東京物語
東京物語 | |
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Tokyo Story | |
監督 | 小津安二郎 |
脚本 |
野田高梧 小津安二郎 |
製作 | 山本武 |
出演者 |
笠智衆 東山千栄子 原節子 杉村春子 山村聡 |
音楽 | 斎藤高順 |
撮影 | 厚田雄春 |
編集 | 浜村義康 |
製作会社 | 松竹大船撮影所 |
配給 | 松竹 |
公開 | 1953年11月3日 |
上映時間 | 136分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 1億3165万円[1] |
『東京物語』(とうきょうものがたり)は、1953年に公開されたモノクロの日本映画である。監督は小津安二郎、主演は笠智衆と原節子。『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)で原節子が演じたヒロインはすべて「紀子」という名前であり、この3作品をまとめて「紀子三部作」と呼ぶことがある[2]。昭和28年度文化庁芸術祭参加作品。
上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で描いた作品である。戦前の小津作品、特に『戸田家の兄妹』などにすでに見出されるテーマだが、本作でより深化させられることになった。「ロー・ポジション」[注 1]を多用し、カメラを固定して人物を撮る「小津調」と形容される独自の演出技法で、家族を丁寧に描いている。家族という共同体が年を経るとともにバラバラになっていく現実を、独特の落ち着いた雰囲気でつづっている[3]。
数度にわたり、テレビドラマとしてリメイクされている。
オマージュとして『東京画』(ヴィム・ヴェンダース)、『みんな元気』(ジュゼッペ・トルナトーレ)とそのリメイク『みんな元気 (2009年の映画)』(カーク・ジョーンズ)、『珈琲時光』(侯孝賢)、『HANAMI』(ドーリス・デリエ)、『東京家族』(山田洋次)などがある。
Contents
あらすじ
尾道に暮らす周吉とその妻のとみが東京に出掛ける。東京に暮らす子供たちの家を久方振りに訪ねるのだ。しかし、長男の幸一も長女の志げも毎日仕事が忙しくて両親をかまってやれない。寂しい思いをする2人を慰めたのが、戦死した次男の妻の紀子だった。紀子はわざわざ仕事を休んで、2人を東京名所の観光に連れて行く。周吉ととみは、子供たちからはあまり温かく接してもらえなかったがそれでも満足した表情を見せて尾道へ帰った。ところが、両親が帰郷して数日もしないうちに、とみが危篤状態であるとの電報が子供たちの元に届いた。子供たちが尾道の実家に到着した翌日の未明に、とみは死去した。とみの葬儀が終わった後、志げは次女の京子に形見の品をよこすよう催促する。紀子以外の子供たちは、葬儀が終わるとそそくさと帰って行った。京子は憤慨するが、紀子は義兄姉をかばい若い京子を静かに諭す。紀子が東京に帰る前に、周吉は上京した際の紀子の優しさに感謝を表す。妻の形見だといって時計を渡すと紀子は号泣する[4]。がらんとした部屋で一人、周吉は静かな尾道の海を眺めるのだった。
評価
1937年日本公開のアメリカ映画『明日は来らず』(レオ・マッケリー監督)を下敷きにしている[5]。アメリカの物語を普遍的なものにして、アジア人と西洋人がともに納得できるものにした。
作品は1953年度のキネマ旬報ベストテンでは第3位にランキングされ、興行的にも成功した。以降も現在に至るまで作品は国内外で高い評価と支持を受けている。特に映画誌などで行われる過去の作品のランキング等では必ず上位にランキングされている。
1995年にBBCが発表した「21世紀に残したい映画100本」に、『西鶴一代女』(溝口健二監督、1952年)、『椿三十郎』(黒澤明監督、1962年)、『乱』(黒澤明監督、1985年)、『ソナチネ』(北野武監督、1993年)などと共に選出された。 英国映画協会発行の月刊映画専門誌『Sight & Sound』2002年版の「CRITICS' TOP TEN POLL」では、年老いた夫婦が成長した子供たちに会うために上京する旅を通して、小津の神秘的かつ細やかな叙述法により家族の繫がりと、その喪失という主題を見る者の心に訴えかける作品、と寸評を出している。本作品は、ニューヨーク近代美術館に収蔵されている。
