ビートルズ
ザ・ビートルズ The Beatles | |
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基本情報 | |
別名 |
クオリーメン ジョニー&ムーンドッグス シルヴァー・ビートルズ |
出身地 | イングランド マージーサイド州リヴァプール |
ジャンル |
ロック ポップ・ロック ポップ・ミュージック サイケデリック・ロック ロックンロール アート・ロック |
活動期間 |
1957年 - 1970年 1994年 - 1996年[注釈 1] |
レーベル |
パーロフォン/EMI(現・ユニバーサル・ミュージック)(1962年-1968年、それ以降もアップル・レコードの販売を現在も担当) アップル・レコード(1968年-1970年、それ以降も単発でのリリース有) ヴィージェイ・レコード(1963年) スワン(1963年) トリー・レコード(1963年) キャピトル・レコード(1963年-1968年、それ以降もアップル・レコードの販売を現在も担当) オデオン・レコード/東芝音楽工業株式会社→東芝EMI株式会社→EMIミュージック・ジャパン株式会社→ユニバーサル・ミュージック)(1964年-1968年、それ以降もアップル・レコードの販売を現在も担当) |
事務所 |
NEMSエンタープライズ (1961年~1967年) アップル・コア(1968年~1970年) |
共同作業者 |
ジョージ・マーティン ブライアン・エプスタイン |
公式サイト | www.emimusic.jp/beatles |
ザ・ビートルズ (The Beatles) は1960年代から1970年代初頭にかけて活動したイギリス・リヴァプール出身のロックバンド。20世紀を代表するアーティストの一つである。
Contents
概要
主に1960年代に活動した世界的に有名なロックバンド。1957年に前身となるバンド「クオリーメン」が結成、1960年に「ザ・ビートルズ」と改名され、1962年10月5日にレコードデビュー [注釈 2]。1970年4月10日に事実上解散した。"Fab Four"[注釈 3]という愛称もある[1]。
活動期間内に母国イギリスで12作[注釈 4]のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作が全英アルバムチャートで週間第1位を獲得した。11作の週間第1位の合計獲得数は162週[注釈 5]。年間売り上げ最高アルバム4作[注釈 6]と第1作『プリーズ・プリーズ・ミー』による連続30週第1位[注釈 7]はいずれも1960年代の最高数[注釈 8]。シングルは22作[注釈 9]発売し、その内17作が第1位を獲得。アメリカなど世界各国においても高い販売数を記録し、ギネス・ワールド・レコーズに最も成功したグループアーティストと認定されている。音楽誌『ローリング・ストーン』による「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第1位にランクされている[注釈 10]。
1965年10月26日に女王エリザベス2世からMBE勲章を授与されている[2]。1988年にロックの殿堂入り。活動前期においてはアイドルとして「ビートルマニア」と称されるファンを獲得。後期には『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』や『アビイ・ロード』などの名盤と言われるような作品を発表しより音楽的な面から評価されており、解散から数十年が経過した現在でも、映画作品や記念盤が発表されるなど世界中で根強い人気を誇っている。
バンド名の由来
「BEATLES」という名称はジョン・レノンとスチュアート・サトクリフが考えた造語である。ジョンの証言では[3]、この名前が考案されたのは1960年の4月で、バディ・ホリーのバンド名「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツ[注釈 11]にあやかり、昆虫の名前で同じように2つの意味を含んでいる言葉としてビートルズ[注釈 12]を、映画『乱暴者』[注釈 13]から思いついた。しかし、バンド名を「ビートルズ」とした頃、クラブ出演を依頼してきたブライアン・キャス[3]は難色を示し[注釈 14]、改名を出演条件として「ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー」という名称を提示した。話し合いの上、互いに譲歩して『ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ』と称する事になったが、その後ロング・ジョンを除いて「シルヴァー・ビートルズ」と称した(シルヴァー・ビートルズのつづりは途中までThe Silver Beetles)[3]。ただし1960年8月から行った最初のハンブルク巡業で出演したクラブ「カイザー・ケラー」の広告[4]には「The Beatles」と記載されている。
メンバー
名前 | プロフィール | 担当 |
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ジョン・レノン (John Lennon) |
1940年10月9日 - 1980年12月8日(40歳没) イングランド マージーサイド州リヴァプール |
ボーカル リズムギター リードギター ベース ハーモニカ ピアノ オルガン |
ポール・マッカートニー (Paul McCartney) |
1942年6月18日(82歳) イングランド マージーサイド州リヴァプール |
ボーカル ベース リードギター アコースティックギター エレクトリックギター ドラムス ピアノ キーボード オルガン メロトロン モーグ・シンセサイザー |
ジョージ・ハリスン (George Harrison) |
1943年2月25日[注釈 15] - 2001年11月29日(58歳没) イングランド マージーサイド州リヴァプール |
リードギター ボーカル リズムギター ベース シタール タンブーラ ソードマンデラ ピアノ キーボード モーグ・シンセサイザー |
リンゴ・スター (Ringo Starr) |
1940年7月7日(84歳) イングランド マージーサイド州リヴァプール |
ドラムス パーカッション ボーカル |
元メンバー
名前 | プロフィール | 愛称 | 担当 |
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ピート・ベスト (Pete Best) |
1941年11月24日(83歳) テンプレート:BIN マドラス管区 マドラス |
ドラムス | |
スチュアート・サトクリフ (Stuart Sutcliffe) |
1940年6月23日 - 1962年4月10日(21歳没) スコットランド エディンバラ |
スチュ | ベース |
1957年にジョン・レノンがスキッフル・バンド「クオリーメン」を結成。それ以降はジョニー&ザ・ムーンドッグス、ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ、シルヴァー・ビートルズと改名しており、ビートルズと称するまでに複数のメンバーが入れ替わっている。ビートルズと称してから在籍したメンバーは通算6名。その内2名は1962年10月5日にシングル「ラブ・ミー・ドゥ」でデビューする前に脱退している。その一人、スチュアート・サトクリフは1960年1月に加入してベース担当になり、1961年に行われた2度目のハンブルク巡業が終わった時にバンドを脱退。その後、1962年4月10日に21歳で死去した。[注釈 16]。もう一人のピート・ベスト は、1960年8月に行った最初のハンブルク巡業の直前にドラムス担当として加入したが、1962年8月16日に解雇される。8月18日にリンゴが「ロリー・ストーム & ザ・ハリケーンズ」からビートルズに加入した[注釈 17]。
基本編成
1962年10月にパーロフォンからレコード・デビューした時点で「ギター×2、ベース、ドラムス」という編成となっている。これは1961年に「ギター×3、ベース、ドラムス」という編成で行われた2度目のハンブルク巡業の終了後にベース担当であるスチュアートが脱退して4人になり、ギター担当の1人だったポールがベースに転向して確立した[5]。さらにデビュー直前の1962年8月にドラマーがピート・ベストからリンゴに交代し、解散までこの編成が続いた。最初の2枚のアルバムは2トラックレコーダーのみで録音していたので、原則としてこの編成が一発録りを行なった。3作目の『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』から4トラックが導入されて多重録音が可能になったが直ちには使用されず、5作目のアルバム『4人はアイドル』録音から「ドラムス・ベース・リズムギター」「リードギター」「ボーカル」の順に録る事が多くなっていく[6]。
中期から後期の作品では、ポールが主に自作曲でギターやピアノを担当する際に、ジョンやジョージがベースを弾くこともある[注釈 18]他、1968年の『ザ・ビートルズ』(通称ホワイト・アルバム)録音時のリンゴの脱退騒動[7][注釈 19]に絡んで「バック・イン・ザ U.S.S.R.」と「ディア・プルーデンス」はポールがドラムスを担当している[注釈 20]。その他、曲によってはメンバー各人がパーカッションを演奏している。リードギターは基本的にジョージが担当しているが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを弾いている。ジョンはリードギターを「ユー・キャント・ドゥ・ザット」の間奏部、「ゲット・バック」、「アイ・ウォント・ユー」などで弾いている。ポールは「涙の乗車券」のフェイド・アウトの部分でベースに加えてリードギターを担当。ジョージ作の「タックスマン」の間奏部とラスト部分「バック・イン・ザ U.S.S.R.」などでもリードギターを弾いている。また「ブラックバード」などのアコースティック・ギターもポールが弾いている。「ジ・エンド」の間奏部分はポール・ジョージ・ジョンの順にリレーする形でギターソロを演奏している[注釈 21]。
リードヴォーカル
4人全員がいずれかの曲でリードヴォーカルを担当している[注釈 22]。リードヴォーカルは基本的に作詞作曲した者が担当する。初期の「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」などのジョンとポールの共作曲はジョンとポールが2人でリードヴォーカルを担当している[注釈 23]。ジョージは「タックスマン」、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」、「サムシング」などの自作曲で、リンゴは「オクトパス・ガーデン」「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」、「グッド・ナイト」などでリードヴォーカルを担当している。
曲毎に使用された楽器
曲によっては基本編成以外の楽器も使用されており、メンバー自身が担当した作品と、外部から参加した演奏者がセッションした作品がある。メンバー自身が担当した最も初期の例では、デビューシングルの「ラヴ・ミー・ドゥ」から3曲連続でジョン[8][注釈 24]がハーモニカを演奏している。キーボードは、ポールが「マーサ・マイ・ディア」、「ヘイ・ジュード」、「レット・イット・ビー」、ジョン作の「セクシー・セディー」でピアノを担当しており[注釈 25]。また映像版の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」では「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」でのイントロのメロトロンをポール自ら演奏しながら解説を行っている。ジョンは「アイ・アム・ザ・ウォルラス」、ジョージ作の「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」などでオルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器を担当しており、また1965年8月15日に開催されたシェイ・スタジアム・コンサートでは「アイム・ダウン」でVOXのオルガンを演奏している。「ノルウェーの森」から導入されたシタールはジョージが1965年頃に友人の勧めで聴いたラヴィ・シャンカルのレコードで興味を持ち、ロンドンの店で購入して使用した。1966年秋にはジョージみずからインドに出向いてラヴィ・シャンカルから直接レクチャーを受けている[9][注釈 26]。また、「ゲッティング・ベター」や「アクロス・ザ・ユニヴァース」でのタンブーラ、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのソードマンデルなどもジョージが担当している。「ヘルター・スケルター」ではジョンがサックスを演奏している。モーグ・シンセサイザーはアルバム『アビイ・ロード』においてジョージが導入した[10]。1969年当時は特注品のモジュラー・システムしか存在しなかったが、「ヒア・カムズ・ザ・サン」や「ビコーズ」でジョージが演奏。ポールも「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」で、ジョンが「アイ・ウォント・ユー」で、それぞれ演奏している。
外部から参加したミュージシャンの例では、セッション・ドラマーのアンディ・ホワイト(en)が、デビュー曲となった「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングに参加している。ただしこれはメンバーの意向ではなくプロデューサーのジョージ・マーティンの判断によるもの[11]。メンバーの意向による参加ミュージシャンの例では、クラシック音楽の分野から「イエスタデイ」、「エリナー・リグビー」で弦楽四重奏団が、「ペニー・レイン」ではピッコロ・トランペット奏者が招かれている。同じロックやポップスの分野では「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」でリードギターを弾いたエリック・クラプトンや、「レボリューション」でエレクトリックピアノを弾いたニッキー・ホプキンスが挙げられる。プロデューサーのジョージ・マーティンは「イン・マイ・ライフ」の間奏のクラシカルなピアノを弾いた。また、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズは「ユー・ノウ・マイ・ネーム」においてサックスで参加している。アルバム『レット・イット・ビー』のセッションにはビリー・プレストンがエレクトリックピアノやハモンド・オルガンなどで参加している。ただし外部から参加したミュージシャンはプレストンを除いてレコードのクレジットには記載されていない。
利き手
メンバー4人のうちポールとリンゴは左利きである。ポールは文字を書く時も左で、リンゴは文字を書く時は右で書く[12]。 ポールは自身で「僕は左利きだ」と述べており[13]、ベースやギターは左利き用の物を使用している事や(但し、ドラムのみは右利き用のセッティングで叩いている)、文字を左手で書いている写真・映像などで確認できる。リンゴは自身の発言はないが、演奏しているドラムスが右利き用である他、サインなどの文字を右手で書いている写真が存在する。
