国共内戦
国共内戦 | |
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戦争: 国共内戦 | |
年月日: 第一次:1927年8月1日 - 1937年1月6日 | |
場所: 中国 | |
結果: | |
交戦勢力 | |
1927–1949年 中華民国 |
1927–1949年 ファイル:Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg 共産党 |
戦力 | |
4,300,000(1946年6月)[3][4] 3,650,000(1948年6月) |
1,200,000(1945年7月)[4] 2,800,000(1948年6月) |
損害 | |
最大150万(1945–1949年)[5] | 最大25万(1945–1949年)[5] |
国共内戦(こっきょうないせん、中: 国共内战/國共內戰)は、当時複数存在した中華民国政府を自称する組織のうち、蒋介石率いる国民革命軍と共産党率いる中国工農紅軍との間で行われた内戦である。第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦(1927年 - 1937年)と、第二次国共合作の破綻によって生じた第二次国共内戦(1945年 - )とに大別される[6]。
内戦までの経緯
五・四運動の影響
1915年、第一次世界大戦中の大日本帝国が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「抗日愛国運動」の五・四運動が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[7]。陳独秀や毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この抗日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[8]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェヴィキをモデルとした[8]。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[8]。
第一次国共合作
結成当初の中国国民党と中国共産党は、国民革命に向けて共同歩調をとっていた。両者は軍閥および北京政府に対抗する共同戦線を模索していた。1922年のコミンテルン極東民族大会における「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、国民党はソ連との連帯を鮮明にした[9]。この宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。しかし、聯蘇容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥系の党員らの反発も強く、孫文の死後、国民党は反共主義方針をとるようになる。他方、1923年6月の中国共産党も、第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン(本名ヘンドリクス・スネーフリート)指導で、国共合作が方針となった[9]。
なお、国民党はコミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンを1923年に迎え、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。またその前年の1922年には日本陸軍広東駐在武官佐々木到一を孫文の軍事顧問としている。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。
1924年にコミンテルンの仲介で第一次国共合作を行う。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。
1925年孫文が死去。孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲愷は暗殺され[10]、蒋介石と汪兆銘とは対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。
蒋介石の上海クーデターと国共合作の崩壊
1926年に中山艦事件で蒋介石が共産党員を拘束するなどの軋轢があったが、その後国民革命軍総司令官になって実権を握った蒋介石が同年北伐を開始。しかし、国共合作下で行われていた北伐の途上において、国民党右派の蒋介石が1927年南京に国民政府を成立させ、同年4月12日、上海クーデターを決行する。これにより、国民党左派も共産党との連携を解消(武漢分共)し、国共合作は崩壊し、国民党と共産党は対立関係に入った。
黄文雄によると、蒋介石は第一次国共合作の頃は「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、支那事変勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した[11]。またスターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していた[12]と言われ、中華民国を赤化させるつもりであったともいわれる。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。
第一次国共内戦
中国共産党の武装蜂起の開始
1927年7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し国共合作の終了を宣言した。共産党は武力闘争を開始し、同年8月1日の南昌蜂起を皮切りに各地で武装蜂起を繰り返すが、国民党軍によって鎮圧された。この時期の共産党が引き起こした武装闘争は、内戦と呼べるほどの規模の戦闘ではなく、局所的であり散発的であった。
中華民国の国民政府主席に就任後、蒋介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。1928年にはドイツ軍のマックス・バウアー大佐を招聘し、軍事顧問団を形成し、ドイツからの最新兵器を輸入する(中独合作を参照)。また国民党の北伐は継続され、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。
他方、ソビエト連邦の支援の下、毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立する。
掃共戦と中独合作
