エチオピア
- エチオピア連邦民主共和国
- የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ
Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblikテンプレート:Am icon - 国の標語:なし
- 面積
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総計 1,127,127km2(26位) 水面積率 0.7% - 人口
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総計(2017年) 105,350,020人(13位) 人口密度 93.4人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2013年) 8,527億[1]ブル - GDP (MER)
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合計(2013年) 460億[1]ドル(85位) - GDP (PPP)
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合計(2013年) 1,267億[1]ドル(73位) 1人あたり 1,427[1]ドル - 建国
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ダモト王国 紀元前980年ごろ アクスム王国 100年ごろ エチオピア帝国 1137年 / 1270年 イタリアの併合 1936年5月9日 -
1941年11月28日エチオピア革命 1974年9月12日
公用語 | なし アムハラ語(事実上) |
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首都 | アディスアベバ |
最大の都市 | アディスアベバ |
通貨 | ブル (ETB) |
時間帯 | UTC (+3)(DST:なし) |
ISO 3166-1 | ET / ETH |
ccTLD | .et |
国際電話番号 | 251 |
エチオピア連邦民主共和国(エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称エチオピアは、東アフリカに位置する連邦共和制国家である。東をソマリア、南をケニア、西を南スーダン、北西をスーダン、北をエリトリア、北東をジブチに囲まれた内陸国。隣国エリトリアは1991年にエチオピアから分離した国家である。首都はアディスアベバ。
アフリカ最古の独立国および現存する世界最古の独立国の一つ[2]である。人口は約1億200万人(2016年7月推定[3])で、サハラ以南のアフリカでは、ナイジェリアに次いで二番目に人口の多い国である。
Contents
国名
正式名称はアムハラ語で、የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(ラテン文字転写は、Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik)。通称、የኢትዮጵያ (Ityop'iya )。
公式の英語表記は、Federal Democratic Republic of Ethiopia。通称、Ethiopia。
日本語の表記は、エチオピア連邦民主共和国。通称、エチオピア。漢字による表記は哀提伯。他にエティオピアとも表記される。
国名のエチオピアは、ギリシャ語の「日に焼けた」という意味のアエオティプスにちなむが、これはエチオピア人の肌の色に由来しており、本来の意味はアフリカ大陸の広範囲に渡る地域を指す。ギリシャ神話のパエトーンを参照。また、別名のアビシニアは、アラビア語でエチオピア地方およびその地にやってきたセム系民族アクスム人(別名ハバシャあるいはアバシャ。アムハラ語:ሐበሻ hābešā/አበሻ `ābešā)を指すアル・ハバーシャ(al-ḥabašah الحبشة)が転訛した物である [1]。
ヨーロッパ人にはアビシニアと呼ばれていたが、1270年から1974年までの長きにわたりエチオピア帝国と称してきた(1936年からの5年間イタリア領東アフリカに編入された時期を除く)。1974年のクーデターの後、1987年まで社会主義エチオピア、1991年までエチオピア人民民主共和国と称し、1995年の憲法改正によりエチオピアとなったが、1995年に再度の憲法改正により現在のエチオピア連邦民主共和国となった。
歴史
古代・中世
エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンのサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王とサバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国(100年–940年)が、紅海沿岸の港町アドゥリス(現在のエリトリアのマッサワ近郊)を通じた貿易で繁栄した。全盛期は4世紀でこのころコプト教伝来の影響が見られ(コプト教伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝を宗教としていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。アクスム王国は、10世紀ごろにベタ・イスラエル[4]の女首長グディトに滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたアガウ族のザグウェ朝(ca.1137,ca.1150 - 1270)に滅ぼされたという説がある。
エチオピア帝国
エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガストと呼ばれ、これは「王(ネグ)の中の王」という意味である。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていなかったりした時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。
ザグウェ朝
ザグウェ朝エチオピア帝国(1137年–1270年)は、13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。
ソロモン朝
イクノ・アムラクの建てた王朝はソロモン朝エチオピア帝国(1262年-1974年)と呼ばれる。ソロモン朝は、アムデ・ション1世以降15世紀のゼラ・ヤコブまで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝に大きな態度をとることすらあった。
諸公侯時代
しかし、16世紀以降ムダイト朝オーッサ・スルタン国(1734年–現在)が強勢となってソロモン朝の力は衰え、1679年から1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。
ソロモン朝の中興
諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがテオドロス2世であり、ソロモン朝中興の主とされ、近代エチオピアは彼の治世に始まったとされる。メネリク2世の19世紀の末に2度イタリアの侵略を受けたが、1896年のアドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア戦争)。このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のアフリカ分割を乗り切り独立を保ったという画期的な出来事だった。これにより、エチオピアはリベリアと並んでアフリカの黒人国家で独立を守り切った国家となった。
1930年11月2日に皇帝に即位したハイレ・セラシエ1世は、即位後エチオピア初の成文憲法となったエチオピア1931年憲法を大日本帝国憲法を範として制定した[5]。1930年11月2日の皇帝ハイレ・セラシエの即位は、カリブ海のイギリス植民地、ジャマイカのマーカス・ガーベイの思想的影響を受けていた黒人の間に、ハイレ・セラシエを黒人の現人神たる救世主、「ジャー」であると見なすラスタファリ運動を高揚させ、アメリカ大陸の汎アフリカ主義に勢いを与えた。
イタリア領東アフリカ
しかし、新帝ハイレ・セラシエ1世の即位とエチオピア帝国憲法の制定も束の間の平穏であった。ファシスト・イタリア王国の統領ベニート・ムッソリーニは、1931年の時点で人口4200万人に達していたイタリア国内の過剰人口を入植させるための「東アフリカ帝国」の建設を目論み、1934年の「ワルワル事件」を経た後、「アドワの報復」と「文明の使節」を掲げて1935年10月3日にイタリア軍がエチオピア帝国に侵攻、第二次エチオピア戦争が勃発した[6]。イタリア軍は1936年3月のマイチァウの戦いで毒ガスを使用して近代武装した帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させた後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はジブチを経てロンドンに亡命、1936年5月5日にピエトロ・バドリオ率いるイタリア軍が首都アディスアベバに入城した[7]。
首都アディスアベバ陥落後、1936年から1941年にかけてエチオピアはイタリアの植民地に編入され(イタリア領東アフリカ)、ファシスト・イタリアはイスラーム教徒のオロモ人を優遇し、キリスト教徒のアムハラ人を冷遇する分割統治策を採用したが、その間も「黒い獅子たち」と呼ばれるゲリラが抗イタリアのレジスタンス運動を行った[8]。
イギリス軍政とソロモン朝復古独立
1939年9月1日の第二次世界大戦勃発時、枢軸国イタリアは連合国のイギリスとの戦いを繰り広げ、エチオピアを占領していたイタリア軍とイギリス軍は東アフリカ戦線の激戦の後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はイギリス軍と共に1941年にアディスアベバに凱旋した[9]。イギリス軍軍政を経た後、再びエチオピアは独立を回復した。 独立回復の翌年の1942年にはかつて占領されたイタリアを含む枢軸国に対し宣戦布告し、連合国として第二次世界大戦に参戦した。
エチオピア・エリトリア連邦
1952年にエリトリアと連邦を組んで、エチオピア・エリトリア連邦が成立した。しかし、国内の封建的な諸制度は温存されたままであり、これが社会不安を引き起こすこととなった。1960年には皇帝側近によるクーデター未遂が勃発した[10]。
冷戦期・メンギスツ政権
1962年にはエリトリアをエリトリア州として併合した。こうした中1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および旱魃による10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍が反乱。最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月軍部によって逮捕・廃位させられた(1975年帝政廃止)。
軍部はアマン・アンドム中将を議長とする臨時軍事行政評議会(PMAC, Provisional Military Administrarive Council) を設置、12月に社会主義国家建設を宣言し、ソ連の半衛星国となる。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長就任。恐怖独裁政治や粛清により数十万人が殺害されたとされる(エチオピア内戦)。1987年の国民投票で PMAC を廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘(エリトリア独立戦争、オガデン戦争)の結果、メンギスツ大統領は1991年5月にジンバブエへ亡命。
