暴力革命

提供: miniwiki
移動先:案内検索

暴力革命(ぼうりょくかくめい)とは、武力を用いた革命を指す。平和革命対義語武力革命武装革命同義語

マルクス・レーニン主義の立場

マルクス、エンゲルス

1848年、マルクスエンゲルスは『共産党宣言』の中で次のように書き、暴力革命の方針を明確にした。

最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義政党との同盟と協調に努める。共産主義者は、その見解や目的を隠蔽することを、軽侮する。共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する。

また1875年、マルクスは『ゴータ綱領批判』でプロレタリア独裁を主張し、平和的な社会改良を主張するラッサール主義を、「日和見主義」と批判した。しかし、1872年には、マルクスは第一インターナショナルで次のように演説し、平和革命の可能性にも言及した。

新しい労働の組織をうちたてるためには、労働者はやがては政治権力をにぎらなければならないが、われわれは、この目標に到達するための手段はどこでも同一だと主張したことはない。「われわれは、それぞれの国の制度や風習や伝統を考慮しなければならないことを知っており、アメリカやイギリスのように、そしてもしわれわれがあなたがたの国の制度をもっとよく知っていたならば、おそらくオランダをもそれにつけくわえるであろうが、労働者が平和的な手段によってその目標に到達できる国々があることを、われわれは否定しない。だが、これが正しいとしても、この大陸の大多数の国々では、強力がわれわれの革命のてことならざるをえないことをも、認めなければならない。労働の支配をうちたてるためには、一時的に強力にうったえるほかはないのである。[1]

1895年に、エンゲルスは次のように書き、普通選挙による合法活動を評価し、バリケードによる市街戦が時代おくれになったと指摘した。

普通選挙権がこのように有効に利用されるとともに、プロレタリアートのまったく新しい一闘争方法がもちいられはじめ、その方法は急速に発達をした。(中略)ブルジョアジーと政府は、労働者党の非合法活動よりも合法活動をはるかにおそれ、反乱の結果よりも選挙の結果をはるかに多くおそれる、というようになった。そのわけは、この点でも、闘争の条件が、根本的にかわってしまっていたからである。あの旧式な反乱、つまり1848年までどこでも最後の勝敗をきめたバリケードによる市街戦は、はなはだしく時代おくれとなっていた。[2]

レーニン

レーニン1902年の『なにをなすべきか』で、平和革命を認める修正主義を「日和見主義的な経済主義」と批判した。また1940年代の平和革命を認める構造改革路線も、マルクス・レーニン主義の立場からは「日和見主義」と批判された。

東欧革命

東欧革命は、社会主義を打倒して資本主義化をもたらした。マルクス主義からは反革命である。革命自体はレーニンのテーゼとは無関係で平和革命として推移し、暴力革命になったのはルーマニアだけであった。ユーゴスラヴィアは、民主化は平和的に進行したが、その後構成共和国や自治州の独立をめぐって内戦になった。内戦自体は革命でも反革命でもない。

1950年代の日本共産党

コミンフォルム批判と武装闘争の開始

1950年1月、コミンフォルムは機関紙において日本共産党が進めていた「占領下の革命」論(平和革命論)を批判した。そのため党内では批判に反論する所感派と、批判を受け入れる国際派などに分裂する事態が起こった。朝鮮戦争勃発後の1951年2月23日、当時主流派だった所感派は第4回全国協議会(四全協)において武装闘争路線をとることを決定した。

その後、コミンフォルムによる分派認定を受けた国際派が(当時の共産主義運動は国際的に一つに結束しており、コミンフォルムから分派と認定されると共産党としての正統性を失う状況にあった)自己批判することで統一を回復し、その直後に開催された第5回全国協議会(五全協)において、農村部でのゲリラ戦を規定した「51年綱領」が採択された。

しかし、1952年血のメーデー事件の直後の衆議院議員選挙で、全議席を喪失するなど、国民が暴力革命を望んでいないことは明らかであった。また同年には暴力主義的破壊活動を禁じる破壊活動防止法(破防法)が制定されて日本共産党が主要な調査・監視対象にされるなど、非常に不利な状況に立たされた。

中国式武装闘争路線の転換

1953年に朝鮮戦争が終結、主流派所感派のリーダーであった徳田球一が死去すると、1955年に開催された日本共産党第6回全国協議会(六全協)において、日本共産党の武装闘争路線の放棄が決議された。〈51年綱領〉は1958年の第7回党大会で正式に廃棄された。ここで否定されたのはこれまで行ってきた「農村から都市を包囲する」というそれまでの中国革命方式の武装闘争方針の放棄であり、暴力革命そのものを否定しているわけではない。この日本共産党の路線転換を不満とする党員は、武装闘争路線を転換した指導部への不信・不満を募らせ、日本社会党・日本共産党の既成左翼政党が武装闘争路線を事実上放棄したとして反発した左翼学生や党員を中心に当初の日本共産党の武装路線を継続する新左翼と呼ばれる過激派が誕生した。更に、武装革命に賛同して戦後に日本で暴力行為を扇動・参加していた多数の日本共産党の党員は、党の路線変更後も暴力革命路線を継続した新左翼の誕生の責任を負うべきだと元党員からも批判がある[3]。この事などが、現在でもなお破壊活動防止法による調査対象団体に日本共産党が含まれる理由となっている。その後、1970年代には〈暴力〉の訳語はふさわしくないとして、〈強力革命〉と言い換えることとした。

暴力革命の現況

主に発展途上国では暴力革命を目指す共産主義組織が時折テロや暴力事件を起こすことがあるが、現代の日本含め先進国では暴力革命を主張・実践する左翼組織は警察の厳しい監視下にあり、事を起こすのは極めて難しくなっている。また、仮にテロをしても一般大衆の共感を得る可能性が低いのが21世紀を迎えた現状である。そのため、過去に暴力革命を掲げた組織が路線転換していることもある。現代の日本の場合、1960年代から1970年代にかけて一世を風靡した暴力革命を主張する新左翼の組織が若手獲得と組織維持のためにソフト化しているケースもある。ただ、これは暴力革命路線の放棄を意味するものではなく、あくまで一時的なペンディングであるとされ、組織を建て直し次第再びテロをする可能性があるため、日本の公安警察は警戒している。

脚注

  1. 「ハーグ大会についての演説」1872年9月 マルクス・エンゲルス全集(18) 158ページ、不破哲三『科学的社会主義における民主主義の探求』40ページ
  2. エンゲルス「フランスにおける階級闘争 序文」、マルクス『フランスにおける階級闘争』所収、大月書店 国民文庫18ページ
  3. 神山茂夫『日本共産党とは何であるか』自由国民社、p140-141)

関連項目