フォークランド紛争
フォークランド(マルビナス)紛争 | |
---|---|
戦争: フォークランド紛争(マルビナス戦争) | |
年月日: 1982年3月19日から6月14日 | |
場所: フォークランド(マルビナス)諸島 | |
結果: イギリスの勝利。ガルチェリ・アルゼンチン大統領の失脚。 | |
交戦勢力 | |
アルゼンチン | イギリス フォークランド諸島の旗 フォークランド諸島 ポルトガル(基地提供) |
戦力 | |
陸軍 10,001 海軍 3,119 空軍 1,069 艦艇 38隻 航空機 216機 |
陸軍 10,700 海軍 13,000 空軍 6,000 艦艇 111隻 航空機 117機 |
損害 | |
死者 645 負傷者 1048 捕虜 11313 被撃沈 軽巡洋艦1隻 潜水艦1隻(擱座) 哨戒艇2隻 航空機100機 |
死者 256 負傷者 777 捕虜 115 被撃沈 駆逐艦2隻 フリゲート2隻 揚陸艦1隻 コンテナ船1隻 航空機34機 |
フォークランド紛争(フォークランドふんそう、英: Falklands War/Conflict/Crisis)は、大西洋のイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)[1]の領有を巡り、1982年3月からイギリスとアルゼンチン間で3ヶ月に及んだ紛争のこと。スペイン語やポルトガル語では「マルビナス戦争(西: Guerra de las Malvinas)」と表記されることが多い。
日本語では「フォークランド紛争」と表記されることが多い[2]。英語圏では「Falklands War(フォークランド戦争)」とも呼ばれる[3]。ただし、イギリス陸軍の公式ウェブサイトでは「Falklands Conflict(フォークランドの争い)」の語を用いている[4]。
Contents
概要
1982年3月19日、アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島のイギリス領サウス・ジョージア島に2度に渡って寄航、イギリスに無断で民間人を上陸させた(サウスジョージア侵攻)。イギリスはサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すと伴に、3月28日には、アメリカ合衆国連邦政府へ支援を要請、アメリカ軍はアメリカ海軍の原子力潜水艦派遣を決定した。
4月2日にはアルゼンチン正規陸軍が同島に侵攻してきた。4月25日には、サウス・ジョージア島にイギリス軍が逆上陸、即日奪還した。アルゼンチン軍は航空攻撃でイギリス艦船を撃沈するなど、当初は優位に戦いを進めたものの、イギリス軍は経験豊富な陸軍特殊部隊による陸戦や長距離爆撃機による空爆、また同盟国アメリカ合衆国やEC及びNATO諸国の支援を受けて情報戦を有利に進め、アルゼンチンの戦力を徐々に削いだ。6月7日には、フォークランド諸島にイギリス軍地上部隊が上陸、6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏し戦闘は終結した。
フォークランド紛争は西側諸国の近代化された軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは、その時点まで実戦を経験していなかったものの、同紛争で定量的な評価を受けた。また、アルゼンチンはイギリスから一部の兵器を輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴もあった。
両国の国交が再開され、戦争状態が正式に終結したのは、1990年2月5日だった。しかし、国交再開交渉でもフォークランド諸島の領有権問題は棚上げされ、現在もアルゼンチンは領有権を主張している。
歴史的経緯
島の発見
最初に島を発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれるが、ヨーロッパ人による発見は1520年のポルトガルのマゼラン船団のエステバン・ゴメス船によるとされる。1592年にイギリスの探検家ジョン・デイヴィス が島を記録しており、これがイギリスの領有権の根拠である[5]。1690年にはイギリスの船長ジョン・ストロンが英国海軍のアンソニー・フォークランド子爵にちなんでフォークランド諸島と命名した。
フランスからボルボン朝スペインへの売却
その後、18世紀になるとフランスとイギリスは七年戦争などで対立し、植民地獲得競争を行った。フランスは1764年に東フォークランドの港に入植しサン・ルイ港と名づけた(現・バークレー湾)。他方イギリスは翌1765年にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにあるソーンダース島の港にエグモント港と名づけた。
1767年、フランスはボルボン朝スペインにフォークランド諸島を売却し、サン・ルイ港はソレダード港と改名された。1770年にはスペイン・ブルボン朝海軍はブエノスアイレスからエグモント港に侵攻し、現地イギリス軍は降伏した。当時、アメリカ独立戦争に備えていた本国イギリスは全面戦争を避け、1774年には西フォークランド島の居住を認められる代償として、スペインの領有権を認めエグモントのイギリス軍は1776年に解散した。
同1776年にはペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設され、ブエノスアイレスはその首府となった。1806年と1807年にイギリス軍はブエノスアイレスに侵攻するが、副王領軍は撃退する[6]。
1810年にブエノスアイレスは自治を求め五月革命を起こし、内戦(アルゼンチン独立戦争)がはじまる。翌年の1811年には南米での内戦とイギリスの圧力を受け、スペイン系住民はフォークランド諸島から撤退した。スペイン撤退後は英米の軍艦や捕鯨船が避難港として利用した。
アルゼンチンによる領有宣言
1820年にリオ・デ・ラ・プラタ連合州のフリゲートがソレダード港の領有を宣言し、英米のアシカ漁船に警告するが無視される。
1823年にはラ・プラタ連合州がホルヘ・パチェコとルイス・ベルネトに漁業権を与え、さらに1828年に植民地の樹立を条件に東フォークランドとその資源がベルネトへ与えられた。恐怖政治を敷いたブエノスアイレス州知事フアン・マヌエル・デ・ロサスは1829年に島の知事にベルネトを任命し、アザラシの狩猟権も与えた。駐ブエノスアイレス英国領事は抗議した。
アメリカ・アルゼンチン紛争
さらにロサス知事は同1829年、諸島周辺で操業していた捕鯨業者に、船籍を問わず課税することを決定し、支払いを拒否したアメリカ船三隻を拿捕した。これに対してアメリカ領事は「島の主権はイギリスにある」と訴えて、アメリカのアンドリュー・ジャクソン大統領はスループ型軍艦レキシントン号で海兵隊をフォークランド諸島に派遣し、ソレダート港に侵攻し、諸島の中立を宣言した。ロサス知事は米国領事を追放するが、ジャクソン合衆国大統領は深入りせず、報復はしなかった。
イギリスの再領有とアルゼンチンの従属化
1833年1月3日、イギリスはブリッグ・スループ艦クレイオー号をフォークランド諸島に派遣し、無血占領に成功した[7]。アルゼンチンは抗議したが、当時、ラプラタ川通行権をめぐり英仏と対立し、またウルグアイ情勢のため諸島奪還は出来なかった。
大戦争とアルゼンチンの近代化
当時、1828年のアルゼンチン・ブラジル戦争で英仏調停によりウルグアイ東方国が成立したが、ウルグアイではコロラド党とブランコ党(白党)とが対立。さらにウルグアイ再併合を求めるブラジル帝国と英仏がコロラド党を支援、他方ロサスらアルゼンチン連合は白党を支援して1839年に大戦争 (Guerra Grande) が勃発する。大戦争中の1843年に英国は島にスタンリー港を開設し、1845年に行政府所在地となる。1845年に英仏海軍はブエノスアイレス港を封鎖するが、ジュゼッペ・ガリバルディらのゲリラ軍に抵抗され英仏軍は撤退した。しかし、1851年に腹心ウルキーサによる離反でロサスは失脚しイギリスへ亡命した。その後ウルキーサ、続くミトレら自由主義政権は近代化政策のためイギリスから借款を得るなど友好関係を築いたため、フォークランド諸島領有権も発生しなかった。以降、イギリスによる実効支配が続き、1860年代には、スコットランド人入植者により牧畜のための羊と牛が島に持ち込まれ、やがて羊毛産業が主産業になる。
1880年代から20世紀にかけてイギリス資本がさらにアルゼンチンに流入し、アルゼンチンは大英帝国の非公式帝国として経済的な従属国となるが繁栄し、ブエノスアイレスは大都市になる。
イギリス軍補給基地として
蒸気艦船がイギリス海軍に普及すると、スタンリー港は重要な給炭港となった。第一次世界大戦ではドイツ帝国海軍がフォークランド諸島の襲撃を試みた(フォークランド沖海戦)。アルゼンチンは第一次世界大戦の際は中立国であった。また第二次世界大戦時にはナチス・ドイツの装甲艦[8]が南大西洋に進出し、イギリス海軍は巡洋艦[9]をフォークランド諸島からラ・プラタ川河口へ急行させた(ラ・プラタ沖海戦)。フォークランド諸島は2度の大戦を通じて英軍の補給基地としての戦略的な重要性が確認された。
第二次世界大戦にイギリスは戦勝国であったが、アメリカにヘゲモニーを奪われ、さらに戦後あいついだイギリス植民地の独立によって、イギリスはほとんどの植民地や海外領土を失い、イギリス連邦がその役割を引き継いだものの、かつて7つの海を支配し「太陽の沈まぬ国」といわれた大英帝国の威信は衰えた。
フォークランド諸島は大戦後に手放さずに済んだ海外領土の一つで、さらに冷戦下において南大西洋における戦略的拠点として重要な位置を占めた。パナマ運河閉鎖に備えてホーン岬周りの航路を維持するのに補給基地として必要であった上、南極における資源開発の可能性が指摘され始めてから前哨基地としての価値もあった。
開戦までの経緯
アルゼンチンの情勢
1929年の世界恐慌以降、1930年代にはアルゼンチンでナショナリズムが台頭しロサスが再評価されると共に諸島(マルビナス諸島)奪還はアルゼンチン国粋主義者の悲願となっていった。第二次世界大戦後の1946年、左翼民族主義者のフアン・ペロンがアルゼンチン大統領に就任。ペロンは反対派を強制収容所に収容するなど左翼ファシストと呼ばれたが、ポプリスモ政策によって一時的に経済は安定した。
しかしモノカルチャー政策であったため、アメリカやカナダ農業の生産性向上により、1949年には競争力を失った。国民から人気のあった妻が死亡し、またカトリック教会との関係も悪化し、1955年に軍のクーデターでペロンは追放された。その後ペロン派の都市ゲリラと軍部の間で内乱が続いた。
1976年に誕生したホルヘ・ラファエル・ビデラ率いる軍事政権は、反共産主義であることから、「ロッジP2」などの反共産主義組織からの支援と、アメリカ政府からの黙認を受けてペロン派や左翼を弾圧し(汚い戦争)、「行方不明者」のなかにはゲリラと関係のない市民もいた。ビデラ政権は治安回復には一定の成果をみせたが、外資導入による経済政策で失敗し、ハイパーインフレーションに陥り失脚した。
1981年12月に軍事政権を引き継いでアルゼンチン陸軍司令官のレオポルド・ガルチェリ大統領が就任した。ビデラ軍事政権は任期中フォークランド諸島に対する軍事行動に言及していたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。だが、ガルチェリ大統領の発言に元気づけられたアルゼンチンの活動家が、島内に上陸して主権を宣言するなどの事件が起きていた。
イギリスの情勢
1960年代から1970年代にかけてイギリスが社会保障制度を充実させ基幹産業を国有化するなどの「イギリス社会主義」の政策を行った結果深刻な財政難に悩まされる英国病にかかると、イギリスの維持能力を超えていた諸島にアルゼンチンが行政医療サービスを行うようになり、それにともない、イギリスに対してフォークランド諸島の返還を求めるようになった。当時フォークランド諸島はイギリス本国への羊毛の輸出のみで成り立っており、不況に苦しむ本国以上の過酷な状況で、本土との定期航空便もなく、アルゼンチンからの行政医療サービスで維持されていたような状態だった。
交渉
保守党のヒース政権は1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、アルゼンチン側が主権問題を取り上げたためそれ以上の進展はなかった[10]。当時、ヒドリー国務大臣は「引き続いてイギリスが統治するものの主権はアルゼンチンに移譲する」というリースバック案を出したが、イギリス人入植者が多数を占める諸島住民が反対し下院で不採用となった。
これまでイギリスも条件付で諸島返還を認めるとしてきたが、1979年に就任したマーガレット・サッチャー首相は国際連合憲章第1条第2項人民の自決の原則にもとづき、フォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていた[11]。他方、アルゼンチン軍事政権は無条件返還を求めたため交渉は平行線をたどった[12]。
両国の衝突
1982年民間義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きにまで発展した。
アルゼンチン政府は沈静化を図ったものの、1982年3月19日になるとアルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島の東にある英領サウス・ジョージア島に2度にわたって寄航、イギリスに無断で民間人を上陸させた(サウスジョージア侵攻)。当初はガルチェリの思惑通り、大統領官邸前が大統領の決定を支持する国民で埋め尽くされた。
イギリスのサッチャー首相はサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すと伴に、1982年3月28日にアメリカのヘイグ国務長官に圧力をかけるよう依頼、さらにフォークランド諸島へ原子力潜水艦の派遣を決定した。3月31日、アルゼンチンが正規軍を動かし始めたとの報を受け、イギリスのサッチャー首相は、4月1日アメリカのレーガン大統領に事態収拾の仲介を要請、閣議を招集し機動部隊の編成を命じた。翌4月2日にはアルゼンチン陸軍約4000名がフォークランド諸島に上陸、同島を制圧し、武力紛争化した。同4月2日中に英下院は機動部隊派遣を承諾、4月5日に航空母艦2隻を中核とする英海軍第一陣が出撃した。
