宇高連絡船
宇高連絡船(うこうれんらくせん)は、かつて岡山県玉野市の宇野駅と香川県高松市の高松駅との間で運航されていた日本国有鉄道(国鉄)・四国旅客鉄道(JR四国)の航路(鉄道連絡船)である。実際の距離は11.3海里(21.0 km)だが、営業キロ上の距離は18.0 km(擬制キロ)であった。
概要
1903年(明治36年)3月18日に山陽鉄道傘下の山陽汽船商社が開設した、岡山港 - 高松港間および多尾連絡船(多度津港 - 尾道港間)を前身とする。元々は玉藻丸は岡山港-高松港間に、児島丸は多尾連絡船に就航していた。岡山港 - 高松港間航路は、浅喫水船で岡山を出て途中三蟠港で玉藻丸に乗り換え。利用客が低迷したために、同年8月に九蟠、9月に土庄(小豆島)も経由する様に改められた。また、多尾連絡船は当初は直通だったが、1906年(明治39年)6月に鞆港を経由する様になった。両航路とも、1906年(明治39年)の鉄道国有化で国鉄の航路になり、宇高連絡船就航前日まで就航した。
山陽本線を建設した山陽鉄道は、予讃線、土讃線の一部を建設した讃岐鉄道を1904年(明治37年)に買収した時点で宇野 - 高松間航路の計画を立てていたが、実現したのは同社が鉄道国有法に基づき国有化された後のことだった。
1910年(明治43年)6月12日に宇野線が開通。これまでの山陽汽船商社が開設した、多尾連絡船(尾道 - 多度津間)及び、岡山 - 高松間航路を統合し、宇野 - 高松間の航路が開設された。船舶は、2航路で使われていた船舶2隻(玉藻丸・児島丸)を転用した。
以後、本州と四国を結ぶ幹線交通路として重用されてきた。1972年(昭和47年)11月8日からは急行便としてホーバークラフトが運航され、さらに1985年末からは、多客期などの臨時急行便として高速艇も運航された。
1988年(昭和63年)4月10日、本四備讃線(瀬戸大橋線)が開業したことから、前日限りで連絡船とホーバークラフトは廃止され、宇野周辺の利用者のために残された高速艇の運航も1990年(平成2年)3月に休止、翌1991年(平成3年)3月に廃止となった[1]。
なお、瀬戸大橋の通行料が高額であったことなど事情から、宇高連絡船と並行して運航していた民間航路(四国フェリー・宇高国道フェリー・本四フェリー[2])宇高航路は、瀬戸大橋開業後も運航を続け、21世紀初頭でもトラックドライバーの利用が多かった[3]。しかし、明石海峡大橋の供用開始、本四高速などの通行料金値下げ、燃油価格高騰などが原因で利用者が減少、徐々に減便を余儀なくされる。
2009年(平成21年)4月1日に本四フェリーが撤退[4]。2010年(平成22年)2月12日には、国道フェリーと四国フェリーが宇高航路の同年3月26日限りでの廃止を申請したが[5]、国道フェリーは同年3月4日に、四国フェリーは同年3月11日に廃止申請を取り下げ、当面の運航継続を決めた。なお、国道フェリーは2012年(平成24年)10月17日をもって休止され、同年10月18日以降の宇高航路は四国フェリー1社による運航となっている。
強風などで本四備讃線の瀬戸大橋橋上区間(児島駅 - 宇多津駅)に通行規制がかかった場合は、これらのフェリーによる代行輸送契約が結ばれている。
沿革
- 1903年(明治36年)3月18日:前身となる山陽汽船商社の岡山港 - 高松港間および多尾連絡船(多度津港 - 尾道港間)就航。
- 1906年(明治39年)12月1日:鉄道国有法に伴い、山陽汽船商社の航路が国有化。
- 1910年(明治43年)6月12日:官設鉄道宇野線 岡山 - 宇野間が開通し、岡山港 - 高松港間と多尾連絡船の両航路を統合し、宇野 - 高松間の航路を開設。玉藻丸・児嶋丸就航。前日に岡山港 - 高松港間および多尾連絡船廃止。
- 1917年(大正6年)5月15日:水島丸就航。常時2船運航となる。
- 1921年(大正10年)10月10日:貨車渡艀曳航による貨車航送を開始。
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)3月1日:玉藻丸・児嶋丸を瀬戸内連絡急行汽船会社に売却。
- 1929年(昭和4年)11月23日:第一宇高丸就航。陸上設備の完成まで貨車渡艀曳航による貨車航送を続ける。
- 1930年(昭和5年)4月1日:陸上設備の完成により第一宇高丸、貨車航送を開始。