蒋は1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開する。1931年5月、第二次掃共戦。同7月、第三次掃共戦。このときに軍事顧問団団長のゲオルク・ヴェッツェルが作戦助言をしている。9月に満州事変が勃発。日本の関東軍が満州地域一帯を掌握する。翌年1月より2月にかけて、第一次上海事変が起き、3月1日に満州国が建国される。これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論が高まったが、蒋は抗日より中国共産党の掃討が大事として[11]掃討作戦を優先し、強化した。つまり蒋介石は日本に対しては宥和的な姿勢で臨みつつ、共産党に対して激しい攻撃を加えた。
日本軍の動きによって、第四次掃共戦は同年5月へと延期され、すでに6月には15万の兵力で共産党中央部を包囲した。しかし共産党は遊撃戦を展開、1933年4月には蒋介石は撤退する。5月には、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェルの招きで上海に赴き、経済・軍事に関して蒋介石の上級顧問となった。ゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蒋介石に進言し[13] 、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵がい心を養うことだ」とも提案した。これをうけて蒋介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになるが、しかし、蒋介石は対日戦よりも対共戦を優先させる。
1933年夏、ドイツ軍事顧問団も作戦に参加し、包囲網とトーチカ建造とを組み合わせた戦術を練る。10月16日、第五次掃共戦が開始。蒋介石は80万の兵力を投入し、またトーチカは3000個も築造された。
1934年1月22日、共産党は会議において、毛沢東の指導者辞任と張聞天の就任を決定。毛沢東の遊撃戦に代わって、ドイツ出身のソ連軍人で、コミンテルンからの指示で三年にわたって共産党を指揮していたオットー・ブラウンの提唱する陣地戦へと切り替えた。これは共産党軍も攻撃拠点にトーチカを設け、敵をトーチカから誘い出し、突撃する作戦で、短促突撃と名付けられた。
1934年1月には、中国内のドイツ軍事産業を統括する「Handelsgesellschaft fur industrielle Produkte」(工業製品営利会社、ハプロ)がベルリンで設立され、同年4月には、ゼークト大将はヴェッツェル中将に代わって軍事顧問団団長に就任。さらに中国軍事委員会の総顧問に就任し[14]、ドイツ製武器を装備した二十個師団の形成、教導総隊、中央士官学校、陸軍大学校、化学戦学校、憲兵訓練学校、防空学校などを南京に設立していく。また同年4月、広昌の共産党トーチカは、蒋介石によって攻略され、共産党軍は4000人の戦死者を出す。
同1934年8月23日、ハプロと中国との間で、対等条約である「中国稀少資源及びドイツ農業・工業製品交換条約」が調印され、国民政府は、ドイツ製品とその開発支援と交換に中国産の軍需資源の提供を約束した。国民政府は、中国共産党との内戦で軍事費が増大して財政赤字が膨らんでおり、外国からの借款が難しい状況だったので、この物々交換は中国とドイツの双方に利益をもたらした。
同年10月14日、共産党軍は、瑞金から脱出するが、蒋介石に追撃され、共産党は65000の兵士を失い、35000兵までに減少した。第五次掃共戦は、国民党の圧勝であった。共産党は西部奥地ソ連国境に近い延安へ逃れた(共産党の言い方では長征)。
西安事件 (1936)
蒋介石は延安への攻撃を図るが、1936年12月12日、反共より抗日を優先しようとした張学良による西安事件が起こり、国共対立は一時収拾する。共産党の翻意で張学良は蒋介石に恭順して、蒋介石と張学良が伴だって南京に戻った事で西安事件は一旦は収まった。しかし張学良が提案した内戦停止と一致抗日統一戦線結成は世論の支持を受け、蒋介石も無視できなくなった。それゆえ、翌年1937年2月に開かれた中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議では、赤化根絶決議(共産主義絶滅)と、日本との短期間での解決を同時に目指すという折衷的な内容となった。
西安事件後を契機に壊滅寸前の共産党は、コミンテルンの方針もあり国民党との合作に活路を見つけようとした。しかしながら、国民党内の共産党不信は根強く合作の交渉を捗らなかった。
日中戦争と第二次国共合作
1937年、日中戦争が勃発する。1937年7月7日北京郊外盧溝橋で日中両軍の小規模な衝突が発生した(盧溝橋事件)。共産党は発生の翌日全面交戦を呼掛けたが、現地で停戦協定が結ばれ(7月11日)戦火の拡大は防がれた。しかしながら軍事的な衝突はその後も各地で発生し、終には上海で日中両軍は航空戦を含む全面的な戦闘状態に入った(8月13日、第二次上海事変)。
日本軍との軍事的衝突の矢面に立たされた蒋介石国民政府は、ソ連との中ソ不可侵条約締結(8月21日、同29日発表)と共産党の合法化で共産主義勢力との連携で難局を打開を試み、第二次国共合作に入った(1937年-1945年)。滞っていた共産党との交渉は、中ソ不可侵条約の締結翌日に共産党軍の国民政府軍への編入となり、日中両軍が激戦中の9月22日に、共産党が国民党に出した「国難に赴く宣言」(国民党政府への忠誠宣言)と、それを受けての蒋介石談話が放送されて、ようやく対立抗争の終結が宣言され、紅軍(共産党軍)が国民革命軍第八路軍(八路軍)として形式上は国民党軍の指揮下に組み込まれた。ただし、抗日戦争中より国民党と共産党の間に衝突も起こっており、両者の共闘が必ずしも成功していたわけではない。また近年、第二次国共合作の成立は疑わしいとする説もある(国共合作を参照)。
国民政府は、米英の物資援助も入れて、精鋭部隊をつぎ込んだ全面戦争を行なった。アメリカは、蒋介石の妻の宋美齢によるフランクリン・ルーズベルト大統領への強い働きかけを受けて「義勇軍」という形を取って1941年から中華民国軍に武器や軍事顧問の派遣などの形で援助を行ったほか、同年12月の日本との開戦後には中国共産党軍にも武器などの軍事支援を行った。
1943年、蒋介石が「中国の命運」という文章を発表すると、毛沢東は「反共産主義、反自由主義」だとして批判した[15]。戦争終結直前の1945年5月には、蒋介石国民党は第六回全国大会で孫文の提唱していた革命三段階論のうち,軍政、訓政の次の段階である憲政に入ると宣言した[16]。これに対抗して共産党側は第七回党代表大会で「連合政府論」構想を打ち出し、国民党政権を糾弾した。
年表
1926年(昭和元年)
1930年(昭和5年)
- 2月 - 中国共産軍が瑞金に江西省ソビエトを樹立
- 5月 - 中原戦争
