ニコラエ・チャウシェスク
ニコラエ・チャウシェスク(ルーマニア語: Nicolae Ceaușescu [nikoˈla.e t͡ʃe̯a.uˈʃesku]、1918年1月26日[1] - 1989年12月25日)は、ルーマニアの政治家。ルーマニア共産党書記長(1965年 - 1989年)[2]、ルーマニア社会主義共和国国家評議会議長(1967年 - 1989年)、初代大統領(1974年 - 1989年)。
1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨した。
Contents
概要
1960年代後半から70年代にかけて、東欧社会主義圏にあってソ連から距離を置いた自主的な外交政策を展開し、国際政治の鍵を握る人物の一人として注目された。
だが1980年代に入ると、強権的な統治や個人崇拝、国民生活の窮乏に対する内外の批判が高まった。1989年、この年の東ヨーロッパ諸国の大変動、いわゆる「東欧革命」の最後を飾る流血の政変(ルーマニア革命)によって権力の座を追われ、処刑された。
前半生(生い立ちから権力掌握まで)
生い立ち
1918年、ルーマニア王国オルト県スコルニチェシュティ村の農家にて、10人兄弟の3男として生まれる(チャウシェスクの家族を参照)。11歳のとき、工場で働くために首都のブカレストに移住する。
党活動の開始から第二次世界大戦終了まで
1932年、当時は非合法組織であったルーマニア共産党に入党し、1933年に逮捕される。翌1934年には、鉄道職員試験に嘆願抗議する署名運動の扇動(2度目)を理由に再び逮捕された。逮捕当時の警察によるチャウシェスクに関する記録には「危険な共産主義の扇動者」「共産主義の配布者」「反ファシストのプロパガンダ」といった記述がある。その後チャウシェスクは地下に潜伏するが、「反ファシスト」活動の罪により1936年にドフタナ刑務所に投獄された[3]。獄中でエレナ・ペトレスクと出会い、後の1946年に結婚。チャウシェスクはエレナを終生の伴侶とし、以後、エレナは生涯にわたって夫の政治人生を支えることになる。1940年、チャウシェスクは再び逮捕され、投獄される。1943年にはトゥルグ・ジウの強制収容所に移された。この時にゲオルゲ・ゲオルギュ=デジと出会い、収容所での生活を共にする。
第二次世界大戦後
1945年5月8日、第二次世界大戦の敗戦によってルーマニア王国は崩壊し、ルーマニアはソビエト連邦に占領された。この頃、チャウシェスクは 共産主義青年同盟の書記を務めていた(1944年〜1945年)[3]。1947年、ルーマニア共産党が権力を握ると、チャウシェスクは農業省の次官を、そしてゲオルゲ・ゲオルギュ=デジの下で国防次官を務める。1952年、アナ・パウケルらモスクワ派共産主義者が追放されると、チャウシェスクは中央委員会の委員となった。1954年、正式に政治局の一員となり、党内の序列では2番目に高い地位にまで昇り詰めた[3]。
党書記長・最高指導者として
1965年3月19日、ルーマニア労働者党(1948年に共産党は社会民主党を併合して「ルーマニア労働者党」と改称していた[4]。)の書記長であったゲオルゲ・デジが死去する。チャウシェスクはデジと昔からの親友ではあったが、デジが死んだ時点では明白な後継者というわけではなかった。だがデジ死去後に政治局内で後継者を巡る対立が起こり、妥協の候補としてチャウシェスクに白羽の矢が立った。
こうして、チャウシェスクは労働者党の第一書記に就任した。チャウシェスクの最初の仕事は、政党名をルーマニア労働者党からルーマニア共産党へ戻すことと、国名を「ルーマニア人民共和国」から「ルーマニア社会主義共和国」へと変更したことであった。1967年、チャウシェスクは国家元首である国家評議会議長となり、自身の権力を強化した。政権を獲得してからしばらくの間の外交政策は、ソ連と距離を置く親西欧路線を取り、ルーマニア国内および西側諸国で人気を得た。1960年代、ルーマニアはワルシャワ条約機構へ積極的に干渉し、1968年のチェコ事件に対しては、チェコスロバキアへのルーマニア軍の派遣を拒否してソ連を公然と非難した。一方でソ連は、共産主義ブロック内で独自路線をゆくルーマニアの態度を「うわべだけのもの」とさほど重要視していなかった。
