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毛沢東思想(もうたくとうしそう、中国語: 毛泽东思想、拼音: )または毛沢東主義(もうたくとうしゅぎ、英語: Maoism)は、毛沢東を中心とする中華人民共和国の共産主義者が創立した政治思想[1]。中華人民共和国憲法に記載。その信奉者は毛沢東主義者と呼ばれる。
毛沢東思想の内容は、時期によってかなり大きな変化がみられる。毛沢東思想が一般的なマルクス主義、マルクス・レーニン主義と区別して扱われる場合は、文化大革命期の毛沢東思想を指すことが多い。この時期の毛沢東思想の主要概念には、人民戦争理論、暴力革命・武装闘争肯定と平和革命否定、階級闘争絶対化、3つの世界論などがある。1945年以降の中国共産党規約では「マルクス・レーニン主義の中国における運用と発展」とされ、「マルクス・レーニン主義」などと並ぶ「行動指針」と位置づけられた[1][2]。特に1950年代から1960年代の中ソ対立や文化大革命の時期に強調された。
Contents
概要
半民半兵のゲリラ戦争と、核武装、有事を想定して政策を行うなど、長期戦略に基づく軍事力の増強を最優先課題とする。政治思想というより、軍事理論とされる場合も多い。
中国共産党は1945年4月23日から6月11日にかけて開催された第7回党大会において、党規約に「中国共産党はマルクス・レーニン主義の理念と中国革命の実践を統一した思想、毛沢東思想を自らの全ての指針とする」との記述を加えた。ここでいう毛沢東思想とは、理念としてはカール・マルクスとウラジーミル・レーニンが確立した共産主義を指針としながら、それを中国の実情に適応させた、農民中心の革命方式を指しているとされている。
毛沢東の思想は、毛沢東が若い頃から親しんだ農村社会の観察や経験から導き出された中国発展のためのアイディアを含んでおり、その大綱として大公無私(個人の利益より公共の福祉を優先する)、大衆路線(農村大衆の意見に政治的指針を求めそれを理解させて共に行動する)、実事求是(現実から学んで理論を立てる)などがある。この他、社会と協調できる個人主義、大人数の協力、農村から蜂起して都市を囲いこんでいくゲリラ戦術理論(人民戦争理論)、世界各国が各自の特性に応じた革命を行うことによって第三次世界大戦を防ぐことができるとする「中間地帯論」なども毛沢東思想に含められる場合がある。
毛沢東の農村重視の姿勢には、本来のマルクス主義の唯物史観による「社会主義革命は発達した資本主義社会で発生する」との理論に対して、ロシア革命時のロシア以上に資本主義が未発達で農業中心社会であった中国の実情に対して、マルクス・レーニン主義を適用する必要性があった。また農村社会にも特有の平等主義や、暴力の肯定、知識階級に対する反エリート主義(反知性主義)などが挙げられる。またソビエト連邦型との相違には、新民主主義論による人民民主主義や、3つの世界論による世界認識と外交政策などがある。
毛沢東思想は毛沢東の著作、発言、実践などの総称であり、必ずしも体系的に理論化され矛盾なく整理されたものではない。簡易な参照には毛主席語録も使用された。
毛沢東思想は、1950年代以降の社会主義政策推進、1957年からの反右派闘争、1960年代以降に激化した中ソ対立、更に1966年に発動された文化大革命などで特に強調され、毛沢東の個人崇拝や、政敵の打倒、国外の各国共産主義勢力への干渉にも広く使用された。
毛沢東死後の中国での評価
毛沢東の死後、その思想をめぐる評価は微妙に揺れ動いた。毛沢東のもとで中国はソ連から自立して核武装に成功して軍事的に五大国の地位を手にし、国際連合から台湾を追放し、イギリス・フランス・日本・アメリカ合衆国など西側諸国との外交関係も築いた一方で経済では停滞を招いた。地政学的にも香港とマカオを除く中国大陸を武力で制覇したが、覇道的な覇権主義は後に西側から批判された。
