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2018/8/6/ (月) 23:18時点における最新版
若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。栄典は正二位勲一等男爵。旧姓は奥村。幼名は源之丞。号は克堂。新字体にて若槻 礼次郎と表記されることもある[注釈 1]。
貴族院議員、大蔵大臣(第18・20代)、内務大臣(第41・42代)、内閣総理大臣(第25・28代)、拓務大臣(第4代)などを歴任した。
Contents
生涯
生い立ち
松江藩の下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男として生まれる。
実母・クラは禮次郎が3歳の頃急死した。この頃、長男の譲は、父・仙三郎とともに藩命で京都に近い淀川沿いの山崎で勤務をしていたので、奥村家では11歳のイワが3歳の礼次郎の世話をしながら内職をし、かつ留守番を務めた[1]。
奥村家は足軽の中でも格式の低い家で、雑賀町の中央に近いところに家を構えることもできず、場末ともいうべき外れの方の借家に住んでいたが、礼次郎が生まれてから間もなく父・仙三郎は西田中というところに小さな家を新築した[1]。
奥村家は極めて貧乏だったため、内職のようなことをして、ようやく生活していた。幼少の頃はまだ帯刀であり、礼次郎は木刀一本を腰に差して寺子屋に通った[注釈 2]。
小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後にやめて教員伝習校内変則中学科に入る。しかし家が貧乏で学資が続かず、在学8ヵ月か9ヵ月で中学を辞め、しばらくは山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをした。
16歳のころから3年ほど、小学校代用教員をする。明治15年(1883年)、陸軍士官学校の生徒募集があった。官費で学資がいらないということから受験したが、体格検査ではねられた。
その翌年、司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思いであったが、試験場は東京まで出て行かなければならない。しかしその費用がなかったので、能義郡長をしていた叔父・若槻敬に相談し、30円の金を借りて、明治16年(1884年)7月頃、数えで19の年に松江を出た[2]。
学生時代
東京では大学予備門に通っていた岸清一(のち法学博士)の下宿へ転がり込んだ。岸とは血のつながりはないが、近い親戚であった[3]。やがて狭い下宿を見つけて、そこへ移った。
司法省法学校の入学試験というのは『論語』『孟子』の解釈と、『資治通鑑』の白文訓点の2課目だった。礼次郎は定員50名に対して受験者約1,500名という狭き門を突破して同校予科へ進学した。織田萬などが同期の入学であった。在学中に前述の叔父・若槻敬の養子となり、若槻姓となる。
明治25年(1892年)7月、帝国大学法科を98点5分という驚異的な成績を残し、首席で卒業した。同期に、後に司法大臣、鉄道大臣を歴任した政党政治家・小川平吉、数期にわたり内務大臣を務めた官僚政治家・水野錬太郎、常設国際司法裁判所所長・安達峰一郎らがいる。若槻は、法学校でも帝国大学でも常に首席であった。荒井賢太郎と安達峰一郎とが彼の次席を争っていた。
大蔵省時代
若槻は大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。この間、帝大時代の師である同郷の梅謙次郎のもとで、和仏法律学校・法政大学の民法・租税法講師を務め、政界入り後も理事や顧問に就任している[4]。大正元年(1912年)、第3次桂内閣で大蔵大臣、大正3年(1914年)から同4年(1915年)まで第2次大隈内閣で再度大蔵大臣を務めた。大正5年(1916年)、加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年(1924年)、加藤内閣で内務大臣となり、翌年、普通選挙法と治安維持法を成立させる。
第1次若槻内閣
加藤高明が首相在職中に死去したため、憲政会総裁として内相を兼任し組閣する。この第1次内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な「無産政党」が数多く結成された。
大正15年(1926年)12月25日に大正天皇が崩御し、その日のうちに昭和と改元された。明けて昭和2年(1927年)1月、少数与党で臨んだ第52回帝国議会冒頭で、おりからの「朴烈事件」と「松島遊郭事件」に関して、野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。若槻は立憲政友会総裁・田中義一と政友本党総裁・床次竹二郎を待合に招いて、「新帝践祚のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という語句を含んだ文書にして3人で署名した。「深甚なる考慮」は内閣退陣を暗示し、予算案成立と引き換えに若槻内閣は退陣し、憲政の常道に基づき野党政友会が組閣の大命を受けるよう取り計らうことを意味する。これで若槻は議会を乗り切ったが、予算が通っても一向に総辞職の気配を見せなかったことから、野党は合意文書を公開、「若槻は嘘つき総理である」と攻撃した。このため謹厳実直な能吏のはずの若槻禮次郎は「ウソツキ禮次郎」と呼ばれる羽目になった。
