ヴァイマル共和政
ヴァイマル共和政(ヴァイマルきょうわせい、ドイツ語: Weimarer Republik)は、1919年に発足して1933年に事実上崩壊した戦間期のドイツ国の政体。政治体制は1919年8月に制定・公布されたヴァイマル憲法に基づいている。ヴァイマル共和国、ワイマール共和政、ワイマール共和国などとも訳される。
ヴァイマル共和政下における正式な国号は、ドイツ社会民主党などが提案し、後に日本を始め他国の言語での翻訳でも実際に多く用いられた「ドイツ共和国(Deutsche Republik)」が拒否されたため、帝政時代からの正式な国号である「ドイツ国(Deutsches Reich、ドイチェス・ライヒ)」が引き続き用いられた。首都も帝政時代と同じくベルリンであり、ヴァイマルが首都であったわけではない。
憲法の社会政策と第一次世界大戦の賠償両面で財源を確保すべく、独占により産業合理化を推進した。合理化のため、アメリカ・イギリス・フランスから巨額の短期資本を導入し、銀行は長期貸しを行った。世界恐慌が起こるや否や短資は流出してしまい、その支払のため発行された手形が再割引きに出された。こうしてライヒスバンクは、1930年から1932年にかけて、地金・外貨準備の1/3を失った。失業者の数は1929年秋の約200万から翌年秋に倍の400万となり、1932年夏に600万となった。失業保険の過酷な受給要件が、1932年平均で受給者割合を2割に抑えた[1][2]。
1924-1930年(この記事でいう合理化景気の時代)にNY市場で発行されたドル建て外債は、ドーズ公債とヤング公債の主幹事であったJPモルガンをはじめとして、諸邦債がブラウン・ブラザーズ・ハリマンやシティバンク、ゴールドマン・サックスやディロン・リードに発行されていた[3]。
Contents
沿革
革命
第一次世界大戦による市民生活の悪化は首都ベルリンにおけるドイツ社会民主党や独立社会民主党といった左派の影響力を拡大させた。1917年ごろからはストライキが頻繁に起こるようになった。さらに1918年3月のカイザー攻勢の失敗以降の戦線の崩壊は、政府関係者や軍部にも敗戦を覚悟させた。9月29日には参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルクと参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフが連名で休戦の受諾と、議会に立脚する新政府の成立を求めた書簡を提出した。しかし多くの国民や前線の兵士は敗戦を考えていなかった。
これを受けてゲオルク・フォン・ヘルトリング内閣は総辞職し、マクシミリアン・フォン・バーデンが新首相となった。マクシミリアン内閣の閣僚は社会民主党、中央党、進歩人民党の3党の議員が構成しており、ドイツ帝国最初の政党内閣といえるものであった。マクシミリアンはこの内閣の成立を基礎としてアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領と交渉したが、ウィルソンはドイツの民主化が不十分、すなわち皇帝ヴィルヘルム2世の退位が必要であるとして拒否した。
この頃から皇帝の退位を求める声が高まり始め、11月3日にはキールにおいて水兵が反乱を起こし、町はレーテ(労兵協議会)によって掌握された。その後次々に各地に反乱が起き、11月7日にはミュンヘンで革命政権が成立してバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位した。社会民主党は皇帝の退位が無ければ事態が収拾できないと主張したため、11月9日にマクシミリアン首相が皇帝の退位を独断で宣言、首相の座を社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに譲った。エーベルトは穏健な立憲君主制政府を目指していたが、一方、かねてから戦争に反対していた独立社会民主党の急進的な2派、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクに率いられたスパルタクス団と、労働組合組織を基盤とする革命的オプロイテは革命を目指し、新政府の樹立を狙っていた。同日午後2時ごろ、この動きを察知した社会民主党の幹部フィリップ・シャイデマンは、議会前に集まった群衆に、独断で共和政の樹立を宣言した。エーベルト首相は「何の権限があって共和政宣言をしたのか」とシャイデマンを叱責したが、すでに帝政復活を行える情勢ではなかった。
人民委員会会議
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共和政宣言後、社会民主党は独立社会民主党に対して政府構築に協力を求めた。独立社会民主党の主導権を握ったリープクネヒトは社会主義共和国の成立とレーテによる三権掌握を主張したが、社会民主党は国民議会による選挙が必要であると回答した。11月10日、独立民主党の穏健派は強硬派を除外した会議を開き、条件を撤回して政府参加を決めた。この政府は人民委員会会議という名称がつけられ、議長は常にエーベルトが就任するなど社会民主党主導の政府となった。一方でスパルタクス団とオプロイテは革命政権の樹立を目指し、活発に活動した。
この10日の深夜から、参謀次長ヴィルヘルム・グレーナーとエーベルトの間で頻繁に連絡が行われ始めた。エーベルトは革命派を抑え、ドイツを安定化させるためには軍が必要であると考えており、グレーナーもまた新政府の安定化を望んでいた。二人の間には密約が結ばれ、軍は新政府に協力することになった。
