沖大東島
愛称:ラサ島 | |
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地理 | |
場所 | フィリピン海(太平洋) |
座標 |
北緯24度27分57秒 東経131度11分23秒 |
諸島 | 大東諸島 |
面積 | 1.147 km2 ({{rnd/b構文エラー: 予期しない演算子 < です。|構文エラー: 予期しない演算子 < です。|(構文エラー: 予期しない演算子 < です。)|構文エラー: 予期しない演算子 < です。 }} sq mi) |
海岸線 | 4.5 km (2.8 mi) |
最高標高 | 31.1 m (102 ft) |
行政 | |
都道府県 | 沖縄県 |
郡 | 島尻郡 |
市町村 | 北大東村 |
沖大東島(おきだいとうじま)は、大東諸島の島である。別名ラサ島(ラサとう、Rasa Island)。「ラサ」とは、ラテン語で「平坦な」という意味の rasa に由来。行政区画は、全島が沖縄県島尻郡北大東村に属する。住所は郵便番号 901-3900、沖縄県島尻郡北大東村大字ラサ。沖ノ鳥島から一番近い島でもある。
地理
那覇市の南東408km、南大東島の南約150kmの太平洋上にあるハマグリ状の隆起珊瑚礁の無人島。周囲は珊瑚礁に囲まれている。北大東島や南大東島によく似た地形だが、これらの島に見られる中心部の盆地状の起伏は見られず、沿岸は岩礁で囲まれている。島のほとんどが鳥の糞と珊瑚の石灰質とが化学変化してできた糞化石質燐鉱石(グアノ)からなる。そのため、衛星写真もしくは航空写真を見ると地表が白く見える。
南大東島や北大東島と異なり、ラサ工業が国から本島の払い下げを受けた1937年以来、一貫して同社の私有地である。沖縄返還時には誤って国有地とされてしまったが、翌年にはラサ工業の所有権が確認された。1970年代には、ラサ工業による再開発計画もあり、残存しているとされる燐鉱石を採掘しつつ、島内に石油備蓄基地を設ける計画もあったが、空対地爆撃射撃場(後述)が返還されないこと、燐鉱埋蔵量が不透明などといった理由から消滅している。1980年には燐鉱床の探鉱が行われ、燐鉱石が約300万t残存していることが確認されたが、ラサ工業は1983年に燐酸肥料を含む化学肥料事業から撤退した。全島がラサ工業の所有であり、また在日米軍の沖大東島射爆撃場として利用されていることから、本島に一般人が上陸することはできない。
かつて大日本帝国海軍の気象台があり、1945年に空襲で焼失するまで、日本の台風観測上重要な位置を占めていた。
歴史
1543年にスペインのベルナンド・デ・ラ・トーレが発見する[1][2]。1807年にフランスの軍艦カノニエルにより、ラサ島と命名された[1][2]。
1898年9月、南鳥島を開拓した水谷新六の指揮の下、永勝丸によって調査が行われた[3]。更に1899年6月には、沖縄の実業家・中村十作が調査を行い同島の借用を求めた[3]。1900年9月20日、沖大東島と命名し日本領とすることが閣議決定され[2][3]、9月26日の内務大臣訓令 訓第913號[2]及び10月17日の沖縄県告示第95号[3]によって日本領編入が宣言された。しかしながら当初沖大東島の開拓許可を願い出た中村の計画は、実行されることなく立ち消えてしまった[3]。1901年9月には、的矢丸で再び沖大東島に向かった水谷新六が暴風雨によって漂流するという事故が起きている[3]。
1906年3月22日付で南大東島・北大東島を開拓した玉置半右衛門が沖大東島の開拓許可を願い出て、同年4月14日に15年間の無償開拓が許可された[2][4]。玉置は沖大東島に調査団を派遣し、その際に採取された岩石標本が農商務省元官使の恒藤規隆に送られた[4]。この岩石標本が良質な燐鉱石であったことから、沖大東島の開発競争が熾烈になる。玉置・恒藤に加えて、過去に沖大東島を調査した水谷、三重県四日市市の実業家、九鬼紋七らによる熾烈な獲得競争が起こった[4]。この獲得競争の末、1907年9月には恒藤が玉置・九鬼と合同で島内の調査を行った[2][4]。恒藤による調査上陸時には沖大東島は鬱蒼としたアダンの密林に覆われており、島の内部には入ることすら困難であったとされ、恒藤らは灌木のうち約16.5haを焼き払った[1]。この際に豊富な燐鉱石が発見された[1]。この後には、東沙諸島・東沙島を開拓していた西沢吉治が水谷と合同で沖大東島の利権獲得に動き、失敗に終わっている[4]。1910年10月には沖大東島の開発を目的に、恒藤によって日本産業商会が設立される[4]。同年11月に恒藤、玉置、九鬼による第2回目の合同調査が実施されている[4]。この後、合同で開発を進めていた恒藤が全ての利権を獲得[4]。玉置と九鬼は沖大東島開発からは手を引くこととなった[4]。恒藤は1911年にラサ島燐礦(りんこう)合資會社を設立、大正2年にはラサ島燐礦株式會社(のちにラサ工業)に改組され、燐鉱石から過リン酸石灰(肥料・火薬の原料)が製造された[2]。しかし、1929年には世界恐慌の煽りを受けて操業を中止している[2]。1937年に日本政府よりラサ工業に沖大東島が譲渡され、正式にラサ工業の私有地となる[1]。1941年に太平洋戦争勃発にともなう燐鉱資源逼迫により採掘を再開した[2]。太平洋戦争中は陸軍守備隊も置かれたが、すでに資源枯渇が明白になっていた事と、空襲や艦砲射撃が増加しつつあった事から、1945年に民間人は終戦を待たずに奄美諸島などに引き揚げ、陸軍守備隊のみが駐屯するようになる[1]。同年8月には太平洋戦争終結に伴い、陸軍守備隊も引き揚げ、無人島となる[1]。
