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{{内閣総理大臣項目}}
 
{{日本の統治機構}}
 
{{日本の統治機構}}
'''内閣総理大臣'''(ないかくそうりだいじん、{{lang-en-short|prime minister}})とは、[[日本|日本国]]において[[行政|行政権]]の属する[[内閣 (日本)|内閣]]の[[首長]]たる[[国務大臣]]である([[日本国憲法第66条|憲法第66条]]1項)。したがって、日本国における[[政府の長]]である。[[文民]](憲法第66条2項)かつ[[日本の国会議員|国会議員]]の中から[[国会 (日本)|国会]]の[[内閣総理大臣指名選挙|議決で指名]]され([[日本国憲法第67条|憲法第67条]])、これに基いて[[天皇]]によって任命される([[日本国憲法第6条|憲法第6条]])。略称は'''総理大臣'''ないしは'''[[総理]]'''。一般的には'''[[首相]]'''、まれに'''[[宰相]]'''とも言う。現任は[[安倍晋三]]。
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'''内閣総理大臣'''(ないかくそうりだいじん、{{lang-en-short|prime minister}}
  
== 地位 ==
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[[内閣]]の首長で (憲法 66条1項) ,国会議員のなかから国会の議決で指名され (67条1項) ,天皇によって任命される (6条1項) 。首相ともいう。
=== 指名と任命 ===
 
内閣総理大臣は、[[日本の国会議員|国会議員]]の中から国会の議決([[内閣総理大臣指名選挙|首班指名]])でこれを指名する([[日本国憲法第67条|憲法67条1項]])。指名の資格要件は[[日本の国会議員|国会議員]]であることと[[文民]]であることである。指名選挙は[[衆議院]]と[[参議院]]の両院で行われ、両院の指名が食い違った場合は[[両院協議会]]が開催されるが、両院協議会で成案が得られない場合は衆議院による指名が国会議決となる。過去に両院協議会が開かれた例はあるが、成案が得られた例はない。また、実例は無いが、衆議院の指名後10日を経ても参議院が指名を行わない場合は衆議院による指名が国会議決となる。事実上、[[衆議院]]の多数勢力の意向の通りに指名がなされる仕組みである。
 
# [[日本の国会議員|国会議員]]
 
#:内閣総理大臣は、国会議員の中から指名する(憲法第67条1項)。憲法は[[議院内閣制]]を採用しており、内閣は[[衆議院]]の信任を常に確保する必要がある。したがって、内閣総理大臣は衆議院において最大勢力を占める[[政党]]の[[党首]]、又は[[連立政権|連立]]を組む政党の党首のいずれかが任ぜられている。首班指名時における内閣総理大臣の要件は「国会議員」とのみ規定されているので、衆議院・[[参議院]]いずれの議員でもよいが、憲法施行後に就任した内閣総理大臣は全て衆議院議員から選出されている。法律上明記はされていないが、国会議員であることは選任要件であると同時に在職要件でもあるとされる<ref name="satou-826-827">佐藤功著 『新版 憲法(下)』 有斐閣、1984年、826-827頁</ref>。ただし[[衆議院解散]]や議員任期満了に伴って衆議院議員を失職しても、[[衆議院議員総選挙]]後の国会召集まで職に留まる。現職の内閣総理大臣が衆議院議員選挙で落選した例はない。
 
# [[文民]]
 
#:内閣総理大臣その他の[[国務大臣]]は、文民でなければならない([[日本国憲法第66条|憲法66条2項]])<ref group="注釈">政府見解(後述)によれば、憲法66条2項の「文民」とは、次に掲げる者'''以外の者'''をいう。<br />一 旧陸海軍の職業軍人の経歴を有する者であって、[[軍国主義]]的思想に深く染まっていると考えられるもの<br />二 [[自衛官]]の職に在る者</ref><ref group="注釈">[[1973年]](昭和48年)12月19日(72回国会)の衆議院建設委員会において、[[大村襄治]][[政府委員]]([[内閣官房副長官]])は「政府といたしましては、憲法第六十六条第二項の文民につきましては、「旧陸海軍の職業軍人の経歴を有する者であって、軍国主義的思想に深く染まっていると考えられるもの」、それから「自衛官の職に在る者」、この二つを判断の基準にいたしているわけでございます。」と答弁している。</ref>。旧軍の将校や兵の経験者が内閣総理大臣や国務大臣を務めた例はあり、また自衛隊出身者が内閣総理大臣となった例はないものの、国務大臣を幹部自衛官退職者が務めた例はある。
 
 
 
