タシュケント
タシュケント Toshkent | |
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位置 | |
座標 : 東経69度16分北緯41.3度 東経69.267度 | |
行政 | |
国 | ウズベキスタン |
行政区画 | タシュケント特別市 |
市 | タシュケント |
地理 | |
面積 | |
市域 | 334.8 km2 |
標高 | 455 m |
人口 | |
人口 | (2012年現在) |
市域 | 2,197,907人 |
備考 | [1] |
公式ウェブサイト : http://www.tashkent.uz/ |
タシュケント(ウズベク語: Toshkent, Тошкент [tɒʃˈkent]、ロシア語: Ташкент, Tashkent, [tɐʂˈkʲent])は、ウズベキスタンの首都。ウズベキスタン北東部、シルダリヤ川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市。
都市名はテュルク語で「石の町」という意味である。ペルシア語表記ではتاشكند (Tāshkand) であり、タシケントと表記されることも多い。
歴史
タシュケントはソグド語での古名をチャーチュ (c'c : Čāč)、またはチャーチュカンドともいい、ペルシア語でもチャーチュ( چاچ Chāch)と称し、アラビア語ではシャーシュ( شاش Shāsh)と呼ばれた。『シャー・ナーメ』でもそのように記されている。チルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原・天山山脈北麓の遊牧地帯とマー・ワラー・アンナフルのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。 康居の中心地であったと推定される。
国際交易では中国にまで名を知られ、『後漢書』以来石国と呼ばれた。また「チャーチュ」の音写として「者舌」(『魏書』)や隋唐時代の「柘支」、玄奘三蔵の『大唐西域記』では「赭時」と書かれた。ソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年には唐の将軍高仙芝が石国に侵攻したためにシャーシュ(チャーチュ)はイスラム帝国に支援を求め、タラス河畔の戦いのきっかけをつくった。その後、さまざまなイスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。サーマーン朝時代にはBinkathとも呼ばれた。
カラハン朝の10世紀末頃から「タシュケント」の名も現れる。1214年にはホラズム・シャー朝に、1219年にはチンギス・カンに、それぞれ破壊される。しかし、ティムール朝そしてシャイバーニー朝によって町は再建される。『西域番国志』によると、15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「達失干」と記録されている)を訪れている。
モンゴル帝国時代にはペルシア語の「チャーチュ」やアラビア語の「シャーシュ」で呼ばれるのが一般的であったようだが、ムガル朝の始祖バーブルは自伝である『バーブル・ナーマ』において「タシュケンドは書物には“シャーシュ”または“チャーチュ”と書かれて」いると述べており、彼が中央アジアで活躍した16世紀頃には既に「タシュケント」の方がティムール朝の王族たちなどではより一般化していたらしいことが伺える。都市の名前が「チャーチュ(シャーシュ)」から「タシュケント」へ変化した原因は、恐らく「チャーチュ」の音写に由来する「石国」をウイグル地方などのテュルク語で直訳した形だと思われるが、これが現地でも使われるようになったのはウイグル地方とマー・ワラー・アンナフル双方を領有していたチャガタイ・ウルスの影響が考えられる。
タシュケントは、1809年にはコーカンド・ハン国の支配下に入った。当時、人口は10万人を越えてロシアとの交易で栄える経済都市となった。
1865年、帝政ロシア軍が夜間攻撃で侵攻、防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシュケントを直轄領に組み入れ、1867年にトルキスタン総督府が設置され、ロシアの中央アジア支配の拠点となった。旧市街の外側にロシア人の住む新市街ができ、ロシア人商人などが続々と移住してきた。また、中央アジアをめぐるロシアと英国の衝突で、スパイの暗躍する町となった。1874年のトルキスタン軍管区設置や1889年のカスピ海横断鉄道延伸などの新事業に従事する労働者階級のロシア人は、やがてロシア革命の中央アジアでの担い手となっていった。