- 1934年(昭和9年)7月12日:第二宇高丸就航。
- 1937年(昭和12年)8月12日:第一宇高丸、聖川丸(川崎丸株式会社所属)と衝突し、沈没。
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年)
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 1950年(昭和25年)
- 1955年(昭和30年)5月11日:紫雲丸が第三宇高丸と衝突して沈没し168人が死亡する事故が発生(紫雲丸事故・国鉄戦後五大事故の一つ)。
- 1972年(昭和47年)11月8日:ホーバークラフト就航[6]。
- 1985年(昭和60年)12月:多客期やホーバー艇のドック入り時の臨時便として、高速艇が就航。
- 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化に伴い、四国旅客鉄道(JR四国)に移管。
- 1988年(昭和63年)4月10日:本四備讃線(瀬戸大橋線)開業に伴い、前日(4月9日)の運航を最後に連絡船・ホーバークラフトが廃止[1]。高速艇は存続。
- 1990年(平成2年)3月31日:旅客減に伴い、この日限りで高速艇の運航を休止[1]。
- 1991年(平成3年)3月16日:高速艇廃止。名実ともに81年の航路の歴史に幕を閉じる。
- 2010年(平成22年)6月12日:宇高航路100周年を記念し、JR四国の主催で「宇高連絡船メモリアルクルーズ」を開催。
紫雲丸の沈没事故
1955年(昭和30年)5月11日、濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸が衝突して前者が沈没し168人が死亡する「紫雲丸事故」が発生した。この事故を契機として、本四架橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化していった。また、この事故をきっかけに乗客が乗った客車の航送は中止。事故を受けた組織見直しで国鉄四国支社(のち四国総局)に宇高船舶管理部を設置。
この事故は修学旅行の学生・児童を中心に死者が多数出たため、四国内の人々は大きな衝撃を受けた。以降数年間(中には瀬戸大橋開通前年まで)、香川県内の学校の修学旅行の目的地は、宇高航路を利用しない四国内に変更されたほどである。この惨事は、瀬戸大橋・児島(岡山県) - 坂出(香川県)ルート実現の大きな原動力となった。
駅一覧
所在地・接続路線は廃止当時のもの。
駅名 | 営業キロ | 接続路線 | 所在地 |
---|---|---|---|
宇野駅 | 0.0 | 西日本旅客鉄道:宇野線 | 岡山県玉野市 |
高松駅 | 18.0 | 四国旅客鉄道:予讃線・高徳線 | 香川県高松市 |
就航船
高松港旅客ターミナルビル3Fには現役当時の写真やパネル、備品、連絡船の模型等が展示された「宇高連絡船記念展示場」がある。
- 客船
- 玉藻丸・児島丸・水島丸・南海丸・山陽丸
- 鉄道航送船(貨物船)
- 第一宇高丸・第二宇高丸・第三宇高丸・第一関門丸・第二関門丸・第三関門丸・第四関門丸・第五関門丸・第一讃岐丸
- 鉄道航送船(客貨船)
- 紫雲丸(瀬戸丸)・鷲羽丸・眉山丸・讃岐丸(後の第一讃岐丸)
- 伊予丸・土佐丸・阿波丸・讃岐丸(2代目)
- ホバークラフト
- かもめ・はくちょう・とびうお
- 急行料金を支払うことで利用できたホーバークラフトは、通常の連絡船が所要1時間かかるところを僅か23分で結び、「海の新幹線」のキャッチフレーズでビジネス客などに人気があった。予定していた連絡船に乗り遅れてしまった場合、ホーバーを使うことで、乗船予定のさらに1便前に出航した連絡船さえも追い越し、宇野ないしは高松に先着できる事もあった。そのため、四国側から岡山駅乗換えで山陽新幹線に乗車しなければならない乗客が連絡船に乗り遅れた時など、ホーバーは特に重宝されていた。なお、ペットなどの有料手回り品の持ち込みはできなかった。
- 高速艇
- ひかり2号(四国フェリー、1985年12月28日 - 1986年1月7日)・プリンセスオリーブ(両備運輸、1986年3月1日 - 14日、7月1日 - 7日)・しおかぜ(共同汽船、1986年7月8日 - )
ギャラリー
