堀幸一

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堀 幸一(ほり こういち、1969年4月2日 - )は、長崎県長崎市出身の元プロ野球選手内野手外野手)。右投右打。

経歴

プロ入り前

長崎・海星高等学校では3年生時の1987年に3番打者として春の甲子園に出場。高校時代は投手を務めており、鹿屋中央高等学校と練習試合をした際には、亀山努に本塁打を打たれた経験がある。

プロ入り後

同年のドラフト3位でロッテオリオンズに入団。背番号45。入団直後のキャンプでは、佐藤幸彦大村巌のバッティングに圧倒され自信を喪失。長崎の両親も、3年ともたないだろうと周囲に漏らしていた[1]

しかし、1989年の開幕当初より一軍に定着し、4月14日の対近鉄バファローズ戦で谷崎浩二からプロ初安打を放つ[1]。1991年に背番号を5に変更すると、レギュラーとして20本塁打を記録し、頭角を現す。その年には4番も打ち、「年俸が12球団一安い4番打者」と言われた。堀の本塁打はこれ以降も続き、1998年に通算して1番から9番までの全打順本塁打を達成し、その後も中距離打者として長らくレギュラーを守った。

1995年は3番打者として定着。初の3割をマークし、チーム10年ぶりとなるAクラス躍進に貢献。打率.309はイチローに次ぐリーグ2位。1996年はリーグ3位の打率.312の成績を残した。2003年にはチームの主力選手として自己最高の22本塁打をマークし、この年だけで全打順でのスタメン出場を達成した。打順は3番か6番が多かったが、後半戦は4番として活躍し、チームの勝利に貢献した。

2005年は主に2番打者で活躍し、チームの31年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献した。シーズン終了間際で規定打席に到達し、9年ぶりの3割となる打率.305の成績でリーグ8位を記録した。パシフィック・リーグ二塁手部門でベストナインを獲得する。18年目での初受賞は、パ・リーグ最年長初受賞(当時)となった。

2006年からは調子を落とし、スタメンを外れる試合も多くなった。代打でも結果を残せず、打率も2割台前半に落ち込む。

2007年7月7日にシーズン1号本塁打を放ち、有藤道世が持っていた18年連続本塁打のチーム記録を更新する19年連続本塁打となった。守備では青野毅の故障、今江敏晃の不調などにより久々に三塁手でスタメン出場したものの、ホセ・オーティズの加入で再び出番が減ってしまう。

2008年4月12日、途中出場ながら自身初となる一塁手の守備に就いた。8月20日の対北海道日本ハムファイターズ戦では一塁手で先発出場し、史上40人目(球団史上3人目)となる通算2000試合出場を果たした。しかし打撃成績は前年より落ち込んでしまい、本塁打も1988年以来となる0本に終わり、20年連続本塁打はならなかった。

2009年は、ホセ・オーティズフリオ・ズレータが前年オフに揃って退団したこともあり出番が増加。打率.259、4本塁打ながら得点圏打率.423、代打打率.417と、ここ一番での勝負強さを見せた。6月11日の対広島戦では、1イニング最多となる15得点を記録した6回の途中から福浦和也(この回2打席目)の代走として出場、その後も攻撃が続き「代走」のまま打席が廻ってくるという珍事があった。7月5日に2年ぶりに三塁でスタメン出場するが、これは西村徳文ボビー・バレンタインよりスタメンを告げられる際、正三塁手・今江敏晃の愛称である「ゴリ」と「」を聞き間違えたことによるミスだった。結局、堀は第1打席で左翼へ犠牲フライを放ったのち、次の回の守備で今江と交代した。同オフには球団よりコーチ就任を打診されるが、現役続行を選択。

2010年は一軍出場がなく9月11日、球団より戦力外通告とフロント入りの打診を受ける。その時点では本人は現役続行を希望し、シーズンオフの12球団合同トライアウトを受け、1回目のトライアウトで佐藤誠からホームランを打つなど5打数2安打の成績を残したものの獲得に名乗りを挙げる球団がなかったことから、12月2日に現役引退を表明[2][3]、翌12月3日に千葉マリンスタジアムで引退会見を行った[4]。堀の引退をもって、過去にロッテオリオンズに在籍した経歴のある選手はすべてユニフォームを脱いだ事になった。

引退後

2011年からはニッポン放送およびJSPORTS(MLB中継)の野球解説者を務める。3月12日の対埼玉西武ライオンズ戦を引退試合とする予定[5]であったが、前日の11日、東日本大震災が発生。この試合を含めた全てのオープン戦が中止され[6]、引退式は4月30日にずれ込んだ。

2012年10月30日、2013年から千葉ロッテマリーンズの一軍打撃コーチに就任したと球団オフィシャルサイトにて報じられた[7]。背番号は752017年はチーム打率・得点は12球団最下位、本塁打11位タイと低迷し、チームも6年ぶりの最下位に終わった。翌2018年は二軍打撃コーチ兼育成担当に異動。5月10日、配置転換により二軍内野・守備走塁コーチに異動。

