マクラーレン
マクラーレン・レーシング・リミテッド(McLaren Racing Limited)は、1963年にブルース・マクラーレンにより設立されたイギリスのレーシング・チーム。
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概要
1966年よりF1に参戦し続けている。1970年にブルース・マクラーレンの事故死後はテディ・メイヤーがチーム運営を引き継ぎ、1980年にロン・デニスが率いる「プロジェクト4」と合併した。
2017年シーズン終了時点で、グランプリにおける優勝回数、ドライバーズタイトル獲得回数、ともにフェラーリに次ぐ歴代2位、コンストラクターズタイトル獲得回数ではフェラーリとウィリアムズに次ぐ歴代3位の記録を持ち、F1を代表する名門チームの一角に数えられている。
その他のレースカテゴリーでは、カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am)において1967年から1971年にかけ5年連続でタイトルを獲得した。インディ500、ル・マン24時間レースにおいても優勝を記録している。
2017年現在、世界三大レースである「モナコGP、ル・マン24時間レース、インディ500」の全てを制したコンストラクター(車体製造者)[注釈 1]としても知られている。
タイトルスポンサーはヤードレー(1972年 - 1974年[注釈 2])→マールボロ(1974年 - 1996年)→ウエスト(1997年 - 2005年シーズン半ば)→ボーダフォン(2007年 - 2013年)と変遷しているが、現在はタイトルスポンサーが不在のため[1]、正式エントリー名は「マクラーレンF1チーム(McLaren F1 Team)」[2]となっている。
歴史
設立
1963年、ブルース・マクラーレン、テディ・メイヤー、テイラー・アレクサンダーらにより、ブルース・マクラーレン・モーターレーシングを設立。当初はタスマンシリーズなどにクーパーを走らせていた[3]。
1960年代
- 1967年
- この年もブルース・マクラーレンのみの1カーエントリー。新車開発の遅れから、シーズン序盤はBRMの旧型2L V8エンジンを搭載したM4B(元はF2用マシンのM4A)、シーズン中盤はイーグルのマシンを走らせた。BRMの新型V12エンジンが搭載された新車M5Aが登場したのはシーズン後半のカナダGPとなった[4]。
- 1968年
- この年より2台をエントリーし、Can-Amのデニス・ハルムをF1チームにも加える。開幕戦は前年のM5Aを使用したが、第2戦スペインGPからフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したM7Aを使用する。ブルース・マクラーレンはブランズ・ハッチで開催された非選手権で優勝を飾るとともに、第4戦ベルギーGPでチーム・マクラーレンにとってのF1初優勝を遂げた。ハルムもイタリアGPとカナダGPで連勝(カナダGPではチーム初のワン・ツー・フィニッシュを飾った)し、コンストラクターズランキング2位と大きく躍進した。シーズン終盤にはイーグルのダン・ガーニーがM7Aを使用した。また、この年のCan-Amでハルムがチャンピオンを獲得している。
- 1969年
- ブルース・マクラーレンは入賞8回でランキング3位。ハルムは最終戦メキシコGPで優勝し、Can-AmではM8Bを駆り年間2位となる。マシンは主に前年のM7Aを継続使用したが、F5000用マシンM10Aを流用したM7Cや、四輪駆動のM9Aも使用している[5]。
1970年代
- 1970年
- 6月2日、グッドウッド・サーキットでCan-Am用の新車M8Dをテストドライブしていたチームのボス、ブルース・マクラーレンがマシントラブルが原因で起きたクラッシュにより死亡[6]。この事件はチームにとって巨大な痛手であったが、チーム運営はテディ・メイヤーによって引き継がれ、引き続き、Can-Am、F1、F2、インディ500、F5000などへの参戦を継続し、いずれのカテゴリーにおいても目覚しい活躍を見せた。
- この年、F1では新車M14Aを使用。これとは別に、スポーツカーレース用に開発されたアルファロメオV8エンジンをM7D(M7Aを改変)およびM14D(M14Aを改変)に搭載した。ドライバーは当初ハルムとブルース・マクラーレンが引き続き務めていたが、ブルースの死後は旧友だったガーニーがF1とCan-Amにスポット参戦したのち、新人ピーター・ゲシンが起用された。アルファロメオエンジン搭載車は主にアンドレア・デ・アダミッチがドライブした[7]。Can-Amではハルムがチャンピオンに返り咲き、その栄誉を亡きブルースに捧げた[8]。
- 1971年
- ドライバーはハルムとゲシンが残留。シーズン半ばにジャッキー・オリバーが加わったが、ゲシンはBRMへ移籍した。新車M19Aのデビュー戦となる開幕戦南アフリカGPで、ハルムは優勝目前まで行きながらマシントラブルで6位[9]。結局この年は表彰台に立つことはできず、コンストラクターズランキング6位に終わった。
- 1972年
- ドライバーはハルムが残留し、前年のCan-Amチャンピオンのピーター・レブソンが8年ぶりにF1復帰。レブソンがアメリカのレース日程とバッティングした時はブライアン・レッドマンが代走を務めた。最終戦アメリカGPではジョディ・シェクターがスポット参戦でF1デビューを果たした。マシンは前年のM19Aおよびその改良版のM19Cを使用。この年からヤードレー化粧品がスポンサーとなり、カラーリングがオレンジからホワイトに変更された。ハルムが南アフリカGPで優勝し、表彰台圏内11回と高い信頼性を誇り、コンストラクターズランキング3位に浮上した。
- F1以外ではペンスキーチームのマーク・ダナヒューの手により、コンストラクター(車体製造者)としてインディ500初優勝を遂げた。そして同年末には充分な成果を残したCan-Amから撤退し、以後はF1とインディに集中することを決めた。
- 1973年
- ドライバーはハルムとレブソンが残留、シェクターも引き続きスポット参戦。ドイツGPのみジャッキー・イクスもスポット参戦した。序盤はM19Cを使用したが、第3戦南アフリカGPからゴードン・コパック設計のくさび形マシンM23が登場し、ハルムが85戦目で初のポールポジションを獲得、レブソンは2勝(イギリスGPとカナダGP)を挙げた。シェクターは5戦ノーポイントに終わったが、南アフリカGPとフランスGPではトップを走る好走を見せた。コンストラクターズランキングは前年と同じ3位となった。
- マールボロと契約し、以降「マールボロカラー=マクラーレン」という関係は長期にわたって続くこととなった。この年は3台体制を敷き、残留したハルムとロータスから移籍したエマーソン・フィッティパルディがマールボロカラーで出走し、3台目は前年同様ヤードレーカラーを纏い、マイク・ヘイルウッドがドライブした。ヘイルウッドがドイツGPで負傷した後は、デイビッド・ホッブスとヨッヘン・マスが代走を務めた。ちなみにこの2社とも以前はBRMをスポンサードしていた。フィッティパルディとクレイ・レガツォーニ(フェラーリ)とのタイトル争いは最終戦までもつれ込んだが、フィッティパルディが2年ぶり2度目のドライバーズタイトル(マクラーレンとしては初)を獲得するとともに、初のコンストラクターズタイトルを獲得した。ハルムは開幕戦アルゼンチンGPで勝利するが、この年をもってF1を引退した。
- 一方、インディ500においてもジョニー・ラザフォードによって2度目の優勝が果たされ(マクラーレン「チーム」としてはインディ500初優勝)、F1とインディに集中した決断が正しく報われた年となった。このふたつのカテゴリーを同じ年に制したのは、1965年のロータスに次ぐ2例目であった。
- 1975年
- ドライバーはフィッティパルディが残留、前年終盤に加わったマスとの2台体制。フィッティパルディはしぶとく入賞を重ねるも、フェラーリのニキ・ラウダのスピードに付いていくことができず2勝止まりで2位。チームメイトのマスはスペインGPで初勝利を挙げた。コンストラクターズランキングは3位に後退。
- 1976年
- ドライバーはマスが残留、フィッティパルディに代わりジェームス・ハントが加入。M23は4年目となったが依然戦闘力が高く、シーズン途中に投入したM26はオランダGPでマスが出走した1戦のみにとどまった。この年もラウダが選手権をリードしていったが、第10戦ドイツGPでラウダが瀕死の重傷を負ってからはハントが勝利とポイントを重ねていき、チャンピオン争いは最終戦F1世界選手権イン・ジャパンまでもつれ込んだ。雨で混乱したレースとなった中でハントは3位に入賞し、ポイントでラウダを逆転して王座を獲得した。
- インディ500においてまたもジョニー・ラザフォードにより、マクラーレン製シャシーとして3度目、マクラーレンチームとしては2度目となる優勝を遂げた。
- 1977年
- ハントとマスのコンビは変わらず。ジル・ヴィルヌーヴがイギリスGPで、ブルーノ・ジャコメリがイタリアGPでそれぞれスポット参戦及びF1デビューを果たした。M23も既に時代遅れになりつつあり、前年登場したM26をシーズン半ばから実戦投入した。ハントはM26で3勝(イギリスGP、アメリカ東GP、日本GP)したが、チャンピオン争いには加われなかった。
- 1978年
- ハントは残留、マスに代わりパトリック・タンベイが加入。ジャコメリも数戦出走した。前年同様M26を使用するが、この年のF1を席巻したロータス・79をはじめとしたグラウンド・エフェクト・カーの台頭により急速に戦闘力を落としていき、表彰台はフランスGPの1回のみに終わり、コンストラクターズランキングも8位と低迷した。
- 1979年
- タンベイは残留、ハントに代わりジョン・ワトソンが加入。マクラーレン初のグラウンド・エフェクト・カーとなるM28を投入し、M28B、M28Cと改変していくがいずれも失敗に終わり、イギリスGPからM29を投入したが、低迷を脱することはできなかった。
- この年をもって、参戦意義が薄くなったとしてインディ500から撤退した。
1980年代
1980年 - 1984年
- ワトソンは残留、タンベイに代わり新人アラン・プロストが加入。前年型のM29を改良したM29B、M29Cでシーズンを戦い、後半には旧チームとしては最終型のM30を1台投入した。プロストは開幕2戦で連続入賞を果たしたが、マシンの競争力、信頼性は決して高くはなく、第3戦南アフリカGPでは、走り出して最初のコーナーでフロントサスペンションマウントが破損するなど、トラブルが度々発生した。マシントラブルによるクラッシュでプロストがケガを負うこともあった(プロストがケガで欠場したアメリカ西GPはスティーブン・サウスが代走)[6]。シーズン終了後、それまでのマクラーレンと、マールボロの後ろ盾を元にロン・デニスのF2チーム「プロジェクト4」が合併、長年に続くデニス主導のチーム体制が構築された。プロストは複数年契約をチームと結んでいたが、「合併でできた新チームは従来のチームとは別のチーム」という論理で契約を破棄し、ルノーへ移籍した。
- 1981年
- ジョン・バーナードの設計によりカーボンファイバー製のモノコックを採用した初のF1マシン、MP4/1を出走させた。このモノコックは、アメリカユタ州のソルトレイクシティにあるハーキュリーズが実際の製造を請け負った[6]。車両は広く「マクラーレン」と呼ばれるが、この「MP4」は「マールボロ・プロジェクト4」を意味するものである[6]。プレス発表時のマシン名表記は"Marlboro MP4/1"とされ、シーズン中盤からはノーズに「Marlboro MP4」というロゴステッカーが貼られた。このMP4/1で戦闘力を取り戻し、ワトソンがイギリスGPでチームに4年ぶりの優勝をもたらした。チームメイトのアンドレア・デ・チェザリスは経験不足からクラッシュを度々起こしたが、無傷の生還を繰り返すことで皮肉にもカーボンファイバーモノコックの安全性を証明することになった。
- 1982年
- 1979年途中でF1を引退していた元ブラバムのニキ・ラウダを復帰させることに成功。前年に登場したMP4/1を改良したMP4/1Bを使用し、ワトソンとともに4勝をあげトップチームへの復帰を果たした。シーズン終了後、テディ・メイヤーの持つ株を買い取りデニスがチームの実権を掌握する。
- 1983年
- フラットボトム規制に伴い改変されたMP4/1Cを使用したが、もはやノンターボのDFVやDFYではターボエンジンには対抗できず、第2戦アメリカ西GPでワトソンが優勝した1勝[注釈 4]のみで、第5戦モナコGPでは2台とも予選落ちとなってしまった。TAGの協力を得て[注釈 5]、ポルシェがターボエンジンを開発することになり、第12戦オランダGPからTAGのバッジネームを付けたポルシェ1.5リッターV6ターボエンジンを搭載したMP4/1Eが投入され、ラウダは同マシンをドライブ。ワトソンも次戦イタリアGPからMP4/1Eをドライブした。残りのレースは、結果的に来シーズンの準備となった。1987年まで使用されるこのエンジンは、マクラーレンからオーダーされるかたちで設計・製作されたので外形寸法などもバーナードから厳密に指定され、車体デザインの自由度を広げる面でも大きく貢献した。
- 完全新設計のMP4/2シャシーを投入。ラウダのチームメイトとしてプロストが4シーズンぶりに復帰。ドライバーズタイトル争いはこの二人によって繰り広げられ、全16戦のうちラウダが5勝、プロストが7勝の計12勝をあげた。最終的にラウダがプロストをわずか0.5ポイント差で下し、自身7年ぶり3度目のワールドチャンピオンに輝いた。マクラーレンにとって、ドライバーズタイトルはジェームス・ハント以来8年ぶりで、コンストラクターズタイトルは10年ぶり2度目であった。ちなみにマクラーレンはレースのたびに、ふたりのドライバーがマシンを壊すことなくピットに戻ってくるので、シャシーにかけていた保険を解約した[10]。なお、4シーズンに渡ってタイヤ供給を受けていたミシュランが、このシーズンでF1から撤退した。
1985年 - 1989年
- 1985年
- 前年に引き続きコンストラクターズチャンピオンを獲得した。ドライバーズチャンピオンは、ラウダを下してプロストが初めて獲得した。この年、キャラミで行われた南アフリカグランプリにて投入されたMP4/2Bの6号車が、完全にマクラーレンのファクトリーで自製された初のモノコックである[6]。ヨーロッパGPでは腕を負傷したラウダに代わってワトソンが2年ぶりに復帰した[注釈 6]。この年をもってラウダが2度目の(そして最後の)引退を表明した。
