デイモン・ヒル
デイモン・ヒル | |
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基本情報 | |
フルネーム | デイモン・グラハム・デベリュー・ヒル |
国籍 |
イギリス イングランド |
出身地 | 同・ロンドンハンプステッド |
生年月日 | 1960年9月17日(64歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1992-1999 |
所属チーム |
'92 ブラバム '93-'96 ウィリアムズ '97 アロウズ '98-'99 ジョーダン |
出走回数 | 115 |
タイトル | 1(1996) |
優勝回数 | 22 |
表彰台(3位以内)回数 | 42 |
通算獲得ポイント | 360 |
ポールポジション | 20 |
ファステストラップ | 19 |
初戦 | 1992年スペインGP |
初勝利 | 1993年ハンガリーGP |
最終勝利 | 1998年ベルギーGP |
最終戦 | 1999年日本GP |
デイモン・グラハム・デベリュー・ヒル(Damon Graham Devereux Hill OBE, 1960年9月17日 - )は、イギリス人の元F1ドライバー。デーモン・ヒルと表記されることもある。
1996年のF1ワールドチャンピオン。1960年代に2度のチャンピオンを獲得したグラハム・ヒルの息子。2006年にブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ (BRDC) 会長に就任し、2011年8月末まで同職を務めた。
Contents
プロフィール
生い立ち
父であるグラハムがレーサーとしての才能を開花し始めた1960年に誕生したということもあり、洗礼式では父グラハムの戦友であった当時のトップドライバー仲間に囲まれるなど、少年時代までは平穏な生活を送っていた。
ところが、1975年にグラハムがエンバシー・ヒルのチームクルーと共に軽飛行機事故で死亡。このとき保険に加入していなかったことで、同乗者への補償金支払いのためにヒル家は一転して窮乏生活を強いられる事になった。青年時代は音楽の道に進もうとした時期もあったが、やがて父と同じくモータースポーツを選び、バイク便のアルバイトをしながら二輪レースに参加した。
レースデビュー
1980年から1984年までは2輪レースに専念し、1984年にはブランズハッチの二輪レース、クラブマンカップ350ccクラスのタイトルを獲得した。1983年にはフォーミュラ・フォード2200にテスト参戦し、23歳で4輪レースデビューした。1985年には本格的に4輪レースへ転向し、フォーミュラ・フォード1600に参戦した。1986年から1988年まではイギリスF3に参戦し、1988年にはシリーズ3位を獲得している。
F3000/ル・マン
1988年はベネトンのF1テストドライブを経験し、シーズン終盤には国際F3000選手権にデビューし、1991年まで参戦した。1989年はシーズン途中より片山右京に代わりムーンクラフトシャシーを使用するフットワークチームから参戦したが、マシンの戦闘力が低く目立った成績は残せなかった。この年にはにはル・マン24時間レースにも参戦した
1990年にはミドルブリッジのローラでポールポジション3回、ファステストラップ2回を獲得し、5戦でレースをリードするなど活躍したが、勝利を挙げることはできなかった。1991年にはエディ・ジョーダン・レーシングより参戦した。
ウィリアムズ加入とF1デビュー
1991年、F1の名門チームウィリアムズにテストドライバーとして起用された。前任者のマーク・ブランデルがブラバムに加入することを小耳に挟み、クリスマスの日にダメもとでテクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドに電話で問い合わせたのがきっかけであった。
ウィリアムズでマシン開発作業をこなしつつ、1992年スペインGPでジョバンナ・アマティに替わりブラバムからF1デビュー。しかしブラバムは既に深刻な資金難からチームの存続自体が危ぶまれていた状態に陥っており、マシンも前年度の小改良に留まるなど競争力に欠け、多くのレースで予選落ちを重ねた。母国イギリスGPで初めて予選を通過、決勝レースに出走(記録上のF1デビュー)し最下位ながらも完走した。その後ハンガリーGPでも予選通過、最下位ながらも完走を果たした。そのハンガリーGPをもって、かつて父グラハムも所属した名門ブラバムは活動を停止、これ以降デイモンもこの年のレース出場を果たす機会は訪れずに終わった。
1993年、前年悲願のワールドチャンピオンを獲得したナイジェル・マンセルがチームとの契約延長交渉が決裂、リカルド・パトレーゼもチーム体制に不満を抱いて、両者揃ってウィリアムズを離脱する。チームは1992年休養中の身であったアラン・プロストを招聘する一方、ヒルをテストドライバーから昇格させた[注 1]。序盤は経験不足を露呈する場面も見られたが、3度のワールドチャンピオンを相手に次第に存在感を見せるようになる。プロストの地元フランスGPで初ポールポジションを獲得すると(決勝でもプロストを猛追するもチームオーダー発令で2位キープに切り替えた)、続く母国イギリスGPでは激しいポール争いの末にプロストに敗れるもスタートで首位に躍り出て快走したが、エンジントラブルでリタイア。ドイツGPでも残り3周でタイヤバーストで涙を呑む。しかし第11戦ハンガリーGPでは2位以下を1分以上引き離し、F1参戦19戦目(決勝レース出場は13戦目)にして初優勝を達成した。これを皮切りにベルギーGP、イタリアGPと3連勝し、この時点ではチャンピオン獲得の可能性が浮上した。ポルトガルGPでもポールポジションを獲得したが、フォーメーションラップにスタートできず最後尾にまわり好機を逸した。結局年間ランキングはプロスト、セナに続く3位で終えている。
チャンピオン候補
翌1994年、アラン・プロストと入れ替わりにエース・ドライバーとなったアイルトン・セナとともにウィリアムズから継続参戦。しかし、開幕前の下馬評を覆す形でベネトンのミハエル・シューマッハがチャンピオンシップの主導権を握る。そんな中、第3戦サンマリノGPでセナが事故死。これによりヒルは唐突にエースドライバーになった。
その後もシューマッハ優勢のレースが続いたが、ヒルが制したイギリスGPにて、フォーメーションラップでのシューマッハが犯した些細なレギュレーション違反行為および課せられたペナルティ指示を無視し続けたことに対し、FIAがシューマッハにイギリスGPのリザルトから除外および2戦出場停止と言う厳罰を課したことで事態は一変する。シューマッハ出場停止のレースをいずれも制し、更に日本GPでは雨天下で変則2ヒート制になった中で勝利を収め、最終戦直前では1点差まで追いつく。