到着までの間、アメリカやイギリスのフランシス・ピム外相のシャトル外交により、事態の打開が模索されたものの、イギリス側が諸島統治は島民の意思を尊重する立場であったのに対し、アルゼンチン側の言い分は、同諸島での現地統治および参政権をアルゼンチン島民にも与えるとした[13]。また、排他海域の設定やイギリス軍の進軍停止・撤退なども協定案としてやり取りがあったものの、イギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないよう定める文言が、4月24日のアルゼンチン案に含まれていたことから、イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的と考え、さらに外交交渉が時間稼ぎのために使われていることを懸念した[14]。
4月25日には、フォークランド諸島に続いて占領されていたサウス・ジョージア島に、イギリス軍の特殊部隊が逆上陸、同島におけるアルゼンチン陸軍の軍備が手薄だったこともあり、即日奪還した。その後も国際連合で和平案の議論が行われたが、態度を硬化させたアルゼンチンに、サッチャー首相は「我々は武力解決の道を選択する」と決断した。
戦闘経過
アルゼンチン軍の侵攻
サウスジョージア島上陸
1982年3月19日、フォークランド諸島沖合東約1000km東に位置するサウス・ジョージア島にアルゼンチン海軍の輸送艦バイア・ブエン・スセソが突如来航。20年以上前から放棄されていた捕鯨工場の解体と称してアルゼンチンのクズ鉄業者を名乗る60名近いアルゼンチン人を入国手続きを一切無視して上陸させた。上陸したアルゼンチン人たちはアルゼンチン国旗の掲揚や国歌斉唱を行うなど同島に居座るような行動を取る。イギリス政府はアルゼンチン政府に厳重に抗議するとともに氷海巡視船エンデュアランスに武装した海兵隊22名と軍用ヘリワスプ2機を積載して同島海域に派遣[15]。するとアルゼンチン側は輸送艦バイア・ブエン・スセソを引き揚げさせたものの、数十人のアルゼンチン人を残していった。さらに3月26日にそのアルゼンチン人同胞の警護と称し、アルゼンチン海軍砕氷艦バイア・パライソにて武装した海兵隊員約500名と物資をサウス・ジョージア島に送り込み、同島のリースハーバーに陣取る。この直後からアルゼンチン海軍の動きが活発化し、軍事演習と称して空母、駆逐艦、フリゲート艦、潜水艦、輸送艦などの移動を開始。
3月28日、イギリス側は海兵隊44名を増援してエンデュアランスに送り込むと同時に機動艦隊の派遣準備を始める[15]。
フォークランド諸島侵攻
スタンレー制圧まで
3月30日、アルゼンチン海軍はフォークランド諸島への本格的な侵攻上陸作戦を開始。空母ベインティシンコ・デ・マヨを旗艦とし、駆逐艦7、フリゲート艦3、輸送艦3、揚陸艦1で編成された第79機動艦隊を陸軍4000名の将兵と共にフォークランド諸島へ出撃させる。3月30日から4月3日にかけて行われたアルゼンチン軍のフォークランド島上陸作戦はロザリオ作戦と名付けられた[16]。上陸活動は大きく2つに分けられる。ゴムボートに分乗した少数のコマンド部隊による深夜の隠密上陸と、4月2日早朝に実行された水陸両用車両を使った比較的大掛かりな上陸である。アルゼンチン軍側も総員900名という、歴史的にみれば小規模な上陸作戦であるが、イギリス軍戦力も79名の海兵隊員に過ぎなかった。アルゼンチン軍は、圧倒的な戦力差によって早期にイギリス軍を降伏させ、また国際世論を考慮してできる限り無血で作戦を完遂させることが目標とされた。この作戦は直前にアメリカの偵察衛星により発見されており、アメリカは作戦の中止を求めたがアルゼンチン軍部は引き返すことはしなかった。
- 隠密上陸
4月1日夜、42型駆逐艦「サンティシマ・トリニダー」が東フォークランド島沖合1海里に到着して21隻のゴムボートを降ろし、1時間半ほどかけて92名の上陸コマンド部隊の隊員を移乗させた。ゴムボートは夜11頃、砂浜に到着し、コマンド部隊は2隊に分かれて目的地のイギリス海兵隊員兵舎と総督邸を目指した。兵舎制圧部隊は午前5時半に兵舎に到着したが、無人であった。一方、総督邸に向かった16人の分遣隊は、そこで予想外に多い42名(31名の海兵隊員と11名の水兵)のイギリス武装兵と射撃戦闘を行うことになった。まもなく、無謀な突撃を行ったアルゼンチン軍コマンド隊員の1名が致命傷を負った。分遣隊は、遮蔽物に隠れ援軍を待った。
- 水陸両用車両による上陸
水陸両用車両(アメリカ製のアムトラックやLVTP7水陸両用装甲兵員輸送車)を使った上陸部隊本隊による攻略目標は、スタンレー空港と島都スタンレーであった。4月2日未明、まず潜水艦サンタフェから潜水具を装備した少数の偵察隊が空港の北部沿岸に上陸し、岬の灯台を占拠。次いで、揚陸艦カボ・サン・アントニオ[17]が、空港沖合から水陸両用車両20両を発進させ、偵察隊の灯台からの誘導を受けながら最初の目標であるスタンレー空港へ向かった。空港の滑走路には古い乗用車やコンクリートの塊がアルゼンチン軍機の着陸阻止の目的で置かれていたものの、空港は無人であったため、上陸部隊は容易に空港を占領した。
- アルゼンチン軍によるスタンレー占領
その後もスタンレー空港から島都に向かう途中に遭遇した若干の抵抗を除けば、イギリス海兵隊からの反撃は無く、北部海域に展開していたアルゼンチン艦隊旗艦の空母ベインティシンコ・デ・マヨから発艦した輸送ヘリコプターによるアルゼンチン海兵隊の増援も到着し、島都スタンレーはアルゼンチン軍が占領した。
4月2日午前9時半、イギリス軍のレックス・ハント総督は、圧倒的な兵力を擁するアルゼンチン軍からの降伏勧告を受け入れ、抵抗するイギリス海兵隊へ武器の放棄を命じイギリス軍は降伏した。アルゼンチン軍はフォークランド諸島全域を手中に置いた。
この作戦でアルゼンチン軍は戦死者1名、負傷者数名を出したが、アルゼンチン軍の当初の狙い通りイギリス軍に死傷者は出さなかった。後日、ハント総督とその家族および全イギリス海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。
サウス・ジョージア島制圧
スタンレー占領の報を受けたサウス・ジョージア島のアルゼンチン海兵隊は同日4月2日に同島の占拠を開始。リースハーバーに留まっていた約500名のアルゼンチン海兵隊員の内、40名が砕氷艦バイア・パライソに移乗してピューマヘリコプター2機による制圧作戦を開始。増援として派遣されたアルゼンチン海軍A69型フリゲートゲリコの支援を受けながら翌日4月3日正午より島都のグリトビケンに上陸を開始した。
サウス・ジョージア島守備隊のイギリス海兵隊はわずか23名と圧倒的不利に立たされていたが、アルゼンチン側の降伏勧告を拒否。地の利を生かして激しく応戦し、上空援護を行っていたアルゼンチン海軍のピューマヘリを機関銃で撃墜。さらにキングエドワードポイント埠頭近海に接近し、機関砲による援護射撃を行っていたゲリコへ84mmカールグスタフ無反動砲とM72 LAWによる攻撃を加えて主砲や対艦ミサイル発射機を使用不能に追い込むなどした。
約2時間に渡る戦闘の後、弾薬の尽きたイギリス海兵隊は全員アルゼンチン軍に降伏。イギリス側の軽傷者1名に対し、アルゼンチン側は死者4名重傷者1名という結果に終わった。スタンレーのイギリス海兵隊と同じく捕虜となった守備隊のイギリス海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。
国際社会の反応
- アメリカの対応
アメリカはNATO加盟国で長年の同盟国であるイギリスを全面的に支援し、空中給油機の貸与を申し出た他、アルゼンチンが使用する自国製の戦闘機や各種武器の情報、自国衛星情報を提供した。また、海路長旅を行うイギリス軍のためにアセンション島にイギリス軍を集め、兵員を休憩させるために便宜を図った。アメリカは冷戦下で中米紛争、特に第二次ニカラグア内戦における死の部隊(Death squad)、アルゼンチン軍はアルゼンチン国内で「汚い戦争」を通して培った対ゲリラ戦の戦訓を、イスラエル国防軍などと共にホンジュラス軍やニカラグアのコントラなどへ訓練していた(アルゼンチン・コネクション)。このような「アメリカが表立って行えなかったようなことをアルゼンチンが行う」という関係を通して両国は友好関係にあったが、正式な同盟関係になかったアルゼンチンへの配慮は全くなかった。その一方で、ヒスパニック系アメリカ人の傭兵多数がアルゼンチンの占領軍にいたのは確実と考えられ、グースグリーンでは、アメリカ人傭兵と思しきアメリカ訛りの英語を話すがスペイン語が話せない者2名が英軍に捕えられている(この2名の身元もその後も不明であるが、処刑された可能性が高い)[18]
- ラテンアメリカ諸国の対応
ラテン・アメリカ諸国のほぼ全てがアルゼンチン支持を表明したが各国は軍隊を送らず情報組織などによる具体的な支援があったわけでもないことから戦況にはほとんど影響しなかった。ただし、ペルーなどの南米諸国からは20世紀後半まで持ち越された帝国主義との戦いのためと称して少数ながら義勇兵が参戦を希望した。また実戦には間に合わなかったが、ペルー空軍のミラージュIII戦闘機10機程度がアルゼンチン空軍に売却された。このことは今まで白人国家であることを誇り、「南米のヨーロッパ」と自称してメスティーソが主体の他のラテン・アメリカ諸国を見下していたアルゼンチンにラテン・アメリカの一員としての意識を芽生えさせた。
- チリの対応
アルゼンチンの隣国のチリだけは、アウグスト・ピノチェト政権以前からパタゴニアのビーグル海峡地域において隣国アルゼンチンと国境問題を抱え、小規模な武力衝突をたびたび起こしており、1981年末には戦争寸前となるなど、危機的状況が続いていた。そのため、チリの大統領アウグスト・ピノチェトはアルゼンチンを「侵略者」として非難してイギリスへの支援を表明し、自国内の基地を提供するなど積極的にイギリスに協力した。さらにチリが戦争のどさくさにまぎれて参戦してくることを恐れたアルゼンチンが、イギリスとの戦争中にもかかわらず対チリ戦に備えて多くの戦力を本土に温存せざるを得ない状況に追い込むなど、実質的にイギリスの同盟国として機能した。
国連決議・経済制裁
4月3日には、アルゼンチンとイギリスの間の開戦を受けて開かれていた国連安全保障理事会において決議第502号が出され、アルゼンチンのフォークランド諸島一帯からの撤退を求めた。翌4月4日には、アルゼンチン政府が国内にある全てのイギリス資産を凍結した。これに対して4月10日にはイギリスが加盟するECが対アルゼンチン経済封鎖を承認し、西ドイツやフランスなどの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行った。なお4月29日にはアルゼンチン政府はアメリカによる調停案を拒否した。
- 日本の対応
日本はアメリカ、イギリス、ECの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置は最後まで実施しなかった。しかし、国連でのアルゼンチン撤退勧告には賛成票を投じた。
- ソ連・東側諸国の対応
冷戦下、アメリカ、イギリスと敵対していたソ連や東側諸国はイギリスを非難するという形でアルゼンチンを支持したが、国連安保理では棄権にとどめた。非同盟諸国の多くがアルゼンチン支持を表明したが、各国は軍隊を送るわけでもなかった上、ソ連が衛星写真を提供したことを除いて、情報組織などによる具体的な支援はなかった。
ほか、メディアとしては世界最大のロイター通信社がイギリスの軍事行動を詳細に世界へ発信した。両軍とも相手の出方をある程度承知していたため実害はなかった。
イギリス軍の反撃
イギリス軍の反撃体制
4月3日にイギリス政府から機動艦隊編成の命を受けたイギリス軍では派遣部隊と機動艦隊の編成が急ピッチで進められた。艦隊旗艦とされた空母はハーミーズとインヴィンシブル(軽空母)の2隻だった。各空母には英海軍艦隊航空隊第800飛行隊12機、第801飛行隊8機のシーハリアー FRS.1が配備された。このシーハリアーは当時の新型空対空ミサイルであったAIM-9Lサイドワインダーを搭載していた。また、空軍のハリアー GR.3に空母で運用するための改造[19]が施された他、空対空戦用のミサイルランチャーの増設も行われたが、結局このランチャーはハリアー GR.3の運用が対地攻撃のみに限定されることになったため、後に増援として空母に配備された際に取り外された。
さらに本来は核攻撃用に配備されていた英空軍の第44、第55、第101飛行隊の戦略爆撃機バルカンが長距離爆撃のために慣性航法装置の改良や通常爆弾21発の投下が可能なように改造され、パイロットらは空中給油の再訓練を行った。イギリス海軍は4月5日に艦隊旗艦の空母ハーミーズを中核とした空母2、駆逐艦10隻、フリゲート艦13隻、揚陸艦8隻、輸送艦他支援艦16隻の計49隻から成る機動艦隊である第317任務部隊をポーツマス港より出撃させた。
イギリス軍はフォークランド諸島奪還の中継基地としてフォークランド諸島北西約6000kmに位置するイギリス領アセンション島のワイドアウェーク基地を利用した。4月5日から18日にかけ、イギリス空軍の第42、第120、第201、第206飛行隊のニムロッド偵察機、第55、第57飛行隊のヴィクター給油機の部隊の他、艦隊の支援のための補給物資が次々と到着した。
4月12日には先行してフォークランド諸島に向かっていたイギリス海軍の潜水艦隊が同海域に展開、イギリス政府はフォークランド諸島の半径200海里(370km)を封鎖海域とし、以後この海域に他国籍の艦船の侵入を禁じた。
アルゼンチン軍の迎撃体制
一方、フォークランド諸島ではアルゼンチン軍による防衛準備が進められ、歩兵部隊、装甲車両、レーダー設備、野砲や対空機関砲、対空ミサイル発射機などの兵力が輸送艦、輸送機により運び込まれた。4月12日以降のイギリス海軍の海上封鎖から大規模な揚陸はできなくなったものの、輸送機による空輸や小規模な海上輸送は続けられ、同島のアルゼンチン軍守備隊の総兵力は9000名を超えた。さらに制圧したスタンレー、グース・グリーン、ペブル島の各飛行場にアルゼンチン空軍第1、第3グループと海軍の第1・第4航空隊の軍用機約30機や陸軍の輸送ヘリ部隊が配備され、戦力の増強が図られた。軍用機はプカラ攻撃機、イタリアのアレーニア・アエルマッキ社製の軽攻撃機MB-339・MB-326、アメリカのビーチエアクラフト社製のT-34Cターボメンター軽攻撃機等で編成された。
