通天閣
通天閣 Tsūtenkaku | |
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情報 | |
用途 | 展望台 |
設計者 | 内藤多仲 |
施工 | 奥村組 |
建築主 | 通天閣観光株式会社 |
事業主体 | 通天閣観光株式会社 |
管理運営 | 通天閣観光株式会社 |
構造形式 | 鉄骨造・鉄骨鉄筋コンクリート造 |
階数 | 建屋:地階・3階、展望台:2階 |
高さ | 108 m |
着工 | 1955年8月17日 |
竣工 | 1956年 |
開館開所 | 1956年10月28日 |
所在地 |
〒556-0002 大阪府大阪市浪速区恵美須東一丁目18番6号 |
座標 | 東経135度30分22.77秒北緯34.6525361度 東経135.506325度 |
文化財指定 | 国の登録有形文化財 |
指定日 | 2007年5月15日 |
通天閣(つうてんかく)は、大阪府大阪市浪速区の新世界中心部に建つ展望塔である。2007年5月15日に、国の登録有形文化財となった[1]。公式キャラクターは「ビリケン」。大阪の観光名所として知られる。
Contents
設計・構造
- 本体:鉄骨造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造)[2]
- 展望台:鉄骨鉄筋コンクート造(周囲ガラス張り2階建て)[2]
- 高さ:4階床まで84m、5階床まで87.5m[2]
- 補助棟:鉄骨鉄筋コンクリート造[2]
- 性能:阪神・淡路大震災級の直下型地震[4][5]、風速80メートルの強風[3]に耐えられる。
概要
基本構造と運営形態
現在の通天閣は二代目で、1956年(昭和31年)に完成した(初代通天閣については後述)。通天閣観光株式会社(つうてんかくかんこう、Tsutenkaku Kanko Co., Ltd.)により運営されている。避雷針を含めた高さは108m(塔自体の高さは100m。避雷針は2016年に3mのものから8mのものに更新している)。設計者は、ほぼ同時期にできた名古屋テレビ塔、東京タワーなどを手がけた内藤多仲[6]。建設を施工したのは奥村組である[6]。「通天閣」とは、「天に通じる高い建物」という意味[7][2][8]で、命名したのは明治期の儒学者、藤沢南岳である[2]。
二代目の通天閣は、入場ゲートや展示スペースなどを設けた低層階(地下1階~2階)と、展望台などのある高層階(3階~5階)で本体を構成[9]。入口と2階を往復するエレベーター(低層エレベーター)と、展望台のある4・5階と2階を往復するエレベーター(展望エレベーター)を別々に稼働させている。このような構造のため、入場者が入口から展望台へ向かう場合には、基本として2階で低層エレベーターから展望エレベーターに乗り換える仕組みになっている。
低層エレベーターについては、本体とは別に建てられた白色・円柱形の専用棟(エレベーター棟)の中で稼働。エレベーター棟の2階と本体の2階を渡り廊下で連結している。このようにエレベーター棟を本体と分けた構造は、2014年(平成26年)10月から2015年(平成27年)6月まで実施された免震化工事で功を奏したという(詳細後述)[10]。その一方で、再建当初から2001年(平成13年)までは、東洋オーチス・エレベータ(現在の日本オーチス・エレベータ)製の円柱形エレベーターを低層用に稼働していた。乗りかごが円柱形のエレベーターが設置されたのは、通天閣が世界で初めてとされる。なお、2001年からは、低層エレベーターを日立製作所製の円柱形エレベーターに更新。本体では、展望エレベーターの稼働中に、「ビリケンのイラストや、夜空に浮かぶビリケン座をエレベーターの天井に浮かび上がらせる」という光の演出を施している。
本体の直下を市道が通っている関係で、低層階の1階部分(エントランス)には、市道をまたぐ格好で鉄製の4本の脚(脚部)が四方に据えられている。再建当初から2013年(平成25年)12月19日までは、低層エレベーターおよび、エレベーター棟の2階へ通じるらせん階段の乗降口を1階の東側に設置。展望台への入場券(展望券)を、本体の2階で販売していた。しかし、入場者数の増加などを背景に、同年12月20日から展望台への入場ルートを変更。地下1階に展望券売場と低層エレベーターの乗降口を新設するとともに、同年6月30日まで地下1階の一角で営業していた「通天閣地下劇場」の跡地を、入場者の待機スペースなどに活用している(詳細後述)[11]。このため、展望台への入場者は、ルート変更前から脚部の間に設けられている地下通路への入口(2ヶ所)から階段でいったん地下1階まで移動。地下1階で展望券の購入と低層エレベーターへの搭乗を済ませてから、従来と同じく、2階で展望エレベーターに乗り換えるようになった。
再建への経緯
1943年1月に初代通天閣が間近にあった映画館からの延焼火災で焼け落ちたが[12]、1953年頃、地元新世界の有志らにより再建話が持ち上がり、「通天閣再建委員会」へと発展した[12]。当初は笑い話として地元では相手にもされなかったが、再建話は徐々に現実味を帯びてゆく[12]。だが初代通天閣の有った場所には既に民家が建ち並んでおり、ほど近い公園に再建することとなった[* 1][12]。