最終戦オーストラリアGP、スタートでポールシッターのマンセルがホイールスピンにより出遅れ、シューマッハがトップに立つ。マンセルはさらに5位まで順位を落とし、シューマッハ、ヒル、ハッキネン、バリチェロ、マンセルの順でオープニングラップを終えた。シューマッハは得意の先行逃げ切りを図るが、ヒルも遅れることなく追走し、先頭の2台がファステストラップを出し合いながら3位以下を引き離す展開となった。。しかし、ヒルに追われて焦ったシューマッハがコースアウト、その後シューマッハは無理やりコースに戻りヒルをブロックすべくサイドバイサイドになる。次の右コーナーでヒルがシューマッハのインを突くが、シューマッハはアウトから被せて両者激突、シューマッハは車体の右半分が浮き上がりコントロールを失い、そのままコース脇のタイヤバリアに直行して激突。ヒルも左フロントサスペンションを破損、スローペースでピットへ戻るがそこでストップ。この結果2人ともリタイアし、初のワールドチャンピオンはシューマッハに奪われたが、のちにシューマッハは激しい非難を受けることとなる。
1995年は4勝7ポールポジションを獲得したが、決勝ではマシントラブルや他マシンとの接触、自分自身とチーム戦略のミスなどが重なり、ポイントを取れない展開となった。スペインGPではゴール直前リタイア(結果は完走扱いの4位)。モナコGPでは桜井淑敏をもってして「プロストをも凌ぐ」という走りで[3]ポールポジションを獲得するも、決勝では1ストップ作戦をとったシューマッハに逆転負けで2位。イギリスGPとイタリアGPではチャンピオン争いをしているシューマッハに追突して両者リタイア。イタリアGPではレース後に1戦執行猶予付き出場停止処分を受ける。ドイツGPとヨーロッパGPと日本GPでは単独スピンでリタイア(ドイツはパトリック・ヘッドが「原因はリアのジョイント磨耗」と発表)。後半戦はサスペンションを改良したFW17Bを投入するも、チームメイトのデビッド・クルサードに4戦連続ポールポジションを奪われる場面もあり、最終的にはシューマッハの2年連続チャンピオン獲得を阻止できなかった。
これについては、シューマッハがベネトンチーム内で絶対的なナンバーワン待遇体制を敷き、参謀的存在のロス・ブラウンと二人三脚でレースの組み立てを行う体制を構築していた事に対し、ウィリアムズ側はドライバー間の序列を設けず、そのためにヒルはチームからの十分なサポートを得られなかった事も大きく影響したとされている。
チャンピオン獲得もウィリアムズ放出
1996年はマクラーレンに移籍したクルサードの後釜として、前年のCARTチャンピオンで「驚異の新人」と言われたジャック・ヴィルヌーヴが加入。FW18が他チームを圧倒する戦闘力だった事もあり、奇しくも「2世ドライバー」同士にしてチームメイト同士のチャンピオン争いと言う展開となった。ヒルは開幕戦オーストラリアGPからの3連勝など前半9戦中6勝を挙げたが、後半戦はやや精彩を欠いてヴィルヌーヴの猛追を受け、タイトル争いは最終戦の日本GPまでもつれ込む。
しかしこの時点でヒルとヴィルヌーブとの得点差は9点、ヒル7勝に対してヴィルヌーヴは4勝であり、日本GPでヴィルヌーブが優勝してもヒルは6位1ポイント以上を獲得すると、勝利数の差により無条件でチャンピオン決定と言う非常に有利な状況にあった。ヒルは予選2位ながらスタート時にポールポジションのヴィルヌーヴをかわして先頭に立って一気に優位に立ち、ヴィルヌーヴがタイヤ脱落トラブルでリタイアした瞬間に自身初のワールドチャンピオンが決定、その後は一度も先頭を譲らない完勝劇も演じた。「イギリスで勝ったことより96年最終戦の鈴鹿での勝利が一番嬉しかった」と喜びを語っている。F1史上初となる親子2代でワールドチャンピオンとなり、その後2016年にニコ・ロズベルグ(父、ケケ・ロズベルグは1982年のチャンピオン)がチャンピオンになるまでの20年間、彼が唯一の存在だった。なおヒルはこの年の「全てのレースでフロントロー」を獲得しており、コースによって安定感を欠く事もあったヴィルヌーヴとは、この点で決定的な差を付けた。
しかし、この年のイタリアGP直前の8月26日にヒルはチームから翌年の契約を行わないことを通告された。これは1997年限りでルノーエンジンの供給契約が終了することが決定していたウィリアムズ側が、BMWエンジン獲得のためにドイツ人ドライバーとの契約を必要としていた事が遠因にある[注 2]。
このヒル解雇劇はチーフデザイナーを務めていたエイドリアン・ニューウェイの逆鱗に触れ[4](チームからは事前の相談も無かった)、チーム株買収に対するチームとの意見の不一致も加わり[5]、ニューウェイはマクラーレンへ移籍を決断して出社拒否、これに対してウィリアムズ側とは法廷闘争にまで発展した[6]。また、長年ウィリアムズの広報を担当していたアン・ブラッドショー[7]ほかヒルを慕っていた数人のスタッフも離脱した[8]。なおこの一件に関しては後年フランク・ウィリアムズ自身が「あれは大きな失敗だったな」と認め[9]、この年を境にウィリアムズの勢いは次第に下降傾向に入ったと評されている[4]。
日本GP直後、ウィリアムズを離脱したヒルは翌年F1参戦となるブリヂストンのタイヤテストに参加した[10]。
王者を襲う苦境、そして底力
1997年、トム・ウォーキンショーが買収したアロウズに誘われ移籍。スチュワートにも興味を抱いたが、「参戦初年度と言う事もあり、リスクが高すぎる」「古くから続くジャッキー・スチュワート一家との関わりを拗れさせたくなかった」との理由で見送り、他にジョーダン、プロストからのオファーも届いたがどちらも2年契約で、ニューウェイが移籍したマクラーレンへの翌年移籍を視野に入れていたヒルの意向とは合わなかった[11]。
フランク・ダーニーが設計したシャーシA18はテストでも満足に入り込みが出来ず、当時としては破格の軽量設計を追求したヤマハV10エンジンにもトラブルが続出したうえ、ブレーキに致命的な欠陥を抱えたまま[12]、開幕戦のオーストラリアGPではあわや予選落ちの危機に立たされ[注 3]、決勝ではフォーメーションラップ中にマシントラブルでリタイアの憂き目にあう。第2戦ブラジルGPでは予選9位を獲得し、決勝では一時期はシューマッハを従え4位を走っていたが、残り4周でリタイヤした(結果は完走扱いの17位)。その後も第6戦のスペインGPまでリタイヤが続き、マシンがまともに走らない間、ヒルはモチベーションを失っていた[14]。その当時を「あれは私ではなく、F1が受けた辱めだったと思う。前年度王者をこんな風に扱いたかったら好きにすればいいと思うしかなかった」「私には与えられた環境でベストを尽くすしかなかった。本当に悔しかったが、これも仕事であり、サラリーを貰っている以上は耐えた」と振り返っている[15]。
5月10日付けでフェラーリから移籍したジョン・バーナードがテクニカル・ディレクターに就任し、テストの方向性を決めてから、A18の信頼性もあがっていた[14]。ヒルも第7戦カナダGPでチームメイトのペドロ・ディニスと共に完走してから、第9戦イギリスGPで6位入賞と初ポイントを獲得した。
