複都制
複都制(ふくとせい)は、国家に複数の都を置く制度で、都をひとつだけ置く単都制に対する概念。広大な領土を有する国に多く採用される。都が2つの場合は両都制(りょうとせい)、両京制(りょうけいせい)ともいう。
また、国家の首都機能を複数の都市に置く制度を指すこともある。現代的な複都制については首都#複都制を参照。
中央集権国家の複都制では、皇帝が常住する都を上京、上都、京城、皇都、京師などといい、その他の都を陪都(ばいと)、留都(りゅうと)などという。しかし、陪都に対応する語句は西洋になく、これは東洋的なものとされ、陪都制(ばいとせい)と呼ばれる。日本史で言われる難波遷都などは、正確には天皇の陪都巡守や皇都昇格であり、都を移す遷都とは異なる[1]。
皇帝が陪都に滞在し、皇帝不在の皇都で国政をみさせるために代理を置くときは、権限を制限したうえで太子を置いたり(太子監国の制)、信頼の厚い重臣などの有力者を置いたりした(留守官の制)。
ローマ帝国の複都制
2世紀後半、ローマ帝国ではディオクレティアヌス帝の時代に帝国の行政区画が東西に分けられ、2人の正帝と2人の副帝によって四分統治された。これにより各皇帝が拠点を置いたニコメディア(イズミット)、シルミウム、メディオラヌム(ミラノ)、アウグスタ・トレヴェロールム(トリーア)が各地方の実質的な首都となったが、名目的には元老院のあるローマが帝国全体の首都とされた。その後、西方正帝コンスタンティヌス1世が帝国を統一して東方に新都コンスタンティノポリスを建てた後も、ローマは「唯一の都」として帝国の名目的な首都の座を保持した。
395年には、東帝テオドシウス1世(西帝は形式的に幼い次男ホノリウス)の死により長男アルカディウスが東帝とされ、東西皇帝の拠点が東のコンスタンティノポリスと西のメディオラヌム(後にラヴェンナへ遷都)とに置かれ、ラテン語圏とギリシア語圏となる東西二分が進むことになった。
中国の複都制
中国の複都制は都市国家時代の周に始まる。渭水流域の盆地である関中に起こった周は東方の華北平原諸国の盟主であった商(殷)を滅ぼすと、東方諸国を支配する拠点としてこの平原への出口である洛水流域の要衝に洛陽を建設して、後の長安の前身となる関中の鎬京と洛陽の二つの拠点から臣従する都市国家諸侯に盟主として臨んだ。
関中から起こり、中原諸侯の国際社会を征服し統一王朝を拓いた秦は短期間で崩壊したが、それを襲って長期に安定した統一王朝となった前漢は長安を首都とするとともに洛陽を複都として統治を行った。しかし、前漢崩壊後に豪族の連合政権として再生した後漢は、関中を出て洛陽に重心を移した統治を行った。
漢朝の統一が失われたのちの南北朝時代、北周は政権中枢の軍事力の集結する関中の長安を都とし、東方の華北平原への出口に位置する洛陽を穀倉地帯からの物資を集積する陪都とする複都制をとった。隋もこれを引き継ぎ、唐の723年(開元11年)には、長安・洛陽(東都)両都に北都としてオルドス地方や黄土高原北部の遊牧地帯の騎馬軍事力を扼する汾水流域の太原を加え三京になった。757年(至徳2年)には更に西域を望む関中渭水盆地西端の鳳翔(西京)、穀倉地帯として重要な四川盆地の成都(蜀郡)が加えられ五京を持つに至ったが、この2都は間もなく廃された。これらの中でも華北平原や江南の穀倉地帯の物産が集積される洛陽は、食糧に乏しい長安に比べて食糧が豊富なため、皇帝は皇太子に長安で監国させ、たびたび洛陽に巡幸した。特に武則天はその治世の間は長安にほとんど行かず洛陽の都に住んでいた。このように洛陽は重要な陪都として長安と並び両京と称された。
その後、モンゴル帝国の皇帝直轄政権として成立した元では遊牧国家の伝統に則り皇帝は直轄の遊牧軍団と共に夏営地に設けられた夏都の上都と冬営地に設けられた冬都の大都の間の広大な首都圏を季節巡回した。元朝を華北から締め出した明では当初建国地の南京から全国を統治していたが、やがて北元と対峙する前線基地として旧大都に置かれた北京に重心を移した複都制に移行した。マンチュリアから興った清は建国の地である盛京と共に、征服した中華世界を統治するために明の北京・南京の首都機能を継承した。なお、やはりマンチュリアから興った王朝である渤海、遼、金では五京を置かれた。
