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桂 太郎(かつら たろう、弘化4年11月28日(1848年1月4日) - 大正2年(1913年)10月10日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階勲等功級爵位は、従一位大勲位功三級公爵。諱は清澄(きよずみ)。幼名は寿熊、左中。号は海城。元老・井上馨とは義理の親子の関係。
児玉源太郎、川上操六とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。
台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第10・11・12・13代)、内閣総理大臣(第11・13・15代)、内務大臣(第22代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第25代)などを歴任した。首相在任日数2886日はこれまでで最も長い。元老の一人であったという説もある[1]
Contents
概要
長州藩士であり、毛利家の庶流で重臣であった桂家の出身で、大江広元や桂元澄などの子孫に当たる。戊辰戦争に参加し、明治維新後、横浜語学学校で学びドイツへ留学。帰国後は山縣有朋の下で軍制を学んで陸軍次官、第3師団長、台湾総督を歴任した後、第3次伊藤内閣・第1次大隈内閣・第2次山縣内閣・第4次伊藤内閣で陸軍大臣をつとめた。明治34年(1901年)、首相に就任。日英同盟を締結し、日露戦争で日本を勝利に導いた。西園寺公望と交代で首相を務め、「桂園時代」と呼ばれた。在職日数2886日は歴代1位。なお連続して在職してはいないため、連続在職の記録は佐藤榮作に譲る形となっている。明治33年(1900年)9月15日には、拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立している。また、現在の獨協中学校・高等学校の前身である獨逸学協会学校の二代校長を明治20年(1887年)4月から同23年(1890年)7月までつとめた。第2次桂内閣時には韓国併合も行った。
生涯
誕生から戊辰戦争まで
長門国阿武郡萩町、萩城下平安古(ひやこ、現・山口県萩市平安古)にて、長州藩士馬廻役・桂與一右衛門(125石)の嫡男として生まれる。母は同藩士・中谷家の娘・喜代子。桂は125石の上士の長男で、母の実家の中谷家は180石。叔父の中谷正亮は松下村塾のスポンサーだった。桂は入門しなかったが、それは吉田松陰が刑死したとき、数え年で13歳だったからである。しかし、中谷の甥であったことによって、桂がどれほど恵まれたかは計り知れないものがある。
幼少時に阿武郡川島村(現・萩市川島)に移る。万延元年(1860年)には、藩の西洋式操練に参加して鼓隊に編入される。家柄の良い桂は当初は正規軍である「選鋒隊」に編入されたが、元治元年(1864年)、禁門の変などにより藩が存亡の窮地に立たされる中、7月に世子毛利元徳の小姓役となる。第2次長州征伐では志願して石州方面で戦う。
戊辰戦争では奥羽鎮撫副総督澤為量の参謀添役や第二大隊司令として奥羽各地を転戦し、敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事した。秋田戦争では、まず庄内戊辰戦争春の陣で負け、奥羽列藩同盟の成立を許し、その後弘前藩に入藩することを拒否され、東北諸藩を説得できないふがいなさに能代では自殺も考えたものの、なんとか久保田藩を新政府側に寝返らせることに成功する。その後、7月11日金山の戦いで仙台藩軍に壊滅的な打撃を与え、新庄藩を寝返らせることに成功するものの、14日には人数では勝っているはずの新庄の戦いで酒井吉之丞率いる庄内藩軍に負け、庄内藩や仙台藩相手に、新政府軍の増援が到着するまで延々久保田藩内で撤退戦を行わざるを得なくなった。なぜか、戦後は「その軍功が評されて」賞典禄250石を受けている。彼の部下は約200名だったが戦死者が41名、負傷者が53名もいた。非常に高い死傷率といえるが、隊長の桂はかすり傷1つ負わなかったという。