第11戦ハンガリーGPではただ1人ブリヂストンタイヤの性能を生かし、予選3位に食い込む。決勝では序盤でグッドイヤータイヤとのマッチングに苦しむフェラーリのミハエル・シューマッハを1コーナーで抜き、そのまま独走態勢をキープ、アロウズチーム・ヤマハエンジン・ブリヂストンタイヤにとっては初優勝の時が迫らんとしていた。しかしレース終盤に油圧系の不調が引き金となってスロットルが戻らなくなったうえ、ギヤボックスが3速に固まったことで急失速、ファイナルラップで前年のチームメイトだったヴィルヌーヴに抜かれ、優勝は逃したもののレース前の下馬評を覆す2位に入り、「非力なマシンでもレースを支配出来る力」を見せ付けるターニングポイントとなった[16]。ヒル自身はマシンの改良の積み上げやブリヂストンタイヤの性能もさる事ながら、「(ハンガロリンクは)一定曲率の180度ターンがいくつもあり、そこでのタイムロスを出来るだけ抑える走法が要求される。あの週末、私はそんな風にマシンを走せられる方法を発見した。まるでゴーカートに乗っているみたいに自在にドライブ出来た」と語っている[17]。
最終戦ヨーロッパGPではトップと0.058秒差の予選4位に入った。このとき、上位の3台は全くの同一タイムであったが、ヒル自身は「ヘレスはハンガロリンクとコース特性が似ており、私のマシンもバッチリ決まった」「でもミハエルとジャックとの間に起こったドラマが余りに強烈で、他の全てが吹き飛んでしまった」と語っている[18]。なお、このタイムアタックの際、ミナルディの片山右京がスピンして邪魔をする形になってしまい、後年片山は「前戦日本GPで引退発表した事で気が抜けて、予選を戦うと言うより楽しんでいる感じだった。だからスピンしてしまったと思う」とヒルへの謝罪を込めながら振り返っている[19]。
現役最後の勝利、引退へ
1998年はジョーダン無限ホンダに移籍。マクラーレンからのオファーはあったが、当時のオーナーのロン・デニスから出された「年俸ゼロ、1勝ごとの報酬制」「年間100日の無償プロモーション活動」などの条件を受け入れられずに拒否、ザウバーやプロストからもオファーを受けていた[20]。
前半戦こそショートホイールベース化が災いした198で苦戦を強いられたものの、雨の波乱含みのベルギーGPでジョーダンに初勝利をもたらした。これはヒル本人にとって現役最後の勝利であり、また、F1ではウィリアムズ以外のチームで挙げた初めての勝利でもあった。後半戦はコンスタントにポイントを獲得し、最終戦日本GPでチームをコンストラクターズ4位に導いた。
1999年は新規定のタイヤの扱いに苦戦し、成績もチームメイトのハインツ=ハラルド・フレンツェンに圧倒された(予選2勝14敗、ポイント7対54)。カナダGP後に今季限りでの引退を表明したが、チームオーナーのエディ・ジョーダンは「シーズン途中での引退の可能性」を示唆[21]。地元のイギリスGPが最後のレースとなると報道され、チームも後釜としてニック・ハイドフェルドや中野信治、ヨス・フェルスタッペンを検討していたが[21]、イギリスGP後に最終戦までの現役続行を表明した。引退レースとなった日本GPは戦意喪失による「レース棄権」で終えることになり、一部ジャーナリストからは批判を浴びた。
その後
引退後はBMWのディーラー経営と、メンテナンスを含むスーパーカーのレンタルを行う会員制クラブ、P1インターナショナルを主催しながら、2012年からSkySportsのF1解説者として世界各地を回る多忙な日々を送っている[22][23]。
2005年にはF3000に代わる新シリーズGP2のエンジン供給先であるルノー・スポールからのテスト走行を依頼され、F1時代を彷彿させる勇姿を見せた。
2006年の4月末、イギリスGPのマネジメントを行うブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ (BRDC) は次期会長選挙を実施し、ヒルをジャッキー・スチュワートに代わり会長に選出。会長就任の5年間にシルバーストン・サーキットの近代化や、同サーキットにおける17年間のイギリスGP開催契約締結の実績を残している。また同年、6月にロンドンで開催されたブリティッシュ・モーターショーにおいて、前年度のチャンピオンマシンであるルノーR25のデモランを担当し、出席したトニー・ブレア首相とも握手を交わした。
2011年、8月25日に開催されるBRDCの年次総会で会長職を退任。退任の理由について「家族や自分の関心事、息子ジョシュのレーシング・キャリアにもっと時間をかける正しいタイミングだ」を語っており[24]、後任にはデレック・ワーウィックが選出された。新会長に就任したワーウィックは前任者のヒルに「まずは会長として活動する中でBRDCに対する忠誠と献身を発揮したデイモンに感謝を述べたい。数々の困難を抱えたにもかかわらず、われわれを導き、最終的には成果を納めてくれた。私の目標はデイモンが去ったところから継続することだ」 と今までの労をねぎらった[25]。
2012年7月、デイモンが古巣ウィリアムズの新代表になるとのうわさが流れたが、同チームの共同オーナーであるトト・ヴォルフはこの件を否定した[26]。また同年、1862年に設立したスイスの名門ブランド「CYMA(シーマ)」のアンバサダーに就任した[27]。
ドライビングスタイル
F1デビュー当時、下位カテゴリーでの成績が平凡だった上に31歳[注 4]とすでにベテランの年齢だったため、期待される存在ではなかった。ウィリアムズ在籍時には「ヒルの成績はトップチームであるウィリアムズのマシンパワーのおかげ」とする声も少なくなく、ブリヂストンのF1プロジェクトリーダーだった浜島裕英も、初めて眼の前でヒルの走りを見るまでは、そう思っていたと語る[10]。セナの事故死後は地元紙から「マンセルが戻ってきて、ヒルは解雇」と書き立てられたことも度々であった。
ミハエル・シューマッハはヒルのドライバーとしての評価について「カート経験者との差を感じたね。いざバトルとなると、デイモンはいつもどこか自信がないようだった。私は相手を限界ギリギリまで追い込むのが得意だったが、彼は明らかにそういう状況が苦手だった」と語っている[28]。また、浜島も「(プレッシャーに晒された時の)デイモンはちょっと弱い、M・シューマッハやS・ベッテルとはそこが違う」[29]、「余りチームを引っ張って行くタイプではない、与えられた状況でベストを尽くすタイプ」[10]と評している。
しかし、先述の1997年ハンガリーGPで「マシンのおかげのチャンピオン」「シューマッハをオーバーテイク出来ない」「ウィリアムズ以外では活躍出来ない」と言った、それまでのイメージを悉く覆し[16]、そこに至る道程が「偉大なドライバーはどんな状況でも必ず輝く」事を証明するものであったこと[30]、上記のヒル解雇が招いたニューウェイ離脱がウィリアムズ衰退への始まりであったなど、後年ヒルへの過小評価は覆されて行った。
アロウズ時代のチームメイト、ペドロ・ディニスも「如何なる状況でも淡々と仕事に挑み、マシンの状況をいつ、どこで、どんな症状かをエンジニアに答えている」「マシンが遅くても怒らないし、トラブルが起きても慌てない。今までに見たチームメイトとは明らかに違った」と述べ、ヒルからの影響を認めている[31]。