指名の結果は、直ちに[[衆議院議長]]が職務執行内閣を経由して[[天皇]]に奏上する<ref>[[国会法]]第65条2</ref>。先例では別途衆議院議長が皇居で指名の経過を天皇に直接報告する。天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する([[日本国憲法第6条|憲法6条1項]])。内閣総理大臣の任命は天皇の[[国事行為]]の一つであり、既に[[内閣総辞職]]した前内閣が、[[日本国憲法第71条|憲法71条]]に基づく[[職務執行内閣]]としてこれに「助言と承認」を与える。[[親任式]]には両院の議長が参列し、天皇が口頭で任命の旨を新首相に伝えた後、首相が交代する場合は職務執行内閣の首相が新首相に官記を手渡す。首相が再任される場合は職務執行内閣の国務大臣が官記を手渡す<ref>[[s:親任式及び認証官任命式の次第]]</ref>。[[#辞令の書式]]節も参照。
 
 
 
=== 任期 ===
 
憲法上、内閣総理大臣の任期について直接的に規定した条文はない。憲法では衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は総辞職をしなければならないとされているので、このことから内閣総理大臣の一回の任期は次の衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集が行われる時までとなり最長でも4年を超えないことになる<ref group="注釈">なお、公職選挙法第57条が規定する[[繰延投票]]が行われて衆議院議員総選挙で投票が遅れることによって国会の召集の時期が遅れることがあれば、首相の在任期間が4年を超えることも制度上はあり得なくはない。</ref>([[日本国憲法第70条|憲法第70条]])。もちろん、この規定は新たに召集された国会において再選されることを禁じるものではないので、制度上は国会議員として首班指名を受け続ける限り内閣総理大臣を続けることができる。
 
 
 
ただ、通常、内閣総理大臣は[[与党]]党首の地位を前提として与党議員からの信任を得ているが、その政党の内規で党首職に再選制限が設けられている場合、その年限が事実上の任期の上限となることがある。
 
 
 
=== 退任と代理 ===
 
;退任
 
:「衆議院で[[内閣不信任決議]]が可決、又は[[内閣信任決議]]を否決した場合、10日以内に[[衆議院解散|衆議院を解散]]<ref group="注釈">衆議院を解散すれば[[内閣総辞職]]をしなくてもいいが、[[衆議院議員総選挙]]が行われ、その後に初めて[[国会 (日本)|国会]]の召集があったときには結局総辞職をすることになる。衆議院議員総選挙によって首相支持勢力が衆議院議席の過半数を獲得したならば、[[内閣総理大臣指名選挙]]で再指名されることにより引き続き内閣総理大臣の職にとどまることができるが、首相支持勢力が過半数を割り内閣総理大臣指名選挙で再指名されない場合は内閣総理大臣を続けることができない。</ref>しないとき」([[日本国憲法第69条|憲法69条]])、また、「内閣総理大臣が欠けたとき」あるいは「衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があった時」([[日本国憲法第70条|憲法70条]])は首相退任(内閣総辞職)をしなければならない。以上は義務であり、これ以外でも任意に首相退任(内閣総辞職)ができる。首相が欠けるか退任した際には、内閣は直ちにその旨を両議院に通知しなければならない<ref>国会法第64条</ref>。
 
:{{main|内閣総辞職|倒閣}}
 
;臨時代理
 
:「内閣総理大臣に事故のあるとき」「内閣総理大臣が欠けたとき」はあらかじめ指定する国務大臣が、内閣総理大臣臨時代理として職務を行う(内閣法第9条)。
 
 
 
:内閣総辞職に至るまで無期限に臨時代理が置かれた例としては、[[第2次大平内閣]]の[[伊東正義]]が、首相死去後に事前指名に基づいて臨時代理に就任し、直ちに内閣総辞職した例、また[[石橋内閣]]の[[岸信介]]と[[小渕内閣]]の[[青木幹雄]]が、入院中の首相から指名された直後に臨時代理に就任し、内閣総辞職を行った例がある。首相の外遊中に限って臨時代理が職務を代行した例は多くある。
 
:{{main|内閣総理大臣臨時代理}}
 
;職務執行内閣
 
:内閣総辞職の後、新首相が任命されるまでの間は総辞職した前内閣が引き続き職務を執行する([[日本国憲法第71条|憲法71条]])ため、辞任直後の前首相も引き続き職務を執行する。同様に、内閣総理大臣臨時代理に率いられる内閣が総辞職した場合も、前内閣総理大臣臨時代理が、新首相が任命されるまで引き続き職務を執行する。
 
:{{main|職務執行内閣}}
 
 
 
