孝徳天皇

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孝徳天皇(こうとくてんのう、推古天皇4年(596年) - 白雉5年10月10日654年11月24日))は、日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日645年7月12日) - 白雉5年10月10日(654年11月24日))。(かる)。和風諡号天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化の改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。

生涯

敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王の長男。母は欽明天皇の孫で桜井皇子の王女、吉備姫王皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女天武天皇(大海人皇子)の叔父。姪・間人皇女を皇后にした。阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。他に子女は確認されていない。蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。

日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。また、蘇我入鹿を避けて摂津国三島に引きこもっていた中臣鎌子(後の藤原鎌足)が軽皇子に接近していたことが知られる(『日本書紀』皇極天皇3年正月乙亥朔条)[1]

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に乙巳の変が起きると、翌々日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。

14日の内に、皇極天皇から史上初めての譲位を受け、軽皇子は壇に登って即位した。立太子は経ていない。皇極前天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。僧高向玄理国博士とした。

孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元し、白雉元年2月15日とした。『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。この改革につき書紀が引用する改新之詔4条のうち、第1条と第4条は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることが分かっている。このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。

孝徳天皇の在位中には、高句麗百済新羅からしばしば使者が訪れた。従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。日本は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。多数の随員を伴う遣唐使に派遣した。北の蝦夷に対しては、渟足柵磐舟柵越国に築き、柵戸を置いて備えた。史料に見える城柵と柵戸の初めである。

孝徳天皇は難波長柄豊碕宮大阪市中央区)を造営し、そこをと定めた。 が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、翌年病気になって崩御した。

近年では、軽皇子が中大兄皇子を教唆して乙巳の変を引き起こした黒幕であるという説を唱える歴史学者もいる。しかし、軽皇子が即位して後重用したのは蘇我氏系豪族が多く、今後の議論が待たれる。

