阪急西宮スタジアム
阪急西宮スタジアム Hankyu Nishinomiya Stadium | |
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施設データ | |
所在地 | 兵庫県西宮市高松町 |
開場 | 1937年5月1日 |
閉場 | 2002年12月31日 |
取り壊し | 2004年9月1日 - 2005年夏 |
所有者 | 阪急電鉄 |
グラウンド |
内野 -天然 芝(開場 - 1940年代) 黒土(1950年代 - 1989年) 人工芝(1990年 - 閉場) 外野 - 天然芝(開場 - 1977年) 人工芝(1978年 - 閉場) |
設計者 | 阿部美樹志 |
建設者 | 竹中工務店 |
旧称 | 阪急西宮球場(開場 - 1991年3月31日) |
収容能力 | |
55,000人(開場時の数値) 35,000人(1978年:人工芝完成記念パンフレットより) 40,000人(営業晩年の公式ウェブサイトより) | |
グラウンドデータ | |
球場規模 |
両翼 - 101 m(ラッキーゾーン設置時までは91.4 m) 中堅 - 118.9 m(開設時は120mとする文献もある[1]) |
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阪急西宮スタジアム(はんきゅうにしのみやスタジアム、Hankyu Nishinomiya Stadium)は、かつて兵庫県西宮市にあった、阪急電鉄(法人としては現在の阪急阪神ホールディングス)が所有していた多目的スタジアム。阪急神戸線西宮北口駅前にあった。通称及び旧名称は阪急西宮球場(はんきゅうにしのみやきゅうじょう)。
Contents
概要
日本初の二階建スタンドと全面天然芝のグラウンドを持つ野球場として、シカゴのリグレー・フィールドなど当時のMLBの諸球場を参考に設計された。当初の計画では西宮北口駅と球場入口を直結する計画であったが用地買収が果たせず、一面水田であった現在地に1936年に起工、わずか5ヶ月の突貫工事で完成し、翌1937年に開場した。
すぐ南の阪神甲子園球場に対抗して造られた阪急西宮球場は、日本初の鉄傘付き二階席の他、当時としては異例の背付き椅子を備えた内野席、5万7千人収容の観覧席の傾斜角度をどこから見ても本塁に合わせるなど工夫され、その後長く「行きよい、見やすい」というキャッチフレーズが使われた。また、浴場など選手用施設、記者室、郵便局、当時では珍しかった男女別トイレなど内部施設も充実しており、広い敷地と併せて最新・最高の設備を備えた球場であった[2]。設計は、当時の阪急関連の建物の多くを担当した阿部美樹志が手掛けている。
阪急電鉄が所有していたプロ野球チーム『阪急ブレーブス』の本拠地(フランチャイズ)として阪急の主催試合が開催された。それ以外に、競輪場として競輪開催(「西宮競輪場」で詳述)、アメフトの試合、コンサートなど様々なイベントで使用されており、まさに“多角経営”の先駆けとなった野球場である。
阪急電鉄が球団を譲渡したオリックスがフランチャイズを移転した後の1991年に「多目的スタジアム」であることを標榜し、「阪急西宮スタジアム(はんきゅうにしのみやスタジアム)」へ改称。
1949年までの1リーグ時代は同じ西宮市内にある阪神甲子園球場と共に関西のプロ野球興行の中心だったが、セ・パの2リーグに分裂した1950年以後は阪急がパ・リーグ、甲子園を本拠地とする阪神タイガースがセ・リーグとそれぞれ別のリーグに所属したことに加え、フランチャイズの影響もあって、当球場での公式戦は阪急主催のパ・リーグの試合のみが行われる状態が続いた。前述のオリックスのフランチャイズ移転があった1991年に甲子園を夏の高校野球に明け渡した阪神が2リーグ分裂から42年目にして初めてセ・リーグの公式戦を行った。なお、1996年にプロ野球の公式戦を最後に行ったのも阪神である(後述)。
