カーボベルデ
- カーボベルデ共和国
- República de Cabo Verde
- 国の標語:なし
公用語 | ポルトガル語、カーボベルデ・クレオール語 |
---|---|
首都 | プライア |
最大の都市 | プライア |
独立 - 日付 | ポルトガルより 1975年7月5日 |
通貨 | カーボベルデ・エスクード (CVE) |
時間帯 | UTC -1(DST:なし) |
ISO 3166-1 | CV / CPV |
ccTLD | .cv |
国際電話番号 | 238 |
カーボベルデ共和国(カーボベルデきょうわこく)、通称カーボベルデは、大西洋の中央、北アフリカの西沖合いのマカロネシアに位置するバルラヴェント諸島とソタヴェント諸島からなる共和制の国家。首都のプライアはサンティアゴ島に位置している。
カーボベルデは島国であり、15世紀から1975年までポルトガル領であった。独立に際してアフリカ大陸部のギニアビサウと連邦を形成する計画があったが、1980年の同国で発生したクーデターによって頓挫し、現在に至っている。かつてはポルトガルの重要な植民地であったが、史跡としてはフランシス・ドレークによって破壊された町シダーデ・ヴェーリャが残っている。ポルトガル語諸国共同体、ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国。
国名
正式名称は、República de Cabo Verde。通称、Cabo Verde(ポルトガル語発音: [ˈkabu ˈveɾdɨ] カーボ・ヴェルデ)。
日本語の表記は、カーボベルデ共和国。通称、カーボベルデ。カーボヴェルデ、カボベルデとも表記する。漢字表記は辺瑠出角。
国名は、カーボベルデ共和国の対岸にあたるアフリカ大陸西端の岬、カーボ・ベルデ(ヴェルデ岬、ポルトガル語で「緑の岬」の意)に由来する(ただし、ヴェルデ岬自体はセネガル領)。
歴史
初期
ポルトガルの冒険家が1456年と1460年に、最初にこの諸島に着いた時は無人だったが、卓越風、海流などにより、ギニア海岸地方よりセレール人、ウォロフ人、レブ人、ムーア人の漁師などが訪れていたと思われる。
アラブ人、フェニキア人が昔から訪れていたという民話伝承がある。ポルトガルの冒険者ジャイメ・コルテサンはアラブ人は塩田に塩を取りに来ていた事を記録しており、Sal Island (Salt Island, サル島、塩の島)を指していると思われる。
現代の作家ギャヴィン・メンジーズは『1421 中国が新大陸を発見した年』(2002年)の中で15世紀の中国、明時代の冒険家 鄭和が1420年にこの島に到達していると論じている(この本で著者はクリストファー・コロンブスの前に鄭和一行がアメリカ大陸を発見していたとする議論を展開している)。
記録が残っている「発見」
分かっているカーボベルデ史の日付は、15世紀に到達した最初のポルトガル冒険者による。1444年、ディアゴ・ディアスはいくつかの島を発見した。1455年にはジェノヴァ商人のアントニオ・ノリと、ポルトガル人のディオゴ・アフォンソが訪れた。その後数十年に、エンリケ航海王子の仕事に就いていた、カダモストとアントニオ・ノリが残りの島々を発見した。1462年にポルトガル居住者は初めてサンティアゴ島に到達し、熱帯最初のヨーロッパ人の居住地となるリベイラ・グランデ(今のシダーデ・ヴェーリャ)を創設した。植民地化が始まった当初は、マデイラ諸島やアソーレス諸島のようなポルトガル人の大規模移住は行われなかったが、16世紀には、アフリカから南北アメリカ大陸へ向かう奴隷船の中継拠点となり、奴隷貿易で栄えた[2]。カーボベルデには入植したポルトガル人と連行されたアフリカ人によってクレオール文化が築かれ、両者の混血も進んだ[2]。海賊がしばしばポルトガル人居住地を攻撃した。1585年、イギリスの海賊サー・フランシス・ドレイクはリベイラ・グランデを略奪した。リベイラ・グランデは1712年のフランスの攻撃の後、1770年に首都となるプライアに比べてその重要性を失った。
1912年の「カトリック百科事典」によると、カーボベルデ諸島は1460年に、ギニアは1445年にポルトガル人によって「発見」された。これらの領土はクレメンス7世により、1553年の1月31日に司教管区に選ばれた。