11月11日、コンピエーニュの森で連合軍とドイツの休戦協定が調印された。社会民主党は国民議会の選挙を求めたが、レーテ独裁による社会主義政権を狙うスパルタクス団とオプロイテはこれに反対した。急進二派はベルリンのレーテを掌握し、さらに全国のレーテに呼びかけて革命をもくろんだが、各地のレーテは反政府的な意図で蜂起したのではなく、厭戦感情に基づくものであった[4]。このため、12月16日から21日に開かれたレーテの全国大会で、レーテの主導権は社会民主党によって握られる事になった。この大会で国民議会の選挙を1919年1月19日に開催する事が決まり、急進派の路線は敗北した。しかしこの全国大会では軍階級の解消と、兵士による将校選挙が決議され、軍はこれに反発した。この決議はグレーナーとレーテ中央委員会の協議によって先送りされる事になったが、独立社会民主党は不満を持ち、政府の結束は乱れ始めた。
この頃ベルリンには社会民主党のオットー・ヴェルスベルリン軍司令官の指揮下にある「共和国防衛隊」という軍事組織があったが弱体であり、ベルリン警視総監に就任した独立社会民主党のエミール・アイヒホルンが組織した「保安隊」、王宮を占拠していた「人民海兵団」といった二つの組織の存在が政権の不安定要因となった。12月23日、王宮で略奪を行った人民海兵団をポツダムから呼び寄せた軍に命じて攻撃させた(人民海兵団事件)。この事件に反発して独立社会民主党は政府から離脱した。しかしこの鎮圧の最中、軍が群集によって武装解除される事件が起こり、軍が無力化したという印象を人々に与える事になった。
1月蜂起
12月30日、スパルタクス団はカール・ラデックらのグループを加えてドイツ共産党を結成した。当初の党名は「ドイツ共産党・スパルタクス団」であった。しかし敗戦後急速に規模が拡大した同党で、スパルタクス団の勢力は限定的となり、さらに急進的な意見が主流を占めるようになった。ルクセンブルクらが反対したにもかかわらず国民議会選挙のボイコットを決め、暴力革命路線を歩む事になった。オプロイテはこの急進的な路線に反発して共産党に参加しなかった。1919年1月5日、ベルリン警視総監アイヒホルンの解任をきっかけにデモが発生した。リープクネヒトはこのデモを利用して暴動を起こそうと計画し、革命委員会を設立した。1月6日、エーベルトはグスタフ・ノスケ国防相に最高指揮権を与えた。ノスケは旧軍人を組織した武装組織ドイツ義勇軍(フライコール)をベルリンに召集し、1月9日から鎮圧が始まった。革命派は次第に鎮圧され、1月15日にはルクセンブルクとリープクネヒトが殺害された。これ以降、フライコールの勢力はドイツを左右する大きな力であると認識された。
ヴァイマル憲法成立
1月19日、予定通り国民議会選挙が行われた。共産党はボイコットしたものの、投票率は82.7%と高率であった。社会民主党・中央党・ドイツ民主党が多数を占め、連立政府を形成した。この連合はヴァイマル連合と呼ばれる。2月6日からヴァイマルで国民議会が開催され、2月11日の大統領選挙でエーベルトが臨時大統領に選出され、シャイデマンを首相に指名した。7月末にはヴァイマル憲法 (WRV: Weimarer Reichsverfassung) が採択され、8月11日に公布された。この憲法において大統領の権限の強い共和制、ドイツ帝国諸邦を基にした州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた。これが法制史における人権概念の萌芽とされており、後に制定された日本国憲法にも影響を与えている。
一方で、連合国はパリ講和会議において講和条約を策定し、6月28日にドイツに提示し、調印させた。このヴェルサイユ条約で、ラインラントへの連合軍駐屯、陸軍は10万人を上限とするなどの軍備の制限、植民地とエルザス=ロートリンゲン、上シュレージエンなどの割譲、ザール地方の国際連盟による管理化、ダンツィヒ(現・グダニスク)の自由都市化などの領土削減が行われた。また経済面でも連合国側の管理機関がドイツに設置される事になり、飛行機の開発・民間航空も禁止された。そして戦争責任はドイツにあることが定められた。中でもドイツを苦しめる事になるのが、多額となると見られる賠償金であった。この条約はドイツ国民に屈辱を与え、ヴァイマル政府に対する反感の元となった。シャイデマンは条約に抗議して辞職し、グスタフ・バウアー内閣が成立した。
左右からの攻撃
戦時中に大量発行された戦時公債の償還、軍人の復員費などの膨大な出費、そして産業の停滞による税収減が政府の財政を圧迫していた。バウアー内閣は戦時利得者や富裕層に税金をかけることで補おうとしたが、右派の抵抗にあって実現しなかった。政府は紙幣の増発を行うことで対処しようとしたため、次第にインフレーションが進んでいった。
インフレと不況は国民生活の困窮と混乱を招き、左派勢力によるストライキや暴動が頻発した。4月はじめにはバイエルン州の政府が共産党によって倒され、バイエルン・レーテ共和国が成立した。ノスケ国防相はフライコール、特にエアハルト海兵旅団やフランツ・フォン・エップ将軍のエップ義勇軍を派遣し、鎮圧させた。この間のレーテ共和国側による弾圧は、もともと保守派の多かったバイエルン州のさらなる右傾化を招き、多くの右派団体・政党を生み出す土壌となる[5]。連合国はフライコールの解散を求め、政府も禁止令を出したため1920年頃から解散が始まった。しかし、軍事力を維持する軍と政府の支援と黙認により、一部のフライコールは偽装団体に移行して組織と勢力を温存した。
その頃、国民議会で戦争の敗因を調べる調査委員会が開催されていた。11月、証言台に立ったヒンデンブルクが、ドイツ帝国は「背後から匕首(ドイツ革命)で刺された」と発言した。この発言はドイツの「突然の敗北」に不審を抱いていた人々や左派の暴動に不満を抱いていた人々の間に、ドイツ帝国は内部からの裏切りによって敗北したのだという「背後の一突き」伝説を広める事となった。