=== 所管 ===
 
内閣総理大臣は以下の機関を所管し[[内閣法]]にいう[[主任の大臣]]を務める。
 
*[[内閣官房]](内閣法24条)。- [[内閣官房長官]]が事務を統括する(内閣法13条3項)。
 
*[[内閣法制局]]([[内閣法制局設置法]]7条)。- [[内閣法制局長官]]が事務を統括する(内閣法制局設置法2条2項)。
 
*内閣府([[内閣府設置法]]6条2項)。- 自身の補助者として[[内閣府特命担当大臣]]を置くことができる(内閣府設置法9条1項)。内閣官房長官は、内閣総理大臣を助けて内閣府の事務を整理し、所要の事務について統括する(同法8条1項)。
 
*[[復興庁]]([[復興庁設置法]]6条2項)。- やはり自身の補助者として[[復興大臣]]を置く(同法8条3項)。[[東日本大震災]]を受けての臨時措置。
 
*内閣に設置される種々の「会議」「本部」等(たとえば、[[国家安全保障会議 (日本)|国家安全保障会議]]([[国家安全保障会議設置法]]13条))。
 
 
 
== 権限 ==
 
[[画像:Go-shichi no kiri crest.svg|thumb|130px|内閣総理大臣と[[日本国政府|政府]]の[[紋章]]である「五七の[[桐花紋]]」]]
 
[[画像:Standard of the Prime Minister of Japan.svg|thumb|130px|[[自衛隊]]で用いられる[[自衛隊の旗|内閣総理大臣旗]]]]
 
日本国憲法およびその他の法令が規定する内閣総理大臣の主な権限は次の通り。
 
 
 
=== 憲法・内閣法等 ===
 
*他の[[国務大臣]]を任命し、任意に[[罷免]]すること([[日本国憲法第68条|憲法68条]])。
 
:この国務大臣の任免権は内閣総理大臣の専権事項とされ臨時代理は任免権を持たない<ref name="satou-859-860">佐藤功著 『新版 憲法(下)』 有斐閣、1984年、859-860頁</ref><ref name="higuchi-nakamura-satou-urabe-216-217、219">樋口陽一・中村睦男・佐藤幸治・浦部法穂著 『注解法律学全集3 憲法III(第41条~第75条)』 青林書院、1998年、216-217頁、219頁</ref>。
 
*在任中の国務大臣に対する訴追に同意すること([[日本国憲法第75条|憲法75条]])。
 
*内閣を代表して議案を国会に提出すること([[日本国憲法第72条|憲法72条]])。
 
*内閣を代表して一般国務及び[[外交]]関係について、国会に報告すること(憲法72条)。
 
*内閣を代表して行政各部を指揮監督すること(憲法72条)。
 
*法律及び政令への連署をすること([[日本国憲法第74条|憲法74条]]、権限であると同時に義務でもある。いわゆる拒否権はない)。
 
*[[閣議]]を主宰すること([[s:内閣法#4|内閣法4条]]2項)。
 
*閣議において、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議すること(内閣法4条2項)。
 
*内閣総理大臣及び主任の国務大臣の代理を指定すること([[s:内閣法#9|内閣法9条]]、[[s:内閣法#10|10条]])。
 
*行政各部の処分又は命令を中止せしめ、内閣の処置を待つこと([[s:内閣法#8|内閣法8条]]、「中止権」)。
 
*[[皇室会議]]の議長として、これを招集すること([[皇室典範]]29条、33条)。
 
*[[裁判所]]による行政処分等の停止に対して異議を申し述べる事([[s:行政事件訴訟法#27|行政事件訴訟法27条]])。
 
*[[告訴]]をすることができる者が[[天皇]]、[[皇后]]、[[太皇太后]]、[[皇太后]]又は[[皇嗣]]であるときは内閣総理大臣が、外国の君主又は大統領であるときはその国の代表者がそれぞれ代わって告訴を行う。([[刑法]]232条2項)
 
 
 
=== 警察法・自衛隊法等 ===
 
*大規模な災害又は騒乱等の[[緊急事態]]に際して緊急事態の布告を発し([[警察法]]71条)、一時的に[[日本の警察|警察]]を統制すること(72条)。
 
*内閣を代表し、[[自衛隊]]の[[最高指揮官|最高指揮監督権]]を有する([[自衛隊法]]7条)。
 
*武力攻撃事態に際して、自衛隊に出動を命ずること(自衛隊法76条、「[[防衛出動]]」)。
 
*[[間接侵略]]又はその他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては治安を維持が不可能な場合に、自衛隊に出動を命ずること(自衛隊法78条、「命令による[[治安出動]]」)。
 
*防衛出動又は治安出動による自衛隊に対する出動命令があった場合において、特別の必要があると認めるときは、[[海上保安庁]]をその統制下に入れること(自衛隊法80条)。
 
*武力攻撃事態等に際して内閣に設置される「武力攻撃事態対策本部」の対策本部長として、関係する行政機関、地方自治体、指定公共機関が実施する対処措置に関する総合調整を行うこと([[武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律|武力攻撃事態平和確保法]]14条)。
 