ロシア革命が起こると、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、英国のフレデリック・ベイリーらスパイの暗躍する町となった。1924年にはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、1930年、サマルカンドに代わって首都となった。
第二次世界大戦が起こると、ナチス・ドイツの侵攻を受けたヨーロッパ・ロシアから工場が疎開され、市の工業化が進み、ロシア人の割合も急増していった。戦後シベリア抑留を受けた日本人捕虜はここタシュケントにも回され、中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場たるナヴォイ劇場の工事などに従事した。過酷な強制労働にも関わらず、後述の地震にも全くの無傷という見事な仕事がなされており、他にも道路・工場といった多くのインフラが今でも現役で機能していることとあわせ、現在ウズベキスタンで親日感情が高いことの一因となっている。
1966年4月26日、大地震に見舞われ、78000棟の家屋が倒壊した。地震後、計画的な都市作りが行われた。そのため非常にソ連的な町並みとなり、最盛期にはソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長した。ウズベキスタン独立後の今日でも大きなロシア人社会を抱えているが、町並みからロシア色は消えつつあり、イスラム原理主義の動きも出ている。
気候
ケッペンの気候区分では地中海性気候に属する。夏は、7月の平均気温が27.8℃で、最高気温は40度に達する日も多く、暑さと乾燥が厳しいが朝晩は涼しくなる。冬は降水量が多く、1月の平均気温は1.9度と寒さはそれほど厳しくないため雨の場合が多いが、寒気による影響で積雪となることもある。年によってはマイナス15度前後まで下がることもあり、過去には-28.0度を記録している。年間平均気温は14.8度。年間総降水量は440mmである。
タシュケント (1981-2010)の気候資料 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 22.2(72) | 25.7(78.3) | 32.5(90.5) | 36.4(97.5) | 39.9(103.8) | 43.0(109.4) | 44.6(112.3) | 43.1(109.6) | 39.8(103.6) | 37.5(99.5) | 31.1(88) | 27.3(81.1) | 44.6(112.3) |
平均最高気温 °C (°F) | 6.8(44.2) | 9.4(48.9) | 15.2(59.4) | 22.0(71.6) | 27.5(81.5) | 33.4(92.1) | 35.7(96.3) | 34.7(94.5) | 29.3(84.7) | 21.8(71.2) | 14.9(58.8) | 8.8(47.8) | 21.6(70.9) |
日平均気温 °C (°F) | 1.9(35.4) | 3.9(39) | 9.4(48.9) | 15.5(59.9) | 20.5(68.9) | 25.8(78.4) | 27.8(82) | 26.2(79.2) | 20.6(69.1) | 13.9(57) | 8.5(47.3) | 3.5(38.3) | 14.8(58.6) |
平均最低気温 °C (°F) | -1.5(29.3) | 0.0(32) | 4.8(40.6) | 9.8(49.6) | 13.7(56.7) | 18.0(64.4) | 19.7(67.5) | 18.0(64.4) | 12.9(55.2) | 7.8(46) | 4.1(39.4) | 0.0(32) | 8.9(48) |
最低気温記録 °C (°F) | −28.0(-18) | −25.6(-14.1) | −16.9(1.6) | −6.3(20.7) | −1.7(28.9) | 3.8(38.8) | 8.2(46.8) | 3.4(38.1) | 0.1(32.2) | −11.2(11.8) | −22.1(-7.8) | −29.5(-21.1) | −29.5(-21.1) |
降水量 mm (inches) | 53(2.09) | 64(2.52) | 69(2.72) | 61(2.4) | 41(1.61) | 14(0.55) | 4(0.16) | 1(0.04) | 6(0.24) | 24(0.94) | 44(1.73) | 59(2.32) | 440(17.32) |
% 湿度 | 73 | 68 | 62 | 60 | 53 | 40 | 39 | 42 | 45 | 57 | 66 | 73 | 56 |
平均降水日数 | 13.7 | 12.3 | 13.8 | 12.9 | 10.2 | 5.1 | 2.9 | 1.9 | 3.2 | 8.1 | 10.2 | 12.8 | 107.1 |
