ヴァイキング

提供: miniwiki
移動先:案内検索


ファイル:Territories and Voyages of the Vikings blank.png
ヴァイキングの航海 緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は経路、数字は到達年。黒海カスピ海、北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも到達している

ヴァイキング: Viking: Viking: Wikinger)とは、ヴァイキング時代(Viking Age800年 - 1050年)と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィアバルト海沿岸地域の武装船団(海賊)を指す言葉。

彼らは北方系ゲルマン人で、ゲルマン民族移動の時代には南下(デーン人ユトランド半島進出など)により、西ヨーロッパとより近く接触するようになったが、9世紀に入って侵略などを活発化させた。

後の研究の進展により、ヴァイキングは「その時代にスカンディナヴィア半島、バルト海沿岸に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。そういった観点からは、ノルマン人とも呼ばれる。中世ヨーロッパ歴史に大きな影響を残した。西洋生活様式と思想は、個人主義がヴァイキングのイデオロギーに影響を受ける。

ヴァイキングは海賊交易・植民を繰り返す略奪経済を生業としていたのではなく、ノルウェー考古学者であるヘイエルダールが述べたように、故地においては農民であり漁民であった。

また、ヴァイキングたちの収益の大部分が交易によるものだったと言われている[1]。この事実から、ヴァイキングたちにとっても航海の主たる目的は交易であり、略奪の方がむしろ例外的なものだったと考えられる。金になるブリテン諸島イベリア半島イタリア半島バルカン半島ヨーロッパロシア、スカンディナヴィア半島、北アフリカ西アジアとの交易路[1]。例えばヴァリャーグからギリシャへの道コンスタンティノープルとの貿易、ヴァイキングの通商路である。

名称

古ノルド語: vikingr氷語: víkingur、フィヨルドから来たもの)。古ノルド語: vik氷語: vík)は入り江フィヨルドを意味する。

また、『サーガ』や『エッダ』などに「ヴァイキングに行く」という表現がみられるところから「探検」「航海」「略奪」などを意味するのではないかという解釈がある[2]

背景

どうして彼等が域外へと進出したのかについては下記のような学説がある。

現在の説

ヴァイキングによる拡大と侵攻は中世温暖期10世紀 - 14世紀)にはじまり、小氷河期14世紀半ば - 19世紀半ば)に収束しているが、その直接的なきっかけは不明であり、いくつかの説が存在する。

キリスト教と宗教的対立

ヴァイキング時代の始まりとされるリンディスファーンの蹂躙は、カール大帝によるザクセン戦争、すなわちキリスト教徒による異教徒に対する戦争と時期を同じくする。歴史家のRudolf SimekとBruno Dumézilはヴァイキングによる攻撃は同社会におけるキリスト教の広まりに対する反撃ではないかと位置付けている。Rudolf Simek教授は“初期のヴァイキングの活動がカール大帝の統治時代と時を同じくするのは偶然ではない”と分析する。カール大帝はキリスト教を掲げ、侵攻と拡大を繰り返しており、スカンディナビアにおけるその脅威は想像できる。また、キリスト教の浸透はスカンディナヴィアにおいて問題化していてノルウェーではそれが原因で1世紀に渡り深刻な対立が生じていた。通商・貿易面では、スカンディナヴィア人はキリスト教徒による不平等な条件の押しつけで苦しんでいたことが判明している。名誉を重んじ、名誉が汚された場合は近隣を襲撃することを厭わない文化において、上記のような原因で外国を襲撃することは考えられる。

技術的優位性からの富を求めた侵略

ヴァイキングは通商・貿易を業としていた民族である。そのため、ヴァイキングは中世ヨーロッパが未だ暗黒時代とされる頃から、東アジア・中東とも交流を行い、航海術だけではなく、地理的な知識・工業的な技術・軍事的な技術も周辺のヨーロッパ諸国を凌駕するようになった。その結果、富を求め近隣諸国を侵略していったとされるものである。