*武力攻撃から国民の生命、身体又は財産を保護するため緊急の必要があると認める場合に、警報を発令すること([[武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律|国民保護法]]44条)。
 
*非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、閣議にかけて、災害緊急事態の布告を発すること([[災害対策基本法]]105条)。
 
*[[防衛大臣]]に対する海賊対処行動の承認と国会への報告([[海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律]]7条)。
 
*[[気象庁]]長官から[[地震予知]]情報の報告を受けた場合において、[[地震]]防災応急対策を実施する緊急の必要があると認めるときは、閣議にかけて、地震災害に関する[[警戒宣言]]を発すること([[大規模地震対策特別措置法]]9条)。
 
*[[新型インフルエンザ]]等<ref group="注釈">[[感染症法]]第六条第七項に規定する新型インフルエンザ等感染症及び同条第九項に規定する新感染症(全国的かつ急速なまん延のおそれのあるものに限る。)。</ref>が国内で発生し、その全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼし、又はそのおそれがあるものとして政令で定める要件に該当する事態が発生したと認めるときは、新型インフルエンザ等緊急事態宣言を発すること並びにその旨及び当該事項を国会に報告すること([[新型インフルエンザ等対策特別措置法]]32条)。
 
 
 
=== その他の法律 ===
 
*[[中央労働委員会]]の公益委員の任命([[労働組合法]]19条の3第2項)。
 
*労働関係調整法上の公益事業の指定([[労働関係調整法]]8条2項)。
 
*労働関係調整法上の緊急調整権(労働関係調整法35条の2)。
 
*景品表示法上の措置命令([[景品表示法]]6条)。
 
*統計法上の[[国民経済計算]]の作成([[統計法]]6条1項)。
 
*統計委員会委員・臨時委員の任命(統計法47条)。
 
*[[中央選挙管理会]]委員の任命・罷免([[公職選挙法]]5条の2)。
 
*[[預金保険機構]]に対する出資に対する認可(株式会社企業再生支援機構法51条)
 
*[[中央障害者施策推進協議会]]委員の任命(障害者基本法25条)
 
*[[日本放送協会]]経営委員会の委員の任命([[放送法]]16条1項)。
 
*台風常襲地帯における災害の防除に関する特別措置法による災害防除事業等の指定(台風常襲地帯における災害の防除に関する特別措置法2条、3条)。
 
 
 
このほか、内閣府およびその[[外局]]([[金融庁]]、[[消費者庁]]など)や内閣に置かれる本部等の主任の大臣として、審議会委員等の任免権や各種許認可権を有する。特に、内閣府の外局の一つである金融庁に関連する許認可権が多い([[銀行法]]や[[貸金業法]]、[[金融商品取引法]]など)。
 
 
 
[[1991年]]までは、[[機関委任事務]]に従わない[[都道府県知事]]について、司法手続きを経て罷免する権限を有していた([[地方自治法]]旧第146条)。[[2001年]]には、閣議における内閣総理大臣の発議権が法制化(内閣法第4条の改正)され、各省に対する指揮監督権が強化された。
 
 
 
== 内閣総理大臣の一覧 ==
 
{{main|内閣総理大臣の一覧}}
 
;現在
 
{{現在の内閣総理大臣}}
 
 
 
== 変遷 ==
 
{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}
 
=== 明治維新後 ===
 
[[画像:Itô Hirobumi.jpg|thumb|130px|初代内閣総理大臣<br />[[伊藤博文]]]]
 
[[明治維新]]以降、当初は[[五箇条の御誓文]]に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針に則り、旧来通りの[[太政官|太政官制度]]によって行われてきた。しかし、[[奈良時代]]から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を[[輔弼]]するのは[[太政大臣]]・[[左大臣]]・[[右大臣]]であり、これによって「指揮」される[[参議]]と各省の[[卿]]には輔弼責任が無く、また[[太政大臣]]が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。
 
 
 
[[1880年]](明治13年)頃から[[参議]][[伊藤博文]]はこの「太政官制」の改革を提唱し始めたが、[[保守]]派の右大臣[[岩倉具視]]が反発した。当時の伊藤博文には重鎮たる岩倉具視に対抗するだけの政治力がなかった([[明治十四年の政変]]による[[大隈重信]]追放は、岩倉具視が宮中を動かして進められたために、伊藤博文も岩倉具視との衝突によって「第二の大隈」になる可能性があった)。そのため、伊藤博文は一旦この提案を引き下げて[[1882年]](明治15年)3月から[[伊東巳代治]]、[[西園寺公望]]らと共に渡欧し、[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[イギリス]]などで憲法を含む[[立憲体制]]の調査に当たったが、この時から「文明諸国と同等の政府」の骨格が具体的に構築されていく。そして、岩倉具視の死後に帰国した伊藤博文はドイツで研究した立憲体制に則した政治体制構想の実施を進めようとした。
 