その後はアメフトと競輪開催が主となったが、人工芝の劣化によりアメフト開催も減少し、西宮競輪廃止が追い討ちとなり、球場自体の老朽化と経営難から2002年末を以て閉鎖。2004年9月1日から2005年にかけて取り壊された(「歴史」で詳述)。
跡地には、スタジアム敷地を含めた周辺再開発により、2008年11月に大型複合商業施設「阪急西宮ガーデンズ」が開業した。「ガーデンズ」内の「阪急西宮ギャラリー」には、1983年当時の本球場のジオラマ模型が展示されている。
- Hankyu-Nishinomiya-Stadium-2.jpg
グラウンド
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在りし日の正面付近
- Nishinomiya stadium.jpg
スタジアム解体後(西側より)
- Hankyu-Nishinomiya-stadium2005.12.18.JPG
スタジアム解体後(南側より)
- 阪急西宮スタジアム模型 (1).JPG
1983年頃の阪急西宮スタジアムを再現した模型(ライト側より)
- 阪急西宮スタジアム模型 (2).JPG
1983年頃の阪急西宮スタジアムを再現した模型(レフト側より)
- 阪急西宮スタジアム模型 (3).JPG
1983年頃の阪急西宮スタジアムを再現した模型(ホームベース側より)
スコアボード
- 初期の頃は手書きパネル式。当初はボールカウントもボードで表示するタイプだった。18回まで記載することが出来た。1965年に改修を受け外周がオレンジ色となり、ボールカウントもランプ式に改められた。またこの時には中央部分に大型スクリーンが設けられ、プロジェクター形式で写真を表示していたこともあった。
- 1982年に関西の球場としては初となる電光掲示方式(松下電器産業製)を採用。初期のパネル式のスタイルを踏襲し、イニング表示は10回まで、その他に合計得点、ヒット、エラー表示も可能に。打順部分はメッセージ表示も可能。中央部分には大型映像装置(アストロビジョン)が設けられた。
- その後1998年に競輪機能を強化する名目でバックスクリーン付近に競輪用特別観覧席(ガラス張りの屋内施設)が設置されたため、スコアボードを撤去し、競輪の本部棟屋(左中間付近)に映像装置を移設し、それをスコアボードに代えて利用した。
- Hankyu-Nishinomiya-Stadium-1.jpg
手書きパネル式
放送席の配置
ゴンドラ型になっており2階席のすぐ下に位置する。一塁側から順に関西テレビ・ニッポン放送・RFラジオ日本(ラジオ関西)・毎日放送・NHK・ラジオ大阪・朝日放送である。
また、バックネット裏に、放送局(よみうりテレビなど)の札が下げられた座席群も存在していた。
西宮第二球場
- 現在の山手幹線道路の南側に設置された。主として阪急→オリックスの二軍(ウエスタン・リーグ)の公式戦、あるいは一・二軍とも事前の練習などに使われた。観客席はなし。
- 1951年に毎日オリオンズがこの第2球場でキャンプを行っていた。隣接した本球場では阪急が練習を行った[3]。
- 名神高速道路開通後はその東側に存在した。球場としての外観が整えられたのは1970年代に芝生が植えられてからである。工事時の取り扱いは不明。1966年撮影の空中写真では、休止中の西宮球技場の芝生を内野のようにはがしていたことが確認できる。
- 特に二軍の試合は、競輪が本球場で行われた場合に公式戦を開催したことが多かった。
- 第二球場南側にブレーブスの合宿所「集勇館」も併設されていた。
- オリックス・ブレーブスがオリックス・ブルーウェーブへと球団名を変更しフランチャイズ球場を移転した1991年4月をもって機能終了し、球場・合宿所ともに閉鎖された。二軍の練習場と合宿所はグリーンスタジアム神戸サブ球場とその近接地に移転した。
- その後、球場・合宿所は解体され、跡地は兵庫県・西宮市・住宅・都市整備公団などに相次いで売却される。現在はそれらの公営住宅が建ち並んでおり、特に阪神・淡路大震災で自宅を失った世帯に対する震災復興住宅として、大いにその役割を果たした。
歴史