- 7月27日 - 長沙暴動。
- 8月5日 - 中国、中央軍が、紅軍から長沙を奪回。8月15日には中央軍が、閻馮軍から済南を奪回。
- 9月18日 - 張学良が、蒋介石支持の態度表明。
- 12月 - 中国、中央軍が紅軍に対し、第一次囲剿作戦。
1931年(昭和6年)
- 4月1日 - 中国、中央軍が紅軍に対し、第二次囲剿作戦。
- 5月 - 汪兆銘らが中華民国広東国民政府を樹立。
- 6月 - 中村大尉事件。
- 7月1日 - 中国、中央軍が紅軍に対し、第三次囲剿作戦。
- 7月2日 - 万宝山事件[17]。
- 7月3日 - 朝鮮排華事件
- 9月18日 - 満州事変勃発。
- 9月 - 蒋介石、広東派の汪兆銘との合体を目指すが不調に終わる。
- 11月7日 - 共産党、中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)が樹立。
- 11月8日 - 奉天特務機関が、反張学良の馮玉祥と連絡し、清朝の廃帝溥儀を脱出させ、満洲入りさせる。11月19日には日本軍が、チチハル占領。
- 11月 - 中国の学生1万人が、蒋介石の北上を促すため南京に集まる。
- 12月 - 犬養首相が、張学良に錦州からの撤兵を要請し、張学良が了承する。
1932年(昭和7年)
- 1月3日 - 中国正規軍が、満洲から一掃され、満洲事変の軍事面は終了。
- 1月28日 - 第1次上海事変勃発。
- 3月1日 - 中国軍、上海から撤退。
- 3月1日 - 満洲国が建国宣言。
- 5月5日 - 上海停戦協定。
- 5月15日 - 五・一五事件。犬養内閣が倒れる。
- 5月26日 - 斎藤内閣が成立。
- 10月 - リットン調査団が報告発表。
1933年(昭和8年)
- 1月1日 - 山海関事件。
- 2月23日 - 日本軍、熱河省侵攻。翌日の2月24日に日本は、国際連盟を脱退。
- 5月31日 - 塘沽協定締結。満州事変が停戦する。中国国民党政府は長城以南に非武装地帯を設定、満州国への通車・通郵手続きを承認、事実上満州国を黙認した 。
- 10月16日 - 中国、中央軍が紅軍に対し、第五次囲剿作戦。
1934年(昭和9年)
- 3月1日 - 溥儀が満洲国皇帝に即位(康徳帝)。
- 3月 - 西南旅行の途次、南京に立ち寄った松井石根大将と蒋介石が対共政策・北伐について会談。
- 4月28日 - 中国、政府軍が、共産軍から広昌を奪回。5月16日には建寧を、8月31日には駅前」を、10月には石城、興国を共産軍から奪回する。
- 7月8日 - 斎藤内閣が総辞職、岡田内閣が成立。
- 10月14日 - 中国共産党、長征開始。
- 12月 - 日本、ワシントン海軍軍縮条約廃棄を通告。
1935年(昭和10年)
- 1月22日 - 廣田外相が、議会にて「不侵略」を表明。
- 3月1日 - 中国、党宣伝部長が「排日行動を停止すべし」と表明。
- 5月2日 - 親日新聞社長暗殺事件。
- 6月10日 - 梅津・何応欽協定(華北分離工作の始まり[注釈 4])。
- 6月27日 - 土肥原・秦徳純協定。
- 8月1日 - 中国共産党の八・一宣言。
- 11月 - 上海、中山水兵射殺事件。
- 11月25日 - 日本、冀東防共自治政府を樹立させる。
- 12月18日 - 中国、冀察政務委員会を設置。
- 欒州事件。
1936年(昭和11年)
- 1月13日 - 日本、第一次北支処理要綱を閣議決定。
- 2月17日 - 中共軍は山西省内に侵入し国民革命軍の内、特に山西軍と交戦。
- 2月26日 - 二・二六事件。
- 3月9日 - 岡田内閣が総辞職、廣田内閣が成立する。
- 4月9日 - 張学良と周恩来が会談。
- 5月-6月 日本、支那駐屯軍を増強し、北平・天津・豊台などに配置。
- 6月7日 - 両広事変
- 7月10日 - 萱生事件。
- 8月7日 - 廣田内閣、五相会議で大陸・南方進出と対ソ英米方針[注釈 5]
- 8月11日 - 日本、第二次北支処理要綱を制定。
- 8月24日 - 成都事件(日本人4名が死傷)。
- 9月3日 - 北海事件(日本人1名が死亡)。
- 9月19日 - 漢口で、日本領事館の吉岡巡査が暗殺。
- 9月23日 - 上海日本人水兵狙撃事件(日本人4名が死傷)。
- 10月 - 中国共産党の長征終了。
- 11月 - 綏遠事件(独立を目指す内蒙古軍とそれを支援する関東軍に、国民革命軍が勝利)。
- 12月13日 - 西安事件(張学良らが蒋介石を監禁、スターリン仲介のもと反共姿勢から抗日姿勢への転換を迫られる)。
1937年(昭和12年)
- 2月2日 - 第二次西安事変
- 2月2日 - 日本、廣田内閣から、林内閣へ。
- 2月15日 - 中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議で、対日戦発動案が提議。
- 4月16日 - 日本、第三次北支処理要綱を制定。
- 4月 - 中国国民政府、税警団を青島方面に派遣。緊張が高まる。
- 5月 - 汕頭事件。
- 5月 - 蒋介石、ドイツ政府に高射砲、魚雷、機雷の提供を要請。
- 6月4日 - 日本、林内閣から第1次近衛内閣へ。
- 7月7日 - :盧溝橋事件(北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国国民党軍が衝突。支那事変の勃発)11日までの詳細な経緯は盧溝橋事件を参照
- 7月11日 - 近衛文麿内閣、関東軍・朝鮮軍・内地師団の華北派兵、および現地解決、不拡大方針を閣議決定[19]。また「北支派兵に関する政府声明」において、事件を北支事変とし華北へ出兵することが発表される。
- 同日-関東軍の独立混成第11旅団と独立混成第1旅団、朝鮮軍の第20師団に華北派遣が発令され、支那駐屯軍に編入[注釈 6]。
- 同日-現地停戦協定成立。それに伴い内地師団動員は見合わせ。
- 7月13日 - 大紅門事件(北平(北京)大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され日本兵4人死亡)。
- 7月17日 - 蒋介石、廬山において「最後の関頭」演説(日本の出方次第では徹底抗戦する意志を表明)。
- 同日 - 五相会議で現地停戦協定の交渉期限を19日までと決定。
- 7月19日 - 盧溝橋事件の停戦協定の細目が成立。
- 同日 - 蒋介石、現地停戦協定には中央政府の承認が必要(譲歩的として現時点では非承認)とし、日中両軍の同時撤退案と外交交渉を通告すると共に広く「最後の関頭」を宣言する。
- 7月20日 - 蘆溝橋城の中国軍が日本軍に対して一斉射撃。日本軍が蘆溝橋城壁に反撃をする。条件付ながら内地師団動員を閣議決定。
- 7月21日 - 参謀本部、内地師団動員を一時見合わせ。
