郡山城 (大和国)
郡山城 (奈良県) | |
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別名 | 雁陣之城 |
城郭構造 | 輪郭式平山城 |
天守構造 | 伝・5層6階(不明・1583年築・非現存) |
築城主 | 郡山衆及び筒井順慶 |
築城年 | 1162年(応保2年)及び1580年(天正8年) |
主な改修者 | 筒井順慶、豊臣秀長、増田長盛 |
主な城主 | 筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏 |
廃城年 | 1873年(明治6年) |
遺構 | 石垣、堀 |
指定文化財 | 奈良県指定史跡 |
再建造物 | 追手向櫓、東櫓、追手門 |
位置 |
北緯34度39分6.9秒 東経135度46分44.18秒 |
郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあった日本の城。豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。
Contents
概要
10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。奈良時代には薬園が営まれていた。郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石[注釈 1]20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。
17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府よって改修を受けた。その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里が入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。
桜の名所として、日本さくら名所100選に選定されている[1]。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(165番)に選定された[2]。
沿革
雁陣之城
この城の築城時期は、1162年(応保2年)の『東南院文章』に、
郡山者件狼唳之輩張雁陣之城— 東南院文章
とある。「狼唳之輩」とは郡山衆を指しており、雁陣の城を築いていると記載している。この当時の城は盛り土と柵をめぐらした環濠集落のようなものであった。また1300年(正安2年)には「郡山庄」が独立しており、この時から「郡山」という名が現れた最初となる。
郡山城の最初の攻城戦は、永正3年(1506年)の夏で、赤沢朝経が大和国に侵攻し、各諸城を攻め落とした。同年8月24日、赤沢朝経は郡山城を数千の兵力で取り囲んだ。この時、宝来衆、西京衆、生馬衆、郡山衆らが西脇衆と称して、郡山城に立て篭もったが、圧倒的兵力を前に、多くの武将が討ち死にした。その中には宝来九郎なども含まれていた。『多聞院日記』に、
郡山城没落— 多聞院日記 永正三年八月二十三日条
と記載されている。
その後郡山衆は、筒井城を本拠に地に持つ筒井氏に与したり、越智氏に属したり離合集散を繰り返してきたが、1559年(永禄2年)松永久秀が大和国に侵入してくると、当時郡山城の城主であった郡山辰巳は松永久秀軍に属して筒井氏から離反していく。
筒井順慶時代
筒井城の戦いで筒井城が松永久秀軍に属すると、郡山城は福住中定城と共に筒井順慶軍の拠点となっており、元亀元年(1570年)3月から元亀2年(1571年)8月まで松永久秀、松永久通親子の攻撃をうけていた。松永久秀軍は、郡山城の四方に付城を築き、時間をかけて攻める攻城戦を行っていた。同年8月4日辰市城の合戦で、松永久秀軍と決戦となった時、筒井順慶増援軍は一旦郡山城らに集結してから辰市城に出軍した。
その後、筒井順慶が織田信長の援助を得て、天正8年(1580年)11月大和国守護となると郡山辰巳は殺され、家来衆はそのまま筒井順慶に組み込まれた。
その少し前、天正7年(1579年)8月に、多聞山城の石垣を運んだりし、筒井城を拡張していたが地形の不利から筒井城をあきらめ、郡山城を本城とする改修を開始し天正11年(1583年)4月に「天守」が完成 [3]する。織田信長は天正8年(1580年)8月に破城令を出し大和国では一城とし、筒井城もこの時に破却して郡山城の一城のみとなった。『郡山城と城下町』によると「織田信長は大和に争乱の時代が終わったことを示そうとしていた」と解説している。1581年(天正9年)から明智光秀が普請目付として着手し、大規模な近世城郭として工事が開始され、奈良の大工衆を集めたことが記録されている。しかし、その筒井順慶も1584年(天正12年)に死去すると、養子の筒井定次は豊臣秀吉の命により伊賀上野城へ転封となった。