毛沢東の死後、その後継者を自称した華国鋒の唱えた「二つのすべて(两个凡是)」は、毛沢東自身が唱えた「実事求是」を持ち出して対抗した鄧小平により批判され、華国鋒が失権すると、鄧小平は彼自身の解釈に基づく「実事求是」を中国共産党の指導方針として実権を掌握した。鄧小平は改革開放で経済発展を進め、台湾と対話を試み、毛沢東がチベット侵攻で編入したチベットなどと対照的に香港とマカオを一国二制度に基づく高度な自治を認めた上で平和裏に編入することで当事国と合意した。
1981年6月の第11期6中全会で採択された『建国以来の党の若干の歴史問題についての決議』では、毛沢東思想を「毛沢東同志を主要な代表とする中国の共産主義者が、マルクス・レーニン主義の基本的原理に基づき、中国革命の実践経験を理論的に総括してつくりあげた、中国の実情に適した科学的な指導思想」と定義している。その一方で、この決議は、毛沢東が文化大革命で提起した論点は「毛沢東思想の軌道から明らかに逸脱したもので、毛沢東思想と完全に区別しなければならない」とし、毛沢東思想を毛沢東個人の思想とは区別している。この決議では、「実事求是」「大衆路線」「独立自主」が毛沢東思想の真髄とされている。また、この決議と前後して、周恩来、劉少奇、朱徳ら、毛沢東と同時期の他の指導者たちの思想も、毛沢東思想の一部と解釈されるようになってきている。鄧小平は「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想の堅持」を含む「四つの基本原則」を繰り返し強調した。彼が堅持されるべきと考えた毛沢東思想は、こうした新たな解釈に基づくものである。
なお、毛沢東以降の指導者たちの考えは、「鄧小平理論」、江沢民の「3つの代表」論、胡錦涛の「科学発展観」と、世代ごとに別のものとしてまとめられている。
影響
欧米
1960年代の世界的な学生運動では、しばしば原理主義的で教条主義的な共産主義信奉(原始共産制)が毛沢東思想に移行する例がみられた。影響を受けたのは大学生を中心とする都市部の中産階級の若者であり、彼らが構成したヒッピーが始めたコミューン運動などで、人民公社型の集団生活の実践や、下放のスタイルが模倣された。1967年のジャン=リュック・ゴダールの映画『中国女』では毛沢東思想を研究するために共同生活を始めるフランスの若者たちを描いている。
フランス
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、ソ連による1956年のハンガリー侵攻(ハンガリー動乱)、1968年のチェコスロヴァキア侵攻(プラハの春)以降、反スターリン主義に共感するようになり。当時ソ連と対立していた中国(中ソ対立)の毛沢東主義者主導の学生運動を支持しはじめ、晩年にいたるまでフランスの毛沢東主義者と交遊していた。
1968年の5月革命にもマオイストの影響があるとされ、クリストフ・ブルセリエは、フランスのマオイスムの流行について、スターリン批判とそれによるソ連型共産主義の失墜、およびそれに代わるユートピアを求める運動の中で中国モデルが誇大視されたとしている[3]。マオイスト運動はフランス共産党のソ連擁護に対する反動として起こり、反西欧主義、東洋趣味が混在していた。また、エコール・ノルマル・シュペリウールのロベール・リナールらエリート学生、中国専門家のシャルル・ベトレームやルイ・アルチュセールが中心にいたといわれる[4]。1963年にジャック・ヴェルジエが創刊した雑誌『革命』が中国ブームに火をつけた。1964年フランス共産党から除名追放されたフランソワ・マルティが同年7月に東京で中国人運動家と知り合い、毛沢東の招待を受ける。マルティらは『新しい人間主義』という雑誌を出している。