エリトリアの独立・メレス政権
1991年、エチオピアからの独立を目指すエリトリアの勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) は、ティグレ人民解放戦線(TPLF)等と共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こし当時の指導者メンギスツ政権を倒し、同年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心とした反政府勢力連合エチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF)によるエチオピア新体制の確立に伴い、1993年5月24日にエリトリアの独立が承認された。また、エチオピアでもEPRDFにより暫定政権が樹立され、EPRDFのメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領に就任した。1995年8月には新憲法が制定され、ネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは新憲法下で事実上の最高指導者となる首相に就任し、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。
オガデンの反乱
エチオピア・エリトリア国境紛争
1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展(詳細については、エチオピア・エリトリア国境紛争の項を参照)。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構 (OAU) の停戦提案を受け入れた。7月、国連の安保理は国際連合安全保障理事会決議1312号によりPKOである国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定。
2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。
東アフリカ大旱魃
ハイレマリアム政権
2012年8月20日、メレス首相の死去を受け、ハイレマリアム・デサレンが新首相に就任。
アビー・アハメド政権
2018年4月2日、ハイレマリアム首相の辞任を受け、後任の首相にアビー・アハメドが就任[11]。1991年にエチオピア人民革命民主戦線が政権を握って以降、オロモ人の首相就任は初めてとなる[12]。
政治
政治体制
政治体制は、連邦共和制。現行憲法はエチオピア1995年憲法である。
国家元首たる大統領の権限は、形式的儀礼的なものに限られる。任期は6年で、下院により選出される。現大統領は駐日大使の経験もあるムラトゥ・テショメで、2013年10月7日に就任した。
行政
行政府の長である首相は、下院議員の総選挙後に開かれる議会において、下院議員の中から選出される。内閣の閣僚は、首相が選任し、下院が承認する。任期は5年だが、議院内閣制のため、任期途中で失職する場合もある。
立法
議会は、二院制。上院(連邦院)は108議席で、議員は各州議会によって選出される。下院(人民代表院)は 548 議席で、議員は小選挙区制選挙で選出される。議員の任期は、上下院とも5年。
政党
連立与党は、エチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) を構成するオロモ人民民主機構 (OPDO)、アムハラ民族民主運動 (ANDM)、南エチオピア人民民主運動 (SEPDM)、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) の4党。その他の主要政党はエチオピア民主連盟、全エチオピア統一党、統一エチオピア民主党・メディン党、虹のエチオピア・民主社会正義運動の4党で構成される統一民主連合 (UDF) など。反政府勢力として、オロモ解放戦線 (OLF) など4組織で構成された統一オロモ解放戦線 (UOLF) やオガデン民族解放戦線 (ONLF) がある。
かつて共産主義政権時代の支配政党であったエチオピア労働者党は勢力を失い、自然消滅している。
国際関係
エリトリアとの関係
かつてエチオピアの領土(エリトリア州)であった北の隣国エリトリアとの関係では、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) がティグレ人民解放戦線 (TPLF) とともに反メンギスツ闘争を戦い抜いたこともあり、1991年のエリトリア独立当初の関係は良好であったが、バドメ地区の領土問題や港湾の利用権、エリトリアの独自通貨導入などにより関係が悪化し、1998年に武力衝突に発展した(エチオピア・エリトリア国境紛争)。2000年に国際連合エチオピア・エリトリア派遣団 (UNMEE) が派遣され調停に当たったものの2008年に撤退し、現在でも紛争が相次いでいる。
ソマリアとの関係
東の隣国ソマリアとの関係では、かつて大ソマリ主義を掲げていた関係で問題を抱えている。国内にソマリ人居住地域のオガデンを抱えるエチオピアは、その帰属をめぐって1977年にソマリアとオガデン戦争を起こした[13]。メンギスツ政権は共産圏の友好国であったキューバ軍の直接介入とソ連軍の軍事援助を得た結果もあり、1988年にオガデン戦争はエチオピアの勝利に終わったものの、以後も両国の関係は良好とは言い難かった。
1991年にソマリアのモハメド・シアド・バーレ政権が崩壊しソマリアが無政府状態となった後、2006年にイスラム原理主義組織のイスラム法廷会議がソマリア首都モガディシュを制圧し国土統一の動きを見せると、隣国に於けるイスラーム主義過激派の伸張を嫌うエチオピアはソマリア国内への干渉を強化。同年12月24日、エチオピアはソマリア暫定連邦政府を支援してソマリア侵攻を開始した。
