明石海峡大橋
明石海峡大橋 | |
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基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 淡路市 - 神戸市間 |
交差物件 | 明石海峡 |
用途 | 道路橋 |
路線名 | 国道28号(神戸淡路鳴門自動車道) |
管理者 | 本州四国連絡高速道路 |
着工 | 1986年5月 |
開通 | 1998年4月5日 |
座標 | 東経135度1分16秒北緯34.61694度 東経135.02111度 |
構造諸元 | |
形式 | 3径間2ヒンジ補剛トラス吊橋[1] |
材料 | 鋼 |
全長 | 3,911 m |
高さ | 298.3 m |
桁下高 | 65 m |
最大支間長 | 1,991 m |
地図 | |
<div style="width:構文エラー:「px」を認識できません。px; float:none; clear:both;"> 明石海峡大橋の位置 |
路線規格 | |
路線名 | 国道28号(神戸淡路鳴門自動車道) |
道路区分 | 第1種第2級 |
車線数 | 6車線(片側3車線) |
設計速度 | 100km/h |
明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)は、兵庫県神戸市垂水区東舞子町と淡路市岩屋とを結ぶ明石海峡を横断して架けられた世界最長の吊り橋。
Contents
概要
全長3,911 m、中央支間1,991 mで世界最長の吊り橋である[4][5]。1998年(平成10年)の開業以来、10年以上の長きにわたり「ギネス世界記録」に認定・掲載されている。1998年(平成10年)4月5日に供用が開始された。建設費は約5,000億円。
建設当初は全長3,910 m、中央支間1,990 mであったが、1995年(平成7年)の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)による地盤のずれが発生し、図らずも全長が1 m伸張することとなった[6][7]。
完成時に愛称を募集し、のちに「パールブリッジ」と定められたがこの名前で呼ぶ人は少なく、管理者であるJB本四高速(本州四国連絡高速道路株式会社)では使用していないが、観光協会[8][9]や本橋の写真(とくに夜景)を扱ったページなどでは「まさに愛称の「パールブリッジ」の名にふさわしく…」などと使用が見受けられる。省略して明石大橋と呼ばれることもあり、高速道路上の案内標識等でも同略称が使われていることがあるが(第二神明道路下り線等)、明石大橋は明石市の明石川を国道2号が渡る橋として本橋よりも先に存在する。
淡路島内のみならず、本州と四国を結ぶ3本の本州四国連絡橋(本四架橋)ルートの一つ「神戸淡路鳴門自動車道」として供用されており、交通量も本四架橋の橋の中では最も多く、四国と近畿、更には本州の各大都市間を結ぶ交通の要になっている。
2014年(平成26年)4月から「新たな高速道路料金」が導入されたことにより本四道路は全国路線網に編入され、垂水IC-淡路IC間の普通車の通行料金はETC車900円、現金車2,370円となった[10][11]。
設計速度は100 km/hだが、通常時の最高速度は80 km/h、最低速度は50 km/hに規制されている。
構造
- 構造形式 : 3径間2ヒンジ補剛トラス吊橋
- 着工 : 1988年(昭和63年)5月
- 閉合 : 1996年(平成8年)9月
- 供用 : 1998年(平成10年)4月5日
- 中央径間:1,991m(世界最長)
- 全長 : 3,911m
- 床板 : 鋼床板。中央分離帯部分はグレーチング床板
ケーブル諸元
吊り橋の命であるメインケーブルは片側1本で計2本、1本につき290本のストランド(正6角形に束ねられたワイヤー)で構成されている。そのストランドは127本のワイヤー(高強度亜鉛めっき鋼製)で構成され、ケーブル1本の合計で36,830本のワイヤーを使用していることになる。この橋のために、直径5.23 mmで引張り強度は1mm2あたり180 kgのワイヤーが新たに開発された。1本のケーブルの直径は112.2 cmになり、約6万トンの荷重を支える。風雨から保護し、腐食(錆び)を防止するため、表面をゴムで覆い、さらに内部に脱塩、乾燥した空気を常時送風している。ケーブル架設の第一歩であるパイロットロープ(ポリアラミド繊維製)の渡海には、世界で初めてヘリコプター(東邦航空[12])が使用された。メインケーブルを構成するワイヤー1本1本をつなぎ合わせた時の合計距離は約30万km(地球を7周半分に相当)にもおよぶ。