選手としての特徴

早い時期から「天才」と呼ばれた選手[8]。独特のオープンスタンスから、ゆったりとステップするフォームでボールを呼び込んで打つ[9]。右打ちの上手さはボビー・バレンタイン監督に世界一と評され、右へと決めた時の徹底した打撃は、走者一塁時の打席で特に発揮された[10]。また、器用さもありつつ、4番を打つだけの長打力も持ち合わせていた[11]

二塁の守備は安定感があり[9]、他にも外野・三塁・遊撃も守れるユーティリティープレイヤーとして長年チームを支えた[11]

エピソード

  • 千葉マリンでの登場曲はプロパガンダの「p:Machinery」。この曲は1980年代のディスコでの定番の曲で、堀は現役最終年まで使用していた。
  • オフは釣り三昧で過ごす[1]黒木知宏と共にテレビ東京系の釣り紀行番組「釣りロマンを求めて」に出演した事があるが、その時に大型のメジナに逃げられ、本気で悔しがっていた。また、2011年から解説者を務めるニッポン放送のアナウンサーである松本秀夫とも現役時代からの釣り仲間である。
  • 「オフィシャル・ベースボール・ガイド 2010」にて、名前を「幸一」と誤植された[12]。同じ千葉ロッテの塀内久雄が、「塀」の字を「堀」と間違われることはしばしばあったが、珍しく逆の事例となった。
  • ボビー・バレンタインが第一次政権の際にメジャーに連れて帰りたい選手として挙げていた。実際に堀がFA権を取得した際には、指揮していたメッツからオファーが来ている。[13]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1989 ロッテ 58 86 77 11 20 6 0 1 29 9 1 2 3 0 4 0 2 15 0 .260 .313 .377 .690
1990 59 141 126 23 34 8 2 6 64 18 2 0 2 1 11 0 1 27 2 .270 .331 .508 .839
1991 110 425 380 53 108 16 1 20 186 69 5 7 5 7 29 0 4 65 6 .284 .336 .489 .825
1992 105 462 409 66 115 25 3 8 170 38 11 4 6 2 43 3 2 63 6 .281 .351 .416 .767
1993 128 568 493 66 122 28 6 6 180 46 18 6 12 4 55 1 4 92 7 .247 .326 .365 .691
1994 92 327 297 38 70 18 2 7 113 36 8 3 4 2 24 0 0 45 6 .236 .291 .380 .671
1995 121 516 457 71 141 18 4 11 200 67 16 3 1 7 49 0 2 93 5 .309 .373 .438 .810
1996 122 527 465 70 145 28 3 16 227 68 8 2 4 2 55 2 1 87 7 .312 .384 .488 .872
1997 131 583 522 53 142 18 2 9 191 47 15 6 1 7 50 3 3 93 8 .272 .335 .366 .701
1998 127 493 444 51 107 24 4 10 169 44 12 5 4 4 39 4 2 85 8 .241 .303 .381 .683
1999 126 493 421 57 112 28 3 8 170 50 5 2 12 2 57 0 1 71 11 .266 .353 .404 .757
2000 87 231 203 38 52 11 0 8 87 29 8 1 3 2 23 2 0 38 5 .256 .329 .429 .758
2001 83 238 193 22 43 7 0 4 62 17 6 3 15 2 28 1 0 50 4 .223 .318 .321 .640
2002 117 445 387 58 98 21 2 14 165 36 4 1 18 2 35 1 3 84 7 .253 .319 .426 .745
2003 130 539 470 78 140 24 0 22 230 78 3 4 4 6 54 1 5 80 9 .298 .372 .489 .861
2004 119 516 445 70 116 23 2 14 185 51 5 2 14 1 55 1 1 88 9 .261 .343 .416 .758
2005 104 421 380 50 116 16 0 7 153 46 2 5 4 4 31 2 2 75 8 .305 .357 .403 .760
2006 87 283 264 19 60 12 1 6 92 23 1 1 1 2 15 0 1 55 8 .227 .270 .348 .618
2007 61 161 150 17 38 10 2 2 58 15 1 1 2 0 8 0 1 41 1 .253 .296 .387 .682
2008 41 104 93 5 19 3 0 0 22 6 2 1 4 0 6 0 1 17 3 .204 .260 .237 .497
2009 56 121 112 13 29 7 0 4 48 17 0 0 2 1 5 1 1 31 4 .259 .294 .429 .723
通算:21年 2064 7680 6788 929 1827 351 37 183 2801 810 133 59 121 58 676 22 37 1295 124 .269 .336 .413 .749