- 1986年
- コンストラクターズタイトルはホンダエンジンを搭載したウィリアムズに奪われたが、ドライバーズタイトルはプロストが最終戦で7ポイント差を逆転し、前年に引き続きドライバーズタイトルを獲得した。引退したラウダに代わってケケ・ロズベルグがウィリアムズから移籍したが未勝利に終わり、同年をもって引退した。
- 1987年
- タイトルは獲得できなかったが、プロストが3勝を上げた。新たなチームメイトのステファン・ヨハンソンは2位2回を含む表彰台5回に終わった。シーズン途中のイタリアGPで翌年の体制発表を行い、ホンダエンジンの獲得とアイルトン・セナのチーム加入を公表した。マクラーレンは前年にもホンダエンジン獲得を狙っていたが果たせずにいた(1986年6月にデニスとプロストが来日しホンダにエンジン供給を要請したが、既にホンダはウィリアムズとロータスの2チームへのエンジン供給を決めた後で、要請を断らざるを得なかった[11])。
- プロストとセナのラインナップと新設計のMP4/4、ホンダエンジンの組み合わせは、16戦中15勝[注釈 7]という圧倒的な成績を残し、コンストラクターズとドライバーズの両タイトルを獲得した。唯一優勝を逃したイタリアGPはプロストがエンジントラブル、セナはトップを走りながら、第1コーナーで周回遅れのジャン=ルイ・シュレッサーと接触してストップしたというもので、ドライバーいずれかが完走したレースは必ず優勝した。この年はポールポジションも15回獲得し、獲得したコンストラクターズポイントは199ポイントで、2位のフェラーリに対し134ポイントもの差をつけた。
- 前年同様の布陣でダブルタイトルを獲得するが、深刻な問題が発生した。前年の第13戦ポルトガルGPでのレース中にセナがチームメイトであるプロストに幅寄せをしたことから両者の間に不協和音が生じ始め、この年のサンマリノGPにおいて、「1コーナーの通過順位をオープニングラップにおいては守る」というチームメイト間の紳士協定をセナが破ったことによって、プロストとセナの亀裂は決定的なものとなり、その後シーズン途中でプロストがチーム離脱を発表した。第15戦日本GPではシケインでお互いに道を譲らずに接触し、両者のエンジンは停止した。セナは復帰しトップでチェッカーを受けたが、プロストによる抗議にシケイン不通過(後に押しがけに変更)との裁定が下され、セナはレース後に失格となった。これによりプロストの3度目のチャンピオンが決まった。
1990年代
1990年 - 1994年
- 1990年
- アラン・プロストがフェラーリへ移籍したため、フェラーリからゲルハルト・ベルガーをセナのチームメイトに迎えシーズンを戦った。だが、時のマクラーレンは他チームより空力やシャシー開発に遅れを取っており[注釈 8]、特に空力性能で優位性を築いたフェラーリによって苦しめられ、タイトル争いは前年同様に第15戦日本GPまで持ち込まれ、ここでコンストラクターとドライバーの両タイトルを確定させた。しかし、日本GPのスタート直後の1コーナーでセナがプロストに激突したことで両者リタイアによってセナの2度目のチャンピオンが決まり、マンセルのフェラーリがマシントラブルでストップしたことでコンストラクターズタイトルも決定するという後味の悪い面もあった。また、前年からライバルたちは新技術や空力の研究に力を入れつつあったのに対し、依然として保守的な設計に強力なエンジンを組み合わせるというマシン開発を行ってきたため、他チームより空力やシャシー開発に遅れを取っていることが目立ち出すシーズンの始まりであった。
- ホンダが前年から開発していたV12エンジンを導入し、空力やシャシー開発の遅れのテコ入れとしてライバルのフェラーリから加入したアンリ・デュランによって一定の改善が図られたマシンでシーズンを戦った。その結果、セナが当時の新記録となる開幕4連勝を達成。けれど、シーズン中盤はルノーエンジンを搭載したウィリアムズが、戦闘力を増し追い上げてきた。特にエンジントラブルやテレメトリーのミスによるガス欠でのストップ等もタイトル争いで苦戦する要因となった。こうした状況に至って、シーズン途中でアクティブサスペンションとセミオートマチックトランスミッションの開発に着手した。序盤戦に広げた差を詰められながらも結果的には逃げ切り、第15戦日本GPでセナが2年連続のドライバーズタイトルを獲得した。コンストラクターズタイトルも、最終戦オーストラリアGPまでもつれたものの4年連続で獲得した。日本GPでは「スタート直後の1コーナーに先に入った方が優勝とし、後ろに回ったものがマンセルをブロックする」と両ドライバー間で約束をしたが、レース途中にベルガーのペースが上がらずセナがベルガーを抜いてしまった。そのままレースは進行したものの、セナが最終周の最終コーナーでベルガーを前に出して優勝を譲った。
- この年、チームの無線はスクランブルがかかっていたはずであるが、ブラジルGPのチェッカー後のセナの声が地元テレビ局によって傍受されたことはチームサイドに衝撃を与え、翌年から使用する予定だったケンウッドの無線をこの年の日本GPから前倒しして使用し始めることとなった。
- 後藤治がホンダを退社し、マクラーレンに移籍。同社でロン・デニスに次ぐエグゼクティブ・エンジニアに就任する。
- 1992年
- 体制そのものは前年と同じ布陣で、序盤戦を信頼性の高い前年の改良型MP4/6Bで戦った後に新型MP4/7Aを出す予定だったが、ウィリアムズもFW14元来の空力性能とルノーV10エンジンのトータルバランスの良さに加え、アクティブサスペンションなどのハイテク装備を満を持して投入した改良型FW14Bの戦闘力に圧倒され、第3戦ブラジルGPで、マクラーレン初のハイテク搭載車としてセミオートマチックトランスミッション、F1では初となる「ドライブ・バイ・ワイヤ」と呼ばれるコンピューター制御のアクセルシステムを導入したMP4/7Aが予定より前倒しで投入するも、空力性能面だけでも依然としてFW14Bに大きく見劣りするなど、特にエンジンパワーで空力性能の弱点を補う手法が完全に通用しなくなったシーズンとなり、結局5勝を挙げるにとどまり両タイトルいずれも逃す結果になった。この年を以ってホンダは第2期F1参戦に終止符を打つ形で撤退した。
- CARTのチャンピオンであるマイケル・アンドレッティと、ロータスから移籍してきたミカ・ハッキネンがチームに加入した。セナは休養するという話もあったが、結局開幕前に契約し、参戦。ハッキネンはセナが戻った場合、テストドライバーとなる契約であった。その後、セナは第8戦のフランスGPまではレース毎に参戦契約を交わしていた。フォードワークス仕様のエンジンを供給されていたベネトンに対し、カスタマー仕様のフォード・コスワース・HBエンジンでパフォーマンスも劣っていた。ロン・デニスの政治力で第9戦からはベネトンと同じワークス仕様のエンジン供給契約を結んだ結果、セナとも第9戦以降の全戦出場の契約を結んだ。
- この年のMP4/8は大幅な空力面の改良を施し、ハイテク装備は他のチーム以上のレベルであったが、ルノーエンジンより50馬力から70馬力も劣るとされるフォードエンジンのパワー差と、シャシーの性能面でも依然としてウィリアムズとの差は大きかった。しかし、前年に供給されていた大きくて重いホンダV12エンジンが軽量なコスワースV8に代わったことにより、マシンの重量バランスの改善に繋がり、結果戦闘力が向上。結果的にセナ一人で前年と同じ年間5勝を挙げた。最終戦のオーストラリアGPではこの年唯一のポールポジションをセナが獲得し、ウィリアムズの全レースポールポジション獲得を阻止した。コンストラクターズランキングもベネトンとの争いを制してウィリアムズに次ぐ2位となった。
- アンドレッティは開幕戦からリタイアが続き、シーズン終盤の第13戦イタリアGPでの3位表彰台を最後に契約解除となりアメリカへ帰国、これを受けてテストドライバーを務めていたハッキネンが残りの3レースを走る事になった。ハッキネンは復帰初戦となった第14戦ポルトガルGPでいきなりセナを予選で上回り、第15戦日本グランプリでも初の3位表彰台を得て、ウィリアムズへの移籍が決まったセナ離脱後の翌年以降のエースに伸し上ることとなった。
- シーズン中にはアメリカのビッグ3の一つであるクライスラー社からの依頼でクライスラーV12エンジン(ランボルギーニエンジンをこのテスト用に改良したもの)をテストしたが、「あくまでも依頼されたテスト走行」と言う位置づけであったことに加え、同時期にプジョーから多額の契約金付きの契約オファーがあったため、そちらを優先して契約を結んだ。
- ハッキネンとマーティン・ブランドルのコンビとなる。MP4/8のデザインを踏襲したMP4/9に、前年のフォード・コスワースからワークスのプジョーエンジンに乗せ換えた。前半戦はエンジンの信頼性が低く頻発するエンジントラブルによって苦しめられ、第5戦スペインGPではハッキネンがトップを走っていたが、エンジンブローでリタイアした。第7戦フランスGPでは、よりによってプジョーにとっては同国のライバルであるルノーの看板の前で2台ともエンジンブローを起こし、イギリスGPではスタート直後に、ブランドルがエンジンブローとなるなど散々な結果であった。これに業を煮やしたチームは複数年契約だったプジョーとの契約をわずか1年で破棄する事を決断、翌年はイルモアが開発するメルセデスエンジンへと変更することをシーズン終了前に発表し、2シーズン連続のエンジンサプライヤーの交代となった。後半戦からは信頼性も上がり表彰台にも8回上がったが、1980年以来14年ぶりの「未勝利」に終わる。
1995年 - 1999年
- ナイジェル・マンセルと契約を結ぶが、コックピットが狭いことを理由にマンセルは開幕から2戦は参戦せず、チームは代わりにマーク・ブランデルをレース毎の契約で乗せることとした。マンセルは第3戦サンマリノGPと第4戦スペインGPで走ったが、予選でミカ・ハッキネンより遅く、決勝でもそれぞれ10位とリタイアであった。それ以降、マンセルはチームを去る。元々ロン・デニスとマンセルは「犬猿の仲」であったが、メインスポンサーであるマールボロが元ワールドチャンピオンのマンセルを欲しがったため、もしくはセナの死によりスター不在を憂慮したバーニー・エクレストンらの意向が働いたなど、いずれにせよ政治的要因での加入であった。それゆえ、シーズン開幕以前の段階で多くのF1関係者が、デニスとマンセルの契約関係が早期に破局すると予想していた。
- MP4/10はエアインテーク上にセンターウィングを搭載し、当時としてはユニークなデザインをしたマシンであった。メルセデスエンジンとのマッチングや空力が弱く、戦闘力不足はウィリアムズ、ベネトン、フェラーリと比べると明らかで、シーズン中にMP4/10B、MP4/10Cとモディファイされた。
- ハッキネンが虫垂炎になり、第15戦パシフィックGPではテストドライバーのヤン・マグヌッセンを起用した。マグヌッセンにとっては、マクラーレンでのレース出場はこの1戦のみであった。第16戦日本グランプリでは復帰したハッキネンが2位入賞した。しかしハッキネンは、最終戦オーストラリアGPの予選中、パンクが原因でコンクリートウォールに激突し、選手生命を左右しかねない重傷を負った。ハッキネンを治療に専念させるため、アラン・プロストがアドバイザー兼テストドライバーとして迎え入れられた。
- 1996年
- 1月のテストを、ウィリアムズから移籍してきたデビッド・クルサードとアドバイザーであるプロストで進めていた。ミカ・ハッキネンも2月に戻ってきて3か月ぶりにドライブし、いきなりフェラーリのミハエル・シューマッハを凌ぐタイムを叩き出し、速さを示した[12]。ハッキネンが開幕戦から参戦できる目処もつき、ハッキネンとクルサードのドライバーズラインナップになった。このコンビは2001年まで続く。MP4/11は前半戦でハンドリングに悩まされたが、後半戦からサーキットによりショートホイールベース仕様のMP4/11Bを投入した。信頼性の向上で完走&入賞数は増えたものの、依然として速さに課題を残すシーズンとなった。
- このシーズンをもって23年間、メインスポンサーだったマールボロとの関係が終了。慣れ親しまれた「赤・白」のカラーリングも見納めとなった。この訣別により、同シーズンで契約を終了するハッキネンがマールボロの後押しでフェラーリへ、ウィリアムズのデイモン・ヒルが加入するという移籍話も出てきたが、結局第15戦ポルトガルGPでマクラーレンはハッキネンの残留を発表した[13]。
- ウィリアムズのチーフデザイナーであったエイドリアン・ニューウェイが11月にウィリアムズから離脱し、マクラーレンとの契約を締結。しかし、ウィリアムズは契約が残っていることを訴え、法廷闘争に持ち込んだ。ニューウェイは契約解除ができなくなり、この時点ではいつからマクラーレンに加入できるかは未定だった。
- 1997年
- インペリアル・タバコのドイツ向けブランドであるウエストがタイトルスポンサーとなった。この年のMP4-12より、車体形式番号の表記の区切りが従来のスラッシュ「/」からハイフン「-」に変更されている。開幕戦オーストラリア・第13戦イタリアGPでクルサードが、最終戦ヨーロッパGPでハッキネンがF1で初優勝し、年間で計3勝をあげた。その一方でハッキネンがトップを走っていた第9戦イギリスGP、第14戦オーストリアGP、そして4年ぶりにポールポジション(ハッキネンが獲得)に返り咲いている第15戦ルクセンブルクGPとメルセデスエンジンのトラブルによりリタイアをし、信頼性に課題を残すシーズンとなった。技術陣では契約上の問題をクリアしたニューウェイがテクニカル・ディレクターとして第11戦ハンガリーGPから加入。その後、マシン開発に拍車がかかり、翌年への明るい材料となった。
- シーズン終了後にグッドイヤーが「1998年をもってF1から撤退する」と発表したため、同年まであった同社とのタイヤ供給契約を破棄し、1997年12月のテストからブリヂストンタイヤへ変更することになった。
- 1998年
