力士
力士(りきし、ちからひと)とは、相撲をする人間のこと。厳密には、相撲部屋に所属して四股名を持ち、番付に関わらず大相撲に参加する選手の総称。相撲取り(すもうとり)とも呼ばれる。しばしば関取(せきとり)と呼ばれることもあるが、元来は大関のことを指す異称であり、現代では十両以上の力士のことを指す。幕下以下の力士は力士養成員(りきしようせいいん)と呼ばれる。また、本来は神事に関わる者であるため、日常会話では親愛と尊敬をこめてお相撲さんとも呼ばれる。
わんぱく相撲や大学の相撲部などのアマチュア相撲で相撲を取る者は四股名を持たないため厳密には力士ではない。
本来の意味
相撲はもともと神前で行われ、日本固有の宗教である神道にもとづき神に奉納される神事である。力士とは四股名を持ち、神託によって神の依り代になり特別な力(神通力)を備え、神からの御利益のある特別な者である。
具体的には四股を踏む「しこ」とは醜女(しこめ)の「しこ」をあらわし、穢れ、邪気を祓う行為。それによりその土地に五穀豊穣や無病息災をもたらすと言われている。また、力士に赤子を抱いてもらうと、その子は健やかに育つと言われている。手形などは縁起物として珍重される。力士の中で最高位の者を横綱と呼び、全ての力士の象徴として神の依り代の証である「注連縄(しめなわ)を張る」のは御神木や夫婦岩などと同じである。
古代の力士のランク
- 最手
- 脇
出で立ち
実際に相撲を取る際には廻しだけを身につけ、足は素足、上半身裸で競技に臨む。髪の毛は伝統的に髷を結っており、番付によってその形が異なる。十両以上の力士は大銀杏を結い、幕下以下の力士は丁髷を結う。ただし、幕下以下の力士でも十両との取組がある場合や、弓取式を行う際には大銀杏を結うことができる。また、十両以上の力士は土俵入りの際には色とりどりの化粧廻しを身につける。
取組や稽古以外の場での服装は素材や種類こそ違えど、外出の際には全員着物を着ている。序ノ口では浴衣のような簡素な着物だが、序二段から羽織の着用が許され、幕下から外套や襟巻も着用できるようになる。十両からは正装である紋付羽織袴の着用を許される。履き物も番付によって細かく規定されており、幕下以上は足袋の着用を許されたり、三段目以上は雪駄、それ以下は下駄を履くこととなっている。自分の部屋にいるときなどは洋服も着る。幕下以下の力士が所属部屋の内外でTシャツやジャージを着用している姿はよく報道される光景でもある。
力士の出身地
番付における出身地の表記は、江戸時代にはお抱え藩の藩名が記載されたが、明治からは旧国名となった。1934年5月場所からは序ノ口に至るまで個人別に明記するようになり、1948年5月場所場所からは都道府県名(外国出身力士は国名)に変わっている。ただ、本人の届けたところを表記しているので、必ずしも出生地とは限らない[4]。
場内アナウンスでは都道府県名・国名(外国出身力士のみ)が呼び出されており、十両以上の取組時にはそれに加えて、市町村名、外国出身力士の場合は行政区画の地名も呼び出される。例外としてハワイ出身力士は「ハワイ」、十両以上の取組時にはそれに加えて、島の名前(例:オアフ島)が呼び出される。
待遇
江戸時代には関所を通行するには通行手形が必要だったが、力士はその大きく筋肉質な体つきから他の者が関所破りのために力士に変装するのは困難であるとされ、通行手形がなくとも通行することができた。力士の他に、通行手形がなくても通行できたのは旅の芸人だけであるが、芸を見せて関所の役人を納得させる必要があった。江戸幕府は1827年、大名抱えの力士は武士とするが、それ以外は浪人であるという見解を示した。召し抱えられた力士以外はすべて浪人とする解釈は多少強引ともいえたが、これにより農民や町人でも、力士になることにより武士・浪人身分を手に入れることができた。[5]
力士の体