- 1936年、小林一三の命を受けた当時の阪急軍監督・三宅大輔が、堀尾文人を通してリグレー・フィールドの青写真を取り寄せ、それを参考に設計された[4]。
- 1937年5月1日、兵庫県武庫郡瓦木村(1942年に西宮市に編入)の遊戯施設「大毎フェア・ランド」跡地に、全面天然芝のグラウンドと、日本初の二階建スタンドをもつ野球場「阪急西宮球場」として開設。阪急職業野球団(→阪急ベアーズ→阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス/現:オリックス・バファローズ)のフランチャイズとして利用し、プロ野球興行を中心に使われた。また、金属類回収令による鉄材供出まで、バックスタンドには鉄傘が設けられていた。
- 1945年12月5日、戦後初となるボクシングの“復活試合”が行われた。
- 戦時中には後楽園球場で大相撲の本場所が開催された記録があるが、本場所ではないが、立行司29代木村庄之助の著書によると、著者が戦後入門して間もない昭和22年3月、大阪の準場所が西宮球場特設相撲場で行われた。
- 1946年、甲子園球場がGHQに接収されていたため、第28回全国中等学校優勝野球大会を阪急西宮球場で開催。
- 1946年9月27日、セネタース-ゴールドスター戦で、球場は晴天にもかかわらずセネタースの宿舎が雨だったため、セネタースが球場に現れなかったことで、日本プロ野球初の放棄試合が宣告された。
- 1946年10月4日、同年5月20日から5月26日に当球場で開催されたパシフィック戦の4試合に対し、没収試合が宣告された。
- 1948年、当時プロ野球を統括していた日本野球連盟によりフランチャイズ制度が暫定導入され、阪急ブレーブスと大陽ロビンスの本拠地球場となる。同年、小谷正一(井上靖の『闘牛』のモデル)が宇和島の闘牛を呼び興行を行う。
- 1949年からは競輪場(西宮競輪/兵庫県市町競輪事務組合主催)としても使用。
- 1952年にナイター照明設備を完成。当時プロ野球を統括していた日本野球機構によりフランチャイズ制度が正式導入され、阪急の本拠地となる。
- 1957年に第1回ミュージカル・ナイターを開催。
- 1958年・1963年には全国高等学校野球選手権大会が甲子園球場との併催で開催された。これは両年が記念大会として開催されて大会出場校が47代表に拡大され、甲子園球場では消化しきれないための措置。
- 1960年代頃、ラッキーゾーンを設置(この間1967年のプロ野球シーズン開幕前、阪急ブレーブスのダリル・スペンサー選手の要望により、3m前方にラッキーゾーンが移設されるというエピソードがある)。
- 1965年、スコアボードが中央に大型のカラースクリーン(プロジェクタ方式)を備えた物に改修される。
- 1971年のオールスターゲーム第1戦で江夏豊が9連続奪三振を記録。
- 1972年9月、阪急ブレーブスの福本豊選手が当球場での対南海ホークス戦で当時のシーズン世界最多記録となる105盗塁を達成。その試合で阪急のリーグ優勝も地元で決定し、花を添える。
- 1975年10月、日本シリーズ、当球場での第6戦で阪急が広島東洋カープを下し、4勝2分け0敗の成績でチーム発足40年目で念願の日本一を決め、一塁側スタンドから吊るされたくす玉割り(週刊プロ野球 セ・パ誕生60周年第2号・1975年の日本シリーズを取り上げた記事にその写真が掲載され「阪急日本一」という垂れ幕が掲げられていた)やスコアボードの垂れ幕、グラウンド1周のセレモニーでファンから祝福された。(この後、1977年まで日本一3連覇を決めるが、残り2回は後楽園球場での優勝だった〔読売ジャイアンツ主催〕。従ってこの年の優勝が阪急・オリックス時代を通して西宮球場で唯一の日本一達成の舞台となった)
- 1978年、競輪バンク横置きに対応するため、内野席と外野席を削り、ラッキーゾーン拡張工事実施。外野部分に関西初の人工芝を敷設。また、バックスタンドの一部に銀傘が復活した。
- 当時の航空写真 改修前(1975年)→改修後(1979年)
- 1982年、スコアボードの電光掲示化。通称アストロビジョンと呼ばれる大型映像装置も併せて設置された。