ウィリアムズのテストドライバー時代にはアクティブサスペンションの熟成を担当し、ナイジェル・マンセルやアラン・プロストのチャンピオン獲得にも貢献している。プロストは「デイモンは、マシンを仕上げてゆくという面で、非常に優れたドライバーだ。そういうドライバーは、F1にもほとんどいないと言っていい」と賞賛している[32]。プロストとチームメイトであった1993年には、自分と同じセッティングで走っていたプロストのハンドル操作が極めて少ない(タイヤを痛めない)ことをデータから知り、プロストの走法を研究するようになったと言われている。それゆえ第2期ルノーF1の開発責任者であるベルナール・デュドによると、「デイモンのドライビングスタイルは、他のだれよりもアラン・プロストに近い。とても滑らかで、丁寧だ。エンジンの使い方も適切で、決してアクセルを乱暴に何度も踏んだりすることはしない。ヒルのスタイルは華々しさは全く持っていない。だが効率的なことは確かだ」と語っている[33]。
パトリック・ヘッドはヒルについて、「デイモンはマシンを分析するのが、とても上手い。(中略)そしてそれ以上に、彼はものすごく速いんだ。これは本当さ。だったらジャック・ヴィルヌーヴにデイモンの速さについて聞いてみるといい」と語り、また「普通のドライバーは、レース中に集中するために無線であまり話をしたりはしない。でもデイモンは、静かにしなくても集中できるようで、いつも我々と話をしてくる。(中略)でも、これは彼がドライビングをしながらもリラックスできている証拠だし、ハードプッシュしているときでもマシンの状態を感じ取れているということの表れなんだ。これは本当にまれな資質だよ」評している[34]。
タイヤに優しいドライバーでもある。94年の日本GPではトラブルのためタイヤ交換が3本しかできず、大雨のトリッキーなコンディションで他のドライバーがスピン、リタイアする中、交換出来なかった1本が磨耗しきった状態で2ヒート制のレースを走り切り、優勝している(ヒル本人はレース中4本全て交換したと思っており、この事実をレース後に聞かされた)。
浜島もトラクションの掛け方の的確さを賞賛[35]、1996年の日本GP後に行われたブリヂストンのタイヤテストに参加したヒルが、同じマシンでテストしたリカルド・ロセットより2秒ほど速いタイムをマークしたことに「タイヤメーカーの立場からすると1秒の違いはタイヤが根本的に変わるくらいの差」「やはりチャンピオンになるドライバーはレベルが違う」と発言している[10]。また、アライヘルメットの福田毅によると「例えばヘルメットの内装は、それぞれの人間に合わせて作るカスタムフィットなのですが、どうしても誤差が出てしまう。ほとんどのドライバーはその誤差に気付かないんですが、ヒルだけはその指摘ができるんですよ。そんな指摘ができるのは世界で彼だけでしょうね。ヘルメットつくりから見ると彼の開発能力は非常に優れていて、やっぱチャンピオンになる人間は違うなというのが率直な意見です」と述べている[36]。
他のドライバーとの関係
- 名付け親は父グラハムと同年代ドライバーのジョー・ボニエ。
- スターリング・モスとは誕生日が同じである。また父グラハムとフィル・ヒルは “ヒル”という同じ苗字のため仲が良かったようで、デイモンは一時期フィル・ヒルの自宅にホームステイした経験がある。
- どのチームメイトとも良好な関係を築いており、ミカ・ハッキネンと並び人格的にバランスの取れたナイスガイであった。また、ウィリアムズの広報だったアン・ブラッドショーによれば、素顔のデイモンは父グラハム似のひょうきんな性格だという。
- 1996年のチームメイトで同じ2世ドライバーでもあるジャック・ヴィルヌーヴとも関係は良好で、翌1997年のハンガリーGPでデイモンがトップ独走しながらもレース終盤で油圧トラブルで急失速し、ファイナルラップでジャックに抜かれる際にスピードの遅いマシンでダートに押しやる幅寄せを行なうも2位に後退するが、レース後は何事も無かったかのように両者抱擁し、表彰台に登る光景が見られた。
- プロストのような滑らかな走行が目標であると公言しており、引退していたプロストが1995年にマクラーレンのテストに参加した際、「僕はプロストファン(Je suis Prostophile)」と復帰を願う発言をしてフランスのスポーツ新聞「レキップ」の見出しを飾った。またプロスト自身も「93年から同じチームで戦って以来、ヒルの大ファン」と語っている[37]。
- しかし、その一方で、多くのイギリス人ドライバーの例に漏れず、マンセルは憧れの存在であり、マンセルは93年シーズン、デイモンを自身の後任に強く推薦した。デイモンは「このことは一生忘れない。ずっと感謝し続けるだろう」と感謝の言葉を述べている[38]。
- 1994年、セナ亡きあとのウィリアムズでデイモンがマシンのあるセットアップについてチームに進言していたのに無視され続けた。フランスGPにスポット参戦したマンセルが同じ点に気づいて「何でデイモンの言う通りにしないんだ!早くしろ!」と一喝した。結果、デイモンはこのレースでシーズン初のポールポジションを獲得した。
- ファン・パブロ・モントーヤのファンであることも公言している。
- 1996年の日本GPで優勝しタイトルを決めたとき、3位入賞したハッキネンに「君にも同じ日が来る」と一言。2年後、ハッキネンは最終戦、同じ日本GPで優勝して初のチャンピオンを決めた。その場でヒルは「ミカのタイトルは、まだ最初の一歩に過ぎない。彼はこれから何度もチャンピオンに輝く力を持っている」と賞賛している[39]。
- 94年5月5日のセナの葬儀に参列した。また、いわゆる「アイルトン・セナ裁判」に出廷し証言した。セナの事故死については後年、「多くの人が彼はミスをしないというが、私はそれが分からない。冷えたタイヤで走り、多くのミスを犯した。」と英オートスポーツ紙のインタビューで語っている。
- 1994年のドイツGPでは片山右京を抜こうとして接触し、レース後の記者会見で不満を述べた。しかし、同席していた片山に「だって君遅いんだもん」と言われ相手にされなかった。ただし後年は「デイモンはその後、腕を磨いたと思う」と感じるようになり、特にチャンピオンを取った後にアロウズに移籍したころは「こんなに良いドライバーだったんだ…と驚いた」と率直に語っている[40]。
シューマッハとの関係
ミハエル・シューマッハは1994年、1995年にチャンピオンを争ったライバルであり、接触による相討ちなど因縁を残している。他方、1998年には弟のラルフ・シューマッハとコンビを組んでいる。
- 1993年
- 日本GPでシューマッハが追突してリタイア、ヒルは4位入賞。
- 1994年
- イギリスGPで、フォーメーション・ラップ中にシューマッハ(予選2位)はヒル(予選1位)を追い越し、その場合レギュレーションでは最後尾グリッドに回る所を無視し、これを受けての5秒ペナルティストップ指示を(チームの解釈ミスもあって)無視、更にそれによる黒旗指示を無視する。このレギュレーション違反行為を重ねた事が問題視され、シューマッハは最終的に失格の上、2レース出場停止処分を受ける。ヒルはこのレースで優勝。
