「山陰中央新報」の版間の差分
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山陰中央新報(さんいんちゅうおうしんぽう)は、株式会社山陰中央新報社(さんいんちゅうおうしんぽうしゃ、The San-in Chuo Shimpo Newspaper Co.,Ltd.)が発行する新聞。朝刊のみで、発行部数は約18万5千部(2016年末)。
概要と沿革
島根県と鳥取県(山陰地方)を主要なサービスエリアとする地方紙。広島市中区の一部などにもわずかではあるが宅配を行う他、2006年から広島バスセンターでも販売されている[1]。
前身は、自由民権運動の機関紙として創刊された『山陰新聞』(1882年-1941年)。しかし、後発の『松陽新報』(1901年-1941年)との競争に敗れ経営に行き詰まり、1940年には読売新聞の傘下に入る(会長には正力松太郎が就任)。プロ野球の公式試合や「独伊軍事映画の夕」などを開催、部数を伸ばす。
1941年12月に戦時報道統制によって『山陰新聞』と『松陽新報』が合併して島根新聞社となり、1942年1月から題号が『島根新聞』となる。1945年12月に読売新聞との合同が解消[2]され、翌年2月には正力が会長を辞任する。正力の会長辞任によって、『松陽新報』のオーナーであった田部家が経営権を掌握した。(田部長右衛門 (23代)を参照)また1949年10月に夕刊島根新聞社が設立[3]。
1952年に『山陰新報』に改題し、さらに1957年10月に『島根新聞』に復題した後、1973年3月25日に現在の題号となる。1973年3月改題当時のページ数は16ページ建て。
- 改題の背景には、山陰地区のテレビジョン放送相互乗り入れが関係している。山陰中央新報が出資する山陰中央テレビジョン放送(TSK)は、当初『島根放送』(通称:テレビしまね)として開局したが、1972年に鳥取県にエリアを広げたことから現社名となった。
テレビに誘発される形で、改題によりそれまで島根県のみであったエリアを、鳥取県にも拡大した。その影響で、鳥取の地元紙『日本海新聞』は、1975年に倒産した(現在は別法人にて再建)。このため鳥取市の拠点は、シェア以上に大きいものとなっている。現在は鳥取県では日本海新聞の後塵を拝しているが、島根県出身者など根強い読者がいる。ちなみに改題直後から8年間「山陰は一つ」をスローガンとして題字のすぐ下に入れていた。
1978年の段階で超高速オフセット輪転機を導入したことや1981年から一面にカラー写真を毎日掲載するなど新聞の印刷技術においては先駆的存在である。
2004年1月から島根大学漫画研究会と連携し、週1回学生による4コマ漫画または1ページ漫画を連載するという試みを行なっている。日刊の新聞で学生による漫画の連載は非常に稀なことである(現在は連載されていない)。
2007年10月からは、ひかわ制作センターのカラー輪転機増設によって、カラー面を大幅に増やし、また、紙面の一新を図った(題字も新たに島根県出身の東寺長者・砂原秀遍氏の揮毫によるものに改めた)。
2005年以降竹島の日、竹島の領有権に関する報道を積極的に行っている。
4コマ漫画はフジヤマジョージのカンちゃん(佐賀新聞、熊本日日新聞など複数の地方紙にも掲載)と、倉田真由美のわらびん(デーリー東北にも掲載)が毎日連載されている。
社説は共同通信が配信する物を題名だけ変えてそのまま使用することがある。
なお、同新聞の月極め定期購読者(直接配達地域<島根県全域と鳥取県一部>限定)には、朝日新聞社の有料電子版「朝日新聞デジタル」とのダブルコース申込みをすることが可能である。
ネットワーク
- 本社
- 島根県松江市殿町383 山陰中央ビル6階
- 印刷所
- 山陰中央新報製作センター(出雲市斐川町上庄原1318)
- 支社
- 東京
- 大阪
- 広島
- 総局
※は、本社以外で発行所を兼ねる。
- 支局
- 通信部
番組表
- テレビ番組表は最終面掲載のメインテレビ面と、中面掲載の第2テレビ・ラジオ面に分かれている。
- 1973年3月25日から1976年3月までは山陽テレビとテレビ岡山(現:OHKテレビ)の番組表も掲載されていた。
関連紙・雑誌
- 山陰経済ウイークリー
- さんいん学聞
- 生活応援情報紙りびえーる
関連団体
- 山陰中央新報製作センター
- 山陰中央テレビジョン放送
- テレビ新広島(産経新聞・中国新聞・日本経済新聞とも関係が深い)
- エフエム山陰(山陰中央新報提供ニュースを放送中)
- 山陰中央新報セールスセンター(広告代理業、新聞折込、ポスティング)
- SCアドクロス(広告代理店)
脚注
外部リンク
- テンプレート:FNN・FNS