- 1983年4月、ブレーブスのイベントで福本豊VS競走馬の対決を開催。結果は福本の勝ち。
- 1984年、西武ライオンズ・田淵幸一の公式戦最終試合(阪急対西武戦)。試合終了後阪急・西武両チームの選手から胴上げされる。この試合では田淵が過去に在籍した阪神のファンも多数駆けつけ、六甲おろしを歌って田淵の引退を惜しんだ。
- この年阪急は1978年以来の優勝を成し遂げ6年ぶりに西宮スタジアムで日本シリーズ試合が行われた。しかしそれと同時に最後に西宮で開催された年となった。
- 1986年8月31日、阪急-ロッテ戦で史上初の観客動員100万人を達成した。
- 1987年、バックネット側2Fの特別食堂(内野指定席用)を「アストロ食堂」(内野自由席も利用可)としてオープンした。
- 1988年7月、オールスターゲーム第1戦も開催され、高卒新人の代打立浪和義が王監督の期待に応え後の同僚で同試合勝利投手津野浩から初打席初安打。同年10月には、阪急ブレーブスのオリエントリース(現:オリックス)への球団譲渡(及び「オリックス・ブレーブス」への球団名変更)が決まる。最終試合のセレモニーで山田久志、福本豊の阪急黄金期を支えた両選手の引退が公表される。チームはオリックスとなったあとも引き続いて阪急西宮球場をホームグラウンドにすることを発表。内野指定席の座席をブレーブスシートとして改良、内野自由席の大半と外野席はそのまま。
- 1990年に内野も全面人工芝化され、西日本初のピッチャーマウンド昇降装置も設置。この年限りでオリックス・ブレーブスがグリーンスタジアム神戸(現:ほっともっとフィールド神戸:同県神戸市)へ本拠地を移転。
- 1990年代前半には、正面入口手前にあった阪急電車の臨時きっぷ売り場が撤去される。
- 1991年から1993年、全国高等学校野球選手権大阪大会の一部試合が開催される。これは大阪球場の野球場としての機能廃止(1990年)に伴い会場が大阪府下では不足しているための特例処置である(他に奈良市鴻ノ池球場も)。
- 1991年4月1日、「阪急西宮スタジアム」に改称。関西におけるアマ野球、アメリカンフットボールの主会場となる。同年8月24日、当球場では2リーグ分裂後初のセ・リーグの公式戦となる阪神タイガース-中日ドラゴンズ戦が行われる。
- 1992年、ラッキーゾーンを撤去し、両翼101mにまで拡張される。
- 1995年1月17日、阪神・淡路大震災発生。スタンドに直接の被害はなかったが、暫くは広域避難所として活用され、同年3月まではグラウンドも含め敷地内が陸上自衛隊の活動拠点となり、災害復興のため多くのトラックなどが出入りした。
- 1996年7月30日、1957年から毎年夏に開催されたミュージカル・ナイターが姿を消した。
- 1996年8月24日、阪神タイガース - 広島東洋カープ戦を最後に、プロ野球公式戦での使用終了。
- 1998年、バックスクリーンのスコアボードを撤去し、旧スコアボード跡にガラス張りの競輪の特別観覧席を設置(後述)。なお大型映像装置は競輪運営本部上の配当金掲示板部分に移設する形で取り付けられた。
- 1999年、阪急電鉄から、子会社の阪急アミューズメントサービスが運営委託を受ける。
- 2002年3月、西宮競輪の開催を廃止。
- 2002年8月、SMAPがコンサートとして使用する最後の公演を行った。
- 2002年12月31日、競輪開催の廃止や施設の老朽化などを理由に営業を終了。また、近接地にあった、アメリカンフットボールの試合会場として使われた西宮球技場、同じ阪急の系列会社の株式会社コマ・スタジアムが経営していたゴルフ練習場や室内プールも同時に閉鎖・解体された。西宮北口駅にあったスタジアム関連の看板は撤去され、西宮北口の駅名の下に書いてあった「西宮スタジアム前」という文字も削除された。
- 2004年9月1日から始められた解体工事は2005年夏に完了した。
- 2005年11月4日、阪急電鉄が跡地に阪急百貨店を核とする大型複合商業施設の建設を発表。