- 7月25日 - 郎坊事件(鉄道駅で国民革命軍が日本軍を襲撃し戦闘が勃発)。
- 7月26日 - 広安門事件(中国軍の諒解を得て広安門居留民保護に駆けつけた日本軍が広安門で中国軍より銃撃を受ける)。
- 7月27日 - 内地師団動員を下令。第5師団・第6師団・第10師団を支那駐屯軍に編入。
- 7月28日 - 日本軍(支那駐屯軍)、華北で総攻撃を開始。
- 7月29日 - 通州事件(中国軍の冀東防共自治政府保安隊が日本軍特務機関・日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対して行った虐殺、強姦、放火事件)。日本国内で反中感情が高まる。
- 同日 - 日本軍(支那駐屯軍)、北平・天津地区を制圧。
- 8月9日 - 日本軍(関東軍)、察哈爾省攻略開始(チャハル作戦)。
- 同日 - 大山中尉殺害事件。
- 8月13日 - 包囲していた中国軍と国際租界の日本海軍陸戦隊の交戦が開始される(第二次上海事変)。
- 同日 - 日本海軍、渡洋爆撃命令を発令。
- 8月14日 - 中国空軍機による上海租界空爆により各国民間人に大きな被害。14日より16日にかけて、日本海軍航空隊の96式陸攻38機が、南昌・南京・広徳・抗州を台南の新竹基地と長崎大村基地からの渡洋爆撃開始[20]。14日より30日にかけて、同軍のべ147機が済州島・台北から出撃。広徳・南昌・南京などを空襲。未帰還機14機、大破13機。
- 8月15日 - 第1次近衛内閣、戦争目的として「暴支膺懲」を表明。日本陸軍、上海派遣軍編成命令。日本海軍機、南京・南昌の飛行場を渡洋爆撃[20]。
- 同日 - 中華民国は全国総動員令を発し、大本営を設置して陸海空軍総司令に蒋介石が就任、戦時体制を確立す。
- 8月20日 - 日本海軍、漢口爆撃[20]。
- 8月21日 - 中ソ不可侵条約締結(ソ連の軍事援助)。
- 8月22日 - 共産党軍の国民政府軍への編入。西北地域の紅軍を国民革命軍第8路軍に改編(八路軍)。
- 8月25日 - 中国共産党、『抗日救国十大綱領』を発表
- 8月下旬、国民政府の蒋介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦のゲーペーウー(GPU)による殺戮政治の如き」漢奸狩りを開始した[21]。
- 8月31日 - 支那駐屯軍を廃止、北支那方面軍・第1軍・第2軍編成。
- 8月末 - 上海派遣軍、上海上陸開始。
- 9月2日 - 日本、北支事変を支那事変と改称。
- 9月5日 - 日本海軍、中国大陸沿岸の封鎖を宣言。
- 9月9日 - 陽高事件(山西省の陽高で、関東軍が中国人を虐殺)。
- 9月13日 - 国民政府、日本軍の行為を国際連盟に提訴。
- 9月14日 - 日本軍(北支那方面軍)、北平・天津より南進を開始。保定攻略。
- 9月15日〜22日 - 日本海軍航空隊、広東方面攻撃[20]。22日までに中国空軍、全滅[注釈 7]。日本軍の広東空襲に際し国民政府が、赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、一週間で100人以上の「スパイ」が処刑される(漢奸狩り参照)[22] 。第二次上海事変勃発後、上海南市老西門広場では、毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた[注釈 8]。
- 9月21日 〜22日 - 日本陸軍航空部隊、太原飛行場を爆撃。 同21日には国際連盟の日中紛争諮問委員会が開催[20]。
- 9月22日 - 共産党国難に赴く宣言と蒋介石談が放送される。通称「第二次国共合作」と呼ばれる。
- 9月23日 - 日本海軍航空隊、南昌を爆撃[20]。
- 9月24日 - 日本海軍航空隊、漢口を爆撃[20]。
- 9月28日 - 国際連盟の日中紛争諮問委員会、総会で日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの合計11次に及ぶ日本軍により無差別攻撃は、同年4月26日のゲルニカ爆撃と並んで、世界航空戦史未曾有の大空襲だった[注釈 9]。
- 10月2日 - 日本軍(北支那方面軍)、太原攻略開始(山西作戦)。
- 10月5日 - 国際連盟、諮問委員会で日本の軍事行動を九カ国条約・不戦条約違反とする決議採択(翌10月6日、総会でも決議)。同日、米国のルーズベルト大統領、シカゴで侵略国を批判する「隔離」演説。
- 10月10日 - 日本軍(第1軍)、石家荘占領。
- 10月12日 - 華中の紅軍を新四軍に改編。
- 10月17日 - 日本軍(関東軍)、包頭を占領(チャハル作戦終了)。
- 11月2日 - トラウトマン駐華ドイツ大使による和平工作始まる(トラウトマン工作)。
- 11月3日~11月15日 - ブリュッセルで九カ国条約会議開催、日本を非難する宣言採択。
- 11月5日 - 日本軍(第10軍)、杭州湾に上陸。
- 11月7日 - 中支那方面軍編成。
- 11月8日 - 日本軍(北支那方面軍)、太原占領。
- 11月9日 - 蒋介石、上海から撤退命令。
- 11月12日 - 日本軍、上海を占領。
- 11月19日 - 日本軍(中支那方面軍)、蘇州攻略。
- 11月20日 - 日本、大本営設置。
- 同日 - 国民政府(蒋介石)、南京より重慶へ遷都。
- 11月22日 - 〔F〕日本、内蒙古に蒙疆連合委員会を樹立させる(後に蒙古連合自治政府)。
- 11月27日 - 日本軍(中支那方面軍)、無錫攻略。
- 11月29日 - 日本軍(中支那方面軍)、常州攻略。
- 12月1日 - 大本営、中支那方面軍に南京攻略を許可(南京攻略戦)。
- 12月10日 - 日本軍(中支那方面軍)、南京攻撃開始。(写真)
※以下の展開は日中戦争#年表を参照
第二次国共内戦
日本の敗戦によって中華民国は戦勝国となり、国際連合の常任理事国となった。しかし、国内では国民党と共産党が共通の敵を失ったことで統一戦線を維持する意義も名目も消滅し、戦後構想の違いから両党は早くも1945年10月から再び武力衝突へと転じ、1946年6月より全面的な内戦を開始した。
共産党は、戦後シベリアに抑留される日本軍から最新式の兵器を鹵獲する作戦を遂行していたほか、ソ連からの援助も継続して受けており、国民革命軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得た。共産党軍は、徐々に南下して国民政府軍を圧迫。また日本軍の前面に立って戦力を消耗していた国民政府軍に対して共産党軍は、後方で力を蓄えると共に巧みな宣伝活動で一般大衆からの支持を得るようになっていった。
重慶会談
