諏訪氏

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諏訪氏(すわし)は、日本氏族の一つ。信濃国諏訪地方領主諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄でもある。中世以降の通字は「」(より)。ただし、江戸時代以降の諏訪藩主家は「」(ただ)を通字としている。

概説

諏訪氏は代々、諏訪大社大祝を務めてきた一族である。その血筋は「神氏」といい、欽明朝推古朝の頃から平安時代初期に信濃国地方政治で活動した金刺氏他田氏の名が諏訪社の神官として続いてきた。出雲神話の神・建御名方神に始まるともいう。後世には桓武天皇を祖とするとも清和源氏源満快を祖とするとも称したが、皇胤や摂関家をはじめとする公卿の末裔を称する武家が多い中で祭神・建御名方命の血筋を称しながら極めて尊貴な血筋としてとらえられた特異な家系といえる。

諏訪氏は武士と神官双方の性格を合わせ持ち、武士としては源氏執権北条氏御内人南朝方の武将、足利将軍家奉公衆を務めるなど、ごく一般的国人領主である。しかし、神官としては信濃国および諏訪神社を観請した地においては絶対的神秘性をもってとらえられた。信濃国一宮として朝廷からも重んじられたこともあるが、祭神の諏訪明神が軍神であることから、古くから武人の尊崇を受けていたことも大きく影響している。

故に諏訪神社の祭神の系譜を称し、諏訪神社最高の神職である大祝を継承し、大祝をして自身の肉体を祭神に供する体裁をとることで、諏訪氏は絶対的な神秘性を備えるようになったといえる。代々の諏訪氏当主は安芸守などの受領名を称したが、大祝の身体をもって諏訪の祭神の肉体とされることで正一位の神階を有し、高い権威を誇示した。

宗旨は曹洞宗菩提寺温泉寺長野県諏訪市)、宗湖寺茅野市)、頼岳寺(茅野市)、吉祥寺東京都文京区)など。

平安時代

神官であると同時に武士としても活躍し、神職に就いていない庶子や親類を派兵するようになった。源義家(八幡太郎義家)が出羽清原氏討伐のため後三年の役に介入すると、大祝為信の子である神太為仲(諏訪為仲)が源氏軍に加わったという。大祝は祭神の神託により身体に神が宿るとされ、代々正一位の神階を継承する。

治承・寿永の乱(源平合戦)の折に、大祝がどちらに味方するか考えていたところ、祭神が夢に現れて手に持っていたの葉の軍配を白旗のある方向へと振り下ろしたことから、諏訪氏は源頼朝に味方する。以来、諏訪氏および諏訪大社を尊崇する氏子は梶の葉を家紋にしたという逸話がある。金刺盛澄(諏訪大夫)は源義仲討伐後に頼朝に捕らえられ、囚人として梶原景時に預けられたが、鶴岡八幡宮で披露した流鏑馬の妙技によって助命された。

鎌倉・南北朝時代

鎌倉時代の当初は幕府御家人だった諏訪氏も、幕府の実権を握った北条得宗家被官御内人)となり、北条氏の庇護ひごを受けた諏訪神社も、頼朝の崇敬を受けていたこともあって東国の武神としての評判が高まり、全国から勧請されるようになった。

承久の乱では諏訪盛重の子で大祝の諏訪信重が初めて諏訪郡外に出兵し、東山道を進軍する幕府軍の検見役を務めた。また盛重は寛元4年(1246年)の宮騒動宝治元年(1247年)の宝治合戦で活躍し、北条時頼から「無双の勲功」を称えられ、諏訪盛経内管領を務めた。元弘3年(1333年)の東勝寺合戦による鎌倉幕府の滅亡では、御内人として諏訪直性をはじめ多くの一族がともに滅亡したが、諏訪盛高北条高時の遺児・北条時行(『太平記』では亀寿丸、『梅松論』では勝寿丸)をかくまい諏訪に逃亡させている[1]

幕府滅亡後に京都後醍醐天皇が樹立した建武の新政に対し、建武2年(1335年)には北条氏の残党が時行を奉じて挙兵し、鎌倉を占拠する(中先代の乱)。これに対し、足利尊氏は倒幕に従い武功を挙げた小笠原貞宗を信濃守護に補任し諏訪氏に対抗させ、以来室町・戦国期に至るまで小笠原氏と諏訪氏は抗争を繰り広げる[1]。乱の平定により諏訪氏は再び敗北し、鎌倉では諏訪頼重諏訪時継父子が足利勢に敗れて自害する[2]。これにより大祝職は庶流の藤沢政頼が継承する[3]