- 2006年春頃まで、敷地南東端に阪急不動産が発売した分譲マンションのモデルルームが設けられていた。
- 2008年11月26日、跡地に大型商業施設阪急西宮ガーデンズが開業。
イベントの開催
- コンサート
マイケル・ジャクソン、マドンナ、ボン・ジョヴィ、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース、デュラン・デュラン、クイーン、サザンオールスターズ、おニャン子クラブ、GLAY、THE YELLOW MONKEY、globe、SMAP、渡辺美里、矢沢永吉、浜崎あゆみ、ゆず等がコンサート時に使用したことがある。隣接するコマのゴルフ練習場(後述)の間から球場内の様子が伺える場所が存在し、そこからコンサートを覗く人も多かった。
コンサート使用としての最終使用は2002年8月のSMAP。
西宮スタジアム内で毎年5月頃に行われていた、関西テレビ放送主催の日本でも有数のマーチングイベント。西宮スタジアムの閉鎖に伴い、以降は大阪ドームで開催されている。
当初は近隣の阪神地区の学校や団体が多かったが、後に関西一円からの小、中、高、大学の吹奏楽部や自衛隊の音楽隊等が出場するようになった。
開始当初は「春の吹奏楽」という名称だったが、年々参加団体が増加し、「1000人の吹奏楽」→「2000人の吹奏楽」→「3000人の吹奏楽」と名称が変更になり、現在に至る。
兵庫県、大阪府の幼稚園児が集まり、一団で踊ったりする運動会(マスゲーム)的なイベント。主催は関西テレビ放送であり、この模様は関西テレビで放映され、司会進行も関西テレビのアナウンサーが務めた。
西宮スタジアムの閉鎖に伴い、以降は大阪ドームにて開催。2011年をもって36年間・通算35回にわたって行われたイベントが終了。
- 宝塚歌劇団大運動会
1922年にファンへの感謝を込めて、西宮スタジアムで開催されるようになり、第18回目から、10年ごとに開催されることになった。「花組」「月組」「雪組」「星組」「宙(そら)組」「専科・音楽学校」の6組に分かれ、リレーや綱引き、椅子とりゲームなどを繰り広げた。
当所閉鎖後の2004年度は、大阪城ホールで開催された。
- ジャパン・スーパークロス
グラウンドに土を入れ、モトクロス場として「ジャパンスーパークロス(オートバイ・レースのビッグイベント)」も行われた。
- ミュージカル・ナイター
近畿管区警察局主催、1957年から毎年夏に開催されていた。近畿地区の警察の交通機動隊員による白バイを使ったアクロバット演技や音楽隊によるドリル演奏等。阪神・淡路大震災を機に1996年で開催中止。
西宮競輪場
歴史
- 西宮競輪の初開催は1949年3月25日。当時はやぐらの上に木製のパネル120枚を張り合わせた周長300mバンクとして開場。当時のバンクはパネルが安定せず振動で選手の力が極端に奪われることや、落車した時に木のささくれが肌に入り込んで擦過傷がひどいことなどから不評が相次いだと言われている。
- 甲子園競輪場とともに、1964年に廃止されるまで、他の競輪場では開催に及び腰だった女子競輪を積極的に開催した。
- 1966年、パネルをアスファルトに変更。同年、当時存在した特別競輪(現在のGI)「全国都道府県選抜競輪」が開催された(優勝は高原永伍)。
- 1978年、当球場に人工芝が敷設されたことに合わせてバンクを改修。外野の人工芝部分にやぐらを立て、走路を333m(いわゆる「サン・サンバンク」)に延長した(パネルは118枚)。以後、西宮競輪が廃止されるまでこのバンクで開催された[5]。
- 1978年と1984年には特別競輪「オールスター競輪」が開催された。
- それ以降は特別競輪の開催はなかったが、1996年2月下旬に一部のトップレーサーを集めて「震災復興特別競輪」(全国場外発売を実施)が3月の開設記念とは別に開催された。
- 震災の影響により1995年3月末まで開催を休止したが、同年4月より再開。この年の開設記念は中止となった。