その他の説

  • 人口の過剰を原因とする説がある。寒冷な気候のため土地の生産性はきわめて低く、食料不足が生じたとされる。山がちのノルウェーでは狭小なフィヨルドに平地は少なく、海上に乗り出すしかなく、デンマークでは平坦地はあったが、土地自体が狭かった。スウェーデンは広い平坦地が広がっていたが、集村を形成できないほど土地は貧しく、北はツンドラ地帯だった。このため豊かな北欧域外への略奪、交易、移住が活発になったという仮説である。しかし、生産性が低く、土地が貧しいのなら、出生率が上がるとは考えにくく、今では否定的に捉えられている。
  • 人口過剰説として、中世の温暖期も原因とされることがある。温暖化により北欧の土地の生産性が上がったが、出生率がそれを上回って上昇したため、域外へ進出することを招いたという説である。
  • 大陸ヨーロッパでは民族大移動の真っ只中であり、弱体化したヨーロッパに付け入ったという説もある。
  • 能力を理由とする説もある。ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため(後述)、他の民族は対抗できなかったというものである。

風俗

ファイル:Prizvanievaryagov.jpg
史実に近い形で描かれたヴァイキング。ただしここに描かれている人物はノヴゴロド公リューリクであり、半伝説的な人物である事には留意されたい。

ヴァイキング戦士の格好は、同時代の西欧の騎士と同様の、頭部を覆う兜とチェーンメイルが一般的であった。丸盾と大型の戦斧が、ヴァイキングの装備の特長となる。

ノルウェーの10世紀の遺跡から出土した兜は、目の周りに眼鏡状の覆いがついていたが、角状の装飾品は見当たらない。むしろ同時代の西欧の騎士の兜が、動物や怪物を模した付加的な意匠を施す例があったのに対し、ヴァイキングの兜は付加的な意匠は乏しいと言える。

族長クラスは膝下までのチェーンメイルを身につけたが、一般のヴァイキングは膝上20cm程度のものを身につけていた。ヴァイキングとノルマン人の定義には曖昧なものがあり厳密な区分ができないが、ヴァイキングのチェーンメイルは黒鉄色、ノルマン人のチェーンメイルは銀白色、といった区分をする場合があり、アイルランド語ではヴァイキング・ノルマン人を「ロッホランナッホ (Lochlannach)」、つまり「白と黒」と呼んでいた。

ノルマン人と呼ばれる時代には、水滴状で鼻を防御する突起のついた兜が普及した。一体形成で意匠はさらに単純なものとなり、ノルマン・ヘルムと呼ばれた。これはノルマン人以外の西欧の騎士の間にも普及し、初期十字軍の騎士の一般的な装備ともなっている。

ステレオタイプ

ファイル:Leif Ericson on the shore of Vinland.gif
ステレオタイプなヴァイキング

一般に、角のついた兜と毛皮のベスト、といった服装が、ヴァイキングの服装のステレオタイプとして知られている。しかしこれは史実ではなく、当時のヴァイキングの遺跡からはこのような兜は出土していない[3]。角のついた兜は、古代ローマ時代にローマと敵対したケルト人の風俗が、後世になってヴァイキングの風俗として訛伝されたものである。なおかつケルト人は数多くの部族に分かれていた集団であり、兜の意匠は様々であり、角のついた兜はその中の一種類に過ぎず、さらに兜を被る事ができたのは一部の部族長クラスに限られる。

ヴァイキングの舟

ヴァイキングは「ロングシップ」と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロングシップは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出鬼没といえる。このため、アングロ・サクソン人諸王国や大陸フランク王国も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を受けることになる。ロングシップのほか、戦闘にも貿易にも使用できたと考えられているクナールなど、ヴァイキングは何種類かの船を併用していた[4]

ヴァイキング船については、オスロ市ビグドイ地区にあるヴァイキング船博物館、およびデンマークのロスキレにあるヴァイキング船博物館が中心となって研究がおこなわれている。また、ヴァイキングには、船を副葬にする慣習(船葬墓)があり、ノルウェー・ヴェストフォル県トンスベルグ近郊のオーセベリ農場の墳丘墓で見つかったオーセベリ船や、同じくノルウェーのヴェストフォル県サンデフィヨルドのゴクスタ農場墳丘墓で見つかったゴクスタ船など、いくつかの船が完全な形で発掘され、ヴァイキング船の研究に大きな役割を果たした[5]。オスロのヴァイキング船博物館には、オーセベリ船およびゴクスタ船トゥーネ船が展示されている。

