軍閥
軍閥(ぐんばつ)
なお、現代では武装勢力の一種とみなされることが多い。
統一国家の軍隊に存在する派閥
軍部内における派閥は、日本軍に限らず各国の軍隊にも存在しうるが、必ずしも「軍閥(military clique)」という名称で呼ばれるとは限らない。
- 戦前の日本
日本では、大日本帝国陸軍における桜会・皇道派・統制派、大日本帝国海軍における艦隊派・条約派などがあげられる。
- 日本以外の国
大韓民国軍における秘密組織であった「ハナフェ」(一心会)、秘密組織であるエジプト王国軍の自由将校団(ナセルなどが在籍)など。
地方に割拠する軍事組織・軍事集団
近世以前
近世以前、即ち主権国家が成立する前の世界において、国家の政治体制は個々に軍事力を有した団体、あるいは地方政権の集合体であったものが多く、「国家」が後者の意味での軍閥の連合体の様相を呈することは常態であった。又、そうした場合、中央政府とはしばしば国家の全体に影響を及ぼしうる軍事集団そのものであり、これは前者の意味での軍閥に近いものであった。
国民国家という政体は、近代になって初めて成立した概念であり、そこから愛国心等も生まれていった。愛国心という概念は近代の産物に過ぎない。この意味では、日本における武士団・戦国大名といった封建領主組織も、「完全な統一国家が成立する前に、個々に軍事力を有した組織」としての軍閥の定義には当てはまる。
近代以後
近代の主権国家においては、軍事力は国家の中央政府のもとに一元化されるべきものであり、また中央政府に一元化された軍事力はそれ自体が政府機関を運営する主権者ではなく、国家の主権者の命令に服するものでなくてはならない。つまり近代社会において軍閥が云々されるとは近代国家たるべき要件となる軍事力の一元化と、主権者への服従が達成されていない状態が継続していると考えてよい。
近代以後、即ち国民国家が成立した後の世界において、地方に割拠する軍事組織の例としては、中華民国が有名である。辛亥革命前の代表的な軍閥領袖として、李鴻章があげられる。李鴻章が私財を投じて兵を募り集め、訓練・組織化した団練からなる淮軍(のちの北洋軍閥)は時の政府(清)に従順であったが、領袖の跡を袁世凱が継承してからは、次第に軍閥組織、ひいては軍閥領袖の利害を最優先として動く様になる。やがて孫文と裏交渉し、清政府に反目し、打倒勢力の中核となる。呉佩孚、張作霖らは衝突や和解を繰り返しながら覇権を競い合った。しかし、中国国民党の北伐戦争で軍閥は打撃を受け、日中戦争や国共内戦で中国国内の状況が変わると、国民党軍や中国共産党軍に編入され、力を失った。
ロシア内戦において、短期間・限られた版図とは言え実効支配地もあったアレクサンドル・コルチャーク指揮下白軍とグリゴリー・セミョーノフ指揮下白軍(シベリア地域に一時樹立された全ロシア臨時政府、いわゆるオムスク政権。後に両軍反目・離反)、およびアントーン・デニーキンやピョートル・ヴラーンゲリ指揮下白軍(ロシア南部、ウクライナ、クリミア半島)など。
ソマリアでは国家体制が安定しておらず、アル・スンナ・ワル・ジャマーなど軍閥が不安定な国家組織の一部を形成している場合がある。その他には、アフガニスタンの北部同盟、リビアの反アル=カッザーフィー派武装勢力やシリアの反体制武装勢力各派などが上げられる。また、パレスチナでは、ガザ地区においてハマスが実効支配状態にある。
レバノンでは、内戦終結後に軍閥に等しい多くの民兵組織が武装解除されたものの、イスラム教シーア派のヒズボラのみが武装解除せず、事実上の軍閥として存在している。
ミャンマーでは、ワ州連合軍など少数民族の民兵組織の支配地域が存在している。これらは長年ミャンマー政府と内戦状態にあり、有力な民兵組織は軍閥化していた。1990年代以降、ミャンマー政府の和平路線によってそれらの支配が追認される形となった。シャン州の特区であるワ州がこれにあたり、ワ州自治政府は実質的にワ州連合軍の支配下にある。他の民兵組織もミャンマー政府の和平に応じた組織は、限定的な自治権や経済的利権を持つ事を許されている。ただし、これら軍閥の支配地域は、ミャンマー政府の支配下に存在しており、各軍閥が(段階的な兵力削減など)ミャンマー政府の指導に応じなければ、国軍による実力行使も辞さない姿勢を取っている。2014年には、一旦和平に応じたカチン族のカチン独立軍とミャンマー国軍との間で戦闘が発生している。