札幌農学校
札幌農学校(さっぽろのうがっこう)とは、明治初期に北海道札幌に置かれた教育機関であり、現在の北海道大学の前身である。
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概要
札幌農学校は日本で初めて卒業生に学士号(農学士)を授与した教育機関である。学士授与機関としては旧東京大学より約1年早く設立されたため、北海道大学では札幌農学校を日本初の学士の学位を授与する近代的大学として位置づけている[1]。
札幌農学校は札幌、ひいては北海道の開拓の歴史と密接に繋がっており、札幌の発展に伴って規模も拡大し、東北帝国大学農科大学、北海道帝国大学、そして現在の北海道大学へと発展した。
観光スポットとして有名な札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)と北海道大学植物園は、札幌農学校が現在の北海道大学札幌キャンパスに移転する前に完成したものであり、移転前の面影を残す貴重な施設となっている。
本項目では、札幌農学校の設立から北海道帝国大学に昇格するまでの歴史をまとめて記述する。
開拓使仮学校
1869年(明治2年)、札幌本府の建設が始まった。建設開始以前に札幌に住んでいた和人は2家族。
1872年5月21日(明治5年4月15日)、東京・芝増上寺の方丈25棟を購入して開拓使仮学校(初代校長は荒井郁之助)が設置された。北海道開拓に当たる人材の育成を目指し、後に札幌に移して規模も大きくする計画であったから、仮学校とよばれた。
初年度全生徒数は120名(官費生60、私費生60)で、年齢により普通学初級(14歳以上20歳未満)と普通学2級(20歳以上25歳未満)に割り振り、後に専門の科に進ませた。同年9月には女学校(官費生50名のみ)を併設した。なお、官費女学生は卒業後に北海道在籍の者と結婚することを誓わせられた。
札幌農学校
1875年(明治8年)5月、最初の屯田兵が札幌郊外の琴似兵村に入地した。また、札幌本府建設から5年経ちようやく町の形ができた北海道石狩国札幌郡札幌(現在の札幌市中央区北2条西2丁目)付近に仮学校が東京から移転し、同年7月29日に札幌学校と改称した[2]。この期に開拓使札幌本庁学務局所管となり、続いて9月7日に開校式を行った[2]。
1876年(明治9年)8月14日、札幌学校は札幌農学校と改称して開校式を挙行した(正式改称は同年9月)[2]。なお、8月24日には女学校も札幌に移転し開校したが、翌1877年(明治10年)には廃校になった。この女学校校舎は元の脇本陣を利用したもので、1879年(明治12年)1月17日に開拓使札幌本庁舎が全焼したあと、1888年(明治21年)12月14日に北海道庁 の赤レンガ庁舎ができるまでの間、開拓使、札幌県及び北海道庁の庁舎として使用された。現在の札幌市中央区南1条西4丁目(三越札幌店付近)にあった。
札幌農学校の初代校長は調所広丈が務めたが、当時の校長職は開拓使関連の多くの要職を兼務しているうちの一つにすぎず、実質的な責任者は教頭職であった。教頭にはマサチューセッツ農科大学学長のウィリアム・スミス・クラークが招かれた。クラークはわずか8ヶ月の滞在ではあったが、彼に直接科学とキリスト教的道徳教育の薫陶を受けた1期生からは、佐藤昌介(北海道帝国大学初代総長)や渡瀬寅次郎(東京農学校講師、実業家)らを輩出した。また、2代目のウィリアム・ホイーラー教頭もクラークの精神を引き継ぎ、2期生からは新渡戸稲造(教育者)、内村鑑三(思想家)、広井勇(土木工学)、宮部金吾(植物学)、伊藤一隆(中川翔子高祖父)らを出した。彼らは「札幌バンド」と呼ばれ、北海道開拓のみならず、その後の日本の発展に大きな影響を与えた。3期生の斎藤祥三郎は外務省翻訳官となり、その子斎藤博は駐米大使在任のままアメリカ合衆国で客死した。他に、各市県の知事・市長を歴任した高岡直吉、英語教育者佐久間信恭(第五高等学校、高等師範学校、大阪外国語学校等教師)、北海英語学校(現北海高等学校)設立者大津和多理、4期生には、国粋主義者志賀重昂(しげたか)、ジャパンタイムズ主筆頭本元貞、英語青年を創刊した武信由太郎、農商務大臣秘書官等から実業を経て衆議院議員となった早川鉄冶等が出た。1~5期生の多くが官立英語学校(元外国語学校 (明治初期))で学んでおり,いわば継続的イマージョン・プログラムで培った英語力で後に各界に飛躍した。
