延元の乱
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結果: 室町幕府の成立、南北朝の争乱 | |
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延元の乱(えんげんのらん)は、足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権に対して反旗を翻した挙兵のこと。
「延元」はこの挙兵の最中の建武3年2月29日(ユリウス暦1336年4月11日)に建武政権によって行われた改元によるもので、当時既に持明院統(後の北朝)の光厳上皇を擁していた尊氏はこれを認めず、建武政権崩壊後も引き続き「建武」の元号を用いた。また、「乱」という呼称も尊氏を逆賊(反逆者)とみなした建武政権→南朝の見解に基づくものである。従って、「南朝正統論」が強かった時期に用いられた用語であるとされ、今日ではほとんど用いられない呼称である。また、建武の乱(けんむのらん)を採用する論者(森茂暁[1]・楠木武[2])もいる。
経緯
前史
後醍醐天皇は大覚寺統と持明院統、更に自己の系統と実兄後二条天皇の系統(後の木寺宮・花町宮)との決着をつけるべく、倒幕運動を起こし、一度は事敗れて隠岐島に流されたものの、楠木正成や新田義貞、そして足利高氏(後の尊氏)の活躍で、元弘3年(1333年)遂に鎌倉幕府は滅亡し、幕府が立てた光厳天皇を排除して京都に復帰した(元弘の乱)。
鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる新政治を開始した。足利高氏は倒幕に参加した武家の中でももっとも名門でこれに従う武士も多かった。そこで天皇は高氏を倒幕の勲功第一として、従四位下に叙されて鎮守府将軍・左兵衛督に任じられ、また武蔵国・下総国・常陸国の3つの知行国及び30箇所の所領を与えられた。さらに天皇の諱尊治から偏諱を受け尊氏と改名した。だが、尊氏自身は新政権(建武政権)において、弟の足利直義を成良親王の補佐として鎌倉に派遣し、足利家の執事である高師直やその弟師泰ら主だった重臣たちは参加させたものの、自身は入る事は無かった。このため、尊氏が新政権と距離を置いていると言う見方が広がり、世人はこれを「尊氏なし」と称した。これに危機感を抱いた護良親王は、尊氏の排除を計画するが、建武元年(1334年)には父・後醍醐天皇の命令で逮捕され、鎌倉の直義に身柄を預けられて幽閉の身となった。
建武政権は後醍醐天皇の情熱とは反対に混乱をきわめ、人々の反発を高めた。そんな中の建武2年(1335年)、前関東申次西園寺公宗と北条氏残党による天皇暗殺の企てが発覚し、続いて信濃国で北条高時の遺児時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が発生する。これを迎え撃とうとした直義はこれを防げずに護良親王を秘かに殺害した上で鎌倉を逃れ、時行軍は鎌倉に入る。尊氏は直義を救うべく鎌倉に向かおうとするが、後醍醐天皇に自らの征夷大将軍就任を奏請してこれが認められないと、8月2日に勅許を待たずに軍を発して直義の残兵と合流、途中で時行の軍を破って、同月19日には鎌倉を回復した。
尊氏は直義の勧めに従いそのまま鎌倉に本拠を置き、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。同年10月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、翌月になると天皇は新田義貞の意見を容れて、逆に一連の尊氏側の動きを反逆とみなして義貞に尊良親王をともなわせて東海道を下らせ尊氏討伐を命じた。さらに東山道からは洞院実世による追討軍が鎌倉に向かい、奥州の北畠顕家にも同様の命令を発した。尊氏は、一度は天皇の赦免を求めて浄光明寺に籠って隠退を宣言するが、直義・高師直ら足利軍が各地で劣勢となると、彼ら一族一党を救うため天皇に叛旗を翻すことを決意する。こうして、延元の乱が開始されることになる。
経過
建武2年12月10日、足利尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この頃より、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、新田義貞討伐の院宣を得ようと画策する。これは叛乱の汚名を逃れて、自己の挙兵の正統性を得る行為であったことは、『太平記』・『梅松論』など諸書の一致した見方である。建武3年1月11日、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇はその前日に比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から尊氏を追いかけて上洛する形となった北畠顕家と行軍の遅れと箱根の戦況を聞いて京都へ撤退途中であった東山道の尊氏討伐軍、比叡山を守る楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。園城寺にいた足利軍を駆逐した新田・北畠軍は1月27日から30日にかけて京都とその周辺で攻勢をかけた。1月30日の戦いで敗れた尊氏は丹波国篠村八幡宮に撤退、続いて2月2日に摂津国兵庫に移動して西国の援軍を得て京都奪還を図るが、2月11日に摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は兵庫から播磨国室津に退き、赤松則村(円心)の進言を容れて更に九州に下った。