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伊予丸
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土佐丸
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阿波丸
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讃岐丸(2代目)
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ホーバークラフト とびうお
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高速艇 しおかぜ
逸話
連絡船の最盛期、着岸港である宇野駅と高松駅では、連絡船接続列車の座席を確保するために、船から降りた多くの乗客が列車まで凄まじいスタートダッシュをかけることが有名だった。将棋倒しになったり海に飛び出したりして死んだり重傷を負った者もいたほどで、半ば「命がけの競争」であった(同じ現象は南海フェリーと接続する徳島県・旧小松島港駅でも見られた)。これは笑いの文化人講座でもネタにされている。
宇高連絡船の追憶として、連絡船デッキで販売されていた讃岐うどんがしばしば挙げられる。とりわけ、四国へ向かう連絡船上で供されるうどんは、船上で生麺から茹でず、茹で上げ済みの麺を搭載していた(もっとも、伊予丸型客貨船の船上うどん店は「手打ちうどん」を標榜しており、うどん手打ちの実演も行っていた[7])ため、時間経過の為ややコシが失われた麺にイリコかサバぶしの類による庶民的なだし汁が相まって、上等とは言い難いが、香川県民をはじめとする四国の人々に帰郷を実感させる味であった。そのため、帰省シーズンには展望デッキの上で潮風にふかれながらこれを食する人が大勢いた[8]。なお、讃岐うどんの販売が始まったのは1969年で、約80年の連絡船の歴史の中では最後の約20年間だけの営業であった[9]。高松駅構内には当時の連絡船のうどんを参考に味の再現を図った「連絡船うどん」の店があるが、麺はJR四国グループの製麺/うどん店「めりけんや」製である。連絡船に麺を納入していた製麺所は別に現存するが、そちらの麺は用いていない。高松駅名物として定着しており、旅行客や地元客からの人気は今も高い。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 “JR7社14年のあゆみ”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 9. (2001年4月2日)
- ↑ 津国汽船。もとは日本通運が「日通フェリー」として開設し、津国汽船が委託を受ける形で運航。1984年に津国汽船の自社航路となり本四フェリーとして運航
- ↑ 瀬戸大橋利用よりコスト(利用料金)が安く、乗船中は燃料を節約できることに加えて長距離ドライバーは休息を摂ることができた。
- ↑ 末期は四国フェリーの船を使用して共同運航の形としていた。
- ↑ 宇高航路来月で廃止/フェリー2社撤退 - 四国新聞2010年2月13日 なお、直島を経由して高松と宇野を結ぶ航路(四国汽船)については同日現在で廃止表明されていない。
- ↑ 『鉄道ジャーナル』第21巻第6号、鉄道ジャーナル社、1987年5月、 57頁。
- ↑ 『鉄道ジャーナル』1988年5月号(No.259) p.31
- ↑ 讃岐うどんの冷凍技術が確立され、冷凍うどんが普及すると、瀬戸内海航路でもジャンボフェリーなど冷凍うどんを使用する売店・食堂等がみられる。
- ↑ うどん天国 空前ブームの深層(3)四国新聞2003年12月4日
参考文献
- 萩原幹生 『宇高連絡船78年の歩み』 成山堂書店、2000年。ISBN 4-425-92331-6。
- 長船友則 『山陽鉄道物語 先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡』 JTBパブリッシング〈JTBキャンブックス〉、2008年。ISBN 978-4-533-07028-0。
- 鉄道アーカイブシリーズ『宇高連絡船 〜昭和63年・宇高航路最後の日の記録〜』(ビコム、2004年5月)
関連項目
外部リンク