日照時間 | 124.0 | 112.0 | 155.0 | 240.0 | 310.0 | 360.0 | 403.0 | 372.0 | 300.0 | 248.0 | 150.0 | 124.0 | 2,898 |
出典#1: Pogoda.ru.net[2], World Meteorological Organisation (number of precipitation days)[3] | |||||||||||||
出典#2: Hong Kong Observatory (sun only)[4] |
人口統計
1983年時点において、タシュケント256km2圏内に住む人口は約1,902,000人であった。1991年、タシュケント在住者の人数は約2,136.600人へと増大した。タシュケントは旧ソビエト連邦内において、モスクワ、レニングラード(サンクトペテルブルク)、キエフに続く人口第4の都市となった。今日、タシュケントはCIS諸国とバルト三国を合わせた中において人口第4の都市の地位を維持している。 2012年1月1日時点のタシュケントの人口は約2,309,300人である[5][6]。 (これには100~120万人ほどの一時的な移民を含まれていると推定されている[1]。)
現在のタシュケントの民族構成はウズベク人が多数を占め、ロシア人やウクライナ人などが半数程度を占めていたソ連時代と比べるとスラヴ系の白人は激減した。また、民族調査ではウズベク人としてカウントされているタジク人も相当数いると見込まれる他、タタール人、クリミア・タタール人やアルメニア人、高麗人などで構成される多民族都市となっている。
地区
タシュケントは現在以下の地区(ウズベク語: Tuman)に分かれている。
番号 | 地区名 | 人口 (2009)[7] |
面積 (km2)[7] |
人口密度 (人/km2)[7] |
地図 |
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1 | ベクテミール地区 | 27,500 | 20.5 | 1,341 | 50px |
2 | チランザール地区 | 217,000 | 30.0 | 7,233 | 50px |
3 | ハムザ地区 | 204,800 | 33.7 | 6,077 | 50px |
4 | ミラバード地区 | 122,700 | 17.1 | 7,175 | 50px |
5 | ミルザ・ウルグベク地区 | 245,200 | 31.9 | 7,687 | 50px |
6 | セルゲリ地区 | 149,000 | 56.0 | 2,661 | 50px |
7 | シャイハンターフル地区 | 285,800 | 27.2 | 10,507 | 50px |
8 | アルマザール地区 | 305,400 | 34.5 | 8,852 | 50px |
9 | ウチュテパ地区 | 237,000 | 28.2 | 8,404 | 50px |
10 | ヤッカサライ地区 | 115,200 | 14.6 | 7,890 | 50px |
11 | ユヌサバード地区 | 296,700 | 41.1 | 7,219 | 50px |
トルキスタン総督府が置かれていた時代は以下の4つの地区 (daha) から成り立っていた。
- ベシュヤグハチュ
- ククチャ
- シャイハンターフル
- セブザール
1940年に地区 (ロシア語: район) の見直しが行われた。
1981年までに以下のように組織改編された[8]。
- ベクテミール
- アクマル・イクラモフ (ウチュテパ)
- ハムザ
- レーニン (ミラバード)
- クイビシェフ (ミルザ・ウルグベク)
- セルゲリ
- オクティアブル (シャイハンターフル)
- サビル・ラヒモフ (アルマザール)
- チランザール
- フルンゼ (ヤッカサライ)
- キーロフ (ユヌサバード)
観光
1917年のロシア革命で一旦古い町並みが破壊され、さらに1966年のタシュケント地震で古い建物はほとんどが破壊されたため歴史ある建物は数少ない。しかし、タシュケントはソビエト連邦時代に建設されたモニュメントなどの像が多く街に残っている。ウズベキスタンの首都、および中央アジア最大の都市ということもあり、観光施設も多い。[9]
- タシュケントタワー、中央アジアで最も高い建築物である。(375メートル)
- クケルダシュ・マドラサ、ブハラ・ハン国のアブドゥッラーフ2世 (1557-1598) の治世に建設されたマドラサ。現在マー・ワラー・アンナフルイスラム会により修復作業が行われている。内部を博物館へと作り変える議論も行われているが、2013年時点ではモスクとして使用されている。
- チョルスー・バザール、クケルダシュ・マドラサの付近に位置する。巨大な屋外バザールはタシュケント旧市街の中心的な役割を担っている。想像しうる全ての物が販売されているとされる。