また、アルゼンチン本国では空海軍の航空隊がフォークランド諸島に近いリオ・グランデ、リオ・ガジェゴス、サン・フリアン、トレリューなどの南部の基地に展開し、イギリス海軍への要撃準備が進められた。更に当時アルゼンチン海軍がフランスのダッソー社から購入したばかりのシュペルエタンダール攻撃機に、同じくフランスのMBDA社から購入した空対艦ミサイルエグゾセAM39が5発搭載された。
イギリス軍の反撃開始
4月18日、イギリス海軍の機動部隊がアセンション島を出港、駆逐艦アントリム、フリゲート艦プリマスの2隻がサウス・ジョージア島奪回の任務を帯び、イギリス陸軍特殊部隊SASとイギリス海兵隊を積載して機動艦隊から離れタスクフォースを編成していった。サウス・ジョージア島近海に先行していた氷海巡視船エンデュアランスと合流し同島の奪還作戦を開始する。
4月21日にSASによるサウス・ジョージア島上陸偵察が行われたが、悪天候で中止せざるをえなくなった。撤退時にイギリス海軍のウェセックス HU.5ヘリコプターが2機が墜落する事故を起こし、4月22日深夜にはイギリス海兵隊特殊舟艇隊 (SBS)がゴムボートによる偵察上陸を行うも一部が悪天候のために遭難するという事態となる(どちらもイギリス軍により救助された)。
4月23日にはアルゼンチン海軍の潜水艦が接近しているとの情報を受けたタスクフォースは一旦、同海域から退避。機動艦隊から増援に駆けつけたイギリス海軍のフリゲート艦ブリリアントが合流し、4月24日より艦載ヘリコプターによる掃海作戦を実施する。
4月25日に、サウス・ジョージア島のアルゼンチン軍守備隊へ物資輸送任務を行っていたアルゼンチン海軍の潜水艦サンタフェが掃海中のイギリス海軍艦載ヘリコプターに発見され、攻撃を受け損傷。同日サウス・ジョージア島に擱座、放棄された。同日中に駆逐艦アントリムの艦砲射撃による援護を受けながらイギリス海兵隊がサウス・ジョージア島に上陸した。アルゼンチン陸軍はサウス・ジョージア島を重要視していなかったことから守備隊は即降伏したため、同島の陸上での戦闘はほとんどなく、イギリス軍はサウス・ジョージア島の奪回に成功する。
以後、タスクフォースは同島に駐在部隊を残して再び機動艦隊に合流し、本格的なフォークランド諸島奪還を始めた。
ブラックバック作戦による空爆
イギリス軍は、アセンション島を基地とするバルカン爆撃機、空母から発進したシーハリアーによる空爆、戦闘艦艇による艦砲射撃の三段階の攻撃により、東フォークランド島のスタンレー空港および、同島の中央に位置するグース・グリーン飛行場を使用不能とする計画をたてた。
その第一段階が5月1日からアブロ バルカン爆撃機によるスタンレー空港の爆撃計画でブラックバック作戦とよばれた。1000ポンド爆弾を21発搭載して長大な距離を往復するという当時としては最長距離の長距離爆撃作戦であった。この作戦に参加した航空機は、バルカン爆撃機2機(内、同行予備機1機[20])とヴィクター K.2空中給油機15機(内、同行予備機4機[21])である。爆撃機と給油機の各1機が離陸後しばらくして機械関係のトラブルに見舞われ、実際の爆撃は予備機にて行われることとなった。この予備のバルカン爆撃機はポート・スタンレー飛行場へ21発の爆弾を投下した。内4発の爆弾がスタンレー空港施設に着弾し、4発の内1発が滑走路を直撃した。
バルカン攻撃機の空爆直後、イギリス海軍機動部隊がスタンレーの東180kmまで接近し、空母ハーミーズから飛び立った第800飛行隊のシーハリアー FRS.1のうち9機がスタンレー飛行場へ、3機がグース・グリーン飛行場へ空爆を行った。スタンレー飛行場へ向かった9機は1000ポンド爆弾とクラスター爆弾で滑走路や対空陣地を攻撃。アルゼンチン側は陸上に設置したタイガーキャット対空ミサイルや高射砲で迎撃するも失敗し、空港施設などを破壊される。
またグース・グリーン飛行場では、3機のシーハリアーが1000ポンド爆弾、クラスター爆弾で滑走路を空爆した。離陸直前だったプカラ攻撃機の1機ごと滑走路を破壊して使用不能に追い込み、駐機していた他の4機のプカラ攻撃機を大なり小なり損傷させた(後にアルゼンチン政府はこの離陸直前に乗機を撃破されて死亡したプカラ攻撃機パイロットの空軍中尉を『単独で空母を攻撃して撃墜された英雄』と脚色して報道し、真相を知っていたアルゼンチン空軍のパイロットらから顰蹙を買った)。ハリアーの空爆後、作戦の総仕上げとして駆逐艦グラモーガンとフリゲート艦アラクリティとアローの3隻が日中と夜間の2回に分けてスタンレー空港と周囲の砲兵陣地に向けて艦砲射撃を加えたが、ヘリコプターの砲撃観測がなかったため不正確なものとなり、被害は軽微なものにとどまった。
この一連の攻撃で以後スタンレー空港は滑走路の損傷から戦闘機や爆撃機などの大型機の発着が不可能となったが、STOL性能を持つC-130やエレクトラ、フォッカーF28フェローシップ等の輸送機や長い滑走路が不要なマッキ攻撃機などは運用が可能であり、アルゼンチン軍は終戦間際までこの空港を活用しつづけた。
この日はアルゼンチン空軍第6グループのダガー攻撃機によるイギリス海軍艦艇への最初の航空攻撃が行われ、上空警戒の任を受けていたイギリス海軍第801飛行隊のシーハリアーとダガー攻撃機の援護で追従してきたアルゼンチン空軍第8グループのミラージュ戦闘機との間で空中戦が発生した。爆装した第6グループのダガー攻撃機3機は、ポート・スタンレー飛行場を艦砲射撃していた駆逐艦群に攻撃を行ったものの一部の艦艇に軽い損傷を与えただけに留まり、空対空ミサイルを装備して空中戦に参加した他のダガー攻撃機2機と前述のミラージュ戦闘機2機がシーハリアーによって撃墜されている。
バルカン爆撃機を用いたブラックバック作戦はこれ以降も5月4日、5月31日、6月3日、6月12日など数回続けられたが、通常爆弾による滑走路破壊はほとんど失敗に終わる。ただし、シュライク対レーダーミサイルを用いたレーダー施設の破壊で一定の戦果を挙げている。
海上戦
アルゼンチン海軍艦の撃沈
4月末日、アルゼンチン海軍は接近するイギリス機動艦隊に対し、艦隊を三方向から向かわせていた。
- 北方より空母ベインティシンコ・デ・マヨを旗艦として、駆逐艦サンティシマ・トリニダー、エルクレス他数隻で構成される機動艦隊。空母ベインティシンコ・デ・マヨは1942年にイギリス軍が建造したヴェネラブルが改名されたもので、オランダ経由でアルゼンチンに売却されたものだった。
- 中央(西方)より艦対艦ミサイルエグゾセMM38搭載のA69型フリゲート艦ドゥルモン、ゲリコ、グランビルの3隻からなるミサイル打撃艦隊。
- フォークランド諸島南方から周り込むような形で巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノ(艦長エクトール・E・ボンソ。乗員1092名)、駆逐艦イポリット・ボチャール、ピエドラ・ブエナの3隻の艦隊がイギリス側の封鎖海域の外から突入の準備を行っていた。
アルゼンチン海軍はベインティシンコ・デ・マヨの艦載機A-4スカイホークによる空爆とA69フリゲート群による対艦ミサイル、およびヘネラル・ベルグラーノの艦砲による挟撃を行い、イギリス機動艦隊へ大打撃を与える算段だった。ところがベインティシンコ・デ・マヨ空母の艦載機の発艦が不能となり[22]、同空母機動艦隊とフリゲート群は攻撃を取りやめ、アルゼンチン本国側に撤収した。ヘネラル・ベルグラーノの艦隊は単独で南方の海域、封鎖海域の外に留まり続けていた。
- イギリス軍原子力潜水艦による攻撃
- 参照: コンカラー (原子力潜水艦)
4月30日に同海域を哨戒中だったイギリス海軍の原子力潜水艦HMSコンカラー(S48)がヘネラル・ベルグラーノ艦隊を発見し、追尾。封鎖海域の外にベルグラーノはいたものの、全速で航行すればイギリス機動艦隊を6時間近くで射程に入れる距離にいたこと、同海域の水深からこれ以上北進されると追尾が難しくなる可能性があったことから、コンカラー艦長クリストファー・リーフォード=ブラウン中佐は衛星通信によりイギリス本国のイギリス艦隊作戦本部と機動艦隊司令部に通報し、指示を仰いだ。
5月2日、イギリス艦隊作戦本部よりコンカラーに封鎖海域外での攻撃命令が下り、16時頃にコンカラーはヘネラル・ベルグラーノに4発のMk8魚雷を発射。内2発が命中し、艦首を喪失したベルグラーノはわずかな時間で撃沈された。多くの乗組員は救命ボートで脱出したものの、383人の乗組員と共にベルグラーノは沈んでいった。残った駆逐艦イポリット・ボチャール、ピエドラ・ブエナはコンカラーを追撃し爆雷で攻撃したとイギリス海軍は主張している。(アルゼンチン側の公式記録にはこれを裏付ける証言はない。)
この後、アルゼンチン海軍水上艦部隊の主力艦艇は損失を恐れ、原潜が活動しにくい大陸棚から離れることはなかった。5月2日夜には撃墜されたキャンベラ爆撃機のパイロット捜索に派遣されたアルゼンチン軍哨戒艇2隻がイギリス海軍のリンクスAH.7ヘリコプターと会敵し、シースクア対艦ミサイル攻撃を受けて1隻が撃沈され、もう1隻も大破し撤退した。
イギリス海軍艦の撃沈
5月4日、アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機が空対艦ミサイル・エグゾセAM39[23]でスタンリー南西75海里にいたイギリス機動部隊に攻撃を行った。リオ・グランデ基地より離陸した2機のシュペルエタンダールが空中給油を受けた後、友軍のトラッカー哨戒機の誘導を受けながらレーダーを切った状態で海上15mという低高度で接近していった。この超低空で接近する攻撃機隊をイギリス艦隊はレーダーで捉えることができず、シュペルエタンダールはイギリス艦隊近海でわずかに上昇してレーダーで艦船の1隻をロックオンし、エグゾセを発射して即退避した。
発射された2発のエグゾセの内、1発が当時レーダーピケット任務中だったイギリス海軍シェフィールド(42型駆逐艦)に命中した。この1発は不発だった[24]が、残っていた燃料の燃焼と命中による配電盤の損傷でダメージコントロールがほとんど不可能になり、同艦は炎上、乗組員は総員退艦した。その後上部構造物がほとんど焼き尽くされた状態で鎮火したシェフィールドは12型フリゲートヤーマスに曳航されるも、浸水が激しくなり5月10日に沈没した。なお、残る1発のエグゾセは射程外から発射されたため途中で墜落した。
このシェフィールドの撃沈の他、イギリス機動艦隊は5月1日から10日の間にアルゼンチン海軍の209型潜水艦サン・ルイスから、たびたび魚雷攻撃を受け、対潜行動を強いられ艦艇の損失を避けるべく大幅にその活動範囲を狭めた。この為、イギリス、アルゼンチン両海軍艦艇同士による大規模な海戦は戦争の全期間を通じて一切行われず、その後艦艇への攻撃は航空機によるものが中心となった。
イギリス軍の逆上陸
- 5月4日には爆撃中のイギリス海軍のシーハリアー1機が対空砲火で撃墜され、シーハリアー初の損失となった。また5月6日には同2機が悪天候の中、おそらく空中衝突で失われた。
- 5月9日には情報収集に当たっていたアルゼンチンのトロール漁船ナルワル号がシーハリアーによって攻撃された上、SBSの強襲によって拿捕、後に沈没。更にピューマヘリコプター1機が42型駆逐艦コヴェントリーのシーダート対空ミサイルで撃墜された。イギリス海軍は上陸地点の偵察活動を活発化させ、フォークランド海峡内に艦艇を送り込むようになった。
- 5月10日に海峡内に侵入した21型フリゲートアラクリティは、アルゼンチン軍の輸送艦イスラ・デ・ロス・エスタドスを砲撃し撃沈した。これがこの紛争で唯一の水上艦同士の海戦だった。
- 5月12日には、アルゼンチン軍のスカイホーク8機により、イギリス海軍の42型駆逐艦グラスゴーと22型フリゲートブリリアントに対する攻撃が行われ、グラスゴーに爆弾を命中させたが不発だった。またこの攻撃の際ブリリアントのシーウルフ対空ミサイルにより3機のスカイホークが撃墜され、さらに1機がアルゼンチン軍の対空砲火の誤射で撃墜された。
ペブル島襲撃
5月14日から16日にかけてイギリスのSBSならびにSASの上陸作戦が行われた。
5月14日にペブル島の飛行場をSASの中隊が襲撃し、駐機していたプカラ攻撃機などのアルゼンチン軍の航空機11機すべてを爆薬で破壊して撤退した。これによりアルゼンチン軍はフォークランド諸島の航空機の三分の一近くを一度に喪失するという大損害を受ける(ペブル島襲撃)。またSBSによる陸上への観測ポストの設置が行われた。この間、イギリス艦艇はポート・スタンリー周辺を陽動のため艦砲射撃している。
5月16日にはフォークランド海峡にてアルゼンチン軍輸送艦バイア・ブエン・スセソ、リオ・カルカナーラがシーハリアーの攻撃を受け、バイア・ブエン・スセソが沈没、リオ・カルカナーラが座礁している。
5月17日には増援としてイギリス海軍徴用のコンテナ船アトランティック・コンベイヤーによって輸送されてきたイギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3の6機が空母ハーミーズに配備され、対地攻撃への参加を始めた。また、エグゾセミサイル対策として欺瞞装置を搭載したリンクスヘリコプターも届けられ、空母2隻に配備。以後戦争終結まで何時でもスクランブル発進が可能なように甲板上に待機していた。
- サン・カルロス上陸
5月21日未明から午前中にかけて、SASがグースグリーン周辺に降下して陽動を行うと同時にイギリス陸軍空挺大隊を中核とする部隊が東フォークランド島西側のサン・カルロスに上陸を開始し、橋頭堡を築いた。イギリス軍は抵抗をほとんど受けずに上陸し、この作戦でのイギリス軍の損害はガゼル2機など軽微だった。
アルゼンチン軍によるイギリス海軍艦艇攻撃
イギリス軍の逆上陸を許したものの、5月21日午後からアルゼンチン空海軍機による海峡内のイギリス海軍艦艇攻撃が開始され、アルゼンチン軍機の爆撃により21型フリゲートアーデントが撃沈された。これ以外にも多くの艦艇が損害を受けた。しかし揚陸艦を含む上陸部隊に損害はなく、当日までに3000名の兵員と1000トンの物資が上陸した。イギリス側はこの日アルゼンチン軍機を13機撃墜した。
5月23日には、アルゼンチン軍のA-4攻撃機がアーデントと交代した21型フリゲートアンテロープを攻撃し、500kg爆弾2発を命中させた。これは不発弾であったが信管除去作業中に爆発し、アンテロープは翌24日に沈没した。このようなアルゼンチン軍機による攻撃に対し、早期警戒機を欠き、十分な哨戒時間が取れないシーハリアーによる防衛体制はほとんど機能しないままであった。さらに5月25日には、アルゼンチン空軍第5グループのA-4Bが42型駆逐艦コヴェントリーと22型フリゲートブロードソードを攻撃し、コヴェントリーに爆弾3発を命中させ撃沈に成功した。