下部工
主塔(神戸側"2P"、淡路島側"3P"[13])の基礎は海面下50m以上の大水深であることから、瀬戸大橋架設の際技術開発した設置ケーソン基礎工法とし、潮流が速いことから、形状は円形とした。2Pの建設位置は岩盤が水面下90m以上の位置にしかないため、その上にある砂礫層の明石層上に基礎を置いている。基礎周りの洗掘(潮流が基礎に当たって発生する渦が海底をえぐる現象)対策として、基礎周囲に約1トン分の小石をネット製の袋に詰めた「フィルターユニット」と呼ばれるものと、1トン以上の石を10mの厚さで敷き詰めている。
アンカレイジ(神戸側"1A"、淡路島側"4A"[14])の基礎は、1Aが直径85m・深さ63.5mの地下連続壁工、4Aが直接基礎である。
当初の道路・鉄道併用橋の計画では、アンカレイジを海中に置かなければならなかったため神戸側の地盤条件の悪さが問題だった(アンカレイジは橋脚に比べて強固な地盤上に建設する必要がある。)。
主塔
橋を吊るワイヤーを支える主塔は2基で、高さは海面上298.3 mあり、日本では東京スカイツリー(634.0 m)、東京タワー(332.6 m)、あべのハルカス(300.0 m)に次ぎ、横浜ランドマークタワー(296.3 m、海抜は300 mで同じ高さとなる)を超える高さの構造物である。主塔が高いため、地球の丸みの影響を受けて2基の主塔の先端間の距離はわずかに開いており、中央支間長(1,991 m)よりも更に93ミリメートル長くなっている[15]。
歴史
架橋の構想は第二次世界大戦前からあったが、技術的な問題および軍事上の理由(大型軍艦が明石海峡を航行できなくなるため)から具体化には至らなかった。
1970年(昭和45年)に本州四国連絡橋公団が設立され、本州と四国をつなぐ本州四国連絡橋のひとつとして、建設費に約5000億円(当時)を投じて1998年(平成10年)神戸・鳴門ルートの明石海峡に架けられた[15]。当初、中央径間長1,780 mの道路・鉄道併用橋とする計画であったが、建設費用や後述の地盤条件などの問題から1985年(昭和60年)8月27日に道路単独橋とする方針に変更され、基礎の位置および上部構造の見直しが行われ、全長3,910 m、中央支間長1,990 mとキリの良い数字の長さの吊り橋として計画された[15]。
ところが、工事期間中のケーブルを敷設した時点でもあった1995年(平成7年)1月17日に兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生し、地殻変動によって地盤が1 mずれたことにより、橋の全長が自然に1m伸びてしまった[15]。建設中の地震発生にも耐え、幸いにも工事継続に何も問題はなかったため、そのまま橋の工事は進められ、当初計画よりも1 m長い橋が完成している[15]。着工から竣工に至るまでの施工における事故死者はいなかった。
年表
- 1945年(昭和20年)12月9日 - 播淡聯絡汽船せきれい丸が明石海峡で沈没し、死者304名の惨事となった(せきれい丸沈没事故)。これ以降、地元で架橋運動が盛り上がった。
- 1955年(昭和30年)4月 - 国鉄が本四淡路(Aルート)の調査を開始する。
- 1955年(昭和30年)5月11日 - 瀬戸内海を航行する宇高連絡船の紫雲丸が沈没し、修学旅行中の児童など死者168名の惨事となった(紫雲丸事故)。この事故により本州四国連絡橋建設の機運を一気に高めた。
- 1959年(昭和34年)4月 - 建設省が道路部分の調査を開始する。
- 1969年(昭和44年)5月 - 新全国総合開発計画が策定される。
- 1970年(昭和45年)7月 - 本州四国連絡橋公団が設立される。
- 1973年(昭和48年)10月 - 工事実施計画が認可される。
- 1985年(昭和60年)8月 - 国土庁長官、運輸大臣、建設大臣により、明石海峡大橋を道路単独橋とする方針が合意される。
- 1985年(昭和60年)12月 - 明石海峡大橋の事業化が決定する。
- 1986年(昭和61年)4月26日 - 起工式が行われる。