1920年3月13日には右派政治家ヴォルフガング・カップとエアハルト海兵旅団がベルリンへの進軍を開始した(カップ一揆)。エーベルトは国軍に鎮圧を命じたが、陸軍統帥部長官ハンス・フォン・ゼークトは「軍は軍を撃たない」として出動命令を拒否した。やむなく政府はシュトゥットガルトに避難し、カップは新政府樹立を宣言した。しかしエーベルト政府は官僚や国民に対してゼネストを呼びかけ、カップの政府は機能しなくなった。3月17日にカップが亡命して一揆は終結したが、ゼネストを主導した全ドイツ労働組合同盟は責任者の処罰等を求め、ゼネストを解除しなかった。政府はこの条件を受諾し、バウアー首相は退陣してヘルマン・ミュラーが代わり、ノスケも国防相を解任された。かわって軍の実権を握ったのは、総司令官に就任したゼークトであった。ゼークトは軍の政治的中立を標榜することで軍の独立性を確立させた。
この後もルール蜂起をはじめとする左派の蜂起とそれに対する軍の弾圧は頻発し、社会民主党政府は徐々に支持を失っていった。6月6日に行われた最初の国会選挙で社会民主党をはじめとするヴァイマル連合の勢力は退潮し、左派の独立社会民主党と右派のドイツ国家人民党やドイツ人民党が大きく議席を伸ばした。社会民主党が人民党との協力を拒否したため、中央党と民主党と人民党の3党によるコンスタンティン・フェーレンバッハ内閣が成立した。10月には独立社会民主党がコミンテルンへの参加をめぐって分裂し、一部が共産党に移った。
1921年3月に共産党はコミンテルンのクン・ベーラの指導によって中部ドイツのマンスフェルトを占領する中部ドイツにおける1921年3月行動を起こした。この一揆は軍によって直ちに鎮圧されたが、ドイツ共産党に対するコミンテルンの支配は強まっていった。
賠償金への不満
1921年3月から行われたロンドン会議において、賠償金の金額は1320億金マルク、具体的には毎年20億マルクと輸出額の26%を30年間支払う方式による返済が定められた。フェーレンバッハは受諾不可能として辞職し、かわって就任したヨーゼフ・ヴィルトのもとで受諾された。ヴィルトは条約を遵守する「履行政策」をとって連合国の信頼を得ようとした。しかしこの莫大な賠償金はドイツの経済を苦しめ、さらにヴェルサイユ条約への不満を強めることになった。3月20日にはオーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票が行われ、ドイツ帰属派が多数(60%以上)を占めた。しかしポーランド帰属派が反対して暴動を起こし、両国の間で戦闘が起こった(シレジア蜂起)。国際連盟はオーバーシュレジエンを分割して解決する事にしたが、地下資源の産出地をポーランドに組み入れるように線引きしたため、ドイツ人が多数を占める地方もポーランド領となった。これはドイツ国民のヴェルサイユ体制への反感をさらに高めさせた。8月には休戦協定に署名し、バウアー内閣で蔵相を務めたマティアス・エルツベルガーがエアハルト旅団の流れをくむ極右テロ組織コンスルの手によって暗殺された。
一方で連合国の間でも賠償金の支払方法については議論があり、カンヌ会議(1922年1月)やジェノア会議(4月 - 5月)において検討が行われた。ジェノア会議にはドイツのヴァルター・ラーテナウ外相が出席を認められ、またソビエト連邦のゲオルギー・チチェーリンが参加した。この会議中にラーテナウとチチェーリンは協議し、4月16日にはソビエト政権の承認、独ソ双方の賠償・債務の放棄を定めたラパッロ条約が締結された。これはポーランドとの紛争を抱えていた両国の利害が一致した事、また旧帝政時代の債務返済を拒否しようとするソビエトと、ソビエトへの賠償支払いによる賠償金の増加を恐れたドイツの利害が一致したものである。またゼークトはヴェルサイユ条約の軍備制限から逃れるために、ソビエト軍と秘密協定を結び、ソビエト軍の再建を支援するとともに、ロシアにおいて秘密訓練や兵器の生産を行った。軍や外務省にはソ連と結ぶことで西側連合国に対抗しようとする東向き政策を志向する動きがあり、ソ連との連絡はラデックを通じてひそかに行われていた[6]。
ラーテナウは賠償金の減額のためにあえて東向き政策に同調したが、反共産主義の立場をとる右派から激しい非難を受けた。このため6月24日、ラーテナウはコンスルによって暗殺された。ラーテナウの葬儀でヴィルト首相は「敵は右側にいる」という演説を行い、反政府活動への対処を始めた。エーベルトは「共和国保護の緊急令」を発し、7月21日に「共和国保護法」として法制化された。これにより左右の過激派活動への取締りは強化され、テロ行為も一段落した[7]。10月、社会民主党に独立社会民主党の右派が合流した。このため社会民主党は左傾化し、エーベルトが提唱した人民党との連立を拒否した。ヴィルト内閣は総辞職し、中央党・人民党・民主党・バイエルン人民党そして国家人民党の支援を受けるヴィルヘルム・クーノ内閣に代わった。
ルール占領とインフレーション
ヴェルサイユ条約の下で定められた高額な戦争賠償金はドイツの支払い能力を超え、支払いは滞りがちになった。しかし、フランスはドイツが意図的に支払いを遅らせており、連合国への反抗だとみなし、石炭やコークス・木材等の物資を接収して賠償にあてるため、1923年1月11日から、ベルギーとともにドイツ屈指の工業地帯であるルール地方の占領を開始した。ドイツ政府はこれに官公吏のフランスへの協力を禁止し、鉱工業従事者にストライキやサボタージュを呼びかける「消極的抵抗」で対抗した。また右派による輸送機関への破壊工作も行われた。消極的抵抗は当初ドイツ国内で熱狂的に支持されたが、ドイツ産業の心臓部であるルール地方の停止は経済に重大な影響を与えた。