- 前年の12月から、今シーズン仕様の各パーツを載せたMP4-12Bは、ブリヂストンタイヤの理解も兼ねて約8,000kmを走りこみ、MP4-13への開発に繋げた。開幕戦オーストラリアGPでは1-2フィニッシュして3位以下を周回遅れにしたが、トップ走行中のクルサードが56周目にハッキネンを前に出すチームオーダーが発生。この行為をオーストラリアのプレスや主催者はレースの精神に反すると批判したが、擁護するプレスもいた[14]。ちなみにマクラーレンの言い分は「むやみなチームメイト同士のバトルを避けるために“スタートで1コーナーに先に入ったドライバーに勝つ権利がある”という取り決めをしていた。ハッキネンが一時2位に落ちたのも、チームの無線ミスによりピットインを1回多くしていたから」であった。第2戦ブラジルGPからチームオーダー禁止となったが、具体的な罰則内容はこの時点では何も決まっていなかった。さらに同GPのレーススチュワードはフェラーリからの抗議を認め、MP4-13のブレーキ・ステアリング・システムを使用禁止とする。もともとマクラーレンは、開幕前にFIAの技術部門からレギュレーションに反していないという承認をもらい、使用していた。
- 最終的にはハッキネンが8勝、クルサードが1勝をあげ、1991年以来のドライバーズタイトル&コンストラクターズタイトルを獲得した。ブリヂストンにとっても初ポール・初優勝・初ダブルタイトルと初物づくしのシーズンとなった。ブリヂストンタイヤを装着するマクラーレン・メルセデスを駆るハッキネンと、グッドイヤータイヤを装着するフェラーリを駆るミハエル・シューマッハの対決が話題を呼び、最終戦日本GPまで、もつれ込む展開となった。
- 予選ではハッキネンが全16戦中ポールポジションを11回獲得し、決勝ではハッキネンが5勝、クルサードが2勝をあげたものの、MP4-14の信頼性不足に悩まされ、ピット作業やチーム戦略のミスが重なり、苦戦を強いられた。また、フェラーリが第8戦イギリスGPまではミハエル・シューマッハ、第9戦オーストリアGPからエディー・アーバインと、優先するドライバーを明確に決定していたことに対し、マクラーレンではチャンピオンになったハッキネンとクルサードを第14戦ヨーロッパGPまで、平等に扱う戦略を採っていた。結果的にオーストリアGPと第12戦ベルギーGPで両者接触を招き、オーストリアGPではアーバインにポイントを献上することとなった。第15戦マレーシアGPで決勝後、フェラーリが競技審査委員会からディフレクターの寸法違反で一旦失格になり、ハッキネンのワールドチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンが決まりかかった。しかし、5日後のパリで開かれたFIAの国際控訴裁判所でフェラーリの逆転無罪となる。タイトル争いは最終戦日本GPまでもつれ、アーバインに4ポイント差であったハッキネンが逆転優勝し2年連続のワールドチャンピオンに輝いたものの、クルサードはスプーン・コーナーの手前でスピンしてフロントウィングとサスペンションを破損し、リタイア。コンストラクターズタイトルはフェラーリに奪われてしまった。
2000年代
2000年 - 2004年
- MP4-15を使用したこのシーズン、3連覇を狙うハッキネンは開幕戦オーストラリアGPと第2戦ブラジルGPでメカニカルトラブルを被り、ポイント獲得に出遅れた。また、オーストラリアGPでのスタートの速さについてフェラーリから抗議が出て、第4戦イギリスGPから電子制御系の新ルールが施行され、メルセデスエンジンの燃費悪化に繋がり、柔軟なピットストップ作戦が取れなくなった[15]。そして、フェラーリはマクラーレンとは違い、明確にミハエル・シューマッハをNo.1体制にして戦い、F1-2000の速さと信頼性で着実に勝ち星を上げ、ポイントを積み重ねていた。クルサードはメカニカルトラブル1回、失格1回以外は完走する安定した走りをしたため、中盤戦はハッキネンよりポイント数を上回り、一時期シューマッハのライバルと見られていた。ハッキネンは第8戦カナダGP終了時点で、ポイントリーダーのシューマッハに最大24ポイント差をつけられていたが、シューマッハが第9戦フランスGPをメカニカルトラブルで、第10戦オーストリアGPと第11戦ドイツGPで接触事故による計3戦連続リタイアをしている間に、ハッキネンはクルサードと共にシューマッハとの差を縮めていた。第12戦ハンガリーGP開始時点では1位シューマッハ56ポイント、2位クルサードとハッキネンが54ポイントで同点、4位ルーベンス・バリチェロ46ポイントと、鎬を削り合っている状況であった。ハンガリーGPと第13戦ベルギーGPでハッキネンが連勝し、第14戦イタリアGPでシューマッハが勝利し、ハッキネンが2位、クルサードとバリチェロは接触でリタイアし、タイトル争いはハッキネンとシューマッハの二人に絞られていた。しかし第15戦アメリカGPでシューマッハが勝利し、ハッキネンは痛恨のエンジントラブルでリタイアし、シューマッハはハッキネンに8ポイント差をつけてポイントリーダーに返り咲いた。残り2戦でこの差が響き、ドライバーズタイトルとコンストラクターズタイトルをフェラーリに奪い取られた。
- 増大するテストワークの負荷を分散するためとレギュラードライバーが欠場したときの対策のため、サードドライバーとしてオリビエ・パニスの加入は、MP4-15の開発に貢献と効果をもたらした。1997年よりブリヂストンを使用し、またレギュラードライバー時代の豊富な経験もあるパニスは、チームに膨大な情報をもたらした。パニスは翌2001年のレギュラーシートをB・A・Rに確保するという、当時としては珍しいキャリアを築くことに成功した。当時、レギュラードライバーからテストドライバーになったドライバーが、再度レギュラードライバーになることは珍しいことであった。マクラーレンのテストドライバーは、翌2002年はアレクサンダー・ヴルツ、2003年にはペドロ・デ・ラ・ロサが担当し、強力な布陣を敷くことに成功した。
- 新レギュレーション施行により、フロントウィングの搭載位置が5センチメートル上昇・ロールフープの強化・耐サイドインパクト強化・エンジンのシリンダーブロックにベリリウム合金の使用禁止[注釈 9]など、昨シーズンのMP4-15がMP4-13やMP4-14の発展型であったのに対して、MP4-16は完全に新設計されたマシンであった。
- 開幕戦オーストラリアGPではハッキネンが25周目に、右フロントサスペンションのアームが突然折れ、デニスが作戦上、ハッキネンが勝てたレースと語っているが[16]、3年連続の開幕戦リタイアで始まった。後にハッキネンはこの事故で引退について初めて考えたと吐露している[17]。ここからハッキネンは第10戦フランスGPまでに、2戦に1回の割合でメカニカルトラブルを被り、チャンピオンシップ争いから脱落した。特に第3戦ブラジルGP、第6戦オーストリアGP、フランスGPと3つのグランプリでスタート時にグリッドから動けずに0周リタイアに終わっている。第5戦スペインGPでは、2位に40秒もの大差をつけて、トップを独走していたファイナルラップに入った直後、油圧系トラブルにより裏ストレート手前でストップして、シーズン初優勝を逃した。2位走行していたフェラーリのミハエル・シューマッハに優勝をさらわれた事はハッキネンのモチベーションを著しく下げた。結果的にハッキネンは第15戦イタリアGPで休養宣言をし、翌年の第12戦ドイツGPで正式に引退を発表した。
- クルサードはモナコGPでポールポジションを獲得したが、ラウンチコントロールのトラブルで最後尾からのスタートとなった。中盤戦まではこれ以外にメカニカルトラブルもなく2勝してポイントを重ねたが、速さでミハエル・シューマッハに差をつけられた。第11戦イギリスGPでジョーダンのヤルノ・トゥルーリとの接触事故でリタイアしたことにより、クルサードはタイトル争いから脱落した。最終戦日本GPではハッキネンに順位を譲られ3位入賞し、フェラーリのバリチェロと争っていたドライバーズランキング2位を手に入れた。10度の表彰台を得て自身最高のドライバーズランキング2位となったものの、チャンピオンのミハエル・シューマッハには、ほぼダブルスコアの大差をつけられた。
- 前シーズンでエアロダイナミクス担当のアンリ・デュランと、コンポジット担当のスティーブ・ニコルズがチームを去り、テクニカル・ディレクターのエイドリアン・ニューウェイが、友人でもあるジャガーのチーム代表兼CEOのボビー・レイホールに誘われ、ジャガーと契約した。デニスはニューウェイを説得し、ジャガーへの移籍を翻意させることに成功したが、その間にマシン開発が頓挫したこともフェラーリに独走された要因の一つとなった[17]。
- 2002年
- この年からキミ・ライコネンを抜擢したが、前年からのチーム内の乱れが尾を引き、車の本格的な熟成作業はヨーロッパラウンドに入ってからになった。、この年からタイヤメーカーをブリヂストンからフランスのミシュランへ変更したが、苦戦を強いられた。この年はモナコGPでクルサードが挙げた1勝にとどまり、タイトル争いに加わることができなかった。
- 2003年
- トップチームが揃って、熟成された新車投入ができなかったため、旧型を大幅に改良させたマクラーレンが、開幕戦をクルサード、第2戦をライコネンが勝利するなど、順調なスタートを切ったが、特にクルサードが新予選方式に対応できず、下位のグリッドに沈み、追い上げるも表彰台は遠く、足を引っ張ることとなる。一方、ライコネンがわずか1勝ながらしぶとくポイントを稼ぎ、最終戦までシューマッハを追い詰め、ドライバーズランキングではわずか2ポイント差のランキング2位の成績を収めた。この年からミシュランタイヤ専用とも言える「MP4-18」を投入するはずであったが、十分な信頼性と戦闘力を得る事が出来ずにお蔵入りとなり、旧型の改良版の「MP4-17D」でシーズンを戦い抜いた。また、シーズン途中ではあったがデ・ラ・ロサを臨時でテストした後にフルタイムテストドライバー契約を結び、ヴルツとの2名によるテストチーム体制を整えている。
- 前年と同じ体制で、昨年デビューするはずだった幻のMP4-18を新ルールにあわせて改良したMP4-19を投入するが、MP4-18が持っていた弱点はMP4-19では改善出来ておらず(新車が間に合わなかったため基本的にMP4-19はMP4-18と同じ車であったと後にエイドリアン・ニューウェイが語っている)、第11戦のイギリスGPでようやく本来の新車が「MP4-19B」としてデビューした。これはマクラーレンのチーム関係者も、チームが2年連続で新車開発に失敗した結果である、と、後に認めている。このイギリスGPでライコネンがシーズン初の表彰台に登りその後も表彰台に登るが、優勝はベルギーGPの1勝にとどまり、コンストラクターズランキングは3位から5位へと後退した。クルサードにとってはマクラーレン最後のシーズンであったが、一度も表彰台に登ることなく9年間在籍したチームを去っていった。
2005年 - 2009年
- 2005年
- ライコネンのチームメイトにファン・パブロ・モントーヤを迎える。シーズン当初は信頼性不足などで出遅れたが、ヨーロッパラウンド以降は、ルノーのフェルナンド・アロンソと激しいタイトル争いを繰り広げる。MP4-20はハンガリーGPから日本GPまでの6連勝を含む、1989年以来となる2桁勝利の10勝を挙げる。しかし、ライコネンを襲った4度のエンジントラブルをはじめ、信頼性の低さはいかんともし難く、結果としては惜しくもチームもライコネンもランキング2位に終わってしまった。
- この年は、前年コンストラクターズランキングを5位で終えたため、金曜日のフリー走行でサードカーを走らせる権利を得て、デ・ラ・ロサとヴルツがグランプリにより交替で担当した。レギュラードライバーのモントーヤがテニス中に肩を負傷するというアクシデントに見舞われたわれたため、バーレーンGP、サンマリノGPの2戦をそれぞれデ・ラ・ロサ、ヴルツが代役として出場し、バーレーンでデ・ラ・ロサは5位入賞を遂げるとともにファステストラップを記録し、サンマリノではレース後の繰上げではあるがヴルツが3位入賞した。
- 第13戦のハンガリーGPの金曜日(7月29日)をもって、1997年以来のタイトルスポンサーであったウエストとの契約を終了した。これはヨーロッパにおけるタバコ広告規制の強化を受けてのものである。7月30日以降のカラーリングは、それまでタバコ広告禁止国で開催されるGPで用いた手法と同様に、従来「West」のロゴがあったサイドポンツーン、ノーズ、コクピットサイド、レーシングスーツ、ヘルメットにはドライバーの名前をオリジナルデザインで表記し、チームスタッフには「West」のロゴ表記が消されたウエアとスーツが支給された。
- 2006年
- 前年までチームのテクニカルディレクターであったニューウェイがレッドブルへ移籍。また2005年のDTMチャンピオン、ゲイリー・パフェットがテストドライバーに加わることになり、それに伴って5年間という長期にわたってテストドライバーを務めたヴルツがウィリアムズのテストドライバーとして移籍した。
- 2005年のマシンMP4-20が圧倒的な速さを誇っていたこともあり、シーズン開幕前はライコネン&マクラーレンはこの年のチャンピオンの筆頭候補であった。しかし前年までの3.0リッターV10から2.4リッターV8へのエンジンルール変更に対応しきれず、メルセデスが十分な戦闘力を持つエンジンを提供できなかった。加えてこの年のマシンMP4-21自体もニューウェイ不在の影響からか熟成が進まず、前年にタイトルを争ったルノーとフェラーリの後塵を拝することとなった。ライコネンが3度のポールポジションを獲得するなど時折速さも見せ、結果としてはコンストラクターズランキングこそ3位を確保したものの、1996年以来10年ぶりのシーズン未勝利に終わってしまった。
- モントーヤがF1に嫌気がさしたため7月9日、翌2007年からはアメリカのNASCARシリーズへ移籍(チームはチップ・ガナッシ・レーシング)することを発表。アメリカGPを最後にF1から離れる事になった。しかし、この発表がチーム首脳には直前になって知らされたこともあり、双方の合意の下シーズン途中で契約が解除され、テストドライバーのペドロ・デ・ラ・ロサがフランスGPよりレギュラードライバーとして、シーズンの残りのレースに参戦した。
- ライコネンがフェラーリへ移籍。代わりに2005年、2006年のワールドチャンピオンであるフェルナンド・アロンソが加入し、チームメイトとして2006年のGP2チャンピオンのルイス・ハミルトンがF1デビューを果たすことになった。マクラーレンのドライバーが2名とも同時に入れ替わるのは初のことである。またメインスポンサーがイギリスの携帯電話会社のボーダフォンになった。
