日蓮
日蓮 | |
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貞応元年2月16日- 弘安5年10月13日 | |
諡号 |
日蓮大菩薩(後光厳天皇より) 立正大師(大正天皇より) |
生地 | 安房国 |
没地 | 武蔵国 |
宗旨 | 日蓮宗(法華宗) |
寺院 | 身延山久遠寺 池上本門寺等 |
師 | 道善房 |
弟子 | 日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持 |
著作 | 立正安国論 開目抄 如来滅後五五百歳始観心本尊抄ほか多数 |
廟 | 久遠寺西谷祖廟・東谷御真骨堂、大石寺奉安堂、池上本門寺御廟所、池上大坊本行寺御灰骨堂、関西身延真如寺御真骨堂、東山二条妙傳寺御真骨堂、鎌倉東身延本覚寺日蓮御分骨堂、福岡鎮西身延本仏寺御真骨堂 |
日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日[1][注釈 1] - 弘安5年(1282年)10月13日)[注釈 2]は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗[注釈 3](法華宗)の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。
Contents
生涯
- 1222年(貞応元年)2月16日 (旧暦)(3月30日/4月6日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の小湊で誕生[2][3]。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている[注釈 4]。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。
- 1233年(天福元年)清澄寺の道善房に入門。
- 1238年(暦仁元年)出家し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
- 1245年(寛元3年)比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学した。
- 1246年(寛元4年)三井寺へ遊学。
- 1248年(宝治2年)薬師寺、仁和寺へ遊学。
- 1248年(宝治2年)高野山・五坊寂静院へ遊学[注釈 5]。
- 1250年(建長2年)天王寺、東寺へ遊学。
- 1253年(建長5年)清澄寺に帰山。
- 1253年(建長5年)4月28日(5月26日/6月2日)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める。中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける[注釈 6]。
- 1254年(建長6年)清澄寺を退出。鎌倉にて辻説法を開始。
- 1257年(正嘉元年)富士山興法寺大鏡坊に妙法蓮華経(法華経)を奉納[5]。
- 1258年(正嘉2年)所伝によれば、この年実相寺にて一切経を閲読[6]。この頃、請われて門下とした弟子に日興との名を授け、伯耆房とする[7][8]。
- 1260年(文応元年)7月16日(8月24日/8月31日)立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る[注釈 7]。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。"「松葉ヶ谷#松葉ヶ谷法難」"その後、ふたたび布教をおこなう。
- 1261年(弘長元年)5月12日、幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流(伊豆法難)。"「蓮着寺」"
- 1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失う。"「小松原法難」"
- 1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。
- 1269年(文永6年)富士山に経塚を築く[9]。
- 1271年(文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる[注釈 8]。このとき四条金吾がお供をし、刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。"「龍口#歴史」および「龍口寺#縁起」"10月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である[11]。
- 1274年(文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。「富木殿御書」「日蓮聖人註画讃」によれば、5月7日には身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて波木井郷(身延入)へ配流。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。
- 1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。
- 1277年(建治3年)9月、身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに龍の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。
- 1279年(弘安2年)9月21日、駿河熱原の神四郎等20人が滝泉寺行智等に讒せられ鎌倉に送らる。
- 1281年(弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。
- 1282年(弘安5年)
- 9月8日(10月10日/10月17日)、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮は病を得て地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。10日後の弘安5年9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。
- 10月8日(11月9日/11月16日)、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる[注釈 9]。