- 左中間からバックスクリーン寄りの部分には競輪開催のための運営本部と払戻金を表示するための電光掲示板が設置された。競輪以外の時は扉が閉まり、一時期は野球場用の広告看板が掛けられた。1982年に大型映像装置がバックスクリーンに設置されるとオッズ表示、レースリプレーの上映も開始された。
- 元々野球場のため、スペースの都合で空調完備の特別観覧席の設置が難しく、永きにわたり特別観覧席の設置は見送られてきた(実際には一部に空調完備の特別観覧席を設置していたものの、収容人員が限られることから団体客などごく少人数に限られ、一般客は利用できなかった)。スタンド観戦では「夏季は暑く冬季は寒い」と観客には不評であり、空調完備の特別観覧席の設置を求める声が強かったことや、観客人員が減少していたこともあり、集客の目玉として、主要な野球の試合が行われなくなった1998年、大型映像装置を競輪の運営本部上部の電光板に代えて設置し、バックスクリーンを取り壊したその跡地に全天候型・ガラス張りの特別観覧席を設置して、競輪場としての顔をより一層充実させた。
- 売り上げは1992年をピークに減少し続け、施行者である兵庫県の外郭団体兵庫県市町競輪事務組合(兵庫県下の19市1町による一部事務組合)の赤字経営も災いし、積立金も底を尽き出したことから、廃止が取りざたされるようになる。廃止止む無し、という情勢となったが、ファンのためにと、一転存続を決定する。ただ、その後は場内の観戦エリア・発売窓口が限定された。
- 経費削減などの努力もされたが、それでも収支が好転しなかったため甲子園競輪場とともに、兵庫県市町競輪事務組合が開催を廃止することを決定した。
- 2002年3月、毎年3月の恒例行事だった開設記念競輪(GIII)「阪急ダイヤモンド賞」(優勝者には阪急電鉄から副賞として、かつてあった西宮北口駅のダイヤモンドクロスに因んで、1カラット相当のダイヤモンドが贈られた)を最後に53年の歴史に幕を下ろし、またその追い討ちを掛けるように球場自体もその年の末閉鎖された。
- 既に清算は完了したが、最終的には黒字であった。
エピソード
- 当地における競輪開催は、当時は阪急ブレーブスが「弱小球団」であったが故に集客が低迷していた背景[6]を受け、阪急の総帥である小林一三の発案により実現[7]することになったのだが、その狙いは見事に当たり、開始当初より常に大入り満員で、プロ野球公式戦より、1日あたりの入場者ははるかに多かった。[8]そのため、お盆の書き入れ時はブレーブスより競輪の開催が優先されるようになった。これが後年ブレーブスの本拠地移転の理由の一つにもなった。
- 野球場に仮設したバンク故にコーナーの傾斜角度が高いことに起因して、みなし直線が他の競輪場と比較して極端に短い形態だったため、ルーレットゲーム盤の上に選手が高速で走ることに例え、ルーレットバンク[9]という異名をとった[10]。この傾斜角度の大きさが故に、スタンドのどの位置から見ても必ずいずれかのコーナーが死角となっていた。
- また、アスファルトパネルとなってからも、バンク同士のジョイント(繋ぎ目)部分ではガタガタと音がしており、走り難さは相変わらずであった。中にはこのバンクに相性が良く、西宮競輪ではいい成績を残した選手もいた一方で、トップレーサーの中には「走りにくいから」と、斡旋を極力拒否していた選手もいた。
- 競輪開催日前々日に競走路を組み立て、開催日が終わると解体し、バンクなど一式はレフト外野席後方の敷地内の一角に固めて収められた。ちなみに、組み立て・解体にはそれぞれ約半日を要し、組み立てから解体までの一回の費用は約700万円だった[11]。
- 競輪開催期間中は、一塁側・三塁側とも内野スタンドと外野スタンドの隙間に渡り橋が仮設されており、スタンド間を往来しやすいよう配慮された。
- 西宮競輪としては、開催日は入場料50円(場外発売日は無料)、後に出来た特別観覧席の入場料は2000円だった。
- 開催日(甲子園競輪場開催分も含む)の早朝前売発売(7:30 - 10:00、ただし甲子園競輪開催日は7:30 - 11:25)では、特別に夏季はアイスコーヒー・紅茶、それ以外の季節はホットコーヒー・紅茶がサービスされた。これは晩年は廃止された。また、毎年1月2日-4日開催の「新春阪急杯」では、こぶ茶がサービスされた(普段は緑茶のみのサービスである)。特別観覧席では他にコーヒー、紅茶、ジュースなどもあった。
