李垠
李垠 | |
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200px | |
各種表記 | |
ハングル: | 이은 |
漢字: | 李垠 |
発音: | イ・ウン |
日本語読み: | り ぎん |
ローマ字: |
I Eun(2000年式) I Ŭn(MR式) |
英語表記: | Yi Un |
李 垠(り ぎん、イ・ウン、朝鮮語: 이은、光武元年(1897年)10月20日 - 1970年5月1日)は、大韓帝国最後の皇太子で、日本の王族、李王(李家当主)。大韓帝国時代の称号は英親王。
Contents
生涯
生い立ち
李氏朝鮮(朝鮮国)が大韓帝国と改称した年に初代大韓帝国皇帝(李氏朝鮮第26代国王)高宗の七男として生まれる。母は純献貴妃厳氏。異母兄の李坧が即位する(純宗)と皇太子となった。幼少期に当時韓国併合を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で教育を受けた。
日韓併合後
その後、1910年(明治43年)に行われた日韓併合によって王世子となり、王族として日本の皇族に準じる待遇を受け、「殿下」の敬称を受ける。1920年(大正9年)4月に皇族の梨本宮守正王の第一王女・方子女王と結婚する。1926年(大正15年)の李坧の薨去に伴い李王家を承継した。
陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り、その後歩兵第59連隊長、陸軍士官学校教官、近衛歩兵第2旅団長などを経て陸軍中将になる。1945年(昭和20年)4月には、軍事参議官に補せられた。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦の日本の敗戦後、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行に伴う王公族制度廃止により李王の身位を喪失した。「正規陸軍将校」であったため公職追放となった[1]。
朝鮮日報の金泰勲は、日本の敗戦時、李垠が「どうかこれまでと同じ待遇を続けてもらえないか」と日本の内閣に哀願したという証言が残っている、としているが誰による証言なのかは書かれていない[2]。
在日韓国人[3]となった李垠・方子夫妻は帰国を試みるが、日本と大韓民国の間の国交は樹立されておらず、その上、帝政復古を疑う李承晩大統領の妨害などもあり、帰国できなかった。
韓国へ
1959年(昭和34年)3月、渡米中に脳梗塞で倒れ、5月に日本へと戻る[4]。1961年(昭和36年)、渡米途中に日本に立ち寄った朴正煕大統領と面談。翌年夫婦ともに韓国籍になることを認めるとの通知を受ける[4]。
1963年(昭和38年)に日韓国交正常化交渉が始まると、同年11月夫婦ともに韓国へ渡るが病身であったため金浦国際空港からソウルの聖母病院へと直接運ばれた[4]。
死去
1970年(昭和45年)4月28日、結婚生活50周年の金婚式を病院で開くが、その3日後に病院で死去した[4]。李垠は皇帝への即位はなかったが、朴正煕の許可を経て王家の宗廟である永寧殿に「懿愍太子」の諡号で位牌が納められた[4]。
子女
方子妃との間に2男を儲けた。王世子であった李晋の突然の夭折には陰謀説がある。
年譜
- 1897年(光武元年)10月20日 - 出生。
- 1900年(光武4年) - 英親王に冊封される。
- 1907年(光武11年)7月20日 - 皇太子となる。
- 1907年(隆熙元年)12月 - 日本に留学し、伊藤博文らが扶育する。
- 1908年(隆熙2年)1月 - 学習院入学。
- 1910年(隆熙4年・明治43年) - 日韓併合によって大韓帝国が消滅したことに伴い、王世子となる。
- 1911年(明治44年)9月 - 陸軍中央幼年学校予科入学。
- 1913年(大正2年)9月 - 陸軍中央幼年学校本科入学。
- 1915年(大正4年)6月 - 士官候補生。近衛歩兵第2連隊附。
- 1917年(大正6年)
- 1920年(大正9年)4月 - (梨本宮)方子女王と婚姻する。歩兵中尉に進級。李王世子暗殺未遂事件。
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)12月 - 参謀本部附。
- 1926年(大正15年)
- 1927年(昭和2年)
- 1928年(昭和3年)8月 - 歩兵少佐に進級。近衛歩兵第2連隊大隊長。
- 1929年(昭和4年)8月 - 歩兵第1連隊附。
- 1930年(昭和5年)12月 - 教育総監部附。
- 1932年(昭和7年)8月 - 歩兵中佐に進級。
- 1933年(昭和8年)4月 - 教育総務課員。
- 1934年(昭和9年)4月 - 王妃とともに京城訪問。朝鮮神宮で行われた郷軍全鮮大会に臨席。
- 1935年(昭和10年)8月1日 - 歩兵大佐に進級。宇都宮の歩兵第59連隊長。
- 1937年(昭和12年)
- 4月18日 - 王妃とともに朝鮮訪問(25日まで)。
- 3月1日 - 陸軍士官学校教官。
