一揆
一揆(いっき)とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団及び、これを基盤とした既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動。ドイツ語のPutsch[1]の訳語としても使われる(カップ一揆や、アドルフ・ヒトラーらが起こしたミュンヘン一揆など)。
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概要
『孟子』に由来する言葉で、本来は揆(やり方、手段)をひとつにするという意味で、平安時代後期から鎌倉時代には武家が団結する意志や集団行動を表す言葉として使われているが、同時代には易占の結果や意見が一致するという用例も見られた[2]。江戸時代になると、幕府に公認された既存の秩序以外の形で、こうした一揆の盟約による政治的共同体を結成すること自体が禁じられるようになるため、近現代の日本では一揆自体があたかも反乱、暴動を意味する語であるかのように誤解されるようになった。確かに一揆が反乱的、暴動的武力行使に踏み切ることもあるが、こうした武力行使が一揆なのではなく、これを行使する「盟約に基づく政治的共同体」そのものが一揆なのである。こういった誤解のため、日本の一揆が英訳されて日本国外に紹介されるに際しても、 riot, revoltといった暴動や反乱を意味する語として訳されるのが一般化してしまった。近世の「百姓一揆」もpeasant uprisingと英訳されて紹介されているが、現実にはpeasantの意味する零細な小作人だけによるものではなく、むしろ村落の指導的な立場に立つ裕福な本百姓らによって指導されており、彼らはむしろ英語で農場経営者を指す語であるfarmerと訳すのがふさわしい事を考慮すると、これも歴史的事実に即した英訳とは言えない。また逆に、政府に対する暴動、反乱を意味するドイツ語の「Putsch」を日本語訳する際にカップ一揆、ミュンヘン一揆とするように「一揆」の語を当てることが慣用化している面があるが、これも中世の日本の一揆とは似て非なるものと言わざるを得ない。
室町時代・戦国時代を中心とした中世後期の日本社会は、下は庶民から上は大名クラスの領主達に至るまで、ほとんど全ての階層が、自ら同等な階層の者と考える者同士で一揆契約を結ぶことにより、自らの権利行使の基礎を確保しており、正に一揆こそが社会秩序であったと言っても過言ではない。戦国大名の領国組織も、正に一揆の盟約の積み重ねによって経営されていたのである。例えば戦国大名毛利氏の領国組織は、唐傘連判状による安芸国人の一揆以外の何者でもなかった。そのため、一揆が原因になることもあるが、政権の転覆を図る反乱、暴動、クーデターなどとは本来ははっきりと区別されるべき語である。
いわゆる暴動に該当するのは、一揆の形態のひとつに過ぎない、土一揆である。その最初の例である正長の土一揆については、尋尊の『大乗院日記目録』において、「日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。」と記載されており、土一揆というのは極めて特異なものであった事がうかがえる。
このように、実際に一揆の盟約によって秩序が達成されていた中世後期から、表向きは一揆が禁止されていた中で実際には百姓身分の権利行使運動として恒例化していた江戸時代のいわゆる百姓一揆の時期を経ることで、現代では一揆の本来の意味は忘れられ、理解されがたくなってしまっている。そのため、戦国大名毛利氏を成立させた毛利元就の生涯を描いたNHK大河ドラマ『毛利元就』において、元就が安芸国人の国人一揆を結ぶ場面で一揆の語の使用が避けられて、「国人領主連合」なる一種の現代語訳が用いられた例もある。逆の例として『水戸黄門』第22部 第26話 では、がめつい商人に対して職人たちが共謀して反抗した行為(本来の一揆とは全く異なる行為である)が、作中の人物によって「一揆まがいの行動」と解説された。また、中世後期の一揆の盟約による政治的共同体が武装していたことから武装勢力の蜂起の意味合いを強く想起する向きもあるが、この時代、自検断権に基づいて、ほとんど全ての階層の共同体が軍事警察力と司法権の行使を認められ、その達成のための保障となる武装は当然であったことを忘れてはならない。
特に日本が明治期以降の近代に入り、江戸時代が最も近い前近代の「歴史」となってからは、一揆は「百姓一揆」を指すような印象があるが、前述のように表向きは一揆の盟約が禁止されていながらも、百姓身分の権利行使の慣例として現実的には認めざるを得なかったという、現実と建前の著しく乖離した構図を持っていたこの時代の一揆をもって、日本の歴史的一揆の典型とみなすべきではないであろう。この表向きの一揆の盟約の禁止下で行われた百姓一揆は、その建前上の性格ゆえに土寇(どこう)とも漢語表記された。