- ベルギーGPではシューマッハが先頭でゴールしヒルが続いた。しかしシューマッハは表彰式終了後に車両規定違反により失格となり、ヒルが繰り上げで優勝。このレース後にシューマッハへの2レース出場停止処分が執行され、その対象となったイタリアGPとポルトガルGPではヒルが優勝。
- 激しい雨による赤旗中断で2ヒート制となった日本GPは、実質的に順位ではなくタイムを競うレースとなった。再スタート後、ウェットコンディションの中最後までシューマッハを近づけずに走り切ったヒルが優勝し、シューマッハは2位に終わった。このレースで、ヒルはファステストラップを記録した。こうして、序盤シューマッハの独走と思われたチャンピオンシップは、予想外にも1ポイント差で最終戦までもつれることになった。
- 最終戦であるオーストラリアGPで、シューマッハとヒルは接触してともにリタイア、シューマッハは年間王者となる。このレースは、1997年ヨーロッパGPでのヴィルヌーヴとの接触とともに、シューマッハの経歴に大きな汚点を残すこととなる。
- この年、セナ死去後シューマッハは実質的なライバルがヒルになった時点から、ヒルに対し徐々に辛辣な態度を取るようになる。ヨーロッパGPの朝食時に一旦互いに和解をするも、オーストラリアGPの接触で対立は決定的となった。
- 1995年
- イギリスGPにおいて、ラップタイムで上回る2位のヒルが首位のシューマッハを追い越そうとするが、プライオリー・コーナーで接触してともにリタイア。両者ともに、はっきりとした不快感を表す。
- 雨となったベルギーGPでは、ピットストップで順位が入れ替わる中、やはりラップタイムで上回る2位のヒルが首位のシューマッハを追い越そうとして接触、最終的にシューマッハが優勝、ヒルが2位となった。シューマッハは、ヒルに対する危険な行為を行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。
- イタリアGPでは4位走行中、周回遅れの井上隆智穂を処理する際に3位走行中のシューマッハに追突。ともにリタイアに終わっている。このとき、シューマッハは掴み掛からんばかりの勢いでヒルに詰め寄った。このレース後、今度はヒルが執行猶予付きの1レース出場停止処分を受けた。
- パシフィックGPでシューマッハは年間総合優勝を決定するが、それでも表彰式後のインタビューで「(スタート直後に進路を阻まれたことについて)ヒルは僕を追い出そうとした」と発言した。
- 1997年
- 日本GPで、首位のシューマッハを周回遅れだったヒルが、約一周にわたってブロックした。シューマッハは、ヒルを抜く際に手を挙げて怒りを露わにした(しかし、すぐ後ろを走っていた2位のフレンツェンには、すんなり進路を譲っている。また、ヒルに対するペナルティも課されなかった)。
- 1998年
- カナダGPにおいて、シューマッハとヒルはトラック上でバトルを演じる。「パスさせないよう危険な運転をした」としてシューマッハはヒルを非難。ヒルは「2位を争っていたのだから、簡単にパスさせたりはしない。それに、危険な運転とはフレンツェンを追い出した誰かさんのようなことを言うものだ」と反論(同じレースでシューマッハが、ピットアウト直後に後方から迫っていたフレンツェンのラインを塞ぎ、コースアウトさせリタイアに追い込んだことを指す)。また、シューマッハにとっては逆転チャンピオンの掛かった最終戦日本GPでは、トラブルから最後尾スタートとなり怒涛の追い上げを見せるシューマッハを、同一周回で走っていたヒルが長い間先行させず、コーナーでは車1台分を空けながら抜かせない絶妙な走りを見せた。
- 1999年
- イギリスGP終了後、同GPでクラッシュしたシューマッハをジョージー夫人と一緒に、見舞いに訪れている。
- 2000年
- 2000年2月号の「F1 Racing」誌(日本版)で、ヒルが同誌の1日編集長となった。シューマッハへのインタビューも行い、その記事が掲載された[41]。
- 2010年
- 2010年5月、モナコGPのスチュワードにドライバーの代表と加わったヒルは同GPのファイナルラップ、セーフティーカー先導終了直後にフェルナンド・アロンソをオーバーテイクしたシューマッハに20秒加算のペナルティを科し、また、さらに悪質と思われる、コース上でリタイアした時にレーシングラインにステアリングを放り投げて走行中のマシンに当たりそうになり、あわや事故発生の行為を行ったルーベンス・バリチェロに対してはノーペナルティという不可解な判定を行い、レース終了後、多数の抗議の手紙を受け取った。この一連の騒動は「オーバーテイク・ゲート」と呼ばれ、シューマッハへのペナルティ自体はFIAのルールの解釈の冗長度は認められるもののルールにのっとって下されたものだが、一部メディアは1994年と1995年にシューマッハとチャンピオンシップを争ったライバルであったヒルがモナコGPのスチュワードを務めていたことを皮肉った[42]。
- 後日、Daily Expressのインタビューでヒルは「ミハエルが関係している事件を判定するように頼まれたので、多少、不自由ではあった。彼がスチュワードルームに入ってきたときに皮肉っぽい笑みを浮かべていたのは確かだ」、「大部分の人々が、私が完全に適切で正しい裁定を下したと言っているのを信じてくれることはわかっているが、すでに何通か先入観で私を非難する辛辣なメールを受け取っている。おそらく、ドライバーはスチュワードとしてよりも、むしろスチュワードのコンサルタントとして働く方が適切かもしれない」と語っている[43]。
エピソード
人物像
- 大の甘党である。寿司も大好物。デイモンがワールドチャンピオンを獲得した1996年のシーズンを記録したドキュメンタリービデオ『デイモン・ヒル F1GP '96ワールドチャンピオン ~栄光への軌跡~』では、デイモンが醤油をつけずに寿司を食べる姿を見ることができる。ローストビーフも好物である。
- 2輪レースへの参戦歴があるように、オートバイ世界グランプリ(MotoGP)のファンである。F1にステップアップする以前に受けた自宅訪問インタビューでは自室の棚にタミヤ模型製のケニー・ロバーツ・ヤマハ・YZR500の1/12スケールモデルが飾られていた。
- 1993年に初優勝したとき、緊張のあまり表彰台で観衆に向かってお辞儀をしてしまった(デイモン・ヒル著「Grand Prix Year」より)。
- 小柄な選手が多いF1ドライバーとしては長身 (182cm) で、足のサイズも大きい (29cm) 。そのため、1997年に移籍したアロウズではモノコックを当初の設計から一部変更した。 もっともウィリアムズ時代からモノコックとのフィッティングには苦労しており、96年型のFW18でやっと完璧なドライビングポジションを取ることができたという[44]。
- カテゴリーのステップアップに時間がかかりF1にたどり着く前に年齢が30代に入っていたことから、関係者から若く見られるように若白髪を黒く染め続けていたとインタビューで話している。
- 血液型はRh+O型。
