九段
九段(くだん)は、東京都千代田区にかつて存在した町名、及び坂の名称。本項目では九段坂(くだんざか)についても述べる。
概要
関東大震災後の帝都復興計画の中で靖国通りが整備されたのにともない、沿道地域を番町・富士見から分立させて、1933年に九段一~四丁目の町域を定めた。1966年、靖国通りを境にして町域を南北に分割し、現在の九段北1-4丁目及び九段南1-4丁目となる。当初は麹町区、1947年からは千代田区に属する。現在も地元の町会は南北合同で「九段×丁目町会」として活動している。
町名の由来となった九段坂は、日本橋川[1]から田安台に向けて続く道が、武蔵野段丘を上がるところに、9層の石段と「九段屋敷」という幕府の御用屋敷が造られたことに由来する。道幅も広く、急傾斜であったことから、江戸市中でも顕著な下町と山の手の境界であり、坂上からの展望が絶景であることから名所となった。
明治維新以後、坂上の幕府の馬場であった地帯を中心にして東京招魂社(靖国神社)が創建され、帝都東京の祝祭空間として繁栄をみせた[2]。靖国神社の南側(旧富士見町)一帯が歓楽街(花街)として賑わったのに対し、北側には千代田区立九段中等教育学校(旧東京都立九段高等学校)や、和洋九段女子中学校・高等学校・暁星学園・白百合学園中学校・高等学校・三輪田学園中学校・高等学校などの歴史ある学校が数多く存在する文教地帯となっている。[3]
通称
九段下・九段上(九段坂下・九段坂上)は、行政地名として使用されたことはなく、市電・都電の停留所名として親しまれてきた。現在は駅名・バス停のほか、交差点名として採用されている。
九段坂
江戸時代までは九層の階段となっており、徒歩でしか通行できない道であった。明治以後、段差を廃して坂道となったが、見上げるような急傾斜であった[4]ため、荷車を上げることは相当困難であった。そこで、食い詰めた人々が「立ちん坊」とよばれる人足となって九段坂下で待ち受けており、荷車を押すことによってなにがしかの報酬を得ていたという。
市電を建設する際にも、当時の技術では九段坂の急傾斜に線路を敷設することは不可能で、堀端の牛ヶ淵沿いに緩勾配の専用軌道を設置して、ようやく電車を九段上まで通すことができた。[5]
九段坂のシンボルとなっている「常灯明台」は、もとは靖国神社入口(旧偕行社、日本住宅公団本部跡)にあったが、震災復興計画による靖国通りの拡幅にともない、通りの南側、田安門入口に設けられた九段坂公園の現在地に移された。旧地であれば、江戸城内堀を通して大手町方面を一望する位置にあり、東京湾から見えたという伝承もうなづける。[6]
関連項目
脚注
- ↑ 旧平川。江戸時代には神田川が新たに開削されてお茶の水方面に本流が移り、切り離された下流域(日本橋川)は俎橋の先で「堀留」となっていた。明治以後、再び飯田町の旧流域を開削してつながる。
- ↑ 坪内祐三『靖国』(新潮社、1999年)
- ↑ 『富士見地区“まちの記憶・まちの暮らし”探索ガイドブック』(富士見地区町会連合会コミュニティ活性化事業実行委員会〈千代田区役所富士見出張所〉編、2011年)
- ↑ 現在の実践倫理宏正会本部あたりまで丘の上となっており、そこから九段下まで一気に下降する坂道であった。縄文時代には坂の下が波打ち際であり、丘の上には貝塚が形成された。「牛ヶ淵貝塚」の記念碑が九段会館構内に現存する。
- ↑ 震災復興計画の中で、靖国通りが新たに拡幅・整備され、九段坂も緩勾配に直された。現在九段上から九段下まで続く靖国通りに面する靖国神社の石垣は、この時に造成されたもので、旧地形は石垣の上面にあたる。このとき、拡幅され、緩勾配となった九段坂には、靖国神社の参道と同時にイチョウ並木が造成されたが、落葉が市電の軌道に詰まり、その油分で電車が空転して坂を上がれなくなったことから、並木は半分撤去されたという。
- ↑ 九段坂の常灯明台は、もともと灯台として造られたのではなく靖国神社への献灯として建てられ、後に造られた鋼管製の巨大な一の鳥居とともに、遠方から目印となるように考えられたものである。九段坂上は、江戸時代から観月や、隅田川の花火を見渡せるビューポイントとして有名であった。