設計の内藤が紹介した竹中工務店とは予算面で折り合いがつかず、2億7000万円で奥村組が施行することとなった(その後の追加工事で、最終的に建築費総額は3億4000万円となった)[6]。1955年8月17日に起工された建築工事については死者などは出なかったが[13]、事務所スペースの確保をすっかり忘れており、工事の途中にあわてて中2階を付け足すといったトラブルがあった[13]。構造材の鉄骨は溶融亜鉛めっきされた品質の高い物で、1996年の改修工事時に確認したところ、びくともしていなかったという[14]。
運営会社については資金調達に難儀し、資本金として3500万円を予定したところ2500万円足らずしか集められず[6]、再建に携わった人員の一部が個人的に高利貸しから資金を調達し、それに充てることとなった[6]。さらに登記の2-3日前に他の人物が「通天閣株式会社」を登記しており、やむなく「通天閣観光株式会社」として発足した[6]。
ネオン広告
再建翌年の1957年(昭和32年)から、総合電機企業の日立製作所が、塔の側面に文字広告を掲出[* 2]。当初は、松下電器産業(現在のパナソニック)に広告の掲出を打診したが、当時社長だった松下幸之助の判断で掲出を見送った。幸之助は配線工として初代通天閣の工事に携わっていた(詳細後述)が、日立のネオンが「地元の名物」として広く認知された後年に、広告の掲出を見送ったことを悔いたという[15]。
「通天閣は公共性の高い建物」という配慮から、西面には、日立の広告掲出開始と同時に大型の寒暖計(マンモス寒暖計)を1970年(昭和45年)まで設置[16]。同年以降は、西面にのみ広告を掲出せず、大阪府・浪速警察署・浪速消防署による3パターンの標語(地元の中学生からの公募で選ばれた交通安全の標語など)を交互に表示できるネオンを設置している[15][17]。現在は、日立の製品名を表示できるネオンを北面と南面、日立の英語社名ロゴ(HITACHI)と日立グループのスローガン(Inspire The Next)を交互に表示できるネオンを東面に設置。一時は、4面とも社名(日立)のみのネオンで構成したり、大阪万国博覧会のPR・大阪21世紀計画に関するメッセージ・国際花と緑の博覧会のカウントダウンなどのネオンを東面に取り付けたりしていた[18]。
なお、東面には広告掲出開始当初から、2016年(平成28年)のリニューアル工事(詳細後述)までアナログ形式の大時計を設置。大時計にオルゴールを取り付けた1970年以降は、オルゴールで演奏された日立のCMソング(現在は「日立の樹」)のメロディーが、少なくとも毎日正午にスピーカーを通じて流されていた[19]。また、広告の掲出開始から2001年までは、日立の社章である「亀の子マーク」[20]のモノグラムが展望台の真下(広告の上部)に付けられていた。同年のマーク使用中止・ネオン更新を機に撤去されてからは、ライトアップの効果を高めるべく、展望台の真下を横に囲む格好で3本のネオンラインを設置している[21]。
もっとも、オイルショックに伴う通産省(当時)の省エネ指導を受けて、1974年(昭和49年)1月16日から1976年(昭和51年)7月2日までは全面消灯を実施。1976年7月3日から1979年(昭和54年)4月27日までは、「消費電力を以前の4分の1に抑える」という条件で、一部のネオンを点灯させていた[22]。関係者による交渉や運動などの結果、1979年4月28日に全面点灯を再開。地元では、再点灯初日から3日間にわたって祝賀カーニバルが催されたという[23]。
2012年(平成24年)からは、女性に乳がん検診の早期受診を勧めるピンクリボン運動の一環として、乳がん検診推進月間初日(10月1日)の夜間にピンク色のネオンを点灯させている[24]。2015年には、阪神タイガースによる球団創設80周年記念プロジェクト「Yellow Magicプロジェクト」とのコラボレーション企画として、公式戦開幕日の3月27日から「イエローライトアップ」を随時実施。実施期間中には、広告以外のネオンの色を、阪神のチームカラーである黄色(イエロー)に変えていた[25]。
全面点灯の復活後も、5 - 6年に1回のペースで実施するネオン広告のリニューアル工事[26]や、ライトダウンキャンペーンへの協力などを目的に一部消灯や全面消灯を実施する日がある[27]。
世界初の展望塔免震化工事
1994年から1996年にかけて、約9億円を投じて改修工事を実施[28]。しかし、奥村組が東日本大震災の発生翌年(2012年)に耐震診断を実施したところ、「阪神・淡路大震災級の直下型地震では倒壊しないものの、展望台を直接支える鉄骨がゆがむ可能性がある」という結果が示された[5]。
耐震診断を依頼した通天閣観光では、この結果を受けて、2013年8月に奥村組・竹中工務店・飛島建設を対象に地震対策工事の技術提案と見積もりを依頼。奥村組と飛島建設は制震工法による改修工事(制震化工事)、竹中工務店は免震工法による改修工事(免震化工事)を提案したため、専門家による審査を経て竹中工務店を工事の発注先に決定した[5]。
免震化工事は総事業費約6億円で、2014年10月から2015年6月まで実施。2015年7月3日には、エントランスで竣工式を開催した[29]。見積り額は他の2社の案を1.5倍ほど上回っていたが、通天閣観光の高井隆光副社長(当時)によれば、「地震発生時の来場者の安全・安心を考えると、揺れを抑える効果で勝る免震が良いと判断した」という[5]。