- 8月2日 - 陸軍予科士官学校教授部長
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)1月〜 - 北支戦線の巡視。山西方面の太原、臨汾、運城と山東方面の済南、徐州、青島を視察。
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)8月1日 - 第1航空軍附。
- 1943年(昭和18年)7月20日 - 第1航空軍司令官。
- 1945年(昭和20年)4月1日 - 軍事参議官。
- 1947年(昭和22年)
- 1957年(昭和32年)
- 5月18日 - 日本国籍を取得して夫婦で渡米。
- 6月7日 - 李玖のマサチューセッツ工科大学(MIT)卒業式に出席。
- 1959年(昭和34年)
- 3月16日 - 脳梗塞で倒れる。
- 5月17日 - 日本へ帰国。
- 1960年(昭和35年)
- 6月6日 - 夫婦で渡米(ニューヨーク、8月6日帰国)。
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)
- 12月15日 - 韓国政府より李垠夫妻に大韓民国国籍の回復が告示される。
- 1963年(昭和38年)
- 5月末、容体の悪化により赤坂の山王病院に入院。
- 11月22日 - 韓国へ帰国。
- 1970年(昭和45年)
- 5月1日 - 死去、満73歳。
栄典
- 1907年(隆熙元年)5月28日 - 大勲位李花大綬章[5]
- 45px 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[6]
- 45px 1942年(昭和17年)3月20日 - 功三級金鵄勲章[7]
逸話
二・二六事件
1936年(昭和11年)2月26日の二・二六事件当時、李垠は宇都宮歩兵第59連隊長だったが、2月28日には連隊の一部である混成大隊を直率して上京した。29日0時半に新宿駅に到着した後、九段のホテルを接収して本部を構え反乱軍を鎮圧すべく対峙した[8]。
第1航空軍司令官
各地の航空隊を視察する時は必ず現地の神社を参拝した[8]。1944年(昭和19年)7月26日には副官や参謀を伴って空母鳳翔に乗艦し、海軍の攻撃七〇八飛行隊(一式陸上攻撃機装備)や攻撃四〇五飛行隊(銀河装備)とともに合同で夜間雷撃訓練を行なっていた麾下の陸軍飛行九八戦隊(四式重爆撃機装備)を視察した。この部隊は後に海軍の指揮下で台湾沖航空戦に参加した[9]。
系図
李垠の親類・近親・祖先の詳細 テンプレート:璿源譜略/荘祖
登場作品
- テレビドラマ『王朝の歳月』(KBS、1990年8月、演:ソ・インソク)
- テレビドラマ『奇跡の夫婦愛スペシャル・第一夜・虹を架ける王妃』(フジテレビ、2006年11月24日放送、演:岡田准一(V6))
- 映画『ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女』(ロッテエンターテイメント、2016年、演:パク・スヨン)
関連文献
- 『英親王李垠伝 李王朝最後の皇太子』 同伝記刊行会編、共栄書房、1978年/1988年/2001年
- 本田節子 『朝鮮王朝最後の皇太子妃』 文藝春秋、1988年/文春文庫、1991年
- 新城道彦『天皇の韓国併合 王公族の創設と帝国の葛藤』 2011年、法政大学出版局
脚注
- ↑ 総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年、510頁。NDLJP:1276156。
- ↑ 金泰勲 (2016年8月21日). “【コラム】映画『徳恵翁主』、韓国人の自尊心をくすぐる歴史「脚色」”. 朝鮮日報
- ↑ 法的には日本国籍を喪失したのは1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効時だが、日本の法令では様々な分野で外国人の扱いであった。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 新城道彦 『朝鮮王公族―帝国日本の準皇族』 中央公論新社、2015年。ISBN 978-4121023094。
- ↑ [1]
- ↑ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
- ↑ 日本政府에서 支那事變生存者 第37回 論功行賞(陸軍關係 第31回)이 발표된 바, 日本陸軍少將 李垠이 功三級의 金鵄勳章을 받다. (国史編纂委員会)
- ↑ 8.0 8.1 浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』2010年、文春新書
- ↑ 神野正美『台湾沖航空戦―T攻撃部隊 陸海軍雷撃隊の死闘』2004年、光人社
関連項目
先代: 李坧 |
李王 第2代:1926年 - 1947年 |
次代: (身位喪失) |
全州李氏当主 第28代:1926年 - 1970年 |
次代: 李玖 |