1879年(明治12年)に幌内炭鉱(幌内村。現・三笠市)が開山し、石炭積出港となる小樽港までの区間に官営幌内鉄道の建設が始まる。1880年(明治13年)11月28日、札幌・札幌駅 - 小樽・手宮駅間が新橋駅 - 横浜駅間、大阪駅 - 神戸駅間に続く鉄道として開通した(同年札幌区設置)。1882年(明治15年)11月13日には手宮駅 - 幌内駅間が全通(→幌内線、函館本線、日本の鉄道史)。この年、北海道の人口は20万人を越え、開拓使が廃止されて函館県・札幌県・根室県の3県が設置された。また、札幌農学校は農商務省の管轄になった。鉄道開通により、札幌は小樽港という外港を得て、政治面のみならず流通・経済でも中心地となっていき、以後函館に代わって札幌と小樽が道内の中心都市としての地位を築き上げていくことになる。
1884年(明治17年)、伊藤博文の命で北海道視察に訪れた内閣府書記官・金子堅太郎に「実業に暗く役に立たない」と酷評される事件があった。
1886年(明治19年)、3県は廃止されて北海道庁が設置された。北海道庁官制によって北海道庁長官を他府県の知事に当たる役職とした。
北海道では農業・開拓や国防を担う屯田兵制度が1875年(明治8年)5月から開始されたが、1880年代末には人口が30万人(→都道府県の人口一覧)を越えて開拓に適した土地が少なくなり、かつ炭鉱などの鉱業や流通業が主力産業となって人口が急増し始めた。すると新産業に対応出来ない札幌農学校の卒業生の北海道流出が増え、また志願者も減少する傾向が見られた。そのため、農業以外の高等教育の必要性が高まった。日清戦争の賠償金を元に1897年(明治30年)、京都帝国大学が設置されると、総合大学である帝国大学を北海道にも設置しようとの運動が盛んになった。
札幌農学校では開校初期にはアメリカ出身の教師が多かったこともあり、イギリス・アメリカ風の大農経営・畑作に重点をおく農学が講義されていた。しかし、第1期生の佐藤昌介が米留学中にジョンズ・ホプキンス大学でリチャード・T・イリーのもとで学んだことにより、保護貿易論者のイリーが影響を受けていたドイツ農学や歴史学派経済学の影響が1890年代半ばの農学校で強くなり、次第に中小農経営と米作に重点をおく農学へと学風が転換していった。
歴代校長
- 調所広丈:1876年9月8日 - 1881年2月
- 森源三:1881年2月 - 1886年12月28日
- (事務取扱)佐藤秀顕:1886年12月28日 - 1887年3月10日
- (代理)佐藤昌介:1887年3月22日 - 1888年12月
- 橋口文蔵:1888年12月 - 1891年8月14日
- (心得)佐藤昌介:1891年8月16日 - 1894年4月11日
- 佐藤昌介:1894年4月12日 - 1907年8月31日
東北帝国大学農科大学
- 東北帝国大学農科大学設立までの経緯は「帝国大学」も参照
1899年(明治32年)、札幌区が設置された(この年の年末の札幌区の人口は4万0578人、前年1898年(明治31年)の北海道の人口は76万6900人)。同年、森林科が設置される。この森林科は農学科本科に付属する予科と同じく中学校卒業者を受け入れるもので、専門学校であった。これは1905年(明治38年)には林学科となるが、やはり既設の農学科とは異なって学士の授与能力を持たなかった。この期に乗じて翌1900年(明治33年)、第14回帝国議会において野党から「九州東北帝国大学設置建議案」に続いて「北海道帝国大学設立建議案」が提出された。両建議案は可決され議会の意思が政府に示されたが、建議が法的拘束力を持っていないことや不況期だったことなどから政府は消極的だった。