また帝国議会終盤の3月14日、衆議院予算委員会で大蔵大臣・片岡直温は野党の執拗な追及に対し、次官から差し入れられた書付に基づき「現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました」と発言する。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で預金者が殺到し、休業に追い込まれてしまう。これにより昭和金融恐慌が勃発した。
大戦景気のあと不景気に悩まされていた銀行や成金たちは、ここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。特に台湾銀行は成金企業の鈴木商店と深い結びつきを持っていたが、台湾銀行が債権回収不能に陥り、休業すると同時に鈴木商店も倒産し、これは恐慌の象徴的事件ともいえる。台湾銀行の回収不能債権のうち8割近くが鈴木商店のものだったという。
若槻内閣は日銀に特融を実施させて経済的混乱の収拾を図るために、台湾銀行救済緊急勅令案の発布を諮るが、枢密院は、本来帝国議会で救済法案を可決して対応すべきところ、勅令による手続きは憲法違反であるとして否決してしまう。政策実行不能と考えた若槻は4月20日に内閣総辞職し、政友会の田中義一に組閣の大命が下ることとなる。
第2次若槻内閣
次に若槻が内閣を組織するのは昭和6年(1931年)4月のことである。憲政会はそのとき立憲民政党となっていた。世界大恐慌と濱口内閣の緊縮政策により深刻な不景気を迎えていた国内では「満蒙(満州とモンゴル)は日本の生命線」とまで言われるようになっていたが、満州は蒋介石の北伐の完成により条約上の危機に瀕していた(中華民国蒋介石政府は1928年7月19日に日清通商航海条約の一方的破棄を宣言しており、日本政府はその無効を主張していた。さらに懲弁国賊条例[注釈 3]により間島や満州各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要され、あるいは迫害されていた)。9月18日には柳条湖事件を契機とした満州事変が発生し、若槻の不拡大方針は国民、軍部への指導力を発揮することができず、ついには内務大臣・安達謙蔵が「挙国一致」を訴えたため、閣僚にも見放された状態で12月には閣内不一致による総辞職となった。
重臣時代
その後、若槻は首相経験者の立場で政治に参画し、重臣会議のメンバーにもなった。重臣グループでは岡田啓介とともに和平派・穏健派の中心人物であり、昭和天皇からの信任もきわめて厚かった。昭和10年代前半に次期内大臣という声があったが、民政党の色が強いということで実現しなかった。
昭和16年(1941年)には、東條英機を次期首相として奏薦した重臣会議において、宇垣一成を次期首相に推し、論争を繰り広げている。戦争末期には重臣の一人として終戦工作に関与した。昭和19年(1944年)には、重臣会議に出席した東條を戦時経済遂行の面で激しく論難、東條の面目を失墜させ、東條内閣倒閣に重要な役割を果たした。昭和20年(1945年)に入ってからは鈴木貫太郎内閣の奏薦やポツダム宣言受諾などに大きく関わった。
戦後、東京裁判の首席検察官を務めたジョセフ・キーナンは昭和23年(1948年)10月に若槻、岡田啓介、宇垣一成、米内光政の4人を「戦前を代表する平和主義者」と称え、パーティーに招待している。
若槻は、それから約1年後の昭和24年(1949年)11月20日、静岡県伊東市で死去した。満83歳没。
人物像
- 若槻は事務能力に秀でた政治家であった。矢田挿雲は「私生活の話のうちに、毎晩12時頃帰宅して熱燗を一本傾けながら百本以上の私信を処理し『我が妻よ、御身もし余を愛するならば、余に話しかけて余の仕事を妨ぐる勿れ』と箝口令を発布する由が出て居た。…非常に事務的な正覚坊と謂ひ得る」[5]と書いている。
- 1926年2月14日に若槻は西園寺公望を訪問したが、面会後の西園寺の感想について松本剛吉の記録によると、「彼の男は桂の次官をした男故、妥協で議会を切り抜ける位は上手だろうが、後は言わぬ方が宜しいだろうと言われたり」、松本は西園寺の話は若槻が首相の器に非ずと解釈した。[6]
- 息子の有格は雑誌『民政』の記者に父について「今日は平生より可成り酔ってゐるやうだな、と思って時に何か緊急な用事……先づ政治上の用向なんぞが出来ますと、今まで酔って居たのが拭き取ってゞも了(しま)ったやうに、しらふに成って了って態度も言葉も又容貌も、丸で一滴も飲まない時に返って其用件を片付けます。然うしてその用が済むと又面上に酔が浮かんで陶然とした容子(ようす)になるのです」と語っている[7]。
- ロンドン海軍軍縮会議の首席全権になった際、「骸骨が大砲を引っ張っても仕方がない」と国力と調和した軍備を訴え、右翼から攻撃されている。
年譜
- 慶応2年(1866年)2月5日 - 出雲国松江雑賀町に生まれる。実父・奥村仙三郎は松江藩の足軽。
- 1877年6月 - 雑賀南小学校尋常科卒業。翌年9月、高等科卒業。
- 1881年4月 - 島根県八束郡玉湯村大谷村小学校代用教員となる。翌年兄の紹介で簸川郡大津小学校に転ず。
- 1884年9月 - 司法省法学校の私費生として入学。
- 1886年1月 - 叔父・若槻敬の養子となる。
- 1891年7月 - 養父の長女で従妹にあたる徳子と結婚。
- 1892年7月 - 帝國大學法科大学仏法科(現在の東京大学法学部)を首席(98点5分の成績)で卒業。大蔵省入省、試補(見習)。
- 1894年3月 - 愛媛県収税長として松山市に赴任、高等官七等。
- 1898年11月 - 大蔵省主税局内国税課長。政府委員。