維新後
明治3年(1870年)8月、桂はドイツに留学した。但し、賞典禄を元手にした私費留学であったことから現地での生活はかなり苦しく、ヨーロッパ使節団のためドイツへ来訪した木戸孝允を訪ね、官費留学への待遇切り替えを依頼している。木戸は桂の叔父・中谷正亮とは親しくしていたため、中谷の甥である桂にも目をかけていた。だが、木戸は帰国した明治6年(1873年)7月、政争の合い間に桂のために切り替え手続きを行ったものの、桂は10月半ばに留学を打ち切って帰国した。
木戸は陸軍卿の山縣有朋に依頼し、桂を陸軍に入れて大尉に任命した。賞典禄250石を受けた軍歴からすれば佐官クラスであるが、山縣の「君が留学中に陸軍の秩序も整って、初任の場合はいきなり佐官にしないことになった。しばらく辛抱してくれ」との慰めに対し、桂は「秩序と規律は軍の根幹であります。大尉ではなく少尉の方が陸軍のためには良かったと思います」と返答している。さらに陸軍の興隆策についての下問に対して「帰国して日が浅いので何ともいえませんが、徴兵制が実現したことは欣快に存じます。後は兵士をどう訓練するかでしょう」と返答。これを聞いた山縣は大喜びだった。
大村益次郎が発案した徴兵制度を押し進めていた山縣は、士族出身者から白眼視されていた。桂は山縣の派閥に組み入れられたが桂の木戸に対する気配りは大変なもので、駐在武官となって赴任したドイツからも月に1度は手紙を出し、珍しいものを木戸夫人宛てに贈った。また、木戸宛ての宛名には「木戸尊大人様閣下」になっている。この仰々しい敬称にはかえって木戸の方で驚いたに違いないが、桂にはそれを平然とやってのける図太さがあった。
日露戦争を勝利に導いた「第二流内閣」
日清戦争後
以後は山縣の引き立てもあり、順調に昇進を重ねた。日清戦争には名古屋の第3師団長として出征した。1896年その後、台湾総督を経て、第3次伊藤内閣で陸軍大臣になり、続く第1次大隈内閣に次ぎ、第2次山縣内閣でも陸相とともに山縣の参謀格を務め、明治33年(1900年)に発生した義和団の乱では中国に軍を出動させた。8月に動乱は終結したが、複雑な国際関係の中での出兵と国内の政争に心労を感じた桂は中央から距離を取るために転地療養に入った[2]。10月に第4次伊藤内閣が成立すると桂は離職の意思を示したが、明治天皇に一旦は慰留された。しかし、立憲政友会与党の内閣に違和感を感じた桂は政務に関与せず、再び辞意を示して12月に児玉源太郎と交代した。
伊藤博文は4回、山縣有朋と松方正義は各2回の首相経験があり、薩長閥の大物で残っているのは西郷従道と井上馨の2人である。西郷は例によって兄・隆盛を持ち出して断ったが、井上は引き受ける決心をし、大命を受けて組閣にとりかかった。財政難を切り抜ける手腕のある大蔵大臣を誰にするか。すぐれた作戦家だが、軍政には適していない児玉を変えるかどうか。井上は蔵相に渋沢栄一、陸相に桂の再任を求めたが、両者に拒否されてあっさり組閣を断念した。
初の組閣
元老会議は桂を推し、明治天皇は桂に組閣を命じた。明治34年(1901年)6月、海相・山本権兵衛と陸相・児玉源太郎の留任を除いて、小粒な内閣が発足した。蔵相兼外務大臣の曾禰荒助をはじめ、初めて大臣になるという官僚が大半で、その多くが内務省出身の山県閥官僚であった。 世人は「小山縣内閣」「第二流内閣」と揶揄したが、桂は批判に対して勅命が降下したのだから仕方が無い、というスタンスをとり続けた[2]。 桂は首相就任と同時に予備役となるはずであったが、天皇の意向により現役であり続けた。桂は9月に小村寿太郎を外相に起用した。日英同盟締結を推進するためで、桂は自伝で、自分と小村とは日露問題の解決は武力によるしかないと最初から覚悟していたと語っている(もっとも、この自伝について山縣は、桂本人に都合のいい作文みたいなものだと酷評している)。
1901年には、後に日本商工会議所の前身となる商業会議所の設置法を成立させ、各地における50名以下の選出議員からなる商業会議所の設立を推進した[3]。この商業会議所制度は、後継の商工会議所法により廃止される1927年まで続いた。