竹中工務店では、通天閣観光への技術提案に際して、繁華街である周辺地域に及ぼす工事の影響や文化財としての本体の価値を考慮。本体高層部の外観を損ねないことを前提に、同社が特許を出願済みの技術によって地上10mに相当する脚部の基壇部に免震装置とオイルダンパーを埋め込む案や、じゃばら状に変形することで振動を軽減するエキスパンションジョイントを本体とエレベーター棟をつなぐ渡り廊下の連結部分に新設する案を提示した[30]。この案では、地震が発生した際の振動の大きさが耐震改修の場合に比べて3分の1程度にまで抑えられること[5]や、エキスパンションジョイントの設置によって低層エレベーターの安全性を確保できることが見込まれている[10]。
竹中工務店が当初立てていた耐震化工事の基本計画では、およそ9ヶ月にわたる工事期間中を通じて、通天閣および周辺店舗の営業を中断させることを想定していた。しかし、営業の中断が経済面などに莫大な影響を及ぼしかねないことから、結局は営業を続けながら工事を実施する方針に転換。市道をまたぐエントランスの天井部分(地上8m)に工事用のステージを設置したうえで、必要な資材をすべて営業時間外の夜間に搬入することによって、何重もの安全対策を講じながら「『通天閣の営業継続』と『市道の真上での耐震化工事』の両立」という世界初の試みを実現させた[9]。
地下1階でも、2013年9月24日から12月上旬まで、フロアの改装を兼ねた耐震補強改修工事を実施している。
エントランスの天井画
初代通天閣のエントランスには、1911年(明治44年)から1943年(昭和18年)の解体まで、地元の化粧品メーカー・中山太陽堂(現在のクラブコスメチックス)がクジャクの天井画の広告を掲出していた[31]。
通天閣の再建後は、エントランスの天井に特別な装飾や広告を設置していなかった。クラブコスメチックスでは、前述の耐震化工事の決定を機に、天井画を復刻させたうえで通天閣観光へ寄贈する計画を始動。織田一磨が描いた初代天井画の草稿を基に、日本画家の沖谷晃司が原画(花園に遊ぶクジャク図)を作成した[31]。
耐震化工事では、脚部の基壇部に耐震装置とオイルダンパーを埋め込んでから、基壇部の上部(地上約12m)にある八角形状のエントランス大天井に「花園に遊ぶクジャク図」の再現画を設置[31]。2015年7月の竣工式で、初めて一般に公開された[29]。なお、天井画の復刻に際しては、初代の天井画に記されていた商品名(現在では製造・販売を終了している「クラブ」ブランドの化粧水・白粉・歯磨・洗粉)のロゴもそのまま再現。大天井の中心部と四方にLED照明装置を備えたことから、竣工後は毎日、日没から23時まで天井画のライトアップを実施している[31]。
二代目通天閣開業60周年記念企画
2016年(平成28年)10月28日に二代目通天閣が開業60周年を迎えたことを記念して、同年9月から2017年(平成29年)2月までは、日立製作所がLED・ネオン広告の全面リニューアル工事を営業時間の終了後に実施。工事期間中には営業を続ける一方で、ネオン広告を四面とも大型の広告看板で覆ったため、夜間のライトアップを全面的に休止していた[26][32]。
この工事では、後述する天気予報ネオンや時計に、LEDを利用した動画ビジョンを採用。また、塔頂部に設置している避雷針を従来より長いものに交換することで、避雷針の先端部を地上108メートルの高さにまで引き上げた[26]。その結果、2017年2月10日の夜からは、動画ビジョンによるライトアップを始めている[33]。
また、日立製作所では、60年間にわたる二代目通天閣の変遷を映像でたどるスマートフォン向けの拡張現実(AR)・仮想現実(VR)アプリを制作。2016年12月10日以降、同社および通天閣観光などの公式サイトなどから、順次無料で配信している[34]。
入場者数
二代目通天閣に建替えられた1956年(昭和31年)10月28日の開業日に10,496人の入場を記録するなど[35]人気を博し、年間入場者も155万人を超えていたが、1965年(昭和40年)に100万人を割込み、大阪万博のあった1970年(昭和45年)にやや持ち直したものの、光化学スモッグ等の環境汚染が要因となって1975年(昭和50年)には20万人前後へと激減した。
その後は緩やかに回復傾向を示し、通天閣を舞台としたテレビ番組や串カツ人気の高まりもあって2006年(平成18年)に90万人、2007年(平成19年)に100万人超へと回復した。通天閣の入場者数増加について、通天閣観光は「若い人が新世界に大阪らしい情緒を求めているのだろう」とコメントしている[36]。
入場者の減少のほか、昭和40年代頃には役員の使い込みもあり[37]経営は悪化。このため、玄関の周囲にテナントを入れる[38]、役員報酬と不良社員を大幅に削減する[39]などの対策を実施。開業54年目の2010年(平成22年)6月30日、入場者数が累計3,500万人を突破した。
2010年代に入ってからは、日本屈指の高さを擁する超高層ビルや展望タワーが日本国内で営業を始めるたびに、便乗企画を次々と打ち出すことで通天閣自体への集客につなげている。初代通天閣からの開業100周年と東京スカイツリー(高さ634m)の営業開始が重なった2012年(平成24年)には、年間入場者数が史上3番目に多い132万人に到達[40][41]。地上約300mの58階~60階に展望台「ハルカス300」を設けたあべのハルカスが通天閣から徒歩15分圏内の大阪阿部野橋駅上に開業した2014年3月7日には、「ハルカス300」のグランドオープン(12時)以降の入場者に通常の展望料(大人1名700円)から半額以上安い300円で展望券を販売したところ、通常時の1.5倍もの入場者数を記録した[42]。