年譜

  • 皇極天皇4年(645年
  • 孝徳天皇元年(645年)
    • 6月14日 - 皇極天皇の譲位を受け、即位した。中大兄皇子を皇太子とした。
  • 大化元年(645年)
    • 6月19日 - 史上初めて元号を立て、大化元年とした。
    • 7月2日 - 皇后(間人皇女)と2人の妃を立てた。
    • 7月10日 - 高句麗・百済・新羅の使者が朝貢した。任那の調を代行した百済の使者に対し、調の不足を叱責した。
    • 7月14日 - 尾張国美濃国に神に供える幣を課した。
    • 8月5日 - 東国等の国司を任命し、戸籍の作成と田畑の検校などを命じた。朝廷に鐘を備え、訴訟の遅滞に抗議する者が撞くようにした。良民と奴婢の子の別を定めた。
    • 8月8日 - 仏教の援助を約し、僧旻ら10人の僧を選び十師とした。
    • 9月1日 - 使者を遣わして諸国の武器を治めさせた。
    • 9月3日 - 古人皇子が謀反を企んだ。
    • 9月12日 - 中大兄が古人皇子を討った(11月30日、11月とも)。
    • 9月19日 - 土地の貸借を禁止した。
    • 12月9日 - 都を難波長柄豊碕に遷した。
  • 大化2年(646年
    • 1月1日 - 改新之詔を宣した。
    • 1月 - 子代離宮に行った。諸国に兵庫を修営らせた。
    • 2月15日 - 民の投書を受けるための櫃を設けた。
    • 2月22日 - 子代離宮から帰った。高句麗・百済・任那・新羅の使が調賦を貢いだ。
    • 3月2日 - 東国の国司に訓戒する詔を発した。
    • 3月19日 - 東国の朝集使に対し、国司の失政を咎め、訓戒する詔を発した。
    • 3月20日 - 中大兄皇子が自らの入部と屯倉を天皇に献じた。
    • 3月22日 - 王臣と庶民の墓制を定め、殉死を禁止した。祓にまつわる諸々の愚俗を禁じた。上京の途上での馬の飼育請負を登録させ、不正を禁じた。市司と要路の渡守に田地を与え、渡し賃の徴収をやめさせた。
    • 8月14日 - 品部を廃止し、旧職を廃して百官を設け、官位を叙する方針を詔した。
    • 9月 - 高向玄理を新羅に遣わし、任那の調をやめさせた。蝦蟇行宮に行った。
  • 大化3年(647年
    • 1月26日 - 高句麗と新羅の使が調賦を貢いだ。
    • 4月26日 - 皇子・群臣・百姓に対して庸調を与える旨を詔した。
    • この年
      小郡を壊して宮を造った。
      有位の人の出仕の礼法を定めた。
      荒田井比羅夫が誤って溝を掘って難波に引き、工事がやり直しになったことを諌める者があったので、即日に中止した。
    • 10月11日 - 有馬温湯に行った。
    • 12月30日 - 武庫行宮に行った。
    • この年
      七色十三階の冠を制定した。
      新羅が金春秋(後の武烈王)を遣わして高向玄理らを送った。金春秋は人質としてとどまった。
      渟足柵を造り、柵戸を置いた。
  • 大化4年(648年
    • 2月1日 - 三韓に学問僧を遣わした。
    • 4月1日 - 古い冠を廃した。左右大臣はなお古い冠をかぶった。
    • この年 - 新羅が使を遣わして調を貢じた。
磐舟柵を治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選んで初めて柵戸を置いた。
  • 大化5年(649年
    • 2月
      冠十九階を制定した。
      高向玄理と釈僧旻に命じて、八省百官を置いた。
    • 3月17日 - 阿倍倉梯麻呂が死に、天皇は朱雀門に出て哀哭し、嘆いた。
    • 3月24日 - 蘇我日向が皇太子に蘇我倉山田石川麻呂を讒言した。天皇が軍兵を起こしたため、石川麻呂は逃げた。
    • 3月25日 - 蘇我倉山田石川麻呂が自殺した。
    • 3月26日 - 追討した軍が蘇我倉山田石川麻呂の首を斬った。
    • 4月20日 - 巨勢徳陀古を左大臣に、大伴長徳を右大臣にした。
    • 5月1日 - 三輪色夫と掃部角麻呂を新羅に遣わした。
    • この年 - 新羅が金多遂を遣わして人質にした。
  • 大化6年(650年
    • 1月1日 - 味経宮に行って賀正礼を行い、その日のうちに帰った。
    • 2月9日 - 穴戸国司の草壁醜経が白い雉を献じた。
  • 白雉元年(650年)
    • 2月15日 - 白雉を観る儀式を行い、大赦し、白雉と改元し、穴戸国に鷹を放つことを禁じ、同国の調を3年間免除した。
    • 4月 - 新羅が使を遣わして調を貢いだ。
    • 10月 - 宮地にするために墓を壊されたり家を遷されたりした人に物を与え、荒田井比羅夫に宮の堺の標を建てさせた。
    • この年
      山口大口が詔を受けて千仏の像を刻んだ。
      安芸国に百済舶2隻を造らせた。
  • 白雉2年(651年
    • 6月 - 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。
    • 12月30日 - 大郡から新しい宮に遷り、そこを難波長柄豊碕宮と名づけた(大化元年12月9日に同趣旨の記事あり)。
    • この年 - 新羅の貢調使の知万が唐国の服を着て筑紫に着いたので、その変更を咎めて追い返した。
  • 白雉3年(652年
    • 1月1日 - 元日礼を終えてから、大郡宮に行った。
    •  ?月 - 班田を完了した。
    • 3月 - 難波宮に帰った。
    • 4月15日 - 僧恵隠を内裏に呼び、『無量寿経』を講じさせ、沙門恵資を論議者とし、沙門1000人を作聴衆にした。
    • 4月20日 - 講じ終えた。
    • 4月 - 戸籍を造った。
      百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。
    • 9月 - 宮が完成した。
    • 12月30日 - 天下の僧尼を内裏に呼び、設斎、大捨、燃明した。
  • 白雉4年(653年
    • 5月12日 - 遣唐使を送った。一船の大使は吉士長丹、副使は吉士駒であった。別の一船の大使は高田根麻呂、副使は掃守小麻呂であった。
    • 5月 - 病中の旻法師の部屋に見舞いに行き、直接優しい言葉をかけた(白雉5年7月とも)。
    • 6月
      百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。
      旻法師の死を知り、使を遣わして弔問し、贈り物をした。また、法師のために多くの仏像、菩薩像を造らせ、山田寺に安置した。
    • 7月 - 難破した遣唐使船(高田根麻呂)の生存者5人の内、筏を作って助けを求めた門部金を褒め、その位を進め禄を授けた。
    • この年 - 皇太子(中大兄)が倭京に遷ることを請うたが、天皇は許さなかった。皇太子は、皇祖母尊(皇極前天皇)と皇后(間人)、皇弟を連れて倭飛鳥河辺行宮に行った。公卿大夫・百官の人らが皆随って遷った。天皇は恨んで皇位を去りたいと思い、宮を山碕に造らせ、歌を皇后に送った。
  • 白雉5年(654年
    • 1月5日 - 中臣鎌足に紫冠を授け、封を増した。
    • 2月 - 遣唐使を送った。押使は高向玄理、大使に河辺麻呂、副使に薬師恵日(5月とも)。
    • 7月24日 - 西海使の吉士長丹らが、百済と新羅の送使と共に筑紫に着いた。
    • 10月1日 - 天皇の病を聞き、皇太子が皇祖母尊・皇后・皇弟・公卿らを率いて難波宮に赴いた。
    • 10月10日 - 崩御。元号「白雉」が使用されなくなった。
  • 孝徳天皇10年(654年(但し孝徳天皇10年12月8日は、西暦655年1月20日))
  • 斉明天皇元年(655年
    • 1月3日 - 皇祖母尊が、飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)。

