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迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月5日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の大蔵官僚、弁護士[1]、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。
いわゆる「玉音放送」を起草した人物の一人として知られる。
内閣書記官長(第51代)、総合計画局長官、貴族院議員、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)、経済企画庁長官(第9・10代)、郵政大臣(第17代)、鹿児島工業短期大学学長(初代)などを歴任した。
来歴・人物
東京府立第一中学校、第一高等学校、東京帝国大学を経て大蔵省入省[2][3]。「知性の迫水」とも云われ当時を代表する高級官僚の一人であり、また企画院への出向を通して統制経済への策定にも関わった、当時の革新官僚を代表する人物の一人でもある。企画院時代には、毛里英於菟、美濃部洋次と共に「企画院三羽烏」と呼ばれた[4]。
1933年、青木一男国庫課長の下、甲府税務署長から引き抜かれ外国為替管理法案策定に携わり、同法は1933年5月1日に施行された[注釈 2]。
1936年、岡田内閣内閣総理大臣秘書官在任中、二・二六事件に遭遇し、同僚らとともに岡田首相の救出に奔走、成功した。また、終戦時の鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長として終戦工作の一翼を担い、更に終戦詔書の起草に尽力した。42歳で就任した内閣書記官長は、最年少記録であった[5]。
戦後は右翼の三浦義一と共に「日本金銀運営会」の利権を握る。公職追放期間中は弁護士として生計を立て[1]、その後衆議院議員、参議院議員を務め、自由民主党参議院幹事長などを歴任。1971年(昭和46年)、鍋島直紹・新谷寅三郎らとともに反重宗雄三グループ「桜会」のメンバーとして、河野謙三参議院議長の実現に動く。また、財団法人日本盲導犬協会の初代理事長も務めた。
義兄である岡田貞外茂海軍中佐が海軍航空機墜落事故で殉職した事が微妙に影響してか迫水は大の飛行機嫌いとして知られ、東京と自身の選挙区の鹿児島との往復には必ず列車で移動し決して飛行機を利用しなかったとのことである。
終戦当時の回想は、二・二六事件当時の話と合わせて1964年に著書『機関銃下の首相官邸』に発表したほか、内外のドキュメンタリー番組や、公開講演でたびたびおこなった。国立国会図書館東京本館に二・二六事件、終戦当時を証言した迫水のインタビューの録音テープが保存・公開されている(インタビュー当時は、二・二六事件や宮城事件の関係者が存命していたので、関係者の迷惑にならないように、30年後に公開することを条件にインタビューと、その録音に応じた)。二・二六事件の当日の状況、様子を鮮明に伝えた貴重な資料となっている。娘によると、迫水は晩年に『機関銃下の首相官邸』を新たな内容を加えて改稿する構想を抱いており、そのために準備も進めて75歳で政界を退く予定でいたが、実現を見ずに74歳で病没した[1]。
好角家としても知られており、公職追放中の1948年から同じ鹿児島出身の鶴ヶ嶺道芳率いる井筒部屋の後援会会長を務めていたこともある[6]。会長になった当時の井筒部屋は関取の数が少なく、面倒を見るようになって見込みの薄い者は次々と故郷に帰し続けることとした迫水は、幕下でうろうろしていてパッとしない部屋頭の鶴嶺山(後の鶴ヶ嶺昭男)の処遇を思案していたところ、部屋付きの甲山が「必ず栃錦でも負かす男になりますから、もう少し面倒みてやって下さい」と頭を下げたことにより、多少半信半疑のところがあったようだが鶴嶺山の現役続行が決まった[7]。のち、鶴嶺山改め鶴ヶ嶺は、実際に栃錦から4個の金星を奪う実力者となった[8]。1961年には雑誌『相撲』の企画で、当時大関の柏戸剛と対談[9]。柏戸に対しては、自身が最年少で書記官長になっていずれは最年少の大臣かと思っていたところに公職追放、浪人生活があったことを引き合いに出して「史上最年少の横綱を狙う必要はない」とし、「横綱に推薦しますといわれたら、いや、私はまだその器ではありませんから、もう一場所大関でとらせていただきますって、いうくらいのまあ気持ちでやらなきゃ。」「なりたい、なりたいと思ったら、必ず焦りが出てくるよ」と激励している[5][注釈 3]。柏戸の師匠であり、先代柏戸の柏戸秀剛のファンでもあった[10]。
略歴
- 1902年(明治35年) : 東京市に生まれる。鹿児島県鹿児島市出身。
- 1925年(大正14年):東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業、大蔵省入省。
- 1930年(昭和5年):甲府税務署長。
- 1934年(昭和9年):岡田内閣 内閣総理大臣秘書官。
- 1937年(昭和12年):大蔵省理財局金融課長。
- 1941年(昭和16年):企画院へ出向。企画院第一部第一課長。
- 1942年(昭和17年):大蔵省総務局長。