- テリャシャヤフ・モスク (ハスト・イマーム・モスク)、このモスクには世界最古のクルアーン (イスラム教の教典) とされるウスマーン写本が置かれている。殺害された第3代正統カリフ、ウスマーンの血痕が付着しているとされる。ティムールによりサマルカンドへと持ち帰られたと考えられている。トルキスタン総督府時代に一旦サンクトペテルブルクへと持ち去られたものの、1924年に再びウズベキスタンに返還された[10]。
- ウズベキスタン外務省迎賓館 (旧称: ニコライ・コンスタンチノヴィチ・ロマノフ大公宮殿) 19世紀にアレクサンドル3世の初のいとこであったニコライ・コンスタンチノヴィチ大公はアメリカ合衆国の娼婦に唆される形でロシア帝国の宮殿から宝石を盗み出し、精神面で問題が在るとされてタシュケントへと追放された。彼の宮殿は現在も街の中心部に残っており、ウズベキスタン国立美術館として利用された後、現在はウズベキスタン外務省の迎賓館として利用されている。ソ連建築の中、イギリス風の建築は目立つ。
- アリシェル・ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。モスクワにあるレーニン廟と同じ設計者であるアレクセイ・シューセフにより設計された。第二次世界大戦の際、シベリア抑留により日本の軍人が多数タシュケントへと連行され、この建物の礎を築いた。
- ヤッカサライ地区のヤッカサライ市民墓地内にタシケント抑留日本人墓地がある。ここには、太平洋戦争終戦直後、中国東北地方(満洲)や樺太に駐留していた日本兵約57.5万人が、武装解除後にソヴィエト連邦により強制的にソビエト連邦内のシベリアや中央アジアへ連行され、強制的に労働を強いられた。ウズベキスタンへはそのうち約2万3千名の日本兵捕虜が移送されウズベキスタン各地で長期的な抑留生活を送り、その間に884名が帰らぬ人となった。このヤッカサライにある日本人墓地は、タシケント地区及びウズベキスタン各地で亡くなった抑留日本人の共同墓地である。
- 「ウズベキスタンで1940年代に生活した日本人の記録」資料館がヤッカサライ市民墓地の入り口前にある。このような日本語のサインが建てられている、Jalil Sultanov氏が運営する抑留日本人に関する歴史資料館であり、抑留者がウズベキスタンで生活していた当時の写真や文書が展示されている。
- ウズベキスタン国立美術館、世界各国の美術品約5万点の展示。主力は近世ロシアの美術品コレクション。手製の刺繍であるスーザニのような、19~20世紀の近代応用美術品とともに、ロシア帝国以前のソグディアナの壁画、仏像やゾロアスター教美術のような美術品が展示されている。より興味深いのは、タシュケントに幽閉されていたニコライ・コンスタンチノヴィチ大公が、自身の宮殿を華やかなものとするためにエルミタージュ美術館から借りて、返還されなかった絵画の大規模コレクションである。美術館の後ろには小さな公園があり、1917年のロシア革命と1919年のコンスタンチン・オシポフの反乱で死亡したボルシェヴィキの荒れ果てた墓がある。ここにはウズベクSSR初の大統領ユルダシュ・アフンババイェフも眠っている。
- ウズベキスタン国立応用美術館、陶芸品など、19世紀前半の美術品約7000点が展示。伝統のある施設はロシア帝国の裕福な外交官から寄付されたものであり、施設自体が主な見どころとなっている。また19~20世紀の中央アジアやロシアの応用美術品が展示されている。
- ウズベキスタン国立歴史博物館、ウズベキスタン国内だけでなく中央アジア最古の歴史博物館である。
- アミール・ティムール博物館、鮮やかな青のドームと東洋風の内装が非常に目を引く建物。ティムール朝時代に関する展示を行なっている他、イスラム・カリモフ大統領の展示もある。隣接するアミール・ティムール広場には馬の背に乗ったティムールの像が設置されており、付近の広い庭園と噴水は市民の憩いの場となっている。
- ナヴォイ文学博物館、ウズベキスタン文学最大の英雄とされるアリー・シール・ナヴァーイー(アリシェル・ナヴァーイー)を記念した博物館。レプリカの著書のほか、ペルシアのカリグラフィーや15世紀のミニアチュールなどが展示されている。
- タシュケント動物園、水族館も併設。約370種の生物が展示されている。
アミール・ティムール広場に設置されていたロシア正教会は1898年に建設されたが、2009年に取り壊された[11][12][13]。
また、タシュケント郊外のチャルヴァク湖は行楽地として有名で、マリンスポーツ、ウィンタースポーツを楽しむことができる。
都市開発
- 中央アジアで2つしかない地下鉄のある都市である(もう一つはカザフスタンのアルマトイ)。