- 開幕戦はフェラーリに移籍したライコネンに敗れるが、アロンソ、ハミルトン共に速さを発揮し2006年の不振からの復活をアピールした。続く第2戦マレーシアGPでは見事フェラーリを破り、2005年ブラジルGP以来の1-2フィニッシュを達成した。第13戦のイタリアGP終了時までは、ドライバーズポイントで1位と2位、コンストラクターズポイントでも首位に立っており、コンストラクターズについてはほぼチャンピオンを手中に収めかけていた。しかしシーズンが進むにつれて、アロンソ、ハミルトンのチームメイト間の確執が現れるようになり、ハンガリーGPでは予選でアロンソがピットストップ時間を稼いだことで、ハミルトンが最後のアタックに間に合わずアロンソがポールポジションを獲得。しかしこの行為によりアロンソは5グリッド降格、チームにはハンガリーGPでのコンストラクターズポイントは加算されないというペナルティを受けた。さらにコンストラクターズポイントは後述の産業スパイ事件により全ポイントを剥奪されコンストラクターズタイトルの座を失うこととなった。残されたドライバーズタイトルは、ハミルトンが首位のまま中国GPを迎えた。このレースの結果次第では、ハミルトンのチャンピオンが確定するところだったがキャリア初のリタイアを喫する。そして最終戦のブラジルGPでランキング3位にいたライコネンに両ドライバーとも1点差で逆転を許してしまいドライバーズタイトルを逃した。このレースではウィリアムズとBMWザウバーの給油装置から、測定した燃料温度が低すぎる事実にもかかわらず、両チームにペナルティを科さないというスチュワードの裁定に対してマクラーレンはFIA国際控訴裁判所に控訴した。[18]11月15日、測定された燃料温度および大気温について疑いがあることから、両チームにペナルティを科さないことを決定しマクラーレンの控訴を却下した。[19]入賞者のニコ・ロズベルグ(ウィリアムズ)、ニック・ハイドフェルド(BMWザウバー)、ロバート・クビサ(BMWザウバー)などが失格になるとライコネン(フェラーリ)でなくハミルトンがドライバーズチャンピオンになるとわかったうえでの控訴だといわれていることから、このことに対してマクラーレンに在籍していたアラン・プロストやニキ・ラウダは、ロン・デニス代表とマクラーレンを同年の“最大の悪あがき王”と批判した。しかし、マクラーレンCEOのマーティン・ウィットマーシュは「ドライバーズチャンピオンのためではなく、燃料規則の明確化および規約の一貫性のために我々はこの控訴を提出した[20]」と言っている。
- ドライバーは、ハミルトンが残留、アロンソは2年契約の2年目だったが契約解除となり、代わりに2007年ルノーに所属していたヘイキ・コバライネンが加入した。テストドライバーは、引き続きデ・ラ・ロサとパフェット。コバライネンは2008年シーズン中に2009年もマクラーレンに残留することが発表された。
- 新車(MP4-23)の発表会は、初めてドイツのシュトゥットガルトのメルセデス本社で行われた。
- 2008年シーズンは、ハミルトンとフェラーリのフェリペ・マッサとの熾烈なチャンピオン争いが繰り広げられたが、最終戦のブラジルGPでハミルトンが1ポイント差で逃げ切り、ドライバーズタイトルを手にする(チームとしては1999年以来のチャンピオン輩出)。コンストラクターズランキングは2位。
- 11月に、フォース・インディアがマクラーレンとの技術提携を結んだことが発表された(2009年シーズンより、エンジン類の供給もフェラーリからメルセデスにスイッチすることが決定している)。
- 2009年
- 新車のMP4-24の発表会で、ロン・デニスがチーム代表から退くことが発表された。後任は前CEOのウィットマーシュ[21]。しかし、デニスは、今後もチームに深く関わっていくつもりであることを宣言しレース界からの引退は否定した。
- 開幕戦オーストラリアGPでのセーフティカー先導中にハミルトンがヤルノ・トゥルーリを追い抜いた件について、「当時の無線記録及びメディアへの発言」と「スチュワードからの事情聴取」で、逆とも言える説明を行う。事情聴取時点では全無線記録が参照できなかったため、一旦はマクラーレン・ハミルトン側の主張が認められたが、後に無線記録が証拠として検証されスチュワードへの偽証・ミスリードが発覚。オーストラリアGPの結果から抹消された。
- この件で、マクラーレンチームとしては事情聴取に出席したデイブ・ライアンを翌週停職処分に。同時に事情聴取に出席していたハミルトンは「スチュワードへの情報提供を控えるようにライアンから言われた」と説明、それ以上の処分・ペナルティはなかった。
- その後、4月29日にパリでWMSCの臨時会議が開かれ、「ペナルティは3戦のグランプリ出場停止とする。ただし、今後12か月において、この件に関して新たな証拠が発見された場合、もしくはチームによってさらなるインターナショナル・スポーティングコードの151c項違反が行われた場合のみに適応する。」との裁定を下した[22]。
- 4月16日にマクラーレングループ全体の再編が発表され、市販車部門であるマクラーレン・オートモーティブがグループから離脱し、さらにデニスが同社の会長に就任しレース部門から完全に引退することが明らかにされた[23]。レース部門のCEOにはウィットマーシュが返り咲く。
- 開幕からしばらくはMP4-24に競争力がなく、表彰台に上がれないレースが続いたが、大幅なアップデートを行ったドイツGPから競争力を取り戻し、ハンガリーGPとシンガポールGPでハミルトンが優勝。最終的にコンストラクターズランキングはフェラーリを抑えて3位となった。
- 11月16日にダイムラーがプレスリリースを発表し、ブラウンGPの76.1%の株式を取得、2010年よりメルセデスGPとして参戦する事を発表した。それに伴いメルセデスとマクラーレンのパートナーシップは解消されるが、新たに2015年までのエンジンが供給される事が発表された。
2010年代
2010年 - 2014年
- 2010年
- ドライバーはハミルトンが残留、コバライネンに代わって前年度チャンピオンのジェンソン・バトンが加入した。
- 革新的なシステムであるFダクトを搭載したMP4-25は高速サーキットで戦闘力を発揮し、ライバルチームの注目の的となった。シーズン序盤に難しいコンディションを読みきったバトンが一番乗りに2勝をあげる。その後レッドブルの同士討ちを尻目にハミルトンが2連勝を挙げポイントリーダーになり、中盤以降までシーズンをリードした。しかし、シーズンもうひとつのトレンドであった、レッドブルが搭載するブロウンディフューザーの開発に苦しみ失速。レッドブルとトップ争いをしていたのがフェラーリにも遅れを取り始めた。後半はハミルトンは連続リタイア、バトンは痛いノーポイントレースがあり、最終的にはハミルトンが年間4位(3勝)、バトンが同5位(2勝)となり、コンストラクターズポイントでは2位となった。
- 2011年
- ドライバーはハミルトンとバトンが残留。
- ハミルトン(中国、ドイツ、アブダビ)、バトン (カナダ、ハンガリー、日本)ともに3勝をあげた。ドライバーチャンピオンシップはバトン2位(270ポイント)、ハミルトン 5位(227ポイント)。チャンピオンはレッドブルのセバスチャン・ベッテル。コンストラクターズチャンピオンシップもレッドブルに次ぐ2位となった。
- 2012年
- ドライバーはハミルトンとバトンが残留。
- 開幕戦オーストラリアGPにてバトンが優勝。ハミルトンも3位となった。ハミルトンはカナダGPでシーズン初優勝。しかし、シーズン中盤の地元GPであるイギリスGPでは、ハミルトンが8位、バトンが10位に沈む。その後の4戦では3勝と2位が1回と活躍したが、ピットストップにて問題が発生したり、開発が進んだMP4-27もピレリタイヤとの相性に苦しんだ。また、車に信頼性がないため能力を発揮できずポインを獲得できないことが多かった。シンガポールGPやアブダビGPにおけるハミルトンがトップ走行中に問題が発生してのリタイアが最たる例である。
- ドライバーチャンピオンシップでは、ハミルトンが4位、バトンが5位となった。コンストラクターズチャンピオンシップでもレッドブル、フェラーリに支配されたシーズンであったため3位となった。
- ハミルトンがメルセデスへ移籍し、代わりにザウバーからセルジオ・ペレスが加入。またスポンサー面でもボーダフォンが同年限りでのスポンサード終了を発表する一方で[24]、メキシコ人であるペレスの支援目的でテルメックスなどメキシコ系企業が新たに加わるなど、チームラインナップに大きく変化が見られた。
- また同年5月には、2015年まで契約が残っていたメルセデスとのエンジン供給契約を1年前倒しして2014年一杯で終了し、2015年からはホンダエンジンの供給を受けることを発表した。ホンダは2008年の撤退以来7年ぶりの復帰となる。
- この年はバトンが最終戦ブラジルGPで記録した4位が最高で、表彰台がゼロとなる1980年以来の大不振に終わった。コンストラクターズランキングではレッドブルが独走し、メルセデス、フェラーリ、ロータスが2位争いをする一方で、マクラーレンは大差をつけられた5位であった。ドライバーズランキングではバトンが9位、ペレスが11位。なお、完走扱いを含め、両ドライバーとも全戦完走を果たした。
- シーズン終盤の11月、ペレスがわずか1年でチームを離脱[25]、後任として育成ドライバーのケビン・マグヌッセンを起用することが発表された[26]。ウィットマーシュによると新人であるマグヌッセンの下積みとして下位チームのシートを探したものの、あるチームに契約を破棄され、ペレスを放出してマグヌッセンを自チームに起用せざるを得なかったとのこと[27]。
- 2014年
- 1月16日、ロン・デニスがマクラーレン・グループのCEOに復帰し、F1チームをその権限下に置くことを発表[28]。さらに2013年までロータスのチーム代表であったエリック・ブーリエがレーシングディレクターとしてチームに加入することが発表された。正式加入は2月3日[29]。当面チームは、チームCOOのジョナサン・ニールとブーリエが共同で代表を務める[30]。一方で前チーム代表のウィットマーシュについては、チームのWebサイトから名前が消え事実上更迭されたものの去就が不明となっていたが[31]、同年8月に正式に離脱が公表された[32]。
- ドライバーはバトンが残留。パートナーはペレスに代わりケビン・マグヌッセンが起用された。またリザーブドライバーとしてストフェル・バンドーンが起用された。[33]
- この年は開幕戦オーストラリアGPこそマグヌッセンが2位、バトンが3位と2人のドライバーが2012年ブラジルGP以来となる表彰台を獲得するも、2戦目以降はバトンの4位が最高で表彰台圏内に入ることなくシーズンが終了した。
- 7月には最古参のスポンサーであるヒューゴ・ボスがメルセデスの支援に切り替えると発表された。
- シーズン終了後の12月11日に2015年のドライバーとしてフェラーリからフェルナンド・アロンソの獲得を発表。アロンソは2007年以来のマクラーレン復帰となる。なお、マグヌッセンはリザーブドライバーとして残留することとなった。
2015年 -
- ドライバーはバトンが残留。フェラーリからアロンソが2007年以来のチーム復帰。前年、レギュラードライバーだったマグヌッセンはリザーブドライバーとなった。また、パワーユニットは20年間使用し続けたメルセデスから予定通りホンダへと変更された。ホンダのF1復帰は2008年以来、マクラーレンがホンダエンジンを搭載するのは1992年以来となる。
- だが、V6ターボエンジンとERSシステムに苦しみ、ヘレスのテストで、アロンソがクラッシュするなどランキングは下位に低迷。だが、そんな中でもモナコでバトンがホンダエンジン勢初入賞を決めると、イギリスでアロンソが、ハンガリーでは悲願のダブル入賞を決めた。
- ただ、パワーの劣るマシンを走らせるアロンソとバトンはフラストレーションが溜まる一方で、カナダGPではチームからの(パワー不足のため)燃料をセーブせよという無線の指示にアロンソが「こんなドライビング、まるでアマチュアのようじゃないか。僕はレースをする。燃料のことは後で集中するから」と断り[34]、日本GPでもアロンソが無線で「GP2のエンジンかよ! GP2だ!」とパワー不足のエンジンに不満を漏らした[35]。コンストラクターズ選手権9位とチーム創立以来ワーストの結果となってしまった。それでも最終戦では、バトンがホンダエンジンよりも圧倒的に性能の優れているメルセデスエンジンを搭載するウィリアムズのバルテリ・ボッタスをおさえたりアロンソがレース中のラップタイムで3番目に速いタイムを出すなどシーズン前半と比べると性能が向上していることが伺えた。
- 同年限りでリサーブドライバーを務めていたマグヌッセンがチームを去りルノーへ移籍した。
- この年をもってポルシェ時代からチームのスポンサーを続けていたタグ・ホイヤーがレッドブルにスポンサー先を変更した。翌年からモエ・エ・シャンドンがスポンサーとなり、「CHANDON」のロゴを掲示することになった。
- ドライバーはアロンソとバトンが残留。
- 開幕戦オーストラリアGPでアロンソがエステバン・グティエレスとの接触で大クラッシュを喫し肋骨骨折と肺虚脱を患ったため[36]、次戦バーレーンGPはリザーブドライバーのストフェル・バンドーンが代走することになった[37]。同GPがデビュー戦となったバンドーンが10位入賞を果たし、チームに今シーズン初のポイントをもたらした[38]。なお、アロンソは第3戦中国GPで復帰を果たしている[39]。第4戦ロシアGPでアロンソが6位、バトンが10位となりダブル入賞を果たした。第5戦スペインGPではアロンソがマクラーレン・ホンダ復活後初のQ3進出を果たした。続く第6戦モナコGPでもアロンソがQ3進出、決勝ではアロンソが5位、バトンが9位に入り2度目のダブル入賞。オーストリアGPでは、天候がめまぐるしく変わる中で、バトンが予選5位を獲得し前車2台のペナルティにより3番手スタートとなった(決勝は6位入賞)。ハンガリーGPではアロンソとバトンが揃ってQ3進出を果たした。ベルギーGPではアロンソが最下位スタートからスタート直後の混乱をかいくぐり一時4位まで浮上。パワーコースのスパ・フランコルシャンで最終的に7位入賞を果たした。続くイタリアGPではポイントこそ獲得できなかったものの、アロンソがファステストラップを記録するなど着実な進化を見せた。最終的にドライバーズランキングはアロンソ10位、バトン15位となりコンストラクターズランキングは6位となった。この年をもってバトンが引退した。