- 飛行機のファーストクラスはデイモン自身としては「不相応な金の浪費」でしかないと言う見解であるが、「プライバシーを確保したい場合はそれに見合う価値はある」としている[22]。
家族
- 父:グラハム 母:ベティ 姉妹:ブリジット、サマンサ
- 妻:ジョージー(スーザンマリー)、子:オリバー、ジョシュ、タビサ、ロジー、ペット:犬3匹、猫1匹[45]
- ヘルメットのデザインは父グラハムのシンボルを受け継いでいる。黒地に入る白いラインは元ボート選手だったグラハムがオールをイメージして入れたものである。
- 少年時代はレースは日常生活の一部であり、父親の仕事という意識しかなかったという[46]。レースに興味を持ち始めたのは、父が現役引退してチーム運営に専念するようになってからだった[46]。レーサーとしての駆け出し時代は「グラハムの息子」として注目され続けたことが辛く、「今は十分満足しているけど、もしできることならあの頃に戻って、違う名前でやり直してみたい」と語っている[46]。
- 父グラハム死後は窮乏生活を強いられ、デイモンがレーサーとして活躍する姿を父グラハムがこの目で見る事は叶わず、他の裕福な環境の2世ドライバーとは異なり、「偉大な父と重ね合わせて比べられる」という苦しみばかりを味わい続けて来た[47]。
- 長男がダウン症のため、夫婦そろって慈善活動には積極的である。1999年のイギリスGPで売り上げたヒルブランドの売上全額を寄付した。
- 次男ジョシュア・ヒル(ジョシュ)はヒル家3世代目のレーサーとなっている。2008年にBTCCの前座レース、ジネッタ・ジュニア・シリーズに参戦。初参戦ながらもポールポジション、ファステスト・ラップを記録し、上位に食い込む活躍をみせ、同選手権を3位で終了。翌2009年から2年間フォーミュラ・フォードに参戦し、2010年は5勝し同選手権5位で終了。2011年からフォーミュラ・ルノーイギリス選手権に参戦。デイモンは息子のレースデビュー時に以下のように答えている。「彼がどの程度成長するかについて大げさに言うつもりはない。単に試しにやっているだけだ」[48]。ジョシュアは2013年7月9日をもってモーターレーシングから引退を発表、今後は音楽の道へ進むという。
音楽
- 若い頃は「セックス・ヒトラー・アンド・ホルモンズ」というパンク・ロック・バンドをやっていた。ジョーダン・チームのオーナーであるエディ・ジョーダンとは、よくイベントで一緒に演奏していたようである。ギターの腕はプロ級で、親交のあるイギリスHRバンドデフ・レパードの1999年発売のアルバム『Euphoria』に収録されている「Demolition Man」では、彼のギターソロを聴くことができる。
- 音楽関係者との交友が多く、ヒルと顔がそっくりと云われた元ビートルズの故ジョージ・ハリスンとの仲の良さは特に有名である。デイモンがF3参戦時、参戦資金不足からジョージに支援依頼の手紙を送った際、ジョージはこの申し入れを快諾。後にF1チャンピオンになったデイモンは返済を申し出るが、ハリスンはこれを笑って辞退したと言うエピソードもある[49]。ハリスンは応援に駆けつけた1995年のオーストラリアGP終了後、親友デイモンが優勝して上機嫌だったのか『ビートルズ・アンソロジー』の発売を公式発表の前に思わず漏らしてしまった。また、マーティン・スコセッシ監督が務めたハリスンの58年の生涯を振り返るドキュメンタリー映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』ブルーレイ&DVD(2011年12月23日発売)の映像特典の中にデイモンのジョージについて語ったインタビューが収録されている)[50]。ジョージ・ハリスンの没後、ジョージの愛車であったマクラーレン・F1を譲り受け、現在もガレージで保管している。
- 1995年のポルトガルGPにはミック・ジャガーが陣中見舞いに訪れ、1997年はロン・ウッドの誕生日にも招かれた[51]。
記録
- 1992年チャンピオンのマンセルと、1993年チャンピオンのプロストがそれぞれウィリアムズでタイトルを獲得して離脱してしまったため、カーナンバー1を付ける選手が不在の1993年と1994年に、ヒルはカーナンバー0を付けていた。ヒルの他にF1でカーナンバー0を付けたドライバーの例は、1973年のカナダGPとアメリカGPのジョディー・シェクター(当時マクラーレン)のみである。シェクターもヒルと同様に後にタイトルを獲得している。なお、シェクターは前述の2レースともリタイアしており、また2014年以降のF1では固定カーナンバー制度が制定されたが、2~99までとなっているため、カーナンバー0で入賞や優勝を記録したのはヒルのみとなっている。
- アデレードとメルボルンで行われた両方のオーストラリアGPを制した唯一のドライバーである。また、1995年最終戦と1996年開幕戦の2戦連続で同一GP(オーストラリアGP)を優勝するという珍記録を残している。
- 初優勝した1993年のハンガリーGPで、親子2世共に優勝を果たしたF1史上初の快挙となる。
- そのハンガリーGPでは現役時代全て完走、1992年以外は全て入賞圏内と言う相性の良さを見せる。中でも先述の1997年はトップクラスとは言えないマシンであわや優勝と言う走りを見せた。
- モナコ・マイスターと呼ばれた父グラハムに対し、デイモンはモナコGPで1勝もあげることが出来なかった。1996年には、トップを独走しながらエンジンブローで好機を逸した。
- 逆に父グラハムが果たせなかった地元・イギリスGPでの勝利を1994年に果たしている。
その他
- 1992年当時、ブラバムに聖飢魔IIがスポンサーとしてついていたが、そのことについてデーモン小暮閣下曰く、「ドライバーが“デーモン”ヒルだから」と笑っていいとものテレフォンショッキングで語っていた。尚、人名としての“デイモン”の綴りはDamon(ギリシャ伝説で、進んで友人の身代わりとなった人物Damonに由来)であり、悪魔を意味する“デーモン”はdemonと綴るため、両者に意味上の関連性はない。
- 1993年モナコGPでアイルトン・セナが父グラハムの持つモナコGP5勝の記録を塗り替えた際「もし父が生きていたなら真っ先にアイルトンを祝福しに来たでしょう」と発言している。
- 2012年の ロンドンオリンピックの馬術でドイツから参加した女性選手、ランゲハネンベルグの愛馬の名前が“デイモン・ヒル”という名で、個人競技で4位、団体戦でイギリスに次ぐ2位に入り銀メダルに貢献した[52]。
個人記録
F1参戦以前
- 1983年 フォーミュラ・フォード2200 BBCグランドスタンド・ウィンターシリーズ スポット参戦
- 1984年 フォーミュラ・フォード1600ジュニア参戦
- 1985年 フォーミュラ・フォード1600 6勝 エッソ選手権3位・RAC選手権5位
- 1986年 イギリスF3 最高2位 シリーズ9位(マーレイ・テーラー・レーシング ラルトRT30・VW)
- 1987年 イギリスF3 2勝 シリーズ5位(インタースポーツ・レーシング ラルトRT31・トヨタ)