1945年8月の終戦によって内戦の不安が中国国民につのり、その結果、蒋介石は国民政府の呉鼎昌の提案を受け入れ、毛沢東に対して重慶で国内の和平問題について討議すべく三度にわたって会談を呼びかけた。この呼びかけに応じた毛沢東と周恩来、王若飛は8月28日、アメリカのパトリック・ハーレー大使と共に延安から重慶を訪れ、中国共産党の代表として中国国民党の代表である王世杰、張治中、邵力子と会談を行った[23]。
同年8月30日重慶において「蒋介石・毛沢東巨頭会談(重慶会談)」が開かれる[16]。会議は43日にも及んだが、10月10日に「双十協定」としてまとめられ、内戦は一時的に回避された。
上党戦役
しかし、同10月には会談空しく、双十協定調印の日に、山西省で上党戦役がはじまる[24]。共産党軍は三日で、国民党軍が投入した三分の一にあたる35000人を殲滅した[16]。この戦争で鄧小平は活躍し、その名声が高まる。
アメリカの関与
アメリカは第二次世界大戦中から蒋介石政権崩壊と共産主義拡大を防止する対策を行った。日本の降伏とともにアメリカは、抗日戦末期の時点で既に弱体化の著しかった国民党軍に大量の援助を行い、これによって新たに39個師団に武装・訓練をほどこした。また、アメリカ船をもって在中国日本人の本国送還を急ぎ、空路・海路から約40万の国民党軍兵士とアメリカ海兵隊5万人を華北に派遣・上陸させて北京、天津など重要都市を占領、かつ国民党軍に代わってアメリカ軍自ら華北の炭坑、鉄道等を接収した(ブリーガー作戦)。 こうしたアメリカ軍による北上作戦援助は、公式には日本軍勢カー掃による中国の急速な主権回復のためと理由づけられていたが、アメリカの目的はそれだけではなく、華北の主要都市および輸送・産業上の戦略拠点が中共軍の手に落ちないよう先手を打ち、さらに国民党の東北(旧満州)支配の足場をいち早く固めることにあった。
アメリカは、戦後の東アジアの政治地図として、日本が再び台頭してくるのを抑えるためにも、中国になんらかの形で民主的な政権が生まれ、それが東アジアの安定勢力になることを期待していた。本国政府や中国駐留アメリカ軍の間で、多少の意見の相違はあったものの、「国民党のリーダーシップのもとに中国の統一を図る」、「国民党をできるだけ支援するが、共産党との対立が内戦に発展することは極力回避する」、「アメリカが中国の内戦に地上軍を派遣したりすることはしない」とする点では大筋大体一致していた。中国駐留のアメリカ軍総司令官・アルバート・ウェデマイヤー中将の次の会見談話は、なぜアメリカ軍が中国に駐留し続けるのか、中国の内戦にどういう関与をするのか、という連合国の記者の質問に答えたものであるが、アメリカの大体の姿勢が窺える。「米軍は中国における内戦に捲き込まれないだろう。しかし米陸軍省からの指令で、米国人の生命財産を保護するために軍隊を使用する必要があり、余の麾下司令官にはその旨指令してある。米軍が中国の内戦に参加し、中共軍に対し攻撃を加えているといった向きもあるようだが、これまで米軍がかかる侵略的行為に出たことはないことを断言する。余はこれまで個人的に国共が妥協するよう極力努めてきたし、部下にも中国の政争や陰謀画策に参加しないよう命令していた[25]。」[26]。
ビルマ戦線の司令官衛立煌は国共内戦に反対し、共産党との問題は政治交渉により解決すべきと主張していた。傅作義は国共内戦に内心反対であった。商震も李済深も国共内戦に反対していた。
トルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとした。したがって、トルーマン政権の対中政策は、「ルーズベルトの戦後構想」を基調とするものとして始まったといえる。12月15日、対中戦後政策に関する包括的な公式声明を発した。この声明は⑴中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立、⑵共産党軍の国民党軍への編入、⑶安定政権の基礎づくりのため、土地改革をはじめとする社会改革への着手の諸点を要求し、さらに⑷以上が実行されない場合、アメリカは対中援助の拒否権を使用することを宣明した。マーシャルが重慶に到着したころ、在華米軍兵力は11万を超えるピークに達していた。こうしてアメリカは、国民党軍に莫大な支援を集中して共産党側を圧倒しつつ、他方でアメリカのさらなる国家資本援助を報償として提示して国民党の譲歩をせまることによって国共両党を統一交渉のテーブルにつかせようとしたのである。アメリカ政府が統一新政府に中共の参加を要求した背景には、激しい経済混乱とみずからの腐敗を一掃しえずにいる現状のままの国民党では全土の統一は望みえす,かつ共産党を排除するとすでに東北を占領しているソ連の共産党援助を誘発し、その結果国共の主導権争いが米ソ代理戦争の様相を呈して泥沼化するのではないかという恐れがあった。
共産党軍の戦闘力の強さを誰よりもよく認識していたアメリカは調停に乗り出し、 腐敗した国民党軍の崩壊を恐れ、蒋介石に大量の軍事援助を与えつつ、 国民党軍が強化されるまで衝突を先にのばそうとしたのであり[27]、1946年1月にジョージ・マーシャルを派遣した。マーシャルは、国民党が軍事手段で共産党を圧迫しようとすれば、国民政府の崩壊をもって終り、中国に共産党の支配をもたらすであろうと見ていた。そこで、彼は共産党を含めた連立政府を樹立し、双方の軍隊を国民軍に統一するという計画をもって乗り込んできたのである。マーシャル使節団は、国民党と共産党の和解のためにひたすら奔走した。共産党を少数派として政府に参加させることで、彼らを認め彼らの敵対性を除去することを考えた。国民党代表・張群、共産党代表・周恩来とアメリカ代表・マーシャルによる軍事調処執行部(三人委員会)が成立し、1月10日には「国共停戦協定」が調印された。2月25日の基本法案によると、陸海空三軍の最高統帥者が中華民国国民政府主席(蒋介石)であることを再確認した上で、一年以内にその陸上兵力を国民党軍90個師団、共産党軍18個師団に削減し、更にその半年後にはそれぞれ50個師団と10個師団にまで縮小することが取り決めされていた。多くの人から期待された。マーシャルは、中国国民から「平和の使徒」としてもてはやされた。同年1月、協定に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は、国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割りあてられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。