 
 
これに対して、岩倉具視と同じく保守派の太政大臣[[三条実美|三條實美]]らは、右大臣に伊藤博文を充てるという人事改革案で応酬した。しかし伊藤博文はこれを丁重に断り、代わって[[黒田清隆]]を推したが、今度は酒乱の気がある黒田清隆に保守派が尻込み、結局この「改革合戦」は引き分けに終わった。その後も伊藤博文等はこれに怯まず「[[内閣]]」制度を提案し、「君主立憲政体なれば、君位君権は立法の上に居らざる可からずと云の意なり。故に、憲法を立て立法行政の両権を並立せしめ(立法議政府、行政宰相府)恰も人体にして意想と行為あるが如くならしめざる可からずと云」という伊藤博文の語録にあるように、憲法とセットして[[近代]]的[[内閣|内閣制度]]を突き付けられては、保守派も反対の名目がなく、伊藤博文の意向が通る形となった。
 
 
 
=== 太政官達69号と内閣職権 ===
 
{{Wikisource|太政大臣左右大臣等ヲ廢シ内閣總理大臣等ヲ置ク}}
 
[[1885年]](明治18年)12月22日に、「[[太政官布告・太政官達|太政官達]]第六十九号」が発せられ、「[[太政官制]]」「[[太政大臣]]」に代わって「[[内閣]]」と「内閣総理大臣」が設置され、ここに内閣制度が始まった。「内閣」の組織には[[宮内大臣]]は含まれないことが明記され、「[[宮中]](宮廷)」と「府中(政府)」の別が明定され、行政責任を各省大臣が個別に負う体制の基礎が生まれた。このとき同時に制定された[[内閣職権]]においては、「内閣総理大臣」には「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」(二條)と、最初は強力な権限を与えられていた。
 
 
 
=== 内閣官制 ===
 
[[画像:Yamagata Aritomo cropped.jpg|thumb|130px|[[大日本帝國憲法|旧憲法]]制定後初の内閣総理大臣<br />[[山縣有朋]]]]
 
[[1889年]](明治22年)に[[大日本帝国憲法]]が発布されるが、同法においては「内閣」や「内閣総理大臣」について直接の規定は明記されず、同第55条において「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と明記されたのみであった。また、同時に「[[内閣職権]]」を改正する形で制定された「[[内閣官制]]」において「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(2条)と、その権限は弱められた。
 
 
 
権限としては、「内閣総理大臣」は「同輩中の首席大臣」として天皇を輔弼する存在とされ、「内閣」は各大臣の協議と意思統一のための組織体と位置付けられた。内閣総理大臣は各部総督権を有して大政の方向を指示するために機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したものの、いったん閣内に意見の不一致が起こると、内閣総理大臣は各大臣の罷免権が無く大臣を罷免することはできず、説得や辞任を促すことくらいで、これが失敗すれば[[内閣総辞職]]するしかなかったのである。事例として[[東條内閣]]の総辞職原因は、国務大臣の[[岸信介]]が辞職を拒否したことによるものであり、また[[第2次近衛内閣]]は、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[松岡洋右]]を更迭するために総辞職という手段を使わざるを得なかった。また、明治の一時期と昭和初期から終戦まで規定されていた[[軍部大臣現役武官制]]によって、組閣は軍による制約を受けた。特に陸軍は内閣が自らの意向に沿わない場合には、[[陸軍大臣]]を辞任させた上で後任を推薦せず、これによって[[第2次西園寺内閣]]・[[米内内閣]]が崩壊し、[[宇垣一成]]が組閣を阻止された。
 
 
 
地位としては、皇室儀制令においての[[宮中席次]]は[[大勲位]]についでの地位にあり、[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長よりも格上とされ、[[儀礼]]上では府中の最高位と位置付けられていた。
 
 
 
任免については、内閣総理大臣は、各国務大臣同様に天皇により任命され([[大命降下]])、その選出方法については法令によって規定されなかった。明治初期~昭和初期までは、[[元老]]による推薦に基づいて任命されていたが、そのうち[[大正]]末期~[[昭和]]初期にかけては、[[大正デモクラシー]]による政党政治が基本となり、[[衆議院]]での第一党の党首が推薦され、任命されていた([[憲政の常道]])。その後、「最後の元老」西園寺公望の老衰に伴い、昭和初期~終戦までは、「[[重臣会議]]」の奏薦によって任命されている。
 
 
 
=== 日本国憲法と内閣法 ===
 
[[画像:Tetsu Katayama.jpg|thumb|130px|[[日本国憲法|新憲法]]制定後初の内閣総理大臣<br />[[片山哲]]]]
 