- 元日を除いて非開催日でも西宮競輪・甲子園競輪の的中車券の払い戻し業務を行っていたが、客はそう頻繁には訪れないので、後に払い戻し業務は自動払戻機により機械化された。
- 甲子園競輪場とともに、「日本一、野次がきつい(汚い)競輪場」と言う選手が少なくなかった。
- 選手控え室・入退場口が外野スタンド後方にあったため、選手は入場してから発走台に着くまでバンクを半周した。ただ、先頭誘導員は選手との事前接触を避けるため、バックネット側にあった誘導員用控え室から出入りしていた。発走台に選手が着いた後にトラブルなどで発走が遅れるようになった場合は、出場選手は3塁側ベンチで待機した。
- 1990年代後半まで、毎年正月・お盆の期間の開催は、レースとレースの間隔を空けて、最終レースの発走時刻を16:30(普段は16:10、晩年は16:00)に延ばしていた。
- 1998年3月まで、開催当日の深夜にサンテレビにてダイジェスト番組、西宮・甲子園ケイリンアワーが放映されていた。当初5分番組で、後に15分に拡大された。特別競輪開催中で西宮競輪場・甲子園競輪場にて場外発売がなされた日も当日のレースを放映した。その日の後半レースのダイジェストが流され、翌日以降の車券作戦の参考になるよう配慮された。
- 震災直後は、1月の放映日は過去のレースを放映、2月と3月は放送休止となった。
- 後年は、SPEEDチャンネルとは別に、CS・ベターライフチャンネルで(甲子園競輪場とともに)全レースとも無料放送を行っていた。
- 最後の最後で、地元現役選手が外野スタンドに向けて競走用ユニフォームを投げ、ファンにプレゼントした。これは甲子園競輪場の最終開催日最終レース後にも実施された。
幻のナイター競走
1987年、お盆休みシリーズ(8月)の開催を、実現すれば競輪史上初、公営競技全体でも1986年にナイター開催を開始した大井競馬場に次ぐ2番目となるナイター競走として開催することが計画された。これは通常野球などの試合に使うナイター照明塔6基を使って、通常よりも4時間以上発走時刻を遅らせて、第1競走を夕方の15時台、最終競走を20時台に行うというものだった。
しかし、競輪ファンと会社帰りのサラリーマン、また夏休みということで行楽帰りの利用者とが混在すると混雑が懸念され、ファンの確保が難しいことや警備上の問題などを理由に、結局ナイター競走開催は実現には至らなかった。
一方、1979年に開催された全日本プロ選手権自転車競技大会ではナイター開催が行なわれている。
訴訟問題
当場所有者である阪急電鉄は、一方的に賃貸契約を解除されたとして、兵庫県市町競輪事務組合を相手に当初、調停を申し入れたが、同組合がこれに応じなかったため、2004年11月16日、同組合を構成していた19市1町の首長を相手取り、約27億6000万円の損害賠償訴訟を大阪地方裁判所に起こした。
2007年4月27日、一審で、阪急電鉄に5億8千万円の損害賠償支払いを命じた判決が下ったことから、同組合構成首長が控訴。二審の判決は2009年1月31日に下り、大阪高等裁判所は、「赤字による撤退はやむを得ない」、「補償措置を講じる信義則上の義務はない」として、一審の判決を全面的に取り消す趣旨の判決を言い渡し、阪急電鉄の全面敗訴となった。その後阪急電鉄側が上告を取り下げたため、二審の判決をもって当訴訟は確定した。
阪急商業学園
かつて、阪急百貨店が経営していた企業内教育施設。1957年、将来の優秀な社員を育成する目的で設立された。入学者は全員、阪急少年音楽隊として吹奏楽活動を行い、学園を卒業後は阪急百貨店に就職することになっていた。
クリスマスの阪急グランドドームでのコンサート等の阪急百貨店の行事のほか、各種イベント、ラジオ、コンサートに出演し吹奏楽ファンのみならず、一般客からも人気を博した。
当初から長らく男子校だったが、1997年度から女子のみの入学となり最晩年は女子校となった。それに伴い、愛称も、阪急少年音楽隊から阪急商業学園ウィンドバンドに変更になった。