ランキング
- 1979年:「日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)」(キネマ旬報発表)第6位
- 1989年:「日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第2位
- 1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第2位
- 1995年:「オールタイムベストテン」(キネ旬発表)
- 「日本映画編」第1位
- 「世界映画編」第4位
- 1999年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第3位
- 2009年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊90周年記念)」(キネ旬発表)第1位
以下は海外でのランキング
- 「映画史上最高の作品ベストテン」(英国映画協会『Sight&Sound』誌発表)※10年毎に選出
- 2000年:「20世紀の映画リスト」(米『ヴィレッジ・ヴォイス』紙発表)第36位
- 2008年:「史上最高の映画100本」(仏『カイエ・デュ・シネマ』誌発表)第14位
- 2008年:「歴代最高の映画ランキング500」(英『エンパイア』誌発表)第67位
- 2010年:「史上最高の外国語映画100本」(英『エンパイア』誌発表)第16位
- 2010年:「エッセンシャル100」(トロント国際映画祭発表)第15位
受賞
デジタル修復
本作のオリジナルネガフィルムは1960年の横浜シネマ現像所火災(16ミリ縮小版を作成中だった)により消失し、現存しない。現在残っているのは16ミリデュープ・ネガから起こされたエンラージ35ミリデュープ・ネガである。 製作会社の松竹は、2003年と2011年の2回にわたってデジタルリマスターによる修復・リプリントを行った。2003年版は、小津安二郎生誕100年記念事業の一環として、劇場公開やDVD化のためにデジタル修復が施された。2011年版は、NHK BSプレミアムで2011年から2012年にかけて企画された『山田洋次監督が選んだ日本の名作100本』での放送のために、NHKが松竹に全面協力し、実際の修復作業はIMAGICAにより行われた。素材に使われたフィルムは画質こそ良好だがパーフォレーション(フィルムの送り穴)が損傷し「使用不可」に指定されていたため、それまで顧みられる事が無かったもの。これを補修しスキャン用の35mmデュープを作成、データ化は4K解像度で行われた。撮影助手を務めた川又昂が製作時のプリント状態を知る数少ない当事者として助言し、通常のデジタル修復に加えて画質の明暗の再調整、手作業によるプリントやサウンドトラックのノイズ修正など、きめ細かな修復が行われた。BSプレミアムで2011年4月4日に放送された後も画質の追い込みが行われ、2013年7月に小津生誕110周年記念と銘打ったDVD/Blu-rayで発売。修復作業の様子も、リマスター版初放送に向けBSプレミアムで放送されたドキュメンタリー『デジタル・リマスターでよみがえる名作「“東京物語”復活への情熱」』において取り上げられた。
このデジタル・リマスター版は2013年のベルリン国際映画祭クラシック部門で上映された。また4K素材はアメリカのヴォイジャー社「クライテリオン・コレクション」DVD/Blu-rayにも提供されている。
スタッフ
- 監督:小津安二郎
- 脚本:野田高梧・小津安二郎
- 製作:山本武
- 撮影:厚田雄春
- 美術 : 浜田辰雄
- 録音:妹尾芳三郎
- 照明:高下逸男
- 音楽 : 斎藤高順
- 編集 : 浜村義康
- 録音技術 : 金子盈
- 装置 : 高橋利男
- 装飾 : 守谷節太郎
- 衣裳 : 齋藤耐三
- 現像 : 林龍次
- 監督助手:山本浩三
- 撮影助手:川又昂