[[1946年]](昭和21年)[[11月3日]]に[[日本国憲法]]が公布され、同第[[日本国憲法第66条|66条]]に「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」と明記され、初めて[[憲法]]に明記され規定された。これに伴い、翌[[1947年]](昭和22年)[[1月16日]]に施行された内閣法では、「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」([[s:内閣法#6|6条]])など、その権限が強化された。
 
 
 
日本国憲法下の内閣総理大臣は、閣内に意見の不一致が起こった場合は、罷免して自らの意見を通すことができる。また何らかの理由で大臣が突然辞職しても、内閣総理大臣はその後任を任意に任命することができる。この顕著な例が[[衆議院解散|衆議院解散権]]である。憲法上、衆議院の解散は内閣の助言と承認により天皇が行うことになっているが([[日本国憲法第7条|7条3号]])、これはつまり「解散権は内閣に属す」ということで「閣議決定なしには解散はできない」ということであるが、一般に「解散権は内閣総理大臣の専権」と解釈されているのは、解散に反対して閣議書への署名を拒否する大臣がいたとしても、内閣総理大臣はその大臣を罷免した上で、自らが兼務して閣議書へ署名することができるからである<ref group="注釈">2016年時点では、[[2005年]]の[[郵政解散]]の際に[[小泉純一郎]]首相が[[島村宜伸]][[農林水産大臣|農水相]]を罷免したのが唯一の例。</ref>。仮に全閣僚が反対したとしても、内閣総理大臣はすべての大臣を罷免・兼務してでも解散を閣議決定できる([[一人内閣]])。したがって、内閣総理大臣が解散を行うと決めた場合、これを阻止する手立ては法令上はないのである。このように、大臣に対する任意の罷免権の効果は極めて大きい。
 
[[画像:歴代首相の花押一覧 (初代から44代まで).png|thumb|260px|歴代内閣総理大臣の花押(初代から第44代まで)。[[閣議]]で作成される文書には、署名の代わりに[[花押]]が用いられる。]]
 
 
 
== 呼称 ==
 
{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}
 
{{要出典範囲|内閣制度創設を前に、内閣の首長たる大臣をどのように呼ぶかが問題となったが、伊藤や側近の伊東巳代治、[[金子堅太郎]]などは日記や備忘録などに「'''首相'''」「'''宰相'''」という語を用いていた。しかし[[保守派]]の[[太政大臣]]・[[三条実美|三條實美]]を納得させるためには、日本の指導者の呼称は[[大化の改新]]から連綿と続く「○○'''大臣'''」である必要があった。そのため、内閣を[[総理]]する地位に照らし、「内閣総理大臣」との名称が与えられた。|date=2016年9月}}
 
 
 
内閣制度発足当時から、内閣総理大臣の略称として、一般に「'''総理大臣'''」がよく用いられるが、このほかにも、「'''総理'''」や「'''首相'''」との略称も用いられる。現代ではまれだが、「'''宰相'''」が用いられることもある。
 
 
 
公式の英語表記は「'''Prime Minister'''」である。この英訳は内閣制度導入前より「太政大臣」の英訳として非公式に用いられていた。もっとも、「内閣総理大臣」の英訳としては当初からこの語であったわけではなく、かつては「'''Minister President of State'''」(「国の大臣の総理(議長)」の意味)とのドイツ風の訳語も用いられた<ref>例えば、[[伊東巳代治]]による[[大日本帝国憲法]]の英訳<http://www.ndl.go.jp/constitution/e/etc/c02.html></ref>。
 
 
 
== 逸話など ==
 
[[画像:Sanetomi Sanjo formal cropped.jpg|thumb|130px|[[三条実美]]]]
 
[[画像:Kiyotaka Kuroda formal cropped.jpg|thumb|130px|[[黒田清隆]]]]
 
[[画像:Tanzan Ishibashi.jpg|thumb|130px|[[石橋湛山]]]]
 
[[画像:Kantaro Suzuki suit cropped.jpg|thumb|130px|[[鈴木貫太郎]]]]
 
 
 
=== 三條實美の処遇 ===
 
内閣制度移行に際し、誰もの関心は誰が初代総理大臣になるかであった。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、[[大久保利通]]の死後事実上の宰相として明治政府を切り盛りし内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三條は[[藤原北家]]閑院流の嫡流で、[[清華家]]の一つ[[三条家|三條家]]の生まれという高貴な[[身分]]、[[公爵]]である。一方伊藤といえば貧農の出であり、[[武士]]になったのも[[明治維新|維新]]の直前という低い身分の出身、お手盛りで[[伯爵]]になってはいるもののその差は歴然としていた。太政大臣に替わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では誰もが口をつぐむ中で、伊藤の盟友だった[[井上馨]]が「これからの総理は[[電報|赤電報(外国電報)]]が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなく、あっさりこれで決まってしまった。初代総理を決めた最大の要因は伊藤の「英語力」だったのである。
 