作詞作曲
オリジナル曲はすべてメンバーが作詞作曲している。 最も多いクレジットはジョンとポールの共作名義である「レノン=マッカートニー」で、ビートルズナンバー213曲[注釈 27]の内、144曲が「レノン=マッカートニー」名義になっている。それ以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、名前の並びが逆の「マッカートニー=レノン」作品8曲、「ジョン・レノン・アンド・ポール・マッカートニー」が13曲(シングル・カット、シングル収録曲のレノン=マッカトニー名義と重複するものあり)、ジョージの作品22曲、リンゴの作品2曲、レノン=マッカートニーとリンゴの共作1曲、全員の共作2曲が含まれている[14]。未発表曲集『ザ・ビートルズ・アンソロジー』には、ジョンとジョージの共作、ポールとジョージの共作の作品も収録されている。
レノン=マッカートニー
「レノン=マッカートニー」名義の作品はアメリカのビルボード、イギリスのミュージック・ウィークの双方で第1位を記録した曲が多く、『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されている。ジョンとポールがどの曲でどの程度の役割を担っているかという公式な記録は無いが、書籍「ザ・ビートルズ・アンソロジー」[15]のポールのコメントによれば、「プリーズ・プリーズ・ミー」はジョンがメイン、「P.S.アイ・ラヴ・ユー」はポールがメイン、「フロム・ミー・トゥ・ユー」は半々、と様々なパターンが存在するが、基本的にはその曲をメインで作った方がリード・ボーカルを取っていることが多い[16]。また同書によれば、共同クレジットで発表していくことは早い時期から決まっており、「レノン=マッカートニー」という序列は2人の話し合いの上で決定した。ただし第1作のアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』でのみ「マッカートニー=レノン」という表記になっており、「イエスタデイ」などポールが主に作詞作曲した曲は「マッカートニー=レノン」表記にする事も検討されたが実行はしていない。
結成当初から、ジョンとポールのどちらか一方が単独で作った曲であっても、クレジットは「レノン=マッカートニー」または「マッカートニー=レノン」と連名にする約束が取り交わされていた。このことは後のいくつかの法的争いの元凶ともなる。1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「平和を我等に」の作詞作曲も「レノン=マッカートニー」とクレジットされている。クレジット通りに2人で共作した曲は二十数曲という見解もあったが、ジョン・レノンはインタビューで否定しており、ポールも自伝「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」において「多くの曲が共作である」と述べている。ただし「共作」の割合は曲によって異なり、50-50で作った曲もあれば、一方がメインで作詞作曲し、もう一方は手伝った程度という曲もある。
デビュー直前までの経歴
クオリーメン結成からビートルズへの改名まで
1957年3月、ジョンがスキッフル・バンド「クオリーメン」を結成する。同年7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会が開催したガーデン・パーティーでのクオリーメンのコンサートをポールが観る。ポールは共通の友人であるアイヴァン・ボーン[注釈 28]に紹介されジョンに面会した。ポールはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック[注釈 29]」、ジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」、それにリトル・リチャードのメドレーを歌った[17]。ポールが歌詞を完璧に覚えている事[18]に加え、トランペットやピアノも演奏出来る事にジョンは感心してクオリーメンに勧誘し、翌日にポールは参加すると返答した[19]。翌1958年2月6日、ポールの紹介でジョージがクオリーメンのオーディションを受ける。「ローンチー」を完璧に弾きこなした事と、2人よりも多くのコードを知っていた事でジョンに認められ、バンドに加わる[20]。1959年になると他のメンバーは次第に辞めていき、1月にはバンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになる。同年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」とする。1960年1月、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われバンドに加入しベーシストになる[注釈 30]。同年4月、ジョンとスチュアート・サトクリフがバンド名はビートルズではどうかと提案するが、興行側のブライアン・キャスが改名を要請。交渉してバンド名を「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」とする[注釈 31]。
ビートルズへの改名以後
1960年5月、ロンドンの音楽関係者であるラリー・バーンズが担当する新しいソロシンガー[注釈 32]のバックバンドを務めるオーディションにエントリーする。参加を約束していたドラマーは来られなくなったが、キャス&カサノヴァズのジョニー・ハッチンソンが代役でドラムスを担当して合格する。この後、シンガーに決定したジョニー・ジェントルのバック・バンドとしてスコットランドにツアーに出る。この時、ジョンは「ロング・ジョン」、ポールは「ポール・ラモーン」、ジョージは「カール・ハリスン」、スチュアート・サトクリフは「スチュアート・ド・スタール」とそれぞれが芸名を付けていた[21]。このツアーではトニー・ムーアというドラマーが参加し、ツアー終了後もしばらく在籍していたが、やがて脱退する[注釈 33]。8月、アラン・ウィリアムス[注釈 34]を通じて西ドイツのハンブルクでの仕事が入ったが、5人編成のバンドを希望してきたため、新たなドラマーが必要となる。この時、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。この編成で最初のハンブルク巡業に向かい「インドラ」というクラブで毎日6〜8時間の演奏を行う。当初はおとなしい演奏に終始したため評判が悪かったが、マネージャーのアドバイスもあってショー・アップを心がけ、長時間のステージで演奏も上達した事により、次第に人気を獲得していった[22]。1か月後「カイザーケラー」に移動。「デリー&ザ・シニアーズ」や、リンゴ・スターがドラムスを務める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」と交代で出演する事になり、この時にリンゴと知己が生まれる。またこの頃、ピートがステージを休むことが数回あったため、リンゴが代役としてビートルズでドラムスを叩く機会があった。さらに、この頃アストリット(アストリッド)・キルヒヘル(en)[注釈 35]が友人とともに客として店に来るようになり、程なくサトクリフと恋仲となる。写真家を目指していたアストリットによって、この頃のビートルズの写真が撮影され、それが後に『ザ・ビートルズ・アンソロジー』などの文献に収録された。同時期にアストリットの友人で、後にイラストレーター、ミュージシャンとしてメンバーと関わるクラウス・フォアマンとも親交を結ぶ。ハンブルクでクラブ演奏を始めて3か月後、カイザーケラーより格上の「ザ・トップテン・クラブ」からの出演依頼が来たのと時期を同じくして、ジョージが満17歳で就労年齢制限に抵触している事が発覚して強制送還となり、さらに宿舎にしている映画館の出火を理由にポールとピートも強制送還となり、残されたジョンも自力で帰国。スチュアートだけはアストリットに援助されしばらくハンブルクに滞在した。
1961年1月、ハンブルクでの失敗でバンド活動を停止していた所にアラン・ウィリアムスからクラブDJのボブ・ウーラーを紹介され、オーディションの上でリヴァプールのキャヴァーン・クラブにレギュラー出演するようになる。またキャヴァーンへのメンバーと楽器を搬送するローディー役としてニール・アスピノール[注釈 36]が、続いてマル・エヴァンズ [注釈 37]が雇われた。同年4月、2度目のハンブルク巡業を開始。前回、出演依頼があったザ・トップテン・クラブで演奏するようになる。このハンブルク巡業では初めてレコード会社によるレコーディングも実現した。また、再会したアストリットと一緒にプールに行った際、メンバーの髪が前に垂れている状態を見て気に入ったアストリットは、垂れたままの髪型にする事を提案。ピート以外の4人がその垂れた髪型を使うようになり、それは後に「ビートルカット」と呼ばれるようになる[23]。
2度目のハンブルク巡業が終わった時点でスチュアートが脱退。アストリットと婚約してハンブルクに残る事になる。ポールがギターからベースに担当を替え、4人組のビートルズが誕生する。帰国後の8月、ジョンの級友だったビル・ハリーが音楽新聞「マージー・ビート」を発刊。ジョンの書いた文章が載るようになる。12月10日、リヴァプールでレコード店「NEMS」を営んでいたブライアン・エプスタインがマネージャーになることが決まる。このブライアンの売り込みにより、1962年1月1日にデッカ・レコードのオーディションを受けるが、不合格となる。その後もライブ活動を続ける傍ら、ブライアンが各レコード会社に売り込みを続ける。4月から3度目のハンブルク巡業を開始し、11日からスター・クラブで演奏。その前日の[24]4月10日、スチュアート・サトクリフが脳内出血により死去する。6月、EMI傘下のパーロフォン・レーベルから、プロデューサーのジョージ・マーティンによるオーディションが打診される。6月6日に行われたオーディションを受けてデビューが決まった後の8月15日、ピート・ベストが解雇される[注釈 38]。直後にリンゴ・スターが加入し、9月からEMIでレコーディング・セッションが行われる。この時はリンゴの他に、マーティンがオファーしたドラマーのアンディ・ホワイトが参加している。また、エンジニアとして参加したノーマン・スミスは、この後『ラバー・ソウル』までチーフ・エンジニアを務める事になる。
ハンブルクでの録音
ザ・トップテン・クラブでは、ビートルズはトニー・シェリダンのバック演奏も担当した。1961年6月22、23日、1962年5月24日、この縁でシェリダンのバックバンドとしてレコーディングに参加(ビートルズのポリドール・セッションを参照)。レコード会社は「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」と、バンド名を変えて発売[注釈 39]。「マイ・ボニー」などの他、シェリダン抜きでジョン・レノンのボーカルの「いい娘じゃないか」、インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」もレコーディングされた[注釈 40]。
デビュー以降の経歴
デビューから国外進出まで
1962年10月5日にイギリスにてデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」を発売"[注釈 41]。ミュージック・ウィーク誌のトップ50では1962年12月27日付で最高位17位を記録[25]。1963年1月11日にリリースされた英国での2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がメロディー・メーカー誌1963年3月2日付けのシングル・トップ50で1位[26](ミュージック・ウィーク誌は最高位2位[注釈 42])を獲得。この曲のヒットにより英国で一躍人気グループになり、4月11日にリリースされた3曲目のシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」ではミュージック・ウィーク誌で1963年5月2日付けから6月19日付けまで7週連続1位となる[27]。このフロム・ミー・トゥ・ユー以降は「シー・ラヴズ・ユー(8月23日発売/1位6週)」、「抱きしめたい(11月29日発売/1位5週)」などとシングルが連続して1位を獲得した[28]。
アルバムは1963年4月26日に英国でのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』を発売し、5月11日付けでチャート第1位となり、その後、連続30週間、第1位が続いた[注釈 7]。連続第1位が続いている中、1963年11月22日にセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』を発売し、12月7日に『プリーズ・プリーズ・ミー』を押しのけて第1位を獲得。1964年5月まで21週間連続1位になる[注釈 7]。ビートルズはこの2枚のアルバムで51週間、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの第1位を占有していた。10月13日、当時の人気テレビ番組「サンデイ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム」に出演。およそ1500万人[26]がビートルズの演奏を視聴した。メンバーの発言[29]によれば、これによってビートルズはイギリスでの人気を決定的なものとし、さらに11月4日にはロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターで開催されたロイヤル・コマンド・パフォーマンス(王室御前コンサート)に出演している[注釈 43]。同じ頃、ビートルマニアと称されるファンの一部の行動が社会問題化し始める(詳細は#批判と公的な抑圧を参照)。しかしこの頃、アメリカではまだヒットを出せていなかった。新曲が出来るたびに、ジョージ・マーティンはアメリカ合衆国側でEMIレコードを販売しているキャピトル・レコードにアメリカでの販売を要請した[30]がキャピトルは拒否。その為ヴィージェイ・レコードやスワン・レコードなどEMIが英国での配給権を取得している小さなレーベルと契約してレコードを販売したが、ポールの発言[31]などによれば、レコード会社が小さい事もあり、大規模な販売は実現しなかった。その後「ライフ誌」や「ニューズウィーク誌」がビートルズを記事にし、ラジオのディスク・ジョッキーがビートルズのレコードをかけ始めると、ビートルズはアメリカでも次第に知られる様になり、キャピトルの方から「レコード販売させて欲しい」と要請して来た[32]。
