ジョン・フォード
ジョン・フォード(John Ford、1894年2月1日 - 1973年8月31日)は、1930年代 - 1960年代を代表するアメリカ合衆国の映画監督。本名はジョン・マーティン・フィーニーだが、後年しばしば本名のゲール語形であるショーン・アロイシャス・オフィーニーあるいはオファーナ[1]を名乗った。
136本もの作品を監督し、西部劇や自身のルーツであるアイリッシュを好んで描き、情感豊かな作風から詩情豊かな映像の詩人と評された。
Contents
略歴・人物
生い立ち
1894年2月1日、アメリカメイン州のケープ・エリザベスに、アイルランド移民の子として生まれる。13人兄弟の末っ子であった。
映画界へ
高校卒業後の1914年、俳優兼監督として活躍していた兄のフランシスを頼って、フランシスの働くユニバーサル・ピクチャーズに入社。小道具係やスタントマンなどとして働き始める。やがて俳優となり、ジャック・フォード名義で、フランシスが監督・主演の『名金』やD・W・グリフィスの『國民の創生』などに出演した。
1917年、二日酔いで仕事が出来なくなった兄のフランシスに代わって助監督を務めるが、フランシスの演出シーンをユニヴァーサルの重役カール・レムリが気に入り、監督に昇進。同年に『颱風』で監督デビューを果たした。
初期
初期の頃は、低予算の西部劇専門の映画監督として活躍し、ハリー・ケリー主演の映画を26本手がける。1921年にフォックス社(後の20世紀フォックス)に移籍。1923年からジョン・フォードと改名し、翌1924年には大陸横断鉄道の建設を描いた大作『アイアン・ホース』で大きな評価を得て、一級監督となった。
1927年にドイツのベルリンを訪れ、F・W・ムルナウに直接映画技法を学んだ。1928年にはドイツ表現主義から影響を受けた『4人の息子』を発表している。後の作品にも表現主義から影響を受けたとされる照明・撮影技術が使われている。
アカデミー賞受賞
1930年代に入ると、西部劇はB級活劇ものとして衰退していき、ジョン・フォードもシリアスなドラマを手掛けることが多くなる。1935年に発表したアイルランド独立運動に命を賭けた男たちを描いた『男の敵』は、自身初のアカデミー監督賞に選ばれ、以降3度も受賞している(これは監督賞受賞最多記録で未だに破られていない)。
1939年、ヘンリー・フォンダを起用した『モホークの太鼓』と『若き日のリンカン』を次々に発表。そして同年、西部劇の金字塔『駅馬車』を発表。低予算映画ながらスピーディーなアクション・シーンと馬車に乗り合わせた登場人物たちの群像劇が見事に観客の心を掴んで大ヒットを記録した。また、B級映画俳優だったジョン・ウェインをこの作品で主演に起用し、以降フォード作品に数多く主演することになる。
その後、ジョン・スタインベックのピュリツァー賞作品を映画化した『怒りの葡萄』や19世紀イギリス・ウェールズ地方の炭鉱地帯を舞台にした家庭劇『わが谷は緑なりき』を発表。貧しくとも前向きに生きようとする家族の姿を力強く叙情豊かに描いて絶賛を浴びた。
海軍入隊と記録映画
元々海軍贔屓だったジョン・フォードは、1941年12月にアメリカが第二次世界大戦に参戦するとアメリカ海軍への入隊を志願し、後に戦略諜報局(OSS)の野戦撮影班へ『怒りの葡萄』の撮影監督グレッグ・トーランドらと共に参加した。
ミッドウェイ海戦では大日本帝国海軍の戦闘機が投下した爆弾の破片を受けて負傷したものの、海軍少佐として日本軍と対峙していた太平洋戦線や、ドイツやイタリアと対峙していたヨーロッパ戦線へ赴いて戦争ドキュメンタリー映画の製作や構成に尽力し、彼ら野戦撮影班が制作したプロパガンダ映画(1942年『The Battle of Midway』、1943年『December 7th』)はアカデミー短編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。
ジョン・フォードはまた、1944年のノルマンディー上陸作戦におけるオマハ・ビーチでの撮影にも参加している。なお2008年8月14日、米国立公文書館が公開した資料によって、モー・バーグや、俳優のスターリング・ヘイドンなどと同様に、ジョン・フォードがOSSのエージェントであった事が公になった[2]。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後は、同じくプロパガンダ映画である『コレヒドール戦記』をはじめ、1946年にはOK牧場の決闘を描いた『荒野の決闘』を監督する。この作品はその後たびたびリメイクされて、西部劇映画の定番テーマとなった。
同年、映画製作者のメリアン・C・クーパーらと独立製作会社「アーゴシー・プロダクション」を設立し、監督兼製作者として、騎兵隊三部作の『アパッチ砦』、『黄色いリボン』、『リオ・グランデの砦』を発表。また1950年には、朝鮮戦争を扱った記録映画『This is Korea』(1951年公開)の撮影のために日本に立ち寄り、帝国ホテルで淀川長治と対談している。
1934年の監督作『プリースト判事』をセルフリメイクした『太陽は光り輝く』(1953年)は、この時期の隠れた名作となっている。