二代目通天閣の開業60周年記念日(2016年10月28日)には、通天閣の通天(つうてん)にちなんで、大人1名分の当日展望券を一律210円で販売した[34]。
特徴
展望台
- 五階展望台
- 5階の展望台には、足の裏を撫でると幸運が訪れるという言い伝えがある幸運の神様「ビリケン(Billiken)」の像が安置されている。これは新世界にかつて存在していた遊園地「ルナパーク」が開業した1912年(明治45年)当時、世界的に流行していたビリケンの像をルナパーク内に作られたビリケン堂に安置したのが始まりである。1923年(大正12年)にルナパークが閉園した時期を境に、像の行方がわからなくなっていたが、1979年(昭和54年)、3階に「通天閣ふれあい広場」が作られたのを機に復元された。
- 2012年(平成24年)4月27日、初代から数えて通天閣の開業100周年を迎えるにあたり、5階展望台を金色に全面改装した「黄金展望台」が一般公開された。[43][44]。5月23日には、3代目ビリケン像(高さ60cm幅38cm奥行41cm、クスノキの一木彫)が設置された[45]。
以前は、展望台からは見える風景や建造物を入場客に説明する目的で、展望ガラスに赤色のペンキで山や建造物の形と名前を描いていた。現在は、展望ガラス上部に掲げた写真などで説明している。
通天閣観光では、2010年(平成22年)10月から2012年(平成24年)9月30日まで、入場者向けの有料オプションサービスとして「通天閣スカイウォーク」(4階の展望台から非常階段経由で「喉仏」と呼ばれる地上約75m地点のキャットウォーク上を命綱・ガイド付きで歩行できるサービス)を実施(後述するネオン改修工事期間中は休止)[46]。あべのハルカスのグランドオープン以降は、地上約91mの展望台の窓から高さ300mのハルカスがきれいに見えることを、広報活動などで強調している[42]。
- 屋外展望台(天望パラダイス)
- 平成27年12月25日から運用を開始した開放スペース型の展望台で、同年9月から約1億円で整備。五階展望台よりさらに上部(高さ94.5メートル)の屋上へ、全面強化ガラスを円形に貼り巡らせた[47][48][49][50]。営業時間は午前10時から午後6時までで、30分単位(先着順で定員30名)の入れ替え制を導入。入場するには、五階展望台内のカウンターで、1名当たり500円の追加料金をあらかじめ支払う必要がある。また、5歳未満の子どもが入場できないほか、荒天の場合には入場を制限。その一方で、入場者に無料で双眼鏡を貸し出すほか、家族連れやカップル向けの貸し切りサービスを随時実施する。
- 営業開始後初めての改修工事期間(2016年9月 - 2017年2月)には、2016年9月中のみ営業を休止したものの、翌10月から上記の条件で営業を再開している[26]。
通天閣地下劇場
地下1階には、1968年(昭和43年)に、大小200の水槽を擁した水族館がオープン[51]。相応の人気を博したが、オイルショックの影響で水槽暖房用の灯油を調達できなくなった結果[51]、飼育していた魚類はコイやフナを残して壊滅[51]。1973年(昭和48年)10月に閉鎖を余儀なくされた[51]。
1989年(平成元年)からは、地下1階に「通天閣地下劇場」を開設[52]。毎週土曜日と日曜日には、「通天閣歌謡劇場」という名称で、松竹芸能が演歌歌手の歌謡ショーを催していた。また、2001年(平成13年)までは、「通天閣囲碁将棋センター」を併設。映画やテレビドラマのロケにも使われた。
道頓堀にあったB1角座が閉鎖された2008年(平成20年)には、「通天閣地下劇場」というフロアの名称を7月3日から「STUDIO210(スタジオ・ニーイチマル)」に変更。歌謡ショーを「通天閣歌謡劇場」として月曜日に継続する一方で、土・日曜日には、「通天閣劇場 TENGEKI」と称して松竹芸能に所属する芸人による落語や漫才の興行を催していた。
現在は、通天閣の公式音楽バンドであるイーゼル藝術工房と、同バンドがプロデュースを行っているアイドルグループ『まいどリームス』『ハンバーガールZ』が毎週末、コンサートを開催している。
館内施設
- 5階
- 展望台(87.5m)
- 黄金のビリケン神殿
- 4階
- 展望台(84.0m)
- 「夢をかなえるゾウ」という触れ込みで、ガネーシャ像を設置。
- 展望台(84.0m)
- 3階
- 2階
- キン肉マンミュージアム
- ヂャンヂャン町(売店)
- 5階展望台へのエレベーター乗り場
- 以前は、ゲームコーナーや貸卓球台なども設置されていた。免震化工事の完了後は、免震装置の仕組みを解説するパネルや、装置のミニチュア模型を展示している。なお、通路は一方通行である。
- 1階
- 通天閣地下への入口(2ヶ所)
- 「王将」碑(阪田三吉の偉業を称える像で脚部の西側に設置)
- 地下1階
- 展望台のさらに上、テレビ中継室[53]と呼ばれる部屋には放送用の機材は特になく、天井から「通天閣再建由来記」の入った茶壺がつり下げられていると言う[54]。由来記は巻物状であり、2012年現在は茶壺から出され、4階で展示されている。