日本ではこのような狭義の一揆(百姓一揆)が一般市民レベルでは普及しているが、上記のような事情に鑑みると、その一揆観は一揆のごく一部の相を見て創られたものに過ぎない。実際の一揆は、大名層からの抑圧に関係なく結ばれることも多く、また、一揆内での主導権を巡る派閥抗争も絶えなかった。こうした一揆内の派閥抗争を一揆内一揆と呼ぶことがあり、越前一向一揆におけるものが有名である(下間頼照を参照)。
一揆の盟約を結ぶに際しては、神前で宣言内容や罰則などを記す起請文を書いて誓約を行い、紙を焼いた灰を飲む一味神水と呼ばれる儀式が行われた。
歴史
室町時代から江戸初期までの社会用語としては、神社勢力が強訴などの要求を行うための武力である僧衆(江戸時代に僧兵と呼ばれる)も含め、中央もしくは地方政権から非公認の武装勢力そのもの、もしくはそれらが何らかの主張のもと既成の支配体制に対して武力行使を含む抵抗運動を展開している状態を指し、室町時代のそれを国一揆(くにいっき)と言う。
通説的には惣領制が崩壊し、庶子家が独自の動きを取り始めると一族一揆を結ぶことで庶子家との繋がりを維持したが、やがて地縁による国人一揆へと発展したと言われるが、必ずしもそのように単純に移行した訳ではない。
一般的には血統的正統性や圧倒的な武力を持つリーダーが存在せず、「連判状」はんせいに代表される一揆契状に見られるように、局地的には全参加者が平等で民主的な合議制の場合が多く、それ故に迅速で統一的リーダーシップが存在せず、大部分は一時強勢を誇っても内部分裂等で弱体化し、個別に撃破されるケースがほとんどであった。しかし、中には守護など上位者が、地域の中小武士に斡旋して一揆を組織させ、実質上の家臣団として編成する例も見られる。
南北朝時代から室町時代には、関東地方で武蔵七党など中小武士団による白旗一揆、平一揆などの国人一揆が盛んに結ばれる。やがて同属集団である国人一揆から地域集団である国一揆へと主体が移り変わる。国一揆は山城の国一揆、伊賀惣国一揆、甲賀郡中惣など畿内に集中する。また、この時代は寺社も領主であったことを背景に、寺社を基盤とした一揆もつくられ、浄土真宗の本願寺派や高田派、法華宗などの門徒が、自らが属する教団や自らの信仰を守るために、一揆を結ぶようになった。加賀国(石川県)では、室町時代に応仁の乱で東軍に属した守護の富樫氏を追放し、戦国時代まで100年近くに亘って一揆勢が共和国的な体制を維持していた最大にして唯一の成功例とも言える。この場合も周辺諸国の事情がそれを許しただけであり、現に事情が変われば瞬く間に内部分裂が起こり、織田信長と対立して敗北した。
江戸時代には幕府が一揆を禁止し、1637年(寛永14年)の島原の乱以降は一揆は沈静化し、強訴や逃散など百姓一揆と呼ばれる闘争の形態が主流となる。豊臣政権時代より領内の騒擾を理由とした大名改易のケースが現れたため、「領内が治まっていない」ことを公然と示すことができれば、領主側に匹敵する武力を集めずとも、責任問題を恐れる領主や代官への重大な圧力となった。百姓一揆の闘争形態の分類として、代表越訴、惣百姓一揆、村方騒動、国訴などが挙げられる。
江戸時代後期の天明・天保年間には再び広域の一揆が多発し、この頃には無宿など「悪党」と呼ばれる集団に主導され、武器を携行し打ち壊しのみならず、強盗や放火など百姓一揆の作法から逸脱行為を行う形態の一揆も見られ、幕末には世直し一揆、明治には新政府の政策に反対する徴兵令反対一揆や解放令反対一揆、地租改正反対一揆が起こる。
形態
一揆の事例
中世
- 1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年):武蔵平一揆、相模平一揆、白旗一揆
- 徳政一揆
- 1400年(応永7年):大文字一揆
- 1418年(応永25年):上総本一揆
- 1429年(永享元年):播磨国一揆
- 1465年(寛正6年):額田郡一揆
- 1485年(文明17年):山城国一揆
戦国・安土桃山時代
- 加賀一向一揆
- 法華一揆(天文法華の乱)
- 雑賀一揆
- 伊賀惣国一揆
- 1563年(永禄6年):三河一向一揆
- 1585年(天正13年):祖谷山一揆
- 1586年(天正14年):北山一揆
- 1587年(天正15年):肥後国人一揆
- 1589年(天正17年):天草国人一揆
- 1590年(天正18年):葛西大崎一揆
- 1590年(天正18年):和賀・稗貫一揆
- 1590年(天正18年):仙北一揆
- 1592年(文禄元年):梅北一揆
- 1600年(慶長5年):岩崎一揆
- 1600年(慶長5年):浦戸一揆