豊臣時代初中期
1585年(天正13年)豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入る。秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、城郭作りや城下町の整備を急いだため根来寺の大門を移築したり、当時大和は石材に乏しかったために、天守台の石垣には墓石や石仏(地蔵)までも用いられている[4]。
本丸、毘沙門曲輪、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪等の曲輪が多く普請され、大規模なものになった理由として、豊臣秀長の居城として以外に、大坂城の防衛の城としても重要であったと考えられている。また天守台には5層の天守が建っていたとの伝承があるが、『郡山城と城下町』によると「伝承でいわれるような五層の天守閣が建っていたかどうかは疑問です」とし、建築学的にはもう少し小さなものではなかったとしている。また城下町を大いに発展させ、同年奈良の市中で行われていた商売をやめさせ、郡山城の城下町に集中させた。『郡山惣町日記』によると、本町、魚塩町、堺町、柳町、今井町、綿町、藺町、奈良町、雑穀町、茶町、材木町、紺屋町、豆腐町、鍛冶屋町の14町がみられる。このうち最後の鍛冶屋町は枝町となり、城下町の基本はそれ以外の「箱元十三町」とされ、これらの町名は現在も残っている。
豊臣秀長書状は壽福院に宛てた書状で、内容は豊臣秀長が着任した翌天正14年(1586年)3月筒井順慶の廟所や山林、筒井城の跡地等を壽福院に与える、としている。筒井定次が伊賀国に入封後、筒井城破却後の跡地や周辺の山林は壽福院に与え、筒井城があった添下郡の筒井村周辺は豊臣秀長が着任後も大きな変化はなかったと考えられている。
1591年(天正19年)豊臣秀長が没し、その養子豊臣秀保も1595年(文禄4年)に急死すると、大和大納言家は断絶し100万石城の時代は終了する。
豊臣時代後期
五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城する。このとき約48町13間(後に50町に拡張)に及ぶ堀と土塁で城下町を囲む壮大な惣構えが構築され郡山は城郭都市の様相を呈するに至った。関ヶ原の戦い後に増田長盛は高野山に追放となり、郡山城の建築物は徳川家により伏見城に移築された。城地は奈良奉行所の管轄下に入り大久保長安が在番した。
郡山城の戦い
郡山城の戦い | |
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戦争: 攻城戦 | |
年月日: 元和元年(1615年)4月27日 | |
場所: 郡山城 | |
結果: 豊臣軍20pxの勝利 | |
交戦勢力 | |
豊臣秀頼軍20px | 筒井定慶軍20px |
戦力 | |
約2000兵 | 約1000兵 |
損害 | |
不明 | 30兵、郡山城放火 |
徳川家康は筒井一族の筒井定慶には1万石と、その弟筒井順斎には200石を与え、その上で与力衆36名を預け、郡山城に入城させた。
大坂冬の陣が終結し大坂城の内堀が埋め立てられ、再度の東西決戦の雰囲気となった際、豊臣方の使者細川兵助が郡山城に出向いて、筒井氏に合力を求めてきた。豊臣方が出した条件は「兵1万を直ちに送る。戦勝した時には筒井定慶には大和国を、筒井順斎には伊賀国を与える。但し徳川方に付くのであるならば攻撃を開始する」という内容であった。細川兵助は必死の説得を続けたが、(途絶えていた名跡を復活させてもらった徳川家康に高恩を感じていたのか)筒井家は大坂方の条件・要請を断った。
元和元年(1615年)4月26日、豊臣方は大野治房、箸尾高春、細川兵助ら2千余の兵を出陣させ、暗峠を越えて郡山城に迫ってきた。これに対して筒井定慶は、筒井順慶時代から恩義のある浪人衆、農民衆、商人衆を集結させ、数だけは1千兵程度になった。
大坂方(豊臣軍)は松明を掲げながらの夜間行軍であった。筒井軍は戦馴れしていなかったことから、大坂方の兵力を見誤り、実数よりも多い“3万の大軍”であるとの物見からの報告を受け、定慶は郡山城を撤収し福住中定城へ移動した[5]。この動きに筒井順斎は「腑甲斐無し」と激怒し、手勢に徹底抗戦を命じたが、総大将の定慶はすでに落延びており、順斎に従う者は殆どおらず、自身もわずか4,5名の共の者と興福寺に落ち延びた。
翌27日未明、大坂方は九条口と奈良口の2隊に分け攻城を開始した。郡山城にはわずかな兵が残っており、30人が討ち取られ、城下町の各方面に火が放たれた。その後大坂方は奈良方面に進軍し徳川方への備えを敷いたが、徳川方が奈良方面に進軍しているとの報を受けると、大坂城に引き上げていった。