日露戦争
現実に日英同盟は日露戦争において日本に有利に作用し、戦争そのものは海軍の東郷平八郎、陸軍の大山巌の働きで勝利した。米国ポーツマスでのロシアとの和平交渉(ポーツマス条約)は陰で大統領セオドア・ルーズベルトを動かした金子堅太郎の努力で、何もかも成功した。桂は、明治天皇から参謀総長であった山縣の頭越しに戦争指導について諮詢を受けるなど、戦争運営を通じて強い信頼を得、自信を深めていった。
桂は首相として称賛されるべきだったが、国民的人気は湧かなかった。戦争の実状を国民に秘匿していたため、賠償金は取れず、割譲されて得た領土が樺太南部だけという結果に、民衆が不満を持っていたからである。講和条約の内容に関する鬱積に端を発する日比谷焼打事件も、この第1次桂内閣の末に起こっている。
桂園時代
その後、桂は西園寺公望と交互に組閣(桂園時代)し、明治41年(1908年)7月から同44年(1911年)8月に第2次内閣、大正元年(1912年)12月から同2年(1913年)2月に第3次内閣を組閣する。この桂園時代は立憲政友会の原敬との攻防と「情意投合」、盟友である西園寺との信頼関係のもと、凋落する元老世代からの自立を図った時代でもある。第2次内閣の時代には、韓国併合や大逆事件による社会主義者への弾圧、関税自主権の回復による条約改正の達成などの業績を残した。だが、それは山縣との間に微妙な亀裂を生み始める。2度の内閣での実績を盾に山縣からの自立を図り、さらに反政友会勢力を結集させた「桂新党」までも視野に入れた桂だったが、山縣はそれを許さなかった。山縣は、明治天皇の崩御(死去)により急きょ海外視察から帰国した桂に「新帝輔翼」の重要性を説き、内大臣兼侍従長として宮中に押し込めることで桂の政治的引退を図った。だが、二個師団増設問題を桂は巧みに利用し、第2次西園寺内閣の倒閣後、山縣自らが桂を擁立せざるを得ない状況へと誘導する。
大正政変からその死
だが、第3次桂内閣の時に第一次護憲運動が起こり、これに対して桂は「桂新党」構想実現のための新政党(後の立憲同志会)を立ち上げて対抗しようとしたが、達成できないまま2月20日、わずか62日で退陣を余儀なくされた。
その後は病状が悪化し、6月には葉山、鎌倉に転地し、8月には一時容態が小康となり9月に三田の本邸に戻る。10月には脳血栓を起こし、10月10日の午後4時に死去、享年67。遺体は遺言により死後解剖され、死因は腹部に広がっていた癌と頭部動脈血栓であると診断された。
葬儀は10月19日に増上寺で行われ、葬儀の会葬者は数千人にのぼり、8ヶ月前に桂を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せた。
墓所
墓所は生前の桂の遺言により、吉田松陰を祀る松陰神社(東京都世田谷区)に隣接して建立されている。
人物
桂太郎は「ニコポン宰相」と呼ばれた。命名者は「東京日日新聞」記者の小野賢一郎で、桂がニコニコ笑って肩をポンと叩き、政治家や財界人を手懐けるのに巧みだったため新聞にそう書いたと言われている。 背が低いわりに頭が大きく、腹がふくれた姿が七福神の大黒天に似ていたので、「大黒様」「巨頭公」と呼ばれた。
叙位・叙勲・叙功・叙爵・外国叙勲
- 1885年(明治18年)7月25日 - 正五位[4]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[5]
- 1890年(明治23年)6月11日 - 従三位[6]
- 1891年(明治24年)5月11日 - 勲二等瑞宝章[7]
- 1895年(明治28年)8月20日 - 子爵叙爵。功三級金鵄勲章叙功。勲一等瑞宝章叙勲[8]。
- 1896年(明治29年)10月14日 - 正三位叙位[9]
- 1901年(明治34年)12月27日 - 旭日大綬章[10]