南北朝時代には時継の子・諏訪頼継が大祝職となり、北条時行を迎えて南朝方に属して、北朝方の小笠原氏と対抗したが[3]、敗れて没落。その後は頼継の弟・諏訪信継が継ぎ、信継の子の諏訪直頼も同じく南朝に属した。

まもなく足利将軍家が兄の尊氏派と弟の直義派に分裂して観応の擾乱が起こり直義が南朝に降ると、直頼もこれを支援し、信濃国内における直義党の主将として善光寺付近で北朝の尊氏派・小笠原氏と争い、甲斐国須沢城(山梨県南アルプス市)に篭城した高師冬を自害に追い込むなどの功を上げた。

観応3年/正平7年(1352年)に直義が死去すると、伊那谷に潜伏した宗良親王を奉じて戦う。文和4年/正平10年(1355年)8月には桔梗ヶ原塩尻市)において信濃守護・小笠原長基や下社金刺氏、仁科氏らと衝突し、北朝方に敗れ、信濃における南朝は衰微した(桔梗ヶ原の戦い[3]。上社諏訪氏が南朝方に帰属し続けたのに対し、下社金刺氏は北朝方に属して上社と下社が分裂し、この争いは戦国時代まで続く[3]

応安5年(1372年)には諏訪頼貞が北朝の将軍・足利義満に服属し[3]、大祝職は頼継の弟である信嗣が継承し、頼継の子・信員の一族は伊那郡高遠へ移り、高遠諏訪氏となった[4]

室町時代

室町時代には応永4年(1397年)10月に諏訪有継が大祝となるが、4年後に下位すると、文明16年(1484年)12月には頼満(碧雲斎)が大祝職となるまで惣領家が大祝職に就くことが途絶える[5]。さらに文安6年(1449年)には諏訪氏と下社金刺氏との抗争も発生し、これは信濃守護・小笠原政康(府中小笠原氏)が介入する事態となった。政康は金刺氏を後援したため、諏訪惣領家は政康と小笠原家惣領職を争う松尾小笠原氏と結んで勢力を拡大し[6]、これにより諏訪大祝家との内訌も激化する[6]康正2年(1456年)には諏訪惣領家の諏訪信満と諏訪大祝家の諏訪頼満(伊予守、前述の碧雲斎とは別人)兄弟が衝突する「芸州・予州大乱」が発生する[6]。この乱はまもなく沈静化するが、諏訪信満は居館を上原に移転している[6]

大祝家で頼満(伊予守)の子・継満が大祝職に就き、義兄にあたる高遠継宗や松尾小笠原氏と結び台頭した[7]。継満は、文明11年(1479年)に府中小笠原氏が松尾小笠原氏を攻めると、一時的に大祝職を辞して松尾小笠原氏後援のために出陣し、帰還後に再び大祝となっている[8]。これに対し、諏訪惣領家では信満の子・政満が府中小笠原氏と和睦してこれに対抗した[8]

文明15年(1483年)正月8日には継満が政満とその子・若宮丸、政満弟の原田小太郎らを神殿に招いて酒宴を催し、その場で暗殺するクーデターが発生する[9]。この事件により諏訪一族は反抗に出て、継満を干沢城(茅野市宮川)へ追い込み、さらに高遠へ追放する[10]。また、継満父の頼満(伊予守)もこの時に討ち取られており、下社金刺氏も駆逐された[10]

継満のクーデターから生き残った政満の次男・宮法師丸(諏訪頼満(碧雲斎))は文明16年(1484年)12月に諏訪惣領家を継承し、さらに大祝職についた[10]。碧雲斎の時代に諏訪郡を統一し、大祝家を滅ぼし惣領家が大祝をも務め祭政一致の下、武力と権威を強めていった。