軍事力に勝るエチオピア軍は28日にはモガディシュを制圧し、イスラム法廷会議軍をほぼ駆逐したものの、オガデン戦争の余波でソマリアの反エチオピア感情は根強く、ソマリア各地で反エチオピア暴動が勃発。2008年8月19日、エチオピア軍は2009年初頭のソマリアからの撤退に同意した。
日本国との関係
中華人民共和国との関係
1970年に当時のエチオピア帝国と中華人民共和国は国交を樹立し、1971年に訪中した皇帝ハイレ・セラシエ1世は林彪事件後の毛沢東と初めて会談した外国指導者だった[14][15]。エチオピア帝国はエリトリア解放戦線への援助を取り下げた中国から巨額の融資を受けるも1974年の軍事クーデターで皇帝は退き、メンギスツは中ソ対立で中国と対峙したソ連に接近して隣国ソマリアのバーレ政権への中国の支援を批判して距離を置くも道路や発電所の建設など一定の経済協力は維持した[16]。1991年のメレス・ゼナウィ政権からは本格的に関係回復し[17]、エチオピアの道路の7割を中国は建設したとされ[16]、初の環状道路と高速道路[18]や風力・水力発電所[19]、国際空港の近代化[20]、アディスアベバ・ライトレール、電化されたジブチ・エチオピア鉄道、グランド・ルネサンス・ダム[21]、新国立競技場アディスアベバ・ナショナル・スタジアムなどといった様々なインフラ工事に中国企業は携わり、エチオピア連邦民主共和国第3代大統領のムラトゥ・テショメは中国に留学した経歴を持つ[22]。2012年に首都アディスアベバに建設されたアフリカ連合(AU)本部は、中国の建設費全額負担で建設されている。
地方行政区分
多民族国家のエチオピアは、民族ごとに構成される9つの州と2つの自治区からなる連邦制をとっている。この州区分は1995年に導入された。
- アディスアベバ(自治区)
- [[ファイル:テンプレート:Country flag alias Afar|border|25x20px|テンプレート:Country alias Afarの旗]] アファール州
- [[ファイル:テンプレート:Country flag alias Amhara|border|25x20px|テンプレート:Country alias Amharaの旗]] アムハラ州
- [[ファイル:テンプレート:Country flag alias Benishangul-Gumuz|border|25x20px|テンプレート:Country alias Benishangul-Gumuzの旗]] ベニシャングル・グムズ州
- ディレ・ダワ(自治区)
- [[ファイル:テンプレート:Country flag alias Gambela|border|25x20px|テンプレート:Country alias Gambelaの旗]] ガンベラ州
- [[ファイル:テンプレート:Country flag alias Harari|border|25x20px|テンプレート:Country alias Harariの旗]] ハラリ州
- [[ファイル:テンプレート:Country flag alias Oromia|border|25x20px|テンプレート:Country alias Oromiaの旗]] オロミア州
- [[ファイル:テンプレート:Country flag alias Somali|border|25x20px|テンプレート:Country alias Somaliの旗]] ソマリ州
- [[ファイル:テンプレート:Country flag alias Southern NNP|border|25x20px|テンプレート:Country alias Southern NNPの旗]] 南部諸民族州
- [[ファイル:テンプレート:Country flag alias Tigray|border|25x20px|テンプレート:Country alias Tigrayの旗]] ティグレ州
主要都市
主要な都市はアディスアベバ(首都)、ディレ・ダワがある。大半の都市が高原に位置している。
地理
エチオピアは世界で27番目に面積が大きい国である。国土の大部分がエチオピア高原を中心とする高地で、年平均気温は13℃と冷涼である。北部をエリトリアとジブチに接する内陸国だが、それぞれ紅海とアデン湾からはわずか70kmしか離れていない。国土の中央にある首都アディスアベバの標高は2400m。北部は水系が多い。ソマリアとの国境を接する東部のオガデン地方はエチオピア高原からソマリアの砂漠へ下る地形。北部のアファール州はアファール三角地帯と呼ばれる地質学的に重要な低地。東アフリカ沿岸部のタンザニア・ケニアから伸びるアフリカ大地溝帯がこの地域でアデン湾と紅海に分かれる。2005年にも火山が噴火し深さ60mの亀裂を作っており、生きている地球の活動が見られる。国の最高地点は北部のタナ湖北東に位置するラス・ダシャン山 (海抜4550m) である。
エチオピア高原は本来の地形は平らだが、標高が高く降雨が多いため浸食が激しく、非常に深い谷や崖が多い。この地形は外国勢力からの防衛には適しており、エチオピアが植民地化されなかった理由にもなったが、一方で交通インフラを整備するにはまったく不適切な地形であり、経済発展上の一つのネックとなっている。
気候
北回帰線以南の熱帯に位置する。気候は標高によって違い、標高1500m までは平均気温27℃から50℃と極めて暑いが、標高1500mから2400m は移行区間となり、平均気温は16℃から30℃ほどである。標高2400m以上は冷涼な気候となり、平均気温は16℃である[23]。
エチオピア高原は降水量が多く、年間降雨量は1200mmを超す。この豊富な降雨量が、エチオピア高原にゆたかな植生をもたらし、また農耕もおこなわれ、アフリカ第2位の人口を支えている。エチオピア高原の豊富な雨量は、高原北部のタナ湖を水源とし西部へ流れる青ナイル川、高原中央部から南へ流れトゥルカナ湖へと流れ込むオモ川、同じく高原中央部から東部へと流れ下り、ジブチ国境近くのダナキル砂漠へと流れこむアワッシュ川、高原南部から南東部へと流れ、やがてソマリアへと流れ込むジュバ川とシェベリ川など、多くの河川となって四方へと流れ下り、周囲の乾燥地域を潤している。