しかし、3月には3月の党大会において国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議し、国共両軍の衝突はやまなかった。同年3月5日にはチャーチルが「鉄のカーテン演説」を行い、冷戦構造が固まって行く。また6月にアメリカは国民党政府に向けて対中軍事援助法案を採択した。1946年6月28日、ディーン・アチソン国務次官は記者招待会の席上、アメリカの対中政策について演説し、アメリカの対中援助に関するさまざな行為は「破壊的な長期間にわたる日本との戦争による影響を除去するため、一国家としての中国を援助するというこれまでに確認された計画」を完遂するためであって、これが目標とするところは中国の統ーでありアメリカ政府としては「中国共産党を含むすべての重要な政党の十分かつ公平な代表からなる政府によってこうしたアメリカの援助が実行に移されることを特に希望する」のであり、「中国の各政党聞において統一政府を成立させるという協定が実現されない限り、アメリカ政府は対中援助を行うことはできない」と強調した[28]。
中国共産党はこれに対して1946年6月22日に「アメリカの蒋介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出し、アメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国を引き続き内戦・分裂・混乱・恐怖・貧困に陥れていると指摘し、アメリカに対して「一切の軍事援助の即時停止、中国におけるアメリカ軍の即時撤退」を要求した[28]。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった[28][29]。8月10日にはトルーマンが蒋介石にその行動を非難するメッセージを送っている[28]。マーシャルは当時トルーマン大統領に、国共間の調停が絶望的であること、その多くの責任は蒋介石にあるとして非難している[30][28]。またトルーマン大統領自身も、国民党への不満を後に表明している[31]。1946年8月31日にトルーマンは再度、国共聞の政治的解決こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならばアメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したがそれもなんら効力を発揮することなし国民党の軍事攻勢は続けられた。1946年12月18日、トルーマン大統領は「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する[28]。アチソンによれば「中国で内戦が再開されたならば国民政府とは関係を維持しつつ、合衆国兵力を中国から撤収し、物質的援助を停止することを考慮する」とし、「もしソ連が中国共産党を支持することになった場合には合衆国は政策を大幅に再検討することが必要になろう」というものであった[28]。
つまり、マーシャル・プランのような中国の工業および農業改革の復興を援助する計画は、内戦を行ったことで破綻となったのである。またアメリカ軍を撤退させたことにより、後に共産化を招くこととなり、国民政府が台湾への遷都後に米華相互防衛条約の締結・在台米軍の駐留などアメリカの庇護を受けることになる。
全面侵攻
1946年6月26日、蒋介石は国民党正規軍160万人を動員し、全面侵攻の命令を発した[32]。毛沢東は「人民戦争」「持久戦争」の戦略でもって抵抗した。毛沢東は国民党内部の内戦消極分子の獲得や、また「土地革命」を行うことで大量の農民を味方につけた。1946年年末には各都市で「内戦反対、反米愛国」というデモが発生、規模は50万以上であった[33]。
共産党軍と残留日本軍
国民革命軍は約430万(正規軍200万)でアメリカ合衆国の援助も受けており、共産党軍の約420万(正規軍120万)と比べ優位に戦闘を進め中国全土で支配地域を拡大したが、東北に侵入したソ連軍の支援を受ける共産党軍(八路軍)は日本によって大規模な鉱山開発や工業化がなされた満洲をソ連から引き渡されるとともに、残留日本人を徴兵・徴用するなどして戦力を強化していた。日本女性は拉致などによって看護婦などとして従軍させられた[34]。
八路軍の支配地域では通化事件が起き、数千人の日本人居留民が処刑された。また、航空戦力を保持していなかった八路軍は捕虜となった日本軍軍人を教官とした東北民主連軍航空学校を設立した。日本人に養成された搭乗員は共産軍の勝利に大きく貢献することとなった[35]。
形勢の逆転
中華民国を率いる国民党の指導者の蒋介石は満洲の権益と引き換えにイデオロギーを棚上げにしてソ連のスターリンと協定を結んだため、ソ連から中国共産党への支援は消極的なものとなる。その間に国民革命軍は満洲で大攻勢をかけ、1947年中頃になると共産党軍は敗退・撤退を重ね、国民党は大陸部の大部分を手中に収めようとしていた。
だが、法幣の大量発行がインフレーションを招き、農民を中心とした民衆の支持を失う。そしてアメリカの国民党への支援も、第二次世界大戦の終結以降ヨーロッパにおける冷戦の開始や日本の占領政策への集中、政府内の共産党シンパの活動等の理由により、先細りになっていった。
1947年3月には蒋介石は「全面侵攻」から「重点攻撃」へと方針を転換する[33]。対象地域は共産党軍の根拠地である延安などであったが、毛沢東は3月28日、延安を撤退。山岳地域に国民党軍を誘導した。5月から6月にかけて、共産軍は83000人の国民党軍を殲滅する[36]。1947年6月の時点で共産党員は46年の136万から276万に急増、兵力も120万から195万へと増大。対する国民党軍の兵力は430万から373万へと減少していた[36]。
農村部を中心に国民党の勢力は後退、共産党が勢力を盛り返してゆき、1948年9月から1949年1月にかけての「三大戦役」で、共産党軍は決定的に勝利する。まず、1948年9-11月の遼瀋戦役では国民党軍47万が殲滅され、国共軍事比は290万人対300万と逆転した[37]。そして、1948年11月ー1949年1月の徐州を中心に展開された淮海戦役では、国民党軍80万、共産党軍60万とが衝突するという大規模な戦闘が発生し、後に改革開放路線で市場経済を導入することで知られる鄧小平が司令官として国民党軍55万5500人を殲滅した[37]。更に1948年12月-1949年1月までの平津戦役でも、52万の国民党軍が壊滅した[37]。これにより、中華民国国軍(国民党軍)は主戦力を喪失し、「重点攻撃」を仕掛けることもできずに支配地域を一気に喪失していくこととなる。
中華人民共和国の成立と中華民国の大陸拠点喪失
三大戦役後、毛沢東率いる共産党は総攻撃をしかけ、国民党が拠点を置く大都市部を相次いで占領した。1948年時点で中華民国は主要都市として全国の12都市を直轄市に指定しており、三大戦役終結直後の1949年2月1日時点ではソ連軍占領下の大連と人民解放軍に占領された哈爾浜、瀋陽、天津、北京を除く7都市を未だに支配していた。だが、三大戦役で主戦力を失っていた国民党にはもはや共産党の侵攻を食い止める余力がなく、続いて開始された人民解放軍の渡江戦役によって、1949年4月23日に首都南京を占領されたのを皮切りに、漢口(同年5月16日)、西安(5月20日)、上海(5月27日)、青島(6月12日)をなし崩し的に占領されていった。