戦国時代

戦国時代には諏訪郡と接する隣国の甲斐国守護・武田氏と争いが活発化する。甲斐守護・武田信昌は諏訪大社上社の檀那でもあり、寛正5年(1464年)4月に信昌は守護代跡部氏に対抗するため諏訪信満に援軍派遣を要請している[11]。この時は諏訪信満とその子・小太郎(政満)、諏訪満有の三男・光有(越前守)らが諏訪一族や佐久郡大井氏らと甲斐へ出兵している[11]。なお、一行は4月5日に諏訪を発しているが、この年の4月13日には御柱祭が予定されていたため、いったん引き返して御柱祭を終え、6月に再び出陣する[12]。一行は6月8日に武田信昌と合流し、7月2日に山梨郡夕狩沢(山梨市上岩下)で跡部景家(上野介)と激突し、跡部氏を本拠の小野田城(山梨市牧丘町)へ追い、滅亡させた[12]。諏訪衆は7月9日に帰国する[12]

寛正6年(1465年)12月、武田信昌は跡部氏の残党討伐のため再び諏訪氏に援軍を要請し、諏訪信満は12月26日に諏訪衆を甲斐へ派遣する[13]

その後、武田家では信昌の子である信縄油川信恵との間で内紛が発生し、信昌は信恵方に加担した[14]。信昌はさらに堀越公方足利茶々丸と結んだため、反茶々丸の駿河国今川氏相模国伊勢氏(後の後北条氏)と敵対した[15]。こうした体外情勢の変化により武田氏と諏訪氏との関係も険悪化したと考えられており、文亀元年(1501年)閏6月2日には伊勢宗瑞(北条早雲)が諏訪家臣・千野氏に対して諏訪頼満(碧雲斎)に武田氏を挟撃する申し出を行っている[15]。こうして伊勢宗瑞は諏訪氏と結びつつ甲斐東部の都留郡への侵攻を行っているが、一方の諏訪氏側では、『一蓮寺過去帳』に拠れば延徳4年(1492年)9月3日に発生した信昌・信恵と信縄の間で発生した合戦において矢ヶ崎氏が戦死しており、信昌・信恵方に援軍を派遣していたと考えられている[16]

その後、甲斐国では信縄の子・信虎(初名は信直)により甲斐国は統一され、武田氏は戦国大名化する。武田氏は駿河の今川氏と和睦し、大永7年(1527年)には信濃佐久郡への出兵を開始する[17]。諏訪氏では永正15年(1518年)12月18日に諏訪頼満が下社の金刺昌春の本拠である萩倉要害(下諏訪町)を攻め、昌春を放逐する[17]。昌春は甲斐へ逃れて武田信虎に庇護され、享禄元年(1528年)8月には昌春を擁した信虎は諏訪への出兵を行う[18]。武田勢が8月22日に甲信国境に迫ると、8月晦日に諏訪頼満・頼隆父子は甲信国境の神戸境川(長野県諏訪郡富士見町)において、いったんは敗退した[19]。同日夜に諏訪勢は境川に兵を進めると今度は武田勢を駆逐し、勢力を甲斐北西部にまで及ぼした[19]

信虎は八ヶ岳南麓の山梨県北杜市小淵沢町に笹尾砦を築くなど本国の防備を整えるが、享禄4年(1531年)正月21日(もしくは22日)には飯富虎昌(兵部少輔)や栗原兵庫今井信元ら甲斐の有力国人が信虎から離反し、甲府北方の御岳(甲府市御岳町)において信虎に抵抗した[19]。飯富・栗原らは諏訪頼満に援軍を要請し、頼満は甲斐へ兵を進め、笹尾砦を落とした[19]。甲斐ではさらに甲府盆地西部の国人である大井信業も信虎に反旗し、同年2月2日に反信虎の国人衆は信虎勢と衝突して、信虎は国人衆を撃破している[20]。なお、この戦いでは諏訪氏は参加していない[20]。同年4月に頼満は国人衆と合流し、河原部(山梨県韮崎市)において信虎と戦う(河原部合戦[20][21]。この戦いにおいて国人衆は大敗し、信虎に服従する[22]

