五月危機
フランスの五月危機(ごがつきき)は、1968年5月10日に勃発した、フランスのパリで行われたゼネスト(ゼネラル・ストライキ)を主体とする民衆の反体制運動と、それに伴う政府の政策転換を指す。五月革命とも。
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発端と経過
学生運動
事件の発端は1966年に起こったストラスブール大学の学生運動で、教授独占の位階体制に対する「民主化」要求からはじまる。ナンテールに波及し、1968年3月22日にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5人の検挙に反対する学生運動に発展、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動に継承された。
ダニエル・コーン=ベンディットと統一社会党のジャック・ソヴァジョ、毛沢東主義者のアラン・ジェスマル、トロツキストのアラン・クリヴィンネが指導し、一部の労働者も同趣旨から民主化に賛同し、運動は拡大した。
5月2日から3日にかけて、カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模な学生デモがおこなわれた。21日にはベトナム戦争(その中でもアメリカ合衆国)、プラハの春事件(その中でもソビエト連邦)等に反対し、「自由と平等と自治」を掲げた約1000万人とされるの労働者と学生がパリでゼネストを行った。これに対して、フランス治安部隊がこの参加者を殴打したため、抗議した民衆によって工場はストライキに突入し、フランスの交通システムはすべて麻痺状態に陥った。「中央委員会」は間接的に援助、各大学もストライキに突入し、このゼネストは第二次世界大戦以来のフランス政府の危機をもたらした。
フランス共産党の反応
「モスクワの長女」とも言われるほどソ連と関係が深く、「スターリン主義」的なフランス共産党は、当初は影響下にある労組ナショナルセンターであるCGT(労働総同盟)を通じて労働者のストライキを組織したが、ベンディットらのソ連をも非難した急進的な学生運動を一貫して否定し、バリケードを構築しての衝突や街頭占拠を積極的に推し進めるアナーキストやトロツキストたちを「挑発者」として、激しく非難した。
事態鎮静化
シャルル・ド・ゴール大統領は、軍隊を出動させて鎮圧に動くと共に国民議会を解散し、総選挙を行って圧勝し、この「革命」が国民大多数の意見を反映したものではないことを証明し事態の解決をみた。
また、フランスの「五月危機」は西ドイツや日本、イタリアなどの先進国の左翼学生たちに影響を与え、それらの先進国における学生運動の激化をもたらしていったものの、その後過激化する学生運動は各国で大多数の国民からの支持を失い、1970年代初頭になると急速に鎮静化していった。
評価
また、五月危機は政治的側面のみならず、「旧世代に反対する新世代の台頭」あるいは「フリーセックス」「自由恋愛」に代表されるような「古い価値観を打破する20世紀のルネッサンス運動」という意識を持って参加するものも多かったと言われ、またこの運動により労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大されたと評価する者もいる。「フランス及びドイツでは短期的には成就しなかった革命は五月危機などの主体となっていた学生たちが起こした社会運動によって成し遂げられていった」、という評価をする者もいる[1]。
しかし実際には、この最中で行われた総選挙においてド・ゴール大統領派が圧勝した他、アメリカでは「保守的」とされたリチャード・ニクソンも大統領選で圧勝し、日本でも自由民主党が安定多数を堅持するなど、左翼的な学生運動や労働運動以外に対しては大きな影響力は持たなかった。
五月危機を描いた映画
- 『あたりまえの映画』(1968年) - ジガ・ヴェルトフ集団
- 『万事快調』(1968年) - ジガ・ヴェルトフ集団(ジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・ゴランの合作)
- 『たのしい知識』(ジャン=リュック・ゴダール/1968)
- 『五月のミル』(1989年) - 五月危機に大きな影響を与えたカンヌ国際映画祭粉砕事件の当事者の一人、ルイ・マル監督作品。パリの混乱の影響で物価が高騰し、社会が完全に麻痺したために、母親の葬儀と埋葬を一切全部自分でやる羽目になった中年男の話。
- 『ドリーマーズ』(2003年) - ベルナルド・ベルトルッチ監督
- 『恋人たちの失われた革命』(2005年) - フィリップ・ガレル監督