福住中定城で1000兵余りで防備を固めていた筒井定慶は、大坂夏の陣で大坂城が落城すると、一戦もすることなく郡山城を捨てたことに後悔し、大坂城落城から3日後の5月10日、弟の筒井順斎に遺書を残し切腹した、とされる。『戦国合戦大事典』では「表向きは自害と称して、蟄居するうち病死したという説もある」という別説も紹介している。同書では筒井順斎も兄を追って自殺したとされている。
松平氏・本多氏時代
郡山城の戦いの後、水野勝成が同年7月19日三河国の刈谷から6万石で移封し、荒廃した城郭の修築を行った。石垣や堀の修復は公儀普請とされ、本丸と二ノ丸、三の丸の一部と家中屋敷の修復は水野氏の手で行われた。水野勝成は修復途中の元和5年(1620年)8月に備後福山に転封となった。その後松平忠明が12万石で入城した。松平忠明も郡山城の復興に取り組み、二ノ丸屋形の造営をはじめ、伏見城の鉄門、一庵丸門、桜門、西門などが移築された。しかし松平忠明も1639年(寛永16年)に播磨姫路に転封された。
次に郡山城に入ったのが本多政勝で、15万石で入部した。この時期に本丸、二の丸屋敷、城門、角櫓など城郭の主要部分が完成した。武家屋敷、町屋ともに発展し、延宝年間には城下の家数は4700軒、人口は2万人を超え、郡山城下の最盛期となった。しかし、1671年(寛文11年)に本多政勝が死去すると「九六騒動」という家督相続に伴う御家騒動が起こった。息子二人の争いに徳川幕府の裁定が入り、二人に対して分割相続とされ、それぞれが転封となった。その後、明石藩から松平信之が8万石で入城した。この時期の1680年(延宝8年)城下町に大火がおこり670軒が焼失した。松平信之が老中に任命されると、江戸に近い下総古河藩に加増転封となり、次いで本多忠平が12万石で入城した。その後本多氏が数代続いたが、本多忠烈が若年相続を理由に5万石に減封とされ、家臣団の大人数解雇および武家屋敷などの大々的な取り壊しも行なわれた。さらに享保8年(1723年)11月27日に忠烈が8歳で死去すると本多氏は御家断絶とされた。
柳沢氏時代
1724年(享保9年)に柳沢吉里が甲斐甲府藩から15万石で移封され、城下町の整備に努めた。この頃の城下町の様子が『郡山町鑑』にみえる。
家数:3656軒 | 人口:13258人 | 町数 |
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持ち家:1465軒 借家:2191軒 | 男:6562人 女:6696人 | 40 |
柳沢氏が入封して以降、郡山城は安定した時期を迎えていたが、1787年(天明7年)に大飢饉が発生、城下町の民家を群衆が打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎが起こる。安政5年(1858年)12月1日、郡山城二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群は全て焼失する大火にみまわれた。1861年(文久元年)に再建に着手するが、明治維新を迎え、1870年(明治3年)に藩は今後城の修理を行わないことを出願し、これが明治新政府に聴許された。のち1873年(明治6年)郡山城は破却された。この際に櫓・門・塀などの建築物は入札によって売却され運び去られたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。城下の永慶寺に城門が山門として移築され、現存している。
歴代城主
何代城主 | 初代城主 | 2代城主 | 3代城主 | 4代城主 | 5代城主 | 6代城主 | 7代城主 | 8代城主 |
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城主名 | 郡山衆 | 筒井順慶 | 豊臣秀長 | 豊臣秀保 | 増田長盛 | 大久保長安 | 山口直友 | 筒井定慶 |
何代城主 | 9代城主 | 10代城主 | 11代城主 | 12代城主 | 13代城主 | 14代城主 | 15代城主 | 16代城主 |
城主名 | 水野勝成 | 松平忠明 | 本多政勝 | 本多政長 | 松平信之 | 本多忠平 | 本多忠常 | 本多忠直 |
何代城主 | 17代城主 | 18代城主 | 19代城主 | 20代城主 | 21代城主 | 22代城主 | 23代城主 | 24代城主 |
城主名 | 本多忠村 | 本多忠烈 | 柳沢吉里 | 柳沢信鴻 | 柳沢保光 | 柳沢保泰 | 柳沢保興 | 柳沢保申 |
また柳沢神社創立時に植えられた桜は日本さくら名所100選にも選ばれ、毎年4月1日から行われる「お城まつり」には多くの花見客でにぎわう。