国民党に代わる「新中国」建設の準備を進めていた共産党は、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言したが、この時点で国民党はまだ華南三省と西南部三省の広範囲を支配していた。そのため、共産党は中国大陸からの国民党勢力一掃を目指して広州(10月14日)、重慶(11月30日)、成都(12月27日)と国民党の拠点を相次いて占領し、さらに旧第二次東トルキスタン共和国の残存勢力と協力して新疆の全域を1950年春までに占領した(新疆侵攻)。そのため、1950年1月の時点で国民党に残された台湾以外の拠点は、西南軍政長官公署の支配下にある西康省の西昌一帯と東南軍政長官公署の支配下にある海南島(海南特別行政区)のほか、江蘇省(舟山群島)、浙江省(大陳列島)、福建省(金門島、馬祖列島及び烏坵)、広東省(万山群島)沿岸の島々の4か所のみとなった。
これを受け、人民解放軍は国民党の反攻拠点となる西昌一帯と海南島の制圧を目指し、1950年3月から本格的な軍事作戦を展開した。その結果、西昌は西昌戦役によって同年4月7日、海南島は海南戦役によって5月1日に中華人民共和国の支配下に入り、国民党は中国大陸における大規模な軍事作戦を展開するための拠点を全て喪失した。これにより、中華民国国軍による中国大陸への反攻は事実上不可能となり、国共両軍による全面的な戦争は事実上収まることとなった。なお、同時期には舟山戦役と万山群島戦役が勃発しており、1950年5月16日に舟山群島、8月4日に万山群島が人民解放軍によって占領され、終結している。さらに人民解放軍は10月にチベット地域で事実上独立していたチベットに侵攻した(チベット侵攻)。
その後も雲南省のビルマ、ラオス国境地帯では雲南反共救国軍によるゲリラ戦が引き続きを行われた。雲南反共救国軍は1951年(民国40年)5月に滄源、耿馬、瀾滄、双江の4県で大規模な攻勢に出るが、人民解放軍の反撃によって7月までにビルマやタイ北部に脱出した。その後、国連決議に伴って雲南反共救国軍の兵士たちは武装解除の上、台湾に退去することが決まり、1954年(民国43年)までに6,986人が台湾に退去した。しかし一部の兵士は現地に残留し、雲南人民反共志願軍を結成して1960年(民国49年)までゲリラ戦を行った。その後、雲南人民反共志願軍兵士のうち4,200人は台湾に退去したが、一部はタイ北部に残留した。残留した元国民党兵士たちは黄金の三角地帯で麻薬の製造や密輸を行っていたが、1972年にタイ王国軍に帰順して共産ゲリラの掃討作戦に参加している[38]。ゲリラ掃討後、元国民党兵士たちは武装解除された上でタイ政府から居住権が与えられ、観光や農業に従事するようになった。(2017年)現在でもメーサロン近辺には末裔が居住している[38]。
国民党の台湾撤退と日本人軍事顧問(白団)
中国人民解放軍に対して、まともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府と蒋介石は、1949年1月16日に南京から広州への中央政府を撤退させたのを皮切りに、重慶(同年10月13日)、成都(11月29日)へと撤退した挙句、中国大陸から台湾への撤退を決定し、残存する中華民国国軍の兵力や国家・個人の財産など国家の存亡をかけて台湾に運び出し、最終的には1949年12月7日に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。
このような中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなった為、人民解放軍による軍事行動は一時的に停止する。
なお、1949年に根本博中将(元支那派遣軍参謀長)は占領下の日本から台湾に密航し、中華民国の軍事顧問として古寧頭の戦いの作戦指導を行い、中共軍を殲滅している[39]。
蒋介石の依頼を受けた元支那派遣軍総司令官の岡村寧次は、密かに富田直亮元陸軍少将(中国名・白鴻亮)率いる旧日本軍将校団(白団)を軍事顧問として台湾に密航させ、蒋介石を支援した[40]。地縁や血縁によって上下関係が構築されるなど、長い戦乱で軍紀が乱れきっていた国民党軍幹部に近代的な軍事技術を伝授し、軍の近代化を推進。特に艦艇、航空機の運用面で改善は著しく、八二三(金門)砲戦防衛に成功、際立った効果をあげた[40]。
白団による中華民国国軍への指導は1960年代末まで行われた。
台湾海峡危機
朝鮮戦争に人民義勇軍が参戦した為、人民解放軍による中華民国への軍事行動は1950年10月から一時的に停止した。朝鮮戦争により、トルーマンは同年1月に発表していた台湾不介入声明[41]を撤回して同年6月に台湾海峡の中立化を名目に第七艦隊を派遣した。それを受け、中華民国国軍は福建省沿岸で南日島戦役(1952年)と東山島戦役(1953年)を引き起こしたが、いずれも散発的な攻撃で終わった。逆に1954年9月、中国人民解放軍は金門島の中華民国国軍に対し砲撃を行い(九三砲戦)、中華民国への攻撃を再開する。同年12月にはトルーマン政権の対中政策への批判を掲げて米国大統領となったアイゼンハワーは米華相互防衛条約を締結した。そして翌1955年1月に解放軍は浙江省の一江山島を攻撃し、この地を占領する事に成功した(一江山島戦役)。これを受け、中華民国国軍は同年2月8日から2月11日にかけてアメリカ海軍護衛のもとで大陳島撤退作戦を実施し、大陳島の拠点を放棄した。これにより、中華民国は浙江省にあった実効統治区域を全て喪失し、1950年以降で唯一となる支配地域喪失を喫した。
また1958年8月には中国人民解放軍が金門島の中華民国国軍金門守備隊に対し砲撃を開始した(金門砲戦を参照)。その際、中華民国国軍は人民解放軍との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。アメリカは中華民国の支持を表明、アイゼンハワー大統領は「中共[注釈 10]はまぎれもなく台湾侵略を企図している」とし、中華民国政府に軍事援助を開始した。同年10月6日には人民解放軍が「人道的配慮」から金門島・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言、アメリカとの全面戦争を避けた。これにより、中華民国は金馬地区の防衛に成功し、大陳島に続く拠点の喪失を阻止した。ただし、人民解放軍による金門島への定期的かつ形式的な砲撃はその後も続き、1979年1月1日の米中国交樹立をもってようやく砲撃に停止命令が下された。