- 1902年(明治35年)2月27日 - 伯爵[11]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 大勲位菊花大綬章叙勲[12]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 侯爵 [13]・貴族院議員章[14]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章受章[15]
- 1911年(明治44年)4月21日 - 公爵陞爵(韓国併合の功)
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章受章[16]。この年元帥府に列する旨の内示を受けたが辞退している[注釈 1]
- 1913年(大正2年)10月10日 - 菊花章頸飾叙勲
- 外国勲章佩用允許
- 1901年(明治34年)4月16日 - フランス共和国よりレジオンドヌール勲章グラントフィシエ(大将校章、第二等)叙勲[17]
- 1906年(明治39年)6月5日 - ローマ教皇庁よりピウス9世勲章カヴァリエレ ディ グランクローチェ(大十字騎士章、第二等)叙勲[18]
- 1910年(明治43年)7月1日 - ブラウンシュヴァイク国レーヴェンハインリッヒ第一等勲章[19]
家族・親族
桂家
本姓は大江氏。『日本の名家・名門 人物系譜総覧』246頁によれば、
- 「桂家は、三度首相に就いた桂太郎を出した家。同家は毛利元就と同族で、相模国津久井から出た氏で、元就の重臣としては桂元澄がいる。陶晴賢を厳島に誘い出して討つことに成功したのは、この元澄の働きによる。」という。
子女
3回結婚、5男5女を儲けた(うち1人は愛人との間に儲けた庶子)[20][21]。
- 最初の妻歌子(旧姓は野田。1874年結婚、1886年没)との間に1男2女。
- 2番目の妻貞子(旧姓・宍道、歌子の兄の未亡人、1886年結婚、1890年没)との間に1男1女。
- 愛妾中村ウラ子との間に1女を儲けた。
- 輝子(1891年 - ?) - 天岡直嘉と結婚
- 3番目の妻可那子(1875年 - 1940年[22]、かな子、加那子とも)は、元々村上浜次郎の娘で名古屋の上前津の料亭「旗亭香雪軒」の経営者・木村常次郎の養女となり[23]、桂が第三師団長になった際、再三この店を訪れ、27歳年下の可那子を見染めた。1891年より事実婚、1898年に井上馨の養女として桂と結婚。2人の間に3男1女。[22]
- 三男三郎は井上馨の養嗣子井上勝之助の養子となり井上家を継ぐ。更に三郎と勝之助の養女千代子(馨の実子)の間に生まれた井上光貞は歴史学者として活躍した。
- 愛妾として知られる芸者・お鯉(安藤照)とは日露戦争中に山縣の紹介で知り合った。病弱だった本妻可那子に代わり桂の世話をし、総理官邸に「お鯉の間」が設けられたり、日比谷焼打事件では妾宅が襲撃の対象になったりした。関西をお鯉と訪れる際には「松風閣」とよばれる財界人の清遊の場にたびたび宿泊している。「松風閣」は現在も大阪府箕面市の箕面観光ホテル内に「桂別邸」として存在する。
脚注
注釈
- ↑ 陸海軍大将のなかでも軍功が抜群な者は特にこれを終身現役の大将として元帥の称号を冠することを許し、彼らが大元帥たる天皇の軍事面における最高顧問となった。したがって元帥は軍人としては最高の栄誉に他ならなかったが、軍人としての器よりも政治家としての器の方がはるかに大きかった桂にとって、それはなによりも有難迷惑なものでしかなかった。伊藤博文の政友会にならって自身も新党を結成し、今後とも議会政治に対する影響力を一層伸張していくことを模索していた桂は、元帥府に列して現役軍人の身分が生涯つきまとうと、それが自身が望む政党党首となることを否定するものとなるばかりか、一政治家としての政治活動さえも著しく制限するものになることを嫌ったのである。
出典
- ↑ 林茂、千葉功など。伊藤之雄、大久保利謙は否定している。 伊藤之雄 『元老―近代日本の真の指導者たち』 中央公論新社、2016年。
- ↑ 2.0 2.1 澤村修治『天皇のリゾート:御用邸をめぐる近代史』図書新聞 2014年 ISBN 9784886114600 pp.157-174.