- 一方、1980年からチーム運営に関わっていたロン・デニスが11月15日に行われた株主総会を受け、マクラーレン・テクノロジー・グループの会長兼CEOを辞任した[40]。後任のCEOが決まるまでの運営は多数株主から成る執行委員会が暫定的に引き継ぐ[41]。同月21日、ザク・ブラウンがエグゼクティブディレクターの職に就くことに同意し、翌月正式に就任すると発表した[42]。なお翌年デニスは手持ちのチームの株式を全て売却し、37年に及ぶマクラーレンとの関係を完全に解消した[43]。
- メキシコGP前に、翌年からこの時点で最も大口スポンサーだったモービルが離脱し、レッドブルへの支援に切り替えると発表された。
- 2017年
- アロンソが残留し、バンドーンがレギュラーに昇格。引退したバトンはアンバサダーという形でチームに残留[44]。元チャンピオンのミカ・ハッキネンがアンバサダーとしてチームに復帰した[45]。ロン・デニスの離脱に伴い、マシン名称がMP4からMCLに変更され「MCL32」となった[46]。なお、燃料メーカーがモービルに代わり、BP/カストロールとなる[47]。
- プレシーズンテストでホンダPUの信頼性およびパワー不足が露呈し、ホンダとの関係悪化[48]が露呈した。ただ、マクラーレン側はこの時点(少なくともシーズン序盤)ではホンダと協力して行く姿勢を見せており[49]、設計変更した「RA617H」の性能次第で決断するという状況で提携解消はあくまで最後の手段という段階で留まっていた。開幕戦オーストラリアGPではアロンソがサスペンションのトラブルでリタイアするまで入賞圏内の10位を走っていたが、アロンソは「通常のコースなら僕たちはもっとも遅いだろう」と酷評している[50]。4月12日、アロンソはインディ500への参戦を表明し[51]。日程が重なる第6戦モナコGPはバトンが代走を務めることになった[52]。その直後の第3戦バーレーンGPではホンダPUのトラブルが連日発生する事態となり、バンドーンはスタートすらできず[53]、アロンソも「こんなパワー不足でレースをしたことはない!」と無線で叫ぶほどの状況の中走行したが[54]、完走目前でエンジントラブルが発生してリタイア(14位完走扱い)した[55]。第4戦ロシアGPでもバンドーンはフリー走行初日に、アロンソは決勝前のフォーメーションラップでERSのトラブルが発生しスタートできなかった。スペインGPではアロンソが予選7番手を獲得するが決勝では接触などで順位を落としてしまい12位フィニッシュ。この時点で唯一のノーポイントチームとなってしまった。アロンソが欠場したモナコGPは予選でバンドーンとバトンが揃ってQ3に進出したが、決勝は両者リタイアで終わり、2015年のチームワーストを更新する開幕6戦ノーポイントとなった[56]。第7戦カナダGPではアロンソがレース終盤まで入賞圏内の10位を走行していたが、パワーユニットにトラブルが発生して入賞を逃した。アゼルバイジャンGPでアロンソが9位に入り、ようやくシーズン初ポイントを獲得した。
- だが、ベルギーGPではレースパフォーマンスに対する不満を無線で繰り返し訴え、雨が降らないことを確認すると突如エンジントラブルを訴えてリタイア。これについて「アロンソがパフォーマンスの低さに嫌気が差して故意にリタイアした」との疑念が持たれるも否定するという一幕があった[57]。これ以降アロンソはホンダPUを擁護する一面がなくなり[58]、アロンソはレース後に「ホンダエンジンでなければフロントローを取れた」と発言[59]を筆頭に政治的な駆け引きが目立つようになり、ホンダPU批判かつマクラーレンのシャシーへの称賛へ傾注していくようになる。また、チーム残留の条件としてちらつかせるなど[60]して暗にエンジン変更を強要するような姿勢を打ち出した。この頃になるとマクラーレンも徐々にエンジン変更に向けて動き出す。当初はホンダとザウバーが仮契約を結んだことを受け[61]、これに合わせてマクラーレンもホンダと手を切ると噂されていたが、ザウバーは変更によってマシン開発に影響が出るリスクを許容できなかったため[62]、ホンダとの契約を破棄。その後他のPUの供給を打診するも、メルセデスとフェラーリはこれを拒否[63]。残るはルノーのみだったが、すでにルノーは3チームに供給しておりレギュレーションにより3チームを超えて供給することが制限されているため、ルノーが4チームへの供給に難色を示したこともあって供給を受けるには他のチームがルノーとの契約を破棄する必要があった。しかしトロ・ロッソがホンダPUを搭載するとの噂が流れると、そのトロ・ロッソが現在契約しているルノーPUをマクラーレンが手に入れることができる可能性が出てきた[64]。トロ・ロッソにすればホンダからのPU独占供給およびワークス待遇を受けられ、さらに親チームのレッドブルにも将来的にホンダからのワークス待遇を受けられる見込みもあり、三者にとって都合のいい展開であった。しかしルノー側はトロ・ロッソとの契約終了の代わりにカルロス・サインツJr.の獲得を要求したこともあり、状況が複雑化。そして第14戦シンガポールグランプリのフリー走行1回目の後に、ホンダとの契約を2017年いっぱいで解消することが発表され、同時に2018年からルノーのワークス仕様パワーユニットの供給を受けることが発表された[65](同時にサインツのルノーへの「レンタル移籍」、ホンダとトロ・ロッソの2018年からのPU供給契約も発表)。パワーユニット変更を発表したシンガポールGPと次のマレーシアGPでバンドーンが7位入賞を果たした。アロンソは終盤3戦で連続入賞を果たし、辛うじてバンドーンのポイントを上回った。
- かつて一時代を築いた「マクラーレン・ホンダ」の復活は3年で幕を閉じるという不本意な結果に終わった。ホンダPUのパフォーマンスの低さにマクラーレンが我慢の限界で手を切るという形になったが[66]、バーニー・エクレストンは「いろんなことがうまくいかなかったのはホンダのせいではない。マクラーレンのせいだ」と指摘、「毎日毎日、彼らは協力して働くのではなく、あらゆることで戦いをしかけていた。愚かなことだ」とマクラーレン側の態度を批判[67]。他にも、ホンダに対しPUの設計に条件を付けることやホンダによる財政支援のメリットを軽視する姿勢などを批判している者もいる[68]。また、アロンソについては政治的駆け引きの一環でホンダばかり批判しているという見方もある[69]。
- アロンソが参戦するインディ500は、アンドレッティ・オートスポーツの協力の下「マクラーレン・ホンダ・アンドレッティ」のエントリー名で戦うことになった[70]。形は大きく異なるが、1979年以来38年ぶりにインディ500でマクラーレンの名が復活することになった。アロンソは初参戦で予選5番手となり、決勝でも27周でラップリーダーとなったが、ここでもエンジントラブルが発生しリタイアとなった[71]。
- 2018年
- ドライバーはアロンソとバンドーンが残留。燃料メーカーはペトロブラスとスポンサー契約。開幕前のテストではシャシー関連のトラブルが多かったうえ[72][73]、初歩的なトラブルもあり[74]、アロンソは速さを見せたものの、満足な周回をこなせなせずにテストを終えた。そのため、マクラーレンに対し疑念を抱くメディア[75]がこの頃から存在していた。
- 開幕戦オーストラリアGPではアロンソが5位、バンドーンが9位とダブル入賞。第5戦まで連続入賞を果たし、チームが本命と称する「Bスペック」を導入した第5戦でアロンソが今季初のQ3進出を達成した。しかし同じPUを積むレッドブルとルノーが開幕戦から安定してQ3進出や上位あるいは表彰台を獲得しているのに比べると見劣りしたうえ、中盤に入り勢いに陰りが見られ、パフォーマンスが期待ほど向上せず前年ホンダに全責任を押し付けてきた(=シャシー性能だけは高いと考えていた)マクラーレンに対し「実際はシャシーにも不振の原因があったのでは」という疑念の目が向かれ始める[76]。アロンソは前年にもシャシー関連を賞賛しながら、同年のマレーシアGPの後に2018年はレッドブルと比較されるプレッシャー[77]があるというコメントをしてチームへ懸念を示していた。そして、フランスGP予選の終了後にアロンソが前年のPU批判から手のひらを返すように「クルマが遅いんだよ」とチーム側をストレートに批判[78]している。また、チームも前年の豪語から一転して予防線を張るような発言[79][80]が増えている傾向である。
- 他にも、元F1ドライバーで解説者のジョリオン・パーマーは、パフォーマンス、信頼性、コストの3つの観点から「(マクラーレンは)高い金を払って恥を晒しただけ」と評し[81]、元代表のウィットマーシュはチーム内に不協和音が生じているとする一部報道を認めた上で、「マクラーレンは取り組み方を大きく変える必要がある。主要メンバー間に政治的なしがらみが多過ぎる。私は、彼らの多くはチームを去るべきだと思っている」とコメント[82]。前年まで在籍していたバトンも「非常に良いシーズンを送っている」と前置きした上で「“F1でベストのシャシー”と豪語したことで、期待外れの印象を与えている」とチームの姿勢に苦言を呈している[83]。
- 7月4日、レーシングディレクターのブーリエが更迭され、ジル・ド・フェランがスポーティングディレクターとしてチームを統括することが発表された[84]。8月14日、アロンソは「2019年シーズンはF1に参戦しない」ことを表明し、今季限りのマクラーレン離脱が確定。ただし「F1引退」という表現は用いずに将来のF1復帰の可能性に含みを持たせた[85]。
- 8月16日、アロンソの後任にカルロス・サインツの加入が発表された。
マクラーレンの産業スパイ疑惑
2007年7月、フェラーリの元チーフメカニックであるナイジェル・ステップニーがチームから技術に関する秘密情報を持ち出し、マクラーレンのマシンデザイン部門を統括するマイク・コフランに提供したとされる疑惑である。これにより、マクラーレンは同年のコンストラクターズポイントを剥奪された。
フェラーリはイタリアとイギリスに告発し、両国当局が捜査を進めていた。その中で家宅捜索に入ったマクラーレン関係者の自宅から、780ページ分に及ぶフェラーリの機密情報が記録されたディスクが発見されたことなどで徐々に表面化、FIAも独自に調査を開始した。
- 7月12日 - FIAはフェラーリの機密情報が何者かに持ち出され、マクラーレン側に極秘に提供されたとする事実を告発した。マクラーレン側は疑惑の関与を否定した。
- 7月26日 - 世界モータースポーツ評議会 (WMSC) に公聴会が開かれた後、評議が行われ、国際競技コードの第151c条に違反しているが機密情報が使用された証拠がないため、証拠不十分としてマクラーレンに対するペナルティは課されないことが決まった[86]。
- 9月5日 - FIAは166ページに及ぶ疑惑に関する新たな証拠を提出、WMSCが関係者を招集し公聴会の開催を決定する。
- 9月13日 - WMSCが公聴会を開き、その後再審理を行われた結果、以下の処分がFIAから発表された[87]。
- 2007年のコンストラクターズポイント剥奪、今シーズンの残りのレースもポイントを獲得できない。
- ポイント剥奪によって失われる収支を含め、1億ドル(約114億円)相当の罰金を課す。
- チームのドライバーに対しては証拠提出の見返りとしてペナルティを科さない(ドライバーズポイントはそのまま)。
- WMSCは、2008年のマクラーレンの車体に関する技術レポートを受け取り、2007年12月の会議の中でチームの2008年シーズンに関する制裁措置を行うかを決定する(マクラーレンは次シーズンの車体にフェラーリが使用している技術を一切使用していないことを証明しなければならない)。最悪の場合、1シーズン出場停止になる可能性もある。
- 10月24日 - マクラーレンが受け取るはずだった賞金やテレビ分配金が1億ドルから差し引かれ、罰金額が「5000万ドル(約75億円)以上」に減額された[88]。
- 12月7日 - WMSCは、FIA技術部門にマクラーレンの2008年マシンにフェラーリの機密情報が組み込まれていないかどうかを調査させ、詳細な報告書を提出させた。これにより、マクラーレンの新マシンの合法性に関する裁定が下される予定であったが、WMSCは2008年2月14日に開催されるWMSCの臨時総会において、マクラーレンやフェラーリをはじめ、他のチームにも、報告書に対する意見を発表するチャンスを与えるべきであると判断した。
- 12月13日 - マクラーレンCEO・マーティン・ウィットマーシュはマクラーレンの2008年マシン(MP4-23)にフェラーリの機密情報が含まれる予定だったことを認め、それを謝罪し、2008年マシンの一部開発凍結の話し合いをする内容の書簡をWMSCとマックス・モズレー宛てに送った。[89]
- 12月18日 - WMSCはFIA会長マックス・モズレーの提案をうけ2008年2月14日に予定されていた公聴会を中止することで同意した。
カラーリング
イギリス国籍のチームではあるが、チーム設立当初1968年から1971年まで、車体はマクラーレンのコーポレートカラーであるパパイヤオレンジに塗られていた。
1972年からはヤードレイ化粧品がスポンサーに付き、ボディーサイドにチームカラーのオレンジを残した白/オレンジに塗られた。
その後、マールボロとのパートナーシップにより、1974年からはマールボロのパッケージと同じ赤白に塗られたカラーリングが長らく用いられた[注釈 2]。このカラーリングの赤の部分は、1974年と1975年にはパッケージと同じような赤で塗られたが、1976年以降はテレビや写真写りを考慮して蛍光レッドに変更された。
1997年にカラーリングが変更され、銀と黒を基調に赤をアクセントに用いるカラーリングが使用されるようになった。これは、マールボロとの契約終了に伴いマクラーレンが独自のカラーリングを施すことが可能となったことにより決められたものである。銀色は「シルバー・アロー」メルセデスへの配慮、と考えられているが、カラーリング全体については当初のタイトルスポンサーであるウェストを含め特定のスポンサーの意向によるものではない、と、ロン・デニスは述べている。ロン・デニスはことのほかこのカラーリングを気に入っており、今後(他チームやマールボロカラー当時のマクラーレンのような)色と色の境界を線で区切ったようなカラーリングは自分のチームの車体には用いたくない、と発言している。その発言通り、2006年にカラーリングを若干変更した後も、各色の境はグラデーションを用いたものとなっていた。このカラーリングを施すためには、通常の3倍の手間とコストがかかると言われている。カラーリング塗装は各GPごとに行われていた。