かねてから進行していたインフレは天文学的な規模になり、28%が完全失業者となり、42%が不完全就労状態となった[8]。これにより中産階級は没落し、大企業のコンツェルン化が進んでいった。このため社会不安はますます進んでいった。8月12日にクーノ内閣は倒れ、国家人民党と共産党を除く各党の支持を得たグスタフ・シュトレーゼマンが首相となった。シュトレーゼマンは占領への消極的抵抗を中止し、11月15日にパピエルマルクから国有地を担保としたレンテンマルクへの通貨切り替え(デノミネーション)を行い、インフレの沈静化に成功した。これに一役買ったのが、通貨全権委員のヒャルマル・シャハトであった。
一方で政情不安は左右の蜂起を招いた。中部ドイツのザクセン州・テューリンゲン州では、共産党員が内閣に入閣、さらに軍事組織を形成して全ドイツへの革命を起こそうとした。これを察知した国防相オットー・ゲスラーは軍の派遣を行ったため両州の政権は崩壊した。この際、共産党は一斉蜂起を計画したが、直前になって中止した。しかし連絡ミスによりハンブルクでは暴動が発生した[9]。一方バイエルン州ではグスタフ・フォン・カールが州総督となり、反中央政府の姿勢を明らかにした。国家社会主義ドイツ労働者党をはじめとする州の極右派はドイツ闘争連盟を結成し、11月8日に「ベルリン進撃」のためのクーデターミュンヘン一揆を起こした。一揆はバイエルン州の警察によって鎮圧されたが、政府による鎮圧はされなかった。社会民主党は右派に対する姿勢が弱腰であるとして連立を離脱し、11月23日にシュトレーゼマン内閣は崩壊した。後継内閣はヴィルヘルム・マルクスが組織し、シュトレーゼマンは外相となった。以後シュトレーゼマンは6つの内閣で外相を務める事になる。
合理化景気
一方で、イギリスにとって、ルール占領は好ましい行動でなかった。イギリスは賠償問題の解決のための専門家委員会設置を提案し、最大の債権国アメリカの賛同を得た。二大国の前にはフランスも賛成せざるを得ず、1923年12月にチャールズ・ドーズを委員長とするドーズ委員会が設置された。ドーズ委員会は1924年4月に「ドーズ案」を作成し、8月16日にドイツも受諾した。これはドイツに8億マルクの借款を与え、一年あたりの支払い金額も緩和するものであった。国家人民党はこの案を「第二のヴェルサイユ条約」として批判し、1924年5月の国会議員選挙では国家人民党をはじめとする右派、さらに共産党が躍進した。国会は機能不全に陥り、12月には再び国会選挙が行われた。ドーズ案の受け入れ後に景気は好転し、失業者もほとんど消滅しており[8]、ルール占領も解除された事で極右と極左は退潮した。しかし連立交渉はうまくいかず、マルクス首相は12月15日に辞職、翌1925年1月15日にハンス・ルター内閣が成立するまで議会は空転した。
この最中、エーベルトが戦争中にストライキに参加したのは国家に対する反逆であるというキャンペーンが行われた。エーベルトはこれを誣告であるとして訴え、裁判には勝訴した。しかし裁判長はエーベルトが反逆を行った事は事実であると認定した。このためエーベルトは右派から反逆者として攻撃された。愛国者を自認していたエーベルトにとってこれは耐え難い屈辱であり、健康状態を悪化させる一因になった[10]。1925年2月28日にエーベルトは死去し、大統領選挙が行われる事になった。
3月25日に大統領選挙が行われた。国家人民党・人民党の押すカール・ヤレスは38%の票を獲得し首位となったが、当選には過半数の票が必要であったため、当選にはいたらなかった。社会民主党・中央党・民主党のヴァイマル連合は統一候補としてマルクス元首相を立て、大統領の座を確保しようとした。ヤレスでは対抗できないと考えた右派は、かつての参謀総長ヒンデンブルクを新たな候補として擁立した。第二回投票では最多得票者が当選となるため、ヒンデンブルクが160万票差で当選した。このヒンデンブルクの勝利はバイエルン人民党がヒンデンブルクを支持した事、そして共産党が独自候補に固執した事が原因とされる[11]。
この後も政党の離合集散が相次いだために政権は不安定であり、ルター、第二次マルクスと短命の内閣が続いた。しかし右派の期待を集めていたヒンデンブルクが憲法を遵守する姿勢をとったため、いずれの政変の際も議院内閣制は守られた。さらに彼の名声が独立的な立場をとろうとするゼークトの権威を相対的に低下させた。さらに1926年の秋季演習に皇帝の孫ヴィルヘルムを無断で招待した事が問題となり、ゼークトは罷免された。これにより軍の政治介入はしばらくの間抑えられる事になった。
1925年には共産党がドイツ帝国構成諸国旧君主の財産接収を提案した。これは国会で直ちに否決されたが、共産党は国民投票にかけるよう要求した。ヴァイマル憲法では全有権者の一割が賛成の署名を行った法律が否決された場合は、国民投票にかけられるという規定があった。共産党は社会民主党の党員に働きかけ、社会民主党を接収賛成に回らせた。しかし1926年に行われた投票では両党が共同しても1500万票しか獲得できず、過半数の2000万票には及ばなかった。この結果は左派勢力の限界を示すとともに、社会民主党に対する保守層の反感を高める事になった[12]。
1928年度予算の作成時にも問題が起こった、海軍はヴェルサイユ条約の制限をクリアする装甲艦、ポケット戦艦の開発を要求した。この建造費900万マルクが過大であるとして、社会民主党、民主党、共産党は反対した。1928年5月の選挙で社会民主党は「軍艦より子供の給食を」をスローガンとする選挙キャンペーンを行った。結果社会民主党や左派政党は躍進し、6月28日には社会民主党主導の第二次ミュラー内閣が成立した。しかし軍の強い要望でミュラー内閣はポケット戦艦の予算を復活させた。しかし選挙キャンペーンで軍艦反対を唱えていた社会民主党が反対にまわり、内閣に参加していた社会民主党閣僚も投票では反対に回った。この経緯は社会民主党に対する信頼をさらに傷つけることになった[13]。また選挙には敗北した国家人民党もアルフレート・フーゲンベルクら右派の勢力が拡大していった。