天文4年(1535年)9月17日には、佐久郡侵攻を行う武田氏と和睦し[23]、天文9年(1540年)11月29日には信虎三女・禰々諏訪頼重に嫁して同盟関係が強化される[24]。同年12月17日には信虎が頼重を訪問している。天文10年(1541年)5月には信虎や村上義清小県郡へ出兵し、5月23日の海野平の戦いにおいて滋野一族を撃破する[25]。滋野一族は上野国関東管領上杉憲政を頼って亡命する。6月14日、甲斐国で信虎が嫡男・晴信(信玄)より駿河へ追放されるクーデターが発生する。7月4日には上杉憲政が佐久郡へ出兵すると、頼重は武田・村上方に独断で憲政と和睦すると所領を分割する。これにより武田・諏訪間の同盟は破綻する。

天文11年(1542年)4月4日には頼重と禰々の間に嫡男・寅王丸(長岌)が誕生するが、7月2日には晴信が高遠城主高遠頼継と結んで、頼重の本拠である上原城を攻める。頼重は桑原城へ敗走するが7月4日に降伏し、甲府へ護送される。[26]。頼重は7月21日に甲府の東光寺で自害する。

頼重には遺児の寅王がいるが消息が不明で、戦国大名家としての諏訪氏は滅亡している。諏訪地方は武田氏の信濃侵攻において直轄領化され、頼重の弟頼高満隣の子頼忠が諏訪大祝となっている。

武田氏は諏訪氏の他にも征服した信濃名族の名跡を一族に継承させる方策を行っているが、諏訪氏においても頼重の娘諏訪御料人は信玄の側室となり、天文15年(1546年)に四男四郎(武田勝頼)が生まれた。勝頼は諏訪氏の通字である「頼」字を冠し、永禄5年(1562年)に諏訪氏を継ぎ伊那高遠城に配置されている。。

安土桃山時代

勝頼期に諏訪郡・高嶋城主は今福昌和であったが、天正10年(1582年)3年、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡する(武田氏滅亡)。武田氏の滅亡における諏訪氏の動向は不明であるが、諏訪大社上社が放火され、諏訪頼豊(越中守)父子が処刑されている[27]。諏訪衆の千野昌房(兵衛尉)は上野へ亡命し、同年6月に相模国北条氏直に保護されている[28]。一方、大祝であった諏訪頼忠や神長官・守矢信真は諏訪から脱出した記録が見られないため、諏訪郡に逼塞ひっそくしていたと考えられている[29]

織田氏の甲斐仕置において甲斐は織田家臣の河尻秀隆が領し、高嶋城には河尻家臣の弓削重蔵が配置される[29]。同年6月に本能寺の変織田信長が討たれると武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。後代の軍記物、編纂物によれば千野昌房が後北条氏の後援を経て諏訪へ帰還し、諏訪衆を糾合して高嶋城を奪還する[29]。諏訪頼忠もこの時に蜂起し、旧領を回復したという[29]。一方、文書によれば諏訪州は武田旧臣である木曽郡木曾義昌の支援を得て高嶋城を奪還していた可能性が指摘されている[30]。さらに頼忠は越後上杉氏の侵攻により木曾氏の勢力が弱まると自立する。徳川家康と相模後北条氏との争いでは、はじめ徳川方、のち後北条方に転じた。

頼忠は諏訪氏を再興し、頼忠の息子諏訪頼水慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの功によって高島藩に封じられた。

江戸時代

江戸時代には大名家と大祝家とに分かれ隆盛し、大名家は明治維新後、子爵となり華族に叙された。また2代藩主諏訪忠恒の次男諏訪頼蔭と三男諏訪頼久に1000石ずつ分知し、四男諏訪盛條と甥の諏訪頼常も江戸幕府に出仕し、旗本を4家輩出した。

京都諏訪氏

室町時代には庶流・小坂家出身の諏訪円忠(小坂円忠、諏訪敦忠の曾孫とされる)が建武政権雑訴決断所の成員を務め、後醍醐から離反した尊氏に従い室町幕府評定衆引付衆天龍寺造営奉行などを務め、在京して将軍直属の奉公衆としても活躍し、幕府滅亡までその職を世襲した。円忠の嘆願が受け入れられ、信濃の諏訪氏は幕府より存続を許された。また『諏方大明神画詞』は円忠による著作物である。文正元年(1466年)諏訪貞郷は幕府の祐筆を辞して信濃使節となり、京と信濃を往復している。諏訪貞通は幕府奉行人を務め、文明8年(1476年)諏訪大社の大般若経転読法会の再興に関する後土御門天皇の綸旨を得て、長享元年(1487年)将軍足利義政日野富子ら幕府要人から諏訪法楽和歌の短冊を集め、京都の諏訪神社に奉納した。また京都諏訪氏は足利義昭の帰京や将軍擁立にも奔走している。幕府滅亡後、諏訪盛直は明智光秀に仕えたが、天正10年(1582年)の山崎の戦いで敗北した。