通常、雨季は6月半ばから9月半ばまでである。アフリカ大地溝帯によって隔てられた東部高原は乾燥しており、その東に広がりソマリアへ続くオガデン地方はさらに暑く乾燥している。
軍事
予算
375百万米ドル(2012年)
陸軍
エチオピア陸軍は、1990年代には25万人となっていたが、軍事費圧縮と軍隊の近代化のため削減され、現在は約10万人である。
空軍
エチオピア空軍は、兵員約2500人で旧ソ連製の軍用機が中心であり、アフリカ諸国の中では充実した装備である。2002年の国防予算は4億8100万米ドルと総予算の中で非常に高率を占め、国家予算を著しく圧迫している。
海軍
エチオピア海軍は、1990年代にエリトリアと連邦を解消するまでは僅かながら存在していたが、連邦解消後内陸国となってしまったため廃止された。この際に残存艦艇は売却されている。
経済
IMFの統計によると、2013年のエチオピアのGDPは460億ドルである。一人当たりのGDPは518ドルであり、世界平均の5%にも届かない世界最貧国の一つである。[1] 1970年代、1980年代の飢餓(エチオピア大飢饉)以来、一時食糧自給を達成した時期を除き厳しい経済状態が続く。近年では2004年から2011年にかけて8年連続で経済成長率二桁を記録するなど、アフリカ諸国の中でも高い成長率を維持し続けているが、依然として最貧国から脱出できない状態にある。主要産業である農業はGDPの41%で、輸出と労働力の80%を占めるが、機械化が進まず生産性が低い。
1991年のエリトリア独立に伴い内陸国となったため、北東の隣国ジブチのジブチ港およびジブチ鉄道を有料で利用。ソマリランドのベルベラ港の利用も増えている。かつてはエリトリアの南部にあるアッサブ港がおもな港であったが、エリトリア独立後、1998年に両国間で勃発したエチオピア・エリトリア国境紛争によってこのルートは完全に断たれた。
主要産業:農業(コーヒー、穀類)、畜産業、アディスアベバで若干の工業(繊維、食品加工など)
農業及び畜産業
国土の10.7%が農地として使われており、農業に従事する国民の割合は30%に達する。首都アディスアベバの年降水量は1179.1mmであり、乾燥に弱い作物の栽培も可能である。東アフリカの水貯蔵庫と言われるほどに河川が存在するが、灌漑には1.5%のみ、発電には1%しか使われていない。また、農業の構造が輸出商品作物の栽培と畜産業(世界10位)に特化しており、2005年時点でナイジェリア、エジプトに次ぐアフリカで3番目の人口を支えるには主食の栽培量が不足している。商品作物の輸出が最大の外貨獲得源となっている一方、輸入品のうち最大の品目は食料である。
主食のインジェラを作るためのテフが最も重要な穀物だが、粒が小さく収量が低く生産性が悪いうえ、灌漑に頼らず天水農耕で栽培されることが多いため旱魃に弱い。
主要穀物では、トウモロコシ(274万トン、以下、2002 年時点の統計)の栽培がさかん。モロコシ(17万トン)の生産量は世界シェア10位に達している。根菜では、ヤムイモ(31万トン、世界シェア8位)が目立つ。畜産業ではウシ(3810万頭、7位)、ウマ(145万頭、9位)、ラクダ(47万頭、9位)。
商品作物では、コーヒー豆(26万トン、7位)、ゴマ(6.1万トン、8位)が際立つ。この2商品だけで、総輸出額の50%弱に達する。コーヒーは南部のシダモ地方、カファ地方などで主に栽培されている。コーヒーはスターバックスと契約した。
花と植物の世界有数の輸出国になりつつある。
鉱工業
エチオピアの鉱業は、金(2003年時点で5.3トン)、銀(1トン)、塩(6万1000 トン)に限定されている。金の産出量は 1990年時点で0.8トンであり、開発が急速に進んでいる。埋蔵が確認されている資源として、水銀鉱、タングステン鉱、タンタル鉱、鉄鉱石、ニオブ鉱、ニッケル鉱がある。
オガデン地方では石油産出が期待されているが、2007年に中国企業の作業員が反政府組織、オガデン民族解放戦線(ONLF)に拉致、殺害される事件が発生した。
工業ではバッグなど皮革製品の生産・輸出が盛んでTaytuブランドが育っている。これに加えて近年、衣料品工場を外国資本(中国、台湾、韓国、インドなど)が相次ぎ建設している。これはアジア諸国や隣国ケニアに比べて人件費が安いうえ、ジブチ・エチオピア鉄道の再整備で輸出用の物流インフラストラクチャーが改善されたためである。軽工業だけでなく、外資による医療機器やプリンター、自動車の生産計画もある。
アディスアベバ近郊のボレレミ、南部のハワサなどに工業団地がある。エチオピア政府は「2025年までの工業化と中進国化」を目標としている[24]。
情報通信
通信は国営のエチオテレコム1社が独占してるが、2006年からZTEやファーウェイといった中国企業がエチオピア全土の通信網整備を担ってきた[25]。
通貨
交通
道路
高低差が激しく崖の多い地形や、国内の政情不安が続き交通インフラストラクチュアを整備する資金がなかったため、国内の道路網はあまり発達していない。
鉄道
首都アディスアベバから隣国ジブチ共和国の首都ジブチ市まで、全長781kmのジブチ・エチオピア鉄道が通っている。1917年の全通以後、ジブチ・エチオピア鉄道はエチオピア経済を支える柱となってきた。並行する国道の改修や、鉄道自体の管理不足などから利用者が減少。2011年にはディレ・ダワからアディスアベバまでが運休となった[26]時期があった。 2018年1月中国資本で新たに電化されたジブチと結ぶアディスアベバ・ジブチ鉄道が開通した。
航空
国営のフラッグキャリアであるエチオピア航空が、アディスアベバのボレ国際空港を拠点にエチオピア国内やアフリカ各地、欧州、中東、北米、南米、東南アジアや東アジアに路線を展開しており、2015年4月には日本の成田国際空港にも就航している。
国民
民族