2015年、エンジンサプライヤーがメルセデスからホンダへ変更されたことに伴い、第5戦スペインGPからグラファイトグレーを基調とした新カラーリング[90]に変更された。
2016年11月にロン・デニスが退陣したことに伴い、翌2017年からオレンジを基調としたカラーリングが復活した[91]。2018年のMCL33では1968年から1971年と同じパパイヤオレンジが採用された[92]。
例外
上記したように、基本的にカラーリングはオレンジ色の時代、赤と白の時代、銀色の時代などに分けることが可能であるが、半世紀の歴史の中では例外もあり、1978年終盤の北米ラウンド2戦と1979年にロングビーチで開催されたアメリカ西GPではマールボロと同じくフィリップ・モリス傘下のビール会社レーベンブロイ(Löwenbräu)の水色と白のカラーリングにしているほか、1986年のポルトガルGPではマールボロの新製品マールボロ・ライトをPRするため、ロズベルグ車のカラーリングは本来は赤の部分が黄色に変更された。
マールボロとの契約終了に伴いカラーリングを変更した1996年末から1997年初めにかけてのシーズンオフと翌年のシーズンオフ、ウェストとの契約終了に伴いカラーリングに変更を加えた2005年末から2006年のシーズンオフにかけ、テストにおいて往年のオレンジ色のカラーリングを暫定のカラーリングとして用いていた。
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1968年のM7A 初期のニュージーランドナショナルカラー
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1998年のMP4-13A シーズン開始前のプロトタイプマシンで暫定カラーとしてニュージーランドナショナルカラーを復活させている
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M23 1973年-1978年のマシンで初期のマールボロカラー
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1981年のMP4 MP4ナンバーの最初のマシン マールボロカラーの基本的なデザインが完成している。
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MP4/6 1991年のマクラーレン・ホンダ
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MP4-12 1997年のマシンでマクラーレンにとって最初のシルバー・アロー
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2005年のMP4-20 タバコ規制が厳しくなってきたため従来WESTが入る位置がドライバーの名前になっている
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2006年のMP4-21 F1カーとしては珍しいメッキ仕様のカラーリングをまとっている。翌年からのタバコスポンサーの完全規制によってWESTが抜けた
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2015年のMP4-30 ホンダとのコンビ復活に伴い、グラファイトグレーを基調とした新カラーリングに変更
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2017年のMCL32 ロン・デニスの退陣により、カラーリングをオレンジに一新
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2018年のMCL33 ニュージーランドナショナルカラーが復活
マクラーレンでドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー
- エマーソン・フィッティパルディ(1974年)
- ジェームス・ハント(1976年)
- ニキ・ラウダ(1984年)
- アラン・プロスト(1985年、1986年、1989年)
- アイルトン・セナ(1988年、1990年、1991年)
- ミカ・ハッキネン(1998年、1999年)
- ルイス・ハミルトン(2008年)
新人ドライバーの起用
フェラーリやマクラーレンが新人ドライバーを起用することはめったに無かったが、2007年のルイス・ハミルトン、2014年のケビン・マグヌッセン、2016年のストフェル・バンドーン(2017年にフル参戦)と、近年ではルーキードライバーを起用することが増えてきている。2000年代以前には1995年にケビンの父親であるヤン・マグヌッセンを1戦だけの代役として起用したこともある。
変遷表
F1
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | ポイント | 優勝数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1966年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M2B | テンプレート:Firestone | フォード406 (3.0L V8) セレニッシマM166 (3.0L V8) |
シェル? | ブルース・マクラーレン | 9位(フォード) 12位(セレニッシマ) |
2 1 |
0 0 |
1967年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M4B M5A |
テンプレート:Goodyear | BRM P56 (2.0L V8) BRM P142 (3.0L V12) |
シェル | ブルース・マクラーレン | 8位 | 3 | 0 |
1968年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング *Joakim Bonnier Racing Team (M5A) *Anglo American Racers (M7A) |
M5A M7A |
テンプレート:Goodyear | BRM P142 (3.0L V12) フォードDFV (3.0L V8) |
シェル ガルフ |
デニス・ハルム ブルース・マクラーレン |
2位(フォード) 10位(BRM) |
48 3 |
3 0 |
1969年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング *Team Lawson (M7A) *Antique Automobiles / Colin Crabbe Racing (M7B) |
M7A M7B M7C M9A |
テンプレート:Goodyearテンプレート:Dunlop | フォードDFV | ガルフ | デニス・ハルム ブルース・マクラーレン デレック・ベル |
5位 | 38(40) | 1 |
1970年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング *Team Surtees (M7C) *Ecurie Bonnier (M7C) |
M7C M14A M7D M14D |
テンプレート:Goodyearテンプレート:Firestone | フォードDFV (3.0L V8) アルファロメオTipo33/3 (3.0L V8) |
ガルフ | デニス・ハルム ブルース・マクラーレン ピーター・ゲシン ダン・ガーニー アンドレア・デ・アダミッチ ナンニ・ギャリ |
5位(フォード) NC(アルファロメオ) |
35 0 |
0 0 |
1971年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング *Ecurie Bonnier (M7C) *Penske-White Racing (M19A) |
M14A M19A |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | ガルフ | デニス・ハルム ピーター・ゲシン ジャッキー・オリバー |
6位 | 10 | 0 |
1972年 | ヤードレー・チーム・マクラーレン | M19A M19C |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | ガルフ | デニス・ハルム ピーター・レブソン ブライアン・レッドマン ジョディー・シェクター |
3位 | 47(49) | 1 |
1973年 | ヤードレー・チーム・マクラーレン | M19A M19C M23 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | ガルフ | デニス・ハルム ピーター・レブソン ジョディー・シェクター ジャッキー・イクス |
3位 | 58 | 3 |
1974年 | マールボロ・チーム・テキサコ ヤードレー・チーム・マクラーレン * Scribante Lucky Strike Racing (M23) |
M23 | テンプレート:Goodyear | フォードDFV | テキサコ | エマーソン・フィッティパルディ デニス・ハルム マイク・ヘイルウッド ヨッヘン・マス デイビッド・ホッブス |
1位 | 73(75) | 4 |
1975年 | マールボロ・チーム・テキサコ *Lucky Strike Racing (M23) |
M23 | テンプレート:Goodyear | フォードDFV | テキサコ | エマーソン・フィッティパルディ ヨッヘン・マス |
3位 | 53 | 3 |
1976年 | マールボロ・チーム・マクラーレン | M23 M26 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | テキサコ | ジェームス・ハント ヨッヘン・マス |
2位 | 74(75) | 6 |
1977年 | マールボロ・チーム・マクラーレン *Chesterfield Racing (M23) *Iberia Airlines (M23) |
M23 M26 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | テキサコ | ジェームス・ハント ヨッヘン・マス ジル・ヴィルヌーヴ ブルーノ・ジャコメリ |
3位 | 60 | 3 |
1978年 | マールボロ・チーム・マクラーレン *Liggett Group/BS Fabrications (M23, M26) *Centro Asegurador F1 (M23) *Melchester Racing (M23) |
M26 | テンプレート:Goodyear | フォードDFV | テキサコ | ジェームス・ハント パトリック・タンベイ ブルーノ・ジャコメリ |
8位 | 15 | 0 |
1979年 | マールボロ・チーム・マクラーレン *Lowenbrau Team McLaren (M23) |
M26 M28 M28B M28C M29 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | カストロール | ジョン・ワトソン パトリック・タンベイ |
7位 | 15 | 0 |
1980年 | マールボロ・チーム・マクラーレン | M29B M29C M30 |
テンプレート:Goodyear | フォードDFV | カストロール | ジョン・ワトソン アラン・プロスト スティーブン・サウス |
9位 | 11 | 0 |
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | ポイント | 優勝数 |
1981年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | M29C M29F MP4/1 |
テンプレート:Michelin | フォードDFV | ユニパート | ジョン・ワトソン アンドレア・デ・チェザリス |
6位 | 28 | 1 |
1982年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/1B | テンプレート:Michelin | フォードDFV | ユニパート | ニキ・ラウダ ジョン・ワトソン |
2位 | 69 | 4 |
1983年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/1C MP4/1E |
テンプレート:Michelin | フォードDFY (3.0L V8) TAG TTE PO1 (1.5L V6ターボ) |
ユニパート | ニキ・ラウダ ジョン・ワトソン |
5位(フォード) NC(TAG) |
34 0 |
1 0 |
1984年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/2 | テンプレート:Michelin | TAG TTE PO1 | シェル | ニキ・ラウダ アラン・プロスト |
1位 | 143.5 | 12 |
1985年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/2B | テンプレート:Goodyear | TAG TTE PO1 | シェル | ニキ・ラウダ アラン・プロスト ジョン・ワトソン |
1位 | 90 | 6 |
1986年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/2C | テンプレート:Goodyear | TAG TTE PO1 | シェル | アラン・プロスト ケケ・ロズベルグ |
2位 | 96 | 4 |
1987年 | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/3 | テンプレート:Goodyear | TAG TTE PO1 | シェル | アラン・プロスト ステファン・ヨハンソン |
2位 | 76 | 3 |