- 10月13日(11月14日/11月21日)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて入滅。現在、大本山池上本門寺となっている。享年61(満60歳)[注釈 10]。
- 10月25日、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮の遺骨が身延山に送られる。
思想
遺文
日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、日興と日目と日常と日頂などの信徒や弟子達もこれを書写し大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片は600点を越える[12] 。
- 守護国家論(しゅごこっかろん)1259年
- 災難興起由来(さいなんこうきゆらい)1260年
- 災難対治抄(さいなんたいじしょう)1260年
- 立正安国論(りっしょうあんこくろん)[13]、1260年
- 顕謗法抄(けんほうぼうしょう)1262年
- 法華浄土問答抄(ほっけじょうどもんどうしょう)1272年
- 八宗違目抄、1272年
- 開目抄(かいもくしょう)1272年
- 真言諸宗違目1272年
- 祈祷抄(きとうしょう)1272年
- 如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう)1273年
- 顕仏未来記(けんぶつみらいき)1273年
- 小乗大乗分別抄、1273年
- 木絵二像開眼事、1273年
- 法華取要抄(ほっけしゅようしょう)1274年
- 神王国御書、1275年
- 種種御振舞御書、1275年
- 撰時抄(せんじしょう)1275年
- 報恩抄(ほうおんしょう)1276年
- 四信五品抄(ししんごほんしょう)1277年
- 諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)1280年
- 三大秘法禀承事[14][15](さんだいひほうほんしょうじ[16]、さんだいひほうぼんじょうのこと[17])1282年(但し、真偽両説あり[18][19]。)
- 唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう)
- 本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう)
- 兄弟抄
- 下山御消息(しもやまごしょうそく)
他四百余篇。
立正安国論
日蓮が文応元年(1260年)7月16日[注釈 11]に得宗(元執権)北条時頼に提出した文書が立正安国論である。日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。
その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。この事は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合う為、「法華経の行者」としての自覚を深める事になった。
しかし、時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。
日蓮とその信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。
一谷入道御書
- 参照: 元寇
文永の役の際の元・高麗連合軍による対馬侵攻について、現在伝世されている日蓮の書簡のうち、建治元年五月八日付のいわゆる「一谷入道御書」に、日蓮が接した当時の伝聞が伝えられている[20] 。
(前略)去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし) |
この「一谷入道御書」は日蓮が佐渡配流中に世話になっていた一谷入道の女房に宛てて文永の役の翌々年に書かれたもので、その後段部分に文永の役における対馬の被害について触れたものである。これによると蒙古軍は上陸後、宗資国(総馬尉)以下の守護勢を撃退し、島内の民衆を殺戮、あるいは生捕りにしたりしたうえ、さらには捕虜としたこれらの住民の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だがこれを貫き通して船壁に並べ立てた、という話を伝えている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書簡にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたことかどうかは詳らかではない。
その他の書簡における蒙古襲来についての記載
日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している。
例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には、「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し」と記している[21]。
しかしながら、近年の研究によると、「一谷入道御書」以降の書簡では文永の役における壱岐・対馬などでの被害や惨状について幾度も触れられているものの、「捕虜の手に穴を開けて連行する」という記述は「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡において類する言及は見られないため、文永の役での情報が錯綜していた時期に、あまり根拠のない風聞も書簡中に書かれたのではないかという推測がされている[22]。
四箇格言
日蓮は鎌倉に現れ辻説法と「諌暁八幡抄」などで他の仏教宗派を批判した際、四箇格言(しかかくげん)を述べた。真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊の四つを謂う。ただし、自身はこれを四箇格言とは命名していない[23]。
立宗感
自身は法華宗の僧と称していた[24]が、一宗派を立てたという自覚に関しては有無両説ある。すなわち、有は「〔佐渡流罪時代に〕自身の純正法華宗を組織すべくも決意された」とする{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}、無は「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず」(『妙密上人御消息』[25])を根拠とした{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}、もしくは「法華宗は〔略〕久遠実成の本仏たる釈尊によって立てられた〔と日蓮は主張した〕」とする{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}である。