こうした外交策により、チャウシェスクはアメリカ合衆国および西側諸国から開放政策の推進を持ちかけられることになった。ルーマニア社会主義共和国は、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が承認した最初の共産主義国であり、IMF(国際通貨基金)にも加盟し、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンも真っ先に迎え入れた[5]。また、1971年、GATT(関税および貿易に関する一般協定)に加盟。同年6月に中ソ対立最中の中華人民共和国を訪問して毛沢東と会見し、8月には軍事代表団[6]も訪中してルーマニアはワルシャワ条約機構の加盟国であるのにも関わらず、脱退したアルバニアのエンヴェル・ホッジャのように中国から軍需品を導入した[7]。同じくソ連と距離を置く社会主義国だったユーゴスラビアとは、東ヨーロッパでは共産主義ブロック崩壊前の欧州経済共同体で貿易協定を結ぶ唯一の国でもあった[8]。1973年に米国の支援するチリ・クーデターによって社会主義的なサルバドール・アジェンデ政権を打倒したアウグスト・ピノチェト政権とは中国と並んで国交を維持した数少ない共産圏だった。チャウシェスクは東側諸国の国家元首だったが、前述のように西側諸国へ積極的にアプローチし、アメリカ、フランス、イギリス、スペイン、日本など西側主要諸国へ公式訪問するなかで、改革を達成した共産主義のアピールを行った。また、チャウシェスクは自身を「見識ある国際的な政治家」とアピールしていた[9]。
1974年には大統領制を導入し、ルーマニアの初代大統領に就任した[10]。
1975年4月4日から4月9日にかけて日本を訪問し、昭和天皇(4月4日)、三木武夫首相(当時)(4月5日)と会談した[11][12]。1977年にはイスラエルを訪問したエジプトの大統領アンワル・アッ=サーダート(当時)と会談し、国際情勢に関して協議した。ルーマニアは、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の両方と正常な外交関係を維持した唯一の国でもあった[13]。
また、西側諸国によるモスクワオリンピックの大規模なボイコットの報復として東側諸国が軒並みボイコットした1984年のロサンゼルスオリンピックにおいても、ルーマニアは他の東側諸国と足並みをそろえず中国とともに参加した。こうした姿勢は西側諸国からは賞賛されたものの、ソ連や東ドイツなどの東側諸国から顰蹙を買った。
堕胎と離婚の禁止
1966年、チャウシェスク政権はルーマニアの人口を増やすため人工妊娠中絶を法律で禁止とした。妊娠中絶は42歳以上の女性、もしくはすでに4人(のちに5人に変更)以上子供を持つ母親のみ例外的に許された。ルーマニアでは5人以上子供を産んだ女性は公的に優遇され、10人以上の子持ちともなると「英雄の母」の称号を与えられたが、殆どの女性は興味を示さずせいぜい子供2-3人程度がルーマニアの平均的な家庭であった(ルーマニアの人口統計を参照)[14]。また、秘密裏に行われた妊娠中絶の結果障害を負った女性、あるいは死亡する女性も少なくなかった[15]。
チャウシェスクは上昇傾向にあった離婚率にも目を付け、離婚に大きな制約を設け一部の例外を除いて禁止した。1960年代後半までにルーマニアの人口は増加に転じたが、今度は育児放棄によって孤児院に引き取られる子供が増えるという新たな問題が生じた。これらの子供は十分な栄養も与えられず病気がちとなり、さらに子供を死なせた場合にはその孤児院の職員の給与が減らされるため、無理な病気治療のひとつとして大人の血液を輸血され、エイズに感染する子供が激増した。こうした人口政策で発生した孤児たちは「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれ、ストリートチルドレン化するなど後々までルーマニアの深刻な社会問題となった。
アジアの共産主義体制の影響
1971年、中国、北朝鮮、北ベトナムを訪問したチャウシェスクは、それらの国々のアジアの共産主義体制の影響を受けた。ルーマニアに帰国後まもなく、チャウシェスクは特に北朝鮮の朝鮮労働党、中国の文化大革命のような政治綱領の具現化と国家の大変革を志向するようになる。同年7月6日、チャウシェスクはルーマニア共産党政治局の執行委員会で演説を行った。この演説は7月の論文と呼ばれている。
部下の亡命
1978年、ルーマニアの秘密警察セクリタテアの上級幹部であるイオン・ミハイ・パチェパがアメリカに亡命した。陸軍少将でもあったパチェパの離反・亡命は、チャウシェスク政権にとって大きな痛手となり、チャウシェスクは秘密警察の組織・運営の見直しを余儀なくされる。パチェパは1986年に出版した著書『Red Horizon : Chronicles of a Communist Spy Chief 』(邦題:『赤い王朝 -チャウシェスク独裁政権の内幕-』 ISBN 978-4770407702)にて、チャウシェスク政権の内情(アメリカの産業に対する大々的な工作活動や、西側から支持を得るための取り組みなど)を暴露している。パチェパ亡命後のルーマニアはより孤立を深め、経済は停滞した。チャウシェスクの諜報機関は外国の諜報機関によって逆に侵入を受けるようになり、チャウシェスクによる支配は徐々に弱まっていった。かつてのパチェパの協力者を一掃するためセクリタテアの再編成を試みるも効果は無かった。