- 1988年(昭和63年)5月 - 現地工事に着手する。
- 1989年(平成元年)3月 - 2P鋼ケーソンを設置する。
- 1989年(平成元年)6月 - 3Pケーソンを設置する。
- 1990年(平成2年)1月 - 4A基礎工を開始する。
- 1990年(平成2年)3月 - 1A基礎工を開始する。
- 1992年(平成4年)4月 - 2P主塔の架設を開始する。
- 1992年(平成4年)6月 - 3P主塔の架設を開始する。
- 1992年(平成4年)9月 - 1A基礎工が完了する。
- 1992年(平成4年)12月 - 4A基礎工が完了する。
- 1993年(平成5年)1月 - 2P主塔の架設が完了する。
- 1993年(平成5年)4月 - 3P主塔の架設が完了する。
- 1993年(平成5年)11月 - パイロットロープを渡海。
- 1994年(平成6年)6月 - ストランド架設を開始する。
- 1994年(平成6年)11月 - ストランド架設が完了する。
- 1995年(平成7年)1月17日 - 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生し、全長が約1 m伸びる。
- 1995年(平成7年)6月 - 補剛桁の架設を開始する。
- 1996年(平成8年)9月 - 補剛桁が閉合される。
- 1998年(平成10年)4月5日 - 供用を開始する。
- 2009年(平成21年)7月5日 - 通行車両が1億台を突破した[16]。
阪神・淡路大震災の影響
メインケーブルストランドの張り渡しが終わった段階だった1995年(平成7年)1月17日、橋のほぼ直下で兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生した。この地震による橋梁構造物の損傷はなかったが、地盤が変位したことで中央径間が約0.8 m、淡路島側の側径間が0.3 mそれぞれ拡がった。このほか、神戸側橋台が0.13 m上方へ、神戸側橋脚が0.09 m上方へ、淡路島側橋脚が0.19 m下方へ、淡路島側橋台が0.22m上方へ移動した。
ライトアップ
明石海峡大橋のケーブルには光の三原色のイルミネーションランプが1084組取り付けられており、季節や日時に応じて彩りを変えている(照明デザイン担当は石井幹子)。ライトアップは平日が日没から23時まで、土・日・祝日が日没から24時までである。橋が日本標準時子午線近くにあることから、毎正時と毎半時にも各5分間、時報パターンの点灯を行っている。
- ライトアップの彩色[17]
- 平日:春季は緑、夏季は青、秋季は赤、冬季は黄。
- 休日:緑と青。
- 時報パターン(正時):虹色。
- 時報パターン(毎30分):誕生石をイメージした色。
- 地元や国民的行事のイベントに合わせた色でライトアップされることもある。
- 2002年(平成14年) FIFAワールドカップ開催を記念して青色(日本代表チーム勝利時には上部赤色、下部白色)。
- 2003年(平成15年) 阪神タイガースのリーグ優勝を記念して縞模様。また、2005年(平成17年)のリーグ優勝では、縞模様に加えて毎30分に上部赤色、下部白色のパターン。
- 阪神・淡路大震災発生日の1月17日は、鎮魂の願いを込めた白一色となる(時報はなし)。
付帯施設
神戸側の橋桁内に舞子海上プロムナードという遊歩道、展望台が設けられている。橋台(アンカーレイジ)内のエレベータで上り海面からの高さ47mへ上がり、そこから海側約150mまで行ける。途中、床が透明になっている部分もあり、直接海面を望める。
同じく神戸側の陸上に橋の科学館が開設されており、明石海峡大橋を中心に橋についての技術的、歴史的展示を行なっている。頭上には風洞実験に用いた1/100サイズの模型も展示されている。また、土産として、ケーブルの素線の実物サンプルが販売されている。また、一般では通常入れない管理通路や主塔の頂上に登る、ブリッジワールドという行事も予約制(期間・人数限定)で行なわれている。
架橋の影響
明石海峡大橋開通で、本州・淡路または本州・四国間が陸続きになったことで、様々な利点が生じた。
たとえば、朝に採れた徳島県産の農水産物を「安定的」に関西方面へ出荷できるようになった(特に、徳島県の地鶏である阿波尾鶏の出荷量は、開通以前よりも倍増している)。徳島県を始め、四国産の農水産物は関西の市場で大きなシェアを占めるようになった。