城郭
城跡は1881年(明治14年)に旧郡山中学校の校舎が二ノ丸に、旧郡山園芸高校が麒麟曲輪に建設されるなど、大きく姿をかえた。長らく荒廃していた郡山城であったが、1960年(昭和35年)7月28日、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、1983年(昭和58年)に追手門が、翌1984年(昭和59年)追手東隅櫓が、1987年(昭和62年)には追手向櫓が市民の寄付などにより復元された。
本丸
- 天守台
- この天守は逆さ地蔵の祟りや大和大地震で倒壊したという俗説が残っている。『郡山城と城下町』によると「現存している伝天守台に5層6階の天守は建築学上から考えて建てられること不可能」としている。しかし平成25年から平成29年にかけて調査・整備事業が行われ、豊臣秀長時代あるいは増田長盛時代には天守が確実に存在し、後に二条城更に淀城へ移築された話も事実と確定された[6]。平成29年3月26日から展望台施設が公開された[7]。
- 天守台の裏手、北側の石垣には、付近から徴用されて築城に使われた数多くの石地蔵が、石垣に組み込まれたまま城下の人々により祀られている。
- 石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは逆さ地蔵と呼ばれている。
- これらの地蔵のために、北側の石垣沿いにはさらに多くの石地蔵が奉納されている。また地蔵以外にも由来の変わった石は多く、市内東部の平城京羅城門跡から運ばれた礎石と伝わるものなどもある。
- 毘沙門曲輪
- 現在の柳沢文庫がある一帯で、もともとは「本丸ニの郭」と呼称されていたが、柳沢氏入部以降に「毘沙門曲輪」と改名した。本丸と繋がっていた極楽橋の復元が計画されている[8]。
- 法印曲輪
- 現在の市民会館がある一帯で、一庵丸、常盤曲輪とも呼ばれている。一庵法印良慶の屋敷があったので法印曲輪と呼ばれている。
- 陣甫曲輪
- 現在民家が立ち並んでいる一帯。もともとは城兵の調練の場として使われていた空き地。出軍の時は武者溜まりとしても使用されていた。
- 玄武曲輪
- もともとは納戸曲輪と呼ばれていたが、柳沢氏入部以降に「玄武曲輪」へ改名した。硝煙蔵が5棟建ち並び、西側には玄武門が建っていた。
- 本丸部分
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極楽橋跡
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柳沢文庫
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法印曲輪跡
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本丸西面石垣
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天守台の伝羅城門礎石
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柳沢神社
復元櫓と復元門
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追手門(梅林門)と追手向櫓
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追手門(梅林門)
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追手向櫓
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追手東隅櫓
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東隅櫓と十九間多聞櫓
二ノ丸
- 二ノ丸屋形
- 現在の奈良県立郡山高等学校が建っている一帯で、松平忠明時代に整備され、城主の居館があった。藩の政庁もここにあり、巨大な御殿群を形成していた。(上記郡山城旧観図も参照)
- 新宅曲輪
- 新屋敷が建てられたことに関係する名称であると思われているが、本多忠平時代にはすでに存在していた名称で、古くからあったと考えられている。別名緑曲輪とも呼ばれている。
- 御厩曲輪
- もともとは新宅曲輪であったが、松平忠明時代に別の場所にあった厩を、新宅曲輪の北半分に移し、厩を2棟と馬場を設けた。
- 松倉曲輪
- 二ノ丸屋敷や新宅で消費される米蔵が建っていた一画。
三の丸
- 柳曲輪
