クイーン (バンド)
クイーン (Queen)
イギリスのロック・グループ。繊細なメロディと諧謔性のあるパフォーマンスは、異性愛の男性中心のものであったロックを拡げてゆくきっかけの一つになり、それまでのロックと一線を画した独自の境地を拓いた。
1960年代後半、ロンドン・インペリアル・カレッジで天文学を学んでいたブライアン・メイBrian May(1947― 、ボーカル、ギター)らのメンバー募集に当時歯科医学生であったロジャー・テーラーRoger Taylor(1949― 、ボーカル、ドラム)が応えて結成されたバンド、スマイルに、イーリング・アート・カレッジのデザイン科の学生でインド系イギリス人のフレディ・マーキュリーFreddie Mercury(1946―91、ボーカル、キーボード、ピアノ)が参加、バンド名をクイーンと改める。さらに1971年、電子工学を専攻するジョン・ディーコンJohn Deacon(1951― 、ベース)が加入し、以後20年間メンバーの入れ替わりなく活動する。デビュー当時、英米ではグラム・ロック(きらびやかに着飾ったミュージシャンによる退廃的な雰囲気を強調したロック)の亜流として酷評されるが、唯一、メンバーの美貌や高学歴が話題になった日本で、キッス、エアロスミスとともに「ロック御三家」として熱狂的な女性ファンを獲得する。1950~60年代のポール・アンカやコニー・フランシスConnie Francis(1938― )に始まり、80年代のロック・グループ、ジャパンを経てフランス人歌手クレモンティーヌClémentineに至るまで、日本では本国とは関係なく人気の出る外国人アーティストがいるが、クイーンはまさにそうした市場を利用したのである(日本語で歌った曲もある)。
当然こうした風潮は日本の(男性)ロック・ファンの反感も買うこととなったが、アルバム『シアー・ハート・アタック』(1974)、『オペラ座の夜』(1975)以降、英米と日本での評価は逆転する。ロックにオペラ的要素を取り入れ、緻密な和声構造と多重録音を多用した独特のスタイルで、特に後者のシングル曲「ボヘミアン・ラプソディ」は全英ヒット・チャート9週連続1位、全米ヒット・チャートでも9位に食い込んだ。また、クラシック録音に造詣の深かったロイ・トーマス・ベーカーRoy Thomas Bakerをプロデューサーに迎え、イギリス国内五つのスタジオで録音されたこの曲のために、ロックとしては初めて販売促進を意識したビデオ・クリップが制作された。その後もほぼ1年1枚のペースでアルバムがリリースされ、大西洋・太平洋をまたにかけて精力的にコンサート活動を展開する。「伝説のチャンピオン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」など70年代後半に発表され、その後も愛唱されている曲も多い。
80年代に入るとクイーンの音楽はよりポップで普遍性を求めるようになってゆく。相次いでリリースされたアルバム『ザ・ゲーム』(1980)、『フラッシュ・ゴードン』(1981)ではシンセサイザーが導入され、新しいサウンドとファン層の開拓が目指された。プロデューサーも、のちにジャーニーやエイジアを手がけるマイク・ストーンMike Stone(1951―2002)が起用された。81年以降はツアー地域を欧米、日本だけでなく、中南米、アフリカ、東欧へと拡大してゆく。マーキュリーはこのころから自分が同性愛者であることを公にする。84年にはシングル「ラジオ・ガ・ガ」「ブレイク・フリー」をリリース、ビデオ・クリップでも独特の映像世界を展開した。翌85年にはアフリカ飢餓難民救済のためのチャリティー・イベント「ライブ・エイド」にも出演する。その後も『カインド・オブ・マジック』(1986)、『ザ・ミラクル』(1989)、『イニュエンドゥ』(1991)を発表、すべて英ヒット・チャート1位に輝いた。しかし91年HIV合併症によりマーキュリーが他界、クイーンは事実上活動を停止した。その後もファンやアーティストからの絶賛は絶えず、2001年にはロックの殿堂入りした。 クイーンはスタジオでの緻密なプロダクションとライブでの熱狂的なパフォーマンスをあわせもった数少ないグループであった。特に『オペラ座の夜』は、メイが多重録音を駆使して制作されたビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』と対比しているように、録音芸術の新たな様式美と方法論を確立した。また、『ザ・ゲーム』収録曲「アナザ・ワン・バイツ・ザ・ダスト」は、ほぼ同時期にヒップ・ホップDJのグランドマスター・フラッシュに引用されている。