ライフラインの面では、明石海峡大橋の桁の内部には大口径の水道管、高圧送電線、大容量の通信用ケーブルなどが収納されている。これまで、淡路島は慢性的な水不足に悩まされていたが、水道管が設けられ水の安定供給が実現した。
交通への影響
明石海峡大橋開通を機に本州から四国への移動の流れは、これまでの和歌山県経由主体から兵庫県経由主体に一気にシフトした。
- 航路
航路では、かつて、本州 - 四国間の流動[18]は、一部には兵庫県側からの航路もあったものの、兵庫県側からの四国直行の航路が少なかったこともあり、基本的には一旦和歌山県を経由してからフェリーで四国に出向くのが定番のルートであった。神戸港 - 高松東港間には4社[19]・6隻のフェリーが就航していたが、撤退により、加藤汽船の2隻(りつりん2、こんぴら2)が就航するのみになった。その加藤汽船も撤退し、第三セクターのジャンボフェリーが引継ぎ運航しているが、低料金で対抗するなど、苦戦を強いられている状況となっている。
南海電気鉄道グループの航路(南海フェリー、南海淡路ライン)は、上記で触れたように明石海峡大橋の開通によって本州と四国との間を移動する乗客の流れが和歌山県経由主体から兵庫県経由主体にシフトとなった影響を大きく受けており、泉佐野港(当初は深日港)と淡路島津名港(当初は炬口港)を結んでいた南海淡路ライン(旧大阪湾フェリー)は、乗客減少と燃料高騰の影響から、2007年(平成19年)1月に休止へと追い込まれている。また和歌山港 - 徳島港(当初は小松島港)の南海フェリーも苦戦を強いられ、高速艇は2002年(平成14年)に廃止され、残ったカーフェリーも減便傾向にある。また神戸・阪神地区発着の淡路島方面へのフェリー(大橋開通日をもって廃止となった淡路フェリーボート:須磨、ハーバーランド - 大磯、半年後に廃止となった甲子園フェリー:西宮 - 津名など)も断続的に廃止され、ETC大幅割引の影響もあり2010年(平成22年)11月15日で明石港 - 岩屋間の航路の明石淡路フェリー(愛称「たこフェリー」)が運航休止。これでフェリー航路は全てなくなり、現在では明石港 - 岩屋間の航路の淡路ジェノバライン(小型高速艇、人と自転車のみ乗船可)が残っているものの、同船舶に載せることができず橋を通行することもできない125cc以下のバイク等が海峡を横断できない状況となっており、対策が検討されていたが、2015年9月23日からバイク(125cc以下)用の航送が開始された。
- 自動車・高速バス
明石海峡大橋開通により自動車道で直接的に神戸 - 淡路 - 鳴門が結ばれたため、本州 - 淡路・四国間を移動する流れが大幅に変わった。 特に北日本や東日本からの移動の場合、一度南へ出向く必要のある和歌山県経由に対して距離および所要時間がいずれも短い上、明石海峡大橋の神戸側に到達するまでの道路も充実したこと、和歌山県経由とは異なり、兵庫県経由では途中に大都市でしかも観光地でもある神戸市内にも立ち寄れること[20]、自動車道での大橋上にバス停留所(舞子バスストップ)も設置されたことから、兵庫県側からの移動環境が劇的に改善され、京阪神と淡路島・四国を結ぶ高速バスが次々と開設されている。高速バスは、瀬戸大橋とは異なり、並行する鉄道路線がないため[21]、現在に至るまで増便が繰り返されている。時間面・運賃面双方で圧倒的優位に立つ高速バスが徳島・高松対阪神では主体となっているのみならず、遠く離れた松山・高知方面に関しても利用客を確実に増やしており、こちらも増便傾向にある。 京都・大阪・神戸都心からの利用客も多いが、淡路島方面の利用客を中心に、高速バスでの利用客も非常に多い。
なお、大橋を経由する高速バス事業者のうち、本四海峡バスや、高松エクスプレス(フットバス)は、船舶失業者対策の側面をもって新たに設立されたバス会社である。
- その他
鉄道では、本州側の淡路・四国への入口(舞子)までの鉄道の路線や列車本数も多く、しかも大橋直下には鉄道駅(舞子駅および舞子公園駅)が設置された。
四国新幹線
概要の項で述べたとおり、社会経済情勢、国鉄の財政事情への配慮等を勘案し[22] 、当初の道路・鉄道併用橋から道路単独橋に設計変更して建設された。そのため、児島・坂出ルートの瀬戸大橋や神戸・鳴門ルートのもう一方の橋である大鳴門橋と異なり、明石海峡大橋に鉄道を通すことは不可能である。