1901年(明治34年)、他の府県より権限は小さいものの北海道会法によって議会が設置され、北海道地方費法によって「北海道地方費」という名称の法人格を持つ地方自治体となった。これで北海道は「1つの地方で1つの自治体」という特例ながら、国の直轄から自立した。この期に再度「北海道帝国大学設立建議案」が提出され、帝国議会で可決された。しかし、政府はまたも消極的であった。
1903年(明治36年)、札幌農学校は現在の札幌市北区北11条西6丁目(現在の北海道大学教育学部付近)に移転した。この年の年末の札幌区の人口は55,304人、北海道の人口は99万4300人。
日露戦争が終結した1906年(明治39年)6月には、札幌農学校を農科大学に昇格、新設予定の理工科大学と大学予科と合わせて「北海道帝国大学」とする案が文部省に陳情されたが、これは同時期に帝国大学設置を要望していた東北選出の代議士に反発された。この結果、札幌に新設予定だった理科大学を宮城県仙台市に設置することに変更し、札幌と仙台の分科大学を併せて帝国大学とする折衷案を政府に要求することになった[3]。
1907年(明治40年)6月22日の勅令によって、東北帝国大学を設置し、札幌農学校を東北帝国大学農科大学とすることが公布された。札幌農学校は同年9月1日付で東北帝国大学農科大学に改称し、9月11日に農科大学開校式を挙行[4]した。1907年(明治40年)当時の帝国大学およびその分科大学の立地は以下の通りである。
- 東京帝国大学(本部:東京市)
- 東京市所在:法・医・工・文・理・農
- 京都帝国大学(本部:京都市)
- 京都市所在:理工・法・医・文(医の名称は「京都医科大学」)
- 福岡市所在:医(医の名称は「福岡医科大学」)
- 東北帝国大学(本部:仙台市)※実際の本部設置は1911年以後。
- 仙台市所在:なし
- 札幌区所在:農
1907年(明治40年)勅令第236号第1条では「仙台ニ帝国大学ヲ置キ東北帝国大学ト称ス」と定められたが、当時の仙台では本部を含めた建物すら建造されていない状態であった。このため、設立当初は「東北帝国大学農科大学官制」により、農科大学長の佐藤昌介が総長職務を代行していた。実際に仙台で開学したのは1911年(明治44年)のことである。ただし、東北帝国大学としての開学式はすべての学年の学生が揃った 1913年9月22日に挙行された。
このように実質的には札幌農学校の帝国大学昇格としてスタートしたにも関わらず、大学全体として東北帝国大学の名称が使用された背景には、前述した1906年の折衷案を元に勅令を公布した経緯によるものとされる。
なお、北海道の教育環境を鑑みて農科大学附属となる高等農林学校程度の大学予科も設置された(帝大の予科は、後に設置された京城帝国大学予科と台北帝国大学予科の3校のみ)。1907年(明治40年)の年末の札幌区の人口は6万6193人、翌1908年(明治41年)の北海道の人口は132万2400人。またこのときすでに存在していた林学科も農科大学附属とされるが、1910年(明治43年)には講座制が適用され、他学科と同等に大学レベルの学科になる。これは東京帝国大学に続き2番目の旧制大学林学科であった。
1908年(明治41年)、有島武郎が英語講師として同農科大学に赴任した。
農科大学長
- 佐藤昌介:1907年9月1日 -
東北帝国大学農科大学時代は、全期間に渡り佐藤昌介が学長を務めた。
北海道帝国大学農科大学
1910年(明治43年)、小樽高等商業学校が設置され、北海道で農学と商学という複数の高等教育が受けられるようになった。しかし高等商業学校は大学予科と同レベル(大学予科と小樽高商で定期戦開催)であり、帝国大学とは格差があった。