日蓮門下の諸派
- 日蓮門下における伝統宗教の系譜である。
- 教義:勝劣/一致派
- a日蓮宗(1941- )→ d,o,pより
- 教義:一致派
- b日蓮宗不受不施派(旧称:妙法華宗)(1946- ) → gから分離。eの系統
- c不受不施日蓮講門宗(旧称:日蓮講門宗)(1946- ) → gから分離。fの系統
- 本化日蓮宗(1954- ) → aから分離。dの系統
- 教義:勝劣派
- h日蓮正宗(旧称:日蓮宗富士派)(1900- ) → pより分離
- 本門佛立宗(1946- ) → tより分離。sの系統
- i顕本法華宗(1950- ) → aより分離。oの系統
- j日蓮本宗(1950- ) → aより分離。pの系統
- k本門法華宗(1951- ) → tより分離。sの系統
- l法華宗本門流(1951- ) → tより分離。sの系統
- m法華宗陣門流(1951- ) → tより分離。rの系統
- n法華宗真門流(1951- ) → tより分離。qの系統
- 本派日蓮宗(1957- ) → kより分離
- 法華宗興門流(1975- ) → aよりhに移籍。hより分離。pの系統
- 門流名と教義の一覧表
日蓮を扱った作品
伝記
- 『日蓮聖人註画讃』
一般信徒に向けた日蓮の伝記や書簡の整理は教団の拡大が進展する室町時代頃から本格的に始まる。室町時代、応仁の乱以降に日蓮宗の教勢拡大とともに教団内外の要請に応える形で各種の日蓮の伝記集が成立した。このうち『元祖化導記』と『日蓮聖人註画讃』が後代まで模範となる主要な日蓮伝の双璧となった。日朝の『元祖化導記』は日蓮の書簡を主要典拠として正しい日蓮の歴史像を明示しようという学究性の高い伝記であった。『元祖化導記』と時期を同じくして成立した円明院日澄(1441年-1510年)『日蓮聖人註画讃』はとりわけ日蓮の各種書簡と伝世された祖師伝説とを合わせて成立した絵巻による伝記であり、全国的な日蓮宗の布教網の拡大に合わせ、当時の日蓮宗徒や巷間に流布していた「超人的で理想的な祖師像」に合致した内容でもあった[26]。
『日蓮聖人註画讃』の第59段「蒙古来」は文永の役について「一谷入道御書」を主な典拠としており、「一谷入道御書」で日蓮が伝えた「手ヲトヲシテ船ニ結付」という文言はここでも現れている。特に『日蓮聖人註画讃』は室町時代から江戸時代にかけての一般的な(超人的な能力や神通力を具有する祖師としての)日蓮像の形成に強い影響を及ぼすことになる[27]。
『日蓮聖人註画讃』は江戸時代に入って幾度も刊本として出版されており、江戸時代における蒙古襲来関係の研究書では、津田元貫(1734-1815)『参考蒙古入寇記』や群書類従の編者でもある塙保己一(1746年-1821年)の『螢蠅抄』、橘守部(1781年-1849年)『蒙古諸軍記弁疑』などで頻繁に引用されている[28]。本来『日蓮聖人註画讃』は文永・弘安の役についての史料としては(日蓮の没後200年程たって成立したことからも明らかなように)二次的なものに過ぎないのだが、江戸時代における『日蓮聖人註画讃』の扱いは、橘守部が「日蓮画讃の如き実記」と述べているように「実記」として意識され、大抵は無批判に引用される傾向があった[29]。
『日蓮聖人註画讃』の文永・弘安の役についての史料価値についての批判的研究は、明治時代、明治24年(1891年)になって小倉秀貫が『高祖遺文録』などにある日蓮書簡の詳細な分析を通さないうちは史料とはみなせない、と論じるまで待たねばならない[30][31]。
明治期に入り、小倉と同じ1891年11月に山田安栄は日本内外の蒙古襲来関係の史料を収集した『伏敵編』を著した[32]。『伏敵編』は『善隣国宝記』や『異称日本伝』、『螢蠅抄』、『蒙古諸軍記弁疑』、大橋訥庵『元寇紀略』など江戸時代やそれ以前から続く蒙古襲来史研究の成果を批判的に継承したもので、従来から引用されて来た諸史料をある程度吟味しながら引用やその資料的な批判を行っている。一方で、『伏敵編』の編纂は、当時、福岡警察署長の湯地丈雄の主導で長崎事件(1886年)を期に進められていた元寇記念碑建設運動との関係で行われたものであり、日清戦争への緊迫した情勢を反映して、江戸時代からの攘夷運動の流れを組みつつも自衛のための国家主義を標榜するという山田安栄の思想的な表明の書物でもあった[33]。
山田安栄は『日蓮聖人註画讃』の「手ヲトヲシテ船ニ結付」についても論じており、『太平記』の記述「掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ」や、『日本書紀』と比較しつつ、「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。」と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と文言の解釈を行っている[34]。さらに山田は、『日本書紀』の天智天皇の時代(662年)について書かれた高麗の前身の国家である「百済」での事例を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)やり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としたうえで[34]、この行為を蒙古というより高麗人によるとしている。
映画
小説
- 川口松太郎 『日蓮』 講談社、1967-04。OCLC 35851571。
- 柿沼日明 『富士』 大成出版社、1974-05。
- 山岡荘八 『日蓮』 講談社〈山岡荘八歴史文庫,4〉、1987-08。ISBN 978-4061950047。OCLC 674502999。
- 大佛次郎 『日蓮』 徳間書店、1988。ISBN 978-4195985007。
- 湊邦三 『小説日蓮大聖人』 聖教新聞社出版局〈聖教文庫,32〉、1994-09。ISBN 978-4412002838。
- 童門冬二 『国僧日蓮』 学習研究社、2000-10。ISBN 4054010660。OCLC 166908380。
- 三田誠広 『日蓮』 作品社、2007-09-25。ISBN 978-4861821523。OCLC 212861469。