商業

ヴァイキングは通常の商業も活発に行っており、ユトランド半島東岸のヘーゼビューや、スウェーデンのビルカは商業拠点として栄えた。ビルカからの交易ルートは、ルーシの地を経て東ローマ帝国イスラム帝国へと出る、いわゆるヴァリャーグからギリシャへの道によって東方世界とつながっており、9世紀のイスラム・ディレム銀貨がバルト海ゴトランド島から大量に発掘されるなど、当時混乱していた地中海交易の補完的な役割を果たしていた。

初期のヴァイキング

ファイル:Lindisfarne Abbey and St Marys.JPG
リンデスファーン修道院の廃墟

西暦700年代末頃からヴァイキング集団はブリテン諸島フリースラントへの略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。

本格的なヴァイキングの時代が始まるのは、793年の北部イングランドリンデスファーン修道院襲撃からとされる[6][7]。以後、795年にはヘブリディーズ諸島アイオナ修道院を略奪し、北海沿岸を襲撃していくようになった。だが、9世紀半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いくつかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。

中世初期の文献資料は、ヴァイキングに敵意を持つ西欧人の記した記録や伝承記が多い。中世の西欧人にとってノルマン人(ヴァイキング)とペスト(黒死病)は二大脅威だったのである[2]

793年、ノルマン人と思われる一団によって、ブリテン島東岸のリンディスファーン修道院が襲撃された。このことは「アングロ・サクソン年代記」に記されており、西ヨーロッパの記録に記された最初のヴァイキングの襲撃とみなされている。

ヴァイキングは、9世紀にフェロー諸島、次いでアイスランドを発見した。そしてアイスランドからグリーンランド、アメリカ大陸(ニューファンドランド島と推測される)へ進出した。彼らはまた、ヨーロッパの沿岸や川を通って渡り歩く優れた商人であったことから、グリーンランドを北端にして南はロシアの内陸河川を航行してイスタンブールに進出していった。

ヴァイキングは海岸線を伝い、現在のフランスやオランダにあたる地をしばしば攻撃した。デーン人は、834年にフランク王国を襲撃、843年にはロワール川の河口に近いナントを襲った[2]。10世紀に入るとパリがヴァイキングにより包囲され、ロワール川流域も荒廃した。10世紀初め、ヴァイキングの一首領ロロが西フランクを襲撃しない見返りとして、シャルル3世によってキリスト教への改宗と領土防衛を条件に、フランス北西部のセーヌ川流域に領土を封じられた[8]。これがノルマンディー公国の始まりである(なお、ロロの子孫で西フランク(フランス)王の臣下でもあったウィリアム1世がのちにイングランドに侵攻し、ノルマン朝を開いている。これが1066年のノルマン・コンクエストである)。

ヴァイキングの西欧への侵入は当初は略奪目的が少なくなかったものの、9世紀末以降は、ロロの例にみられるごとく定住化の傾向が顕著になる。これは、ヴァイキングの故郷であるデンマーク一帯に統一権力形勢の動きが起こることと連関があり、故国で志をえない有力者が部下とともに移住するケースとみられる[9]

各国のヴァイキング

デンマークおよびノルウェー

ファイル:England-878ad.jpg
デーンロウ:黄色の部分

アングロ・サクソンの史料においては、デンマークから来たヴァイキングはデーン人 (Daner, Dane) と呼ばれ[10]、ヴァイキングの代名詞となった。また、ノルウェーのヴァイキングは、ノース人 (Norsemen, Norse) と呼ばれる。この2国は主に西方に広がる北海方面へと進出した。

804年、フランク王国のカール大帝はザクセンを併合し、これによりフランクとデンマークは国境を接することとなった。これに危機感を抱いたデンマーク王ゴズフレズは、スラヴ人の商業都市レリクを808年に滅ぼして商人を自らの商業都市であるヘーゼビューへと移住させ、以後ヘーゼビューはデンマークの商業中心となっていった。その後、810年にはフランク王国の北端となったフリースラントへと侵攻している。次代のヘミングの代には一時和平が成立したものの、834年にはフリース人の商業中心であるドレスタットを襲撃し、以後フランク王国北岸への攻撃を強めていく。841年には、フランク王ロタール1世はデンマークの二人の首長、ロリクとハラルドにワルヘレン島やフリースラントなどを与え、懐柔を試みる。ロリクはこの時、ノルマン侯国をドレスタットを中心として建設し、数十年ほど国を維持する[11]。しかし、デーン人の南進は収まらず、さらにフランク王国自体が王位争いにより3分割されるに及んで、ヴァイキングの活動はさらに活発になった。