その直後、アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダールがイギリス空母機動部隊を攻撃し、空対艦ミサイルエグゾセAM39の2発を発射した。イギリス海軍艦艇はエグゾセの探知には成功し、各艦艇のチャフロケットとデコイを搭載したリンクスヘリコプターによりエグゾセに対抗した。しかしチャフにより目標を逸れたエグゾセ1発がイギリス海軍徴用コンテナ船アトランティック・コンベイヤーに命中し、アトランティック・コンベイヤーは大破炎上、5月30日に沈没した。アトランティック・コンベイヤーにより輸送されてきたシーハリアー、ハリアーGR.3はすでにハーミーズとインヴィンシブルに移動していたため、損害はなかったが、まだ積まれていたチヌーク3機、ウェセックス6機、リンクス1機の計10機のヘリコプターが失われた他、軍用トラック、航空機整備部品、爆弾などの装備、臨時滑走路構築用の資材など大量の物資が失われ、その後のイギリス軍の作戦行動に大きな制約を与えた。特にイギリス陸軍はヘリコプターを多数失ったことで陸上における歩兵、物資の輸送に多大な影響を受け、臨時滑走路構築用の資材を失ったイギリス空軍はサン・カルロスに建設予定だったハリアー用臨時飛行場の規模大幅縮小を強いられ、航空作戦の計画を変更せざるを得なくなった。
この日の攻撃ではアルゼンチン側も3機が撃墜されたが、この一連の攻撃を受けてイギリス海軍は4日間で2隻のフリゲート艦、1隻の駆逐艦、1隻の徴用艦の計4隻の大型艦船を失った。これは英国内で「第二次世界大戦時の(対日戦における)マレー沖海戦以来の失態」と呼ばれ、英国マスコミは海軍上層部を批判した。
- ブラボー・ノーベンバー
イギリス空軍第18飛行隊は4機のCH-47チヌークヘリコプターで構成される輸送部隊としてフォークランド諸島に増援として派遣された。ところが同部隊を輸送していたアトランティック・コンベイヤーがミサイル攻撃で撃沈され、第18飛行隊は撃沈直前に離陸して一足先にフォークランド諸島に向かっていた1機を除いて全機を失ってしまう。生き残った1機はフォークランド諸島に到着するも、コンベイヤーに積載されていた予備部品や工具なども失われていたため、ろくな整備ができない状況になり、大きな活躍はできないとされていた。しかしながら整備兵らの尽力により、同機は4月26日から戦争終結まで弾薬や野砲の輸送、イギリス軍兵士やアルゼンチン捕虜の輸送に活躍することができた。その奮迅ぶりから同機は無線のコールサイン『ブラボー・ノーベンバー』の愛称で兵士らから親しまれた。
グース・グリーンの戦い
サン・カルロスから逆上陸を果たしたイギリス陸軍部隊は5月26日より東フォークランド島各所に進出を開始した。陸軍空挺連隊第2、第3大隊はそれぞれ南部のグース・グリーン、ポート・ダーウィン方面と西のティール入江方面へ、海兵隊第42コマンド大隊は北東のポート・スタンレー方面ケント山周辺へ進軍を開始。
グース・グリーンへ進出したイギリス陸軍空挺連隊第2大隊約450名の軍勢は5月28日ごろにカミラ水路近辺にてアルゼンチン陸軍第2、第12歩兵連隊を中核とする約1600名の部隊と接触し交戦を開始、「グース・グリーンの戦い」が起きる。イギリス軍空挺連隊第2大隊は、第8砲兵隊の砲撃と空軍の第1飛行隊のハリアーの上空援護を受けながらアルゼンチン軍の陣地に進撃。一方のアルゼンチン側も、空軍第3グループのプカラ攻撃機等、航空兵力による阻止攻撃を幾度となく行い、守備隊の陸軍歩兵部隊も対空機関砲の水平射撃を行うなどして激しく応戦した。
イギリス側はこの戦闘で空挺連隊第2大隊の大隊長である陸軍中佐が戦死するなど損害を受けるも、経験と装備に勝るイギリス陸軍はこの激戦を制して陣地を突破、飛行場を制圧するとアルゼンチン軍守備隊が立てこもるグース・グリーンの町を包囲。守備隊は降伏勧告を受け入れ、グース・グリーンは5月29日早朝にイギリス軍に確保された。
この28日から29日にかけての戦いは陸上における最大の激戦となり、アルゼンチン側は250名以上が戦死。イギリス側は死者17名とアルゼンチン側と比べ少数ながらその内11名は大隊長を含んだ将校、下士官とその損失は小さくはなかった。
ポート・スタンレー方面に進出したイギリス海兵隊第42コマンド大隊とSASは5月30日にポート・スタンレーを見下ろすケント山をほとんど大きな戦闘もなく確保するが、その夜にケント山奪還に差し向けられたアルゼンチン軍コマンド中隊との間で激しい戦闘が行われた。アルゼンチン軍コマンド部隊を退けたイギリス側はケント山に陣地構築を開始し、ポート・スタンレーの包囲体制に入った。
- アルゼンチン軍による英艦艇攻撃と英海軍による迎撃
グース・グリーンを確保されるなど、地上戦では徐々にイギリス軍に押されていたアルゼンチン軍であったが、空海軍機によるイギリス海軍艦艇への航空攻撃は続いた。
5月30日午後にはアルゼンチン軍は最後の空対艦エグゾセAM39の1発を使ってイギリス機動艦隊への攻撃を敢行した。海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機[25]と空軍第4グループのA-4スカイホーク攻撃機4機で編成された攻撃隊はイギリス艦隊へ接近し、イギリス艦隊側はこれをレーダーに捕らえた。レーダーに捉えられたシュペルエタンダール攻撃機は全速で艦隊に接近するとレーダーでロックオンしてミサイルを発射後、2機とも退避。ミサイルに続く形で4機のスカイホーク攻撃機が突撃をかけた。このとき攻撃対象とされたのは実際には空母ハーミーズとインヴィンシブルではなく、艦砲射撃と特殊部隊上陸のために主力艦隊から離れて航行していた42型駆逐艦エクゼターと21型フリゲートアヴェンジャーだった。両艦は攻撃隊のレーダー探知後、チャフロケットを即座に発射し、対空砲火による防空を行った。飛来したエグゾセはこの際に空中で撃破された[26]。さらにエクゼターは突撃してくるスカイホーク部隊に対してシーダート対空ミサイルによる迎撃を行い、2機を撃墜した。残った2機のスカイホークは両艦を爆弾で攻撃したが命中させることは出来なかった。
結局、この攻撃によるイギリス側の損害はなかったが、攻撃に参加したアルゼンチン側パイロットは空母にミサイルを命中させたと主張し[27]、シュペルエタンダール攻撃機にはインヴィンシブルのキルマークが描かれた。アルゼンチン政府は新聞に煙を上げる空母の写真すら掲載して損害を与えたと主張したものの、明らかな合成写真であったため、イギリス政府から失笑を買ったという。
フィッツロイ上陸
6月8日にイギリス海軍は徴用船キャンベラやクイーン・エリザベス2によって輸送されてきた増援兵力を強襲揚陸艦フィアレスを中核とした揚陸艦隊に移乗させ、フィッツロイにて揚陸作戦を行っていた。
この動きをアルゼンチン軍はポート・スタンレーのレーダーで察知し、空軍機による攻撃をかけた。
海岸の形状から陸上部隊の上陸に手間取っていた揚陸艦サー・ガラハドがスカイホーク3機の爆撃を受け、艦内にいた兵員46名が戦死するなど大きな人的損害を出して沈没した。同じくサー・トリストラムもスカイホーク2機の爆撃で大破し、その直後に海上を航行中だったフィアレスの揚陸艇F4号が爆撃で撃沈された。また、アルゼンチン空軍のダガー攻撃機部隊の投下した500kg爆弾4発がフォークランド海峡にいたフリゲート艦プリマスを直撃した。しかしいずれも不発でプリマスは対潜爆雷が炎上し火災が発生したが沈没は免れた。
なおこの際にアルゼンチン軍機3機がシーハリアーに撃墜され、イギリス軍機1機もエンジン故障により不時着大破した。
スタンレー陥落
イギリスは、アルゼンチン空海軍機による猛攻により多くの海軍艦艇を失ったものの、陸軍の侵攻は続けられた。イギリス側はアルゼンチン軍守備隊に対して幾度となく降伏勧告を行うが、守備隊はそれを黙殺。6月12日にはスタンレーに設置されていたトレーラー改造のミサイル発射台から輸送機で空輸していた艦対艦ミサイル・エグゾセMM38を発射し、駆逐艦グラモーガンの後部甲板に命中させ、不発ながら中破に追い込んだ。
6月13日よりイギリス軍はスタンレーへの全面攻撃を開始。陸軍第2、第3空挺大隊は北側のロングドン山とワイヤレスリッジ方面を、スコットランド近衛大隊、イギリス海兵隊第45大隊、グルカライフル部隊は「姉妹の尾根」を越え、ダンブルダウン山を越えるルートを侵攻、ウェールズ近衛大隊はハリエット山方面から侵攻した。イギリス軍は野砲や海軍艦艇からの艦砲射撃、ハリアーによる空爆などで援護しつつ、新たに揚陸したスコーピオン軽戦車などを投入して進軍、対するアルゼンチン側は暗視装置を装着したライフルによる夜間戦闘やM2重機関銃による狙撃で対抗した。
この時点でアルゼンチン側は敗戦ムードが漂っていたため、全体の士気が大幅に下がっており、各所でイギリス軍は容易にアルゼンチン軍陣地を突破することに成功していたが、一部の場所ではコマンド部隊など士気、錬度の高いアルゼンチン兵が残っており、特にロングドン山やダンブルダウン山での戦闘は熾烈を極め、塹壕を挟んでの手榴弾の投げ合いや銃剣を用いた白兵戦すら発生した。
翌6月14日にイギリス軍は守備隊陣地を突破して首都ポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)へ肉薄。これを受けてアルゼンチン側は14日正午についに降伏。司令官マリオ・メネンデス准将は指揮下の9,800人の兵士と共に投降した。この12日から14日までの戦いで200人近いアルゼンチン兵が戦死し、イギリス兵も多数の死傷者を出した。
終結
スタンレーの陥落を受けて、翌15日にはガルチェリ大統領が「戦闘終結宣言」を出したが、すでに求心力を失っており2日後に失脚した。
6月20日にはイギリス軍がサウス・サンドイッチ島を再占領し、イギリス政府は停戦宣言を出した。こうして72日にも及び、両国に多大な犠牲を出した戦争は終わった。
両国の参加兵力
アルゼンチン軍
- 参加艦艇
- 航空母艦 - ベインティシンコ・デ・マヨ
- 軽巡洋艦 - ヘネラル・ベルグラーノ
- 旧42型駆逐艦 - サンティシマ・トリニダー、エルクレス
- 旧アレン・M・サムナー級駆逐艦 - セギ、イポリット・ボチャール、ピエドラ・ブエナ
- 旧ギアリング級駆逐艦 - コモドロ・ピイ
- A69型フリゲート ドゥルモン、ゲリコ、グランビル
- 209型潜水艦 - サルタ、サン・ルイス、サンタフェ、サンチャゴ・デル・エステロ
- 輸送艦 - バイア・ブエン・スセソ 他
- 揚陸艦 - カボ・サン・アントニオ
- コルベット・哨戒艇・巡視船等 - バイア・パライソ 他
- 他支援艦艇、徴用船舶
- 航空機
- 戦闘機・攻撃機
- ダグラス A-4B/C/Q(空軍、海軍)
- IAI ダガー(空軍)
- ダッソー・ブレゲー シュペルエタンダール(海軍)
- ダッソー・ブレゲー ミラージュIIIEA(空軍)
- FMA IA 58 プカラ(空軍)
- マッキ MB-339AA(海軍)
- ビーチ T-34C-1 ターボメンター(海軍)
- 爆撃機・輸送機など
- BAe キャンベラ B Mk 62(空軍)
- ボーイング707(空軍)
- ロッキード C-130E/H(空軍、爆撃機としても使用)
- ロッキード KC-130H(空軍)
- ゲイツ・リアジェット 35(空軍、民間)
- ホーカー・シドレー HS.125(空軍)
- フォッカー F28-3000 フェローシップ(海軍)
- ロッキード L-188 エレクトラ(海軍)
- ロッキード SP-2H ネプチューン(海軍)
- グラマン S-2E トラッカー(海軍)
- ブリテン・ノーマン アイランダー(捕獲)
- ショート スカイバン(沿岸警備隊)
- 他
- 回転翼機
- ベル 212(空軍)
- ベル UH-1H(陸軍)
- アグスタ A109(陸軍、後に英軍が捕獲運用)
- ボーイング CH-47C チヌーク(陸軍、空軍)
- アエロスパシアル ピューマ(陸軍、沿岸警備隊)
- ウェストランド リンクスMk23(海軍)
- アエロスパシアル アルエットIII(海軍)
- シコルスキー SH-3D シーキング(海軍)他
LADE (Lineas Aereas Del Estado、「国営航空」)の各機も空軍の下で輸送任務についた。フェニックス・エスカドロン(徴用ビジネス機部隊)は主に後方支援にあたったが、リアジェットのような高性能機は通信中継や偽装攻撃も行った。アルゼンチン航空等のエアラインも支援体制にあった。長距離洋上哨戒飛行のため(イギリス海軍艦隊の偵察)、武装を施していないアルゼンチン航空のボーイング707旅客機による偵察飛行がたびたび実施されたが、それに対抗するためにイギリス空軍がニムロッド哨戒機にサイドワインダーミサイルを4発搭載して偵察行動をとった結果、ボーイング707による偵察飛行は中止された。
イギリス軍
- 参加艦艇
- 第317任務部隊(指揮:ウッドワード少将) - 機動部隊
- 第324.3任務群(指揮:ハーバート少将) - 潜水艦隊
- 補給部隊(指揮:ダンロップ准将)
- 空母 - ハーミーズ(艦隊旗艦)、インヴィンシブル
- 潜水艦
- スウィフトシュア級原子力潜水艦 - スプレンディッド、スパルタン
- チャーチル級原子力潜水艦 - コンカラー、カレイジャス
- ヴァリアント級原子力潜水艦 - ヴァリアント
- オベロン級潜水艦 - オニクス
- 駆逐艦
- フリゲート
- 揚陸艦
- フィアレス級揚陸艦 - フィアレス(両用艦群旗艦)、イントレピッド
- ラウンドテーブル級揚陸艦 - サー・ランスロット、サー・ガラハド(沈没)、サー・ベディベア、サー・ゲレイント、サー・パーシバル、サー・トリストラム
- 補給艦
- 氷海巡視船 - エンデュアランス
- 掃海艇 - ハント級掃海艇 ブレコン、レッドベリー
- 測量艦 - ヘクラ級測量艦 ヘクラ、ヘカテ、ヘラルド、ハイドラ
- 通報艦 - キャッスル級哨戒艦 リーズキャッスル、ダンバードンキャッスル
その他支援艦艇若干。クイーン・エリザベス2号、キャンベラ号、アトランティック・コンベアー(沈没)など徴用艦艇多数
- 航空機
- 戦闘機・攻撃機
- シーハリアー FRS.1(海軍)
- ハリアー GR.3(空軍)
- ファントム FGR.2(空軍、アセンション島の防衛)