九州への西下途上、2月20日に長門国赤間関において九州の有力武将の1人である少弐頼尚に迎えられ、九州に入ると筑前国宗像大社の宗像氏範や豊後国の大友氏泰などもこれに加わった。この間に京都では元号を「延元」と改めたが、尊氏はこれを認めず依然として「建武」の元号を用いた。3月2日、筑前多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏を破り、九州各地の天皇方を攻略した尊氏は京都に向かう決意を固め、4月3日に博多を出発、5月3日厳島にて光厳上皇の使者である三宝院賢俊から院宣を拝受した。5月5日に鞆に着く頃には院宣拝受の知らせを聞きつけた西国の武士を急速に傘下に集めていった。ここで軍議を開いた尊氏は直義に陸路で赤松円心が新田義貞に対して籠城を続けている播磨国白旗城に駆けつけるように命じ、自らは海路で京都に向かうことになった。5月18日には直義軍接近を知った新田義貞が白旗城の包囲を解いて兵庫に撤退した。『梅松論』によれば、この頃楠木正成は尊氏の再起とその勝利を予想して、新田義貞を処分して尊氏を赦免するように秘かに上奏して受け入れられなかったとされ、続いて『太平記』によれば足利軍東上とこれを受けた新田軍の白旗城からの撤退の知らせを聞いた正成は天皇に再度比叡山に退避していただいて義貞と自分で尊氏軍を挟みうちにする策を上奏するが今度も朝廷の面目を重んじる坊門清忠らに阻まれた。5月25日の湊川の戦いで足利軍は新田・楠木軍を破り、楠木正成兄弟は自害に追い込まれる。そのため、5月27日には後醍醐天皇はやむなく再度比叡山に籠り、持明院統の光厳上皇にも同行を迫った。上皇は足利軍接近のことを知るや病気と偽って京都に戻り、6月14日入京した尊氏に奉じられて京都・東寺に入った。
その後
光厳上皇は足利尊氏入京の翌日である延元元年6月15日に、治天の君の権限をもって先の延元改元を無効として元号を建武に戻した(なお、現存する光厳上皇の宸筆に「延元元年」の年号記載の文書が存在するが、いずれも6月15日以前のものである)。続いて、尊氏は光厳上皇の意向を受けて8月15日にその弟の豊仁親王を皇位に就けた(光明天皇)。だが、光明天皇には三種の神器が備わっていなかったため、比叡山の後醍醐天皇が所持している三種の神器を確保する必要があった。だが、新田軍などが比叡山を守り、却って京都奪還のための戦いが起こる有様であった。そこで尊氏は比叡山の後醍醐天皇に対して和議を申し入れた。後醍醐天皇は秘かに新田義貞に対して皇太子恒良親王とその弟の尊良親王を奉じて北国に下るように命じ、10月10日に京都へ戻った。京都に戻った後醍醐天皇は花山院に幽閉された上に、同年11月2日に光明天皇への神器譲与を強要され、「太上天皇」の尊号を贈られた。その直後の11月7日、尊氏は建武式目17条を定めて新たなる武家政権の基本方針を定め、続いて11月26日には足利尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられた。尊氏は自らを「鎌倉殿」と称して鎌倉将軍の後継者であることを宣言、ここに室町幕府が実質的に成立した。ところが、天皇は同年12月21日に幽閉されていた花山院を脱出、2日後には大和国賀名生に入り、更に山中へ逃れた。更に12月28日には吉野吉水院を行宮に定め、豊仁親王に譲った三種の神器は偽物であり本物の神器は自らが吉野に持ってきた物であると称して独自の朝廷(南朝)を樹立するとともに、新田義貞や北畠顕家らに改めて尊氏討伐を命じた。
かくして、以後60年近くにわたる南北朝の内乱が幕明けることになる。
脚注
- ↑ 森茂暁は、『太平記』巻12「千種頭中将事」の赤松円心が播磨国守護職を奪われて深く恨む場面において、「サレハ建武ノ乱ニ俄ニ円心々替シテ朝敵ニ成リタリシモ此恨トソ聞シ」とあることを指摘して、当時から使用されていた用語として「建武の乱」の名称を採用している。(森茂暁「『博多日記』の文芸性と九州の元弘の乱」(初出:「福岡大学人文論叢」37巻4号(2006年3月)/所収:森『中世日本の政治と文化』(思文閣出版、2006年) ISBN 978-4-7842-1324-5 第三章第五節))
- ↑ 『日本中世史事典』」(朝倉書店、2008年) ISBN 978-4-254-53015-5 P404「建武の乱」
関連項目
参考文献
- 村田正志 『村田正志著作集 第1巻増補南北朝史論』(思文閣出版、1983年) ISBN 978-4-7842-0343-7 (初刊:中央公論社、1949年)
- 「後醍醐天皇御事歴」五.延元の乱(初出:『国士舘雑誌』第45巻第9号(1939年9月))
- 村田正志 『村田正志著作集 第3巻続々南北朝史論』(思文閣出版、1983年) ISBN 978-4-7842-0345-1
- 『南北朝論』第二章「南北朝の成立」第三節「延元の乱」(初刊:至文社、1959年)
- 『南北朝と室町』二「建武中興」・三「南朝のはじまり」(初刊:講談社 日本歴史全集第8巻、1969年)