- 独立広場にはかつてソビエト連邦でもっとも高いウラジーミル・レーニンの像(約30m)が建設されていた。レーニン像は1992年に撤去され、代わりにウズベキスタンの位置を示した地球儀の像が設置された。
- ウズベキスタン政府、労働組合、民間の医療施設や歯科施設がある。
- アーンスト・アンド・ヤング、デロイト トウシュ トーマツ、プライスウォーターハウスクーパース、Gravamen Fidelis、Fides LLPなどのアメリカ合衆国やヨーロッパのコンサルティング会社の事務所がある[14]。
教育
タシュケントには、ウズベキスタン科学アカデミーのような国内でも重要とされる科学研究所が設置されている。タシュケントには大学や研究所をはじめとする複数の高等教育機関がある。
- タシュケント自動車道路建設研究所[15]
- タシュケント州立技術大学
- タシュケント建築研究所[16]
- 国際ビジネススクール「ケラジャク・イルミ」[17]
- タシュケント情報技術大学[18]
- ウェストミンスター国際大学タシュケント校[19]
- ウズベキスタン国立大学[20]
- 世界経済外交大学
- タシュケント州立経済大学
- タシュケント州立法学研究所
- タシュケント金融研究所
- タシュケント州立外国語大学
- 音楽学校
- タシュケント小児医学研究所[21]
- タシュケント州立医学アカデミー[22]
- 東洋学研究所
- タシュケント・イスラム大学[23]
- シンガポール経営開発研究所タシュケント校[24]
- タシュケント紡績軽工業研究所[25]
- タシュケント鉄道輸送技術者研究所[26]
メディア
- ウズベク語による新聞9紙が発行されており、その他に英字新聞4紙、ロシア語新聞9紙が発行されている。
- 複数のテレビ局とケーブルテレビ局が中央アジア最大の建築物であるタシュケントタワーから電波に乗せて放送を行なっている。
また、中央アジアでは最も早く2008年にデジタル放送が導入され、2015年を目処に完全移行する予定である[27]。(その後、トルクメニスタンでは2011年に[28]、カザフスタンでは2012年にデジタル放送が導入された[29]。キルギスとタジキスタンでは2015年までにデジタル放送が導入される予定である[30][31]。)
交通
市内交通は、地下鉄、路面電車などがある。タシュケント地下鉄は、中央アジア初で、ソ連時代にソ連で7番目の地下鉄として1977年に開業した(着工のきっかけとなったのは、1966年の地震である)。現在3路線で29駅。
- 空港
- タシュケント国際空港が12km南東にある。ウズベキスタンのみならず中央アジア最大の空港である。ウズベキスタンとアジア、ヨーロッパ、北アメリカ大陸を結ぶ空の玄関口となっている。
- 鉄道
- バス
- タシュケント市営バス
- タシュケント市営トロリーバス - 2010年廃止
スポーツ
サッカーはタシュケントで最も人気の高いスポーツであり、タシュケントを本拠地とするサッカークラブ、FCパフタコール・タシュケント、ロコモティフ・タシュケント、FCブニョドコルが国内最上位リーグのウズベク・リーグに参加している。FCブニョドコルは2008年にAFCチャンピオンズリーグの決勝トーナメントにまで進出、2012年にはAFCチャンピオンズリーグ2012でベスト4にまで進出した。サッカー選手のピーター・オデムウィンギーやサンジャール・トゥルスノフもまたこの街の出身である。
世界でも有名な自転車競技選手ジャモリディネ・アブドヤパロフはこの街の出身である。また、テニス選手のデニス・イストミンはこの街で育った。 アクグル・アマンムラドワやイロダ・ツルヤガノワもまたタシュケント出身のテニス選手として名高い。
新体操選手のアリーナ・カバエワや体操選手のアレクサンデル・シャティロフはこの街の出身である。
カヌー競技のカヤック一人乗り500mスプリント前世界王者でオリンピック銅メダリストのミカエル・コルガノフもまたタシュケント出身である[32]。
Natella Tellerはタシュケント出身のバドミントン選手として初めてオリンピックでメダルを獲得した。
姉妹都市
- ビシュケク( キルギス)
- アスタナ、アルマトイ( カザフスタン)
- 北京( 中国)
- ソウル( 韓国)
- カラチ( パキスタン)
- アンカラ、イスタンブール( トルコ)
- コルトレイク( ベルギー)
- ベルリン( ドイツ)
- ハスコヴォ( ハンガリー)
- リガ( ラトビア)
- スコピエ( マケドニア)
- モスクワ( ロシア)
- ドニプロペトロウシク、キエフ( ウクライナ)
- シアトル( アメリカ合衆国)
- カイロ( エジプト)
- チュニス( チュニジア)
脚注
- ↑ 1.0 1.1
- ↑ “Pogoda.ru.net (Weather and Climate-The Climate of Tashkent)” (ロシア語). Weather and Climate. . 2013閲覧.