国民の大多数は黒人とアラブ人の混血のエチオピア人種が大多数を占め、80以上の異なった民族集団が存在する多民族国家である。最大の勢力はオロモ人で34.4%を占め、次にアムハラ人が27.0%となっている。その他、ティグレ人、ソマリ人、シダモ人、グラジェ族、オメト族、アファル人、ハディヤ人、ガモ人、コファ族、コンソ人が主な民族である。また、「ベタ・イスラエル」と呼ばれるユダヤ人が存在するが、その大多数はイスラエルの「帰還法」に基づき、1980年代から1990年代にかけてイスラエルへと移住した。
かつてエチオピア帝国を建国したのはアムハラ人であり、以後もアムハラ人がエチオピアの政府の中枢を握ってきたが、1991年のメンギスツ・ハイレ・マリアム軍事政権の崩壊によって政権はメンギスツ政権を打倒したエチオピア人民革命民主戦線の中核をなすティグレ人の手に渡った。とはいえ公用語はアムハラ語であり、アムハラ文化は他民族にも現在でも影響を与えている。
また、新政権は民族ごとに州を新設し、各民族語による教育を認めたため、最大民族であるオロモ人の勢いが強くなっている。
エチオピアには世界的にも他に類を見ない特殊な身体構造を有する部族が存在する。蟹の足のように2本指で構成された特徴的な構造をしていて、木登りに適している。このような構造を持つ原因は解明されていないが、前述するように木登りに適した構造をしているため、長い年月をかけて徐々に変化していった適応進化であると考えられている。[27]、『ギネスブック』にも記載されていた時期が在る。
言語
エチオピアの言語はアフロ・アジア語族(セム語派、オモ語派、クシ語派)が主であるが、ナイル・サハラ語族も話されている。憲法では「公用語は存在しないが(すべての言語が平等である)、連邦政府の使用言語はアムハラ語」と定められている[28]。そのためアムハラ語が事実上の公用語であり、教育・政府機関などで共通語として全土で広く使用される。それとは別に各州は州の公用語を定めることも憲法で認められており、アムハラ語、オロモ語、ソマリ語、ティグリニャ語、アファル語が各州の公用語となっている他にシダモ語、ウォライタ語、グラジェ、ハディヤ語、ガモ・ゴファ・ダウロ語などが使われている。独自文章語としてゲエズ語も存在する。
エチオピアではエチオピアから独立したエリトリア、隣国のソマリアと共にブラックアフリカでは唯一、非欧米系の自国語が共通語、政府の作業言語として機能している国である。アムハラ語は全土で通用する。これは、植民地支配(イタリアに支配された5年間を除く)を受けていない事と長年アムハラ語による統制が進められたためである。ただ、翻訳作業の手間がかかる等アムハラ語による高度な教育整備が進んでないことから、高等教育では外国で作成された英語のテキストの使用が必須となっており、その関係で中等教育(9年生~)以上では英語が教育言語となっている。しかし、9年生以上(中学3年・高校や大学)へ進学できるのはエリート層や都市部の一部住民に限定されるため、農村部や地方では英語はほとんど通じず、他のブラックアフリカ諸国に見られるような欧米系の言語支配を受けていないことが分かる。
宗教
2007年の国勢調査では、キリスト教が62.8%と最も多く、続いてイスラームが33.9%、アニミズムが2.6%である。キリスト教では大多数がエチオピア正教会の信徒だが、資料によっては、ムスリムの方が、エチオピア正教会の信徒よりも多いとするものもある。また、ユダヤ教を信仰する人々(ベタ・イスラエル)もいるが、多くがイスラエルに移住した。
帝政時代はエチオピア正教を国教としていたが、連邦憲法11条は政教分離を定め、国教を禁じている。なお、帝政時代にも、皇族でありながらイスラムを信仰したイヤス5世のような例もあり、必ずしも国民全てがキリスト教徒というわけではなかった。
教育
各言語を尊重するために、1年次~8年次にあたる初等部では一部を除くと、他のサブサハラアフリカ諸国に見られるような欧州の言語ではなく各民族語で教育が行われる。9年次~12年次の中等部・高等部や大学などでは英語が教授言語となっている。多くの国民は、初等部のみで教育を終え、中等部以降の教育を受ける国民は非常に少なくなっている。アムハラ語という全土で通用する共通語があるにも関わらず、高等教育での教授言語の英語使用は教師、生徒共に低い英語レベルや英語が苦手な非エリート層の進学率を阻害する等の弊害を生んでいる。著名な大学にはアディスアベバ大学がある。
文化
エチオピアは、グレゴリオ暦とは異なる独自のエチオピア暦を使用している。エチオピアの1月1日は、グレゴリオ暦の9月11日に当たる。下の祝祭日表の年月日はグレゴリオ暦である。またグレゴリオ暦からは約7年遅れであるが(エチオピアの2000年1月1日は、グレゴリオ暦の2007年9月11日)、その理由はイエス・キリストの誕生年についての見解が違うためであると言われている[29]。
食文化
エチオピアの主流の文化であるアムハラ文化において、主食はテフなどの穀粉を水で溶いて発酵させ大きなクレープ状に焼いたインジェラであり、代表的な料理としてはワット、クックル(エチオピア風スープ)、トゥプス(焼肉・炒め肉・干し肉)などがある。辛い料理が多い。エチオピア正教の戒律によりツォムと呼ばれる断食の習慣があり、水曜日と金曜日を断食の日とし、午前中は全ての食事を、午後は動物性タンパク質を取らない。四旬節(2月~4月)のツォムは2ヶ月の長期に亘り、復活祭により断食明けとなる。同様に戒律を理由として、ユダヤ教やイスラーム教のように、豚肉を食べることは固く禁じられている。これらの文化は基本的にアムハラ人の文化であるが、アムハラ人がエチオピアの実権を握ってきた期間が長かったため、国内の他民族にも普及している。
これに対し、南部においては、エンセーテといわれるバナナの一種からとれるデンプンを主食とする文化がある。エンセーテは実ではなく、葉柄基部及び根茎に蓄えられたデンプンを主に食用とするもので、取り出した後に数週間発酵させたのちパンや粥にして食べる[30]。エンセーテはエチオピア南部を中心に2000万人の主食となっているとされるが、近年テフなどに押され栽培は減少傾向にある。