- 録音助手 : 堀義臣
- 照明助手 : 八鍬武
- 進行 : 清水富二
キャスト
- 平山周吉:笠智衆
- 尾道に妻と次女と共に暮らしている。
- とみ:東山千栄子(俳優座)
- 周吉の妻。
- 紀子:原節子
- 戦死した次男の妻。アパートで暮らしている。
- 金子志げ:杉村春子(文学座)
- 周吉の長女。美容院を営む。
- 平山幸一:山村聡
- 周吉の長男。内科の医院を営む。
- 文子:三宅邦子
- 幸一の妻。
- 京子:香川京子
- 沼田三平:東野英治郎(俳優座)
- 周吉の旧友。
- 金子庫造:中村伸郎(文学座)
- 志げの夫。
- 平山敬三:大坂志郎
- 周吉の三男。国鉄に勤務している。
- 服部修:十朱久雄
- 周吉の旧友。
- よね:長岡輝子(文学座)
- 服部の妻。
- おでん屋の女:桜むつ子
- 隣家の細君:高橋豊子
- 周吉の家の隣人。
- 鉄道職員:安部徹
- 敬三の同僚。
- アパートの女:三谷幸子
- 紀子の隣室に住んでいる。
- 平山實:村瀬襌(劇団ちどり)
- 幸一の長男。
- 勇:毛利充宏(劇団若草)
- 幸一の次男。
- 患家の男:遠山文雄
- 巡査:諸角啓二郎
- 艶歌師:三木隆
- 尾道の医者:長尾敏之助
作品データ
- 製作 : 松竹大船撮影所
- フォーマット : 白黒 スタンダードサイズ(1.37:1) モノラル
- 初回興行 :
- 同時上映 :
ロケ地
- 広島県尾道市(ロケ:1953年8月12日〜8月19日)[6][7][8]
- 東京都足立区
- 東京都中央区
- 静岡県熱海市
- 東京都台東区
- 東京都千代田区
- 大阪市中央区
- 東京都足立区
- 平山医院
- 荒川土手(88:21-88:28)
- 建設現場鉄骨(場所不明)[9](93:24-93:33)
- 平山医院
- 広島県尾道市
- 東京駅待合所以外の屋内シーンはすべて松竹大船のセットで撮影[注 6]。
- 主人公が住む町に尾道が選ばれた理由は、まず東京からの距離が作品内容に適合した場所として選定された[36]。当時の尾道-東京間の所要時間は約15時間。上京、帰郷が容易でなく、帰途に体調を悪くする程度の距離と時間。しかも途中に息子の一人が生活している大きな都会(ここでは大阪)がある。信州は従来小津が地方=非東京に設定した代表例だが、この映画のような物語的曲折を作るには距離が近過ぎる。また小津は東北地方に対する積極的関心は無いに等しく、すると自然と西日本ということになる[36]。1953年4月12日付の東京新聞には「老夫婦は山口県岩国あたりが郷里で北国の寒い環境ではなく、明るい内海を選んでいる」と書かれており、最初から尾道ありきではなく、瀬戸内海に面した山陽道の小都市を物色しているうちに"志賀直哉の尾道"が浮上したと考えられる[36]。小津が「瀬戸内海に面した小都市を背景にしたい」という意向を脚本家の野田高梧に伝え、小津も野田も志賀を敬愛していたため、志賀の『暗夜行路』の舞台となった尾道を、自分の映画に採り上げてみたいと考えたものと推察される[36][37][38][39][40]。この他、戦前松竹蒲田時代の大部屋俳優で、小津映画にも会社員や警官役でしばしば顔を出していた仲英之助(中英之助?)が、俳優を辞めて郷里尾道に帰っており、この頃には尾道市議会議員になっていて、協力を約束したこと[36][41]、また同じ松竹の脚本家・柳井隆雄のいとこが尾道の旅館「竹村家」を経営し、協力が得やすかったなどの諸条件が重なり、尾道ロケが決まったといわれる[7]。尾道の寂れて、どこか温かい風景が、作品の厳しいテーマを繊細に包み込み、忘れることのできない画面を生み出している[40]。
- ロケハン
- 小津は1953年6月24日から7月1日まで行われた尾道でのロケハン中[42]、自動車は一切使わず、連日坂の多い尾道を歩き回り、浄土寺、福善寺など小津好みのロケ地を探し当てた他[37]、志賀が若いころ住んだ志賀の旧居を見つけ出した[37][43]。小津は尾道ロケハン後、東京でのロケハンをはさみ、熱海ロケハンの際に当地に住む志賀を訪ねて、尾道のロケハン報告を行っている[38][43]。
- ロケ