- 爆撃機 - アブロ バルカン B.2(空軍)
- 対潜哨戒機 - BAE ニムロッド MR.2(空軍)
- 空中給油機 - ハンドレページ ヴィクター K.2(空軍)
- 輸送機
- ビッカース・VC10 C.1(空軍)
- ロッキード・ハーキュリーズ C.1(空軍)
- 偵察機
- ニムロッド R.1(空軍)
- イングリッシュ・エレクトリック・キャンベラ PR.2(空軍)
- ヘリコプター
- ウエストランド シーキング HAS.2/2A/5/HC.4/HAR.3(海軍、空軍)
- ウエストランド リンクス HAS.2(海軍)
- ウェストランド ワスプ HAS.1(海軍)
- ウェストランド ウェセックス HAS.3/HU.5(海軍)
- ウェストランド ガゼル AH.1(陸軍、海兵隊)
- ウェストランド スカウト AH.1(陸軍、海兵隊)
- ボーイング チヌーク HC.1(空軍)
年表
- 3月19日:アルゼンチンの「解体業者」がアルゼンチン海軍輸送艦バイア・ブエン・スセソで入国手続き一切を無視して、サウス・ジョージア島に上陸。アルゼンチン国旗の掲揚などを行った。
- 3月22日:アルゼンチン海軍輸送艦バイア・ブエン・スセソ、イギリス側からの抗議によりサウス・ジョージア島より撤収。イギリス、氷況巡視船エンデュアランスに海兵隊員と軍用ヘリを積載し同島海域へ派遣する。
- 3月26日:アルゼンチン海軍砕氷艦バイア・パライソがサウス・ジョージア島にアルゼンチン軍海兵隊と補給物資を輸送。
- 3月30日:アルゼンチン軍、ベインティシンコ・デ・マヨを旗艦とする艦隊をフォークランド諸島海域に派遣。
- 3月31日:イギリスのサッチャー首相が、極秘情報によりアルゼンチンのフォークランド侵攻が本気であることを知った。「(侵攻を)計画するだけでもばかばかしく、そんなばかげたことをするはずがない」と思い込んでいた。イギリス首相(当時)の人生で最悪の日であり、取り返せるかもわからなかったと証言(イギリス非公開委員会議事録)。
- 4月2日:アルゼンチン軍がフォークランド諸島に上陸し、これを占領した。イギリスのレックス・ハント総督以下イギリス軍を捕虜とする。イギリス、アルゼンチンに国交断絶通告。
- 4月3日:アルゼンチン軍、サウス・ジョージア島を占領。アルゼンチン海軍A69型コルベットゲリコが同島に接近時にイギリス軍守備隊の対戦車ロケット砲の攻撃を受け中破した。
- 国連安全保障理事会決議第502号、アルゼンチンの撤退を求める。
- 4月4日:アルゼンチン政府が全ての国内にあるイギリス資産を凍結。
- 4月5日:イギリス艦隊、ポーツマス港を出港、イギリスのエリザベス2世が民船徴用権付与。
- 4月10日:ECが対アルゼンチン経済封鎖を承認。西ドイツやフランスなどの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行う。
- 4月12日:イギリス軍、フォークランド諸島周辺の洋上封鎖発効。
- 4月18日:イギリス海軍の機動部隊がイギリス領アセンション島を出港。
- 4月20日:イギリス空軍、アセンション島より発進した第55飛行隊のヴィクターがサウス・ジョージア島を偵察。
- 駆逐艦アントリムを筆頭としたタスクフォース、同海域に先に派遣されていた氷況巡視船エンデュアランスと合流しサウス・ジョージア島に接近。
- 4月21日早朝:イギリス軍SAS の偵察隊がサウス・ジョージア島にヘリによる上陸を敢行するも悪天候で作戦行動がとれず、撤収。その際、輸送に使用されたイギリス海軍のウェセックス HU.5ヘリコプターが2機が悪天候により墜落。搭乗員は他のヘリにより救助された。
- 哨戒任務で出撃していたイギリス海軍第800飛行隊のシーハリアーと偵察任務で飛来したアルゼンチン空軍第1グループのボーイング707が会敵。海空封鎖発効前だったためハリアー側は発砲許可がおりず、写真撮影のみで両機撤収。
- 4月22日深夜:イギリス海兵隊特殊舟艇隊 (SBS)、サウス・ジョージア島にゴムボートによる偵察上陸を敢行するも一部が悪天候により上陸に失敗し、遭難。後にヘリにより救助された。
- 4月25日早朝:イギリス海軍タスクフォース艦載のウェセックス HU.5らヘリコプター部隊がサウス・ジョージア島沖合でアルゼンチン海軍潜水艦サンタフェを発見し攻撃、サンタフェは同日サウス・ジョージア島に擱座。乗組員はサンタフェを放棄し上陸後、イギリス軍に降伏した。
- 4月25日午後: イギリス海兵隊がサウス・ジョージア島に上陸しこれを奪回する。同島のアルゼンチン軍守備隊は全員降伏した。
- 4月29日:アルゼンチン政府がアメリカによる調停案を拒否。
- 4月30日:イギリス、フォークランド諸島周辺の海空封鎖発効。
- 5月1日早朝:イギリス空軍、アセンション島より発進した第101飛行隊のバルカン爆撃機が長途飛来、諸島内のポート・スタンレーの飛行場への長距離爆撃を初実施し滑走路を破壊。
- 5月1日午前:イギリス海軍、空母ハーミーズ、インヴィンシブル艦載の第800,801飛行隊シーハリアー FRS.1が出撃。第800飛行隊のシーハリアー12機がポート・スタンレーとグース・グリーンの飛行場を空爆。
- 5月1日午後:イギリス海軍、駆逐艦グラモーガン、フリゲート艦アラクリティ、アローがポート・スタンレー飛行場周辺へ艦砲射撃を敢行。ペブル島のアルゼンチン海軍第4航空隊のビーチ T-34C-1 ターボメンター攻撃機3機が迎撃に出るも第801飛行隊所属のシーハリアー2機の迎撃により遁走。
- 5月1日夜:アルゼンチン空軍、第2グループ所属のキャンベラ爆撃機6機がイギリス海軍艦隊へ空爆をかけようと接近するもイギリス海軍、第801飛行隊所属のシーハリアー2機の迎撃を受け、2機が撃墜、残った機は攻撃を断念し撤収。
- アルゼンチン海軍、209型潜水艦サン・ルイス、フォークランド諸島北部海域に接近していたイギリス海軍艦隊のフリゲート艦ブリリアント、ヤーマスに魚雷攻撃を行うも失敗に終わる。
- 5月2日午後:フォークランド諸島南部近海にてイギリス海軍、原潜コンカラーがアルゼンチン海軍巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノを魚雷攻撃により撃沈する。
- 5月2日深夜:フォークランド諸島北部近海にてイギリス海軍のシーキングヘリコプターがポート・スタンレーよりパイロット捜索に派遣されていたアルゼンチン海軍の哨戒艇コモドーレ・ソメレーラ、アルフェレツ・ソブラルの二隻と会敵。直後に要撃に出たイギリス海軍のリンクスが二隻をシースクア対艦ミサイルで攻撃し、コモドロ・ソメレーナは撃沈された。アルフェレツ・ソブラルは大破、アルゼンチン本国へ自力で帰還。
- 5月3日深夜:イギリス空軍、アセンション島より発進した第55飛行隊のバルカン爆撃機が長途飛来、諸島内のポート・スタンレーの飛行場への長距離爆撃を再度実施するも飛行場への損害は与えられなかった。
- 5月4日:アルゼンチン海軍、第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機が空対艦ミサイル・エグゾセAM39の2発でイギリス海軍42型駆逐艦シェフィールドを攻撃、1発が命中しシェフィールドは炎上し総員退艦、12型フリゲートヤーマスに曳航されるも5月10日に沈没した。
- 対地攻撃を行っていたイギリス海軍の第800飛行隊所属のシーハリアー1機がアルゼンチン軍守備隊の対空機関砲により撃墜される。
- 5月5日:アルゼンチン政府がペレス・デ・クエヤル国連事務総長による調停案を受諾。
- アルゼンチン海軍、ベインティシンコ・デ・マヨ艦載のトラッカー哨戒機が潜航中の潜水艦らしき艦影(正体不明)を捉えた。ベインティシンコ・デ・マヨの対潜ヘリ部隊が対潜行動を取るも捕捉できず。以後ベインティシンコ・デ・マヨはアルゼンチン、バイア・ブランカに帰港し紛争終結まで出撃しなかった。
- 5月6日:イギリス海軍、インヴィンシブル艦載の第801飛行隊所属のシーハリアー2機が哨戒任務中に行方不明に(空中衝突による損失と見られているが詳細は不明)。
- 5月9日:イギリス海軍、第800飛行隊所属のシーハリアーが情報収集船として派遣されていたアルゼンチン籍の大型トロール漁船ナルワル号を攻撃、同船はイギリス海軍に拿捕されるも曳航中に沈没した。乗組員は全員捕虜となった。
- 5月10日:イギリス海軍、フリゲート艦アラクリティがフォークランド海峡にてアルゼンチン海軍の補給艦イスラ・デ・ロス・エスタドスを砲撃で撃沈する。
- 5月12日:アルゼンチン空軍、第5グループのA-4スカイホーク攻撃機部隊がイギリス海軍艦隊へ攻撃。42型駆逐艦グラスゴーに爆弾が命中するも不発に終わる。A-4スカイホーク4機が撃墜された。
- 5月14日:イギリスSAS D中隊45名がペプル島にシーキングヘリコプター2機で上陸し同島の飛行場を襲撃。飛行場に駐機してあったアルゼンチン機のすべてを爆破工作により破壊し滑走路を使用不能に。この攻撃でアルゼンチン側は海軍第4航空隊所属のプカラ攻撃機6機、ターボメンター軽攻撃機4機、沿岸警備隊のスカイバン輸送機1機を損失。
- 5月15日:イギリス空軍のニムロッド偵察機がアセンション島よりフォークランド諸島上空に飛来。アルゼンチン海軍の動向を偵察する。
- 5月16日:フォークランド諸島近海に侵入したアルゼンチン海軍輸送艦バイア・ブエン・スセソ、リオ・カルカナーラがイギリス海軍第800飛行隊所属のシーハリアーに発見され攻撃を受けた。両艦の乗員は共に艦を放棄して脱出した。
- 5月17日:イギリス海軍徴用コンテナ船アトランティック・コンベイヤーを含む補給艦隊が補給物資を機動艦隊に運搬。イギリス空軍、第1飛行隊所属のハリアー GR.3の6機が空母ハーミーズに合流、イギリス海軍第800,801飛行隊、補給のシーハリアーを4機ずつ受領。
- 5月19日:イギリスSASのチームを移送中だった シーキングが海鳥との接触事故で墜落、乗員22名が死亡した。
- 空母「ハーミーズ」より発艦した シーキングがチリのプンタ・アレナスに着陸。乗組員は全員チリ当局に出頭後、後にイギリスに帰国(SASのアルゼンチンに対する極秘作戦だったなど諸説あるが詳細は不明である。)
- 5月20日:アメリカ政府がKC-135空中給油機のイギリスへの貸与を決定。
- イギリス空軍、第1飛行隊所属のハリアー GR.3が西フォークランド島のアルゼンチン軍燃料集積所を空爆。
- 5月21日早朝:揚陸艦フィアレスを中核とした揚陸艦隊による上陸作戦を開始、イギリス陸軍空挺連隊、海兵隊コマンド大隊が東フォークランド島、サン・カルロスより上陸を開始した。
- イギリスSAS部隊40名が上陸部隊支援のためにグース・グリーンにヘリにより降下し、陽動作戦を開始。偵察飛行中だったアルゼンチン空軍第3グループのプカラ攻撃機1機をスティンガーミサイルで撃墜する。
- イギリス空軍第1飛行隊のハリアー GR.3がケント山近郊に駐機していたアルゼンチン陸軍のヘリコプター部隊を攻撃。チヌーク1機、ピューマ2機を破壊する。
- イギリス海軍、レイピアミサイルの空輸中だったシーキングヘリコプター1機と護衛のガゼルヘリコプター1機からなる編隊がアルゼンチン守備隊から銃撃を受け、ガゼルヘリコプター1機が撃墜。直後に飛来したガゼルヘリコプター1機も同じく銃撃を受け、撃墜された。
- イギリス空軍第1飛行隊のハリアー GR.3の1機がアルゼンチン陸軍の対空機関砲にて撃墜される。パイロットの空軍大尉は脱出後、アルゼンチン軍の捕虜となった(アルゼンチン本国に移送後、紛争終結後に無事帰国)。
- 5月21日午前:アルゼンチン海軍、第一航空隊所属のマッキ攻撃機がイギリス海軍のフリゲート艦アーゴノートをロケット弾と機関砲で攻撃、アーゴノートの損傷は軽微であった。
- アルゼンチン空軍、第6グループ所属ダガー攻撃機部隊が揚陸部隊を護衛する艦隊を攻撃、駆逐艦アントリムに爆弾が命中するも不発に終わった。ダガー数機が撃墜された。
- 5月21日正午:アルゼンチン空軍、第3グループのプカラ攻撃隊2機がイギリス陸軍橋頭保へ攻撃をかけるも艦隊の対空砲火と海軍第801飛行隊の攻撃で阻止、プカラ1機を撃墜する。
- 5月21日午後:アルゼンチン空軍、第6グループ所属ダガー攻撃機部隊がアーデントを攻撃し、爆弾2発が命中しアーデントは対空ミサイル発射機、主砲が損傷し使用不能になった。直後にアルゼンチン空軍5グループとアルゼンチン海軍第3航空隊所属A-4スカイホーク攻撃機隊がさらにアーデントを反復攻撃し、アーデントは爆弾計3発が艦尾で炸裂し大破され総員退艦の6時間後に沈没した。
- 5月22日: フォークランド諸島、チョイゼウル海峡を飛行中のイギリス海軍第801飛行隊のシーハリアー2機が補給物資輸送中だったアルゼンチン沿岸警備隊のパトロール艇リオ・イグアスを発見し機関砲で攻撃。リオ・イグアスは大破、炎上し放棄された。
- イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の4機がグース・グリーンのアルゼンチン軍陣地を空爆。
- アルゼンチン空軍、第1グループのボーイング707がフォークランド諸島北のイギリス海軍艦隊を偵察。駆逐艦ブリストルとカーディフからシーダート対空ミサイルによる迎撃を受けるが回避、撤収。
- 5月23日:フォークランド海峡上空を哨戒中だったイギリス海軍、第801飛行隊所属のシーハリアーがシャグ・コーブ入江近くを低空飛行中のアルゼンチン軍ヘリ部隊4機(ピューマヘリ3機、アグスタ A109ヘリ1機で構成)を発見、接近時にピューマ1機が墜落した。残りの3機は強行着陸を行い、搭乗員は逃走した。残った3機はすべてシーハリアーの機関砲により撃破された。
- 5月23日午後:アルゼンチン空軍、第5グループとアルゼンチン海軍第3飛行隊所属のA-4攻撃機がイギリス海軍艦隊を攻撃。イギリス海軍、21型フリゲートアンテロープ(HMS Antelope) が爆弾2発を被弾、2発とも不発弾で炸裂はしなかった。A-4数機が艦隊の対空砲火と陸上からの対空ミサイルの迎撃で撃墜された。
- イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の3機がペブル島のアルゼンチン軍残存勢力に攻撃。
- アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機がフォークランド諸島東側に展開するイギリス艦隊へ対艦ミサイル空対艦ミサイル・エグゾセAM39による空襲をかけようとするも標的を捉えられず、帰還。