1964年1月にフランス公演を行う。その最中にアメリカで「抱きしめたい」(キャピトルで発売した初のシングル)がシングルチャート1位になった[注釈 44]。2月にグループとして初めて渡米し、9日にCBSの「エド・サリヴァン・ショー」に出演。ポールの発言によれば視聴者数は7300万人[33]となった。11日にワシントン・コロシアムで初のアメリカ公演を行う。カーネギー・ホールで2回目の公演を行った後、16日にマイアミのドービルホテルで2回目のエド・サリヴァン・ショーに出演。この番組の冒頭で司会のサリヴァンは、ビートルズが初出演した9日の放送がアメリカのテレビ史上最高視聴率をあげたとコメントしている[34]。4月4日、アメリカでチャート上位5位までを独占[35][36][26]。6月からはデンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る世界ツアーが開催されるが、リンゴが扁桃腺炎に患って入院し、代役としてジミー・ニコルが起用される。その後回復したリンゴはオーストラリアで合流。アデレードのタウン・ホールでの公演の際は、集まった30万人から歓迎を受けている[37][38]。7月6日、イギリスでリチャード・レスター監督[注釈 45]による映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』が公開。10日に同名映画のサウンドトラックアルバムを発売し、『ウィズ・ザ・ビートルズ』を抜いて12週間1位を保持していたローリング・ストーンズのファーストアルバムを押しのけて7月25日に第1位になり、そこから21週間連続1位を維持した。
この後、1966年の末まで、イギリスのアルバムチャートはビートルズとローリング・ストーンズが1位争いを繰り広げ、それ以外ではボブ・ディランと『サウンド・オブ・ミュージック』のサウンドトラックの2者のみがチャート争いに参加するという構図になった[注釈 7]。またアメリカのビルボードにおいても、アメリカ編集盤『Meet The Beatles!』(11週連続)、『The Beatles' Second Album』(5週連続)、『 ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! 』(14週連続)の3作が1位を獲得している。「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上を売り上げ、歴代トップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル「キャント・バイ・ミー・ラヴ」が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。8月からは第2回アメリカツアーを行い、34日間、24都市で32公演[34]が開催される。9月に帰国し、アルバム『ビートルズ・フォー・セール』を録音。10月からはイギリスの27都市で公演を行った。12月4日、イギリスで『ビートルズ・フォー・セール』を発売。
日本では1964年2月にシングル「抱きしめたい」でデビュー。日本だけで1965年1月までの約1年間のシングル盤・LP盤を合わせた累計売上は300万枚[39]に達し、日本での発売元である東芝音楽工業からメンバーにゴールデン・レコードが授与された[39]。
コンサート活動の終了まで
1965年2月[3]から映画「ヘルプ!4人はアイドル」の撮影を開始。前作のモノクロのドキュメンタリー・タッチな内容から、任意の事件が発生するストーリーが存在するカラー作品となった。7月に公開され、サウンドトラックアルバム『4人はアイドル』は8月6日にリリースされた。その収録曲のひとつである「イエスタデイ」は、後にビートルズ・ナンバーの中でも際立って有名な曲のひとつとなる。
8月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムで55600人[注釈 46]の観客を集めた野外コンサート開催(詳細は#野球場でのコンサートを参照)。10月にはメンバーに対して、外貨獲得に対する貢献でMBE勲章が授与される。
12月にアルバム『ラバー・ソウル』を発売。ジョンは「このアルバムはビートルズが音楽的に同時代に影響を与えた最初のアルバム」と述べており[34]、「ドライヴ・マイ・カー」や「ひとりぼっちのあいつ」、シタールを演奏に加えた「ノルウェーの森」など、それまでのビートルズにはなかった作風が登場した。シタールの導入はラヴィ・シャンカルの影響を受けたジョージの提案である[40][34]。同月、最後のイギリスツアーを行う。このツアー中に、メンバーがコンサート活動を続けるかどうか話し合っている[41]。
1966年3月、ジョンがイギリスでのインタビューでビートルズとキリストを比較する発言を行う。8月になってその発言の一部がアメリカのマスコミに転載され、物議を醸す(詳細は#ジョンのキリスト発言を参照)。4月にアルバム『リボルバー』の録音を開始[42]。この作品からノーマン・スミスに代わってアシスタント・エンジニアだったジェフ・エメリックがチーフ・エンジニアに就任。
6月24日から7月4日まで西ドイツと日本、フィリピンを回る公演を行う。8月には最後の(ただし最後だという事はメンバー間のみの秘密事項だった[34])アメリカ公演を行ない、29日のキャンドルスティック・パークで終了した(詳細は#レコーディング・アーティストへの移行を参照)。同月5日、イギリスで『リボルバー』を発売。
野球場でのコンサート
1964年の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行スケジュールであり、加えてレコーディングや映画撮影、テレビ出演などもあってメンバーの疲労も非常に激しいものとなった[43]。そのため、1965年の全米ツアーは日程が大幅に短縮され、2週間で10都市を回るスケジュールとなった。その代わりにコンサート会場として、何万人もの観客を一度に集めることができる野球場を使うことになった。1965年8月15日にニューヨークのシェイ・スタジアムにおいて開催されたコンサートの観客人数は55600人に上っている。これは当時としては世界最大の観客動員数であり、またビートルズが開催した全てのコンサートの中でも最大数である[44]。1965年の全米ツアーのみならず、翌1966年の全米ツアーでも多くの野球場が使用された[注釈 47]。ただし、こういった大規模な野外コンサートに対して、メンバーは音響面や観客との距離といった点で不満を抱いており[44]、これがビートルズのツアー中止の一因となった(詳細は#レコーディング・アーティストへの移行を参照)。これ以後、野球場・サッカー場といったスポーツ競技場での大規模コンサートは一般化していき[注釈 48]、日本でも1968年8月12日にザ・タイガースによる後楽園球場でのコンサートが開催されて以降、スポーツ競技場でのコンサートが開催されるようになる。また、スポーツ競技場以外でも1969年のウッド・ストックや1970年のワイト島フェスティバル(en)といった大規模野外コンサートが行われるようになる。
エルヴィス・プレスリーとの面会
1965年8月27日に、ビートルズはロサンゼルスのエルヴィス・プレスリー宅に招かれた。エルヴィスのマネージャーであるトム・パーカー大佐がエプスタインと「極秘の打ち合わせを行なう」という名目だったが、エルヴィス宅周辺には人々が集まった。
面会に際してメンバーはバカだと思われないように装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。部屋でエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習しながらくつろいでいた。「本物のエルヴィスだ」と感激したメンバーは呆然としてしまい、エルヴィスが「ずっとそうやって僕を見ているだけなら僕はもう寝るよ。せっかく演奏ができると思って待っていたのに」と声をかけたことから、即興演奏が始まった。エルヴィスはベースを演奏し、ジョンとジョージはギター、ポールはピアノを演奏した。リンゴはドラムキットが無かったので演奏せずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。
エルヴィスはビートルズの曲も歌い「君たちのレコードは全部持っているよ」と言った。対してジョンは「僕はあなたのレコードは1枚も持っていない」と発言したのでその場が凍りついた。これはジョン流の過激なジョークだったのだが、エルヴィスはその発言に気分を害してしまった。ジョンはエルヴィスのベトナム戦争に賛同する姿勢や、マンネリ気味である映画を痛烈に批判した。これらの事をきっかけにエルヴィスはジョンを嫌うようになった。エルヴィスはポールやジョージが作曲した曲はコンサートで頻繁に歌っているが、ジョンの曲は歌っていない。
ジョンは発言を反省したのか後日、メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)に「エルヴィスがいるからこそ今の自分がある」と伝えるよう頼んだという。しかし後にジョンがアメリカに住み、ベトナム反戦運動を積極的に行っている頃、エルヴィスはニクソン大統領に「ジョンを追放してほしい」との手紙を出したとも言われている。
この面会は当時の音楽界に於いて最も注目すべきものだったが、会話は録音されていない。これはパーカー大佐の要請ではなく、エプスタインがエルヴィス側へ気を利かせ会話録音を一切許可しなかったからである。
日本公演
初の、そして最後となる日本公演は1966年に行われた[45]。ビートルズは6月29日(水)午前3時39分に日本航空機で羽田空港に到着した[46]。
公演は6月30日(木)および7月1日(金)・2日(土)[47]に行われ、7月3日(日)午前10時44分に離日した。会場はすべて東京都千代田区の日本武道館。司会を務めたのはE・H・エリック。前座として尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ、ザ・ドリフターズ(6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。この前座バンドについては後にポールが「ハロー・ビートルズ、ウェルカム・ビートルズ、といった歌が聴こえて来た。音楽性は高くないがそういう歓待は嬉しかった」と発言している[48]。このとき歌われた楽曲「ウェルカム・ビートルズ」は1966年9月10日発売のジャッキー吉川とブルーコメッツのアルバム『青い瞳/青い渚 ブルー・コメッツ・オリジナル・ヒット集』に収録されている。
しかしそうした歓待の一方で、日本武道館という場所でポップ・ミュージックを演奏する事について批判する者も存在した。右翼団体、大日本愛国党総裁の赤尾敏をはじめとした街宣車や「Beatles Go Home」と書かれた横断幕の前で街頭演説をする者が現れ[49][50]、さらに実際にビートルズ側に対して脅迫を行う者もいた[48]。このため警視庁は大規模な警備体制を取り、会場内においても1万人の観客に対して3千人の警官を配備して監視を行った[48]。またファンが殺到することによる混乱を避けるためにビートルズ自身も行動が著しく制限され、分刻みのスケジュール管理、および日中のホテルからの外出禁止などの措置がとられた。
コンサート自体はマイク・スタンドの不備などの問題は生じたものの、事故や暴動などの問題は生じなかった。むしろ厳重な警備もあって(観客は立ち上がったり近づいたりする事が許されていなかった[48])会場が静かで自分達の演奏が聞こえたので、メンバーは最初のステージで自分達の音が合っていない事に気づいてショックを受けた。 ジョージ・ハリスンは最初のステージ後、「今日の『恋をするなら』は、ぼくがこれまでやってきたなかで最低だったよ」、「最近のツアーでぼくたちの演奏はこんなものなんだよ」と発言している。これを受けてビートルズとツアーメンバーは、次のステージまでに急いで改善の努力をした[48]。
フィリピン事件
1966年7月3日(日)午前10時44分頃に羽田空港を発つと、日本航空機で香港に行き、キャセイパシフィック機に乗り換えてマニラに渡航した。7月4日にアラネタ・コロシアム[47]にて公演を2回行ない、計10万人を動員。7月5日に離比。[注釈 49]。4日のコンサートの前にイメルダ・マルコスによる歓迎パーティーが大統領官邸でとり行われることになったが、コンサートの前の時間が滅多に無い休日だったため、[51]ビートルズ側はこの出席を辞退した(ニール・アスピノールによれば[51]ブライアン・エプスタインが事前に欠席する意向を伝達していた)。それにもかかわらずフィリピンのテレビは官邸からの生中継で「もうすぐビートルズが到着する」と放送し、フィリピンのプロモーターは出席を要請し続けた[51]が、結局ビートルズ側は出席しなかった。
5日になってこの出来事は新聞やテレビで報道され、ビートルズの欠席を知ったフィリピン国民は怒りをあらわにした。離比しようとしているビートルズは空港等で多数の市民に取り囲まれたばかりでなく、警官や兵士までがメンバーに敵意を向けるという事態に発展する[52]。ロードマネージャーが小突かれたり足蹴にされたり、離陸許可がなかなか出ず、結局コンサートの収入をすべて当局に渡して[52]許可がようやく出てフィリピンを離れることができた。後にメンバーおよび関係者は事件について[53]「スタッフのマル・エヴァンスが死を覚悟する発言を口にした。この一件によってエプスタインが体調を崩した。あんな狂った場所には二度と行きたくない」と述べている。後の1986年にマルコス夫妻が失脚した際も、そのことに肯定的な発言がある。ニール・アスピノールは「この事件はビートルズからツアーへの意欲を奪った一因」と述べている[54]。
ジョンのキリスト発言
1966年3月、コラムニストのモーリン・グリーブによるジョンのインタビュー記事が「ロンドン・イブニング・スタンダード」誌に掲載された。この記事の一部がアメリカ公演間際に、アメリカのティーン雑誌「デイトブック」に転載された。元の記事は紙面にして2頁という量[55]だったが、デイトブックはその中の1行である「ビートルズはキリストより有名だ」という発言を抽出して掲載した。これが「神を冒瀆した」とアメリカで解釈され、ビートルズのレコード、プロマイドやポスターといったグッズなどが組織的に破棄、焼却されるという事態に発展。特にアメリカ南部で大きな騒動となり、殺害予告もなされるに至った[55]。この事態に対し、ブライアン・エプスタインはツアー前に声明を発し「その解釈が誤解で、ジョン・レノンは神や宗教に対して真摯な態度の人間である。しかし現在の若者にはビートルズの方が影響力がある、と言いたかったのだ」という旨を述べた。またアメリカ各地のプロモーターに対してコンサートをキャンセルしても構わないと告げたが、キャンセルを申し出たプロモーターはいなかった[55]。公演前にジョンが釈明会見を行ったが騒動は続き、バイブル・ベルト[55]に着いた頃には乗っているバスの窓が群集に叩かれるなど危険な事態が生じた。アメリカツアーは予定通り行われた[56] が満員にならない会場も多かった。
ローマ教皇庁の赦免
事件から42年を経た2008年11月、ヴァチカンの公式新聞「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」は、ローマ教皇庁がジョンの発言を赦したという声明を発表した。この記事は、1966年に発表されたものを再度掲載したものである。「予想外の成功を手にした若者が『豪語しただけ』に過ぎない」というのがローマ教皇庁の見解である。「ホワイト・アルバム」40周年記念の年であり、ビートルズを称賛する内容で締めくくられている[57]