外交面ではいわゆる「シュトレーゼマン外交」により、ドイツの国際的地位は回復しつつあった。1925年10月にはロカルノ条約が締結され、ヨーロッパにおける安全保障体制、「ロカルノ体制」が成立した。1926年4月24日には独ソ両国の不可侵と局外中立を定めたベルリン条約が締結され、9月10日には国際連盟への加盟が満場一致で承認され、常任理事国となった。さらにラインラントに置かれていた占領軍も一部撤兵し、民間航空の復活と飛行機製造も許可された。
経済面は好況が続き、1926年のリストラによって一時増大した失業率も1928年には5%台に回復[8]、労働条件も飛躍的に改善された。この相対的な安定期は黄金の20年代 (ドイツ)と呼ばれている。この好景気をもたらしたのはアメリカ資本による資金投入であったが、大半が短期信用によるものであり、本国の事情によってはいつ引き上げられるかわからないものであった。さらに投入先の多くが公共事業であり、公務員の人件費が増大する結果を招いた。さらに1927年の失業保険法に代表されるヴァイマル共和政下の手厚い福祉政策も、国家予算の膨大化を招く事になる[8]。
世界恐慌
1929年2月、オーウェン・D・ヤングを委員長とする賠償金の支払い方法を検討する委員会が設置され、「ヤング案」を策定した。6月に調印が行われたこの案は、ドーズ案以上に支払いを緩和し、賠償金支払いのための外債の利子も賠償金に含まれるよう定義されたため、実質的な賠償金額の削減となった。さらに連合国によるドイツ経済管理機関はすべて撤廃され、ラインラントからの連合軍撤退も決定された。しかし、一年あたりの賠償額削減は、賠償金支払いの期間が長くなる事を意味しており、フーゲンベルクら右派は子孫に屈辱を残すものだとして猛反発した。この反対者の中には政府特使としてヤング案調印に参加したシャハトも含まれていた[14]。フーゲンベルクは民間軍事団体鉄兜団のフランツ・ゼルテ、さらにナチスのアドルフ・ヒトラーと連携して、ヤング案反対闘争を開始した。
また好調であったドイツ経済も、アメリカ資本の株式投機への資金移動により、1928年の後半から減速し始めた。1929年の冬には失業者が200万人を越えるようになった。このため失業保険の支払いが膨大な額となり、何らかの対策が迫られた。失業保険の原資は労使双方からの資金であり、蔵相ルドルフ・ヒルファーディングは拠出割合を現行の3%から0.5%引き上げる法改正を行った。しかしこれは資本家の猛反発を受け、シュトレーゼマンの属する人民党も反対した。シュトレーゼマンは法案採決を棄権するという妥協案で人民党の政権離脱を食い止めたが、彼自身は発作を起こして10月3日に死亡した。
さらに10月24日に発生した世界恐慌により、アメリカ資本の引き上げが開始され、ドイツ経済は再び最悪の状態を迎えた。ヒルファーディングは国債の増発を行おうとしたが、シャハトの反対で発行できなかった。そこで大蔵次官ヨハネス・ポーピッツが外債募集によって解決しようとしたが、シャハトが政府の財政政策を批判する宣言を行ったため、引き受け先が現れなかった。このためヒルファーディングは辞職に追い込まれた[15]。
ヤング案は1930年1月に批准手続きが開始され、辛うじて国会で承認された。しかし失業者はなおも増大して350万人に達し、失業保険が再び議論となった。ミュラー内閣は拠出割合をさらに0.5%上げる政策案を提示したが、再び人民党が反対して実現に至らなかった。フーゲンベルクと民主党は国庫から失業保険に対する支出を行い、足りない場合には0.25%拠出割合を引き上げるという妥協案を提示したが、今度は社会民主党出身の労働相ロベルト・シュミットが猛反発した。シュミットら労働組合勢力は組合の利益にならないとして妥協案に反対し、社会民主党全体を妥協案反対に賛同させた。このためミュラーは進退窮まって3月27日に辞職し、社会民主党は自らの手で自らの首相の命運を絶った。
大統領内閣
この頃、ゼークト後のドイツ軍を掌握していたのは国防次官のクルト・フォン・シュライヒャーであった。シュライヒャーはヒンデンブルク大統領の息子オスカー・フォン・ヒンデンブルクとも親しく、大統領の側近の一人となっていた。シュライヒャーは後継首相としてヤング案批准で活躍したハインリヒ・ブリューニングを推薦した。ヒンデンブルクはブリューニングに首相を任命する際、議会に拘束される事無く内閣を形成する事を命じた。それでもブリューニングは中央党・人民党の協力を得、さらに社会民主党との大連立を目指したが、社会民主党が人民党との協力を拒絶したため、少数与党による議会運営を余儀なくされた。このため、これ以降の内閣は議会に基盤を持たない「大統領内閣」と称される。
ブリューニングは全面的な増税、さらに失業保険の1%引き上げを策定した。7月16日にこの法案が否決されると、ヒンデンブルク大統領は大統領令としてこの法案を施行させた。しかし社会民主党が大統領令の取り消しに動き、国会は取り消しを可決した。このためヒンデンブルク大統領は国会を解散し、その間にふたたび大統領令で増税を行った。
9月14日に国会議員選挙の投票が行われたが、この選挙で107議席を獲得して第二党に躍進したのがナチスであった。ブリューニングはナチスに協力を求めたが拒絶され、国会運営はますます苦しくなった。一方で社会民主党はナチスを警戒してブリューニングの政策を「寛容」するようになった。各州での選挙でもナチスが躍進し、民主主義体制は危機を迎えた。
ブリューニング内閣崩壊
ヴェルサイユ体制の破棄を訴えるナチスの躍進は、ドイツに対する諸外国の信用を一気に低下させた。このため海外資本の引き揚げはますます顕著となり、1930年末には失業者が400万人を超えた[16]。このような情勢下でブリューニングの増税政策はますます支持されなくなっていった。