- 島田裕巳 『小説日蓮』 東京書籍、2012-08。ISBN 978-4487804788。OCLC 805927160。
(複数冊に分かれている作品の場合、出版年とISBNコードなどは、上巻もしくは第1巻のもの。)
脚注
注釈
- ↑ {{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}には、「その誕生日の2月16日については自ら記すところではないが、『本門宗要抄』の下巻と、この書と大体同時代の成立と思われる日道の『御伝土代』に誕生を2月16日と記している」とある(但し、漢数字は算用数字に改めた)。なお、『本門宗要抄』には偽書説があるが、それについては{{#invoke:Footnotes | harvard_citation }}で「日蓮の事蹟・生涯についてはおそらく日蓮の直弟たちの間の周知のこと、またその伝承されていたことがつづられたもので、この両書は日蓮宗の初期の伝承を伝える珍重すべきものである。したがって2月16日の誕生は真を伝えているとみて良い。」としている。
- ↑ ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日、グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日。グレゴリオ暦の施行は1582年で日蓮はそれ以前に亡くなっているが、日蓮宗諸派では日蓮の事跡をグレゴリオ暦換算の日付で祝うため、グレゴリオ暦の日付を併記している。なお、換算は【換暦】暦変換ツールによる。
- ↑ 後に十三宗のひとつとなる。
- ↑ 『百家系図稿』巻2,三国真人 では、幼名を薬王丸、母を清原兼良の娘とする[4]。
- ↑ 寺伝による。
- ↑ 寺伝による。
- ↑ この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然の念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。
- ↑ 刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された、という伝説もあるが、日蓮は「種種御振舞御書」に、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」り、その結果「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」としている。
- ↑ 日蓮正宗では、日興一人だけが後継者に定められたとしている。"「二箇相承」"
- ↑ 死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられ、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える習わしとなっている。
- ↑ ユリウス暦で1260年8月24日。グレゴリオ暦では1260年8月31日。【換暦】暦変換ツールによる。
出典
- ↑ 日道 1983, p. 236.
- ↑ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 642.
- ↑ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 80.
- ↑ 宝賀寿男 1986.
- ↑ 富士山頂上経ヶ岳霊場略縁起(村山浅間神社蔵)
- ↑ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 516.
- ↑ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 649.
- ↑ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 179.
- ↑ 富士山頂上経ヶ岳霊場略縁起(村山浅間神社蔵)
- ↑ 日蓮宗寺泊山法福寺サイト 「法福寺について 境内」
- ↑ 綾部恒雄 1991, p. 150.
- ↑ 関戸堯海 2005, p. 219.
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション - 立正安国論
- ↑ 日蓮 1976, pp. 1862-1866.
- ↑ 日蓮 1994, pp. 1593-1595.
- ↑ 日蓮宗宗務院教務部 1999, p. 53.
- ↑ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 129,130.
- ↑ 中村元 2002, p. 394.
- ↑ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 130.
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- ↑ 金岡秀友 1979, p. 229.
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- ↑ 新倉善之 1959, pp. 110-111, 119.
- ↑ 川添昭二 1977, pp. 70, 82, 89.
- ↑ 川添昭二 1977, pp. 89.
- ↑ 川添昭二 1977, pp. 134-135.
- ↑ 小倉秀貫『史学雑誌』第2篇第10号、1891年
- ↑ 川添昭二 1977, pp. 111-122.
- ↑ 川添昭二 1977, pp. 121-122.
- ↑ 34.0 34.1 山田安栄 1891, pp. 11-12.
参考文献
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関連項目
- 本尊 (日蓮正宗)
- 妙法蓮華経(法華経)
- 法 (仏教)、正法
- 題目
- 南無妙法蓮華経
- 木柾、団扇太鼓
- 誕生寺
- 池上本門寺
- 常圓寺日蓮仏教研究所
- 七面山
- 身延山
- 七面天女
- 元寇
- 六老僧
- 中老僧
- 創価学会
- 聖教新聞 - 聖教新聞社が発行している創価学会の機関紙である聖教新聞は、日蓮大聖人の教えから由来している。
外部リンク
- 日蓮聖人の生涯(日蓮宗公式サイト内)
- 日蓮聖人のご生涯(法華宗本門流公式サイト内)
- 日蓮さまの御生涯(日蓮宗妙昌寺公式サイト内)
- 日蓮大聖人の御一生(日蓮正宗理境坊所属妙観講公式サイト内)
- 日蓮宗大本山小湊誕生寺