[58]。
2010年4月にも、ビートルズ解散40年に合わせ、同紙はビートルズを称賛する記事を掲載した[59]。
レコーディング・アーティストへの移行
ビートルズのコンサート活動は1966年8月29日のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでのコンサートを以て終了した[60][注釈 50]。
1965年の段階でリンゴ[61]やジョージ[62]はスケジュールの過酷さに不満が募ってきていたと発言しており、メンバーの体調面や私生活の破綻が懸念されるようになっていく。加えてメンバーがコンサート自体の出来に不満を感じ始める様になっていた。当時は演奏者が自分やバンドの演奏音を確認する為のモニターシステムが備わっておらず[63]、PAも満足なものが無かったため、観客に演奏が届きにくかった。1965年8月15日のシェイ・スタジアム公演を含むアメリカツアーでは、スタジアム公演の為に特注の100ワットのアンプが用意されたが、それ以前は30ワットを使っている[64](ちなみに、世界で最も大きな音量を出すバンドとして1973年にギネス・ブックに掲載されたディープ・パープルのPAは、最大25600ワットの出力が可能だった[65])。こういった機材面の問題に加え、観客が音楽を聴いていない事もメンバーは不満に感じ始めており[66]特にジョンはこの状況について、ビートルズのコンサートは音楽とは関係無いと発言している[67]。
さらにツアーの続行はメンバーや関係者の身の安全にも影響を及ぼした。日本公演では、武道館での演奏への一部の反発や、ファンの殺到による危険防止から大掛かりな身辺警護が実施され[68]、日中に殆どホテルから外出できなかった。さらにその後のフィリピンでの出来事や8月のアメリカでの騒動では、人命をも脅かす事件が連続して起こっている。こうした一連の出来事によってメンバーたちの鬱憤が増大の一途を辿り[69]、コンサート活動の終了に至った。ブライアン・エプスタインはフィリピン公演の後に立ち寄ったインドでジョージに「来年もツアーをやるの?」と質問され、「1967年はツアーを行わない」と回答している[67]。さらに1967年8月にエプスタインが急死してマネージメントの構造自体が変質した(詳細はアップル・コアを参照)ことも、公演活動の再開を遠ざけた。
こうした反面、ビートルズはスタジオでの創作活動に意欲を振り向け始め、コンサートでは再現困難な作品も作り始めていた。すでに1965年の「ひとりぼっちのあいつ」や1966年の『ペイパーバック・ライター』など、ボーカル・ハーモニーのライブ再現が難しい[70]曲が発表されていたが、コンサート活動の終了後、初めて発売した1967年のオリジナル・アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は制作に半年[71]を費やし(初期のアルバムは12時間で録音した[72])コンサートでの再現を想定していないスタジオワークの技術が多く使用された[73]。
コンサート活動終了後の経歴
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドからホワイト・アルバムまで
1966年9月、ジョンは映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』の撮影のためスペインに向かい、この撮影の休憩時間を使って「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が書かれる[74]。ほぼ同時期にジョージはインド音楽の研究のためインドに行き、ラビ・シャンカルに対面している[75]。11月、ジョン・ダンバー[注釈 51]の招待[76]でジョンがインディカ・ギャラリーに赴き、オノ・ヨーコに出会う。
同月、ツアー終了後初めてアビーロード・スタジオに集合し「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」、「ホエン・アイム・シックスティー・フォー」、「ペニー・レイン」等を録音。これらの曲は当初、次のアルバムに収録する予定だったが[77]、キャピトル側がシングルの早期発売を要請してきたため[26]、この内の2曲を先行してシングル発売する事になった。
1967年2月、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」が両A面シングルとして発売。レコーディングは引き続き行われ、6月1日にはイギリスでアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が発売される。このアルバムは当時のポピュラー音楽界の枠を超えて多大な文化的影響を与えたと言われている。同月25日、3億人が視聴した[78]世界同時衛星中継番組「アワー・ワールド(われらの世界)」に出演し、「愛こそはすべて」を披露する。同曲は7月にシングル発売された。
8月にジョージがサンフランシスコに行き、ヘイト・アシュベリーでヒッピーらと交流を持つが、ドラッグ・カルチャーに対して否定的な結論に至り、逆にシタールの習得の際に触れたインドの瞑想に深く関る様になる[79]。このジョージの発案により、8月24日、妻の出産で出席出来なかったリンゴを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで行われたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのレクチャーに参加。続けてウェールズのバンガーでのセミナーに参加する。しかし27日にブライアン・エプスタインが急死したため、4人はセミナーを辞去してロンドンに戻る。エプスタインの死によってビートルズのマネージメントの不備が明らかになり、アップル・コア設立が企図される[80]。9月[81]からテレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」の撮影が行われ、年末にBBCで放映される。同作のサウンドトラックは、11月にアメリカでコンピレーション形式のLP盤、12月にイギリスでEP盤が発売される。
1968年1月、ジョージがインドのボンベイで『不思議の壁』を録音。同名映画のサウンドトラックで11月に発売された。その後メンバー全員でリシケーシュのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講義に参加。その間にニール・アスピノールと。デレク・テイラー[注釈 52]の主導でアップル・コアの設立準備を行う[82]。5月、ニューヨークでジョンとポールがアップル・コア設立の記者会見を行う。7月[83]、アニメーション映画『イエロー・サブマリン』を公開。8月、ジョンと妻のシンシアの関係が険悪になったことから、夫妻の息子であるジュリアンにポールが伝えたいと思ったメッセージが元になった[84]シングル「ヘイ・ジュード」が発売される。11月、初の2枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(通称ホワイト・アルバム)が発売[注釈 53]。
アップル・コア
ブライアン・エプスタインが設立したアップル・パブリッシングという投資会社が元になっている[85]。しかしエプスタインが死去し、その時点でのマネージメント契約や権利の所在がビートルズにも把握困難になったため、メンバー4人およびマル・エヴァンスとニール・アスピノールの計6人が話し合い[86]、その対応策としてアップルを拡大する事にした。
レット・イット・ビーからアビイ・ロードまで
1969年1月、トゥイッケナム・スタジオで、レコーディングとドキュメンタリー映画の撮影を兼ねたゲット・バック・セッションが始まる。だがレコーディングの過程でメンバー間の不和が増大。ポールとジョージが衝突し、ジョージが一時離脱する[87]。ミーティングの上でジョージは復帰を承諾するものの、トゥイッケナムでの続行に不満が提起され、サビル・ロウに新しく作られたスタジオに移動する。ジョージの提案でビリー・プレストンをセッション・プレイヤーとして招聘してセッションを再開したが、結局この時点ではアルバムリリースには至らず、次回作と発売順が入れ替わる結果となる。1月30日、映画のラストで使用された屋上でのライヴパフォーマンス(ルーフトップ・コンサート)を敢行するが、警察が苦情を申し立てて中断になる。
その後、アップル・コアの財政が危機に陥り、マネージャーの決定を巡ってメンバー間で対立が起こる。ポールは恋人のリンダ・イーストマンの父リー・イーストマンを推したが、他の3人はアラン・クレインを推した[88]。3月12日にポールがリンダと結婚。同日、ジョージの家を警察がマリファナ所持の容疑で捜索。同月20日、ジョンとヨーコがジブラルタルで結婚式を挙げる。
4月、アビー・ロード・スタジオにてアルバム『アビイ・ロード』の録音を開始(発売は9月)。音楽雑誌『ローリング・ストーン』1969年9月号に、ビートルズが同年2月から5月(アルバム『アビイ・ロード』セッションが始まる直前)に『ホット・アズ・サン』というタイトルのアルバム・セッションを行ったという記事が掲載されたが後に誤報と判明している。8月8日午前10時頃に『アビイ・ロード』の写真撮影が行われる。当日は暑かったためポールはスーツにサンダル履きという姿で現場に出向いており、実際にサンダルを履いて横断歩道を渡るカットも撮影された[89]。22日、ジョンの新しい私邸にて全員が揃った最後の写真撮影が行われる。
9月、ジョンとヨーコが結成したプラスティック・オノ・バンドがカナダのトロントでコンサートを行う。ジョージはメンバーに誘われた[90]が辞退し、エリック・クラプトンがギタリストとして参加した。ジョンが帰英した後の9月末、アップルで今後の活動に関する会議が行われた「小規模なギグからコンサートを再開したい」というポールの提案にジョンが「お前はアホか。俺は辞める」と述べた。しかしアラン・クレインはジョンの脱退意向を公表しなかった[90]。1970年4月10日にポールがビートルズ脱退を表明し、ビートルズは事実上解散となった。
4月17日にポールはソロアルバム『マッカートニー』を発売。5月8日にフィル・スペクターのプロデュースでゲット・バック・セッションでの録音をまとめたアルバム『レット・イット・ビー』が発売される。
アルバム『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』
『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』は、収録順と発売順とが逆になっている。時系列は以下の通り。
- 1969年1月、ゲット・バック・セッション。
- 1969年4月、『アビイ・ロード』録音開始。8月に終了。
- 1969年9月、『アビイ・ロード』発売。
- 1970年5月、『レット・イット・ビー』発売。(アルバム『ゲット・バック』として発売する意向だったが、4月のポール脱退で事実上解散し、「ゲット・バック」困難となったので名称を変更し、アルバム『レット・イット・ビー』として発売した)
ポールの提案[91]による『ゲット・バック・セッション』は1969年1月3日〜31日に行われた。このセッションは「新アルバムのレコーディングに加え、スタジオでのセッションをすべて撮影し、その模様をドキュメンタリーにして放送、そして新曲を引っさげライブ活動を再開する」というプロジェクトとして企画された。撮影されたフィルムは後に編集されて、映画『レット・イット・ビー』として公開されることになる。
しかし、セッションで収録された音源をメンバーは気に入らず[92]、制作されたテスト盤『ゲット・バック』は公式にリリースされる事は無かった。その後、『アビイ・ロード』の制作が開始されたため、このセッションはお蔵入りとなってしまう。録音された楽曲に興味を失ったメンバーはこのプロジェクトを放棄したものの、アップルがこのプロジェクトに大量の投資をしていたこともあり、楽曲を廃棄は出来なかった為、ジョンやジョージらの依頼によりフィル・スペクターがプロデュースを担当。アルバム『レット・イット・ビー』が完成した[注釈 54]。
映画の公開にタイミングを合わせた事もあって[93]、発売はレコーディングから丸1年以上経ってからになった。一方、『アビイ・ロード』は従来通りメンバーとジョージ・マーティンがアビー・ロード・スタジオで制作した作品であり、完成した翌月に発売された。この件について、リンゴは「世の中がどれ程よじれているかが分かる出来事だ。映画は僕やジョンやポールが編集した方がずっと面白いものが出来ただろう」と述べている[93]。
解散とその後のメンバーの関係
1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表。9月に「ジョージがクラウス・フォアマンを加入させてベース担当にする」との噂が立ったため、 ポールは12月30日にロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。翌1971年3月12日、裁判所はポールの訴えを認め、他の3人は上告を断念したため、ビートルズの解散が法的に決定された(詳細はビートルズの解散問題を参照)。解散後、4人はそれぞれ音楽活動を行っており、1995年に開始された『ザ・ビートルズ・アンソロジー』までは、再結成または任意のメンバーが組んで継続的なバンドやユニットを結成する事は無かった。ただし相互の作品への参加やコンサートへの出演などは実現している。
解散直後には、1971年のジョンのアルバム『イマジン』収録の「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」に代表されるように、ジョンとポールはお互いのソロ作品の中で互いへの非難を繰り広げている。ジョンは同じくポールと不仲であるジョージをも録音に誘い、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」の歌詞の中で『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』や「イエスタデイ」、ポールのソロ・デビュー曲「アナザー・デイ」までも持ち出して、ポールの事を辛辣に皮肉っている。
しかし、そういった行為は次第に収まっていき、1980年にはジョンは「3人に親愛を抱いている。3人が自分の人生の一部を占めている事は事実である」と述べている[94]。ジョージもビートルズ内部の騒動についての自らの責任に言及し、ポールも「問題が発生しているかどうかとは別に、4人の結束は常に固い[94]」と述べている。
なお、リンゴだけは、解散以後も他の3人のメンバーとの良好な関係を保ち続け、ジョン、ポール、ジョージともにリンゴのソロ・アルバムの録音に参加している。1973年リリースのアルバム『リンゴ』ではテープの上だけではあったが4人が同じ新作アルバムの中で演奏した。ジョンが書いた収録曲「アイ・アム・ザ・グレイテスト」ではジョン、ジョージ、リンゴが一緒に演奏している[注釈 55]。
解散後
- 1970年代