- ↑ 『商業会議所法』(明治34年3月25日法律第31号)、官報。国立国会図書館
- ↑ 『官報』第621号「叙任及辞令」1885年7月27日。
- ↑ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ↑ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
- ↑ 『官報』第2357号「叙任及辞令」1891年5月12日。
- ↑ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ↑ 『官報』第3991号「叙任及辞令」1896年10月15日。
- ↑ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
- ↑ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
- ↑ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ↑ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ↑ 『官報』第7276号「帝国議会 - 貴族院 - 議員就職」1907年9月28日。
- ↑ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ↑ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ↑ 『官報』第5365号「叙任及辞令」1901年5月24日。ただし同報では「フランス共和国グランオフィシェードロルドルナショナルドラレジョンドノール勲章」と記載。
- ↑ 『官報』第6893号「叙任及辞令」1906年6月22日。ただし同報には「ローマ法王ピーヌーフ第一等勲章」と記載。
- ↑ 『官報』第8123号「叙任及辞令」1910年7月20日。
- ↑ 宇野(2006年)、P272 - P275、P284 - P285。
- ↑ 竹内正浩『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』(実業之日本社、2017年)P116 - P118
- ↑ 22.0 22.1 「桂太郎(明治の首相)が、軍人として名古屋に来たとき知り合った女性(のちに夫人となる)について知りたい。」 - レファレンス協同データベース
- ↑ 『明治美人伝』長谷川時雨
関連文献
- 翻刻史料
- 『桂太郎自伝』(宇野俊一校注、平凡社東洋文庫、1993年) ISBN 4582805639
- 存命中に本人が執筆、原本は憲政資料室所蔵「桂太郎関係文書」書類の部に拠る。
- 『桂太郎関係文書』(千葉功編、東京大学出版会、2010年) ISBN 978-4-13-026222-4
- 「桂太郎関係文書」と、早稲田大学中央図書館特別資料室所蔵の「桂太郎旧蔵諸家書翰」のうち、桂太郎宛ての書簡を翻刻・編集した資料集。巻末解説で、桂が死去した際桂家にあった書簡・書類など桂家文書の現在にいたるまでの伝来を記す。
- 『桂太郎発書翰集』(千葉功編、東京大学出版会、2011年) ISBN 978-4-13-026226-2
- 前年出版の『桂太郎関係文書』(桂宛書簡集)に対応した桂自身による書簡を翻刻した資料集。
- 刊行書籍
- 徳富猪一郎 (蘇峰) 『政治家としての桂公』 民友社、1913年11月
- 徳富猪一郎編著 『公爵桂太郎伝 乾・坤』 故桂公爵記念事業会、1917年
(復刻 原書房 「明治百年史叢書」、1967年/オンデマンド版、2004年) - 杉山茂丸 『桂大将伝』 博文館、1917年
(復刻 歴代総理大臣伝記叢書 第6巻 ゆまに書房、2005年) ISBN 4843317845 - 川原次吉郎 『桂太郎』 (時事通信社、三代宰相伝、1959年/ 新版 「日本宰相列伝4」、1985年)
- 宇野俊一 『明治国家の軌跡』 (梓出版社、1994年)
- 小林道彦 『桂太郎と後藤新平 日本の大陸政策1895-1914』 (南窓社、1996年) ISBN 4816501940
- 古川薫 『山河ありき 明治の武人宰相 桂太郎の人生』
- 伊藤之雄 『立憲国家と日露戦争 外交と内政 1898-1905』 (木鐸社、2000年)
- 宇野俊一 『桂太郎』 (吉川弘文館〈人物叢書〉、2006年) ISBN 4642052348
- 小林道彦 『桂太郎 予が生命は政治である』 (ミネルヴァ書房 日本評伝選、2006年) ISBN 4623047660