ブリューニングは外交上の成果を上げるため、1931年3月23日、オーストリアとの関税同盟(独墺関税同盟事件)を結んだ。しかしこれはヴェルサイユ条約の「ドイツ・オーストリア合邦禁止」規定に抵触するとして連合国諸国から強い反発を受けた。フランスがオーストリアの資本を引き揚げたため、5月8日にはオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタルト(ドイツ語版)が破綻した。同銀行はヨーロッパ全土で取引をしていたため、この銀行破綻はドイツやオーストリアのみならず、ヨーロッパ全土の経済に打撃を与えた(世界恐慌)。賠償支払いはもはや不可能であり、アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは6月19日に西欧諸国とドイツに対する賠償と債務の支払いを一年間猶予すると宣言した(フーヴァーモラトリアム)。しかしこの発表によってもドイツ経済の悪化は止まらず、企業や銀行の破綻が相次いだ。また関税同盟も9月に常設国際司法裁判所によって違法と判断されたため成立しなかった。
関税同盟の失敗は内閣改造を余儀なくしたが、ヒンデンブルクは「議会と独立に」内閣を作る事を改めて指示し、大統領内閣としての性格が強まった[17]。この頃から国会で議決されない大統領令による立法が増加し、1931年には大統領緊急令の数が国会採択の立法の数を上回り、1932年には大統領緊急令60に対し、議会での立法はわずか5となった[18]。10月11日、アルフレート・フーゲンベルクの主唱でドイツ国家人民党、ナチス、鉄兜団等右派による反ブリューニング戦線の決起集会が開かれた。会場には旧帝国皇族、ゼークト、ヒャルマル・シャハトらが集まり盛会となったが、このハルツブルク戦線はヒトラーが乗り気でなかったために実際の影響力は乏しいものであった。ナチスは単独での政権掌握を狙っており、突撃隊も活発にテロ活動を行った。この後ブリューニングは経済の悪化を理由に再度の賠償金問題(詳細は戦争賠償#第一次世界大戦を参照)解決のための交渉を行い、1932年1月にスイスでローザンヌ会議を開く事が合意された。
1932年には大統領の任期切れが迫っていた。ヒンデンブルクは選挙戦を厭って信任投票による再選を願っていたが、結局選挙戦が行われる事になった(1932年ドイツ大統領選挙)。3月に行われた一次投票でヒンデンブルクは最多得票を獲得したものの、過半数には及ばなかった。4月10日の二次投票で再選が確定したものの、2位となったヒトラーの影響力拡大は誰の眼にも明らかとなった。この選挙戦はかつてヒンデンブルクを支持した右派がヒトラー支持に回り、ヴァイマル連合をはじめとする反ヒンデンブルク派だった政党がヒンデンブルクを支持するという、前回の大統領選挙と逆の構図となった。この頃ヒンデンブルクはかなり老衰しており、シュライヒャーなどの側近によって簡単に動かされるようになっていた。
4月、国防相兼内相となっていたヴィルヘルム・グレーナーは、突撃隊と親衛隊の禁止命令を出した。しかしナチスとの連携を模索するシュライヒャーの策動でグレーナーは失脚した。国防相となったシュライヒャーはブリューニング内閣を倒して右派独裁による新政権樹立を目指し、さらに策動を開始した。突撃隊禁止命令の解除を材料としてヒトラーと交渉し、大統領にはブリューニング政権の進める東部救済政策がユンカーの抑圧であると吹き込んだ。窮地に追い込まれたブリューニングは5月30日、東部救済政策の失敗を理由に辞職した。
共和政の黄昏
シュライヒャーは友人のフランツ・フォン・パーペンを推薦し、6月1日にパーペン内閣が成立した。パーペン内閣は事前のヒトラーとの合意に基づいて突撃隊禁止命令を解除と国会解散を行ったものの、ナチスは態度を翻して内閣を攻撃した。6月16日からローザンヌ会議が開催され、賠償金は30億マルクに減額された上に状況によっては支払わなくてもよいという、事実上の賠償問題解決が決定された。しかしあくまでヴェルサイユ体制の解消を訴えたナチスはこの会議も失敗であるとして攻撃した。突撃隊の活動はますます活発になり、多数の死者を出す事件が続発した。7月14日、パーペンは事件を理由にプロイセン州政府を解体し、自ら国家弁務官となってプロイセン州を掌握し、いわゆるプロイセン・クーデタを起こす。この措置は国事裁判所によって違法と判断されたが、パーペンは従わなかった。これは高度な自治を許されていた各州に対する中央権力介入のはじまりとなった。
7月31日に行われた国会選挙でナチスはさらに躍進し、第一党となって230議席を獲得した。9月12日に開催された議会はすぐに解散され、11月16日にふたたび選挙が行われた。相次ぐ選挙はナチスの資金繰りを悪化させ、議席は196に減少したものの、相変わらず第一党の座を占め続けた。シュライヒャーはパーペンを辞職させ、12月3日に自ら首相となった。しかしこの頃からヒンデンブルクはパーペンを信頼するようになり、パーペンも裏切られた屈辱からシュライヒャー打倒を目指すようになる。
パーペンはヒトラーと接触し、自らの返り咲きを狙った。また、大統領の側近グループであるオスカー・フォン・ヒンデンブルクやオットー・マイスナーを取り込んで、ヒトラー嫌いのヒンデンブルクの理解を得ようとした。やがて国会基盤も持たず、大統領の信任も失ったシュライヒャーの政権運営は行き詰まり、1933年1月28日に辞職した。ヒンデンブルクはパーペンの再任を望んだが、ヒトラー首相以外ではナチスの支持を得られないと悟ったパーペンは拒否し、自ら副首相になるとして渋る大統領を説得した。
崩壊