五月革命以後、当時の内務大臣マルスランによってマオイストの組織は解体命令を受けるが、ベニ・レヴィによってGP(fr:Gauche Proletaire プロレタリア左派)が結成され、アンドレ・グリュックスマン、ベルナール・アンリ・レヴィらが参加する。GPによる移民労働者の支援活動は、サルトルやゴダール、ミシェル・フーコーらによって支持された。同団体は、マドレーヌ広場の高級店フォーションから「フォーションが貧民窟に食糧支援をする」「盗人から盗んでも罪にはならない」「わが労働の果実をパトロンから奪おう」として商品を奪うフォーション事件を起こしている[5]。代表のベニ・レヴィはのちにサルトルの助手となり、ユダヤ思想に没入し、イスラエルに渡った。
またフランスの作家のフィリップ・ソレルスや哲学者のアラン・バディウらが毛沢東思想に魅了された[6]。的場昭弘によれば、エコール・ノルマルはマオイスムの母体となっていたと指摘している[7]。
他の欧州各国
ベルント・アロイス・ツィンマーマンは1969年に創作の集大成となった「若い詩人のためのレクイエム」において、毛沢東語録からの抜粋を淡々と読み上げるなど毛沢東語録を音楽創作に用い、なおかつ傑作に仕上げた。ほか作曲家のコーネリアス・カーデューはマオイストであり、晩年は政治活動に専念している。最後のピアノ作品「我々は未来のために歌う」では毛沢東思想への忠誠が、スコア序文に掲げられている。
アメリカ合衆国
ブラック・パンサー党の指導者ヒューイ・P・ニュートンはマルコムXをはじめ、マルクス、レーニン、チェ・ゲバラ、フランツ・ファノンらの思想に共鳴していたが、とりわけ毛沢東から大きな影響を受け、のちにヒューイら指導者は中国を訪問している。若いころニュートンはロバート・ウィリアムズの公民権運動団体「革命的行動運動 (Revolutionary Action Movement,RAM)」に加入していたが、ウィリアムズは中華人民共和国から「クルセイダー」という機関紙を出していた。またブラック・パンサー党はアメリカ合衆国における黒人社会を第三世界、植民地と見做し、合衆国と敵対関係にあったベトナムや朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、キューバといった国々に対して連帯の意思を表明していた。
1970年代は、ファッション的に毛沢東を肯定する人がヒッピーやアウトローに多かった。アンディ・ウォーホルは1972年にニクソン大統領の中国訪問にあわせて「マオ」という作品を発表している。ボクサーのマイク・タイソンは毛主席記念堂を訪問[8]し、毛の入れ墨も彫っている[9]。
コミューン運動も人民公社の英訳がピープルズコミューンであるようにインスピレーションを与え、ヒッピーの人民パークや人民コンピュータ会社、人民科学など人民とコミューンはヒッピーや新左翼のタームとなった。各種のグルイズム的なカルト宗教と結合してその信者コントロールの手段としてより広範囲に利用された。またニューエイジや精神世界ですらそれを模範する文化が広がった。人民寺院事件では、毛沢東主義との関係がアメリカの新聞等で指摘されている。人民寺院教祖のジム・ジョーンズは毛沢東に傾倒していることを認め[10]、中国の洗脳を研究していた[11]。
日本
毛沢東思想自体は、文化大革命の実態が長く隠蔽されていた日本では進歩的文化人の手により、現代社会における政治体制を考える上で多くの示唆を与えてくれる思想として喧伝されたため、これを信奉する若者が以後にわたり続出した。ただし、中国の毛沢東がゲリラ、軍事至上主義、核武装を最優先させたのに対して、日本の毛派は反核を唱えるなど矛盾が多い。日本共産党やリベラル派の左翼組織は、スターリン主義の派生だとして憎悪する者もいる。
日本においては、共産同ML派、日本共産党(左派)、日本共産党(革命左派)神奈川県委員会、日本労働党といった政治団体がかつて毛沢東思想を指導思想として掲げており、全共闘や毛派以外の新左翼も毛沢東主義から一定の影響を受けていた。毛沢東主義は、議会主義と大衆運動を掲げていた日本共産党や日本社会党の主流派の方針とは相容れないものであり、毛沢東思想支持者は既成左翼と呼ばれた社会党・共産党の両政党と激しく対立した。