840年代にはロワール川河口やナントブルターニュを襲い、850年代にはジブラルタル海峡を回って地中海にまで進出し、イタリア半島やローヌ川流域を襲撃している。863年にはドレスタットを3たび襲撃し、この襲撃をもってドレスタットは完全に衰退する。

セーヌ川 (Seine) 河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス各地へと出撃した。851年にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、865年にはふたたびイングランドに来襲してノーサンブリアからイースト・アングリア一帯を占領し、さらにイングランド南部をうかがった。これに対し、ウェセックス王国のアルフレッド大王877年にデーン人を撃退し、翌878年ウェドモーアの和議によってイングランドは北東部と南西部に二分され、南西部をウェセックス王国が、北東部をデーン人の領域(デーンロウ)とすることが取り決められた。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史はアングロサクソン諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。911年にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長ロロの下に恒久的に定住し、ノルマンディー公国を形成することになる。

ヴァイキングはノルマン人とも言われるが、ノルマン人が居住したことからノルマンディーという地名が生まれた[10]

ノルマンディー公国成立後も、デーン人の進出は続いた。11世紀のデンマーク王族カヌートは父がヴァイキングを先祖とするデーン人で母が西スラヴポーランド人の王族であるがイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国の主となり、カヌート大王(在位1016年 - 1035年)と呼ばれる。しかしその後、1035年にカヌートが死去するとすぐにこの帝国にはほころびが生じ、1042年にはエドワード懺悔王がイングランド王位に就く。しかし彼の死後、ノルマンディー公ギョーム1066年にアングロサクソン・イングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)し、ノルマン王朝を築いた。

一方、地中海中央部のイタリア半島南部においては、999年ごろより聖地巡礼の帰路に立ち寄ったノルマン人たちが傭兵としてとどまり、ビザンツ帝国領や諸侯領のいりまじっていた南イタリアで徐々に勢力を拡大していく。こうしたなか、ノルマンディーの騎士ロベール・ギスカール1059年プッリャ公となり、やがて南イタリアを統一し、1071年には東ローマ帝国の拠点だったバーリを攻略。(ノルマン・東ローマ戦争)さらに1076年までに、当時イスラム勢力の支配下にあったシチリアを占領し、ノルマン朝オートヴィル朝)を開いた。1130年にはルッジェーロ2世が王位につき、シチリア王国が成立した。(ノルマン人による南イタリア征服)。

イタリアに渡ったノルマン人のうち、ターラント公ボエモンは、第一次十字軍に参加し、1098年アンティオキア公国を建国した。

ノース人の北方進出

ファイル:Ingolf by Raadsig.jpg
インゴールヴル・アルナルソン
ファイル:Thingvellir.jpg
シンクヴェトリルのアルシング開催地
ファイル:Carlb-ansemeadows-vinland-01.jpg
ランス・オ・メドーの家

ノース人はまた、独自に北方へと進出していた。8世紀にはオークニー諸島シェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島ヘブリディーズ諸島、東アイルランドに進出した。ノース人のヨーロッパ航路は、オークニー諸島・シェトランド諸島からアイルランド海峡を経て南下するものが主だった。9世紀半ばごろには、拠点としてアイルランド東岸にダブリンが建設された。

フローキ・ビリガルズソンらの航海によってアイスランドの存在が知られると、874年には、インゴールヴル・アルナルソンアイスランドへと入植し、レイキャヴィークに農場を開いた。彼はアイスランド最初の植民者であるとされる。これ以降、ノルウェーからの移住者が続々とアイスランドにやってきて入植していった。これらの入植は、やがて『植民の書』と呼ばれる書物にまとめられた。930年、アイスランド各地のシング(民会)の代表がシンクヴェトリルへと集結し、全島議会アルシングを開催し、以降毎夏開催されるようになった。