対外債務
1968年のチェコスロバキアのソ連からの政治的独立、ならびにソ連による同国への軍事侵攻(チェコ事件)に対するチャウシェスクによる抗議は西側主要国の称賛を呼んだ。西側主要国はチャウシェスクについて「反ソ連の一匹狼」と考えており、チャウシェスクに資金援助を行うことでワルシャワ条約機構の内部分裂を狙い、チャウシェスクは経済開発のために西側から130億ドル以上の融資を受けたが、この融資が最終的にルーマニアの国家財政を破綻させた。チャウシェスクは、莫大な対外債務を返済するために憲法を改正し、将来的にルーマニアが外国から融資を受けることを禁止した。1980年代、チャウシェスクは対外債務返済のため、あらゆる農産物や工業品の大量輸出を行い、国内では食糧の配給制が実施された。一連の強引な飢餓輸出により、ルーマニア国民は日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになり、停電は当たり前になるなど、国民生活は次第に困窮の度合いを深めていった。1980年代のルーマニア国民の生活水準は着実に下がっていったにも関わらず、国民には「対外債務返済のための一時的なものであり、最終的には利益になる」と説明された。対外債務は1989年夏までに完済したが、大規模な輸出政策は同年12月に革命が勃発するまで続いた。
緊迫
チャウシェスクは政権獲得当初こそ国民から高い支持を得ていたものの、1980年代にはその人気は低下していった。1989年頃になると、チャウシェスクはもはやルーマニアの現状を受け入れることすらままならなかった。1980年代末、一般市民がろくに商品が無い商店の前に長い行列を作っている中、チャウシェスクが商品でいっぱいの店に入り、大量の食べ物を抱えて芸術祭を訪問する対照的な姿が国営テレビで度々放映された。
食糧配給のための軍の派遣部隊は、チャウシェスクが訪問する店へ先回りし品物を補充して「チャウシェスク政権によって達成された高い生活水準」を演出し、またある時には、チャウシェスクが訪問する農場に国中から手配した栄養十分の畜牛を放ったりもした。1989年当時、ルーマニア国内のテレビでは「記録的豊作である」と宣伝されたが、当時の平均的なルーマニア国民が経験した窮乏との落差・矛盾はどうやっても説明がつくものではなかった。
国民の中には、国内の窮乏をチャウシェスクが知らないのではないかと考え、チャウシェスクが各地を訪問する際に嘆願書や不満を訴えた手紙を手渡す者もいた。しかしチャウシェスクは、それらの手紙を受け取ると、それをすぐに秘密警察の人間に渡した。これらの手紙をチャウシェスクが実際に読んだかどうかは今なお不明だが、いずれにしても嘆願書を渡すことは非常にリスクが大きく、国民は次第にそれを思いとどまるようになった。チャウシェスクは、ルーマニア経済の実情については側近から良い報告しか受けておらず、本当の国内事情を把握していなかったとされている。
このほかにもチャウシェスクは首都ブカレスト市内に「国民の館」と呼ばれる巨大な宮殿を建設し、党や国家の要職もチャウシェスクの家族・親族30人以上が独占していた。こうした一般庶民の生活を顧みない政治姿勢に国民は失望し、人気も支持も低下していった。
1985年、ソ連でミハイル・ゴルバチョフが推進するペレストロイカの影響で東欧でも自由化・民主化の機運が高まると、なおも個人独裁に固執するチャウシェスクは国際社会で一層孤立することになった。東西両陣営から欧州統合の障害とみなされ、第二次大戦後初となるGCBの剥奪にまで至っている[16]。
革命と最期
1989年にポーランドで民主的な政権が成立した際、ルーマニアにもこのような動きが波及することを恐れたチャウシェスクは、チェコ事件の時とは反対にワルシャワ条約機構軍による軍事介入をソ連に要請した。しかしソ連のゴルバチョフはこの要求を一蹴し、チャウシェスクは事実上ソ連に見限られる形となった。チャウシェスクはなおも権力の維持を図ろうとするが、首都ブカレストを含めて全国規模で暴動が勃発。ソ連の介入がないことが確定的となったため、ルーマニア国軍もチャウシェスク政権に反旗を翻した。同年12月に起きたルーマニア革命でチャウシェスクは完全に失脚し政権は崩壊、12月25日、逃亡先のトゥルゴヴィシュテにおいて、革命軍の手によって妻エレナとともに公開処刑(銃殺刑)された。
死後
チャウシェスクの死後、ルーマニア全土の病院は革命の犠牲者数について、「64,000人」という数字よりもはるかに低い「1,000人未満」という数字を報告した[17]。
1990年、自由選挙による議会が開かれると、野党側は与党救国戦線を激しく追及した。これはのちに救国戦線が右派(ペトレ・ロマン)と左派(イオン・イリエスク、後の社会民主党)に分裂する遠因にもなった。