年度別守備成績


一塁 二塁 三塁 遊撃 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1989 - 36 61 55 4 8 .967 2 0 2 0 0 1.000 3 4 2 0 1 1.000 3 2 0 0 0 1.000
1990 - 37 59 67 0 20 1.000 15 10 20 4 1 .822 - -
1991 - 106 257 296 5 52 .991 - 1 0 0 0 0 ---- -
1992 - 104 259 251 8 72 .985 - - -
1993 - 128 319 339 8 83 .988 - - -
1994 - 71 131 158 10 37 .967 - - 23 35 1 0 0 1.000
1995 - 1 0 1 0 0 1.000 2 0 1 0 0 1.000 116 179 310 15 69 .970 -
1996 - - 19 17 21 1 1 .974 95 137 298 15 51 .967 -
1997 - 104 210 263 9 63 .981 39 28 58 0 5 1.000 1 0 1 0 0 1.000 -
1998 - 20 35 34 0 7 1.000 1 0 1 0 1 1.000 1 0 0 0 0 ---- 112 205 5 2 0 .991
1999 - 106 221 304 7 65 .987 17 7 29 3 2 .923 - -
2000 - 61 117 162 7 41 .976 2 3 1 0 0 1.000 1 2 2 0 1 1.000 -
2001 - - 9 1 13 0 1 1.000 - 69 85 0 0 0 1.000
2002 - 85 182 256 6 55 .986 4 2 6 0 1 1.000 1 1 3 1 0 .800 25 27 0 0 0 1.000
2003 - 84 148 278 6 45 .986 6 3 14 0 0 1.000 - 7 12 0 1 0 .923
2004 - 115 234 372 5 76 .992 - - -
2005 - 92 173 247 2 56 .995 - - -
2006 - 78 131 191 4 33 .988 - - -
2007 - 36 55 78 2 12 .985 11 7 13 0 0 1.000 - -
2008 7 29 3 0 4 1.000 21 34 39 2 4 .973 - - -
2009 39 222 17 0 19 1.000 2 2 4 0 1 1.000 1 0 0 0 0 ---- - -
通算 46 251 20 0 23 1.000 1287 2628 3395 85 730 .986 128 78 179 8 12 .970 219 323 616 31 122 .968 239 366 6 3 0 .992

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1998年7月28日、対福岡ダイエーホークス16回戦(北九州市民球場)、1番・中堅手で先発出場 ※史上345人目
  • 1000本安打:1998年9月28日、対日本ハムファイターズ24回戦(千葉マリンスタジアム)、7回裏に芝草宇宙から左翼へ二塁打 ※史上192人目
  • 100本塁打:1999年9月11日、対オリックス・ブルーウェーブ22回戦(千葉マリンスタジアム)、7回裏に高橋功一から中越決勝ソロ ※史上207人目
  • 1500試合出場:2003年5月21日、対オリックス・ブルーウェーブ8回戦(Yahoo!BBスタジアム)、6番・二塁手で先発出場 ※史上138人目
  • 150本塁打:2003年10月8日、対オリックス・ブルーウェーブ27回戦(Yahoo!BBスタジアム)、8回表に萩原淳から中越ソロ ※史上133人目
  • 1000三振:2004年4月14日、対西武ライオンズ5回戦(千葉マリンスタジアム)、1回裏に西口文也から ※史上36人目
  • 1500本安打:2004年6月26日、対西武ライオンズ15回戦(石川県立野球場)、1回裏に許銘傑から左前安打 ※史上51人目
  • 300二塁打:2004年9月7日、対福岡ダイエーホークス26回戦(福岡ドーム)、1回表に和田毅から左翼線二塁打 ※史上41人目
  • 2000試合出場:2008年8月20日、対北海道日本ハムファイターズ19回戦(東京ドーム)、2番・一塁手で先発出場 ※史上40人目
  • 350二塁打:2009年9月19日、対東北楽天ゴールデンイーグルス21回戦(クリネックススタジアム宮城)、7回表に佐竹健太から左翼線二塁打 ※史上27人目
その他の記録

背番号

  • 45 (1988年 - 1990年)
  • 5 (1991年 - 2010年)
  • 75 (2013年 - )

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボール・マガジン社刊)2008年6月23日号43-47ページ『白球入魂「プロ21年目、ゴールはまだ先 - 堀幸一」』
  2. 堀幸一選手 引退のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2010年12月2日
  3. 【プロ野球】ロッテの堀が引退、9月に戦力外、現役模索も断念 サンケイスポーツ 2010年12月2日閲覧
  4. 堀幸一選手が引退会見 - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2010年12月3日
  5. 堀幸一氏の引退試合について - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2011年2月19日
  6. 3/12(土) オープン戦中止のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2011年3月11日
  7. 堀幸一氏 一軍打撃コーチ就任のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月30日
  8. 『プロ野球スカウティングレポート2006』 アスペクト、2006年3月。ISBN 4-7572-1246-1。
  9. 9.0 9.1 『プロ野球スカウティングレポート2007』 アスペクト、2007年3月。ISBN 978-4-7572-1338-8。
  10. 『野球小僧 世界野球選手名鑑2007』 白夜書房、2007年4月。ISBN 978-4-86191-246-7。
  11. 11.0 11.1 名選手の隠れた宝庫、千葉ロッテマリーンズの名バッター6人”. SPAIA. . 2017閲覧.
  12. 「オフィシャル・ベースボール・ガイド 2010」 お詫びと訂正のお知らせ - 社団法人日本野球機構
  13. 伊集院光の野球バン!#37(バーフェクト・チョイス)

関連項目

外部リンク

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