その後、『長い灰色の線』 (1955年)などを撮影、同年には、ブロードウェイのヒット舞台の映画化『ミスター・ロバーツ』で、主演のロバーツ役を演じ、舞台で何度も同役を演じていたヘンリー・フォンダと意見の食い違いで対立、また撮影中に胆嚢炎で入院し、代理をマーヴィン・ルロイが務めることになった。
晩年
その後も『捜索者』(1956年)や、黒人兵への敬意を描いた法廷劇『バファロー大隊』(1960年)、それまで敵として描いていたインディアンの立場から描いた『シャイアン』(1964年)、などを発表。『リバティ・バランスを撃った男』(1962年)では、エンターテイナーとしての衰えない手腕を見せている。1966年に『荒野の女たち』を最後に長編映画からは引退した。
ジョン・フォードが監督として最後に手がけた作品は、海兵隊の英雄ルイス・"チェスティ"・プラー将軍に関するドキュメンタリー『Chesty: A Tribute to a Legend』であった。
同作はジョン・ウェインをナレーターに迎えて1970年に制作されたが、公開されたのはフォードの死後3年が経過した1976年になってからだった。1973年8月31日に、カリフォルニア州の自宅で胃ガンのため逝去した。
作風
西部劇映画では、西部の荒野の厳しい自然風景を壮大なスケールで描き、荒野に生きる男の心情を情感豊かに表現する作風で知られる。そんな作風から詩情豊かな映像の詩人と呼ばれ、多くの西部劇傑作を生み出していることから西部劇の神様とも呼ばれている。
ジャンルは西部劇だけでなく、冒険活劇、コメディ、社会派、戦争映画など多彩であり、典型的なハリウッドの職人監督であった。
アメリカ西部にあるモニュメント・バレーは、ジョン・フォードお気入りの撮影スポットであり、『駅馬車』以降のほとんどの西部劇作品をこの地で撮影している。特にフォードがこのんでカメラを設置した場所はジョン・フォードポイントと呼ばれ、モニュメント・バレーを一望できる有名なビューポイントとなっている。また、『駅馬車』の撮影ではこの地に住む先住民族ナバホ族が生活に困窮しているのを聞いて、彼らを裏方やエキストラとして雇用させて生活を助けたというエピソードがある。
俳優は、ヘンリー・フォンダ、ジョン・ウェイン、モーリン・オハラ、ヴィクター・マクラグレン、ベン・ジョンソン、ジョン・キャラダイン、ワード・ボンドなど、ジョン・フォードお気に入りの俳優を何度も起用していた。そんなジョン・フォード作品の常連俳優はフォード一家と呼ばれて親しまれていた。ウェインとは友人であり、ウェインがB級俳優の頃から自分の作品に出演させていた。『駅馬車』で主演に起用した後は、フォード作品の看板俳優として活躍したが、ウェインはスターになってからもジョン・フォードから木偶の坊扱いされていた。しかし、最後までジョン・フォードを尊敬していたといわれる。サイレント時代の作品ではハリー・ケリーがフォード作品の常連であったが、ケリーの息子のハリー・ケリー・ジュニアもフォード作品の常連俳優である。
移動撮影をあまり好まず、三脚の上にカメラが乗っていると機嫌が良かったという逸話があり、また後輩の監督などにもそういった指示を度々していた。また、撮影現場では雰囲気づくりにアコーディオンを演奏させていたという。
自然な演技を要求するために、リハーサルは繰り返さず、一つのカットを二回以上撮らずに最初もしくは二回目のテイクでOKを出すようにしている。アクションシーンの撮影ではリハーサルは絶対に行わないようにしていた。
評価・影響
1950年代後半から、それまで懐疑的だった「ヒッチコック =ホークス 主義」の「カイエ」派が晩年期のフォード作品に高い評価を与え、「作家主義」の映画作家としてのフォード評が高まるようになった[3]。
ジョン・フォードの作品・作風は、黒澤明、ジャン=リュック・ゴダール、リンゼイ・アンダーソン、ヴィクトル・エリセなど世界の映画関係者に数多くの影響を与えている。黒澤は、終世、ジョン・フォードを尊敬していた[4]。
エピソード
アイルランド系であることに強いこだわりを持っていた。ウェインをはじめジョン・フォードが好んで起用した役者の多くはアイルランド系である。
アイルランドとアメリカの気質の違いを描いた『静かなる男』で4度目のオスカー受賞となったが、赤狩り当時のハリウッドの反動的雰囲気を嫌っており、授賞式は欠席している。また赤狩りを支持していた『十戒 』などスペクタクル映画を手掛けたセシル・B・デミル監督を嫌い、公然と「君(デミル)が大嫌いだし、君が支持しているものも大嫌いだ」と批判している。
西部劇を代表する名作となった『駅馬車』だが、当時の制作側は、西部劇は時代遅れであるとして全員が製作に反対していたという。
女優のキャサリン・ヘプバーンとは、1936年の『メアリー・オブ・スコットランド』で初めて仕事をし、恋仲になるが、やがて別れている。ジョン・フォードが亡くなる直前にも見舞いに来ている。
ジョン・フォードは、生涯インタビューにはほとんど応じなかったという[5]。
主な作品
- 颱風 - The Tornado (1917)
- 西部の紳士 - A Gun Fightin' Gentleman (1919)