- 展望台の下、高さ75mの位置から長さ9mの鉄骨製の錘状突起(通称「喉仏」)が4方向に突き出ているが、これは季節やイベントに応じて万国旗や鯉のぼりなどを吊り下げるためのアームに使われる。
- 中層階屋上(地上26m)を利用して、和風庭園「通天閣庭苑」(約400平方m)が2017年10月27日に開設された[55]。
ネオンサイン
夜間は、黄金色と白色を基調とするネオンの光で塔全体が彩られ、さらに毎時0分になると、塔東側面にある大時計の文字盤が鮮やかなグラデーションで光る。ネオンはおよそ5年ごとに更新されていて、2017年2月時点では13代目である。また、塔頂上には翌日の天気予報を4つの色の組み合わせで示すネオンサインが点灯する(晴=白、曇=橙、雨=青、雪=ピンク)。このネオンサインの装置は日本気象協会関西支社と専用回線[56]で接続されており、そこからの情報に基づいて予報が表示される仕組みになっていて、1979年(昭和54年)に日立製作所により制作、設置されたものである。大阪ではめったに「雪」が観測されないため、雪予報の時に表示されるピンクのネオンは、かなりレアなものとして認識されている[57]。
2006年(平成18年)に再建50周年を迎えるに当たり、改修工事が行われた。大時計の形が丸から八角形に変更されたほか、ネオンの色も変更され、より目立つようになった。
さらに、2011年(平成21年)7月から10月までの間にも、ネオンサインの改修工事を実施。4種類の色を発していた広告部分のネオン管の大部分を6色のLED管に変更することによって、消費電力を抑えつつ、多彩なイルミネーションを実現した[58]。同年10月28日より点灯。
2016年9月からの再建60周年改修工事(前述)では、工事前まで長らく東面に設置していたアナログ時計を、季節に応じたデジタル時計や歴代の時計盤面デザインなどを表示できるLEDの動画ビジョンに変更[59]。ネオンサインで表示する広告の文言も一新した。さらに、使用するLEDの総数を1万9,650万個から3万2,579個、LEDで表示する色彩数を6色から12色に増加。このため、月替わりで1色ずつ表示する方式のライトアップが可能になった[33]。
行事
毎年末には、恒例イベントとして「干支の引き継ぎ式」が執り行われている[60][61]。ここでは本物の動物が登場するが、辰年の場合はグラスに入ったタツノオトシゴとなる。
毎年2月には、「大阪府民・大阪市民の繁栄と幸福」を祈願する「節分福豆まき」も恒例行事として行われている。
開業100周年を記念して、通天閣史上初のオフィシャルバンド『通天交響楽団(イーゼル芸術工房)』が結成された。引退となった2代目のビリケン像は『通天交響楽団(イーゼル芸術工房)』のメンバーとして加入した。
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初代通天閣
1903年(明治36年)の第5回内国勧業博覧会誘致において、東京との激しい招致合戦に勝利、パリに飛びパリ万国博の仕組みを詳細に調査して成功に導いた、当時の大阪商業会議所会頭・土居通夫が、この博覧会の跡地に新世界ルナパーク、パリのエッフェル塔を真似た通天閣の建設を構想する。土居は周囲の猛反対を押し切って、パリの凱旋門にエッフェル塔の上半分を乗せたような初代通天閣が1912年(明治45年)7月3日にルナパークと共に建設された[7]。設計は設楽貞雄。建設費用は約9万7000円で、当為の入場料は10銭。300尺(91メートル)という触れ込み(実際は250尺/約75メートル[62][63])で、その当時東洋一の高さを誇っていた。 藤沢南岳によって命名された通天閣は、ルナパーク開発会社である大阪土地建物の社長であった土居の名前を入れる意図が含まれているとされる[64]。
通天閣は、ルナパークと「ロープ・ウエィ」で結ばれており、人々に親しまれていた。大阪で2番目(非貨物専用としては最初)の昇降機が設置され評判となった。現在の二代目と同じように塔側面に巨大ネオン広告があった時期があり(1920年(大正9年)に導入)、当時の広告は「ライオン歯磨」であった[65](後に阪神電車の広告も加わる)。
通天閣の電灯工事には当時大阪電灯に勤務していた松下幸之助(後にパナソニック創業者、当時17歳)が配線工として参加している。
1938年(昭和13年)に吉本興業に買収された後、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)1月16日に直下にあった映画館・大橋座の火災で通天閣の脚部が加熱により強度不足となる。そのため、鉄材を軍需資材として大阪府に「献納」するという名目で同年2月13日から塔は解体され、初代通天閣は姿を消した。なお終戦後赤錆となった残骸が明石市の浜辺で見つかっている。
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落成式典、1912年
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通天閣とルナパークを結んだ「ロープ・ウエィ」、1912年
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夕暮れ時のルナパーク、1912年