江戸時代
- 1603年(慶長8年):滝山一揆
- 1608年(慶長13年):山代慶長一揆
- 1614年(慶長19年):北山一揆
- 1615年(慶長20年):紀州一揆
- 1620年(元和6年):祖谷山一揆
- 1637年(寛永14年):島原・天草一揆(島原の乱)
- 1652年(承応元年):小浜藩領承応元年一揆
- 1677年(延宝5年):郡上一揆
- 1686年(貞享3年):貞享騒動(加助騒動)
- 1690年(元禄3年):山陰・坪谷村一揆
- 1722年(享保7年):越後質地騒動
- 1726年(享保11年):美作津山八千人暴動
- 1729年(享保14年):岩代五十四ヶ村農民暴動
- 1739年(元文4年):元文一揆(勘右衛門騒動)
- 1748年(寛延2年):姫路藩寛延一揆
- 1753年(宝暦3年):籾摺騒動
- 1761年(宝暦11年):上田騒動
- 1764年(明和元年):伝馬騒動
- 1768年(明和5年):新潟明和騒動
- 1771年(明和8年):虹の松原一揆
- 1771年(明和8年):大原騒動
- 1781年(天明元年):絹一揆
- 1786年(天明6年):宿毛一揆
- 1793年(寛政5年):武左衛門一揆
- 1804年(文化元年):牛久助郷一揆
- 1814年(文化11年):北越騒動
- 1825年(文政8年):赤蓑騒動
- 1831年(天保2年):長州藩天保一揆
- 1836年(天保7年):天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)
- 1838年(天保9年):佐渡一国一揆
- 1842年(天保12年):山城谷一揆
- 1842年(天保13年):近江天保一揆
- 1847年(弘化4年):三閉伊一揆
- 1856年(安政3年):渋染一揆 - 昭和に誤って一揆とされたが、実際は強訴である。
近代
- 1869年(明治2年):ばんどり騒動、高崎五万石騒動
- 1870年(明治3年):中野騒動
- 1872年(明治5年):悌輔騒動
- 1873年(明治6年):筑前竹槍一揆
- 1876年(明治9年):伊勢暴動(東海大一揆)
- 1884年(明治17年):秩父事件
- 1922年(大正11年):木崎村小作争議
備考
- 池上裕子は、「中世と近世の分かれ目は、中世的な一揆の掃滅後、すなわち、1575年8月の一向一揆の終幕にある」とし、今谷明もこれを支持している[3]。
- 近世日本の世直し一揆や打ち壊しといった民衆闘争は多くの場合、非宗教的で世界史上でも極めて稀な特殊性をもっているとする見解がある[4]。その原因として、神道に論理的骨組みをもった説(救世・救済思想といった考え)がなく、権力否定や世直しの方法を生み出すことができなかったため[5]であり、大塩平八郎の乱のように神道説の上に世直し観念が示されることはあったが、それ自体が運動の原理にはならず[6]、極めて非宗教的、つまり通俗道徳を盾にして支配者を批判するといったスタイルの闘争として組織された結果とされる[7]。
脚注
関連書籍
- 青木虹二 編集『百姓一揆総合年表』(三一書房、1971年)
- 青木虹二・保坂智 編集『編年百姓一揆史料集成』(三一書房、1971年 - )
- 勝俣鎮夫 『一揆』 岩波書店、ISBN 4-00-420194-2
- 深谷克己監修 『百姓一揆事典』 民衆社、ISBN 4838309120
- 保坂智 『百姓一揆とその作法』 吉川弘文館、ISBN 4642055371
- 藤木久志 『刀狩り 武器を封印した民衆』 岩波書店〈岩波新書〉、2005年、ISBN 4-00-430965-4 C0221
- 新井孝重 『黒田悪党たちの中世史』 日本放送出版協会、2005年、ISBN 4-14-091035-6
関連項目
- 徳政令 - 私徳政
- 国人 / 地侍 / 土豪
- 傘連判状(からかされんばんじょう)
- 一向宗
- 根来法師 - 根来衆
- 佐倉惣五郎 - 江戸時代の百姓一揆の指導者、後に佐倉義民伝として歌舞伎となる。
- ええじゃないか - 世直し一揆 - 護法一揆 - 解放令反対一揆 - 地租改正反対一揆 - 自由民権運動
- 強訴 / 打ちこわし
- デモ / 暴動 / 革命
- 大塩平八郎の乱
- 生田万の乱
- 検地 / 太閤検地
- 刀狩
書籍以外の関連作品
- ゲーム設定的には江戸時代の百姓一揆をモデルにしたもので、最大で2人で一揆を起こすゲームである。当時のコンピュータゲームの性能や周辺環境など要因はあるものの、「1人で一揆もできる(ただし設定上は2人で立ち向かっているとなっている)」「一揆であるのに、何故か敵が忍者である(一応腰元も出る)」など、実際の一揆とはかけ離れているところもある。