1971年8月、ジョージの主催による「バングラデシュ・コンサート」がニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催され、リンゴも参加した。そのライブ・アルバムは翌1972年にリリースされ、第15回グラミー賞の年間最優秀アルバム賞を獲得している。1973年、アップル・レコードより2種類の2枚組ベスト・アルバム『ザ・ビートルズ1962年〜1966年』(赤盤)と『ザ・ビートルズ1967年〜1970年』(青盤)がリリース。赤盤がビルボードのアルバムチャートで3位、青盤が1位[注釈 56]を獲得した。日本のオリコンでは赤盤が7月9日付けで1位、73年度の洋楽年間チャート1位となっている[注釈 57]。またこの年、世界各国でビートルズのリバイバル・ブームが起こり、『タイム』や『ニューズウィーク』などでも改めてビートルズが取り上げられた[95]。11月にリリースされたリンゴのソロアルバム『リンゴ』では、録音作品の上だけだったが解散後初めて4人全員が揃った。
- 1980年代
1980年12月8日(米国東部時間)ジョンが自宅前で射殺される。 翌1981年にジョージが発表したジョンの追悼曲『過ぎ去りし日々』ではリンゴがドラム、ポール率いるウイングスがコーラスとして参加し、ジョンの死後初めて残りのメンバーが共演した作品となった。1985年、『ギネス・ワールド・レコーズ』が「世界でのビートルズのCD・レコードの総売り上げが10億枚以上」と認定。1987年3月9日、ビートルズが曲の制作者の名義としていた「レノン=マッカートニー」がアメリカの「ソングライターの殿堂(en)」に選ばれる。本来はアメリカ国内のソングライターに対するもので、アメリカ人以外の作曲家としては初の殿堂入りとなる。
- 1990年代
1995年、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の企画が開始され、同年11月、その先鞭としてコンピレーション・アルバム『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』がリリースされる。同アルバムには、ジョンの未発表曲を元に製作された新曲「フリー・アズ・ア・バード」の他、デビュー前から1964年ごろまでの未発表曲やデモ、別テイクが収められ、ビルボードのアルバム・チャートで3週連続1位を獲得している[注釈 58]。翌1996年には『ザ・ビートルズ・アンソロジー2』と『ザ・ビートルズ・アンソロジー3』を発売。1999年には初のリミックス・アルバムとなる『イエロー・サブマリン~ソングトラック~』を発売する。
- 2000年代
2000年10月、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の書籍版が出版。同年11月、米ビルボードと英ミュージック・ウィークで1位になった曲27曲を集めたベスト・アルバム『ザ・ビートルズ1』が発売。世界34ヵ国で1位を獲得した。 2001年11月29日、ジョージ・ハリスンが肺癌のため死去する。2003年11月、アルバム『レット・イット・ビー...ネイキッド』が発売。ゲット・バック・セッションで録音した音源をリミックスし、『レット・イット・ビー』でポールが不満を表明していた[96]フィル・スペクターによる追加部分を削除している。2006年11月、シルク・ドゥ・ソレイユのミュージカルのサウンドトラックとして、リミックス・アルバム『ラヴ』がリリース。2007年1月、イギリスでビートルズのアルバム・ジャケット画を使用した切手が発売[97]。2009年9月9日、オリジナルアルバム、米編集『マジカル・ミステリー・ツアー』、『パスト・マスターズ』のCDがデジタルリマスターされたステレオ音源で世界同時発売。なお、現行盤でモノ音源として出回っている『ビートルズ・フォー・セール』までの4作がオリジナルステレオミックスとして初めてCDとしてリリースされた[98]。同日『ザ・ビートルズ』までのオリジナルアルバムのモノ音源と2枚組の『モノ・マスターズ』(ステレオ盤の『パスト・マスターズ』に対応したアルバム未収録曲集)[99]を収録したCD BOX『ザ・ビートルズ MONO BOX』も発売され、『ヘルプ!』、『ラバー・ソウル』には発売当時のステレオミックス音源も追加収録された。ステレオ・アルバム・ボックスをUSBメモリに収録した『THE BEATLES STEREO USB』も発売された。このボックスにはオーディオCDのスペックをしのぐFLAC 44.1Khz 24 bitで収録された音源の他、CDブックレット、ボーナスDVDをデータ化したものも収録されている。
- 2010年代
2010年、オリジナル作品のiTunesでのデジタル配信が解禁となる[100]。『ラヴ』も2011年2月に配信され、同時にアルバムで1位を獲得した。2011年6月、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』のリマスター版が配信開始[101]。2013年11月11日『オン・エア - ライブ・アット・ザ・BBC Vol.2』が世界同時発売。2014年にはビートルズの米国上陸50周年のメモリアルイヤーとして、グラミー賞授賞式でポールとリンゴが共演した。翌2015年1月27日、ビートルズ訪米50周年のトリビュートコンサート"The Night That Changed America: A GRAMMY Salute To The Beatles"が開催。ラストではポールとリンゴが「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」と「ヘイ・ジュード」で共演し会場を熱狂させた。同年11月6日にはリミックス、リマスタリングされた『ザ・ビートルズ1』が、ミュージック・ビデオ集のDVD&Blu-rayとのセットで再発売された。2016年3月8日、ビートルズの殆どの楽曲をプロデュースしてきたジョージ・マーティンが死去。6月17日にmoraで全アルバムのリマスター版と『ラヴ』、『アンソロジー』、『アンソロジーハイライト』が解禁された。9月16日、ロン・ハワード監督による、コンサート活動時代のドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK The Touring Years』がアメリカとイギリスで公開される。
日本では2017年11月18日~2018年1月28日の日程で「ビートルズ展」が開催され、武道館公演のプログラムなどのほか日本初公開アイテムを含む約400点を展示されている[102][103]。
オリジナル・ディスコグラフィー
- 本節はバンドの活動期間中に英国にて発売したオリジナルアルバムおよびシングルのみ記載。
オリジナルアルバム
- 「マジカル・ミステリー・ツアー」は当該項目を参照。
発売日 | 邦題 | 原題 | 全英チャート最高位 | 全英1位獲得回数 |
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プリーズ・プリーズ・ミー | Please Please Me | |||
ウィズ・ザ・ビートルズ | With The Beatles | |||
ハード・デイズ・ナイト | A Hard Day's Night | |||
ビートルズ・フォー・セール | Beatles For Sale | |||
ヘルプ! | Help! | |||
ラバー・ソウル | Rubber Soul | |||
リボルバー | Revolver | |||
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド | Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band | |||
ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム) | The Beatles | |||
イエロー・サブマリン | Yellow Submarine | |||
アビイ・ロード | Abbey Road | |||
レット・イット・ビー | Let It Be |
オリジナルシングル
評価と影響
音楽的評価と影響
デビュー当初はアイドルグループと認識される傾向が強かったが、その時期においても音楽的評価はなされていた(ウィリアム・マンがタイムズ誌で絶賛する一方、ラジオ司会者のブライアン・マシューが批判するなど賛否両論があった[104])。先輩格の同業者では、ジェリー・リー・ルイスが才能を認める発言をしており、ザ・ビーチ・ボーイズのカール・ウィルソンは「抱きしめたい」のファンだったと述べている。ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンはビートルズの勢力拡大に対してメンバーとミーティングを開き、市場維持のために自分達の音楽性を変化させる事を提案している[105]。なお、後年リリースしたビーチ・ボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』は、逆にビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に影響を与える事となった[106]。後進のミュージシャンでは、トム・ペティやジャクソン・ブラウンが称賛と共に、ビートルズがポピュラー音楽を変容させた点を挙げており、U2のボノもビートルズの前衛性を評価している。他にもオジー・オズボーン、グラディス・ナイト、ブルース・スプリングスティーンなど、様々なジャンルのミュージシャンがビートルズのファンだった事を打ち明けている[105]。1967年にリリースされた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の音楽的な評価は特に高く、それまでビートルズに批判的または無関心だった層にも好評を得て、ポピュラー音楽そのものを変革した作品と評された[注釈 59]。リンゴは[107]「1966年〜67年頃のバンドは、ほぼ全てビートルズに影響されていて、それらのプロデューサーは多かれ少なかれ自分の担当するバンドの音をビートルズに似せようとしていた」と述べている。
自作自演
ビートルズのレパートリーは、オリジナル曲と既製のロック・ポップス曲のカバーとが有るが、活動期間中にイギリスで発売された22枚[注釈 60]のシングルは全てメンバーの自作曲である。チャック・ベリーなど自作自演のロックミュージシャンは以前から存在したが、1962年頃の音楽産業界の主流ではなかった。当時はプロデューサーと版権業者と音楽作家の連携(ティンパンアレイ方式)が行われており、ジョージ・マーティンもその慣習をビートルズに伝えている[108]。ビートルズ以前に数多くの全英チャート1位を獲得したバンド「クリフ・リチャード&シャドウズ」なども、その多くが外部の作家の作品で、ディッキー・プライドやビリー・フューリーといった当時の人気歌手も同様だった。ビートルズも、当初はマーティンの発案で外部の作家による「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット?」をデビュー・シングルとする予定だったが、メンバーは自作曲のシングル発売を頑として主張し[108]、結果として「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューした。自作自演は以降のイギリスの音楽産業界に次第に浸透していく事になる。代表的な例が、ビートルズより少し後にデビューしたローリング・ストーンズであり、キース・リチャーズとミック・ジャガーがそれまでの既成曲優先から方向を変えて自作自演するようになったのは、ビートルズのメンバーから作曲について直にアドバイスされたからだった[109]。
イギリスとアメリカの音楽産業の構図の変化
ビートルズのデビューおよびイギリスでの活動は、イギリスの音楽産業そのものにも変化をもたらしている。ホリーズに在籍していたグラハム・ナッシュは[105]「ビートルズ以前のイギリスの芸能界はロンドンが中心で、地方とは分け隔てられた状態だった。それをリヴァプールのバンドであるビートルズが突破して市場の勢力が一変し、その結果、マンチェスターのバンドであるホリーズにもチャンスが巡ってきた」と述べている。
次の変化はアメリカで起こっている。1963年まで、イギリスのポップ・グループの曲がアメリカのビルボード・シングル・チャートで1位になったのはトルネイドースの「テルスター(en)」が唯一の例で、それも2作目以降はヒットを持続させていなかった。しかし1964年初頭、キャピトルが初めてリリースしたビートルズのシングル「抱きしめたい」がビルボードで1位となった後、4月4日には上位5曲をビートルズが占め、翌週の11日にはビートルズの曲14曲が100位以内にチャート入りするという事態が生じた[110]。このビートルズの人気によって障壁が打ち破られ[111]、この後、イギリスの多くのバンドがアメリカに進出を始める。ローリング・ストーンズやアニマルズ、キンクス、デイヴ・クラーク・ファイヴ、ハーマンズ・ハーミッツ、ザ・フー、ピーター&ゴードンなどが進出したこれらの一連の流れは、「ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれている[111]。この状況に対し、ファン層が異なっていた[112]モータウンを除いて、当時のアメリカ側の音楽関係者の多くは対応策を迫られ、状況の分析と打開に向けて動き始めることになった[113]。
ビートルズへの影響
ビートルズ自身は自分たちは「多くの音楽その他の事象に影響されている」と述べている[注釈 61]。
1950年代に活躍した先駆的ミュージシャン達には、メンバー各人がアマチュア時代から影響を受けたと述べており、中でもエルヴィス・プレスリー、リトル・リチャード、チャック・ベリーの3人が挙げられている。特にチャック・ベリーは、音楽も歌詞の内容も評価が高い[114]。
一方、エルヴィス・プレスリーとリトル・リチャードは音楽に加えてスター、アイドルとしての要素にも憧れていたと述べている。ただし、プレスリーについては、ジョン[115]もポール[116]もファースト・アルバム『エルヴィス・プレスリー登場!』の頃については高く評価しているものの、除隊後の作品は興味を持てない(ポールの発言[117])と述べている。ジョンはプレスリーとの対談において、「昔のスタイルに戻るつもりはないのか」と進言している。
それ以外にもカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、チェット・アトキンス、ファッツ・ドミノ、ジーン・ヴィンセント、バディ・ホリー、エディ・コクラン等の影響があったと述べている[118]。なおビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」に対する評価は分かれていて、ポール[119]とジョージ[120]とリンゴ[121]が気に入っているのに対し、ジョンは「印象は余り強くなかった」と述べている[122]。
デビュー後の早い時期に影響を受けたのはボブ・ディランで、1964年1月のフランス公演の際に現地のDJから『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』を手に入れ、それ以来ずっと聴き続けた[123]。同年に行われた2回目のアメリカツアーで本人に面会した時は、全員がディランのデビュー・アルバム『ボブ・ディラン』を持っていた。特にジョンは強く傾倒しており、1965年に発表された「悲しみはぶっとばせ」を自分のディラン時代の作品だと述べている[124]。