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ルナパークの夜景、1912年
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新世界から、1920年
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新世界から、1920年
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新世界・恵比寿門から、1920年
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新世界から、1920-1943年頃
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ルナパークの一号館から、1920-1943年頃
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ジャンジャン横町から、1920-1943年頃
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脚下の映画館の火災により損傷、1943年
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解体工事中、1943年
通天閣が登場する作品
大阪を代表する施設として、大阪を舞台にした様々な作品の舞台で使われている。
- 演劇
- 『王将』、1947年
- 映画
- 『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』、1966年
- 『ガメラ対大魔獣ジャイガー』、1970年
- 『(秘)色情めす市場』、1974年
- 『資金源強奪』(監督:深作欣二)、1975年
- 『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』、1981年
- 『野獣刑事』(監督:工藤栄一)、1982年
- 『王手』(監督:阪本順治)、1991年
- 『ビリケン』(監督:阪本順治、二代目通天閣40周年記念映画)、1996年
- 『名探偵コナン 世紀末の魔術師』(監督:こだま兼嗣)、1999年
- 『SHINSEKAI ~あなたの愛を見つける街~』、2011年
- 『プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 通天閣 熱き7人/商店主と塔博士の挑戦』、2001年
- Vシネマ
- ゲーム
- 『初代熱血硬派くにおくん』 テクノスジャパン、1992年
- 『通天閣』 ソニー・ミュージックエンタテインメント、1995年
- 『龍が如く2』 セガ、2006年
- 『心はいつもラムネ色』(NHK、NHK大阪放送局・制作)
- 『ふたりっ子』(NHK、NHK大阪放送局・制作)
- 『ウルトラマンダイナ』(毎日放送、円谷プロ・制作)
- 『仮面ライダーW』第30話(テレビ朝日、東映・制作)
- 『 花影忍法帳コミ☆トレ』(NHK教育テレビ、NHK大阪放送局・制作)
- 『ウルトラマン列伝』(テレビ東京、円谷プロ・制作)
- 『わろてんか』(NHK、NHK大阪放送局・制作)
- 『スマイルプリキュア!』第14話(ABC、東映アニメーション・制作)
- 『プリパラ』3rdシーズン・第116話からのエンディング(テレビ東京・制作)
- 『こちら葛飾区亀有公園前派出所』143巻、195巻
通天閣がニックネームとして登場するケース
- マンガ『ドカベン』の登場人物・坂田三吉は投球を天高く放物線を描く「通天閣投法」や「通天閣打法」「通天閣捕球」など一連の秘技にこの塔の名を関している(ちなみに坂田は「通天閣高校」という架空の高校の出身という設定)。
- 女子プロレスラーのダイナマイト・関西は、ジャンピング系パワーボムの一種である「スプラッシュマウンテン」をフィニッシュホールドとして確立する以前、スプラッシュマウンテンと同様の体勢からジャンプせずに投げっぱなし式パワーボムを打つ技を「通天閣スペシャル」と称してフィニッシュホールドに用いていた。
- 2013年後期のNHK連続テレビ小説『ごちそうさん』の登場人物・西門悠太郎(演:東出昌大)は大阪弁を話すことと主人公・め以子(演:杏)を上回る長身から「通天閣」と言うあだ名を付けられた。
- 元気のレースゲーム『首都高バトル01』では阪神エリアに「TuTenKaku」というチームが存在する(なお、ゲームのOPにてスープラが止まっている場所に通天閣が登場する)。
アクセス
- Osaka Metro堺筋線 恵美須町駅から徒歩3分
- 阪堺線 恵美須町停留場から徒歩3分
- Osaka Metro御堂筋線・堺筋線 動物園前駅から徒歩6分
- 阪堺線 新今宮駅前停留場から徒歩6分
- JR 新今宮駅(通天閣口:東口)から徒歩6分
- 南海 新今宮駅から徒歩8分
- 南海 今宮戎駅から徒歩8分
脚注
- 注釈
- 出典
- ↑ 2007年(平成19年)5月29日文部科学省告示第89号「文化財を登録有形文化財に登録する件」
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 “通天閣基本データ”. 通天閣観光. . 2012-6-8閲覧.