そもそも、「神戸・鳴門ルートの調査の出足はよかったが、明石海峡大橋の架橋の困難さは他の架橋に比べて格段の差があった。」「これは当面、早期に完成すべき道路鉄道併用ルートを選ぶとすれば、児島・坂出ルートなりと受け止めてもよい。」[23]とされるように技術的理由から鉄道併用橋としては児島-坂出ルートが先行していた。 高橋国一郎(元・建設事務次官)は「一ルートに絞るならば一番経済性の高い明石~鳴門ルートにすべきですが、これは今でこそいいますが、あの当時はまだ明石海峡に橋をかけることは技術的に困難だったのです。真ん中の児島~坂出ルートならできますし、もう一つは鉄道が非常に強く希望していましたからね。鉄道をのせるのにはやはり真ん中のルートしかなかったのです。」[24]と述べている。
1978年(昭和53年)3月9日に建設・運輸・国土3庁は、大鳴門橋の道路単独橋への変更を固め、4月に鉄道建設審議会にて削除することとした。[25]「国鉄財政が悪化しているのに、開通の見込みの立たない鉄道を併設するのはおかしい」との異論が以前から政府部内にあったものである。[26]
住田正二運輸省鉄道管理局長(当時)は「新幹線の併用橋を造るには、全部の新幹線計画が決まらなければならない。大鳴門橋はともかく世界最長のつり橋になる明石海峡大橋に新幹線を乗せることは、騒音対策も含め、技術的に極めて困難だ。それに新幹線はいつできるかわからない。21世紀までむずかしいという見方もある。併用橋にすると赤字の国鉄が約4割の費用を負担し、利子だけでも大変。21世紀まで通らないなら、そのときに別にトンネルを掘った方が安くつく」と説明している。[27]
このように神戸―鳴門ルートへの鉄道敷設については非常に厳しい見方のなか、大鳴門橋は「鉄道を載せるために将来でもできる仕事は、今回は極力やるまい、鉄道を載せるための手当ては最小限のことしかやっておくまい」[28]ということで単線載荷での鉄道工事がなされることとなった。
しかし、明石海峡大橋については、「その後の社会経済情勢、国鉄の財政事情等を勘案し、国土、運輸、建設三省庁で協議のうえ、昭和56年6月建設省から道路単独架橋の可能性等についても所要の調査検討を行うよう指示された。」[29]
これを受け、「昭和60年4月に調査結果の報告がなされた。この報告をもとに、60年8月、国土庁長官、建設大臣、運輸大臣の3大臣により道路単独橋として整備する方針が合意された。」[30]10月には国鉄の分割、民営化方針が閣議決定されている。
大鳴門橋は最低限の鉄道設備を備えて1985年(昭和60年)6月に供用開始したが、そのわずか2箇月後に明石海峡大橋を利用した神戸―鳴門ルートへの鉄道敷設は行わないことが決定されたことになる。
なお、井上孝(元建設事務次官・国土庁長官)は「明石海峡をやめたのは、やはりあれだけの長大吊り橋になると、たわみが大きくて吊り橋のジョイントというのか、あそこで非常に危険があるというようなのが最後の決め手になったみたいでやめましたけれども」[31]と述べており、技術的困難性が明石海峡大橋への鉄道敷設断念の最後の決め手であったと指摘している。
また、山根孟(元・本州四国連絡橋公団総裁)は、「トンネルにする案では、水深100mの明石海峡の下をトンネルで通っても、明石海峡大橋に乗せても、鉄道の規格にもよりますが、 神戸の駅に取り付かないのですね。」と明石海峡をトンネルによって鉄道敷設することの困難性を述べるとともに、「明石はもう現にやめてしまったわけだ、当分はね。ただ、夢は消さないけれども、多分できないでしょうね。」「備讃線でもう十分行けると思うのですよ」と見通しを述べている。[32]
展望
脚注
- ↑ “JB本四高速・技術情報・明石海峡大橋”. 本州四国連絡高速道路株式会社. . 2010閲覧.
- ↑ “淡路島観光大全”. 財団法人淡路島くにうみ協会. 2011年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2010閲覧. “「パールブリッジ」と命名されたその理由の1つに淡路地域における真珠核生産高が日本一であり、各地で知られていることから付けられた”
- ↑ マーカス・ビニー 『巨大建築の美と技術の粋 世界の橋』 河出書房新社、2017年。ISBN 978-4-309-27838-4。
- ↑ 浅井建爾 2001, pp. 226-227.