1933年1月30日、ヒトラーが首相に就任し、ヒトラー内閣が成立した。ナチスはこの政権掌握を「国家社会主義革命」と定義した。2月27日のドイツ国会議事堂放火事件によって発令された緊急大統領令は、憲法の基本的人権を停止するとともに、実質的に他の政党の抵抗力を奪った。同年3月、ヒトラーは全権委任法を制定し、憲法に違背する法律を制定する権限を含む強大な立法権を掌握した。これにより、ヴァイマル憲法は事実上その効力を失った。さらに、1934年8月2日にヒンデンブルク大統領が死去するとともに、ヒトラーは国家元首と首相の地位を合体(総統)し、8月19日には国民投票を実施してこの措置を国民に承認させた。形式的にいうならばヴァイマル憲法はその後も廃止されたわけではなかったが、完全な空文と化していた。
失敗の原因
ヴァイマル共和政がなぜ終焉したか、という議論は現在も続いていて、恐慌による社会不安・ヴェルサイユ条約への反発が上げられる。しかし、何よりも既存政党と民主主義への失望がその原因とされる。また憲法における大統領権限の強大さとヒンデンブルクの反民主主義志向、そして既存政党がいずれも未熟であったこともあげられている[19]。実際にヒトラーが首相(後に総統)になるまでのヴァイマル共和政(1919年2月13日-1933年1月28日の約13年間)で14人もの人物が変わるような有り様だった。
現在のドイツの事実上の憲法であるドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)は、ヴァイマル憲法の反省の上に立ち、民主主義を否定する団体の禁止や不信任決議にルールを決めて可決を難しくさせ、不信任は建設的でなければならないなどとする「戦う民主主義」をうたっている。
ドイツ国民の権威主義的志向
ナショナリズムの研究家ハンス・コーンは、「ほとんどのドイツ国民、特に右派の論客はワイマール共和国を臨時の国家であるとみなし、実際にそれを国家と称することを拒否していた。彼らにとって国家という言葉は『誇り』であり、『権力』であり、『権威』を意味するからである。」とドイツ国民がヴァイマル体制を正当な体制でないと考えていたと指摘し、「ドイツ人は共和政体を単なる組織、しかも西欧の腐敗した組織にすぎないと軽侮していた。デモクラシーはドイツ精神に適応しない西欧からの輸入品であった」とドイツ国民が民主主義を嫌悪していたとしている[20]。エルンスト・ユンガーやオスヴァルト・シュペングラーらも同様に考えており、アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックは、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国を継承する新たな「第三のライヒ(第三帝国)」を構築するべきであると唱えた。
政治制度
1919年8月14日のヴァイマル憲法制定以後は国会(ライヒスターク)と上院(ライヒスラート)の二院制をとる事になった。国会の選挙方式は厳正拘束名簿式による比例代表制をとっており、投票数で総議席も変動した。上院は各州から2名の代表者が議員となり、各議員は州の意向を受けて行動した。
州(ラント)はドイツ帝国時代の連邦諸国が元となって構成されており、強い自治権力を持っていた。独自の警察・議会・内閣を持ち、司法権も各州の管轄下にあった。
州 | 州旗 | 紋章 | 面積 (km2) | 人口 | 人口密度(人/km2) | 首府 |
---|---|---|---|---|---|---|
アンハルト自由国 | 70px | 70px | 2.313,58 | 351.045 | 143 | デッサウ |
バーデン共和国 | 70px | 70px | 15.069,87 | 2.312.500 | 153 | カールスルーエ |
バイエルン自由国 | 70px | 70px | 75.996,47 | 7.379.600 | 97 | ミュンヘン |
ブラウンシュヴァイク自由国 | 70px | 3.672,05 | 501.875 | 137 | ブラウンシュヴァイク | |
自由ハンザ都市ブレーメン | 70px | 70px | 257,32 | 338.846 | 1.322 | ブレーメン |
自由ハンザ都市ハンブルク | 70px | 70px | 415,26 | 1.132.523 | 2.775 | ハンブルク |
ヘッセン国民国 | 70px | 70px | 7.691,93 | 1.347.279 | 167 | ダルムシュタット |
リッペ自由国 | 70px | 70px | 1.215,16 | 163.648 | 135 | デトモルト |
自由ハンザ都市リューベック | 70px | 70px | 297,71 | 127.971 | 430 | リューベック |
メクレンブルク=シュヴェーリン自由国 | 70px | 70px | 13.126,92 | 674.045 | 51 | シュヴェーリン |
メクレンブルク=シュトリッツ自由国 | 70px | 70px | 2.929,50 | 110.269 | 38 | ノイトレリッツ |
オルデンブルク自由国 | 70px | 70px | 6.423,98 | 545.172 | 85 | オルデンブルク |
プロイセン自由国 | 70px | 70px | 291.639,93 | 38.120.170 | 131 | ベルリン |
ザクセン自由国 | 70px | 70px | 14.986,31 | 4.992.320 | 333 | ドレスデン |
シャウエンブルク=リッペ自由国 | 70px | 70px | 340,30 | 48.046 | 141 | ビュッケブルク |
チューリンゲン国 | 70px | 70px | 11.176,78 | 1.607.329 | 137 | ワイマール |
ヴァルデック=ピルモント自由国 | 1055,43 | 55.816 | 53 | アロルセン | ||