在位中の重臣一覧

年月日(西暦) 左大臣 右大臣 内臣
大化元年6月14日
(645年7月12日)
阿倍内麻呂 蘇我倉山田石川麻呂 中臣鎌足
大化5年3月17日
(649年5月3日)
蘇我倉山田石川麻呂 中臣鎌足
大化5年3月25日
(649年5月11日)
中臣鎌足
大化5年4月20日
(649年6月5日)
巨勢徳多 大伴長徳 中臣鎌足
白雉2年7月
(651年)
巨勢徳多 中臣鎌足

系譜

后妃・皇子女

系図

テンプレート:皇室飛鳥時代

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字山田にある大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「山田上ノ山古墳」で、直径32メートルの円墳である。

日本書紀』では天皇は白雉5年(654年)10月の崩御後、同年12月に「大坂磯長陵」に葬られたとする[2]。『延喜式諸陵寮では孝徳天皇陵は遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟を毎年あてるとする[2]。その後、元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、元治元年(1864年)に修復および拝所整備等が実施された[2]。現在の陵号には「坂」でなく「阪」の字が使用される。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照表

脚注

  1. 軽皇子の宮について、摂津有間(青木和夫「藤原鎌足」『日本古代の政治と人物』吉川弘文館、1977年)・摂津阿倍野(田村圓澄『藤原鎌足』塙書房、1966年)・和泉軽部郷(遠山美都男「〈乙巳の変〉の再構成-大化改新の新研究序説」『古代王権と大化改新 律令制国家成立前史』雄山閣、2005年)・摂津山崎(笹川尚紀「皇極朝の阿倍氏」『日本書紀成立史攷』塙書房、2016年)の諸説がある。
  2. 2.0 2.1 2.2 大阪磯長陵(国史).

参考文献

外部リンク