王朝時代の中国は王朝の本拠地と征服地の双方の統治、軍事力と統治権力の首都機能と経済力の首都機能の両立、遊牧国家の影響などから複都制が盛んであった。
近代国家の時代になると、日中戦争で首都南京を放棄した際には、一時的に首都機能を移した重慶を陪都と称した。
北宋
北宋は、次の4つの都を置く四京制を敷いた。
遼
渤海
渤海では、次の五京が置かれた。
朝鮮の複都制
高麗
高麗王朝は、正都開京(開城)に、東京(慶州)、西京(平壌)を加え三京とした。8代顕宗の時代の1010年に、南京(漢城、現在のソウル)を加え四京とした。
日本の複都制
古代の日本では唐を強く意識して複都制が採られ、王権発祥の地である奈良盆地と同時に水運の要衝である大阪湾岸や琵琶湖岸にも都が置かれたが、793年(延暦12年)に桓武天皇により永らく陪都であった難波宮が廃され平安京に一本化された。
- 孝徳天皇が難波宮に移ったとき、そして天智天皇が近江大津宮に移ったときにも飛鳥の京(倭京)は保存されており、それぞれ飛鳥との二都であった。[2]
- 天武天皇は683年(天武天皇12年)に「凡そ都城宮室は一処にあらず、必ず両参を造らん。故に先ず難波を都とせんと欲す。」と詔し、難波を飛鳥とともに都とした。
- 聖武天皇は平城京・難波京の他に、泉川を挟む形で恭仁京の造営を計画した(ただし平城京の大極殿と歩廊を恭仁京に移築しており、難波との二都の計画とも考えられる)。これは当時洛水をまたいで造営されていた唐の洛陽城に倣ったものと考えられる。
- 淳仁天皇は平城・難波に加え、北京として保良京を設けた。これは唐の北京太原に倣ったものと思われる。761年(天平宝字5年)造営された保良京は間もなく廃された。
- 称徳天皇は由義宮を造営し西京としたが、これもすぐに廃された。
- 明治維新時に江戸を東京と改名し奠都による京都との両京制とした(東京奠都、留守官を参照)[3][4]。
脚注
- ↑ 744年(天平16年)、聖武天皇が恭仁京を離れて難波に行幸し、一時難波を皇都と定めたが、これも陪都から皇都への昇格で都を移したのではなかった。翌年の平城京への還幸によって再び陪都に戻った。法制史学者の瀧川政次郎は、「従来の日本史では、遷都ということが多すぎる」と指摘している(『京制並に都城制の研究』)。
- ↑ 天皇が大津宮に移ったときには、飛鳥京に留守官(留守司)が置かれていたことが知られる。また、日本書紀や続日本紀には「遷都」の記述が散見されるが、編纂者が法制に精通していなかった為と見られる。
- ↑ この間、福原への行幸があったが、平安京は廃されず、福原京も正式な設置に至らず離宮にとどまった。また都は置かれなかったが、鎌倉幕府が首都機能の一端を担ったという意味で、鎌倉時代の鎌倉を複都制として考えることもできる(山田邦和『福原京に関する都城史的考察』)。
- ↑ 室町時代に栄華を極めた山口のことを「西の京都」という意味で西京(さいきょう、にしのきょう)と呼んだが、東京に対比させた呼び名ではなかった。現在も西京銀行や山口県立西京高等学校などの名残がある。因みに、京都府立大学の旧称は西京大学だった。
関連文献
- 瀧川政次郎 『京制並に都城制の研究』法制史論叢第二冊、角川書店、1967年(昭和42年)。
- 喜田貞吉 『喜田貞吉著作集5 都城の研究』 平凡社、1979年(昭和54年)。
- 角田文衛 『ヨーロッパ古代史論考』 平凡社、1980年(昭和54年)。
- 岸俊男 『日本古代宮都の研究』 岩波書店、1988年(昭和63年)。
- 山田邦和 「福原京に関する都城史的考察」『長岡京古文化論叢』2、三星出版、1992年(平成4年)。