- 5月23日深夜:イギリス海軍、21型フリゲートアンテロープが船体に埋まった不発弾の信管除去作業中に爆発し、大破、沈没した。
- イギリス海軍第800飛行隊のシーハリアー4機がポート・スタンレー飛行場周辺のアルゼンチン軍陣地を空爆のために空母ハーミーズから出撃、その際、シーハリアー1機が海上に墜落し喪失した。
- 5月24日早朝: イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機とイギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の4機がポート・スタンレー飛行場のアルゼンチン軍陣地を空爆。
- 5月24日夜:アルゼンチン空軍、第2グループ所属のキャンベラ爆撃機編隊が東フォークランド島のサン・カルロス近郊に展開するイギリス陸軍に対して空爆。損害は与えられなかった。
- 5月25日早朝:アルゼンチン空軍、第2グループのリアジェット捜索機がサン・カルロスを高高度偵察。入江に展開する艦隊の位置を把握する。
- 5月25日午前:アルゼンチン空軍、第4、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機編隊がサン・カルロス入江近辺に展開するイギリス海軍の揚陸艦隊を攻撃。激しい迎撃で損害は与えられず、数機が対空砲火で撃墜された。内、パイロットのアルゼンチン空軍中尉が脱出後、イギリス海軍揚陸艦「フィアレス」に収容され、捕虜となった。
- 5月25日午後:アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機編隊がペブル島沿岸に展開していたイギリス海軍艦隊を発見し、攻撃。イギリス海軍、駆逐艦コヴェントリーが爆弾3発を受け命中し、炸裂し撃沈された。フリゲート艦ブロードソード、不発の爆弾1発が海面を反跳し飛行甲板を下方向から斜めに貫通、艦載ヘリコプターのリンクスを破壊。
- アルゼンチン海軍、第2航空隊、シュペルエタンダール攻撃機2機がフォークランド諸島北東海域に展開中の艦隊を空襲、空対艦ミサイル・エグゾセAM39の2発を発射する。イギリス海軍徴用コンテナ船アトランティック・コンベイヤーに1発が命中し大破炎上、積載していたチヌーク、ウェセックス、リンクスなどのヘリコプター計10機とトラック等の車両十数台、爆弾や航空機部品など大量の補給物資が失われた。アトランティック・コンベイヤーは曳航されるも30日に沈没した。
- ガルチェリ大統領はそれまで反共の理念で敵対していたキューバのフィデル・カストロ首相に、キューバがアルゼンチンの立場を支持したことに対して感謝の書簡を送った。
- 5月26日早朝:サン・カルロスに上陸していたイギリス陸軍がフォークランド諸島各所に進出を開始。陸軍空挺連隊第2、第3大隊はそれぞれグースグリーン方面と西のティール入江方面へ、海兵隊第42コマンド大隊はポート・スタンレー方面に進撃。
- 5月27日午前:アルゼンチン空軍、第2グループのリアジェット捜索機が陸上に展開するイギリス軍を偵察。
- イギリス陸軍、第2空挺大隊の航空支援を行っていたイギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の1機がアルゼンチン陸軍の対空機関砲により撃墜される。パイロットは脱出後、数日民家に身を潜めた後、イギリス軍のヘリコプターにより救助された。
- 5月27日午後:アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機2機がサン・カルロス近郊のエイジャックス・ベイに展開していたイギリス陸軍の資材集積所、および戦時病院として利用していた冷凍食品工場周辺を空爆。損害を与えた。スカイホークの1機が迎撃により撃墜。パイロットは脱出後、民家で食糧を調達しながら徒歩で移動し数日後にアルゼンチン軍に救助される。
- 5月28日:アルゼンチン空軍、第3グループのプカラ攻撃機部隊がグースグリーンに進撃中のイギリス陸軍空挺部隊へ通常爆弾やナパーム弾による反復攻撃を行い、途中イギリス陸軍のスカウトヘリを機銃で撃墜。イギリス軍空隊部隊のブローパイプ対空ミサイルや機関銃、小銃の対空砲火でプカラ攻撃機数機が喪失した。
- アルゼンチン海軍、第一航空隊所属のマッキ攻撃機1機がポート・スタンレーより出撃し、グースグリーンに進撃中のイギリス陸軍空挺部隊への阻止攻撃を行うもイギリス軍空隊部隊のブローパイプ対空ミサイルで撃墜される。
- 5月29日早朝:グース・グリーンのアルゼンチン陸軍守備隊が降伏した。イギリス陸軍空挺連隊第2大隊がポート・ダーウィンとグース・グリーンを占領。
- 5月29日: イギリス海軍、空母インヴィンシブル艦上にて発艦準備中だった第801飛行隊のシーハリアーが甲板から落下し喪失、パイロットは脱出した。
- フォークランド諸島北部で補給物資輸送中のイギリス海軍徴用の貨物船ブリティッシュ・ウェイがアルゼンチン空軍第1グループ所属のC-130改造爆撃機から空爆を受ける。爆弾8発中1発が命中するも不発で船体で弾き飛ばされ、損傷は軽微だった。
- 5月30日:アルゼンチン陸軍記念日の演説に際し、ガルチェリ大統領が「必要なら世界の他の地域(東側諸国を意味)からの支援を要請する」旨を言明。
- 5月30日午後:イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の1機が攻撃から帰還中に戦闘による被弾による損傷が元で墜落、パイロットは救助された。
- 5月30日深夜:ケント山に展開していたイギリス陸軍SASチームとケント山奪還のために派遣されたアルゼンチン陸軍のコマンド中隊がケント山北東部で衝突。翌日早朝にアルゼンチン軍コマンド部隊奪還を諦め撤収。
- 5月31日:イギリス空軍、アセンション島より発進したバルカン爆撃機が長途飛来。ポート・スタンレーのアルゼンチン軍射撃統制レーダー施設へシュライク対レーダーミサイルにて攻撃。損害はほとんど与えられず。
- 6月1日早朝:アルゼンチン空軍、第2グループ所属のキャンベラ爆撃機4機がイギリス軍のサン・カルロス陣地へ攻撃をかけるもイギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアーの迎撃を受けて攻撃を断念し、撤収。
- アルゼンチン空軍、第1グループ所属のC-130輸送機1機がポート・スタンレーへの輸送任務を終えて帰還中に独断でサン・カルロス周辺をレーダーで偵察。イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機が迎撃。C-130は対空ミサイルと機関砲により撃墜される。
- イギリス空軍、ハリアー GR.3の2機がアセンション島より空中給油で長距離飛行を敢行し空母ハーミーズに飛来、第1飛行隊に合流する。
- 6月1日午後:イギリス海軍、第801飛行隊のシーハリアー1機がポート・スタンレー上空の哨戒任務中にアルゼンチン軍のローランド対空ミサイルにより撃墜、パイロットは海上でイギリス軍により救助された。
- 6月2日:ガルチェリがソ連およびワルシャワ条約機構諸国の援助を受け入れることを示唆する。
- サン・カルロスにイギリス軍の工兵隊が建築したハリアー用の臨時飛行場が完成。
- イギリス陸軍、空挺部隊2個中隊がフィッツロイ周辺の占拠のため、フィッツロイ8km西にシヌークヘリコプターで降下。
- 6月3日:イギリス空軍、アセンション島より発進したバルカン爆撃機が長途飛来。ポート・スタンレーのアルゼンチン軍射撃統制レーダー施設へシュライク対レーダーミサイルにて再攻撃を開始、射撃統制レーダーに大きな損傷を与えた。攻撃を行ったバルカン爆撃機は帰還中に空中給油機のトラブルからアセンション島への帰還が不可能になり、急遽ブラジル、リオデジャネイロの飛行場に緊急着陸した。イギリス、ブラジル間の交渉により、このバルカン爆撃機は搭乗員と共に6月11日にアセンション島に帰還。
- 6月5日:サン・カルロスのハリアー用の臨時飛行場が稼働を開始した。イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機とイギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3の2機が飛行場に到着する。
- 6月7日:アルゼンチン政府が国連の撤退提案を拒否。
- イギリス海軍、揚陸艦フィアレス、イントレピッドを中核とした揚陸艦隊がフィッツロイ上陸のために同海域に進出を開始する。
- 6月7日朝:アルゼンチン空軍、第2グループのリアジェット捜索機4機がサン・カルロス上空を高高度偵察。イギリス海軍、駆逐艦エグゼターのシーダート対空ミサイルによる迎撃により、リアジェット捜索機1機が撃墜。
- 6月8日早朝:サン・カルロスの臨時飛行場にてイギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3の1機が偵察より帰還した際にエンジンの不調で着陸に失敗、墜落。一時的に滑走路が使用不能に。
- イギリス陸軍フィッツロイ上陸を開始。アルゼンチン陸軍、イギリス軍のフィッツロイ上陸を察知し、空軍による攻撃を伝達。
- 6月8日午前:アルゼンチン空軍、第5グループ所属ダガー攻撃機5機がフィッツロイに展開するイギリス海軍揚陸艦隊を攻撃、イギリス海軍フリゲート艦プリマスに爆弾4発が命中(すべて不発)し、さらに搭載していたヘリコプター積載の爆雷が爆発、大破炎上するも沈没を免れた。
- アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機5機がフィッツロイに展開するイギリス海軍揚陸艦隊を攻撃、イギリス海軍補給揚陸艦サー・ガラハドは爆弾が直撃し大破炎上、撃沈された。補給揚陸艦サー・トリストラムも爆弾が直撃し大破された。両艦合わせてイギリス軍兵士51名が戦死、46名が負傷した。
- 6月8日午後:アルゼンチン空軍、第4グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機4機がフィッツロイへ空爆に来襲するも陸上にイギリス軍が設置していたレイピア対空ミサイルと機関銃による迎撃を受け、損傷し撤収。
- 6月9日:アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンがイギリス支持を再度表明。
- 6月10日:イギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3数機がフォークランド諸島各所のアルゼンチン軍陣を偵察。
- 6月11日:イギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3とイギリス海軍、第800、第801飛行隊のシーハリアーらがポート・スタンレーのアルゼンチン陣地を重点爆撃。
- イギリス陸軍、ポート・スタンレー周辺をほぼ包囲。
- 6月12日:ポート・スタンレーのアルゼンチン軍守備隊が補給物資として受領していた艦対艦ミサイル・エグゾセMM38をトレーラーを改造した発射機にて陸上から発射。イギリス海軍、カウンティ級駆逐艦グラモーガンの後部甲板に命中(不発)し中破、甲板上のウェセックス・ヘリを破壊し死者13名、負傷者17名を出した。
- 6月13日午後:アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機7機がケント山に展開するイギリス陸軍第3コマンド旅団の司令部陣地を空襲。駐機していたイギリス陸軍のヘリコプター数機が損傷した。
- イギリス陸軍、イギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3と連携しレーザー誘導爆弾によるアルゼンチン軍陣地の空爆を実施する。
- 6月13日夜:アルゼンチン空軍、第2グループ所属のキャンベラ爆撃機編隊が爆撃に来襲するもイギリス海軍、駆逐艦エグゼターのシーダート対空ミサイルによる迎撃により、1機が撃墜され、撤収された。
- イギリス陸軍と海兵隊、ポート・スタンレーへ北部、中央部、南部の三方からの全面攻撃を開始。ポート・スタンレー周辺各所にてアルゼンチン陸軍守備隊と激しく交戦した。
- イギリス陸軍SASのD中隊、G中隊系60名とSBS6名が高速ボート4隻でポート・スタンレー港を急襲。銃撃で燃料タンクを爆破するもアルゼンチン軍駐在部隊の銃撃に上陸を阻止され、撤収。
- 6月14日早朝:イギリス陸軍第二、第三空挺大隊がポート・スタンレー北部のワイアレス・リッジを制圧する。
- 6月14日午前:イギリス陸軍スコットランド近衛大隊、イギリス海兵隊第45大隊、グルカライフル部隊の混成部隊がダンブルダウン山のアルゼンチン軍陣地を突破。イギリス陸軍ウェールズ近衛大隊がハリエット山のアルゼンチン軍陣地を突破し、サッパー高地を制圧する。
- 6月14日正午:イギリス陸軍がポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)から1kmの地点まで接近。アルゼンチン軍守備隊、総司令官マリオ・メネンデス准将が降伏宣言。これによりフォークランド諸島のアルゼンチン軍守備隊すべてが降伏した。
- 6月15日:ガルチェリ大統領は戦闘終結を正式に宣言したが、「主権はあくまでもアルゼンチンにある」と述べて「イギリスが再び植民地化の動きをみせるなら戦いをやめない」と主張した。
- 6月16日:アルゼンチンの外相と内相がガルチェリ大統領に抗議し辞表を提出、ガルチェリ大統領は辞表受け取りを拒否した。
- 6月17日:ガルチェリ大統領が敗北の責任を問われ、大統領及び陸軍総司令官を辞任した。
戦後・影響
アルゼンチン