東北帝国大学では1911年(明治44年)1月に理科大学が設置され、翌1912年(明治45年)4月1日に仙台医学専門学校が医学専門部(後に医科大学)として仙台高等工業学校(1906年(明治39年)設立)が工学専門部として包摂されるなど仙台での東北帝大拡充が続いた。
東北帝国大学理科大学新設と同じ1911年(明治44年)1月に、九州帝国大学が設置された。また同年4月には京都帝国大学の福岡医科大学が九州帝国大学に移管され、工科大学も新設された。
九州では京都帝国大学から独立して分科大学も複数設置されたのに対し、北海道での高等教育は従来の農学以外には広がらず、この時点で東北帝国大学からの独立も実現しなかった。このため北海道帝国大学設立の運動が再燃し、1911年(明治44年)に3度目となる「北海道帝国大学設立建議」が帝国議会にあげられた。採択はされたものの、この期にも北海道帝国大学設立には至らなかった。
その後、第一次世界大戦が始まって日本が好況に入ると風向きが変わり、大学令公布(1918年(大正7年)12月6日)に伴う各帝国大学の分科大学制から学部制への改組に先立って、仙台と札幌に分かれている東北帝国大学は各都市毎に分かれることになった。
1918年(大正7年)4月1日、北海道帝国大学設置。同時に東北帝国大学農科大学が東北帝国大学から分離され、北海道帝国大学に移管された。この年の年末の札幌区の人口は9万3218人、北海道の人口は、帝国大学設置運動が始まった頃の約10倍の204万8600人となっていた。
翌1919年(大正8年)2月、大学令に基づいて北海道帝国大学農科大学は北海道帝国大学農学部に改組され、同時に医学部も設置された。以後、1924年(大正13年)に工学部、1930年(昭和5年)に理学部が設置されるなど、高等教育を拡充して総合大学となっていった。
なお六大都市の大阪市(125万人)や名古屋市(43万人)、あるいは広島市(16万人)や金沢市(13万人)に比べて人口が少ない仙台市(12万人)、札幌区(10万人)、福岡市(9.5万人)に政策的な理由で帝国大学が設置されたため、他の大都市では帝国大学設置運動がその後も続いた(→都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位#1920年(大正9年)の人口順位)。
以後の歴史については北海道大学を参照。
(参考)1920年(大正9年) 国勢調査時点の道内の都市人口順位
校名が題材となった物
脚注
参考文献
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 早川勇著『英語辞書と格闘した日本人』テクネ、2014年。(クラーク及び多くの札幌農学校卒業生に言及)
- 『官報』
- 蝦名賢造(1991).『札幌農学校―日本近代精神の源流』新評論.
- 外山敏雄(1992).『札幌農学校と英語教育―英学史研究の視点から―』思文閣出版.
- 札幌市教育委員会文化資料室(編)(1992).『農学校物語』北海道新聞社.
- 馬場宏明(1998).『大志の系譜―一高と札幌農学校』北泉社.
- 赤石恵一(2008).「札幌農学校のイマージョン・プログラム―1・2期卒業生英語学習の軌跡―」『日本大学大学院総合情報研究科紀要』8,125-136.
- Akaishi, K. (2010). Good foreign language learners: A case study on the graduates of Sapporo Agricultural College 1880-1885. 『言語と文化論集』特別号,1-293.
- 東北大学金属材料研究所(編)(2016)「片平の散歩道 金研百年の歩みとともに」河北新報出版センター
関連項目
外部リンク
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