- アイアン・ホース - The Iron Horse (1924)
- オーロラの彼方 - Hearts of Oak (1924)
- 香も高きケンタッキー - Kentucky Pride (1925)
- 三悪人 - 3 Bad Men (1926)
- プリースト判事 - Judge Priest (1934)
- 肉弾鬼中隊 - The_Lost_Patrol (1934)
- 男の敵 - The Informer (1935)
- 周遊する蒸気船 - Steamboat Round the Bend (1935)
- テンプルの軍使 - Wee Willie Winkie (1937)
- ハリケーン - The Hurricane (1937)
- 四人の復讐 - Four Men and a Prayer (1938)
- サブマリン爆撃隊 - Submarine Patrol (1938)
- 駅馬車 - Stagecoach (1939)
- 若き日のリンカン - Young Mr. Lincoln (1939)
- モホークの太鼓 - Drums Along the Mohawk (1939)
- 怒りの葡萄 - The Grapes of Wrath (1940)
- 果てなき航路 - The Long Voyage Home (1940)
- タバコ・ロード - Tobacco Road (1941)
- わが谷は緑なりき - How Green Was My Valley (1941)
- ミッドウェイ海戦 - The Battle of Midway (1942)
- 真珠湾攻撃 - December 7th (1943)
- コレヒドール戦記 - They Were Expendable (1945)
- 荒野の決闘 - My Darling Clementine (1946)
- 逃亡者 - The Fugitive (1947)
- アパッチ砦 - Fort Apache (1948)
- 三人の名付親 - Three Godfathers (1948)
- 黄色いリボン - She Wore a Yellow Ribbon (1949)
- 幌馬車 - Wagon Master (1950)
- リオ・グランデの砦 - Rio Grande (1950)
- 静かなる男 - The Quiet Man (1952)
- 栄光何するものぞ - What Price Glory (1952)
- 太陽は光り輝く- The Sun Shines Bright(1953)
- モガンボ - Mogambo (1953)
- 長い灰色の線 - The Long Grey Line (1955)
- ミスタア・ロバーツ - Mister Roberts (1955)
- 捜索者 - The Searchers (1956)
- 荒鷲の翼 - The Wings of Eagles (1957)
- 騎兵隊 - The Horse Soldiers (1959)
- バファロー大隊 - Sergeant Rutledge (1960)
- 馬上の二人 - Two Rode Together (1961)
- 西部開拓史 - How the West Was Won (1962)
- リバティ・バランスを射った男 - The Man Who Shot Liberty Valance (1962)
- ドノバン珊瑚礁 - Donovan's Reef (1963)
- シャイアン - Cheyenne Autumn (1964)
- 荒野の女たち - 7 Women (1966)
- フォードの全作品 - John Ford filmography
受賞歴
アカデミー賞
ゴールデングローブ賞
ニューヨーク映画批評家協会賞
その他
- 受賞
- 1971年:ヴェネツィア国際映画祭栄誉金獅子賞
- 1973年:AFI生涯功労賞
脚注
- ↑ O'FeenyやO'FearnaなどO'-で始まる名前は『風と共に去りぬ』のヒロイン「スカーレット・オハラ」(en:Scarlett O'Hara)同様、アイルランド系の名前の典型とされる。
- ↑ 読売新聞 2008年8月15日「J・フォード監督の名も、米CIA前身の工作員名公開」記事
- ↑ サミー・デイヴィスJr.は『ハリウッドをカバンにつめて』(清水俊二訳、早川書房、ハヤカワ文庫)映画の嘘を「本物の人生じゃない」とバカにされると、ジョン・フォードが「事実と伝説のどちらかを選べと言われたときにはいつも伝説をとった」という言葉を紹介したと書いている。
- ↑ 黒澤明の自伝『蝦蟇の油』によると、敗戦直後の東京にフォードがいたことになっているが、蓮實重彦は黒澤の勘違いではないかという。
- ↑ ダン・フォード『ジョン・フォード伝 親父と呼ばれた映画監督』(文藝春秋)
関連項目
外部リンク
テンプレート:ジョン・フォード テンプレート:アカデミー賞監督賞 テンプレート:ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