末期のチャウシェスク政権は他の長期政権同様、チャウシェスク本人ではなく高級官僚化した党幹部らが実質的な権力を握っていたとされる。当時の党幹部らは革命の際に国外に脱出しており、真相は明らかにされていない。実際の革命の現場でも、集会の場にルーマニア人のジャーナリストがおらず外国の報道機関しかいなかったこと、国軍・大統領親衛隊の能力を超える武力が行使された形跡があることなど、未だ解明されていない点が多い。
1999年12月、革命10周年に当たってルーマニア国内で行なわれた世論調査によると、6割を超える国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化したことなどから国民の不満が高まり、各地の工場や炭坑ではストライキが頻発した。現在もチャウシェスクの負の遺産として残されている国民の館は観光地化され、世界中から多くの人々が訪れている。
家族
妻エレナとの間に2男1女がいる。
- ヴァレンティン・チャウシェスク(1948年2月17日 - ) - 長男。養子だという噂が長年広まっていた[18][19]ものの、この噂を裏付ける具体的な証拠が示されたことはなく[18]、ヴァレンティン本人も養子説を否定している[18][20]。核物理学者となり政治には関わっていなかったことから、革命の際にも身柄拘束はされなかった。その後、横領などの容疑で逮捕されたものの、不起訴処分となり釈放、現在は核物理学者として復帰している。革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。
- ゾヤ・チャウシェスク(1949年3月1日 - 2006年11月20日) - 長女。数学者であった一方、党の役職にもついていた。革命前は贅沢三昧の暮らしをしていたといわれ、「飼い犬に牛肉を与えていた」等と報じられる。革命の際に身柄を拘束される。間もなく横領などの容疑で改めて逮捕されたが、不起訴処分となり釈放。その後革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。最終的にその訴えの一部が認められ、財産の一部がゾヤに返還された。2006年、肺がんのため死去。
- ニク・チャウシェスク(1951年9月1日 - 1996年9月25日) - 次男。革命時はセクリタテアの幹部で、党政治執行委員候補であり、父の後継者と目されていた。革命の際には愛人とともに車で逃亡を図るも逮捕された。間もなくブカレスト市内の国営テレビ局に連行され、押しかけた人々に罵られながら救国戦線の関係者らに詰問され、その一部始終がテレビで放映された。その後横領など複数の罪で起訴されたが、裁判中の1996年、肝硬変のため死去。
参考文献
- チャウシェスク本人の著作、演説・報告・インタビュー集
- (草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 社会主義建設の旗手』恒文社、1971年。
- (草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 平和と国際協力の政策』恒文社、1971年。
- (草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 国際平和への道』恒文社、1978年。
- (鈴木四郎訳)『ニコラエ・チャウシェスク 社会・政治思想』恒文社、1981年。
- その他
- 川崎秀二『自主独立路線のルーマニア 米中和解の立役者チャウシェスク 』仙石出版社、1972年。
- 松丸了『ルーマニア革命 ブカレスト駐在日本人の記録』東洋経済新報社、1990年。
- 鈴木四郎『チャウシェスク銃殺その後 ルーマニアはどこへ』中央公論社、1991年。
- シルビュ・ブルカン(大塚寿一訳)『ルーマニア・二つの革命 「不毛な世代」のわが体験』サイマル出版会、1993年[21]。
- イオン・ミハイ・パチェパ(住谷春也訳)『赤い王朝 チャウシェスク独裁政権の内幕』恒文社、1993年[22]。
- 柴宜弘編『バルカン史(世界各国史18)』山川出版社、1998年。
チャウシェスクとその時代を扱った作品
- 映画
- Autobiografia lui Nicolae Ceausescu (ニコラエ・チャウシェスク自伝) - Andrei Ujica監督、2010年。チャウシェスクの書記長就任から、89年の革命後の裁判までの記録映像を編集、構成。IMBbYoutube
- MASTERキートン - 浦沢直樹らによる日本の漫画。1988年〜1992年に連載。最終章において、主人公たちがチャウシェスクの隠し遺産をめぐる争いに巻き込まれる。
脚注
- ↑
- ↑ 就任当初は、「ルーマニア労働党第一書記」。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 Ceausescu.org