奴隷貿易港から商業港へ
カーボベルデ諸島は18世紀終盤以降経験する頻発する旱魃・飢餓と、奴隷貿易の衰退によりその繁栄は緩やかに失われた。しかし大西洋奴隷貿易における中央航路の位置は、カーボベルデを理想的な補給港たらしめていたことから、19世紀には、サン・ヴィセンテ島にあるミンデロはその素晴らしい港により、重要な商業港となっていった。その一方で同じく19世紀には断続的な旱魃や、ポルトガルからもたらされた大土地所有制度の弊害などもあって、農業で暮らして行けなくなったカーボベルデ人の外国移住が始まり、特に多くがアメリカ合衆国へ向かった[2]。
政党「PAIGC」
1951年にポルトガルのアントニオ・サラザール政権は、カーボベルデを含む各植民地のナショナリズムを緩和させるために、その法的地位を植民地から海外行政地域に変更した。しかし1956年、カーボベルデ人のアミルカル・カブラルとラファエル・バルボーザは、ひそかにポルトガル領ギニア(現ギニアビサウ)で、ポルトガル領ギニアとカーボベルデの独立のためのギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (PAIGC)を結成した。PAIGCはカーボベルデとポルトガル領ギニアの経済、社会、政治状態の向上を求め、2両国の独立運動の基礎を成した。PAIGCは1960年にその本部をギニア共和国の首都コナクリに移し、1963年からポルトガルに対する武装抵抗を開始した(ギニアビサウ独立戦争)。武装闘争は結果的に10,000人のソビエト連邦やキューバのサポートを受けたPAIGCの兵士と、35,000人のポルトガル人及びアフリカ人の軍隊による戦争になった。
1972年までには、ポルトガル軍が駐留していたにもかかわらず、PAIGCはポルトガル領ギニアの3/4を制圧していたが、カーボベルデは地理的に隔絶しており物流がさほど無いことから、PAIGCはカーボベルデのポルトガル支配を破壊しようとはしなかった。しかし、1974年4月25日にポルトガルで起きたカーネーション革命を受け、PAIGCはカーボベルデでも活発な政治運動となった。
カーボベルデの国会成立と独立
1974年12月にPAIGCとポルトガルは、ポルトガル人とカーボベルデ人による暫定政府の同意書にサインした。1975年1月30日にカーボベルデ人は国会を選出し、1975年7月5日にポルトガルからの独立の法的承認を受けた。
PAICV
独立当初、ギニアビサウとカーボベルデは統一国家建設を目指していたが、1980年のギニアビサウでのジョアン・ヴィエイラ首相によるクーデターにより、カーボベルデ系の初代大統領ルイス・カブラル(アミルカル・カブラルの弟)が失脚すると(ポルトガル領ギニアは1973年に独立を宣言、1974年法律上の独立を認められる)、両国間の関係は緊張した。カーボベルデはギニアビサウとの統一の望みを捨て、PAIGCカーボベルデ支部は1981年にカーボベルデ独立アフリカ党 (PAICV) に改組した。PAIGC/PAICVは一党制を樹立し、独立から1990年までカーボベルデを統治した。後に諸問題は解決され、現在両国間の関係は良好である。
複数政党体制へ
政権運営後、増大する批判を受けて、PAICVは一党制を終わらせる憲法改正案を議論するための緊急議会を1990年2月招集した。反対グループは集まって、1990年4月にプライアで民主運動 (MpD) を形成した。PAICVとMpDなどの政党は共に、1990年12月の大統領選挙への異議を唱える権利を主張した。一党制は1990年9月28日に廃止され、初の多数政党の選挙は1991年1月に行われた。MpDは国会での多数派を勝ち取り、MpDの大統領候補アントニオ・マスカレニャス・モンテイロはPAICVの候補者を破り、1975年から大統領職にあったアリスティデス・ペレイラからその座を継いだ。1992年には、憲法が制定され、議会制度が定められた。
1995年12月の議会選挙は国会でのMpDの勢力を増大させ、全72議席のうちの50議席を占めた。1996年2月の大統領選挙では、PAICVをはじめとする野党は候補者を擁立せず、モンテイロ大統領が再選を決めた。1995年12月と1996年2月の選挙は自由かつ公正であると内外の監視団によって評価された。