- ↑ 佐藤健太郎 2014.
- ↑ JB本四高速: - 本州四国連絡高速道路株式会社 - HP内:明石海峡大橋ブリッジワールド:世界最長の吊橋を体験しよう!
- ↑ 佐藤健太郎 2014, p. 146.
- ↑ 神戸夜景:神戸公式観光サイト FeelKOBE - Official KOBE Tourism Website -
- ↑ 淡路市観光、イベント情報サイト:淡路ドットコム
- ↑ 報道発表資料:新たな高速道路料金について - 国土交通省
- ↑ 「平成26年4月からの新たな本四高速料金」について - JB本四高速
- ↑ http://www.tohoair.co.jp/service/transfer.html
- ↑ Pはピアー、橋脚の意。
- ↑ Aはアンカレイジ、橋台の意。
- ↑ 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 ロム・インターナショナル(編) 2005, pp. 99-101.
- ↑ 明石海峡大橋ご利用1億台突破記念イベント開催のお知らせ 本州四国連絡高速道路株式会社 2014年7月22日閲覧。
- ↑ ライトアップパターン - 本州四国連絡高速道路
- ↑ 特に大阪府以東における本四間の直接の移動の場合
- ↑ 加藤汽船、関西汽船と四国フェリー、日本海運
- ↑ 兵庫県経由の場合は、その他にも阪神間の主要都市にも立ち寄れる利点もある。一方で和歌山県経由の場合では、阪神間とは異なり、阪和間での主要な都市が堺市程度しかない。
- ↑ 特に徳島 - 京阪神間については、鉄道利用だと大回りになる上、徳島 - 岡山間を直通する特急列車は少なく、2回乗り換えが必要なケースが多く、時間もかかる。また、高松・松山・高知 - 京阪神間も岡山駅での乗り換えが不可避で、その上、宇野線が単線のため増発ができず、混雑が激しくなっている。
- ↑ 「道路」1985年6月号「最盛期を迎えた本州四国連絡橋」花市 頴悟(本州四国連絡橋公団企画開発部長)
- ↑ 「道路」1985年6月号「大鳴門橋の開通にあたって思う」村上栄一
- ↑ 土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて
- ↑ 昭和54年版「交通年鑑」
- ↑ 1978年(昭和53年)3月10日付 ⽇本経済新聞
- ↑ 1978年(昭和53年)6月5日付毎日新聞
- ↑ 「道路」1985年(昭和60年)6月号対談「大鳴門橋の建設を振り返って」における松崎彬麿の発言
- ↑ 「道路」1985年6月号「最盛期を迎えた本州四国連絡橋」花市 頴悟(本州四国連絡橋公団企画開発部長)
- ↑ 「道路」1986年4月号「大規模プロジェクトの新たな展開」溝口忠(建設省道路局有料道路課建設専門官)
- ↑ 土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて
- ↑ 土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて
参考文献
- NHKテクノパワープロジェクト著、『巨大建設の世界2 長大橋への挑戦 NHKスペシャル-テクノパワー』(日本放送出版協会、1993年、ISBN 4-14-080110-7
- 浅井建爾 『道と路がわかる辞典』 日本実業出版社、2001-11-10、初版。ISBN 4-534-03315-X。
- 河口栄二著、『瀬戸大橋をかけた男』(三省堂、1988年、ISBN 4-385-35326-3)
- 佐藤健太郎 『ふしぎな国道』 講談社〈講談社現代新書〉、2014年。ISBN 978-4-06-288282-8。
- 藤川寛之著、財団法人交通研究協会発行『本州四国連絡橋のはなし-長大橋を架ける-』(成山堂書店、2002年、ISBN 4-425-76111-1)
- ロム・インターナショナル(編) 『道路地図 びっくり!博学知識』 河出書房新社〈KAWADE夢文庫〉、2005-02-01。ISBN 4-309-49566-4。
関連項目
- 国道28号
- 明石海峡
- 淡路島
- 鳴門海峡・大鳴門橋
- 四国新幹線 - 道路・鉄道併用橋として通す予定になっていた。
- 原健三郎 - 淡路島出身の政治家。明石海峡大橋の実現に尽力した。
- ストロー効果
- 舞子タワー
- 橋の一覧 (長さ順)