ヴュルツブルク自由国民国 | 70px | 70px | 19.507,63 | 2.580.235 | 132 | シュトゥットガルト |
ザールラント[21] | 70px | 70px | 1.910,49 | 768.000 | 402 | ザールブリュッケン |
ドイツ国 | 70px | 468.116,13 | 62.410.619 | 134 | ベルリン |
文化
20世紀初頭に始まった表現主義運動はこの時代に大きく開花し、その大きな対象の一つが映画であった。「カリガリ博士」、「メトロポリス」など映画史に残る作品や、フリッツ・ラング、エミール・ヤニングスら名監督、マレーネ・ディートリヒに代表される大スターも多く生み出された。
音楽では表現主義の最盛期は第一次世界大戦を機に終了しており、ヴァイマル共和制時代には十二音技法や、表現主義への反動から生まれた新即物主義、新古典主義が主流となった。オーストリアから移住してきたフランツ・シュレーカー、アルノルト・シェーンベルク、エルンスト・クルシェネクのほか、パウル・ヒンデミット、クルト・ヴァイル、ハンス・アイスラーなどの作曲家が活躍。クルシェネクのジョニーは演奏する、ワイルの三文オペラはカバレット文化の影響を受けた時事オペラの典型的な例で、大きな成功を収めた。演奏家では、ブルーノ・ワルター、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、エーリヒ・クライバー、オットー・クレンペラーなどの指揮者が活躍した。
美術の分野では表現主義の影響を受けた構成主義や新即物主義、建築の分野ではヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエらによるバウハウス運動も台頭した。
しかしナチスが政権を掌握すると、この時代に生まれた新しい芸術はナチスによって退廃芸術とされて大きく抑圧され、またユダヤ系や反体制派の演奏家や芸術家、建築家も迫害され、多くの者が亡命を余儀なくされたり活動を停止したりしていった。
軍事
ヴェルサイユ条約によって軍備には強い制限がかけられていたが、軍や共和政の指導者は秘密裏に軍事力を維持しようとした。プロイセン王国以来の伝統を持つ参謀本部も禁止されたが、兵務局という名で維持された。
また外貨獲得やドイツの軍事ノウハウや技術力を維持・向上するために、軍事援助や武器輸出も活発に行われた。中華民国やボリビア等に対する援助は、日中戦争やチャコ戦争で活用された。
フライコール
退役軍人の一部はフライコールやその偽装団体に流入したが、これは兵力を維持するための準軍隊という側面もあり、現役軍人が指導的立場をとる事も多かった。後に政治団体化し、大きな影響力を持ったものには鉄兜団が知られている。
また、当時の政治活動では対立勢力による暴力的妨害行為が日常茶飯事であり、彼らの武力は政治に不可欠のものとなった。このため政党も準軍事組織を保有しており、社会民主党の国旗団、共産党の赤色戦線戦士同盟、ナチ党の突撃隊が代表的なものとされる。この団体は相互に武力衝突やテロを繰り返し、治安上の重大な問題となった。これらの団体はしばしば禁止や制限措置がとられたが解消される事は無く、ナチス・ドイツの成立まで共和政の宿痾として残る事になる。
関連項目
脚注
- ↑ 戸原四郎 『ドイツ資本主義 戦間期の研究』 桜井書店 2006年 pp.145-151, p.204. フランスの短期資本に焦点をあてた叙述となっている。
- ↑ 山田伸二 『大恐慌に学べ』 東京出版 1996年 p.135.
- 「国際決済銀行の調べによると、1931年3月末時点で、主要なドイツの銀行の短期負債56億レンテンマルクのうち、37.1%はアメリカに、20.4%はイギリスに依存していた。」
- ↑ 西牟田祐二 世界大恐慌期の債務再交渉 : 1933年5〜6月ベルリン債務会議を中心に 經濟史研究 14, 101-127, 2011-01-20
- ↑ 林、ワイマル共和国、47p
- ↑ 林、ワイマル共和国、66p
- ↑ 林、ワイマル共和国、89-91p
- ↑ 林、ワイマル共和国、94-95p
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 林、ワイマル共和国、129-134p
- ↑ 林、ワイマル共和国、111-115p
- ↑ 林、ワイマル共和国、121p
- ↑ 林、ワイマル共和国、123-124p
- ↑ 林、ワイマル共和国、136-137p
- ↑ 林、ワイマル共和国、137-140p
- ↑ 林、ワイマル共和国、143-144p
- ↑ 林、ワイマル共和国、148-150p
- ↑ 林、ワイマル共和国、164-165p
- ↑ 林、ワイマル共和国、171-173p
- ↑ 南、NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-2-、10p
- ↑ 林、ワイマル共和国、201-207p
- ↑ 多田眞鋤 2003, pp. 83.
- ↑ Das Saargebiet war zwar zu diesem Zeitpunkt völkerrechtlich Teil des Deutschen Reiches, stand jedoch von 1920 bis 1935 unter Völkerbundsverwaltung.
関連書籍
参考文献
- 林健太郎 『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』、中公新書。
- 多田眞鋤「ナチズムの精神構造 : ドイツ精神史への一視角」、『横浜商大論集』37(1)、横浜商科大学、2003年、 68-89頁、 NAID 110006000032。