2000年と2001年の大統領選挙では、2人の元首相、PAICVのペドロ・ピレスとMpDのカルロス・ヴェイガが主な候補者だった。ピレスはPAICV統治時代に、ヴェイガはモンテイロの大統領時代に首相だった。両者とも半数近くの得票数の歴史的接戦だったが、ピレスが12票差で激戦を制した。2011年の大統領選挙ではMpDが政権を奪回し、ジョルジェ・カルロス・フォンセカが大統領に就任した。
政治
カーボベルデは国家体制として共和制、半大統領制を採る立憲国家である。現行憲法は、1992年9月25日に採択されたもの。1995年と1999年の2回、大幅な改正が行われている。
国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年で、3選は禁止されている。首相は国民議会により選出され、大統領が任命する。内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、首相の推薦に基づき大統領が任命する。
立法府は一院制の国民議会である。定数は72議席。議員は比例代表制に基づき、国民の直接選挙で選出される。任期は5年。
カーボベルデは憲法で複数政党制を認めているが、実質的には二大政党制が機能している。一方は、1975年の独立から1991年まで一貫して一党独裁政権を担い続けた中道左派のカーボベルデ独立アフリカ党(PAICV)である。もう一方は、PAICVの一党支配に反発して結成され、同国史上初の政権交代を実現させたリベラル政党の民主運動(MpD)である。PAICVは1991年に1度、大統領職と行政府をMpDに明け渡したが、2001年より再び選挙によって再び双方を掌握している。PAICVとMpD以外の政党の勢力は限定的だが、比較的有力なものに中道右派の民主独立カーボベルデ連合(UCID)がある。
司法府の最高機関は、最高司法裁判所である。法体系は、旧宗主国であるポルトガルの法体系が基幹となっている。
軍事
地方行政区分
主要都市
地理
カーボベルデ諸島(ヴェルデ岬諸島)は西アフリカ大陸部から約375km離れた場所に位置している。10の島(内9島が有人)と8の小島から構成されている[3]。大小15の火山群島からなり、最高峰はフォゴ島のフォゴ山(2829m)。熱く乾燥した気候で、旱魃が何年も続く事があり、農作物などが被害を受けやすい。 地質学的にはプレートの運動により大西洋が拡大中に、ホットスポットでマントルの部分融解融で発生したマグマが噴出した玄武岩類が諸島を形成した。現在の島を構成するのは2千万年前から8百万年前の火山岩である。 カーボベルデはバルラヴェント諸島とソタヴェント諸島に分かれている。サル島、マイオ島、ボア・ヴィスタ島は比較的起伏が少なく、砂丘等が見られるが、その他の島々は山岳的な様相を呈し、荒涼とした絶壁や荒地が広がり、国全体が深刻な水不足に悩まされている。
バルラヴェント諸島
ソタヴェント諸島
気候
月 | 平均気温(摂氏) | 平均気温(華氏) | 降水量 mm |
---|---|---|---|
1月 | 24°C | 75°F | 5.3mm |
2月 | 24°C | 75°F | 3.8mm |
3月 | 25°C | 77°F | 1.3mm |
4月 | 25°C | 77°F | 0.0mm |
5月 | 25°C | 78°F | 0.0mm |
6月 | 26°C | 79°F | 0.0mm |
7月 | 27°C | 81°F | 0.8mm |
8月 | 29°C | 84°F | 14.1mm |
9月 | 29°C | 85°F | 33.6mm |
10月 | 29°C | 83°F | 6.5mm |
11月 | 27°C | 81°F | 2.5mm |
12月 | 25°C | 77°F | 1.6mm |
経済
農業、漁業が主産業。資源が少ない為、経済建設を進めており、アフリカ内では比較的安定した政治と自由経済とが相まって、順調な経済成長が進んでいる。政府は、債務削減、成長産業への優遇税制導入、マクロ経済の安定、海外直接投資の呼び込み、社会サービスの向上などを主要の政策としている。かつては後発開発途上国に含まれていたが、経済成長によって2007年に指定を解除された。
国民
民族