- 千葉功 『桂太郎 外に帝国主義、内に立憲主義』 (中央公論新社〈中公新書〉、2012年) ISBN 4121021622
関連項目
- 華族
- 大正政変
- 後藤新平 - 政権時代のブレーン。
- 加藤高明、若槻禮次郎、濱口雄幸 - 桂の政治的継承者。「桂新党」(立憲同志会)の結党に参加し、憲政会-立憲民政党内閣で(桂が新党構想で掲げた)健全財政・軍縮・協調外交路線をとる。
- 三浦梧楼- 長州出身の軍人、「観樹将軍」で知られる。
- 大三 - 桂の「ニコポン主義」に由来する「ニコホン綿」で知られる。
- 東京地学協会
- 桜尾城 - 広島県廿日市市の城趾。祖先が桂元澄だった関係で城趾の土地を買収し廿日市市に寄贈。桂公園として整備された。
外部リンク
- 歴代総理の写真と経歴(首相官邸ホームページ)
- 桂氏系譜
- 桂太郎肖像
- 明治宰相列伝 : 桂太郎 | 国立公文書館
- 拓殖大学
- 国立国会図書館 憲政資料室 桂太郎関係文書(所蔵)
- 国立国会図書館 憲政資料室 桂太郎関係文書(MF:当室蔵・早稲田大学図書館蔵・宮内庁書陵部蔵ほか)
- 桂公爵邸に於ける外遊紀念の写真『ニコニコ写真帖. 第1輯』 - 三番目の妻の加那子(右から3人目)と桂(右から5人目)、その横に二人の娘の須磨子。
公職 | ||
---|---|---|
先代: 伊藤博文 西園寺公望 西園寺公望 |
内閣総理大臣 第11代:1901年6月2日 - 1906年1月7日 第13代:1908年7月14日 - 1911年8月30日 第15代:1912年12月21日 - 1913年2月20日 |
次代: 西園寺公望 西園寺公望 山本権兵衛 |
先代: 内田康哉 |
外務大臣 第25代:1912年 - 1913年(兼任) |
次代: 加藤高明 |
先代: 徳大寺実則 |
内大臣 1912年 |
次代: 伏見宮貞愛親王 |
先代: 徳大寺実則 |
侍従長 1912年 |
次代: 鷹司煕通 |
先代: 松田正久 |
大蔵大臣 第13代:1908年7月14日 - 1911年8月30日(兼任) |
次代: 山本達雄 |
先代: 久保田讓 |
文部大臣 第19代:1905年12月14日 - 1906年1月7日(兼任) |
次代: 西園寺公望(臨時兼任) |
先代: 児玉源太郎 |
内務大臣 第22代:1903年10月22日 - 1904年2月20日(兼任) |
次代: 芳川顕正 |
先代: 高島鞆之助 |
陸軍大臣 第9 - 12代:1898年1月12日 - 1900年12月23日 |
次代: 児玉源太郎 |
先代: 樺山資紀 |
台湾総督 第2代:1896年6月2日 - 同10月14日 |
次代: 乃木希典 |
軍職 | ||
先代: 黒川通軌 |
第3師団長 第2代:1891年6月1日 - 1896年6月2日 |
次代: 長谷川好道 |
学職 | ||
先代: 改称 |
台湾協会専門学校校長 初代:1904年 - 1912年 |
次代: 小松原英太郎 |
先代: 創設 |
台湾協会学校校長 初代:1900年 - 1904年 |
次代: 台湾協会専門学校へ |
爵位 | ||
先代: 陞爵 |
公爵 桂家初代 1911年 - 1913年 |
次代: 桂広太郎 |
先代: 陞爵 |
侯爵 桂家初代 1907年 - 1911年 |
次代: 陞爵 |
先代: 陞爵 |
伯爵 桂家初代 1902年 - 1907年 |
次代: 陞爵 |
先代: 叙爵 |
子爵 桂家初代 1895年 - 1902年 |
次代: 陞爵 |
日本国歴代内閣総理大臣 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第10代 伊藤博文 |
第11代 1901年6月2日 - 1906年1月7日 |
第12代 西園寺公望 |
||||||
第12代 西園寺公望 |
第13代 1908年7月14日 - 1911年8月30日 |
第14代 西園寺公望 |
||||||
第14代 西園寺公望 |
第15代 1912年12月21日 - 1913年2月20日 |
第16代 山本権兵衛 |
||||||
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- 勲一等瑞宝章受章者
- 勲二等瑞宝章受章者
- 功三級金鵄勲章受章者
- バス勲章
- 聖マイケル・聖ジョージ勲章
- 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者
- レジオンドヌール勲章グラントフィシエ受章者
- 山口県出身の人物
- 長門国の人物
- 1848年生
- 1913年没