- 1943年(昭和18年):内閣参事官。
- 1944年(昭和19年):大蔵省銀行保険局長。
- 1945年(昭和20年):鈴木貫太郎内閣 内閣書記官長兼総合計画局(企画院の後身)長官。貴族院議員(勅撰)
- 1947年(昭和22年):公職追放。
- 1951年(昭和26年):公職追放解除。昭電疑獄(昭和電工事件)で起訴されるが小原直が弁護担当となる。唯一人一審段階で無罪となる。
- 1952年(昭和27年):自由党から第25回衆議院議員総選挙鹿児島県第1区に立候補し衆議院議員となる。
- 1956年(昭和31年):第4回参議院議員通常選挙に立候補し参議院議員に転じる。
- 1960年(昭和35年):第1次池田内閣、第2次池田内閣 経済企画庁長官。
- 1961年(昭和36年):第2次池田内閣 郵政大臣。
- 1966年(昭和41年):鹿児島工業短期大学(1973年廃止)の学長に就任。
- 1977年(昭和52年):死去(74歳)。叙正三位、叙勲一等授旭日大綬章。
著書
- 『国家総動員法第十一条に基く会社利益配当令概説』大蔵財務協会、1939年
- 『終戦時の真相と今上天皇の御仁徳』1955年・・・講演冊子
- 『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』恒文社、1964年(新版1986年2月)
- 『大日本帝国最後の四か月』オリエント書房、1973年
縁戚関係
妻の万亀(1910年(明治43年) - 2008年(平成20年)1月5日)は岡田啓介元首相の次女。長男迫水久正も元大蔵官僚(南九州財務局長、鹿児島新報会長、1930年-2002年10月10日)であった。また岡田の2度目の妻郁は、迫水の父親の妹、つまり叔母に当たる。なお、迫水家は戦国時代の武将島津安久の長男が“迫水”と名を改めたことにはじまる[11]。
迫水久常が登場する映像作品
終戦をテーマにした映画では、敗戦に揺れる日本人としての涙を抑えながら実務家として詔勅草案に筆を走らす場面が見せ場のひとつとなっている。
- 二・二六事件 脱出(1962年/東映、演:三國連太郎 役名は「速水友常」)
- 日本のいちばん長い日(1967年/東宝映画、演:加藤武)
- あゝ決戦航空隊(1974年/東映、演:江原真二郎)
- 歴史の涙(1980年/TBS、演:河原崎長一郎)
- そして戦争が終った(1985年/TBS、演:江守徹)
- 太陽 (映画)(2005年/ロシア映画、演:品川徹)
- 日本のいちばん長い夏(2010年/日本放送協会&アマゾンラテルナ、演:湯浅卓)
- 日本のいちばん長い日(2015年/松竹、演:堤真一)
脚注
注釈
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 下荒磯篤子「あとがきに代えて」『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』筑摩書房<ちくま学芸文庫>、2011年2月、pp.339 - 343 ISBN 978-4-480-09349-3[注釈 1]
- ↑ 東京府立第一中学校編 『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」 1929年
- ↑ 戦前期官僚制研究会編 『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』 東京大学出版会、1981年
- ↑ 川口 学「「革新官僚」の思想に関する一考察 -毛里英於菟の思想を中心に-」『一橋論叢121-6』1999年6月
- ↑ 5.0 5.1 #相撲 (1961/6) p.91
- ↑ #相撲 (1961/6) p.86,88,90
- ↑ #相撲 (1961/6) p.88
- ↑ #相撲 (1961/6) p.89
- ↑ #相撲 (1961/6)
- ↑ #相撲 (1961/6) p.90
- ↑ 『姶良町郷土誌』 姶良町郷土誌改定編さん委員会、姶良町長 櫟山和實、1995年10月、平成7年10月増補改訂版(日本語)。pp.151 - 152
参考文献
- 「座談会 大横綱になれ!」、『相撲』1961年第6号、ベースボール・マガジン社、1961年、 86-91頁。
関連項目
- 玉音放送
- 鈴木貫太郎
- 岡田啓介
- 東郷茂徳
- 大西瀧治郎
- 池田勇人
- 河野謙三
- 瀬島龍三
- 橋本乾三(友人)
- 加瀬俊一(『加瀬俊一回想録』によると、迫水、加瀬、美濃部洋次らで「官界の一中三羽烏」と呼ばれた。)
- 渡辺正次郎 - 元秘書
- 旧制一中時代の同期
外部リンク
公職 | ||
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先代: 小金義照 |
郵政大臣 第17代:1961年 - 1962年 |
次代: 手島栄 |
先代: 菅野和太郎 |
経済企画庁長官 第9・10代:1960年 - 1961年 |
次代: 藤山愛一郎 |
先代: 石渡荘太郎 |
内閣書記官長 第51代:1945年 |
次代: 緒方竹虎 |
学職 | ||
先代: 新設 |
鹿児島工業短期大学学長 初代:1966年 - 1973年 |
次代: 廃止 |