- 1988年 イギリスF3 2勝 シリーズ3位(インタースポーツ・レーシング ラルトRT32・トヨタ)
- 国際F3000 スポット参戦(GAモータースポーツ ローラT88/50・DFV)
- 1989年 国際F3000 6戦参戦 最高14位(フットワーク・フォーミュラ ムーンクラフトMC041・無限)
- イギリスF3000 2戦参戦 最高3位 (コブラ・モータースポーツ レイナード88D・DFV)
- イギリスツーリングカー選手権 スポット参戦
- ル・マン24時間レース出場 (Richard Lloyd Racing ポルシェ・962)
- 1990年 国際F3000 最高2位 PP3回 FL2回 シリーズ13位(ミドルブリッジ・レーシング ローラT90/50・DFV)
- 1991年 国際F3000 最高3位 シリーズ7位(バークレイ・チームEJR ローラT90/50・DFV)
F1での年度別成績
年 | チーム | シャーシ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | ランキング | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992年 | ブラバム | BT60B | RSA | MEX | BRA | ESP DNQ |
SMR DNQ |
MON DNQ |
CAN DNQ |
FRA DNQ |
GBR 16 |
GER DNQ |
HUN 11 |
BEL | ITA | POR | JPN | AUS | NC (30位) |
0 | |
1993年 | ウィリアムズ | FW15C | RSA Ret |
BRA 2 |
EUR 2 |
SMR Ret |
ESP Ret |
MON 2 |
CAN 3 |
FRA 2 |
GBR Ret |
GER 15 |
HUN 1 |
BEL 1 |
ITA 1 |
POR 3 |
JPN 4 |
AUS 3 |
3位 | 69 | |
1994年 | FW16 FW16B |
BRA 2 |
PAC Ret |
SMR 6 |
MON Ret |
ESP 1 |
CAN 2 |
FRA 2 |
GBR 1 |
GER 8 |
HUN 2 |
BEL 1 |
ITA 1 |
POR 1 |
EUR 2 |
JPN 1 |
AUS Ret |
2位 | 91 | ||
1995年 | FW17 FW17B |
BRA Ret |
ARG 1 |
SMR 1 |
ESP 4 |
MON 2 |
CAN Ret |
FRA 2 |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN 1 |
BEL 2 |
ITA Ret |
POR 3 |
EUR Ret |
PAC 3 |
JPN Ret |
AUS 1 |
2位 | 69 | |
1996年 | FW18 | AUS 1 |
BRA 1 |
ARG 1 |
EUR 4 |
SMR 1 |
MON Ret |
ESP Ret |
CAN 1 |
FRA 1 |
GBR Ret |
GER 1 |
HUN 2 |
BEL 5 |
ITA Ret |
POR 2 |
JPN 1 |
1位 | 97 | ||
1997年 | アロウズ | A18 | AUS DNS |
BRA Ret |
ARG Ret |
SMR Ret |
MON Ret |
ESP Ret |
CAN 9 |
FRA 12 |
GBR 6 |
GER 8 |
HUN 2 |
BEL 13 |
ITA Ret |
AUT 7 |
LUX 8 |
JPN 11 |
EUR Ret |
12位 | 7 |
1998年 | ジョーダン | 198 | AUS 8 |
BRA DSQ |
ARG 8 |
SMR 10 |
ESP Ret |
MON 8 |
CAN Ret |
FRA Ret |
GBR Ret |
AUT 7 |
GER 4 |
HUN 4 |
BEL 1 |
ITA 6 |
LUX 9 |
JPN 4 |
6位 | 20 | |
1999年 | 199 | AUS Ret |
BRA Ret |
SMR 4 |
MON Ret |
ESP 7 |
CAN Ret |
FRA Ret |
GBR 5 |
AUT 8 |
GER Ret |
HUN 6 |
BEL 6 |
ITA 10 |
EUR Ret |
MAL Ret |
JPN Ret |
12位 | 7 |
・FW16 1994年開幕戦~第8戦まで。第9戦~最終戦まで、FW16B
・FW17 1995年開幕戦~第12戦まで。第13戦~最終戦まで、FW17B
脚注
- ↑ プロストのチームメイトにミカ・ハッキネンと契約したが、フランク・ウィリアムズは1993年シーズンのエントリーを忘れていたため、ウィリアムズがハッキネンを参戦させるには他の全チームの承認が必要となった。しかしハッキネンを取り返したかったピーター・コリンズ(ロータス)が認めなかったため、ウィリアムズはハッキネンとの契約を断念した[1]という説と、ロータス側は「93年もハッキネンは残留」と発表したが、それは口約束という情報を掴んだウィリアムズがロータスと交渉。コリンズは金銭的条件(6億円)次第では応じようと目論んでいたが、両者は決裂、結局1992年の12月14日にデイモンとの契約を発表した[2]という説がある。
- ↑ 1997年のドライバーとしてヒルの代わりにウィリアムズが契約したのは、ドイツ人のハインツ=ハラルド・フレンツェンだったが、結果的にウィリアムズがBMWエンジンを獲得したのは、そのフレンツェンが離脱した後の2000年になってからであった。なお、フレンツェンは1999年にジョーダンでのチームメイトとしてヒルを圧倒したが、両者の関係は良好であった。
- ↑ 当時、ヤマハのプロジェクトリーダーを務めた木村隆昭は「107%圏内に入れたのは全くデイモンの技量のおかげです」と語っている。また、チームメイトのペドロ・ディニスは107%ルールをクリア出来ず、フリー走行でのタイムを考慮した上で決勝出走が認められた[13]。
- ↑ 2016年にヒル親子に続く2例目の親子でのF1ワールドチャンピオンとなったニコ・ロズベルグ(父・ケケ・ロズベルグ)は、この年の最終戦終了直後に31歳で引退を表明している。
出典
- ↑ 『F1速報 7月16日号「フランスGP号」』第9巻第13号、ニューズ出版、1998年7月16日、 39頁。
- ↑ 「“フライング・フィン”飛んでしまったマクラーレン」、『F1グランプリ特集 1993年4月号』、ソニー・マガジンズ、 79-81頁。
- ↑ 『AS+F』96年開幕直前号、三栄書房page=44。
- ↑ 4.0 4.1 いぶし銀のデイモン・ヒル、1996年の鈴鹿でビルヌーブを退け初戴冠 Web Sportiva(集英社) 2018年8月21日。
- ↑ “ニューイ離脱を悔やむウィリアムズ代表”. ESPN F1. (2012年2月27日) . 2018閲覧.