- 1904年10月 - 主税局長兼行政裁判所評定官。
- 1906年1月 - 第一次西園寺内閣の阪谷芳郎大蔵大臣の下の大蔵次官となる。
- 1907年4月 - 政府財政委員としてロンドンおよびパリに駐在。
- 1908年7月 - 第二次桂内閣の桂首相兼蔵相の下の大蔵次官に再任され、就任のためロンドンから帰朝。
- 1911年
- 1912年
- 1913年2月 - 立憲同志会入党。
- 1914年4月 - 第二次大隈内閣で大蔵大臣に再任。
- 1916年(10月 - 憲政会設立に参加、副総裁。
- 1924年6月 - 加藤内閣で内務大臣に就任。
- 1925年3月 - 普通選挙法案両院協議会を経て成立。
- 1926年1月 - 加藤首相死去のあとを受けて憲政会総裁に就任、大命降下。第一次若槻内閣成立。
- 1927年4月 - 第一次若槻内閣総辞職。
- 1930年1月 - ロンドン海軍軍縮会議に首席全権として出席。
- 1931年4月 - 濱口首相の容体悪化退陣のあとを受けて立憲民政党総裁に就任、二度目の大命降下。第二次若槻内閣成立。男爵受爵。12月第二次若槻内閣総辞職。
- 1934年7月 - 民政党総裁を退任。
- 1945年
- 1946年6月 - 東京裁判の証人に立つ。
- 1948年10月 - 東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事に宇垣一成、岡田啓介、米内光政と共に招待される。
- 1949年11月20日 - 静岡県伊東市で狭心症により死去。
栄典・授章・授賞
- 位階
- 1894年(明治27年)4月30日 - 従七位[10]
- 1900年(明治33年)12月25日 - 正六位[11]
- 1902年(明治35年)12月27日 - 従五位[12]
- 1905年(明治38年)1月31日 - 正五位[13]
- 1942年(昭和17年)5月1日 - 従二位[14]
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[15]
- 1911年(明治44年)8月24日 - 勲一等瑞宝章[16]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[17]
- 1916年(大正5年)7月14日 - 旭日大綬章[18]
- 1918年(大正7年)5月23日 - 金盃一組[19]
- 1928年(昭和3年)11月10日 - 旭日桐花大綬章[20]
- 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[21]
- 1931年(昭和6年)4月11日 - 男爵[22]
- 1945年(昭和20年)1月15日 - 御紋付木杯[23]
- 外国勲章佩用允許
家族・親族
奥村家
若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「この奥村の家は、家族の続柄が非常に複雑であった。戸主が二人の男の児を残して死んだ。軽輩の足軽でも、僅かながら禄を貰っている。しかし戸主が死んで、相当な年配の子供がないと、禄を取り上げられてしまう。それで私の実父が、その未亡人の所へ聟入りし、家を継いだ。そしてその間に、私の姉と私と二人の子供が生まれた。ところが私の実母は、私の三つの時に亡くなり、父は後添えの妻を貰った。幼年の私は、専らこの継母と年上の姉に育てられた。父違いの兄たちは、十以上も歳が違う。私は実母の顔を覚えていない。」という。
- 父・仙三郎(松江藩の足軽)
- 真面目な努力家であるほかに酒豪としても聞こえていた。明治35年(1902年)10月没[1]。
- 実母・クラ(袖山庄右衛門の娘)
- クラは奥村柳右衛門の後妻であった。柳右衛門との間に譲を生み、柳右衛門の死後、養子にきた仙三郎との間にイワと礼次郎を生んだ[25]。
- 継母・ヤオ(樋口廉蔵の娘)
- 姉・イワ
- 兄・譲(ゆずる、松江・雑賀小学校2代目校長)
若槻家
- 祖父・待齢(たいれい)
- 養父敬の養父待齢は近在に聞こえた大酒家であった。その人となりはきわめて硬骨漢であり、けっして自分の信念を曲げない人間であったが、その酒豪ぶりをみていたトク子(徳子)は、「礼次郎があのような大酒家になっては困る…」とそれを心配していた。この待齢というトク子の祖父はかなり変わった人間で、ある時、養子の敬が勉強するところへきて、手にした鉄瓶の中の熱湯を敬の膝頭に注いだ。父のやり方を知っている敬は黙々としてその熱さに耐え、読書をつづけたので待齢(たいれい)は「やはり敬はわしが見込んだだけある。将来はエラブツになるじゃろう」とうなずいたという[27]。
- 父・敬 - 礼次郎の実母クラの弟
- 母・ナミ子
- 従妹・妻・徳子(とくこ、若槻敬の長女)
- 長男・有格(実業家)
- 長女・繁子(田原和男の妻)
系図
- (奥村家)
奥村柳右衛門 | |||||||||||||||||||
奥村譲 | |||||||||||||||||||
クラ | |||||||||||||||||||
イワ | |||||||||||||||||||
奥村仙三郎 | |||||||||||||||||||
若槻禮次郎 | |||||||||||||||||||
ヤオ | |||||||||||||||||||
ヤオの姉 | テツ | ||||||||||||||||||
岸伴平 | 岸清一 | ||||||||||||||||||
- (若槻家)