 
 
伊藤の内閣総理大臣就任に伴い、三條は[[内大臣府|内大臣]]として宮中に回り、天皇の側近として[[明治天皇]]を「常侍輔弼」することになった。しかしそもそも内大臣<!-- ×内大臣府(この文の主語は「内大臣」の官職で、それにともない整備された「内大臣府」の官制ではありません) -->は三條処遇のために創られた[[名誉職]]で、実際は彼を二階へ上げて[[はしご]]を外したようなものだった<!--「二階へ上げて梯子を外す」で一つの成句となりますので、どうか部分省略はお控えください -->。これに対して、かつて三條に仕えていたことがある[[尾崎三良]]([[元老院議官]])は三條に対して強く抗議すべきであると進言したが、三條は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、逆に尾崎に対しそうした軽挙を戒めている<ref>『尾崎三良自叙略伝』</ref>。しかし明治天皇もさすがにこの処遇を気の毒に思ったのか、1889年(明治22年)[[10月25日]]に第2代内閣総理大臣の黒田清隆が[[条約改正]]をめぐる政局混乱の責任を取って内閣総辞職した際、天皇は黒田の辞表をのみ受理して他はすべて却下し、三條に内閣総理大臣を兼任<!-- ×臨時兼任-->させた。これは「臨時兼任<!-- ×臨時代理-->」ではなく、単に「兼任」であり、しかも天皇が次の山縣有朋に[[組閣の大命]]を下したのはそれから2か月も経ってからのことだったので、この期間は一つの別個の内閣が存在したものとみなしてこれを「三條暫定内閣」と呼んでいる。それでも三條實美は歴代の内閣総理大臣としては数えないことになっている。<!--(「臨時代理」とは現職の総理が職務を遂行できない時に代わりの者がこれを行うことで、総理を欠いたため次の総理が決まるまで代わりの者がその職務を行う「臨時兼任」とは意味が異なります。ここの特筆性は三条が総理を「臨時兼任」したのではなくて「兼任」したという点にあるわけで、この点どうか混同なきようお願いいたします)-->
 
 
 
=== 選挙 ===
 
現職内閣総理大臣が選挙で落選した例はない。[[中選挙区制]]時代、歴代の現職内閣総理大臣は1位当選することが殆どであったが、唯一[[中曽根康弘]]のみ1983年と1986年の2回の衆院選で2位当選になっている(1位は[[福田赳夫]])。
 
 
 
内閣総理大臣経験者が国政選挙で落選した例として片山哲(1949年・1963年)と[[石橋湛山]](1963年)と[[海部俊樹]](2009年)の例がある。また、[[菅直人]](2012年・2014年)は[[小選挙区制|小選挙区]]で落選し、[[比例復活]]当選をしている。[[細川護熙]](2014年)は政界引退後に[[2014年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に立候補し、落選した。
 
 
 
=== 学歴 ===
 
歴代の内閣総理大臣には[[旧制大学|旧制]][[東京大学|東京帝国大学]]出身者が多いが、後身である[[新制大学|新制]]東京大学の出身者は、[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|工学部]]計数工学科を卒業した鳩山由紀夫のみである。また、新制の国公立大学出身の内閣総理大臣としても鳩山が初めてである。田中角栄は学制上での最終学歴は[[高等小学校]]卒業である<ref group="注釈">後に[[中央工学校]]を卒業しているが、当時の中央工学校は学制上の学校ではなかった。</ref>。また、近代教育での学歴を持つ最初の内閣総理大臣は[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]に[[留学]]した西園寺公望。また、宇野宗佑は旧制[[神戸商業大学 (旧制)|神戸商業大学]](現・[[神戸大学]])に進学したが、2か月後に[[学徒出陣]]となり、戦後の[[シベリア抑留]]を経て復学せずそのまま中退した為、平成で唯一大学の[[学位]]を持たない内閣総理大臣となった。
 
 
 
=== 年齢 ===
 
内閣総理大臣は国会議員から選出されなければならない。法理論上、衆議院議員の被選挙権を得る25歳から就任することができる。法的には、衆参いずれの議院に属するかを問わず、国会議員であれば誰でも指名される可能性はあるが、政治経験等が重視されることが多く、1年生議員が就任する確率は極めて少ない([[細川護煕]]が1993年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、就任以前に参議院議員・[[熊本県]][[都道府県知事|知事]]の経験があった。また吉田茂は1948年に衆議院当選1回で首相に就任しているが、この就任以前に貴族院議員や外務大臣・首相の経験があった)。
 