エチオピアはコーヒーの原産地と言われており[29][31]、コーヒーは広く常飲されている。また、複数の人でコーヒーを楽しむ「ブンナ(コーヒー)・セレモニー」という習慣がある。
アルコール飲料としては、ビール・ワインが生産されているほか、地酒としてタッジ(蜂蜜酒)・テラ(麦やトウモロコシが原料のビールに似た飲料)・アラキ(蒸留酒)がある。 また嗜好品として、チャットの葉を噛む習慣がある。
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インジェラとワット
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インジェラとトゥプス
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タッジとトゥプス
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ブンナ・セレモニー
音楽
国教のキリスト教に関連した音楽が発達しているが、同時に古くから民間に伝承されてきた民謡とのかかわりも深い。アズマリはアムハラ人によるミュージシャンのことで、冠婚葬祭や宴会の余興、教会の儀式などに用いられている。山羊の皮を張った胴と馬の尾の弦から作られた弦楽器マシンコの伴奏で歌われる。もう一つのラリベロッチは門付の芸人を指す。彼らは朝早く家々の玄関で祝福の内容を歌い金や食料をもらう。いずれも独自の歴史と習慣をもった音楽家集団で、エチオピアの音楽を支えている。
ポピュラー音楽に於いては、日本の演歌によく似た、こぶしの効いた音楽様式が存在し、メンギスツ政権期にはアステレ・アウェケ、ティラフ・ゲセセ、ビズネシュ・ベケレ、ヒイルート・ベケレ、アレマイヨ・エシャテなどが活動していた[32]。
文学
現代の著名な作家としては、『扇動者たち』(1979)のサーハレ・セラシェの名が挙げられる。
世界遺産
エチオピア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が8件、自然遺産が1件存在する。
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シミエン国立公園 - (1978年、自然遺産)
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ラリベラの岩窟教会群 (ザグウェ朝)- (1978年、文化遺産)
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アワッシュ川下流域 - (1980年、文化遺産)
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ティヤ - (1980年、文化遺産)
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アクスム- (1980年、文化遺産)
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オモ川下流域 - (1980年、文化遺産)
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歴史的城塞都市ハラール・ジュゴル -(2006年、文化遺産)
紀年法及び暦法
エチオピア暦では1年が13か月からなる。1月から12月は各30日で、年の残りの5日(うるう年は6日)が13月になる。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月7日[33] | エチオピア正教会のクリスマス | Ledet | |
1月19日[33] | 神現祭 | Timket | |
2月2日[33] | イード・アル=アドハー | Eid-ul-Adha | |
3月2日 | アドワの戦い記念日 | ||
移動祭日 | エチオピア正教会の聖金曜日 | ||
移動祭日 | エチオピア正教会の復活大祭 | Fasika | |
5月2日 | Mulud | ||
5月5日 | 愛国の日 | ||
5月28日 | 軍政終結記念日 | ||
9月11日[33] | エチオピアの元日 | ||
9月27日[33] | 十字架挙栄祭(マスカル) | ||
11月14日[33] | ラマダンの終わり | Eid-al-Fitr |
スポーツ
エチオピア国内で最も人気のあるスポーツはサッカーであるが、エチオピアが最も強いスポーツは陸上、とくにマラソンなど長距離走である。2011年現在、エチオピアはオリンピックで通算金メダル18個、銀メダル6個、銅メダル14個を獲得しているが、これはすべて陸上によって獲得したものである。エチオピアは人口稠密区域が標高2000m以上の高原であり、首都アジスアベバも標高2400mの地点にある。このため、心肺機能が鍛えられ、これが長距離走にとって有利であると考えられている。エチオピアはこれまで、アベベ・ビキラをはじめとして、エルヴァン・アベイレゲッセ、デラルツ・ツル、ファツマ・ロバ、マモ・ウォルデ、メセレト・デファル、ハイレ・ゲブレセラシェ、ケネニサ・ベケレ、シレシ・シヒネ、タリク・ベケレなど、多数の陸上の名選手を輩出してきた。
エチオピア出身の人物
- アベベ・ビキラ - 陸上競技選手(マラソン)
- エルヴァン・アベイレゲッセ - 陸上競技選手
- デラルツ・ツル - 陸上競技選手
- ファツマ・ロバ - 陸上競技選手
- マモ・ウォルデ - 陸上競技選手
- メセレト・デファル - 陸上競技選手
- ハイレ・ゲブレセラシェ - 陸上競技選手(長距離・マラソン)
- ケネニサ・ベケレ - 陸上競技選手
- シレシ・シヒネ - 陸上競技選手
- タリク・ベケレ - 陸上競技選手 ケネニサ・ベケレの弟
伝説上の人物
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). . 2014閲覧.