アルゼンチンでは、ガルチェリ大統領が建国以来はじめての敗戦の責任を問われて大統領及び陸軍総司令官を辞任し、失脚した。退役陸軍中将のレイナルド・ビニョーネが大統領に就任したが、戦争初期は軍とペロニスタも挙国一致の下に和解し、「海賊英国」、「ガルチェリ万歳」を連呼していたアルゼンチン国民も、この敗戦にかつてないほどの反軍感情を高まらせ、すぐに急進党(旧急進党人民派の流れを汲む)のラウル・アルフォンシンに政権交代が行われて民政移管が完了した。ガルチェリ大統領は「銃殺刑に値する」と言われたが、結果的には懲役12年で済み、ビデラなどの他の軍人と共に1990年に軍と取り引きした大統領カルロス・メネムの特別恩赦によって釈放された。アルゼンチン軍の司令官で「汚い戦争」を指導して多くの市民を秘密裏に殺害したマリオ・メネンデスは「敬虔なカトリック教徒なので自殺は出来ない」と述べ、多くの少年兵が死んだのとは対照的に責任を逃れた。なお、降伏した1万人以上のアルゼンチン軍兵士はウルグアイ経由でアルゼンチンに送還された。この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、この回復は文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀の初めから続いていたチリやブラジルとの軍事対立も急速に収まっていった。一方で敗北した軍は政治力を弱めて大幅に削減され、開戦前には三軍で15万5000人程だったアルゼンチン軍は2000年には三軍で7万1000人程になっている。
また、イギリスがNATOやECの一員として他の加盟国へ協力を依頼し、これを受けて白人国家アルゼンチンの多くの市民の先祖が住むイタリアや西ドイツ、スペインなどのEC加盟国はアルゼンチンへの経済制裁を発動した。
イギリス
多くの艦艇を失い、255人の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前不人気をかこっていたサッチャー首相の人気が急上昇した。それまで不人気だったサッチャー首相は続投し、戦勝によって勢い付いた新自由主義的な改革はイギリス経済を復活させた。
また、それまで「二等市民」扱いされていたフォークランド島民もイギリス本土政府から丁寧に扱われるようになり、イギリスとチリからの投資で島の経済やインフラストラクチャーは発展した。紛争前には少数の部隊しか駐留していなかったが、紛争後には最小限の防空部隊を配備しなければならず、F-4M装備の第23飛行隊を派遣した穴埋めの為、アメリカ海軍で余剰になったF-4Jの中古機を購入している(後にトーネードF.3に交代)。
戦後の両国関係
その後も両国の国交断絶状態が続いたが、1986年6月22日に行われたFIFAワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝でサッカーアルゼンチン代表がディエゴ・マラドーナらの活躍によりイングランドチームに2対1で勝利し、敗戦の屈辱が残るアルゼンチン国民を熱狂させた[28]。
1989年10月にアルゼンチンとイギリスは開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌1990年2月5日、両国は外交関係を正式に回復した。しかし、現在も互いに自国の領有権を主張し続けている。
戦後、イギリスは戦死したアルゼンチン兵の遺骨返還を申し出たが、アルゼンチン政府は諸島へのイギリスの主権を追認することになるとして拒否している。フォークランドのダーウィン墓地には、アルゼンチン兵の墓が237基あり、うち123基は身元不明。戦友の墓参に島を訪れた帰還兵の呼びかけをきっかけに、両国政府は2016年12月に身元確認では合意。赤十字国際委員会が遺骨の発掘とDNA型鑑定を2017年中に終えて最終報告書をまとめる予定であるが、アルゼンチン国内では遺骨返還への異論が依然根強い[29]。
評価と戦訓
海戦
アルゼンチン軍
水上艦
開戦当初、アルゼンチン海軍は空母、駆逐艦、揚陸艦、潜水艦など、主力艦艇を活用して揚陸作戦を展開し、フォークランド諸島を掌握することに成功した。しかし、イギリスの海上封鎖発効後に到着したイギリス海軍の機動艦隊に対する空母、巡洋艦、フリゲートによる波状攻撃計画があったものの、空母ベインティシンコ・デ・マヨの不調による作戦の破綻と巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノの撃沈により頓挫した。
主力艦艇が大陸棚にくぎ付けになっている間も、フォークランド諸島への海上輸送や撃墜されたパイロットの救助等のために輸送艦や哨戒艇、沿岸警備隊のパトロール艇が活動していたが、イギリス海軍のシーハリアーやヘリコプター、フリゲート艦の攻撃に晒された結果、最終的に3隻の輸送艦、2隻の哨戒艇、1隻のパトロール艇が失われた。
潜水艦
サンタフェ (A.R.A. Santa Fe) は4月2日にコマンド上陸支援を行い成功裏に帰還したが、4月25日にサウスジョージア島付近を水上航行中にイギリス海軍のヘリコプターに発見されロケット弾攻撃などで損傷、座礁し、乗組員は上陸後降伏した。
ドイツ製209型潜水艦であるサンルイス (A.R.A. San Luis) はフォークランド諸島北方海域で哨戒活動を行い、何回かの魚雷による攻撃を行ったとされる。このうち5月1日にはブリリアント、ヤーマスを魚雷攻撃したが命中せず、逆に20時間にわたって追跡と攻撃を受けたが無事逃げることに成功した。5月8日には潜水艦目標に対し、また5月10日にはアロー、アラクリティに対し魚雷攻撃を行ったが失敗した。これらの失敗は、魚雷の調整失敗などによるとされる。その後もサンルイスは終戦まで海域にとどまったため、イギリス海軍はサンルイスの存在に多くの注意を払い続けねばらず、その行動を大きく制限されることになった[30]。
総括
艦艇に膨大な損害を受けたイギリス海軍とは対照的に、アルゼンチン海軍の最終的な大型水上艦損失は巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノがイギリスのチャーチル級原子力潜水艦コンカラーに魚雷で撃沈された(これは原子力潜水艦が史上初めて実戦で戦果をあげたものとなった)だけで、他には小型の哨戒艇や輸送艦などが撃沈破されたのみであった。
イギリス軍
イギリス海軍はアルゼンチン軍の航空機によるエグゾセ・ミサイルと通常爆弾による度重なる攻撃で多くの艦艇を撃沈され、これらの攻撃に対する決定的な対策を打てないままに損失を重ねることとなった。さらに、アルゼンチン軍のスカイホーク、ダガー部隊による低空艦船攻撃を受けた際には、早期警戒機がないことにより防空システムが十分に機能せず、21型フリゲートアンテロープとアーデント、揚陸艦サー・ガラハドなどを撃沈され、多数の艦船に損害をうけた。結果として、アルゼンチン軍による果敢な攻撃に翻弄されたイギリス海軍は駆逐艦2隻、フリゲート2隻、揚陸艦1隻、運搬空母として使用されていたコンテナ船1隻の計6隻を失った。ちなみに、敗北したアルゼンチン海軍の大型艦艇の損失をみると、イギリスのチャーチル級原子力潜水艦コンカラーに魚雷で撃沈されたヘネラル・ベルグラーノの1隻だけに終わった。
他方、この戦争の勝敗に大きな影響を与えた5月21日の揚陸作戦においては、イギリス海軍は膨大な損害を出しつつもその作戦目的を十分に果たしたと言える。その際、多数の護衛艦船に被害が生じたが、揚陸部隊にはほとんど損害を出さないまま揚陸作戦を成功させているためである。ただし、その成功もアルゼンチン軍側の戦略ミスによるものであった。
- 損失の原因
イギリス海軍に生じた損失の原因は、派遣した艦隊の防空能力のミスマッチ、特に対空火器と、艦載機性能が、アルゼンチン軍の攻撃に対しマッチしなかったことである。その結果、本土より空母(ハーミーズとインヴィンシブル)を派遣したが、アルゼンチン軍の航空機や潜水艦の攻撃による損害を考慮し、フォークランド諸島の東のかなり離れた海域にとどまらざるを得なくなった。
具体的には、対空火器については、実際、揚陸艦隊の護衛や艦砲射撃にフォークランド諸島に接近することとなった駆逐艦、フリゲート艦には対空ミサイルなどの誘導兵器は装備されていた。しかし、その多くは、旧式で対応力が低いシースラグ・ミサイルや、手動で誘導を行うシーキャット・ミサイルであり、これらは命中率が低かった。高高度に対する防空火器としては非常に有効となるシーダート・ミサイルも装備されていたものの、超低空で接近するアルゼンチン軍機に対しては有効な対抗策とはならなかった。なお、当時新型であった近接防空兵器のシーウルフ・ミサイルを装備している艦は22型フリゲートブロードソード、ブリリアントとリアンダー級フリゲートアンドロメダのたった3隻であり、絶対数が不足していた。
このような状況下でイギリス海軍各艦は、デッキの手すりなどに軽機関銃を装着できるように現地で改造を行うなどして急場の対空火器の増強を行うこととなった。
艦載機による防空は、シーハリアーが担当したものの、開戦時はわずか20機に過ぎず絶対数が不足していた。しかもシーハリアーは戦域でのCAP時間も短くなる不利を抱えていた。もともとSTOVL機であり滞空時間も短く、さらにフォークランド諸島から空母が離れていたためである。
特に5月21日から25日、6月8日のアルゼンチン軍の攻撃機による通常爆弾による攻撃では、西側に島影があり、また十分な回避行動がとれない海峡内あるいは湾内にいたこともあって、損害を大きくした。
なお当時の報道では、イギリス艦艇の艦橋の構造物はアルミニウム合金製が主流であり、炎上し易いという弱点を露呈したとされたが事実とは異なる。エグゾセにより沈没した42型駆逐艦シェフィールドはアルミニウム製上構ではなかった。シェフィールドに命中したエグゾセは不発だったが、残っていた燃料による火災が塗料および電線被覆に延焼し、被害を拡大、消火作業を阻害したとされる。また、アルミニウム製上構だった21型フリゲートでも、アルミニウム製上構の脆弱性が大きな原因で沈没した艦船はない。21型フリゲートで沈没したアーデント、アンテロープとも船体への爆撃浸水被害および不発弾処理失敗が沈没原因であった。
航空戦
アルゼンチン軍
アルゼンチン空軍の航空戦力は質の面で不十分であった。アルゼンチン軍のダガーは、空中戦となると最新式の電子装備を持ち機動性に優れるイギリス軍の空母から飛来するハリアーに対抗できなかった。なお、シュペルエタンダールに搭載したエグゾセ空対艦ミサイルは有効ではあったものの、5発しか保有していなかった。
さらに、アルゼンチン空軍にとって、主戦場となったフォークランド諸島とアルゼンチン本土の距離が問題となった。その距離は、低空飛行での作戦行動半径の限界に近く、大きな制約となったのである。また、アルゼンチン空軍の通常時の主な任務は、隣国のチリ(それ以前および紛争時に緊張状態にあった)などに対する本土防衛であった。そのため、アルゼンチン軍には空中給油機が2機しかなかった。上記空中給油機が稼働したとしても、ダガーやミラージュはもそもそも空中給油受油装置を持っていなかった。さらに、本戦争当時、アルゼンチン海軍は空母ベインティシンコ・デ・マヨを保有していたものの、機関部の不調から搭載機の発艦ができず、さらに潜水艦の攻撃による損害を恐れて母港に帰還してしまった。しかも、フォークランド諸島の空港は長距離の滑走路が必要なミラージュなど戦闘機の利用には向いておらず、フォークランド諸島に配備できた航空機はプカラなどの軽攻撃機に限定されてしまっていた。
これらの状況から、ダガーやミラージュは、フォークランド諸島上空で積極的な空中戦闘を行うには航続距離が十分でなく、増槽を装着してもフォークランド諸島上空に留まれるのはわずか十数分程度だった。その結果、アルゼンチン側からの航空攻撃は少数機による五月雨式の攻撃となり、イギリス側が恐れたような多数機による同時攻撃は行われなかった。アルゼンチン側は、イギリス海軍艦船を目標とする攻撃においても、探知を避ける為に超低空で艦隊に接近することを繰り返したが、超低空飛行により更に燃費を悪化させてしまい、運用面からも戦闘行動半径を短くしてしまう結果となった。その上、本戦争の直前に国境付近で緊張状態にあった上述のチリに対してもイギリスとの戦争のどさくさにまぎれて攻撃してくる懸念から、ある程度の兵力を本土防衛に控置しておく必要もあった。
他にも艦船攻撃に用いたエグゾセ対艦ミサイルや500ポンド爆弾の不発率が異常に高かった。これは、エグゾセを当時導入したてであったアルゼンチン海軍では、フランス側の技術者による説明が十分でない段階での使用を強いられていたためであった。実際、マニュアルがすべてフランス語だったため、パイロットと整備員らの負担は激増し、シュペルエタンダール攻撃機のサポート要員として派遣されていたダッソー社の技術者の協力によって搭載、運用することができたという。爆弾の不発は、対地用の調整のままで使用したものが多かったため、対空砲火を潜り抜けようと超低空で投下したことにより、安全装置が外れなかったことが主な原因であった。
アルゼンチン本土から爆撃任務を受けたキャンベラ爆撃機や、フォークランド諸島に配備されていたプカラ攻撃機やターボメンター軽攻撃機も有効な打撃を与えられなかった。これらの航空機は、ミラージュやダガーと比べて機動性が遥かに低く、イギリス海軍艦艇のシーダードミサイルやシーハリアーの要撃、陸軍のブローパイプ対空ミサイルによって撃墜されるか、爆撃前に遁走を強いられるケースがほとんどであった。
全体としてアルゼンチン軍は、航空戦力を攻撃目標に対して対応させる準備が不足したまま開戦に踏み切ったことが明らかになっており、そのことによる装備不足や運用のまずさが露呈した。
これらの点がありつつも各局面において、アルゼンチン空海軍は、航空機による攻撃を活かし、多数のイギリス海軍艦艇を撃沈した。特に5発のフランス製の空対艦ミサイル・エグゾセをシュペルエタンダール攻撃機から発射し、そのうち2発を命中させることにより、イギリスの42型駆逐艦シェフィールドと臨時空母として使用されていた徴用コンテナ船アトランティック・コンベイヤーとを沈没させた。
さらにアルゼンチン軍のスカイホーク、ダガー部隊は、対空砲火と早期発見を避けるために低空飛行で爆弾を投下し、前述のように信管調整の失敗から不発弾もきわめて多い中、21型フリゲートアンテロープとアーデント、揚陸艦サー・ガラハドなどを撃沈するなど、多数の艦船に損害を与えた。
空軍第1グループのC-130などの輸送機部隊は、視界の悪い夜間や悪天候時に出撃し、低空飛行でイギリス側の防空網をかい潜ってフォークランド諸島のアルゼンチン部隊への輸送を60回以上も成功させ、補給物資、野砲、対艦ミサイルの搬入や負傷者、捕虜の本国への輸送を行った。
このように、アルゼンチン空海軍は、個人個人の技量は非常に高かったにもかかわらず、部隊として統制がとれた攻撃はできていなかった。イギリス軍に多くの損害を与え、機動部隊の行動に一定の制約を与えたとは言えるものの、イギリス海軍艦船の対空砲火やソフト面で優れたシーハリアーを相手に、多くの被撃墜機も出し、攻撃も護衛艦船に集中し揚陸部隊への攻撃がほとんど行われなかった。これらの結果、最も重要なイギリス軍による逆上陸の阻止に失敗した。