「ノルウェーの森」を始め、ビートルズにインド音楽の影響が表れたのは、ジョージがラヴィ・シャンカルのレコードに影響された事がきっかけとなっている。さらに前述の通り、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』はザ・ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』の影響を受けている。
ジョージ・マーティンの功績
1962年6月6日、ジョージ・マーティンはビートルズのパーロフォンでのオーディションを担当。同年10月に発売されたデビュー・シングル「ラヴ・ミー・ドゥ」から、最後に録音されたオリジナル・アルバム『アビイ・ロード』までのプロデュースを担当し、音楽性に大きな影響を与えた。デビューに際しては選曲でビートルズのメンバーと意見を異にしたが、「プリーズ・プリーズ・ミー」以降はメンバーのオリジナル曲を優先してシングル化している。マーティンは当初メンバーのうち誰か1人をメイン・ボーカルに設定するつもりだった。当時の人気バンド「クリフ・リチャード&ザ・シャドウズ」などに代表される様に、この頃は『ボーカリスト&バックコーラス』、または『リード・ボーカル・ウィズ・バックバンド』という形式が多かったためで、マーティンも第2のクリフ・リチャードと成り得るスターを1名作り出そうとしていた[26]。しかし結局、マーティンはビートルズにこの形式を導入せず、曲によってボーカル担当が異なるスタイルを取り入れた。クラシック楽器の使い方をメンバーにレクチャーするといった役目も担っている。1966年8月のツアー中止以降の、スタジオ・ワークを重視した時期には、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のテンポと調が異なる2テイクを1つに編集したり、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に収録された「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」のオルガン録音でのテープ編集を手がけている[26]。なお、発売順としては最後となったアルバム『レット・イット・ビー』は、最終的にフィル・スペクターが完成させたが、1969年1月からトゥイッケナム・スタジオで開始されたゲット・バック・セッションにはジョージ・マーティンが参加し[125]、テスト盤として制作されたアルバム『ゲット・バック』も、ジョージ・マーティンがグリン・ジョンズと共同プロデュースしている[126]。
ブライアン・エプスタインの功績
リヴァプールのNEMSレコード店[注釈 62]の責任者だったブライアン・エプスタインは、1961年に地元のバンドであるビートルズの存在を知り、12月にマネージメント契約を締結した[注釈 63]。
当時のイギリスの音楽界はロンドンが中心であり、地方都市を拠点とするローカル・バンドがレコードをリリースしたり、全国ツアーを行うといった活動は、基本的に行われていなかった[注釈 64]が、エプスタインはロンドンにあるレコード会社を廻ってビートルズを売り込み始めた。この売り込みに対して大手レコード会社のデッカ・レコードがオーディションに応じているが、これはエプスタインが大手レコード店NEMSの責任者である事が影響していた[127]。1962年1月に受けたデッカのオーディションは不合格になるが、エプスタインは引き続きレコード会社を廻って売り込みを続け、その結果ジョージ・マーティンによるパーロフォンでのオーディションを受ける事になる。
レコードデビュー後は、『エド・サリヴァン・ショー』の出演契約締結などでアメリカへの進出を実現させ、ビートルズの世界進出に営業面で貢献している。1966年8月のコンサート活動終了後も、1968年に公開されたアニメーション映画『イエロー・サブマリン』の制作契約を結んでいる[128]。
批判と公的な抑圧
ビートルズを筆頭とするロック/ポップ・グループの流行については、1963年当時から批判が存在した。特にビートルマニアと称されたファンの一部が、真夜中にも関らずビートルズが宿泊するホテルの周囲を4000人ほどで取り囲んで喚声を上げたりするといった騒動がタイムズ誌などで報道されている。日本でも、最初の映画の公開時に、地方上映を待てない百人以上の未成年のファンが、保護者の承諾を得ないまま上京して警察に補導されている[129]。
風紀の乱れ、青少年への悪影響といった不当な批判が増大していき、母国イギリスでは1965年のMBE勲章の叙勲時にその批判が顕在化した。ビートルズへの叙勲に抗議する形で勲章を返却する者も現れ[130]、この時は863個の勲章が返却された[131]。同1965年、イスラエルはビートルズの公演を拒否した[注釈 65]。
さらにアメリカではジョンのキリスト発言に対する批判、日本では来日前に正力松太郎の「ベートルスとかペートルスとかいう連中」発言や、細川隆元と小汀利得による「薄汚い西洋の連中に貴重は外貨を使うな」発言[132]など、不当な批判や抑圧があった。
またソビエト連邦や中華人民共和国を中心とした共産主義国家は、ロック音楽を「資本主義による精神汚染」とみなし、ソ連ではそのレコード発売には政府からの許可が下りなかった[注釈 66]。
映像作品
ビートルズ側が制作した作品
解散前にビートルズ側が制作した映像作品は5本ある。この内、ブライアン・エプスタインがユナイテッド・アーティスツと契約した劇場用映画が『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』(1964年)、『ヘルプ!4人はアイドル』(1965年)、およびエプスタインの死後に制作・公開されたアニメ『イエロー・サブマリン』(1968年)の3本である[133]。テレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』はポール主導で1967年に制作され[134]、同年暮れにBBCで放映された。ドキュメンタリー映画『レット・イット・ビー』は1969年に撮影されたが、公開は翌1970年となった。2016年現在、『レット・イット・ビー』以外の作品はソフトが市販されている。
ドキュメンタリー作品
1982年に記録映画『コンプリート・ビートルズ』(1982年)が米MGMの制作で公開され、その後ビデオソフトとしてリリースされている。1995年には計11時間におよぶ公式ドキュメンタリー『ザ・ビートルズ・アンソロジー』が制作され、2曲の新曲、未発表曲、アウトテイクを集めたアルバムと共に発表された。2004年には初期のアメリカ公演の模様を収録した『The Beatles: The First U.S. Visit』が発表されている。関係者のドキュメンタリーも作られており、2012年には映画『プロデューサー ジョージ・マーティン~ビートルズを完成させた男~』が、2013年にはビートルズのマネージメント・スタッフの一人でデビュー前からの知己でもあったフリーダ・ケリーを主人公にした映画『愛しのフリーダ』が公開されている。2016年9月22日には、コンサート活動時代を中心にした公式ドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years』が公開された。
1988年に公開されたジョンの伝記映画『イマジン』は、一部にビートルズ時代の映像が収録されている。
ビートルズを題材にした映画
スチュアート・サトクリフのビートルズでの活動とアストリットとの関係と死を描いた映画『バック・ビート』が1994年に公開された。2000年には、ジョンの半生とクオリーメン結成からビートルズがアメリカを席捲するまでを描いたテレビ映画『ジョン・レノン/青春のビートルズ』が放送された。2011年にはリアム・ギャラガーの企画で、マイケル・ウィンターボトムが監督するビートルズ映画の制作が発表された[135]。2014年には、世界中のファンが「自分にとってのビートルズ」を語る『ビートルズと私』(セス・スワースキー監督)が発売された。
プロモーション映像
ライブ活動をやめてからのビートルズは、新曲のプロモーション用にイメージ映像を撮影してテレビで放送するという方法を取り始めた。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」や「ペニーレイン」などのプロモーション・ビデオ映像が作られ、ライブによるプロモーションの代替手段として取り扱われる。ポール主導で制作されたテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』は、娯楽作品としての評判は芳しくなかったが、『ビートルズ・アンソロジー』において、ジョージが冗談交じりに「MTVは僕らの発明さ」と語っているように、芸術映画・音楽映像作品としては評価する向きもあり、スティーヴン・スピルバーグなどが、映画学校の学生時代に同作に注目していたと述べている[136]。
ビートルズ作品の著作権
ビートルズのメンバーによる楽曲の著作権の多くは、以下の経緯で所有者が何度も変わっている。
最初の2作品
1962年10月に発表されたファースト・シングル「ラヴ・ミー・ドゥ / P.S. アイ・ラヴ・ユー」はEMI傘下の音楽出版社アードモア&ビーチウッド (Ardmore & Beechwood Ltd.)に登録された[137]。 しかし同作は全英シングルチャート最高17位に止まるなど、メンバーとマネージャーのブライアン・エプスタインの期待を下回った為[137]、エプスタインは1963年1月に発表された2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー / アスク・ミー・ホワイ」をディック・ジェイムズ(en)の音楽出版社ディック・ジェイムズ・ミュージック (DJM)) に登録する事にした[138]。同作は全英2位のヒットとなり、ジェイムズとエプスタインの関係は強固なものとなった[138]。
ノーザン・ソングス
エプスタインはこのヒットを機に、ビートルズ自身の音楽出版社を設立する事を決め、1963年2月22日に『ノーザン・ソングス社が設立された[139]。同社はビートルズのオリジナル楽曲の著作権を管理するために立ち上げられたジェイムズ (DJM) とレノン、マッカートニー、エプスタイン (NEMSエンタープライズ)による合弁会社であった[139]。 しかし、同社がビートルズと行った著作権契約は、当時メンバーとエプスタインが著作権に関する充分な知識を持っていなかったこともあり[139]、利益分配比はDJMが5割、レノン、マッカートニー、NEMS合わせて5割と、ビートルズにとって不利なものであった[140][141]。また同社の議決権株式はDJM(ジェイムズとチャールズ・シルヴァー)が51%と過半数を握り、マッカートニーが20%、レノンが19〜20%、エプスタインが9〜10%という比率で分けられていたため、契約内容の修正も困難であった[139]。 後にマッカートニーは「MOJO」誌2005年9月号のインタビューにおいて、このときのノーザン・ソングス社の契約について「ジョンと僕は騙されたんだ、絶対にね。(中略)僕等は奴隷契約書に署名させられたわけさ」と発言している[139]。
1965年2月にノーザン・ソングスは税金対策の為に500万株をロンドン証券取引所に公開。1967年のブライアン・エプスタインの死後は弟のクライブ・エプスタインが取締役を引き継いだ。
ハリソングス
1964年、ジョージ・ハリソンはNEMSと共同でハリソングス (Harrisongs Ltd.) という音楽出版社を立ち上げた[140]。ハリソンが同社を設立した背景にはノーザン・ソングスへの不満があり、1969年に発表されたハリソンの作品「オンリー・ア・ノーザン・ソング」の歌詞は、ノーザン・ソングスの不当な契約を皮肉ったものである[140]。そうした経緯から、ハリソングスの契約はノーザン・ソングスよりも作家の取り分が多くなっていた[140]。1968年のアルバム『ザ・ビートルズ』からは、ハリソンの楽曲はノーザン・ソングスではなくハリソングスに、リンゴ・スターの楽曲もリンゴが設立した音楽出版社スタートリング・ミュージック (Startling Music Ltd.) に登録される事になり、それ以降ノーザン・ソングスに登録される楽曲はレノン=マッカートニーの曲だけになる。
ATV
1969年6月、ジェイムズはすでにノーザン・ソングスの株を数パーセント所有していたATV社に自身が持っていた株を売却。残りの株を巡ってビートルズとATVで争いが始まったが、ビートルズはこれに敗れ、ノーザン・ソングスの筆頭株主はATVとなった[注釈 67]。そしてこの時のビートルズのビジネスマネージャーだったアレン・クラインはビートルズの持ち株をジェイムズの倍の値段でATVに売却し、決着をつけた。これにより多くのビートルズ楽曲の著作権は作者であるビートルズの元を離れた。
1970年4月10日にマッカートニーがビートルズ脱退を表明し、ビートルズは解散することとなるが、このATVによるノーザン・ソングス買収とそれにまつわる金銭問題はその要因の一つとなった[142]。
また、1971年にマッカートニーが発表したシングル「アナザー・デイ」は表記上は妻リンダ・マッカートニーとの共作となっており、同年にレノンが発表したシングル「ハッピー・クリスマス (戦争は終った)」も妻オノ・ヨーコとの共作となっているが、このアーティスト名の表記変更はATVとの権利問題のためでもあった[143]。
マイケル・ジャクソン
1985年、ノーザン・ソングスの持ち主であるATVが売りに出され、当時27歳のマイケル・ジャクソンが約4750万ドルで購入した。これ以降、ジャクソンがビートルズの版権を所有する事になったが、その後「ソニーATVミュージックパブリッシング」に版権が移り、ジャクソンはその版権から得る権利から、持ち分に基づく配当として収益を受けるという形になる。ちなみに、マイケルに版権ビジネスを教えたのはポールだと言われている[144]。
2009年6月25日にマイケル・ジャクソンは死去し、その後、2011年に至るも版権を巡って様々な報道がなされている[145][146]。
なお、ジェイムズは「プリーズ・プリーズ・ミー / アスク・ミー・ホワイ」をノーザンソングスに移管せず、DJMで管理し続けた[147]。DJMは1986年にポリグラム社に売却され、ポリグラムは1999年にユニバーサル・ミュージックに買収されたため、この2曲だけは2010年現在ユニバーサル・ミュージックが所有している[147]。
脚注
注釈
- ↑ 当時存命中のメンバー3人全員が集結して新曲などを録音・発売したが「正式な再結成」とは発表していない。
- ↑ この日は金曜日。英国の過半数を占めるブルーカラー労働者は給料日が毎週金曜日なのでイギリスにおけるレコード発売日は基本的に金曜日。
- ↑ "ファブ・フォー"と読む。FabはFabulousの略。「素晴らしい4人」あるいは「いかした4人組」という意味。同名のThe Fab Four、そしてこれをもじったThe Fab Fauxというトリビュートバンドも存在する。また、ロンドンオリンピック (2012年) における体操競技の女子団体総合で金メダルを獲得したアメリカ代表選手(5人)が「The Fab Five」と呼ばれている。