その後、阪急百貨店が学園運営から撤退し、2004年度からは高卒資格取得のための連携校だった向陽台高等学校が吹奏楽コースを新設し、向陽台高等学校ウィンドバンド(後述のリンクを参照)として継承され、2009年度からは、同法人の早稲田摂陵高等学校に移管され、早稲田摂陵高等学校ウィンドバンドとして再出発した。阪急西宮スタジアムの5、6階部分が校舎であり、よくスタジアム内で練習をしていた。
阪急商業学園時代は音楽を主体にしていた学校であった為、規定により全日本吹奏楽コンクールに出場する事ができなかった。(阪急百貨店に就職してから職場・一般部門として全日本吹奏楽コンクールに出場する事になっていた。)2004年に向陽台高等学校へ継承されてからは高等学校部門として全日本吹奏楽コンクールに出場できるようになった。
コマスイミングスクール・コマスポーツセンター・西宮コマゴルフ練習場
西宮スタジアムの敷地内の一部、スタジアム西?南西角に、コマスイミングスクール・コマスポーツセンター・西宮コマゴルフ練習場が存在した。これらはいずれも新宿コマ劇場を経営していた株式会社コマ・スタジアムの経営だった。
スイミングスクールとスポーツセンターは、元々ボウリングブームの最中に作られたボウリング場だったが、ブームが去った後にボウリング場を閉鎖、1977年4月オープンのスイミングスクール、同年7月オープンの西宮コマスポーツセンターに転用された。ボウリング場時代の建物をそのまま利用したので、非常に不思議な外見をしていた。
これらは、スタジアム解体に合わせて2003年3月に閉場、後に解体された。スイミングスクールとスポーツセンターは同じ建物内で行われており、特にスイミングスクール(ジェイエスエス)は、近所の子供達の多くが通っており、ニチイ西宮店(→西宮サティ)内にあった「ピープル」(現コナミスポーツ。西宮サティが閉店する前に移転している)との生徒集めの競争化が起こっていた。
西宮コマゴルフ練習場は、それらに先駆けて1973年にオープン。スポーツセンター南側に来客者用駐車場を挟んで、その南に存在した。土日などは多く利用者があった。
閉鎖された後解体作業が始まっている中、「西宮に映画館を作ろう」というスローガンのもと活動している団体・シネギミックにより、「ファイナル・コマ・シネマ」と題し、西宮コマスイミングスクール内にて、一日のみ映画を上演した。
脚注
- ↑ 参考:ベースボールマガジン2001年夏季号「野球場大特集」
- ↑ 参考文献「町名の話 -西宮の歴史と文化- 」
- ↑ 思い出の西宮第二球場 げんまつWEBタイガース歴史研究室
- ↑ 『日本プロ野球偉人伝 1934-1940編プロ野球誕生期の37人の豪傑たち』、ベースボール・マガジン社、2013年、p67
- ↑ 西宮競輪場 - 競輪らんど
- ↑ 浜崎真二#45歳でプレーイング・マネージャーの項目によると、浜崎自身の著書の中で、「小林社長がもう少し野球に金をかけてくれたら、阪急の低迷は長くはならなかったのでは」と綴っている。
- ↑ 小林一三#来歴によると、「私が死んでもタカラヅカとブレーブスだけは売るな」と言い残したらしく、阪急ブレーブスに対する愛着があったが故の決断だった。
- ↑ 1978年当時の西宮球場長・安宅隆によると興行収入は競輪を3日(1節)開催してブレーブス公式戦1年分になるとの事。
- ↑ 西宮競輪場 - 鷲田善一の世界
- ↑ 400m、500mバンクならばみなし直線部に入ってから踏み出すケースが多い追い込みタイプの選手であっても、当地では少なくとも2センター付近辺りから捲り気味に踏み出さないことには、前方の選手を追い抜くことが容易ではなかった。裏を返せば、その辺りから踏み出した選手が、ゴール直前に入ってビューンと伸びてくるケースが少なからず見られた。
- ↑ なぜ廃止…歴史の闇に葬られた西宮競輪 - デイリースポーツ、2013年10月25日付。
アクセス
外部リンク
- 阪急ホールディングス ニュースリリース
- 早稲田大学系属早稲田摂陵中学校・高等学校