- ↑ ドイツ社会主義統一党やポーランド統一労働者党のように共産党が社会民主主義政党を半強制的に併合して党名変更をしたケースは、他の東欧社会主義国でも見られた。
- ↑ “RUMANIA: Enfant Terrible”. TIME Magazine. (Monday, Apr. 02, 1973) . 2010閲覧.
- ↑ “Section 5. Situation in mainland China”. 日本国外務省. . 2018閲覧.
- ↑ “Arms Transfers Database”. ストックホルム国際平和研究所. . 2018閲覧.
- ↑ European Union enlargement: background, developments, facts. Transaction Publishers, NJ, USA, 2008.
- ↑ David Phinnemore. The EU and Romania: accession and beyond. Federal Trust for Education and Research,London, UK, 2006.
- ↑ チャウシェスクは大統領就任以前も元首である国家評議会議長であったが、国家評議会議長は国家評議会という「国家元首の機能を果たす合議体」の長という形式(東ドイツ、民主化以前のポーランド、2015年現在のキューバなどの社会主義国でも国家評議会議長が国家元首)であるのに対し、大統領は単独で国家元首であるのが異なっている
- ↑ 中野文庫「1975年の天皇の勅語」
- ↑ 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室「ニコラエ・チャウシェスク・ルーマニア社会主義共和国大統領夫妻の訪日に際しての共同コミュニケ」
- ↑ Romania versus the United States: diplomacy of the absurd, 1985-1989. Institute for the Study of Diplomacy, Georgetown University, 1994.
- ↑ Communist Romania's Demographic Policy, U.S. Library of Congress country study for details see Gail Kligman. 1998. The Politics of Duplicity. Controlling Reproduction in Ceausescu's Romania. Berkeley: University of California Press.
- ↑ Ceausescu's Longest-Lasting Legacy - the Cohort of '67
- ↑ GCBの称号が剥奪された例は、公認されているだけで過去に3例あり、戦前ではイタリア王国のベニート・ムッソリーニ、戦後ではジンバブエの独裁者ロバート・ムガベである。
- ↑ Aubin, Stephen P (1998). Distorting defense: network news and national security. Greenwood Publishing Group, 158. ISBN 9780275963033. Retrieved on 28 June 2008.
- ↑ 18.0 18.1 18.2 Cătălin Olteanu (2015年6月1日). “Copiii DICTATORULUI comunist. Valentin Ceaușescu, fiul model al unei familii-problemă” (ルーマニア語). Evenimentul Zilei . 2018閲覧.
- ↑ Eugenia Alexandrescu (2017年8月3日). “Femeile din viața lui Valentin Ceaușescu. Cum arăta prima soție, antipatizată de dictatori” (ルーマニア語). Click! . 2018閲覧.
- ↑ Dan Filoti (2006年5月30日). “'Mega-interviu' cu Valentin Ceausescu” (ルーマニア語). Ceausescu.org. . 2018閲覧.
- ↑ 著者はルーマニア共産党最高幹部であったがチャウシェスクと対立。89年の革命では救国戦線のリーダーの一人となる。
- ↑ 著者はチャウシャスク政権下の秘密警察最高幹部であったが、1978年アメリカに亡命。
関連項目
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