吉川弘文館
吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。
概要
明治時代に、『古事類苑』『故実叢書』『本居宣長全集』『和漢三才図会』『賀茂真淵全集』『大日本史』『国史大辞典(明治版)』等を出版、大正時代に『水戸藩史料』、昭和戦前期に『日本随筆大成』『新訂増補 国史大系』等、多数の史料集・辞典類を刊行し日本史学の発展に寄与している。
戦後には、古代史から近現代史までの多数の研究書に加え、文化史、美術史、考古学、民俗学、宗教史、国語・国文学等の書籍を出版しており、日本史関連の大半の学者が著書・編著を刊行している。
一般読者を対象とした教養書として、伝記『人物叢書』、日本史研究の成果を分かりやすくまとめた『日本歴史叢書』、人類誕生から現代に至る歴史と文化を扱った一大シリーズ『歴史文化ライブラリー』、通史『日本の時代史』や教養書の名著の再刊版『歴史文化セレクション』等がある。なお世界史・美術関連書も少数だが、数十冊出版されている。
また日本史を知るための必携である『国史大辞典』『日本民俗大辞典』『日本史総合年表』等の辞典・年表や、史料集『明治天皇紀』『皇室制度史料』『平城京木簡』『飛鳥藤原京木簡』等がある。また日本史学に多くの業績を残した、久米邦武、坂本太郎、関晃、大久保利謙、西山松之助、桜井徳太郎、永原慶二、直木孝次郎、宮田登等の「著作集」を刊行している。なお月刊学術誌「日本歴史」と、月刊PR誌「本郷」を発刊している。
2010年(平成22年)7月1日よりデジタル版「国史大辞典」が、インターネット百科事典「ジャパンナレッジ」の新しいコンテンツとして公開された。
歴史
創業者吉川半七は天保10年(1839年)に近江国(滋賀県)で生まれ、江戸日本橋蛎殻町の書肆若林屋喜兵衛に奉公。安政4年(1857年)19歳で独立し、自営を許されて書物の仲買を始める。文久3年(1863年)には長姉の婚家で麹町の貸本屋近江屋を継ぎ、近江屋吉川半七を名乗った。元治元年(1864年)、江戸・京坂を往来して書籍の交易を行う。
明治3年(1870年)東京府京橋南伝馬町(現在の中央区京橋一丁目)の表通りに新店舗(吉川書房)を開く。扱った書物は、新時代の要望に応え、和漢書のほか、福沢諭吉・中村正直等の西洋文化の翻訳類も数多く取り揃え、とくに上方版の常備販売は他店の追随を許さぬものがあった。明治5年(1872年)には、吉川書房の階上に「貸本屋」の大革新を試み、有料(1時間半銭)の書物展覧所を設け、広く内外の書籍を集めて公開し「来読貸観所」と称した。大槻如電は「日本における図書館の濫觴なり」と称賛している(明治9年11月火災により閉鎖する)。明治10年(1877年)頃より出版を兼業し、はじめ「文玉圃」「近江屋」等の号も用いたが、多くは「吉川半七」の個人名をもって発行所とした。明治12年(1879年)には内閣書記官岡三橋(守節・書家)の推挙により宮内省御用書肆となり、『萬葉集古義』『幼学綱要』『婦女鑑』等、多数の宮内省蔵版の出版を引き受け、明治20年(1887年)頃より、時代の趨勢に鑑み出版に専業し、もっぱら学術書の刊行に従事する。
明治33年(1900年)「弘文館」の商号を建て、大部な叢書の発行や、予約出版を行う。明治35年(1902年)吉川半七が63歳で死去。二代目吉川半七が明治37年(1904年)資本金10万円で合資会社吉川弘文館を設立する。明治38年(1905年)、国書刊行会の編輯所を吉川弘文館倉庫の二階に置き、この年から発行した刊行会本(国書刊行会叢書)の印刷・配本を引き受け、大正11年(1922年)までに全8期、57部、260冊を刊行。大正12年(1923年)関東大震災により店舗や資料を全て消失する。昭和4年(1929年)『新訂増補国史大系』の刊行を開始する。昭和18年(1943年)太平洋戦争中の「出版事業令」により、企業合同を行い一時事業を休止。この年までに国史大系58冊を刊行する。
戦時中の休業を経て、昭和24年(1949年)5月7日、吉川圭三ほか3人が出資し、新生「株式会社吉川弘文館」として再発足し、現在に至る。
外部リンク
- [{{#property:P856}} 公式ウェブサイト] (日本語)
- 国史大辞典公開のお知らせ (日本語) - (ジャパンナレッジサイトより)