一般社会においても、ダイエー創業者の中内功[12]や養老孟司[13]などが毛沢東思想の強い影響を自認しているほか、欧米崇拝の強かった時期に毛沢東思想の変異体であるコミューン運動が無批判に紹介された事や、毛沢東思想の農本主義的側面が、かつての農村共同体への素朴な憧憬を残していた時期の日本社会で肯定的に伝えられた事もあって、先述の米国の人民寺院のように各種のカルト集団によるコミューン型共同体が日本各地で形成された。例えば、日本の代表的なカルト集団オウム真理教教祖の麻原彰晃にも毛沢東は絶大な影響を与えている[14]。
現在は日共左派が、修正的な毛沢東主義の影響を受けている。日共左派は反米愛国を掲げ、反米右翼と共闘するなど日本の左翼運動の中では異端的である。また、三橋派緑の党も毛沢東主義を独自に解釈した独特のイデオロギーを有している。日本労働党は現在は毛沢東思想を掲げていない。
カンボジア
毛沢東思想を奉じるグループが、実際に武力闘争によって政権を獲得した例として最も有名なのは、カンボジア内戦後に政権を握ったポル・ポト派である。 ポル・ポト派は、文化大革命期の中華人民共和国によって支援されていたために、その影響を強く受けており、政権を握ると文化大革命期に中国で行われた政策を、極端な形で模倣した。ただしポル・ポトは、後に中国共産党すら批判するようになり、毛思想も修正されてゆく。
ポル・ポト派は貨幣経済を否定するため、通貨の流通を停止させ、自力更生的に食料生産を担う農村共同体を「国民生活の基本単位」とするために、生産力を持たない“寄生虫”とみなされた都市と、その住民を強制的に農村へ下放した。
大規模な下放の過程で、ポル・ポト派が農村に適応できないと判断した都市住民や、知識人・技術者といった人々は『敵』の烙印を押され、“白い肌”の都市住民に反感を持つ“黒い肌”の農民の手で組織的に殺戮させる事で、共通の敵を作り出し「国民の結束を高めよう」と図った[15]。
エリトリア
エリトリアの大統領イサイアス・アフェウェルキは、文化大革命期の1967年に中国に留学し毛沢東思想や軍事知識を学ぶ[16]。1969年ELF総司令官となったが、1973年分派のエリトリア人民解放戦線(EPLF、現在のPFDJ)の創設に参加。独立をめぐるエチオピアとの争いを経て1987年3月にEPLF書記長。1991年のエチオピア社会主義政権崩壊後のエリトリアの独立に伴い、1993年6月から同国大統領に就任。
イサイアスは大統領に就任するとエチオピアのティグレ州に侵攻し、エチオピア・エリトリア国境紛争が始まった。国内で紛争の是非や政治姿勢に批判が高まり始めると強権的な統治を始め、メディア統制や野党勢力弾圧を行った。1997年に恒久憲法が制定されたものの未だに施行されておらず、大統領・議会選挙は事実上無期延期の形となり、PFDJによる一党制統治のもとイサイアスによる事実上の独裁政治が敷かれている。2008年に行われたアルジャジーラの記者によるインタビューによると、イサイアスは「西欧的な意味での選挙を行なうつもりはない」と断言している[17]。
イサイアスはエリトリアを軍事国家とし、完全な国民皆兵制度を敷いており、国民は男女を問わず全員無期限の兵役または政府事業での労役が義務付けられている。これは事実上の強制労働であり、圧政から逃れるため、毎月2000人近くのエリトリア人が国外に脱出しており、ヨーロッパを目指し地中海を渡ろうとして遭難死する事故が後を絶たない[18][19]。。
現状
現在でも、世界中の様々な反政府組織が毛沢東思想に範をとって活動している。そのため一部の国家では「マオイスト」という言葉はテロリスト・過激主義者という先入観を持たれる可能性がある。また、毛派はしばしば中国共産党の手先とみなされることがあるが、中国に対する一方的な親近感以上の関係は確認されなかったり、逆に現在の中国共産党と敵対している場合もある。
発展途上国の毛派はゲリラ路線に走りやすいが、これら毛沢東思想を継承したグループは、麻薬製造や貴金属・宝石採掘などの独自の資金源を有している場合が多く、中国も含めて諸外国の援助を受けずに独力で大勢力に発展している場合がほとんどである。
