畿内

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畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、

本項では、日本と古代中国での用法について記述する。


日本の畿内

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日本では、畿内とは以下の5国である。近現代の行政区分では、奈良県の全域と、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部に当たる。なお畿内という地域概念は現在でも存在し地方分権などの行政区分や観光などの産業分野でしばし取り上げられる。

五畿五畿内とも呼ばれる。ただし、716年に和泉国が河内国より分離される前は、四畿四畿内といった。中国とも称される[1]

歴代の皇居のほとんどがこの地方に置かれた。

畿内国

646年に発せられた改新の詔には、「およそ畿内とは、東は名墾(名張)の横河より以来(こちら側)、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石(明石)の櫛淵[2]より以来、北は近江の狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす」[3]という畿内の範囲に関する記述がある。ここにいう「畿内」はのちの4、5国をさす畿内ではなく、大和を中心に四囲を示した「畿内国」として定めたと考えられる。このように、畿内の範囲は646年(大化2)当時皇居が置かれていた難波宮(現在の大阪市)、また、それ以前に難波高津宮、より古くから大王の宮殿の多くが置かれた奈良盆地を基準に決められたと考えられる。

中央集権制の下で、貴族朝廷の許可もなく、畿内の外に出る事は律令法によって禁じられていたが、794年に山城国の畿内北東端にあたる平安京遷都されて以後は、平安京から山一つ越えただけの近江国や丹波国へ出る事が禁じられ、平安京から数日かかる和泉や大和南部の方が規制が緩いという矛盾が生じていたという。なお、江戸幕府の法令で重追放を受けた場合の立入禁止地域には近江・丹波は含まれていなかったが、京都で事件を起こした者に対してのみは例外的にこの両国と河内国も含むこととされている。

変遷

類似の地域名

天下
中世から近世にかけての呼称[4]
上方
江戸時代以降の呼称。本来京都(あるいは京都の方向)を指すが、大阪を含む広い範囲をも指す。
上方舞上方落語など、近世以降の上方文化に関わってよく用いられる。
京阪神
京都市大阪市神戸市およびその周辺。
近畿
畿内を含む府県とその隣接県。通常、大阪府・兵庫県・京都府・奈良県・三重県・和歌山県・滋賀県の2府5県を指す。
畿央
近畿の中央部。首都機能移転候補地である三重・畿央地域などと用いられる。
関西
関東に対応して大正時代以降、関東の民間で使われだした語。
近畿」または「京阪神」と同じ範囲を指して用いられることが多いが、西日本を広く指す場合もある。

「京阪神」は経済用語や俗称としての色が濃いのに対して、「畿内」は歴史地理学用語としての色が濃い。

邪馬台国の所在地について、九州説に対峙する説は、「畿内説」と呼ばれる。この説で実際に所在地とされているのは、主に大和の奈良盆地である。


中国の畿内

古代中国では、天子の居城(都)から500(約202キロメートル代の1里 = 約405メートル)以内の範囲。天子が直轄した。畿甸(きでん)とも。

脚注

  1. Yahoo!辞書 - 大辞林
  2. 現在の神戸市須磨区一の谷から垂水区塩屋町付近と考えられている。この辺の海岸が櫛目のように出入りしていることから付けられたと推測できる。福島好和「大和王権の進出と展開 3内なる国と外なる国」 今井修平・小林基伸・鈴木正幸・野田泰三・福島好和・三浦俊明・元木泰雄『兵庫県の歴史』山川出版社 2004年8月 65ページ
  3. 日本書紀』孝徳天皇2年正月の甲子(きのえね)の朔(ついたちのひ)の条にあることから、一般に甲子の詔といい、「其の一(はじめに)に曰(のたま)はく、…」で始まり、「其の四に曰はく、…」まであり、「畿内国」については其の二の後段にある。校注者坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋『日本書紀』(四)[全5冊] 岩波書店 2002年9版 256-260ページ
  4. 神田千里、「織田信長」(ちくま新書1093)、p.117、筑摩書房、2014年。

関連項目


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zh:五畿七道#五畿