系譜

多氏系の祖武五百建命建御名方神の子孫である阿蘇比売命を妻にしているため、多氏説、建御名方神説のどちらをとっても建御名方神の後裔になる。

一説(諏訪史料叢書武居氏段)

建御名方神後裔説
建御名方神
 
 
 
出早雄命
 
 
 
六老彦神
 
 
 
会津比売神
 
 
 
会知早雄神
 
 
 
阿蘇比売命
武五百建命后)
 
 
 
建稲背命
 
 
 
健甕富命
 
 
 
諸日子命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
健莒止理命健守矢命
神長官祖か)
 
 
 
 
 
伊努古君檜樹君
 
 
 
 
 
世襲彦命武麻呂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大磐金弓
 
 
 
 
 

諏訪神族

諏訪氏の係累にあたる血族を諏訪神族(諏訪神党とも)といい、信濃国には一門が多い。さらに鎌倉時代に諏訪氏が北条氏の御内人となったことから全国に社領を拡大し、多くの一族が全国に拡散していった。地方の領主としては駿河国安部氏丹波国上原氏出雲国牛尾氏薩摩国上井氏なども諏訪氏の一門に該当する[34]


諸国の諏訪氏

常陸の諏訪氏

久慈郡長幡部神社の神職は諏訪氏であるという[35]

駿河の諏訪氏

諏訪長宗の次男 長満は駿河守護 今川氏に仕えるという[36]

脚注

  1. 1.0 1.1 平山 2002, p. 132.
  2. 平山 2002, pp. 133-134.
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 平山 2002, p. 134.
  4. 平山 2002, p. 135.
  5. 平山 2002, pp. 135-136.
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 平山 2002, p. 136.
  7. 平山 2002, pp. 136-137.
  8. 8.0 8.1 平山 2002, p. 137.
  9. 平山 2002, pp. 137-138.
  10. 10.0 10.1 10.2 平山 2002, p. 138.
  11. 11.0 11.1 平山 2002, p. 141.
  12. 12.0 12.1 12.2 平山 2002, p. 143.
  13. 平山 2002, p. 144.
  14. 平山 2002, p. 144.
  15. 15.0 15.1 平山 2002, p. 145.
  16. 平山 2002, p. 146.
  17. 17.0 17.1 平山 2002, p. 147.
  18. 平山 2002, pp. 147-148.
  19. 19.0 19.1 19.2 19.3 平山 2002, p. 148.
  20. 20.0 20.1 20.2 平山 2002, p. 149.
  21. 勝山記』、「神使御頭之日記」『山梨県史』資料編6下(県外資料)
  22. 平山 2002, p. 150.
  23. 「神使御頭之日記」
  24. 「神使御頭之日記」
  25. 高白斎記』、「蓮華定院文書」『信濃史料』2
  26. 『高白斎記』、「守矢頼真書留」『山梨県資』6下
  27. 平山 2011, p. 111.
  28. 平山 2011, pp. 111-112.
  29. 29.0 29.1 29.2 29.3 平山 2011, p. 112.
  30. 平山 2011, pp. 113-114.
  31. 以降の系図は武家家伝_金刺氏を参照。金刺盛澄や、室町幕府第12代将軍足利義晴から偏諱の授与を受けた諏訪晴長はこの系統の出身者である。
  32. 旗本・内藤信有の3男。
  33. 越後新発田藩主溝口直溥の14男。
  34. 太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店1934年)3099頁参照。
  35. 前掲太田亮著『姓氏家系大辞典 第1巻』3099頁参照。
  36. 前掲太田亮著『姓氏家系大辞典 第1巻』3099頁参照。

参照文献

  • 太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店1934年
  • 「県史20 長野県の歴史」山川出版社、2006年
  • 平山優 『川中島の戦い 上』 学研M文庫、2002年。
  • 平山優 『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』 学研パブリッシング、2011年。

関連項目