クレオール(ムラート)が71%、アフリカ系が28%、ヨーロッパ系が1%である[5]。
言語
公用語はポルトガル語だが、最も広く使われているのはそのクレオールであるカーボベルデ・クレオール語である。
宗教
国民の85%が通常のローマ・カトリックであり[6]、その他のカトリック教徒はアフリカの宗教の影響を受け、習合している[7]。他にプロテスタント諸宗派が存在し、プロテスタントの宗派で最大のものはナザレン教会であり、その他にセブンスデー・アドベンチスト教会、末日聖徒イエス・キリスト教会、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド、Universal Church of the Kingdom of God、そしてペンテコステ派と福音派の教会が少数存在する[6]。小規模なバハーイー教のコミュニティと、小規模だが成長中のムスリムのコミュニティが存在する[6]。無神論者は人口の1%以下だと見積もられている[6]。
教育
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は76.6%(男性:85.8% 女性:69.2%)である[5]。2006年にはGDPの6.3%が教育費に支出された[5]。
カーボベルデ人離散
現在、本国の人口を上回る数のカーボベルデ人が外国で生活しており、重要なカーボベルデ人移民のコミュニティであるアメリカ(500,000人のカーボベルデ系アメリカ人が生活し、多くはロードアイランド州からニューベッドフォードまでのニューイングランド沿岸に集中している)のブロックトンに最も集中している。相当数のカーボベルデ系人人口がまたサン=トメ・プリンシペ、ポルトガル(カーボベルデ系ポルトガル人、80,000人)、アンゴラ(カーボベルデ系アンゴラ人、45,000人)、セネガル(25,000人)、そしてイタリア(10,000人)やフランス、オランダに存在する。
アメリカでは移民第1波は当国での人種主義政策からアフリカ系と見なされることを拒み、「ポルトガル人」であると称したため「黒いポルトガル人」と呼ばれた[2]。しかし、このような姿勢からカーボベルデ人と同様に扱われることを拒んだポルトガル系アメリカ人や、カーボベルデ人が交流を拒否したアフリカ系アメリカ人との対立が進んだ[2]。第一世代の子供と孫は1960年代の公民権運動に参加した。これは彼等と他の黒人グループとの関係構築を成した。カーボベルデ人はマカオからハイチ、アルゼンチン、北ヨーロッパにまで世界各地に移動している [8]。
文化
カーボベルデの社会的、文化的パターンはポルトガルとアフリカの地方部のそれと似通っている[3]。サッカーの試合と教会の活動は典型的な社会的交流と娯楽の源泉である[3]。伝統的に友人と会うために広場を歩くことは、カーボベルデでの町では日常的に行われる[3]。電気が普及した街では、2つのチャンネルが利用できる(カーボベルデのものとポルトガルのものである)[3]。
食文化
カーボベルデの料理は大概魚とトウモロコシと米のような主食を基礎としている。野菜は1年の大半を通してジャガイモ、タマネギ、トマト、マニオク、キャベツ、ケール、乾燥豆が利用される。バナナやパパイヤのような熱帯性の果物は1年中入手でき、マンゴーやアボカドといったものは季節が限定される[3]。カーボベルデで人気のある料理はカシューパである。
文学
カーボベルデの文学はポルトガル語圏アフリカで非常に豊かだとされるものの1つである。著名な詩人としてセルジオ・フルゾーニ、エウジェニオ・タヴァレス、B・レザ、ペドロ・カルドーゾが挙げられ、マヌエル・ロペス、エンリケ・テシェイラ・デ・ソウザ、アルメイダ・ジェルマーノ、2009年にカモンイス賞を受賞したアルメニオ・ヴィエイラのような作家も挙げられる。
音楽
カーボベルデの音楽はポルトガル、西インド諸島、アフリカ、ブラジルの音楽から影響を受け、混合している[9]。アフリカ系の住民の多いソタヴェント諸島ではアフリカ系の音楽の影響が強く、ポルトガル系の多かったバルラヴェント諸島ではポルトガルの音楽の影響が強く、ヴァイオリン、カヴァキーニョ、ポルトガル・ギターが用いられる[2]。カーボベルデの真髄たる国民音楽はモルナ(バルラヴェント系)であり、概してカーボベルデ・クレオール語で歌われる、哀愁あり、かつ熱情的な歌の様式である。その他のポピュラー音楽のジャンルとしてはフナナー(ソタヴェント系)やバトゥーケ、コラーなどが挙げられる。カーボベルデ出身の歌手の中でも最もよく知られた存在とはセザリア・エヴォラであり、2003年に米国グラミー賞も獲得した彼女の歌は国家とその文化の特質となった。