- ↑ 『GPX』MONACO GP、山海堂、1997年、 28頁。
- ↑ GP CAR Story Vol.23 アロウズ・A18 デイモン・ヒルインタビュー P81 2018年7月16日閲覧。
- ↑ 『GPX(F1 Grand Prix Xpress)』BELGIUM GP、山海堂、1997年、 30-31頁。
- ↑ 「質問があるなら直に訊け:フランク・ウィリアムズ」、『F1 RACING 日本版』2008年7月号、三栄書房、 36頁。
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 「浜島裕英インタビュー」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 57頁。
- ↑ 「デイモン・ヒルインタビュー」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 77頁。
- ↑ 「ショックを隠せなかった"王者"ヒルが語るA18デビュー戦」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 21頁。
- ↑ 『GPX』、山海堂、1997年、 16頁。
- ↑ 14.0 14.1 『'97F1総集編 AS+F』 三栄書房。
- ↑ 「デイモン・ヒルインタビュー」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 78頁。
- ↑ 16.0 16.1 「最終ラップで幻と消えた奇跡的勝利」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 72頁。
- ↑ 「デイモン・ヒルインタビュー」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 79頁。
- ↑ 「デイモン・ヒルインタビュー」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 80頁。
- ↑ 「片山右京インタビュー」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 69頁。
- ↑ 「デイモン・ヒルインタビュー」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 81頁。
- ↑ 21.0 21.1 ニキ・タケダ「デイモンの思惑」、『F1速報 オーストリアGP号』、ニューズ出版、1999年、 38-39頁。
- ↑ 22.0 22.1 デイモン・ヒルが語る長距離移動の過ごし方 RedBull公式サイト 2018年8月15日閲覧。
- ↑ ヒル、スカイの一員に ESPN F1 2012年1月17日、2018年8月15日閲覧。
- ↑ “デイモン・ヒル、BRDC会長を退任”. F1Gate/com. (2011年6月8日)
- ↑ “BRDC会長に選任されたワーウィック”. ESPN F1. (2011年8月25日)
- ↑ “ウィリアムズ、ヒル新代表のうわさを否定”. ESPN F1. (2012年7月16日)
- ↑ “CYMA Damon Hill”. TotalSportsAsia . 2015閲覧.
- ↑ 「ミハエル・シューマッハ デビュー20周年記念インタビュー」、『F1レーシング日本版 2011年10月情報号』、イデア、2011年、 44頁。
- ↑ 「浜島裕英インタビュー」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 58-59頁。
- ↑ 「デイモン・ヒルインタビュー」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 76頁。
- ↑ 「同郷ジャーナリストが振り返るディニスの97年成長劇「ペドロ、元気かい?」」、『GP CAR STORY』Vol.23 アロウズA18・ヤマハ、三栄書房、 84頁。
- ↑ 『Number』1996年10月24日号、文藝春秋社。
- ↑ 『GRAND PRIX SPECIAL』1996年6月号、ソニー・マガジンズ、 27頁。
- ↑ 『GRAND PRIX SPECIAL』1996年6月号、ソニー・マガジンズ、 26頁。
- ↑ 『GPX』BRAZIL GP、山海堂、1997年、 33頁。
- ↑ 『GPX』AUSTRALIA GP、山海堂、1997年、 17頁。
- ↑ 『GPX』SPAIN GP 山海堂、28頁、1997年。
- ↑ 『GPX』MONACO GP、山海堂、1995年、 30頁。
- ↑ 『AS+F F1 1998 総集編』、三栄書房、 6頁。
- ↑ 『GP Car Story vol.7「Williams FW16」』 三栄書房〈サンエイムック〉、2014-03-07。ISBN 9784779621321。
- ↑ 『F1 RACING 日本版』2000年2月号、三栄書房。
- ↑ “「オーバーテイクゲート」の全容”. GPUpdate (2010年5月18日). . 2015閲覧.
- ↑ “デイモン・ヒル 「私は正しい裁定をした」”. F1-Gate.com. (2010年5月18日)
- ↑ 『F1 RACING 日本版』2008年8月号、三栄書房、 55頁。
- ↑ 『F1 RACING 日本版』2006年3月号、三栄書房、 56頁。
- ↑ 46.0 46.1 46.2 『F1速報 テスト情報号』 ニューズ出版、1993年、62-63頁。
- ↑ いぶし銀のデイモン・ヒル、1996年の鈴鹿でビルヌーブを退け初戴冠 (3) web sportiva(集英社) 2018年8月21日、同9月4日閲覧。
- ↑ “デイモン・ヒルの息子(ジョシュア)、レーシング・キャリアをスタート”. F1通信 (2008年2月21日). . 2015閲覧.
- ↑ 『F1 RACING 日本版』2008年8月号 三栄書房、71項
- ↑ ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド DVD&Blu-ray(2011年11月26日時点のアーカイブ) - Amazon.co.jp
- ↑ 『GPX』CANADA GP、山海堂、1997年、 28頁。
- ↑ “五輪の"デイモン・ヒル"に銀メダル”. ESPN F1. (2012年8月10日)
関連項目
外部リンク
- P1 Prestige and Performance Car Club公式サイト - P1インターナショナル。デイモン・ヒルが主催する会員制自動車クラブ
タイトル | ||
---|---|---|
先代: ミハエル・シューマッハ |
F1ドライバーズチャンピオン 1996年 |
次代: ジャック・ヴィルヌーヴ |
テンプレート:ブラバム
テンプレート:ウィリアムズ
テンプレート:アロウズ