- ↑ CIA (2015年). “The World Factbook”. CIA. . 2015閲覧.
- ↑ CIA (2016年). “The World Factbook”. CIA. . 2016閲覧.
- ↑ アガウ族という説もある。
- ↑ 古川哲史「結びつく二つの「帝国」――大正期から昭和初期にかけて」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、299-306頁。
- ↑ 岡倉登志『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、207-219頁。
- ↑ 岡倉登志『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、219-229頁。
- ↑ 岡倉登志『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、231-239頁。
- ↑ 岡倉登志『エチオピアの歴史』明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行、239-240頁。
- ↑ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 pp89-93
- ↑ Ethiopia PM Abiy Ahmed wants to resolve Eritrea disputes BBC News
- ↑ エチオピア、アビー首相就任毎日新聞
- ↑ 吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版。p.265
- ↑ "Haile Selassie of Ethiopia Dies at 83". New York Times. August 28, 1975.
- ↑ “Ethiopia and China Political and Economic Relations: Challenges and prospects after 1991”. Gedion Gamora. 2011年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2017閲覧.
- ↑ 16.0 16.1 “Ethiopia and China: When Two Former Empires Connected”. intpolicydiges. . 2018閲覧.
- ↑ “Ethiopia and China Political and Economic Relations: Challenges and prospects after 1991”. Gedion Gamora. . 2018閲覧.
- ↑ Ethiopia’s Addis Abeba-Adama Expressway Finally Open
- ↑ “中国・アフリカ関係の高度化を後押しする3大分野”. 人民網. . 2018閲覧.
- ↑ “[Chinese-funded airport project in Ethiopia to be completed next January 中国・アフリカ関係の高度化を後押しする3大分野]”. 新華網. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ↑ “中国標準の「海外進出」を加速、「一帯一路」建設を支援”. 理論中国. . 2018閲覧.
- ↑ “北大留学生校友穆拉图•特肖梅当选埃塞俄比亚总统”. 北京大学新闻网. (2013年10月9日) . 2018閲覧.
- ↑ 「週刊朝日百科世界の地理96 スーダン・エチオピア・ソマリア・ジブチ」朝日新聞社 昭和60年9月15日 p10-146
- ↑ 「アパレル工場エチオピア 中韓印など続々進出 低賃金・鉄道開通で魅力」『日経産業新聞』2017年7月13日アジア・グローバル面
- ↑ “Telecom Deal by China's ZTE, Huawei in Ethiopia Faces Criticism” (2014年1月6日). . 2018閲覧.
- ↑ 一部区間が不通となっており、ジブチからアジスアベバ間の列車が運行されていない旨を伝える記述あり(海外鉄道ニュース)2011年6月16日閲覧
- ↑ 偏見や迫害を避けるためか「エチオピアの山間の、とある村」という表現に留めており、地名などの正確な場所はアナウンスされていない。
- ↑ “CONSTITUTION OF THE FEDERAL DEMOCRATIC REPUBLIC OF ETHIOPIA”. . 2017閲覧.
- ↑ 29.0 29.1 『旅行人ノート(2) アフリカ 改訂版』旅行人編集室,2000年12月
- ↑ 『世界の食文化 アフリカ』農文協 2004年 p213-214
- ↑ コーヒーの歴史参照
- ↑ 白石顕二 『ポップ・アフリカ』 勁草書房〈KEISO BOOKS5〉、東京、1989年11月25日、初版第一刷、70-80頁。
- ↑ 33.0 33.1 33.2 33.3 33.4 33.5 グレゴリオ暦でうるう年前年は1日遅くなる。
参考文献
- 岡倉登志 『エチオピアの歴史』 明石書店、東京、1999年10月20日、初版第一刷発行。ISBN 4-7503-1206-1。
- 岡倉登志編著 『エチオピアを知るための50章』 明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷。ISBN 978-4-7503-2682-5。
関連項目
- エチオピア関係記事の一覧
- エチオピア饅頭
- ヒレジロマンザイウオ(スズキ目シマガツオ科の魚、関東地方では俗に「エチオピア」と呼ぶ)
- エチオピア (小惑星)(エチオピアにちなんで命名された小惑星)
外部リンク
- 政府
- エチオピア在日大使館 (日本語)
- 日本政府
- 日本外務省 - エチオピア (日本語)
- 観光
- エチオピア文化観光省 (英語)
- その他
- “Ethiopia”. The World Factbook. Central Intelligence Agency. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。 (英語)
- エチオピア - DMOZ (英語)
- エチオピアのウィキメディア地図 (英語)
- オープンストリートマップには、エチオピアに関連する地理データがあります。