- ↑ マジカル・ミステリー・ツアーを当初EP2枚組として発売。詳細は当該作品を参照。
- ↑ en:List of number-one albums from the 1960s (UK)およびen:List of number-one albums from the 1970s (UK)を参照。
- ↑ en:List of best-selling albums by year (UK)を参照。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 List of number-one albums from the 1960s (UK)を参照。
- ↑ ただし、通算1位獲得数では映画『サウンド・オブ・ミュージック』のサウンドトラックの70週と『南太平洋(South Pacific)』のサウンドトラックの44週に次ぐ3位。なお『南太平洋』のサウンドトラックは1958年から1959年にかけて第1位を70週間連続獲得しており、全英アルバムチャート連続一位獲得数の歴代1位となっている。詳細はen:List of number-one albums from the 1950s (UK)を参照。
- ↑ バンド活動期間である1962年10月の「ラヴ・ミー・ドゥ」から1970年3月の「レット・イット・ビー」まで。
- ↑ 当該URL の記述を参照。また同誌は100-Greatest-Beatles-Songsや独自のバイオグラフィーを設けている。
- ↑ 英語でこおろぎの複数形。その他にスポーツのクリケットの意味がある。
- ↑ BEETLES=かぶと虫の複数形。この綴りの3文字目をAに変えて、言葉を聞くと虫=BEETLESをイメージし、文字を見るとビート・ミュージック=BEATLESとなるようにした。
- ↑ 1953年公開。マーロン・ブランド主演。ビートルズはバイクを乗り回している女性を指すスラングとして、リー・マーヴィンの台詞に登場する。
- ↑ Beetle はかぶとむしだけでなく、コガネムシ、カナブンも含まれ、日本でのかぶとむしのイメージと違い、英米では嫌われている昆虫類(害虫)のひとつでもあった。
- ↑ ただし「KAWADE夢ムック 文藝別冊『[総特集]ジョージ・ハリスン』」の年表には「ジョージが『出生届では2月25日だが実際は2月24日午後11時42分生だ』と述べている」との注釈がある。
- ↑ 1994年に公開された伝記映画『バック・ビート』はスチュワートを主人公にしている
- ↑ なおジョージ・マーティンは当初リンゴの加入を知らず、アンディ・ホワイトというドラマーを手配していたので『ラヴ・ミー・ドゥ』では2人のドラマーのテイクが存在し、シングルにはリンゴの、アルバムにはアンディのバージョンが収録されている。
- ↑ 「レット・イット・ビー」では、6弦ベース(フェンダー・ベースVI)を演奏している。
- ↑ ただし約一週間で復帰し、当時は公にされなかった。
- ↑ この件とは別に「マザー・ネイチャーズ・サン」、「ジョンとヨーコのバラード」のドラムスもポールが演奏している。
- ↑ ポール、ジョージ、ジョンの順番に2小節回しの演奏を行っている。
- ↑ インストゥルメンタル曲「フライング」を除く。
- ↑ どちらがメインのメロディーを担当するかは曲により異なっている。
- ↑ ビデオ版のザ・ビートルズ・アンソロジーにはジョンがハーモニカを吹いている「ラヴ・ミー・ドゥ」の演奏の記録映像が収録されている。
- ↑ ポールはジョンと出会った頃からピアノを演奏する事が出来た。詳細は「#デビューまでの来歴」を参照。
- ↑ シタールを通じて知ったインド哲学への興味がジョージから他のメンバーにも伝わり、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーへの傾倒につながる。
- ↑ テイク数は217。これらは全て2009年に発売された『ザ・ビートルズ・BOX』に収録されている。
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.29のジョージの発言によれば、一時期クオリーメンにも在籍していた。
- ↑ 映画『女はそれを我慢できない』の挿入歌。
- ↑ しかし、当初サトクリフは楽器演奏自体が未経験だったため、構造が簡単な曲から序々に覚えて行った。
- ↑ 同年4月23、24日。ジョンとポールの2人がユニット名「ナーク・ツインズ」としてポールのいとこ夫婦が経営するパブで演奏している。
- ↑ この時点ではシンガーそのものは未定だった。
- ↑ この頃はドラマーが次から次へと入れ替わっていた。交代の度にやめていったドラマーが所有するドラムのパーツの一部が置き土産として手に入り、やがてフルセットに近いドラムセットが組みあがったため、ドラマーのいない時期はポールがドラムスを叩いたこともあった。
- ↑ 初期のビートルズが出演していたリヴァプールのクラブ「ジャカランダ」のオーナー。リヴァプールのバンドのハンブルク巡業を手がける興行主でもあった。
- ↑ 写真家。学生時代、ビートルズのハンブルク巡業中に友人となり、数々の写真を撮影。ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.58によれば、後にビートルカットと呼ばれる垂れた髪型の提案者であり、アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』のジャケットのアイディアの元となった写真の撮影者でもある(ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.107。ただしジャケットの写真そのものはロバート・フリーマンが撮影している)。また、生前のサトクリフと恋愛関係にあり、映画『バック・ビート』ではヒロインとして描かれている。カナ表記は、ザ・ビートルズ・アンソロジー(日本語版)では本文(p.52その他)で「アストリット」、p.358のCREDITでは「アストリッド」と、両方の表記が存在する。
- ↑ 元々はポールとリヴァプール・インスティチュートの同級生で、1学年下のジョージとも友人だった。またピート・ベストの友人でもあり、ベスト家に間借りしていた。その縁でバン(車)を持っていた事からビートルズの楽器を運ぶ為に雇われ、デビュー後も引き続きロードマネージャーとしてビートルズの身の回りの世話をする事になる。
- ↑ ビートルズが出演していたキャバーン・クラブのドアマンとして働いていたが、アスピノール1人では仕事が大変なので2人目のロードマネージャーとして雇われ、アスピノール同様デビュー前から楽器のセッティングなどをはじめビートルズの身の回りの世話をしていた。ビートルズ解散後もジョン、ジョージと関わっていたが1976年に死去。
- ↑ 詳細はピート・ベスト#解雇劇を参照。
- ↑ 後にビートルズがデビューして人気を得ると、レコード会社は名義を「ザ・ビートルズ・ウィズ・トニー・シェリダン」に変えている。
- ↑ これらは1995年に発売した『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』に収録されている
- ↑ この日は金曜日。英国の過半数を占めるブルーカラー労働者は週給制で給料日が金曜日なのでイギリスにおけるレコード発売日は基本的に金曜日。
- ↑ その為、後にリリースされたチャート1位シングル曲集であるザ・ビートルズ1には収録されていない。
- ↑ このステージでの最後の曲「ツイスト・アンド・シャウト」の直前にジョン・レノンが「安い席の人々は拍手を。残りの人々は宝石をガラガラ鳴らしてください」と観客に言っている。
- ↑ ただしビルボードで日付上で1位になったのは2月1日。ビルボードHOT100・1964年2月1日付を参照。
- ↑ 本作以降も『ヘルプ!4人はアイドル』の監督を担当。『ジョン・レノンの 僕の戦争』では監督に加えてプロデューサーも兼任し、1991年には『ゲット・バック』の監督を担当している。
- ↑ ただしこの人数には異説がある。ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーではニール・アスピノールが55000人と話しているが、ポールは56000人、リンゴは60000人、ジョージは70000人だと聞いたとコメントしている。
- ↑ この1966年のツアーでもシェイ・スタジアムが使用された。8月29日のビートルズ最後のコンサートもキャンドルスティック・パークという野球場である。
- ↑ シェイ・スタジアム自体もその後ローリング・ストーンズ、ザ・フー、ポリスなどがコンサート会場として使用している。2009年にシェイ・スタジアムは解体され、その前年である2008年に開催されたビリー・ジョエルのコンサートが最後となった。なお、このコンサートにはポールがゲスト出演している。詳細は公式サイトの当該項目を参照の事。
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.219のニール・アスピノールの発言。ただし同p.220でジョージ20万人ぐらい居たのではないか」と発言している。
- ↑ テレビ出演時のライブ演奏やゲット・バック・セッションでの屋上コンサートなどは除く。
- ↑ マリアンヌ・フェイスフルの前夫。
- ↑ 広報担当。1964年に一旦離れたが、1968年のアップル・コア設立に関連して再びビートルズとの仕事に携わる。元々は記者で、ライターとして『サイケデリック・シンドローム―それはビートルズから始まった』も執筆している。また『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の編集に協力したと特に編集後記で名前が挙げられている。1997年に死去。
- ↑ 本作ではクリス・トーマスがアシスタント・プロデューサーとして参加している。
- ↑ ただしこのプロデュースについては後に問題が発生した(詳細はレット・イット・ビーおよびレット・イット・ビー...ネイキッドを参照)。
- ↑ ベースはクラウス・フォアマンが担当。
- ↑ 5月26日付け。en:List of number-one albums of 1973 (U.S.)を参照。
- ↑ なお本作は、ビートルズのブートレグ(海賊盤)の中でも有名なベスト盤『αΩ(アルファ・オメガ)』(vol.1&2 各4枚組)の対策として企画された公式ベスト盤である。詳細は「公式website・赤と青のバイブル」(2011年8月13日閲覧)を参照。
- ↑ 12月9、16、23日。en:List of number-one albums of 1995 (U.S.)を参照。
- ↑ ビデオ「ザ・コンプリート・ビートルズ」に収録された音楽評論家Wilfred Mellersの解説によれば、それまでのロックやポップスは踊るための音楽だったが、同作によって聴くに値する音楽になった。
- ↑ ラヴ・ミー・ドゥ - レット・イット・ビー。EP盤やアメリカ等外国で独自に編集・発売されたシングルは除く。
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 によると、ジョージは「メンバーが聴いた音楽は好悪の別なく全てビートルズの音楽に影響を与えている」と述べていて(pp.26-27)、ジョンは「ビートルズ成立理由は通っていた学校の校風や住んでいた伯母の家の棚に並んでいた書籍にまで及ぶ」と述べている(p.14)。
- ↑ リブァプールで父親が経営していたNEMSという家具店のレコード部門。
- ↑ この経緯については諸説ある。詳細は、ブライアン・エプスタイン#ビートルズとの出会いを参照の事。
- ↑ ビデオ「ザ・コンプリート・ビートルズ」に収録されたビル・ハリーやジェリー・マースデンのコメントによれば、当時のイギリスの芸能界はロンドンの芸能関係者が取り仕切っており、地方都市のバンドは彼ら自身も関係者もレコードをリリースするという考え自体が存在しなかった。
- ↑ ただし2008年になってイスラエルは謝罪の意を公式に表明した。これを受けてポールは同年9月に同国での公演をおこなっている。詳細はイスラエル政府、ビートルズに1965年の公演中止を謝罪(AFP・2011年7月26日閲覧)を参照。
- ↑ ただし実際には、西側諸国からの輸入盤や、地下で翻訳されたロシア語版のカセットテープなどが販売され、当時も多くの若者に親しまれていた。なお、2003年にポールが行ったロシアの首都のモスクワの赤の広場でのコンサート「ライヴ・イン・レッド・スクウェア」では、その編集映像にセルゲイ・イワノフ国防相(1953年生まれ)のインタビューが収録されたが、その中でイワノフは「10代の頃からのビートルズファン」と自己紹介し「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」も演奏されたコンサートにもウラジーミル・プーチン大統領と伴に来場した。詳細は映像ソフト「ライヴ・イン・レッド・スクウェア」及びクレムリンを揺るがせたビートルズを参照。
- ↑ 庄司英樹は著書「ビートルズの復活」p.220で、このATVの買収を「乗っ取り」と称している。
出典
- ↑ 『僕はビートルズ』第1巻・巻末に記載されている宮永正隆の解説。
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.181-184
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.41
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.49
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.62
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233
- ↑ ビデオ「コンプリート・ビートルズ」より。
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.81
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.340
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.76
- ↑ 「ビートルズ来日学」P262
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.20
- ↑ 現在販売中のCDブックレットに記載されている名義。
- ↑ 日本語版P94
- ↑ ジョンが作った曲の一部には、ジョンが歌えない高いキーで歌う部分を、メンバーで一番高い声の出せるポールに歌わせている曲がある。
- ↑ “John meets Paul for the first time - History.com This Day in History - 7/6/1957”. A&E Television Networks, LLC. . 2014閲覧.
- ↑ ビデオ盤「ザ・ビートルズ・アンソロジー」より。
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.12,21