- 現在のやまと郡山城ホールのある一帯で、五軒屋敷掘の東岸と五軒屋敷を含む。4軒の家老屋敷と1軒の評定所が占めていた。またこの周辺に筒井時代の本丸があったとする説があり、1983年(昭和58年)マンション建設に伴う発掘調査が実施され、多数の注目すべき遺物が発見されたが、筒井時代の本丸があったという根拠は得られなかった。
- 麒麟曲輪
- もともとは「西ノ丸」と呼称されていたが、柳沢氏入部以降「麒麟曲輪」へ改名された。柳沢吉保が徳川綱吉から麒麟の書を与えられたことから、柳沢吉里が命名したと言われている。
発掘調査
郡山城では、城内や城下町を含め大和郡山教育委員会や橿原考古学研究所らが1979年(昭和54年)以降、40回以上の発掘調査が実施され、一定の成果を収めている。文献などの間を埋める遺物、遺構が発掘され郡山城の実像を解明されつつある。
郡山城の歴史は古く、各時代によって大きく改修が重ねられた。近年の発掘調査などから各年代毎の城史が明らかになりつつある。
雁陣之城時代
第11次、及び第13次発掘調査から雁陣之城時代の城として三の丸にある麒麟曲輪周辺に、濠で囲まれた方形館が存在していたと考えられている。また新宅曲輪(緑曲輪)では地鎮遺構が検出されているので、筒井、松永の抗争記の遺構が周辺に存在している可能性が指摘されている。
筒井時代
明確にこの時期と断言できる遺構は発掘できていないが、遺物としては、多聞山城から流用された軒平瓦や安土城と同文の軒平瓦が、復元追手東隅櫓周辺から出土した。これにより、筒井時代の城としては追手東隅櫓周辺に存在していた可能性を示している。『郡山城および地下の発掘調査について』では「筒井期の城下の拡がり自体が案外に小規模であった可能性もあるだろう」としており、筒井順慶が筒井城から郡山城へ移った時の城郭は、それほど大規模なものではなかった可能性があると記している。
豊臣時代
この時代の遺物、遺構の検出は多くみられる。追手向櫓の礎石列、麒麟曲輪や追手門の遺構もこの時代である。しかし二ノ丸時代の同時代の該当発掘例はなく、二ノ丸は豊臣時代以降に開発された可能性がある。城下でも同時代の遺構が発掘されたが、礎石建物や大規模な整地の痕は認められていないので、大規模な城下町が整然と建てられた可能性は低いと考えられている。
平成26年9月、教育委員会が天守の遺構や瓦を発掘したと発表した[9]。大小の礎石の大きさや並びから建物の加重を分散・軽減する構造であったと推測されている[10]。
増田-松平時代
両時代の在城時期は短く、同時代の明確な遺構は殆ど確認されていない。
本多時代
城郭関係では、緑櫓の検出遺構や三の丸の池状遺構がある。また城下では大規模な盛土地業や礎石建物も出現する。また同時代の武士の墓も出土しており、埋葬形態を具体的に把握した。
柳沢時代
城郭関係では、第13次調査で検出された二ノ丸屋敷の遺構がある。城下では非常に多くの調査例があり、金魚池遺構や廃棄土抗から大量の桟瓦が出土していることから、城下町の桟瓦の一般的な使用は柳沢時代以降であると考えられている。
城跡へのアクセス
注釈
- ↑ 直径15センチメートルほどの加工されていない石
脚注
- ↑ 日本桜名所情報 日本さくらの会
- ↑ 「浜松城や忍城など選定=「続100名城」-日本城郭協会」時事通信、2017年4月6日
- ↑ 『多聞院日記』
- ↑ “郡山城天守台を修復 - 築造400年、石垣崩壊の恐れ”. 奈良新聞. (2013年10月19日) . 2013閲覧.
- ↑ 1000人程度の人数では、大城郭である大和郡山城を守備することはできない。
- ↑ 大和郡山市公式HP「街角リポート」(平成26年9月29日掲載)
- ↑ 郡山城天守台展望施設 完成~3月26日(日)13時頃から一般公開開始~
- ↑ 「極楽橋」を再建 柳澤家家臣家系、夫の遺志に従う 女性3億円寄付 大和郡山 /奈良
- ↑ 郡山城、豊臣時代から威容 天守閣遺構確認、金箔瓦も初出土 奈良
- ↑ [1]
参考文献
- 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』第四巻 大阪・奈良・和歌山・三重、新人物往来社、1989年4月、110-114頁。
- 郡山城史跡・柳沢文庫保存会『郡山城と城下町-ふるさとの歴史を訪ねて-』郡山城史跡・柳沢文庫保存会、1-14頁。
- 『週刊名城ゆく-大和郡山城・多聞城・高取城-』第41号、小学館、2004年11月、6-9頁。
- 相賀徹夫編著『探訪ブックス[城5]近畿の城』小学館、1981年3月、194-206頁。
- 『日本城郭大系』第10巻 三重・奈良・和歌山、新人物往来社、1980年8月、334-339頁。
- 橿原考古学研究所、大和郡山市教育委員会『郡山城の発掘調査-1989年度概報-』橿原考古学研究所、1980年3月、1-11頁。
- 山川均『郡山城および地下の発掘調査について』2004年11月、1-7頁。