2013年12月に慶應義塾大学スポーツ医学研究センターが当時の幕内力士25人を対象としてBOD PODによる測定を行った結果、平均身長186.3cm、平均体重161.2kg、平均体脂肪率32.5%、平均体脂肪量52.9kg、平均徐脂肪体重108.3kg、という数値が表れた。入門時と比較すると、変化の小さい力士でも20Kg、変化の大きい力士では70kg 以上の体重増加が見られた。中でもモンゴル出身の上位3人の力士(白鵬、日馬富士、鶴竜)は、入門時の体重が80kg 台だったのが、12 〜3 年かけて130 〜150kg 台まで増加し、その間に除脂肪体重が35 〜45kg も増加していた。このことから、一見すると単なる肥満体である力士の体は、脂肪だけでなく筋肉も伴った肥満体であると言える。[6]
外国人力士
1891年(明治24年)には、「佛國力士關王繁仙」[7]あるいは「米国の力士關王、繁仙」[8]が相撲興行に参加したとされる[9]。
力士になるための条件に日本国籍は含まれないため、外国籍を持つ者が力士になることもできる。
高見山(先代・東関親方)が外国出身外国人力士として初めて十両に昇進、関脇にまで到達したのを皮切りに、小錦が大関まで昇進して人気を集め、曙が外国人初の横綱昇進を果たした。これに武蔵丸が続き、その以後、外国出身力士の横綱昇進が続いていた。2008年初場所の時点ではともにモンゴル出身の朝青龍と白鵬が東西横綱をつとめた[10]。また、2014年には、大相撲史上初めて、3人(白鵬・日馬富士・鶴竜)の外国(いずれもモンゴル)出身力士が横綱に在位することになった。一方、日本人横綱は2003年1月場所で貴乃花が引退したのち、2017年3月場所で稀勢の里が昇進するまで14年間いなかった。
1990年代まではハワイ出身のアメリカ人力士が多かったが、2000年代に入ると、白鵬をはじめとするモンゴル出身力士が多勢を占めるようになった(ハワイ出身のアメリカ人力士が角界で席巻すると「黒船来航」、モンゴル出身力士が角界で席巻すると「蒙古襲来」と呼ばれた[11])。また、2000年半ば以降になると、琴欧州(ブルガリア)や把瑠都(エストニア)などのヨーロッパ出身の力士が、幕内上位で活躍するようになった。
野球やサッカー等の外国人選手と異なり、外国人力士も日本語を身につけ、相撲部屋で日本語でコミュニケーションしたり取組後のインタビューに日本語で答えたりする必要がある。
人数制限
郷土との強い関係性が大相撲の重要な魅力ともいわれており、さらに外国人力士がそれまでの相撲の常識では理解されがたい騒動を引き起こすことがある[12]。そのため、日本を代表する競技としての特色や品格に照らし、彼らが多数上位で活躍することを快く思わぬ者は少なくない。このような状況から、外国人力士の人数を制限する枠を設ける動きが90年代初頭から存在した。
1992年、小錦・曙らの躍進を機に、師匠会の申し合わせで、現役の外国人力士を総数40人以内におさめることが定められた。その後数年はどの部屋も外国人力士の採用を自粛してきたが、1998年から再開され、モンゴル人力士らが隆盛する。そして2002年、先の40人という枠を撤廃するいっぽう、外国人力士は1部屋1人までと制限する方針に変更。当時相撲部屋は54部屋なので、54人が上限となった。
それでも、制限は「外国人力士」つまり「外国籍を持つ力士[13]」にしか及ばないため、これを利用して力士に日本国籍を取らせ、新たに外国人を弟子に採る部屋が後を絶たなかった。2010年1月場所時点で外国出身力士の総数は57人に及んでいたという。さらに2008年の露鵬らの大麻問題や、2010年1月の引退まで朝青龍が起こし続けたような騒動の再発防止という必要もあって、同年2月23日に理事会は先の制限を、帰化者含む「外国出身力士」を1部屋1人までに制限するものへ強化することを決定した[14]。ただし、日本の国籍法は国民の区分を認めておらず、帰化した力士は同じ日本人であるため、帰化者まで制限するのは日本国憲法が定める「法の下の平等」に反するとの指摘もある[15]。なお、1部屋1人の規則を制定する前に外国出身力士が複数人入門していた場合や、部屋の合併により複数の外国出身力士が部屋に所属する場合はこの規則に違反するものとはみなされない[16]。