- 1953年8月12日から8月19日の尾道ロケに参加した主要俳優は、笠智衆、原節子、香川京子の3人だけであるが[8][15][44]、当時、地方ロケは珍しく[7]、撮影現場には見物人が殺到した[7][28][41][45][46]。原節子が到着する時刻には尾道駅の入場券が3000枚売れた[31][46]、朝3時からの浄土寺ロケでは狭い境内に2000人見物客がいた[47]など、当時の逸話は絶頂にのぼりつめて行く娯楽の王者たる映画の人気が、地方都市で如何なる形で表現されたかを伝える[48]。当時の地元新聞には、ロケの誘致による尾道の観光効果を期待する記事が見られ、60年以上も前に今日いう"フィルムツーリズム"の概念が既に存在したことを物語る[8]。原は前作『白魚』のロケ中、東宝のカメラマンだった実兄・会田吉男が、原の眼の前で列車に撥ねられ不慮の死を遂げるという悲劇に遭い、その10日後の尾道入りだった[49]。作中に実名で登場する竹村家は、小津のほか原、笠、香川ら俳優陣も撮影期間の間宿泊した[7][8][50]。尾道での役者を使ったシーンは僅か5カットだったが[37]、通常の一人か二人という照明技師を15人を抱え込むなど、スタッフ50人という大部隊での尾道ロケであった[37]。5カットの撮影は簡単に終わったが、小津は昔ながらの尾道の実写風景に凝り「アスコも撮れ、ここも」と、たちまち1万フィートのフィルムを使い果たした[37]。暑いセットを抜けて避暑気分で乗り込んだロケ隊は、瀬戸内独特の凪にやられて汗だくになり疲れ果てたといわれる[37]。脚本家・高橋玄洋の父は当時、尾道市役所に勤めていてこのロケ対応の責任者だったという[51]。また後に「尾道三部作」を製作する大林宣彦も15歳のとき『東京物語』の撮影を見学したと話している[52]。映画の題名は『東京物語』ではあるが、本作は尾道ロケ映画のルーツでもある[53]。
- 戦後の小津作品は古都物も含めてほぼ標準語で通せるものであったが、この映画では老夫婦と次女に尾道弁が不可欠であった[48]。このため脚本の作成には二重の手続きを必要とした。尾道弁は広島弁より備後弁に近く習得は容易ではなかったが、その際に大いに利用されたのが、日本に輸入されて間もないテープレコーダーであった[48]。台詞に厳格な小津映画のため、この年6月尾道のロケハンで、脚本の細部の実地確認、言葉の訂正の問題もあり、撮影の厚田雄春だけでなく、野田高梧も同行し、人を集めて朝から晩までテープレコーダーを回し続けて当地の方言を収集し夜中まで台詞の訂正が行われた[37][46][48]。
- 本作は特に海外で評価が高いため、今でも外国人が浄土寺を訪ねてくるという[29][54]。2008年にはシャネルの社長が浄土寺へ来たという[54]。
エピソード
- 文芸評論家・川本三郎の説では、小津は映画製作前後に永井荷風の日記『断腸亭日乗』を読んでおり、本作品の舞台設定に荷風の日記の影響が見られるとある。
- 当初、三男のキャスティングは、小津と公私ともに親交があった佐田啓二を予定していた。しかしスケジュールが合わず、大坂が演じることになった。大坂の役は大阪の国鉄職員であるが、台詞に出身地の秋田訛りが抜けず、リハーサルを何度も繰り返したという。ついに『俺は、大坂志郎だから大阪弁が得意だろうと思ってお前をつかったんだ。それなら山形志郎と改名しろ』と小津に激怒され、大坂は号泣したという(『東京物語』LDおよびDVD・副音声の齋藤武市の証言より。「秋田」ではなく「山形」であるのは発言そのまま)。
- 『虹をつかむ男』では本作の映画を見るシーンがある。
- 2013年のドラマ『半沢直樹』の最終話で、香川照之演じる大和田常務が本作を観る場面がある。
リメイク
- 1967年9月14日・21日に、フジテレビ「シオノギテレビ劇場」において、前後編構成で放送。映画版で周吉の妻・とみを演じた東山千栄子が同じ役、同じく三男・敬三を演じた大坂志郎が長男・幸一を演じ、長女の夫を演じた中村伸郎も出演している。周吉役は宮口精二、紀子役は芦川いづみ、志げは木暮実千代が演じた。
- 1971年4月24日 - 12月30日(月1回、全9話)に、NHKで『海の見える家』の題名で放送。笠智衆が主演し、三益愛子、八千草薫らが出演した。ギャラクシー賞第17回期間選奨受賞。