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.12
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.44
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.47
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.58
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.69
- ↑ ビデオ版The beatles anthology より
- ↑ 26.0 26.1 26.2 26.3 26.4 26.5 ビデオソフト「コンプリート・ビートルズ」に収録されている発言。
- ↑ ザ・ビートルズ1のジャケットの記述。
- ↑ List of number-one singles from the 1960s (UK)を参照。
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.102-104
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.110
- ↑ ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーのインタビューのコメント。
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.114-115
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.119
- ↑ 34.0 34.1 34.2 34.3 34.4 ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーの記録映像より。
- ↑ ビルボードHOT100・1964年4月4日付
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.139
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.140
- ↑ Vintage Adelaide. pp.70-71
- ↑ 39.0 39.1 「レコード 三百万枚売る ビートルズ」『朝日新聞』1965年1月19日付東京夕刊、8頁。
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.196
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.198-199
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.206
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.161
- ↑ 44.0 44.1 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.187
- ↑ 朝日新聞社編『ビートルズの社会学』(朝日文庫)など多くの本が出版されている。この中で遠藤周作は「高校野球が終って選手たちが泣けば大人は感動するが、ビートルズが終って少女たちが泣けばおかしいと言う。少しもおかしくはない。原理は同じだ。いいじゃないか」と書いている。
- ↑ 台風の影響により10時間以上遅れたことによる深夜の到着となった
- ↑ 47.0 47.1 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.218に掲載されたスケジュール表より。
- ↑ 48.0 48.1 48.2 48.3 48.4 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.216
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.215
- ↑ ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーに収録された記録映像。
- ↑ 51.0 51.1 51.2 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.219
- ↑ 52.0 52.1 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.220
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.217-221
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.221
- ↑ 55.0 55.1 55.2 55.3 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.225
- ↑ ジョン・レノンの「キリストより有名」発言論争の真実 RollingStone JAPAN
- ↑ 「25.キリスト発言」『All You Need Is THE BEATLES』斉藤早苗監修、宝島社、2017年1月19日。76-79頁。ISBN 4-80026-523-1。
- ↑ ローマ法王庁、J・レノンの「キリスト」発言を許す ロイター通信 2008年11月23日
- ↑ カトリック総本山、ついにザ・ビートルズを許す BARKS 2010年4月13日
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.228-229
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.163
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.199
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー ビデオ版に収録されたライブ映像より
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.184
- ↑ リッチー・ブラックモア 狂気の雷舞 pp.208-209
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.227
- ↑ 67.0 67.1 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.229
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.216
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.226
- ↑ ビデオ版ザ・ビートルズ・アンソロジーでのポールの発言。
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.242
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.92
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.252のジョージ・マーティンの発言。
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.231
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.235
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- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.257
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.233,259
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp. 264-270
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.274
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- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.292
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- ↑ 90.0 90.1 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.347
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.315
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 pp.321-322
- ↑ 93.0 93.1 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.322
- ↑ 94.0 94.1 ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.353
- ↑ 二見書房刊『ビートルズの復活』(庄司英樹著・1974年)あとがきより。
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- ↑ Beatles covers to be on UK stamps
- ↑ 公式siteより。
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- ↑ 公式ファンクラブの当該site。
- ↑ ビートルズ展サイト(2017年11月19日閲覧)
- ↑ 「大半が日本初公開のビートルズ展…演奏体験も」『読売新聞』朝刊2017年11月17日(都民版)
- ↑ ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版 p.96
- ↑ 105.0 105.1 105.2 ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール」に収録された本人のコメントより。
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- ↑ 「en:1964 in music」及びビデオ「ザ・コンプリート・ビートルズ」より。
- ↑ 111.0 111.1 ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール」に収録されたジョージ・マーティンのコメントより。
- ↑ ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール Vol.2」に収録されたAbdul Fakirのコメントより。
- ↑ ワーナー・ホーム・ビデオ「ヒストリー・オブ・ロックンロール」に収録されているデレク・テイラーの言葉。
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- ↑ リアム・ギャラガー企画のビートルズ映画、監督はマイケル・ウィンターボトムに決定! 2011年10月26日閲覧。
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- ↑ ワーナー・ミュージック、事業売却で10件超の買収提案受ける
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参考文献
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- 三木千寿 『「リッチー・ブラックモア 狂気の雷舞」』 シンコーミュージック、1977年。ISBN なし。
- 高尾栄司 『ビートルズになれなかった男』 朝日新聞社、1984年。ISBN 4-02-255279-3。
- マーク・ルウィソーン 『ビートルズ・レコーディングセッション』 シンコーミュージック、1988年。ISBN 4-4016-1297-3。
- マーク・ルウィソーン 『ザ・ビートルズ全記録(1957-1964)』 プロデュースセンター出版局、1994年。ISBN 4-9384-5623-0。
- マーク・ルウィソーン 『ザ・ビートルズ全記録(1965-1970)』 プロデュースセンター出版局、1994年。ISBN 4-9384-5624-9。
- アップル・コア 『ザ・ビートルズ・アンソロジー 日本語版』 リットーミュージック、2000年。ISBN 4-8456-0522-8。
- 内田久美子 『ビートルズ全詩集』 ソニー・ミュージックパブリッシング・シンコーミュージック、2000年。ISBN 4-4016-1663-4。
- 『KAWADE夢ムック 文藝別冊『[総特集]ジョージ・ハリスン』』 河出書房新社、2001年。ISBN 4-309-97619-0。
- アンディ・バアック 『Beatles gear 日本語翻訳版』 リットーミュージック、2002年。ISBN 4-8456-0798-0。
- アラン・クレイソン 『The Little Box of Beatles』 ソフトバンククリエイティブ、2004年。ISBN 4-7973-2749-9。
- 広田寛治 『ザ・ビートルズ大全』 河出書房新社、2004年。ISBN 4-3092-6805-6。
- ジョニー・ディーン 『THE BEST OF THE BEATLES BOOK 日本語翻訳版』 リットーミュージック、2005年。ISBN 4-8456-1253-4。
- イアン・イングリス 『ビートルズの研究 - ポピュラー音楽と社会』 日本経済評論社、2005年。ISBN 4-8188-1352-4。
- 佐藤良明 『ビートルズとは何だったのか(理想の教室)』 みすず書房、2006年。ISBN 4-8188-1352-4。
- 藤井哲夫・かわぐちかいじ 『僕はビートルズ第1巻』 講談社、2010年。ISBN 978-4-0637-2932-0。
- Ficher, P.・Seamark, K. H. (2005). Vintage Adelaide.. East Street Publications.. ISBN 1-9210-3706-7.
- ブライアン・サウソール・ルパート・ペリー 『ノーザン・ソングス 誰がビートルズの林檎をかじったのか』 上西園誠訳、シンコーミュージック、2010年。ISBN 9874401633791。
外部リンク
- ザ・ビートルズ 日本オフィシャルサイト
- The Beatles (Apple Corps) 世界共通オフィシャルサイト
- テンプレート:MySpace
- [1] - Discogs
- ビートルズ - 公式YouTubeチャンネル