ペルーの自称毛派たるセンデロ・ルミノソが中国の支援を受けていた事実は無く、鄧小平時代になって中国が文革期の毛沢東思想を放棄してから以降は、在ペルーの中国人や中国政府関係者、さらには北朝鮮関係者までがセンデロ・ルミノソの攻撃対象とされている。コカインの原料となるコカの産地を制圧しているセンデロ・ルミノソの勢力は依然として強力かつ活発である。
近年では2008年にネパール共産党毛沢東主義派が武装闘争を経て議会進出して合法的に政権獲得し、隣国のインド・ブータンでもネパール毛派と協力関係にあるインド共産党毛沢東主義派やブータン共産党マルクス・レーニン・毛沢東主義派の活動が活発化した。ただしインド毛派は一部地域での影響力に留まる。
ウルグアイの拡大戦線は、トロツキズムや社会民主主義、毛沢東主義、古典的なマルクス・レーニン主義など様々な思想者が共生している。
日共左派やロシアの毛派は武装闘争や犯罪は一切行なっていない。先進国では理論による組織拡大に力を入れる傾向にある。
毛沢東主義は、実態としては確固たるイデオロギーは無く、観念的である。時の指導者により修正や改ざんが多く成される。ネパールの毛派とブータンの毛派も思想的な繋がりは薄い。
毛沢東思想に影響された著名人
以下に転向者を含む、毛沢東主義者、または毛沢東に思想的影響を受けた中国国外の著名な人物(特に政治家)を列挙する。
- ポル・ポト - クメール・ルージュの創設者
- エンヴェル・ホッジャ - アルバニア労働党の創設者
- チュオン・チン - ベトナム共産党の指導者
- アビマエル・グスマン - センデロ・ルミノソの創設者
- ホセ・マリア・シソン - フィリピン共産党の再建者
- ヒューイ・P・ニュートン - ブラック・パンサー党の指導者
- プラチャンダ - ネパール共産党統一毛沢東主義派議長
- ピエール・ムレレ - コンゴ動乱の際のコンゴ民主共和国のシンバの指導者
- モブツ・セセ・セコ - ザイールの大統領
- ローラン・カビラ - コンゴ民主共和国の大統領
- ニコラエ・チャウシェスク - ルーマニアの大統領
- イサイアス・アフェウェルキ - エリトリアの大統領
- ロバート・ムガベ - ジンバブエの大統領
- ウゴ・チャベス - ベネズエラの大統領[20]
- ジョナス・サヴィンビ - アンゴラ内戦の際のアンゴラ全面独立民族同盟の指導者
- アフマド・シャー・マスード - アフガニスタンのムジャーヒディーンの指導者
脚注
- ↑ 1.0 1.1 中国共産党規約 総綱
- ↑ 毛沢東思想 - 人民中国インターネット版
- ↑ Christophe Bourseiller,Les Maoistes. La folie hisitoire des gardes rouges francais,Points,2008(1996)サルコジと5月革命(下)―マオイストの変質 的場昭弘
- ↑ Christophe Bourseiller,Les Maoistes. La folie hisitoire des gardes rouges francais,Points,2008(1996)サルコジと5月革命(下)―マオイストの変質 的場昭弘
- ↑ Christophe Bourseiller,Les Maoistes. La folie hisitoire des gardes rouges francais,Points,2008(1996)サルコジと5月革命(下)―マオイストの変質 的場昭弘
- ↑ 的場昭弘「資本主義の危機/新自由主義と国家--民主君主制としてのサルコジ政権」
- ↑ 的場昭弘「資本主義の危機/新自由主義と国家--民主君主制としてのサルコジ政権」
- ↑ “Big Mike shakes off the pounds – and his lethargy”. BBC. (2006年4月3日) . 2016閲覧.
