花籠部屋

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花籠部屋(はなかごべや)は、かつて日本相撲協会に存在していた相撲部屋

歴史

花籠部屋 (1929-1947)

1929年(昭和4年)3月場所限りで引退した伊勢ノ海部屋所属の元関脇三杉磯は、年寄・9代花籠を襲名、同時に幕内・開月などの内弟子を連れて伊勢ノ海部屋から分家独立して花籠部屋を創設した。9代は幕内富ノ山藤田山などを育てたが、1947年(昭和22年)11月に弟子の藤田山たちを高砂部屋に預けて部屋を閉鎖した。

花籠部屋 (1953-1985)

1952年(昭和27年)5月場所限りで引退した二所ノ関部屋所属の元幕内・大ノ海が、年寄・8代芝田山を襲名すると共に幕内・若乃花など数名の内弟子を連れて分家独立して芝田山部屋を創設する。1953年5月に8代芝田山が11代花籠に名跡変更するとともに、部屋名も花籠部屋に変更された。11代は、横綱・若乃花、横綱・輪島、大関・魁傑、関脇・若秩父、関脇・荒勢などといった錚々たる面々の関取を育て上げ、花籠部屋を阿佐ヶ谷勢と言われる一大勢力へと成長させた。[1]

1981年3月場所において11代の娘婿である輪島が引退し、同時に12代花籠を襲名して花籠部屋を継承した。しかし、1982年には12代の夫人(当時)が自殺未遂を起こし、1985年11月には自身の年寄名跡を担保に入れて多額の借金をしていたという前代未聞の事実が発覚した。この問題を受けて、12代は同年12月に廃業を表明。後継として17代放駒(元大関・魁傑)や14代常盤山(元関脇・若秩父)に打診するも断られて部屋は消滅、花籠部屋出身である一門の総帥・二子山(横綱・初代若乃花)の指名により、所属力士は放駒部屋へ移籍した。1986年5月には12代の義母である11代花籠未亡人が首を吊って自殺した。

花籠部屋 (1992-2012)

1991年3月場所に引退して二子山部屋の部屋付き親方となっていた年寄・15代花籠(元関脇太寿山)が、1992年10月に4名の内弟子を連れて分家独立する形で花籠部屋を再興した。当時の東京都内では地価が高騰していたために用地が確保できなかったため、山梨県初の相撲部屋として北都留郡上野原町(現在の上野原市)に部屋を設立した。しかし、他部屋への出稽古や新規入門者の相撲教習所通学に支障をきたしたため、1998年12月に東京都墨田区に部屋を移転した。これに関連して、上野原町に部屋を構えることに大きな役割を果たした11代の次男は、部屋の移転に猛反対して、東京地方裁判所に年寄名跡の返還を求める民事訴訟を起こしたが、裁判は15代側が勝訴して決着している。

2007年1月場所においてモンゴル出身の光龍が新十両へ昇進し、15代が部屋を継承してからは初となる関取が誕生した。2008年9月場所後には荒磯部屋が師匠の定年退職のために閉鎖されたため力士らを引き取り、荒磯部屋に所属していた荒鷲が加わった。

2012年5月場所後の24日、部屋の経営難を理由として、同じ二所ノ関一門に所属する峰崎部屋への吸収合併される(同日付で日本相撲協会理事会から正式承認)。

師匠

  • 9代:花籠平五郎(はなかご へいごろう、関脇・三杉磯、北海道
  • 11代:花籠久光→昶光(はなかご ひさみつ、前3・大ノ海、秋田
  • 12代:花籠昶光→大嗣→大士(はなかご ひさみつ→ひろし、横綱・輪島、石川
  • 15代:花籠忠明(はなかご ただあき、関脇・太寿山、新潟

力士

三杉磯時代

前頭
十両

大ノ海・輪島時代

横綱・大関

横綱
  • 若乃花幹士(45代・青森
  • 輪島大士(54代・石川)
大関

幕内

関脇
小結
前頭


十両

太寿山時代

前頭
十両
  • 荒鷲毅(モンゴル)※後に峰崎部屋へ移籍、その後入幕

脚注

  1. 杉並区立郷土博物館編「大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史」1991.11

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