985年赤毛のエイリークグリーンランドを発見し、ここでもただちに入植がはじまった。その息子レイフ・エリクソン北アメリカにまで航海し、そこをヴィンランドと命名した。1000年のことである。(ノース人によるアメリカ大陸の植民地化)。この後もヴィンランドへは数度航海が試みられ、ソルフィン・カルルセフニは再到達に成功している。1960年にはカナダニューファンドランドにあるランス・オ・メドーでノース人の入植地跡が発見され、この到達が事実であることが確認された。これらの航海は、『グリーンランド人のサガ』および『赤毛のエイリークのサガ』というふたつのサガによって語り継がれ、この二つのサガを総称してヴィンランド・サガとも呼ばれる。しかし、このヴィンランド植民の試みは、スクレーリングと彼らの呼んだ先住民との対立によって潰え、ランス・オ・メドーも数年で放棄された。グリーンランドも数世紀植民地を維持したものの、寒冷化による食糧事情の悪化によって1430年前後に壊滅し、グリーンランド以西の植民地活動は最終的には失敗に終わった。

なお、開拓者の消滅後もデンマーク=ノルウェー王国は、グリーンランドを自国の領有地であると考え続け、18世紀以降、この島に対するデンマークの領有権主張の始まりとなった(デンマークによるアメリカ大陸の植民地化)。またノルウェー人も、20世紀初頭に「赤毛のエイリークの土地」と呼んでグリーンランドの領有権を主張していたが、現在、グリーンランドはデンマークの自治領となっている。

スウェーデン

ファイル:Varangian routes.png
地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「ヴァリャーグからギリシャへの道」を示す

スウェーデンのヴァイキングは、しばしばスヴェア人と呼ばれる。北方ドイツやフィンランド、東スラヴ地域へも進出した。東スラヴの地へ初期の進出は、8世紀後半から9世紀半ばにかけてあったとされる都市国家群のルーシ・カガン国の建国であった(国家群の民族構成には、ノース人の他、バルト人スラヴ人フィン人テュルク系民族も含まれている)。彼らはフランク王国の「サンベルタン年代記」などでノース人、あるいはスウェーデン人であったと伝えられている。このルーシ・カガン国が最期、発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。また、リューリクノヴゴロド公国で新しい公朝を立てたといわれているが、この論争はゲルマニスト・スラヴィスト間の対立として知られ、とくに『ルーシ年代記』にみられる「ルーシ」の同定、さらに「ルーシ」が国家形成で果たした役割をどう評価するかが論点となっている。ただし、現代では反ノルマン説は根拠に乏しいとして否定されている(反ノルマン説を提起するのは、多数の東欧の歴史家である。この問題は、史実的な問題というよりも政治的な問題である)。また、ノルマン人がルーシ国家の創設に深く関わっていたのは事実である。さらに、リガ湾フィンランド湾に流れ込む河川を遡り、9世紀にはバルト海黒海を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは東ローマ帝国の都コンスタンティノープルにまで姿を現している(839年頃)。このルートは直接イスラム世界へとつながるものであり、フランク王国経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた[12]。伝説的な要素も含む『原初年代記』によれば、882年にはドニエプル川を南下し、リューリクの息子イーゴリが、オレグを後見人にキエフ大公国を建国。彼らはヴァリャーグと呼ばれる。またサガスノッリ・ストゥルルソンヘイムスクリングラ」)やリンベルトによる聖人伝「聖アンスガールの生涯」によると、9世紀のスウェーデンのエリク王(族王)の時代には、エストニアクールラント(今のラトヴィアの一部)を支配していたが、それを失ったらしい。なお、スウェーデン・ヴァイキングには、フィン人も参加していたとフィンランドでは主張されているが、史実的な裏付けはない。