- ↑ “元ボクシング王者マイク・タイソン氏、今後は「歌って踊りたい」”. AFP. (2012年9月23日) . 2016閲覧.
- ↑ New York Times, "How Rev. Jim Jones Gained His Power Over Followers", Robert Lindsay, November 26, 1978
- ↑ Reiterman 1982. p. 163-4.
- ↑ “ダイエー、不振の20年が示す「革命」の代償”. 東洋経済新報社 (2015年7月14日). . 2016閲覧.
- ↑ 養老孟司『毛沢東主義者の中国観』
- ↑ “【2】オウムの犯罪と武装化:1988年〜1995年 1.上祐総括:オウム入信から現在まで 上祐史浩個人の総括 オウムの教訓 -オウム時代の反省・総括の概要-”. ひかりの輪. . 2016閲覧.
- ↑ 肌の色の違いは、中国系やベトナム系の多かった都市住民と、クメール人しかいない農村との人種的な構成差の反映でもあった。
- ↑ Dan Connell (1993). Against All Odds: A Chronicle of the Eritrean Revolution : with a New Foreword on the Postwar Transition. The Red Sea Press. ISBN 978-1-56902-046-3. Retrieved on 2017-06-07.
- ↑ 土井香苗 (2010年1月31日). “人間を傷つけるな!「第10回 エリトリア人弁護士から見た“世界最悪”の独裁政権国家」”. WEBマガジン「風」 . 2014閲覧.
- ↑ “エリトリア難民、命がけの逃亡 失う物は何もない”. スイス放送協会. (2014年9月16日) . 2014-9-24閲覧.
- ↑ “地中海難民という「臭い物」にフタをしたいEUの人道主義また排外主義について”. Yahoo!ニュース. (2015年5月8日) . 2015-5-9閲覧.
- ↑ Harrison, Emma Graham (23 Septmber 2008). “"Maoist" Chavez eyes closer China energy ties”. ロイター. . 2018閲覧.
参考文献
関連項目
- 政治的極左
- チュチェ思想
- ホー・チ・ミン思想
- タオイズム
- デジタル・マオイズム
- ジャン=リュック・ゴダール、中国女 (映画)、東風 (映画)
- 千のナイフ
- 日本共産党(左派)、日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)、連合赤軍、川島豪、永田洋子、坂口弘、吉野雅邦
- 日本マルクス・レーニン主義者同盟(ML同盟)
- 日本労働党
- 自力更生
- ナロードニキ
- 反面教師 - 広く知られている言葉だがもともとは毛沢東の言葉である
外部リンク
- Marx2Mao.org 毛沢東インターネット・ライブラリ(英語)
- Guiding thought of revolution: the heart of Maoism international project
- The Encyclopedia of Marxism Mao Zedong Thought.
- The Encyclopedia of Marxism Mao's life.
- Monthly Review January 2005 Text of the leaflets distributed by the Zhengzhou Four.
- World Revolution Media Maoist revolutionary film, music, and art archive
- Batchelor, J. Maoism and Classical Marxism, Clio History Journal, 2009.
- テンプレート:毛沢東思想