- ↑ 3.0 3.1 『通天閣 人と街のものがたり』 p.140
- ↑ 耐震化工事前の2012年に奥村組が実施した耐震診断で判明。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 なにわのシンボル「通天閣」、世界初の展望塔免震化(1)(『日経コンストラクション』2015年2月24日付記事)
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 『通天閣 人と街の物語』 p.15 「3.笑い話みたいな夢 形に」
- ↑ 7.0 7.1 『通天閣 人と街のものがたり』 p.141
- ↑ 初代通天閣を建設した大阪土地建物の社長だった土居通夫の名前を入れる意図も含まれているとされる(公式サイト「資料館」参照)
- ↑ 9.0 9.1 竹中工務店2016年度新卒採用サイト プロジェクト・ストーリー「通天閣耐震改修」
- ↑ 10.0 10.1 なにわのシンボル「通天閣」、世界初の展望塔免震化(2)(『日経コンストラクション』2015年2月24日付記事)
- ↑ 通天閣館内案内「通天閣わくわくランド」
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 『通天閣 人と街の物語』 p.9 「2.図面広げ『ほな進めよか』」
- ↑ 13.0 13.1 『通天閣 人と街の物語』 p.20 「4.開業 気分は『七人の侍』」
- ↑ 『通天閣 人と街のものがたり』 p.102
- ↑ 15.0 15.1 『通天閣 人と街のものがたり』 p.55
- ↑ “ネオンの歴史”. 通天閣観光. . 2012-6-8閲覧. - 1957年および1970年の箇所。
- ↑ “ネオンの歴史”. 通天閣観光. . 2012-6-8閲覧. - 1957年の箇所。
- ↑ “ネオンの歴史”. 通天閣観光. . 2015-9-15閲覧. - 1967年・1983年・1988年の箇所。
- ↑ “ネオンの歴史”. 通天閣観光. . 2015-9-15閲覧. - 1970年の箇所。
- ↑ 「亀の子マーク」は2016年現在も日立製作所の社章として使われ、同社の社債や公式ホームページのアイコンなどで使われている。
- ↑ “ネオンの歴史”. 通天閣観光. . 2015-9-15閲覧. - 2001年の箇所。
- ↑ “ネオンの歴史”. 通天閣観光. . 2015-9-15閲覧. - 1974年・1976年・1979年の箇所。
- ↑ “ネオンの歴史”. 通天閣観光. . 2012-6-8閲覧. - 1979年の箇所。
- ↑ 大阪市男女いきいき財団「大阪ピンクリボンキャンペーン」
- ↑ 大阪のシンボル「通天閣」がイエローに!!(阪神タイガース公式サイト2015年3月5日付球団イベントニュース)
- ↑ 26.0 26.1 26.2 26.3 通天閣ライトアップ完全消灯 メンテナンス工事のため(『THE PAGE』2016年9月1日付記事)
- ↑ 節電運動の一環としてライトダウンキャンペーンに参加 通天閣LED・ネオン広告の消灯(日立グループ2013年6月19日付プレスリリース)
- ↑ 『通天閣 人と街のものがたり』 p.101、p.103
- ↑ 29.0 29.1 耐震を免震に 大阪・通天閣の工事完了で天井画も復刻(『THE PAGE』2015年7月3日付記事)
- ↑ 登録有形文化財「通天閣」の改修工事が完了~なにわのシンボル「通天閣」を免震展望タワーに~(竹中工務店2015年5月25日付プレスリリース)
- ↑ 31.0 31.1 31.2 31.3 クラブコスメチックス「通天閣天井画復刻計画」
- ↑ 夜の大阪・新世界さびしく? 通天閣、来年まで消灯(『朝日新聞』2016年9月2日付記事)
- ↑ 33.0 33.1 大阪・通天閣、5カ月ぶりに灯がともる(『Lmaga.jp』2017年2月10日付記事)
- ↑ 34.0 34.1 通天閣のいまむかし VRで 日立が無料アプリで紹介(『朝日新聞』2016年10月27日付記事)
- ↑ 『通天閣 人と街の物語』 p.35。pp.37-39によれば、エレベーターだけでは入場者を捌ききれず、非常階段を利用していたという。