1988年 | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/4 | テンプレート:Goodyear | ホンダRA168E (1.5L V6ターボ) |
シェル | アラン・プロスト アイルトン・セナ |
1位 | 199 | 15 |
1989年 | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/5 | テンプレート:Goodyear | ホンダRA109E (3.5L V10) |
シェル | アイルトン・セナ アラン・プロスト |
1位 | 141 | 10 |
1990年 | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/5B | テンプレート:Goodyear | ホンダRA100E | シェル | アイルトン・セナ ゲルハルト・ベルガー |
1位 | 121 | 6 |
1991年 | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/6 | テンプレート:Goodyear | ホンダRA121E (3.5L V12) |
シェル | アイルトン・セナ ゲルハルト・ベルガー |
1位 | 139 | 8 |
1992年 | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/6B MP4/7A |
テンプレート:Goodyear | ホンダRA122E,RA122E/B | シェル | アイルトン・セナ ゲルハルト・ベルガー |
2位 | 99 | 5 |
1993年 | マールボロ・マクラーレン・フォード | MP4/8 | テンプレート:Goodyear | フォードHB5,7,8 (3.5L V8) |
シェル | アイルトン・セナ マイケル・アンドレッティ ミカ・ハッキネン |
2位 | 84 | 5 |
1994年 | マールボロ・マクラーレン・プジョー | MP4/9 | テンプレート:Goodyear | プジョーA6 (3.5L V10) |
シェル | ミカ・ハッキネン マーティン・ブランドル フィリップ・アリオー |
4位 | 42 | 0 |
1995年 | マールボロ・マクラーレン・メルセデス | MP4/10 MP4/10B MP4/10C |
テンプレート:Goodyear | メルセデスFO110 (3.0L V10) |
モービル | ミカ・ハッキネン マーク・ブランデル ナイジェル・マンセル ヤン・マグヌッセン |
4位 | 30 | 0 |
1996年 | マールボロ・マクラーレン・メルセデス | MP4/11 | テンプレート:Goodyear | メルセデスFO110 | モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
4位 | 49 | 0 |
1997年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-12 | テンプレート:Goodyear | メルセデスFO110E, メルセデスFO110F |
モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
4位 | 63 | 3 |
1998年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-13 | テンプレート:Bridgestone | メルセデスFO110G | モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
1位 | 156 | 9 |
1999年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-14 | テンプレート:Bridgestone | メルセデスFO110H | モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
2位 | 124 | 7 |
2000年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-15 | テンプレート:Bridgestone | メルセデスFO110J | モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
2位 | 152 | 7 |
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | ポイント | 優勝数 |
2001年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-16 | テンプレート:Bridgestone | メルセデスFO110K | モービル | ミカ・ハッキネン デビッド・クルサード |
2位 | 102 | 4 |
2002年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-17 | テンプレート:Michelin | メルセデスFO110L | モービル | デビッド・クルサード キミ・ライコネン |
3位 | 65 | 1 |
2003年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-17D | テンプレート:Michelin | メルセデスFO110M | モービル | デビッド・クルサード キミ・ライコネン |
3位 | 142 | 2 |
2004年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-19 MP4-19B |
テンプレート:Michelin | メルセデスFO110Q | モービル | デビッド・クルサード キミ・ライコネン |
5位 | 69 | 1 |
2005年 | ウェスト・マクラーレン・メルセデス チーム・マクラーレン・メルセデス |
MP4-20 | テンプレート:Michelin | メルセデスFO110R | モービル | キミ・ライコネン ファン・パブロ・モントーヤ ペドロ・デ・ラ・ロサ アレクサンダー・ヴルツ |
2位 | 182 | 10 |
2006年 | チーム・マクラーレン・メルセデス | MP4-21 | テンプレート:Michelin | メルセデスFO108S (2.4L V8) |
モービル | キミ・ライコネン ファン・パブロ・モントーヤ ペドロ・デ・ラ・ロサ |
3位 | 110 | 0 |
2007年 | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | MP4-22 | テンプレート:Bridgestone | メルセデスFO108T | モービル | フェルナンド・アロンソ ルイス・ハミルトン |
EX | 0(203) | 8 |
2008年 | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | MP4-23 | テンプレート:Bridgestone | メルセデスFO108V | モービル | ルイス・ハミルトン ヘイキ・コバライネン |
2位 | 151 | 6 |
2009年 | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | MP4-24 | テンプレート:Bridgestone | メルセデスFO108W | モービル | ルイス・ハミルトン ヘイキ・コバライネン |
3位 | 71 | 2 |
2010年 | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | MP4-25 | テンプレート:Bridgestone | メルセデスFO108X | モービル | ジェンソン・バトン ルイス・ハミルトン |
2位 | 454 | 5 |
2011年 | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | MP4-26 | テンプレート:Pirelli | メルセデスFO108Y | モービル | ジェンソン・バトン ルイス・ハミルトン |
2位 | 497 | 6 |
2012年 | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | MP4-27 | テンプレート:Pirelli | メルセデスFO108Z | モービル | ジェンソン・バトン ルイス・ハミルトン |
3位 | 378 | 7 |
2013年 | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | MP4-28 | テンプレート:Pirelli | メルセデスFO108F | モービル | ジェンソン・バトン セルジオ・ペレス |
5位 | 122 | 0 |
2014年 | マクラーレン・メルセデス | MP4-29 | テンプレート:Pirelli | メルセデスPU106A Hybrid (1.6L V6ターボ) |
モービル | ジェンソン・バトン ケビン・マグヌッセン |
5位 | 181 | 0 |
2015年 | マクラーレン・ホンダ | MP4-30 | テンプレート:Pirelli | ホンダRA615H (1.6L V6ターボ) |
モービル | フェルナンド・アロンソ ジェンソン・バトン ケビン・マグヌッセン |
9位 | 27 | 0 |
2016年 | マクラーレン・ホンダ・フォーミュラ1・チーム | MP4-31 | テンプレート:Pirelli | ホンダRA616H | モービル | フェルナンド・アロンソ ジェンソン・バトン ストフェル・バンドーン |
6位 | 76 | 0 |
2017年 | マクラーレン・ホンダ・フォーミュラ1・チーム | MCL32 | テンプレート:Pirelli | ホンダRA617H | BP/カストロール | フェルナンド・アロンソ ストフェル・バンドーン ジェンソン・バトン |
9位 | 30 | 0 |
2018年 | マクラーレンF1チーム | MCL33 | テンプレート:Pirelli | ルノーR.E.18 (1.6L V6ターボ) |
BP/カストロール | フェルナンド・アロンソ ストフェル・バンドーン |
|||
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | ポイント | 優勝数 |
*太字はドライバーズタイトル獲得者
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
*枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
Can-Am
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー |
---|---|---|---|---|---|---|
1966年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M1A,M1B.M1C | テンプレート:Goodyear | シボレー | STP | ブルース・マクラーレン デニス・ハルム |
1967年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M6A | テンプレート:Goodyear | シボレー | STP | ブルース・マクラーレン デニス・ハルム |
1968年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M8A | テンプレート:Goodyear | シボレー | STP | ブルース・マクラーレン デニス・ハルム |
1969年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M8B | テンプレート:Goodyear | シボレー | STP | ブルース・マクラーレン デニス・ハルム |
1970年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M8C,M8D | テンプレート:Goodyear | シボレー | STP | ブルース・マクラーレン デニス・ハルム ピーター・レブソン |
1971年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M8C,M8F | テンプレート:Goodyear | シボレー | STP | デニス・ハルム ピーター・レブソン |
1972年 | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M20 | テンプレート:Goodyear | シボレー | ガルフ | デニス・ハルム ピーター・レブソン |
資本
- F1以外の活動は別会社が行っており、マクラーレン・グループを構成している。
- 2000年1月、当時メルセデス・ベンツの親会社であったダイムラー・クライスラーが、グループの所有権を40%取得。事実上、マクラーレン・グループはダイムラー・クライスラーグループの一員となっている。残りの60%をロン・デニスとサウジアラビア人の大富豪であるマンスール・オジェが所有してきたが、ダイムラー・クライスラーがこの残りの60%の株式を取得し、メルセデス・ベンツが単独でのF1参戦を目指しているのではという噂が根強かった。
- 2007年1月にバーレーン王国所有のバーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーがロン・デニスとマンスール・オジェの保有する株式のそれぞれの半数を取得した。この結果、ダイムラー・クライスラーが40%・バーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーが30%・ロン・デニスとマンスール・オジェが15%ずつと保有比率が変化している。
- 2009年11月にメルセデス・ベンツとマクラーレンのパートナーシップ解消が発表されたことに伴い、メルセデス保有分の40%の株式については2011年までにマクラーレン側が買い戻すことが発表されている。なお買い戻し価格や、買い戻した後の株式の扱いについては公表されていない。なおマクラーレン側の買い戻しの結果、2010年3月現在でメルセデス側の持株比率は約11%にまで低下している[93]。