舞踊
ダンスの様式としては、ソフトダンスのモルナと、モルナの近代化したパッサーダ(ズーク)、ポルトガルとアフリカのダンスが混合した官能的なフナナー、最高度に官能的なコラデイラ、そしてバトゥーケのダンスが挙げられる。
世界遺産
カーボベルデでは、シダーデ・ヴェーリャの建造物群が2009年にユネスコの世界遺産リストに登録された。第33回世界遺産委員会終了時点では、カーボベルデで唯一の世界遺産である。詳細は、カーボベルデの世界遺産を参照。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Ano Novo | |
1月13日 | 民主主義の日 | Dia da Democracia | |
1月20日 | 英雄の日 | Dia dos Heróis Nacionais | アミルカル・カブラルの命日 |
2月か3月 | 謝肉祭 | Carnaval | 復活祭の46日前、移動祝日 |
3月か4月 | 復活祭 | Páscoa | 春分の日の後の最初の満月の次の日曜日、移動祝日 |
7月5日 | 独立記念日 | Dia da Independência | |
11月1日 | 万聖節 | Dia de Todos os Santos | |
12月25日 | クリスマス | Natal |
著名な出身者
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 IMF Data and Statistics 2009年7月19日閲覧([1])
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 市之瀬敦「クレオルの島カボ・ベルデ その形成とディアスポラ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社 1997/05
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 The Peace Corps Welcomes You to Cape Verde. Peace Corps (April 2006). This article incorporates text from this source, which is in the public domain
- ↑ http://www.capeverdebreaks.com/weather.html Weather , http://www.capeverdebreaks.com Cape Verde Overview
- ↑ 5.0 5.1 5.2 CIA World Factbook2009年11月29日閲覧。
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2007/90087.htm
- ↑ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cv.html
- ↑ http://www.everyculture.com/multi/Bu-Dr/Cape-Verdean-Americans.html
- ↑ Manuel, p. 95-97.
参考文献
- 市之瀬敦「クレオルの島カボ・ベルデ──その形成とディアスポラ」『社会思想史の窓第118号──クレオル文化』石塚正英編、社会評論社、東京、1997年5月。
- 小川了編著 『セネガルとカーボベルデを知るための60章』 明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月。ISBN 4-7503-1638-5。
関連項目
外部リンク
- 政府
- カーボベルデ共和国政府 (ポルトガル語)
- 日本政府
- 日本外務省 - カーボベルデ (日本語)
- テンプレート:OIF