ヴァイキング後裔国家

ルーシ原初年代記によるとリューリクとその息子たちは東スラヴの各部族に要請されて一帯の統率者となり、860年から880年にかけてノヴゴロド公国キエフ大公国に新しい公朝を立てた。ただし、これは伝承的色彩の濃い史料に基づいており、リューリクが果たして本当に実在したヴァイキングだったのかを含めて、15世紀まで不確実性が残るが、いずれにせよ、この一帯に定住したヴァイキングは次第にスラヴ人同化して消滅していった。ルーシでは、スラヴ人君主ながら親スカンディナヴィア政策を取ったキエフ大公ウラジーミル1世までがヴァリャーグ人時代であったと言える(ノルウェー・ヴァイキングであるオーラヴ・トリグヴァソンや後にノルマン・コンクエストに関わるハーラル3世親衛隊としてキエフ大公国に仕えた他、ルーシにおける半伝説的存在であったリューリクを高祖とするリューリク朝が東スラヴ人の国家ではあったものの、1598年まで存在していたなどの影響が残った)。リューリクは、862年ラドガを自分の都と定めたが、ヴァイキングたちにとってもラドガは東方の拠点の一つでもあり、ラドガの周囲にはリューリク及びその後継者たちのものとされる陵墓も現存する。990年代にノルウェー・ヴァイキングのエイリーク・ハーコナルソンラドガ湖を襲い、ラドガの街に火をかけたことがサガに記されているほか、11世紀にスウェーデン王女とノヴゴロド公ヤロスラフ1世が結婚した時の条件として王女のいとこのスウェーデン貴族にラドガの支配を任じたことが年代記とサガに記されている。また、ラドガの発掘品からもラドガが次第にヴァリャーグの街となっていったことが確認でき、少なくとも二人のスウェーデン王(ステンキルインゲ1世)が青少年期をラドガで過ごしている。しかし12世紀以降、ラドガはノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和国)の所有する、交易のための死活的に重要な前哨地となり、さらに正教会の教会と要塞が建てられ、北欧との関係は薄れていった。

ノルウェー人の築いた植民地は、アイスランドの植民の成功を除き、全て13世紀から16世紀までに、北欧本国からの連絡が途絶えてしまったとされる。しかしその後も僅かながらの「白いエスキモー」、「金髪のエスキモー」に遭遇したと言う、船乗りたちの話が北欧に伝えられたのである。しかしヴァイキングの活動は急速に失われつつあった。

こうして初期のヴァイキングの自由、そして独立した精神は失われてしまったのである。海賊、交易民的な性格を失っていったヴァイキングは、次第にノルマン人と呼ばれる頻度が多くなっていく。

イングランド、ノルマンディー、シチリア、あるいは東方に向かったヴァイキング・ノルマン人たちは、その地に根付き、となり、貴族となった。やがてノルマン人としてのアイディンティティを喪失し、現地に同化していった。

一方でヴァイキングの故地たる北欧においても、徐々に強固な国家形成がなされていき、その住民たちも、デーン人、スヴェア人、ノース人、アイスランド人へと、それぞれの国家の国民、民族として分離していく。

こうして、13世紀までには、殆どのヴァイキング・ノルマン人は消滅していく事になる。

関連作品・ジャンル

上述の通り、角兜・毛皮のベストなどの、史実と異なるヴァイキングのステレオタイプの風俗が採用されている作品が多い。

漫画

映像

ゲーム

  • The Fury of the Norsemen: Micro history 4 - メーカーMetagaming、デザイナーK. Hendryxの1980年のゲーム。10 - 11世紀前後に活発に活動した、北欧のヴァイキングたちが蛮族として登場する戦略級 - 作戦級のウォーゲームは色々とあるが、非常に珍しい(おそらく唯一の)ヴァイキングのその襲撃行動そのものをシミュレートした作品。
  • ワールドヒーローズ - 使用キャラクターとしてエリック(エリック・ザ・バイキング)が登場する。赤毛のエイリークをモデルとしており、角兜に片手斧、ラウンドシールドを装備している。息子の名前がビッケ。

音楽

スポーツ

その他

  • スカンジナビア航空は、創設以来の伝統として、保有する航空機一機ずつに全て "○○ Viking" とヴァイキングの英雄の名を愛称として名づけており、北欧の民族としての誇りを強調する形を取っている。
  • 日本の飲食店では、食べ放題メニューがしばしば「バイキング」と呼ばれる。これは北欧の食べ放題メニューであるスモーガスボードを日本に導入した際、日本人には馴染みが無い言葉で発音もしにくい事から「北欧といえばバイキング」という連想で命名されたものである[13]