なお翌1959年9月には前内閣総理大臣であった石橋湛山が私人として中華人民共和国を訪問、周恩来首相との会談を行い、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を主張。周はこの提案に同意し、台湾(中華民国)に武力行使をしないと約束した(石橋・周共同声明)。
1962年、大躍進政策に失敗し国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蒋介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手したが[42][43]、アメリカは国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった[44]。また、1965年には台湾海峡の航行を巡って[45]東引海戦(5月1日)、東山海戦(8月6日)、烏坵海戦(11月13日 - 14日)がそれぞれ発生したが、いずれも偶発的な戦闘で単発的な衝突に留まった。
1979年1月1日の米中国交樹立を受け人民解放軍の金門島砲撃が停止されて以来、両岸間での戦闘行為は発生していないが、緊張状態は続いている。
その後
- 参照: 台湾問題
中国大陸では、現在に至るまで中国共産党による一党独裁政治が続き、政治や言論の自由が抑圧されている[46]ほか、ウイグル侵略、チベット侵略や文化大革命、朝鮮戦争、中越戦争、中越国境紛争、中印国境紛争、中ソ国境紛争、赤瓜礁海戦、天安門事件など内乱や対外戦争が発生した。
台湾島・澎湖諸島一帯では、国民党の圧政に対する二・二八事件の鎮圧以降40年にわたって戒厳令(動員戡乱時期臨時条款)が施行され、国民党が強権的に台湾・澎湖一帯を支配する時代が続いた。しかし、1980年代に入り戒厳令が停止され、歴史上初めて台湾生まれの李登輝が総統になると、大陸選出議員(万年議員)の強制引退や直接選出による中華民国総統選挙が行われるなど急速に民主化が進み、現在の中華民国は議会制民主主義・五権分立を元にした民主主義国家となっている。
脚注
注釈
- ↑ この内戦には公式な終戦日がない。しかし、中国本土に近く国民党にとって反攻の為の最後の砦であった海南島が陥落した後は戦争が終結したと、歴史家達は広く合意している[1]。
- ↑ 海南特別行政区の置かれた海南島を人民解放軍が完全占領した日[2]。
- ↑ 金門砲戦に対し砲撃停止命令が下された日。これ以降、中国人民解放軍と中華民国国軍との間で戦闘は起きていない。
- ↑ 当時関東軍参謀だった瀬島龍三の戦後の談話によると「満洲を建国したことで朝鮮半島が安定したが、満洲国が建国したばかりで不安定だったことから満洲の安定を図るために満洲と中国の国境ラインに軍隊を移駐したところで中国勢力と衝突した」とされる。『大東亜戦争の実相』
- ↑ 国策の基準(五相会議決定)を定め、大陸と南方への進出、ソ連・米国・英国に対する軍備と経済の充実を方針とした。
- ↑ 同日、重篤となった田代皖一郎支那駐屯軍司令官に代え、香月清司中将を新司令官に親補。
- ↑ 『皇国暦日史談』は「「我が海軍航空部隊は支那事変開始直後の9月22日月明の3時大挙広東を襲い、更に7時、13時半並びに14時の4回に亙り矢継早に空襲を繰り返したが敵空軍は己に全滅し高射砲も大半破壊して防空の役立たず、我が空軍は無人の境を行くが如くリレー式に広東市の西北より東にかけ天河、白雲両飛行場、兵器廠、淨塔水源池、其の他工場地帯、政府軍事各機関、遠東軍管学校、中山大学、中山紀念堂外重要建設物を片つ端から徹底的に爆撃した。此のため広東全市は殆んど猛火の巷と化し猛火盛んに上り大混乱に陥った。革命の震源地、排日の総本家たりし広東も我が正義の前に完膚なきまでに叩きのめされた。」と記している。日置英剛編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005)
- ↑ 『読売新聞』1937年9月15日。罪状は井戸、茶壷や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持していたというものである。その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。The New York Times, August 30, 1937記事
- ↑ この後、重慶爆撃、ドイツによるロンドン空襲、大戦末期のアメリカ空軍の原爆を含む、日本への無差別都市攻撃の先例となった。日置英剛編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005)
- ↑ 当時、アメリカは中華民国を「中国の正統な国家」として国家承認しており、中華人民共和国を正当な国家と見なしていなかった。
出典
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- ↑ (『朝日新聞』1945年11月12日)
- ↑ 山東半島に渡った満鉄技術者たち 第11回-オーラル・ヒストリー企画
- ↑ 『 中国近現代史』小島晋治・丸山松幸 P.190
- ↑ 28.0 28.1 28.2 28.3 28.4 28.5 28.6 西川博史「アメリカの対日政策の転換と中国の動向 (長岡新吉教授 退官記念号 I)」、『經濟學研究』第43巻第4号、北海道大学、1994年、 73-92頁、 NAID 110004464653。
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- ↑ 蒋介石侍衛長出書 披露62年反攻大陸歴史,《新浪網》
- ↑ 港刊:台軍新書掲秘蒋介石当年「反攻大陸」計画,《人民網》
- ↑ 台軍方公佈50年前反攻大陸的絶密“国光計画”,《中華網》
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参考文献
- 天児慧 『巨龍の胎動 : 毛沢東vs鄧小平』 講談社〈中国の歴史, 11〉、2004。ISBN 4062740613。
- 黄文雄 『蒋介石神話の嘘 : 中国と台湾を支配した独裁者の虚像と実像』 明成社、2008。ISBN 9784944219704。
- 阿羅健一 『日中戦争はドイツが仕組んだ : 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ : 秘史発掘』 小学館、2008。ISBN 9784093878142。
- 中村祐悦 『白団 : 台湾軍をつくった日本軍将校たち』 芙蓉書房出版〈芙蓉選書ピクシス, 4〉、2006、新版。ISBN 4829503831。
- 木立順一「救国論 相反する二つの正義から見える人類史の課題と希望」(メディアポート)(Amazon)、2015年、ISBN 978-4865581089。