奥村仙三郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
児玉要助 | 峰 | 若槻寛義 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
クラ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
袖山庄右衛門 | 若槻禮次郎 | 若槻有格 | 若槻信成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
若槻敬 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
若槻待齢 | 若槻徳子 | 繁子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
ナミ子 | 隆子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田原和男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
森永貞一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
注釈
- ↑ 学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書では歴史人物名の表記として「若槻礼次郎」、存命当時の『職員録』などでは「若槻禮次郎」、御署名原本における署名も「若槻禮次郎」(ただし「禮」は草書体)である。
- ↑ 若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「私の幼少の頃はまだ帯刀であった。私は数え年七つの時、寺子屋に入ったが一本を腰に差して通ったことを覚えている。しかし、それは抜けない木刀であった」という。
- ↑ 懲弁国賊条例は1915年のいわゆる対華21カ条要求交渉の際、中華民国が同交渉による2条約13公文を無効化するために6月22日に発出したものであるが、1929年には「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」など60の追加法令を発して、土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収をはかっていた。
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 豊田『宰相・若槻礼次郎』173頁。
- ↑ 『若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 18-25頁
- ↑ 『若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 3-21頁
- ↑ 『法政大学校友名鑑』(1941年)
- ↑ 「若槻氏の癖」『中央公論』第42巻第2号、昭和2年(1927年)
- ↑ 『大正デモクラシー期の政治―松本剛吉政治日誌』(岩波書店、1959年),p.480。
- ↑ 「三府楼主人「若槻全権の酒量大観」『民政』第3巻第12号、昭和4年(1929年)
- ↑ 『官報』第8454号、明治44年8月25日。
- ↑ 『官報』第8709号、明治45年7月1日。
- ↑ 『官報』第3248号「叙任及辞令」1894年5月1日。
- ↑ 『官報』第5247号「叙任及辞令」1900年12月26日。
- ↑ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ↑ 『官報』第6474号「叙任及辞令」1905年2月1日。
- ↑ 『官報』第4663号「叙任及辞令」1942年7月27日。
- ↑ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ↑ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ↑ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ↑ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
- ↑ 『官報』第1741号「叙任及辞令」1918年5月24日。
- ↑ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
- ↑ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ↑ 『官報』第1284号「叙任及辞令」1931年4月14日。
- ↑ 『官報』第5398号「宮廷録事」1945年1月16日。
- ↑ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
- ↑ 25.0 25.1 豊田『宰相・若槻礼次郎』172頁。
- ↑ 豊田『宰相・若槻礼次郎』174頁。
- ↑ 豊田『宰相・若槻礼次郎』191-192頁。
- ↑ 豊田『宰相・若槻礼次郎』184頁。
- ↑ 鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』1965年、145頁。
参考文献
- 若槻禮次郎 『明治・大正・昭和政界秘史 古風庵回顧録』 読売新聞社、初版1950年、新版1975年/講談社学術文庫、1983年
- 豊田穣 『宰相・若槻礼次郎 ロンドン軍縮会議首席全権』 講談社、1990年