- 2016年11月にロン・デニスの退陣が決まった時点の株式保有比率は、デニスとオジェが25%、マムタラカトが50%となっていた[41]が、デニスは翌2017年6月に全株式を売却した[94]。
マクラーレン・グループ
(主な会社のみ)
- マクラーレン・オートモーティブ(McLaren Automotive)
- マクラーレン・エレクトロニック・システムズ (McLaren Electronic Systems)
- モータースポーツ向け電子制御システムの開発、製造。旧称はTAGエレクトロニクス、TAGエレクトロニック・システムズ。
- 2008年よりマイクロソフトと共同で、F1に参戦する全車に搭載が義務付けられるECUの供給を行っているほか、2012年からはNASCAR・スプリントカップシリーズやインディカー・シリーズにもECUの供給を行っている。
- マクラーレン・マーケティング (McLaren Marketing)
- 1987年に設立。マーケティング、メディア対応などを担当。
- マクラーレン・コンポジット (McLaren Composites)
- 1993年に設立。自動車などに用いる、高機能素材の開発・生産を担当
移動体テレメトリーシステム
マクラーレンは1980年代からデータ分析による効率化を徹底しており、レーシングカーやドライバーに取り付けたセンサーからリモートでデータを転送し、リアルタイムで分析する移動体テレメトリーシステムを採用している。[95][96] テレメトリーシステムには1997年から技術提携関係にあるドイツのソフトウェア大手SAPの高速データ処理プラットフォーム「SAP HANA」を使用して、タイヤ交換や部品交換が必要なタイミングを計算し、マシンを最適な状態に保つようにしている。[95][96]
このシステムから得られた情報によって勝敗の90%がレース終了前に予測できるようになった。[97]
注釈
- ↑ 世界三大レースを制したコンストラクターは、マクラーレンとメルセデスのみである
- ↑ 2.0 2.1 1974年からマールボロがタイトルスポンサーとなるが、1974年は3台体制のうちヤードレイ車も1台のみ参戦した
- ↑ インディ500用のエンジンを改造。コスワースが製造したフォード・コスワース・DFVエンジンは翌1967年に登場する
- ↑ 予選ではワトソン22位、ラウダ23位と後方に沈んだが、決勝では追走に次ぐ追走でワトソンが優勝、ラウダが2位となり、ワン・ツー・フィニッシュを達成した
- ↑ TAGは1980年からウィリアムズをスポンサードしていたが、ロン・デニスはマンスール・オジェにチーム株式の保有を持ちかけ、TAGとマクラーレンによる新組織「TAG Turbo Engines」が設立された。以後、現在までマンスール・オジェは株式を保有し続けている。
- ↑ 前年のドライバーズチャンピオン以外でカーナンバー1を使用した最後のケースとなった
- ↑ チームとしての年間最多勝記録は2014年にメルセデスが16勝するまで、エンジンサプライヤーとしての年間最多勝記録は1995年にルノーが16勝するまで破られなかった。
- ↑ トランスミッションを例にすれば、フェラーリが1988年シーズン用にセミオートマチックトランスミッション(セミAT)搭載のフェラーリ・639を開発して実戦投入可能であったのに対し、マクラーレンはセミATの開発が本格化するのは1991年からと後れを取っていることは明らかであった。
- ↑ メルセデスエンジンのシリンダーブロックは、軽量なベリリウム合金を使用していたが、フェラーリが「ベリリウム合金は人体に有害である」という抗議をして、使用禁止となった。
脚注
- ↑ “マクラーレン、2018年もタイトルスポンサーを獲得できず”. F1-Gate.com (2017年12月20日). . 2017閲覧.
- ↑ “トロ・ロッソ、2018年は「レッドブル・トロロッソ・ホンダ」としてF1参戦”. F1-Gate.com (2017年12月10日). . 2017閲覧.
- ↑ 3.0 3.1 「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.29
- ↑ 「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.50-51
- ↑ 「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.90
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 Mclaren: The Grand Prix, CanAm and Indy Cars., Doug Nye, Hazleton Publishing, ISBN 0-905138-54-6
- ↑ 「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.111
- ↑ 「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.102
- ↑ 「F1全史 1971-1975」(ニューズ出版) P.22
- ↑ アラン・ヘンリー 『ニキ・ラウダ/不屈のチャンピオン』 森岡茂憲訳、ソニー・マガジンズ、1991年、129頁。
- ↑ 「F1走る魂」(海老沢泰久著、文藝春秋)pp.308 - 309
- ↑ 『AS+F - '96年開幕直前号』 三栄書房、1996年、4-5頁。
- ↑ 『AS+F - '96年ポルトガルGP号』 三栄書房、1996年、18-19頁。
- ↑ 『GPX(F1 Grand Prix Xpress)』 Australian GP issue/210、山海堂、32頁、1998年。
- ↑ 『F1倶楽部』 双葉社、34号、2000年、98頁。
- ↑ 『GPX』 オーストラリアGP号、山海堂、2001年、10頁。
- ↑ 17.0 17.1 『2001F1総集編 - AS+F増刊』 三栄書房、2001年、30-34頁、110-111頁。
- ↑ McLaren Appeal- (FIAプレスリリース 2007年10月23日)
- ↑ DECISION OF THE INTERNATIONAL COURT OF APPEAL- (FIAプレスリリース 2007年11月16日)
- ↑ McLaren still hope for fuel rules clarity- (autosport.com 2007年11月16日記事)
- ↑ デニス 代表職を退任(GPUPDATE.net)
- ↑ World Motor Sport Council - Decision- (FIAプレスリリース 2009年4月29日)
- ↑ McLaren restructures Group to create independent McLaren Automotive company - 公式プレスリリース(2009年4月16日)
- ↑ マクラーレン、ボーダフォンとの契約終了を発表 - オートスポーツ・2013年3月14日
- ↑ “セルジオ・ペレス、マクラーレン離脱を発表”. F1-Gate.com. (2013年11月14日) . 2013閲覧.
- ↑ “マクラーレン、ケビン・マグヌッセンの起用を正式発表”. F1-Gate.com. (2013年11月15日) . 2013閲覧.
- ↑ “マグヌッセンと契約破棄したチームがあるとウィットマーシュ”. (2013年11月26日) . 2013閲覧.
- ↑ ロン・デニスがマクラーレンF1部門のボスに復帰 - オートスポーツ・2014年1月17日
- ↑ “エリック・ブーリエ、マクラーレンのレーシングディレクターに就任”. F1-gate.com. (2014年1月29日) . 2014閲覧.
- ↑ 事実上のチーム代表だとブーリエ - ESPN F1・2014年2月21日
- ↑ マーティン・ウィットマーシュ、マクラーレンでの将来はいまだ不明 - F1-gate.com・2014年3月6日
- ↑ ウィットマーシュが正式にマクラーレンを離脱 - オートスポーツ・2014年8月27日
- ↑ Vandoorne gets McLaren reserve role - F1 Fanatic・2014年1月23日
- ↑ フェルナンド・アロンソ、燃料セーブの指示を拒否 - F1-gate.com・2015年6月8日
- ↑ フェルナンド・アロンソ、レース中に怒りの無線 「GP2のエンジンかよ!」 - F1-gate.com・2015年9月27日
- ↑ フェルナンド・アロンソ、肋骨骨折と肺虚脱. F1-Gate.com(2016年4月1日).
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- ↑ マクラーレン・ホンダ:バンドーンが10位入賞 / F1バーレーンGP. F1-Gate.com(2016年4月4日).
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- ↑ アロンソ「ホンダエンジンでなければ楽勝でフロントローだったはず」F1ベルギーGP 2017《予選後》 FORMULA1-DATA 2018年6月28日閲覧
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- ↑ ブチギレの真相 : アロンソ記者会見「僕にはどうすることもできない」 FORMULA1-DATA
- ↑ “アロンソがモナコGPを欠場しインディ500電撃参戦! マクラーレン、ホンダ、アンドレッティがトリオ”. AUTOSPORTweb (2017年4月12日). . 2017閲覧.
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- ↑ “マクラーレン、MCL33にトラブル多発も「野心的なデザインが必要だった」”. F1-Gate.com (2018年3月12日). . 2018閲覧.
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- ↑ F1 Topic:昨年のマクラーレンのトラブルはホンダPUだけが原因だったのか AUTOSPORTweb 2018年3月21日。
- ↑ “マクラーレン、ホンダとの決別を後悔? 「タイトルを獲るのはワークス」”. F1-Gate.com (2018年6月27日). . 2018閲覧.
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- ↑ 2018年マシンマクラーレンMCL33に乗るフェルナンド・アロンソcopyright Mclaren パーマー、ホンダと決別したマクラーレンを痛烈批判「序列変わらず、高い金を払って恥を晒しただけ」 FORMULA1-DATA 2018年6月13日、同20日閲覧。
- ↑ Mclaren マクラーレンのF1チーム内に内紛?スタッフが元チーム代表に協力を要請 F1-Gate 2018年6月20日。
- ↑ バトン「マクラーレンは“シャシーではベスト”と豪語すべきではなかった」 AUTOSPORTweb 2018年5月9日。
- ↑ マクラーレンF1、エリック・ブーリエの更迭を発表…成績不振からの脱却目指し首脳陣を再編 FORMULA1-DATA 2018年7月4日。
- ↑ アロンソ、17年のF1キャリアに区切りも、将来の復帰の可能性残す - オートスポーツ(2018年8月15日)2018年8月15日閲覧
- ↑ World Motor Sport Council - Decision- (FIAプレスリリース 2007年7月26日)
- ↑ WORLD MOTOR SPORT COUNCIL- (FIAプレスリリース 2007年9月13日)
- ↑ "マクラーレンの罰金は5000万ドル程度に".carview.(2007年10月26日)2013年1月18日閲覧。
- ↑ The full letter from McLaren to the FIA- (autosport.com 2007年12月13日記事)
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- ↑ “カラーリング一新。マクラーレン・ホンダF1、新車『MCL32』をアンベイル”. AUTOSPORTweb (2017年2月24日). . 2017閲覧.
- ↑ “マクラーレン MCL33 : ルノー製PUに合わせてコンセプトを進化”. F1-Gate.com (2018年2月23日). . 2018閲覧.
- ↑ マクラーレン、メルセデスから29パーセントの株式を買い戻し - as-web.jp・2010年3月19日
- ↑ “マクラーレン、ロン・デニスの離脱でグループを再編”. F1-Gate.com (2017年7月1日). . 2017閲覧.
- ↑ 95.0 95.1 マクラーレンもより速く! HANAが加速するのはデータベースだけじゃない - SAPPHIRE NOW 2012 2日目基調講演
- ↑ 96.0 96.1 マクラーレン・ホンダのレーサー、ジェンソン・バトンがSAPジャパンに登場 – F1レースに起きたデジタル変革とは –
- ↑ マクラーレンとメルセデスAMGが実践!超膨大センサーデータのリアルタイム解析による予見分析
関連項目
- メルセデス・ベンツ・SLRマクラーレン
- ディレクシブ
- モータースポーツ
- F1世界チャンピオンの一覧
- F1コンストラクターの一覧
- JVCケンウッド - 1991年日本GPから無線機材を供給している
- ヒューゴ・ボス - 1980年代より2014年までチームユニフォームを供給していた。
- ヤマザキマザック - 工作機械の納入で1999年よりオフィシャルサプライヤー契約を結んでいる。。
- 集英社 - 1990年から1992年までのスポンサー。週刊少年ジャンプのロゴをノーズの先端に貼り付けていた。
- 古墳GALのコフィー - コフィーのママが元マクラーレンホンダのピットクルーとして世界を回っていた設定になっている
- 高級オーディオ - かつてTag Mclaren Audioというブランドでオーディオ機器を販売していた。