- ↑ “World Weather Information Service – Tashkent”. 世界気象機関. . 2013閲覧.
- ↑ “Climatological Normals of Tashkent”. 香港天文台 (2010年8月). . 2013閲覧.
- ↑ “Uzbekistan - Toshkent Shari (Tashkent City)”. citypopulation.de. . 2013閲覧.
- ↑ “Tashkent city administration”. gov.uz. . 2013閲覧.
- ↑ 7.0 7.1 7.2 (ロシア語) Statistics of the subdivisions of Tashkent
- ↑ Sadikov, A C; Akramob Z. M., Bazarbaev, A., Mirzlaev T.M., Adilov S. R., Baimukhamedov X. N., et al. Geographical Atlas of Tashkent (Ташкент Географический Атлас) (72 × 112) (in Russian) (2 ed.). Moscow. p. 64
- ↑ UZBEK friends(ウズベクフレンズ)
- ↑ MacWilliams, Ian (2006年1月5日). “Tashkent's hidden Islamic relic”. BBC News . 2013閲覧.
- ↑ “Tashkent's central park is history”. uznews.net (2009年11月25日). . 2013閲覧.
- ↑ “Army memorial dismantled in Tashkent”. uznews.net (2009年11月24日). . 2013閲覧.
- ↑ “МИД России указал послу Узбекистана на обеспокоенность «Наших»”. Ferghana.ru (2010年1月16日). . 2013閲覧.
- ↑ GFF.uz
- ↑ TAYI.uz
- ↑ TASI.uzsci.net
- ↑ IBS.uz
- ↑ TUIT.uz
- ↑ WIUT.uz
- ↑ NUU.uz
- ↑ Ташкентского Педиатрического медицинского института
- ↑ Abror Musahonov, Uzb (2011年1月11日). “Toshkent tibbiyot akademiyasi - Тошкент тиббиёт академияси”. TMA.uz. . 2013閲覧.
- ↑ TIU.uz
- ↑ MDIS.uz
- ↑ TITLI.uz
- ↑ Tashiit.uz
- ↑ “Uzbekistan introduces digital TV broadcasting”. UzDaily.com (2008年11月14日). . 2014閲覧.
- ↑ “Turkmenistan to switch to digital TV broadcasting”. turkmenistan.ru (2011年8月16日). . 2014閲覧.
- ↑ D. Mukhtarov (2012年7月3日). “Kazakhstan launches digital broadcasting system”. Trend News Agency. . 2014閲覧.
- ↑ Asker Sultanov (2013年9月20日). “Kyrgyzstan to implement digital broadcasting; new Kazakh channel coming”. CENTRAL ASIA ONLINE. . 2014閲覧.
- ↑ “OSCE supports broader dialogue on digital broadcasting in Tajikistan”. OSCE (2012年9月27日). . 2014閲覧.
- ↑ Sports-reference.com
関連項目
外部リンク
- タシュケント市公式サイト(ウズベク語)(英語)(ロシア語)