子也。正行が弟也。何の程にか親に替り、兄に是まで劣るらんと、謗らぬ人も無りけり。”
- ↑ 『太平記』巻第三十七“正儀暫く思案して申けるは、「故尊氏卿、正月十六日の合戦に打負て、筑紫へ落て候しより以来、朝敵都を落る事已に五箇度に及候。然れども天下の士卒、猶皇天を戴く者少く候間、官軍洛中に足を留る事を不得候。然も、一端京都を落さん事は、清氏が力を借までも候まじ。正儀一人が勢を以てもたやすかるべきにて候へ共、又敵に取て返されて責られ候はん時、何れの国か官軍の助と成候べき。若退く事を恥て洛中にて戦候はゞ、四国・西国の御敵、兵船を浮べて跡を襲い、美濃・尾張・越前・加賀の朝敵共、宇治・勢多より押寄て戦を決せば、又天下を朝敵に奪れん事、掌の内に有ぬと覚候。但し愚案短才の身、公儀を褊し申べきにて候はねば、兔も角も綸言に順ひ候べし。」”