- 1982年6月28日 - 7月23日に、NHK「銀河テレビ小説」において、『新東京物語』の題名で放送。出演は大友柳太朗、長岡輝子、檀ふみなど。
- 1989年2月25日に、TBS「土曜ドラマスペシャル」において、『新・東京物語』の題名で放送。出演は大滝秀治(周吉)、丹阿弥谷津子(とみ)、市毛良枝(紀子)など。
- 2002年7月6日に、フジテレビ系列「FNS27時間テレビ みんなのうた〜あの素晴らしい日本をもう一度〜」の番組内においてリメイク。設定を現代に置き換えている。出演は宇津井健(周吉)、八千草薫(とみ)、松たか子(紀子)など。また関東地区では2014年3月21日に、同年3月14日に逝去した宇津井の追悼企画として、「ドラマチックα」枠にて再放送された。
- 舞台では、三越劇場(2012年1月2日 - 1月24日)南座(2013年7月13日 - 7月21日)山田洋次の脚本・演出により劇団新派が初春新派公演として上演した。舞台化にあたり場所設定を終始長男の家に限定している。出演は水谷八重子(とみ)、安井昌二(周吉)、瀬戸摩純(紀子)など。
脚注
- 注釈
- ↑ 「ロー・アングル」とは異なる手法である。カメラの仰角を上げ、あおる手法である「ロー・アングル」に対し、小津の「ロー・ポジション」においてカメラがあおられることはない。「ロー・ポジション」(ロー・ポジ)では、低い位置にカメラを固定し、角度をわずかに上にあげていた。
- ↑ 厚田雄春の撮影記録によれば墨田区アヅマ町クリーニング屋と思われる[20]。
- ↑ 厚田の撮影記録に八重洲口改札口で、撮開23時、徹夜、前4時終了、オールスターなどと記されている[25]。
- ↑ この食事シーンではなく、笠が東京で旧友役の十朱久雄、東野英治郎と飲むシーン(62分頃)で「竹村家でか?」と話す場面がある。
- ↑ 平山周吉家として撮影された戸田家は2008年頃取り壊され新築された。庭木の一部のみ撮影当時の物が現存しているという[33]。
- ↑ 東京に帰る紀子(原)が形見の時計を見る客車内のシーン(127:46-128:15)は、大船駅の修理場で待機している本物の客車を借りて撮影[35]。
- 出典
- ↑ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)104頁
- ↑ 紀子 小津安二郎の戦後 - 文藝春秋BOOKS
- ↑ 四方田犬彦(『日本映画史110年』集英社新書 2014年p.158)は「小津はそれ【家族制度のゆるやかな解体】を、正面の切返し、構図のなかの人人物の大きさの厳密な調整、これ以上削れないほどに単純化された科白といった様式のもとに、臆することなく描いた。おそらくそれは日本映画史のなかでもっとも禁欲的なフィルムであるだろう」と評している。
- ↑ 末延芳晴『原節子、号泣す』(集英社新書)も指摘しているように、これはジョン・フォード監督の『わが谷は緑なりき』でモーリン・オハラとあらぬ噂を立てられて去ろうとする牧師ウォルター・ピジョンから息子が時計を受け取る場面から採っている。『東京家族』でも、紀子(蒼井優)が同じように義母の時計をもらう場面がある。
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参考文献
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- リブロ・シネマテーク 『小津安二郎東京物語』 リブロポート、1984年。ISBN 4-8457-0116-2。 - 全ショットを写真で構成
- 厚田雄春・蓮實重彦 『小津安二郎物語』 筑摩書房〈リュミエール叢書1〉、1989年。ISBN 4-480-87163-2。
- 田中眞澄 『小津安二郎周游』 文藝春秋、2003年。ISBN 978-4163651705。
- 『瀬戸内シネマ散歩』 吉備人出版、2009年1月。ISBN 978-4860692278。
- 貴田庄 『志賀直哉、映画に行く エジソンから小津安二郎まで見た男』 朝日新聞社〈朝日選書929〉、2015年。ISBN 978-4-02-263029-2。