- ↑ 朝日新聞(2008年3月29日付)
- ↑ 『通天閣 人と街のものがたり』 p.88
- ↑ 『通天閣 人と街のものがたり』 pp.92-93
- ↑ 『通天閣 人と街のものがたり』 pp.94-95
- ↑ 日本一の超高層ビル「あべのハルカス」に、なぜか通天閣が宣戦布告(『週刊プレイボーイ』2014年3月14日付記事)
- ↑ ちゃっかり便乗、100周年の通天閣 スカイツリー開業(『朝日新聞』2012年5月22日付記事)
- ↑ 新世界・通天閣100周年に向けて「黄金の展望台」堂々完成!:公式サイト2012年4月23日
- ↑ 通天閣:改装 天空の黄金茶室:毎日新聞2012年4月27日
- ↑ 金髪の3代目ビリケン登場 通天閣で32年ぶり交代スポニチ 2012年5月23日
- ↑ 通天閣スカイウォークSTAFFブログ
- ↑ 通天閣に屋外型の新展望台「天望パラダイス」 プロポーズなどで貸し切りも
- ↑ 申年へ視界良好…通天閣“オープン展望台”が営業スタート
- ↑ 「あれが六甲山、大阪城も」 新展望台オープン
- ↑ 通天閣 屋外展望台オープン
- ↑ 51.0 51.1 51.2 51.3 『通天閣 人と街のものがたり』 p.58「11.社員4人"即席飼育員"」
- ↑ 通天閣地下劇場、24年の歴史に幕 近隣で存続目指す(『日本経済新聞』2013年6月29日付記事)
- ↑ 通天閣てっぺんの謎の空間はテレビ塔計画の名残り? THEPAGE大阪
- ↑ 『通天閣 人と街のものがたり』 pp.137-138
- ↑ 「通天閣に和風庭園登場 中層階に竹垣や石灯籠」『日本経済新聞』地域ニュース(関西)
- ↑ 通天閣の天気予報ネオン「雪」知らせるピンク色に、点灯操作行う気象協会へTHEPAGE大阪
- ↑ 大阪12日は珍しい雪予報 通天閣の天気予報ネオンがレアな色に輝くTHEPAGE大阪
- ↑ 通天閣LED・ネオン広告日立グループ関西エリアポータルサイト
- ↑ 「通天閣」新しいネオン点灯 なにわのシンボルの輝き復活THEPAGE大阪
- ↑ 申から酉へバトンタッチ 通天閣で恒例の干支の引き継ぎTHEPAGE大阪
- ↑ 『通天閣 人と街のものがたり』 p.63「12.ご対面ハプニング続き」
- ↑ 初代通天閣 交通科学博物館
- ↑ NHKプロジェクトX制作班『プロジェクトX 挑戦者たち〈12〉起死回生の突破口』日本放送出版協会 ISBN 978-4140806807、NHK「プロジェクトX」制作班 『プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 通天閣 熱き7人/商店主と塔博士の挑戦』日本放送出版協会 電子書籍(参考)
- ↑ 資料館 - 通天閣。なお、通天閣の命名者である藤沢南岳は、大阪商工会議所に建立された土居の銅像に付された碑文の撰者にもなっている(外部リンクを参照)
- ↑ 『通天閣 人と街の物語』 p.52
文献
- 参考文献
- 読売新聞大阪本社社会部(編)、2002、『通天閣 人と街のものがたり』、新風書房 ISBN 4882695081
- 関連文献
- 木下博民著『通天閣 第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯』創風社出版、2001年5月、ISBN 4915699986
- 文献あり
- 阪本順治、豊田利晃脚本、丹後達臣ノベライズ『ビリケン』(『扶桑社文庫』)、扶桑社、1996年7月、ISBN 4594020356
- 下元信行著『通天閣の歌姫伝説・叶麗子物語』現代書館、1992年9月、[1]、ISBN 4768466109
- 通天閣観光編『通天閣30年のあゆみ』通天閣観光、1987年3月
- 年表: p111~128
- 二鬼薫子著『通天閣物語』鳥影社、1997年1月、ISBN 4886293123
- 橋爪紳也著『大阪モダン 通天閣と新世界』(『気球の本 Around the world library』)、NTT出版、1996年7月、ISBN 4871886239
- NHKプロジェクトX制作班、『プロジェクトX 挑戦者たち〈12〉起死回生の突破口』、日本放送出版協会、ISBN 978-4140806807