制限が日本人力士の育成や伝統的な相撲文化の維持発展につながるという考え方も強いが、閉鎖的で国際化の流れにそぐわないとか人種差別であるとの批判もある。元横綱・曙は引退後に私見として「来たい人はどんどん入れるようなシステムでいいと思います。僕らの頃は逆に人数のシステムじゃなかったので、東関部屋や高砂部屋に複数のハワイ出身力士がいました。システムを作っても、辞める人は辞める。将来の相撲界を考えた場合、システムをあまり硬くしないほうがかえっていいんじゃないかというのが、僕の持論です」と述べている[17]。
外国人力士の出身地
現在相撲部屋に所属している外国出身力士及びかつて大相撲にいた外国出身力士の出身地は次のとおり(50音順)[18][19]。ここでは日本国籍の有無を問わず、実際に番付上で出身地として発表されたもののみを記載する。
脚注
- ↑ “力士名鑑 - 稲川 政之助”. 大相撲 記録の玉手箱. . 2008年3月23日閲覧.
- ↑ 寺尾(最高位 関脇)のもの。
- ↑ 歌川国貞画:大判錦絵:杣ヶ花渕右エ門(そまがはな・ふちえもん)
- ↑ 『大相撲中継』2017年9月16日号 p96
- ↑ 武士身分であった「抱え相撲」力士の関係資料を特集展示 大人の社会見学 2016年8月15日 19:00
- ↑ 慶應義塾大学スポーツ医学研究センター ニューズレター 第16号 2014 年3 月発行
- ↑ 読売新聞 1891年6月7日朝刊3面
- ↑ 読売新聞 1891年8月28日朝刊3面
- ↑ 日系アメリカ人2世の豊錦喜一郎が外国籍の力士として初めて入門して十両になり、日本国籍取得後には幕内に昇進した。
- ↑ 日本相撲協会 (2008年). “記録台帳 - 幕内 (一月場所番付)”. goo大相撲. NTTレゾナント (goo). . 2008年3月24日閲覧.
- ↑ 中島隆信「大相撲の経済学」(ちくま文庫)
- ↑ 近年、時津風部屋での力士暴行死亡事件という重大な不祥事(時津風部屋力士暴行死事件参照)もあったため、騒動や不祥事を起こすのは外国人力士だけとは限らない。
- ↑ 外国籍であっても入門の時点で10年以上日本に住んでいれば日本出身者として扱われる。2002年以降の入門者では在日韓国人の栃乃若らが該当。
- ↑ ““ノーモア朝青龍”外国人力士「1部屋1人」徹底”. goo大相撲. Sponichi Annex (2010年). . 2010年5月23日閲覧.
- ↑ 他競技における帰化選手の制限としては、バスケットボールで各チームに1名までとされている例がある
- ↑ 一例として、2017年春場所時点での峰崎部屋が挙げられる。この時点で峰崎部屋には荒鷲毅、豪頂山傑士(ともにモンゴル国出身)、大空樹泳(大韓民国出身)が所属しており、峰崎部屋生え抜きである豪頂山のほか、旧花籠部屋との合併に伴い、入門時花籠部屋所属であった大空、さらに入門時荒磯部屋所属で荒磯部屋の閉鎖により花籠部屋に転属していた荒鷲が加わったことによる。
- ↑ 第64代横綱 曙太郎光文社のインタビュー
- ↑ 日本相撲協会 (2017年). “力士データ - 力士を探す”. 日本相撲協会公式サイト. . 2008年3月24日閲覧.
- ↑ “相撲人名鑑(出身地索引)”. 大相撲 記録の玉手箱(2012年3月13日時点のアーカイブ). 2012年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2017年1月28日閲覧.