読書案内

日本語で記述された基本的な文献を出版年の新しい順に並べた。

  • 市川定春と怪兵隊 『幻の戦士たち』 新紀元社、2011年。ISBN 978-4775309421。
  • 角谷英則 『ヴァイキング時代(諸文明の起源9)』 京都大学学術出版会〈学術選書〉、2006年。ISBN 978-4-87698-809-9。
  • ラーション, マッツ・G. 『悲劇のヴァイキング遠征 東方探検家イングヴァールの足跡1036-1041』 荒川明久訳、新宿書房、2004-12。ISBN 978-4-88008-324-7。
  • 熊野聰 『ヴァイキングの経済学』 山川出版社、2003年。ISBN 4-634-49130-3。
  • 黒川祐次 『物語 ウクライナの歴史』 中公新書、2002年。ISBN 4-12-101655-6。
  • ファーバー, G. 『ノルマン民族の謎 海賊ヴァイキングの足跡』 片岡哲史戸叶勝也訳、アリアドネ企画〈アリアドネ古代史スペクタクル 5〉、2001-11。ISBN 978-4-384-02690-0。
  • クラーク, H. 『ヴァイキングと都市』 熊野聰監修、角谷英則訳、東海大学出版会、2001年。ISBN 978-4-486-01531-4。
  • ヒースマン姿子 『ヴァイキングの考古学』 同成社、2000年。ISBN 4-88621-210-7。
  • ベイティ, コーリン他 『ヴァイキングの世界』 グラハム=キャンベル, ジェームス編、熊野聰監修、ヒースマン姿子他訳、朝倉書店〈図説世界文化地理大百科〉、1999-05。ISBN 978-4-254-16656-9。
  • 伏島正義 『スウェーデン中世社会の研究』 刀水書房、1998年。ISBN 4-88708-223-1。
  • 『北欧の自然と生業』 ハストルプ, K.dansk版編、熊野聰、清水育男、早野勝巳訳、東海大学出版会〈北欧社会の基層と構造 2〉、1996-05。ISBN 978-4-486-01361-7。
  • 『図説ヴァイキングの歴史』 アルムグレン, B. (スウェーデン語版) 編、蔵持不三也訳、原書房、1990-06。ISBN 978-4-562-02101-7。
  • 熊野聰 『北欧初期社会の研究』 未來社、1986年。ISBN 4-624-11102-8。
  • 熊野聰 『北の農民ヴァイキング』 平凡社、1983年。ISBN 4-582-47407-1。

脚注

注釈

出典

  1. 1.0 1.1 Vikings as Traders(英語)
  2. 2.0 2.1 2.2 中丸 1999, pp. 147-148.
  3. ボワイエ 2001, p. 38.
  4. ボワイエ 2001, p. 116.
  5. ボワイエ 2001, p. 114.
  6. ボワイエ 2001, p. 20.
  7. 熊野 1998, p. 28.
  8. 堀米 1974, pp. 99-100.
  9. 堀米 1974, pp. 96-97.
  10. 10.0 10.1 熊野 1998, p. 26.
  11. 佐藤 2012, p. 22.
  12. 堀越 2006, pp. 130-131.
  13. 帝国ホテルで誕生 日本初の食べ放題”. TBS (2007年6月8日). 2007年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2015閲覧.(『はなまるマーケット』2007年6月8日放送分のインターネットアーカイブ、インペリアルバイキング・サール支配人(2007年6月当時)の発言より。)

参考文献

記事執筆時の参考文献を著者名順(50音順)に並べた。

  • 佐藤弘幸 『図説 オランダの歴史』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、2012-04。ISBN 978-4-309-76187-9。
  • 中丸明 「ヴァイキング」『海の世界史』 講談社〈講談社現代新書〉、1999年。ISBN 4-06-149480-5。
  • 堀越孝一 『中世ヨーロッパの歴史』 講談社学術文庫〉、2006-05。ISBN 978-4-06-159763-1。
  • 堀米庸三 『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』 中央公論社〈中公文庫〉、1974年。
  • ボワイエ, レジス 『ヴァイキングの暮らしと文化』 熊野聰監修、持田智子訳、白水社、2001-11。ISBN 978-4-560-02834-6。
  • 熊野聰 「第二章 ヴァイキング時代」『北欧史』 百瀬宏、村井誠人、山川出版社〈新版世界各国史 21〉、1998-08、新版。ISBN 978-4-634-41510-2。

関連項目

テンプレート:北欧の歴史