太平洋戦争終結後はアメリカ合衆国の施政下に置かれる。1956年に沖大東島射爆撃場が設置され、島全域がアメリカ海軍の管理下に置かれるようになり、1958年よりアメリカ海軍の射爆撃場としての使用が開始された[1][2]。1972年の沖縄県の日本復帰に伴い、沖縄県島尻郡北大東村に編入された[2]。返還に際して一度は国有地とされたが、沖大東島の唯一の地権者であるラサ工業の所有が確認され、企業私有地と認定された[2]。以後も継続してアメリカ海軍の射爆撃場として使用されている。1975年にはラサ工業による上陸調査が海上自衛隊などの協力により行われた[1]。1989年には、北大東村と南大東村の村長らが劣化ウラン弾調査のため上陸している[1]。これ以来、一般人の上陸は行われていない[1]。2012年 地図・海図に記載される名称として、沖大東島南西部沖合の小島(岩礁)が南西小島と命名された[5][6]。
燐鉱山としての沖大東島
1945年以前に移出した燐鉱石は 160万tにのぼり、島の表土はほとんどなくなったといわれる。採掘された燐鉱石は、貨物船で東京都、大阪市、岩手県宮古市の工場まで運搬された。
南北大東島同様、沿岸部は断崖と浅瀬で囲まれているため、デリックやクレーンによって人及び物資の乗降が行われていた。燐鉱石の積み出し用にトロッコのレールが埠頭まで敷設されていた[1]。
八丈島(南北大東島の開拓民の中心でもあった)を中心とする伊豆諸島からの出稼ぎ者と沖縄県からの出稼ぎ者が燐鉱石採掘に従事した。支給される食料は米飯や味噌汁、たくあんといった物に限られ(このほかに労働者が持ち込んだラードや味噌を使ってアンダンスーが食べられていたという)、野菜類は極度に不足していた。水はもっぱら天水が頼りで(風呂には海水を用いた)、貯水タンクが粗末であった事から伝染病が幾度か発生していた。島には娯楽と呼べるものは無く、会社から酒や少量の菓子類が支給されたが、飲酒によるトラブルが頻発した。大正時代には、伊豆諸島出身者との間に賃金や待遇に格差が設けられていた事から、沖縄県出身労働者による待遇改善を要求する暴動が発生した事もあった。
南北大東島と同様に町村制が布かれず、もっぱら企業による自治が続いていた。ただし、1929年までは島に住めるのは成人男性のみであり[1]、南北大東島のそれに比べて極めて簡略化されていた。沖縄県警から請願巡査が派遣されており、時としては労働者の騒乱鎮圧などにもあたった。1930年代以降は夫婦の労働者が優先的に雇用されるようになり、最盛期の人口は2000人を超えた[1]。そのため、島内に小規模な会社立の青年学校が開校されたりした。また、鉱山施設の他、体育館や公会堂、購買所、山神社も島内に建てられた。この頃には、鉱山労働者の大半は沖縄県出身者によって占められていた。この時期には前述のような待遇格差は無くなり、労働環境は依然過酷であるものの、賃金や待遇が大幅に改善された事から出稼ぎの応募者が増加したという。
数少ない表土のある長屋には畑が作られ、会社所有のボートでごく小規模な漁も行われていた。この他、会社によって養豚も行なわれていたともいわれる(このほかに、家庭によっては鶏やウサギも飼育されていた)。食糧・日用品などはこうした小規模な自給の他、本土や沖縄本島において会社による買い付けも行われていた。こうした物品は、市価の半値で住民に供給されており、物資の面では沖縄本島よりも水準の高い生活が可能だった。子供のいる世帯では、人形や玩具類もカタログによって注文購入する事ができたという。
1956年からは島全域がアメリカ海軍による空対地爆撃射撃場(沖大東島射爆撃場)として使用されており、現在でも島の表土はほとんどなく緑が全くない。ラサ工業に対してはその代償として毎年借地料が支払われているが、同社はその額については非公開としている。
出身者
- 仲宗根幸市(沖縄民謡研究家)
脚注
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 清水浩史 『秘島図鑑』 河出書房新社、2015年、pp.026-029。ISBN 978-4-309-27615-1。
- ↑ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 浦野起央 『日本の国境:分析・資料・文献』 三和書籍、2013年、pp.136-139。ISBN 9784862511522。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 長谷川亮一 『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』 吉川弘文館、2011年、pp.161-163。ISBN 978-4-642-05722-6。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 4.8 長谷川亮一 『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』 吉川弘文館、2011年、pp.183-164。ISBN 978-4-642-05722-6。
- ↑ 2012年3月2日 首相官邸総合海洋政策本部「排他的経済水域(EEZ)外縁を根拠付ける離島の地図・海図に記載する名称の決定について」より
- ↑ 南西小島の位置 国土地理院25,000分の1地形図、沖大東島