なお、アルゼンチン軍が使用したエグゾセやそれを搭載したシュペルエタンダールなどの本戦争における戦果は、戦後フランスによる自国製兵器の販売促進に大いに利用された。また、ミラージュ5のイスラエル製無断コピー品であるダガーは、中東戦争以外で初めてアルゼンチン軍により実戦投入された。
イギリス軍
本戦争における航空機の運用目的は、アルゼンチン軍が主に艦船への攻撃であるのに対し、イギリス空海軍は、主としてアルゼンチン軍機からの自国艦船の防御と地上目標の破壊であった。イギリスは電子装備では勝っていたものの、本国から長距離の遠征先での戦いを強いられたため、数の上で圧倒的に不利であった。
具体的なイギリス軍艦船の防御をみると、ハリアーは当初空母ハーミーズに12機、インヴィンシブルに8機の計20機しか搭載がなかったため、攻撃任務に使われると防空を担う機体が不足した。このため、後に徴用したコンテナ船で8機が増派された。また、シーハリアーでは滞空時間が短かく有効な迎撃態勢が整わなかった。さらに早期警戒機を展開できず、超低空で艦隊に接近するアルゼンチン軍の攻撃機を見つけられなかった。この状況から、イギリスは艦載機による即応態勢を整えられず、アルゼンチン軍機による攻撃の阻止は不十分となり、艦隊の外周に配置していたレーダーピケット艦が被害を受けることが多かった。このために、シーハリアーを搭載していたハーミーズとインヴィンシブルの展開も攻撃を恐れ後方に終始せざるを得ず、地上目標の攻撃に影響を及ぼした。なおイギリス空軍のハリアー GR.3は、増援部隊としてコンテナ船や空輸により運ばれたもののレーダーを装備しておらず、対地攻撃など近接航空支援に専念し空対空戦闘は行っていない。結果的には、イギリス艦艇は膨大な被害を出すこととなった。
航空機同士の戦闘をみた場合、両軍がともに西側の航空機と装備、兵器を使用してはいたもののイギリス軍の方がより新しく、結果、機体の速度や旋廻性能といった性能より、近代戦における電子装備の重要性が明らかとなった。具体的には、アルゼンチン軍機が狭い作戦行動半径のために本格的な空戦を行う余裕がなかったこと、および空対空戦闘よりも対艦攻撃に専念していたことを考慮しても、ハリアーの23対0(イギリス軍発表)という一方的な撃墜スコアに如実に現われていた。なお、アルゼンチン側も空中戦での戦果が無いことは認めている。特に空対空ミサイルの性能差は歴然としており、旧式のミサイルのため、敵機後方に占位しなければロックオンが出来なかったアルゼンチン軍機に対し、アメリカから購入しイギリス軍機の使用した最新式のサイドワインダーAIM-9Lでは限定的ながら正面からのロックオンが可能であった[31]。
地上戦
当初アルゼンチン軍はほぼ無傷でフォークランド諸島を制圧した上、イギリス海軍艦艇に膨大な損害を与えたにもかかわらず、パタゴニアなどに展開していたアルゼンチン陸軍の精鋭部隊が、当時国境紛争を繰り返していたチリとの戦争に備えて待機していたため、その後のイギリス陸軍やイギリス海兵隊の上陸に備えて陸上部隊を増強することができなかった。
フォークランド諸島に展開したアルゼンチン陸軍は新兵を主体としていた上、数の上でも勝っていたわけではなかった。しかしアルゼンチン兵士の創意工夫によって、イギリス軍は著しい損害を被った。とりわけ、サウス・ジョージア島での攻防では、イギリス海兵隊は敵陣にたどり着くまでに多くの犠牲者を出した。これは、本来は陣地戦での攻防や対車両用に用いられるブローニングM2重機関銃にスコープを載せ、遠距離から狙撃したもので、本格的な大口径対人狙撃の始まりとなった。
これに対しイギリス軍兵士の手持ちのL1A1ライフルなど、自動小銃や軽機関銃はまったく射程が足りず、対抗するためにミラン対戦車ミサイルをもって更なる遠距離から機関銃陣地への攻撃を行った。この戦訓は戦後秘匿されたが、一時は存在意義を失っていた対戦車ライフルが『対物ライフル』として見直される等、各国では、陣地攻撃用の携帯兵器の開発を促すきっかけとなった[32]。
統合作戦
冷戦終結までのイギリス軍において複数の軍種による協同のための恒常的な組織は設置されておらず、必要が生じるつどその場限りで3軍いずれかの司令官が協同作戦の司令官を務める体制であった[33]。フォークランド紛争もその例外ではなく、さらに当時のイギリスにはフォークランド諸島での不測事態への備えが存在していなかった。3軍協同作戦の司令官に任命された海軍艦隊司令官は、急遽、地中海で実施される演習への派遣部隊を指揮していた海軍少将を戦域における全兵力の前線指揮官に充てた。しかし、海軍少将は過大な兵力を指揮する負荷を担わされることになった[34]。戦場から1万キロメートル以上はなれたイギリス本国は、前線に対し広範な政治統制と作戦指導を企てた。この過程で前線指揮官は本国との調整に多くの労力を割くことを強いられ、かたや本国の政府や国防省も議会およびメディアに状況を知らせるために詳細な状況報告を求めたことで、前線と本国の間に大容量かつ長時間の通信が必要とされ、意思決定に遅延を招いた[35]。多くの協同作戦が紛争中に実施されたが、その際、協同作戦能力の不足に起因する誤射事件さえ発生した。
こうしたフォークランド紛争の教訓が生かされるようになったのは、ようやく冷戦終結後に至ってのことであった。冷戦終結後、平和の配当への要求と財政難を踏まえて、イギリス軍に対しても経費を削減する一方でいっそうの効率性が求められるようになった。その過程で示されるようになった方向性は、政策と運用の分離による作戦の効率性の追求であり、国防省本部の役割は前者に限定されるようになった。この方向性のもと、政策および軍事戦略と軍事作戦との間の明確な責任範囲と関係形成が求められた。また、3軍の恒常的な統合作戦への備えとして、計画・準備段階から、危機に際しての作戦遂行、戦力回復、事後の戦訓の蓄積までを一貫して担わせる組織の設立が支持された[36]。こうした協同から統合への方向性は、情報通信技術の革新、統合化による効率性の追求、3軍の固定的な区分に由来する国防能力発揮への障害が認識されたことといった、社会の変革によって促進され[37]、常設統合司令部の設置による恒久的な統合作戦のための体制がとられるようになった。
現在
2001年にアルゼンチンはデフォルト(債務不履行)に陥った[38]。アルゼンチン政府は保護主義政策をとり輸入制限を行うが、アメリカ・EU・日本はWTOに提訴し、摩擦が起こった[38]。
中華人民共和国とアルゼンチンの軍事的接近
中華人民共和国の中国共産党の首脳陣は2011年12月にアルゼンチンを訪問し、「中国のアルゼンチン支持は不変だ」と表明した[38]。2012年6月にも同国の競争部がアルゼンチンを訪問し、「マルビナス(フォークランド)諸島の領有権についてアルゼンチン側の主張を支持する」と主張し、アルゼンチンのフェルナンデス大統領は感謝の意を表明した[38]。
2012年7月、アルゼンチンのブリチェリ国防相が中華人民共和国を訪問し、中国人民解放軍の主力戦闘機として開発中の第五世代ステルス戦闘機「殲-20」購入にも言及した[38]。また、アルゼンチンは、中華人民共和国とベトナムやフィリピンの間で問題になっている南シナ海における領有権について、中華人民共和国を支持すると表明した[38]。
このような中華人民共和国とアルゼンチンの協力関係を背景にしたイギリス側の報告書では、「イギリスの軍事予算削減によってフォークランド防衛は弱体化し、中華人民共和国からの軍事的及び財政的支援を受けたアルゼンチン軍に奪われた場合、奪還は極めて難しい」と発表している[38]。
尖閣諸島問題との関係
近年、日本と中華人民共和国との間で発生している尖閣諸島問題において、両国ともにこのフォークランド紛争を先行事例として研究している[38]。
教皇フランシスコとの関係
2013年3月15日にイギリスは、バチカン市国の元首にアルゼンチン人が就任したことに警戒感を示し、デーヴィッド・キャメロン首相は「フランシスコ教皇聖下には、先頃行われたフォークランド諸島の帰属に関する住民投票の結果を尊重するように」と、釘を刺した[39]。
脚注
- ↑ 以下はフォークランド諸島で記載を統一
- ↑ 世界的には「紛争」よりも「戦争」に該当する呼び名が用いられることが多い。
- ↑ en:Falklands War
- ↑ South Atlantic/Falkland Islands - British Army Website
- ↑ このほか、1598年にはオランダ人のSebald de Weertがこの島を訪れ、当時オランダではこの島をSebald島となづけた。
- ↑ 五月革命 (アルゼンチン)参照
- ↑ en:Reassertion of British sovereignty over the Falkland Islands (1833)
- ↑ アドミラル・グラーフ・シュペー
- ↑ 「カンバーランド」
- ↑ 『サッチャー回顧録』 221頁 ISBN 4-532-16116-9
- ↑ “国連広報センター 国際憲章”. 国連広報センター. . 2008閲覧.
- ↑ 『サッチャー回顧録』 222頁 ISBN 4-532-16116-9
- ↑ 『サッチャー回顧録』245頁 ISBN 4-532-16116-9
- ↑ 『サッチャー回顧録』260-261頁 ISBN 4-532-16116-9
- ↑ 15.0 15.1 サンデー・タイムズ特報部編、宮崎正雄訳『フォークランド戦争 - "鉄の女"の誤算 - 』 原書房、1983年 ISBN 4-562-01374-5
- ↑ 当初の作戦計画では同国の国旗の色をとって「青作戦」(Azul)と呼ばれていたが最終的に改名された。
- ↑ ARA Cabo San Antonio
- ↑ "Sniping: an illustrated history" Pat Farey, Mark Spicer, Compendium Publishing
- ↑ 防水措置やレーダートランスポンダーの増設等
- ↑ 万一の場合に任務を代行するための予備機が同行した。
- ↑ 給油機への給油も必要であったため多数の給油機を必要とした。
- ↑ この理由には諸説あり。一番有力とされているのは当時その海域に風が全く出ていなかったこと、かねてより不調だった機関部のせいで同艦の速度が上がらなかったこと等が重なり、発艦のための対気速度が足りなかったというもの。他にも天候不良などが原因とも報道されている
- ↑ 仏MBDA製
- ↑ しかしシェフィールドのソールト艦長は「弾頭が爆発した事は確かだ」と証言した。
- ↑ 1機にエグゾセを搭載し、もう1機はレーダー故障時の誘導を担当するための補助機
- ↑ イギリス側はエグゾセの撃破をアヴェンジャーの114mm単装砲による撃墜と主張しているがチャフによる誤作動だった可能性もあるなど詳細は不明である。
- ↑ チャフロケットなどの発射煙を誤認したと見られている
- ↑ 1986 FIFAワールドカップ準々決勝 アルゼンチン対イングランド
- ↑ アルゼンチン兵遺骨確認開始/フォークランド紛争35年/返還には反発も「英の領有認める」『読売新聞』朝刊2017年6月21日
- ↑ Submarine Operations during the Falklands War. Naval War College
- ↑ 実際に正面射撃に使用されたとは伝えられていないが、26〜27発の発射で17機撃墜という高い命中率を示した。
- ↑ 床井雅美 『アンダーグラウンド・ウェポン―非公然兵器のすべて』、日本出版社、1993年、ISBN 4-890-48320-9
- ↑ 中村[2009: 81]
- ↑ 中村[2009: 81-82]
- ↑ 中村[2009: 82-83]
- ↑ 中村[2009: 83-84]
- ↑ 中村[2009: 83]
- ↑ 38.0 38.1 38.2 38.3 38.4 38.5 38.6 38.7 [1][2][3][4]「「フォークランド」に学ぶ中国 尖閣略奪へアルゼンチンに急接近の“奇手”」産経新聞2013年2月3日。
- ↑ Ian Traynor (2013年3月15日). “Pope Francis is wrong on Falklands, says David Cameron” (英語). ガーディアン
参考文献
- M・サッチャー 『サッチャー回顧録 - ダウニング街の日々』 石塚雅彦訳、日本経済新聞社、1993年、ISBN 4-532-16116-9
- サンデー・タイムズ特報部編 『フォークランド戦争-“鉄の女”の誤算-』 宮崎正雄訳、原書房、1983年、ISBN 4-562-01374-5
- A・プライス, J・エセル 『空戦 フォークランド-ハリアー英国を救う-』 江畑謙介訳、原書房、1984年、ISBN 4-562-01462-8
- 中村 暁、2009、「英国の常設統合司令部の設立について (PDF) 」 、『DRC 年報』(2009)、ディフェンス リサーチ センター pp. 81-86
- 堀元美 『海戦 フォークランド-現代の海洋戦-』 原書房、1983年、ISBN 4-562-01426-1
- 三野正洋・深川孝行・仁川正貴 『湾岸戦争 兵器ハンドブック』 朝日ソノラマ、1996年、ISBN 4-257-17313-0 - 後半をフォークランド紛争にあてている。
- 山崎雅弘 『現代紛争史』 学習研究社<学研M文庫>、2001年、ISBN 4-05-901105-3
ウォーゲーム
- コマンドマガジン第105号 『フォークランド・ショウダウン』[5]元は海外のウォーゲーム雑誌に掲載されたウォーゲーム。日本語ライセンス化にあたり、ハリアーユニット等の追加・シュペールエタンダールによるエグゾゼ攻撃などの追加ルールをまとめた日本版ヴァリアントを掲載している。
関連項目
- フォークランド諸島
- アンドルー王子(ヨーク公)- この紛争に従軍した。
- ステイト・オブ・ウォー - フォークランド紛争を題材にした映画。
- MASTERキートン - 主人公が予備役として招集されたと思しき記述がある。
- フォークランド沖海戦 - 第一次世界大戦でイギリス海軍とドイツ海軍がフォークランド諸島沖で行った海戦。
- イギリスの海外領土
外部リンク
- Falkland Islands Government
- アルゼンチン年表1
- NHKアーカイブス フォークランド紛争 - 日本放送協会(NHK)
- 防衛省防衛研究所戦史研究センター『フォークランド戦争史』、平成26年3月31日