 
 
日本の歴代総理大臣の中で最年少記録を保持しているのは、1885年の初代伊藤博文(当時44歳)で現在も破られていない。歴代最年長就任記録は[[1945年]]の[[鈴木貫太郎]](当時77歳)で、最年長在任記録は大隈重信(当時78歳)である。戦後最年少としては、[[2006年]]の安倍晋三(当時52歳)である。戦後最年長就任記録は[[幣原喜重郎]]の73歳だが、新憲法の範囲では石橋湛山の72歳3ヶ月。
 
 
 
=== 栄典 ===
 
内閣総理大臣経験者に対する[[栄典]]については、在任期間に応じ、[[位階]]は[[従一位]]、[[正二位]]又は[[従二位]]、[[勲等]][[勲章 (日本)|勲章]]は[[大勲位菊花章頸飾]]、[[大勲位菊花大綬章]]又は[[桐花大綬章]](旧・[[勲一等旭日桐花大綬章]])のいずれかに叙される(在任1年9ヶ月の[[小渕恵三]]は大勲位菊花大綬章に叙されている)。ただし、辞退・不祥事等により見送られることがある(例:田中角栄・[[宮沢喜一]])。
 
 
 
== 格言 ==
 
;内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる
 
:佐藤栄作の言葉。内閣改造をしようとすると、他派閥の肘鉄や[[大臣病]]など多くの国会議員が総理に群がるために対応が難しくなって総理の権力が下がる。一方で衆議院解散をすると多くの衆議院議員が自分の党の公認を得ようと総理に求め地元選挙区に帰り衆院選で当選して政治生命を保とうとし、衆院選で民意を得て首班指名で再選されれば政権基盤が増すため総理の権力が上がる。
 
;歌手一年総理二年の使い捨て
 
:[[竹下登]]の言葉。総理は就任時は最初の内は新しさからチヤホヤされるが、そのうちに賞味期限が切れると社会から批判されるようになり、任期2年くらいで総理を交代させられることを揶揄した言葉。なお、この言葉は[[三角大福]]時代に竹下が中堅代議士だった頃から使っている。
 
;総理の敵は正面だけじゃなく後ろにもいれば横にもいるし上にもいるし斜めからも内部にもいる
 
:小泉純一郎の言葉。総理は日本で最も注目される最高権力者といっても国会内で対決姿勢の原則を示す[[野党]]だけでなく、マスコミや外国や業界団体が自分に批判的になることもあり、本来同じ目的を持つはずの与党内にも他派や反執行部が批判的になるため、どこに敵がいてどこから狙われるか用心しなければならないことを指した言葉。
 
;総理の権力の最大の源泉は解散権と人事権
 
:小泉純一郎の言葉。閣僚や党幹部を含めた人事と衆議院の解散権は、総理の強大なる権力の源泉であることを指摘した言葉。特に[[郵政解散]]においては、抵抗する[[島村宜伸]]農相を罷免。さらに「抵抗勢力」とされた候補に刺客候補を続々送り込むなど、[[小選挙区制]]によって総理(総裁)の力が一層強化されたことを印象づけた。
 
 
 
== 記録 ==
 
=== 内閣総理大臣の一覧 ===
 
{{main|内閣総理大臣の一覧}}
 
=== 在任 ===
 
[[画像:Tarō Katsura cropped.jpg|thumb|130px|[[桂太郎]]]]
 
[[画像:HIH Prince Naruhiko of Higashikuni.jpg|thumb|130px|[[東久邇宮稔彦王]]]]
 
[[画像:Shigenobu Okuma 2.jpg|thumb|130px|[[大隈重信]]]]
 
[[画像:Shigeru Yoshida suit.jpg|thumb|130px|[[吉田茂]]]]
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録の名称!!width="20%"|記録保持者氏名!!width="50%"|記録の内容
 
|-
 
!最長在職期間記録
 
|[[桂太郎]]
 
|2886日(約7年11ヶ月)
 
*第一次:1901年(明治34年)6月2日 - 1906年(明治39年)1月7日
 
*第二次:1908年(明治41年)7月14日 - 1911年(明治44年)8月30日
 
*第三次:1912年(大正元年)12月21日 - 1913年(大正2年)2月20日
 
|-
 
!最長連続在職期間記録
 
|[[佐藤栄作]]
 
|2798日(約7年8ヶ月)
 
*第一次 - 第三次:1964年(昭和39年)11月9日 - 1972年(昭和47年)7月7日
 
|-
 
!最短在職期間記録
 
|[[東久邇宮稔彦王]]
 
|54日(約2ヶ月)
 
*1945年(昭和20年)8月17日 - 同年10月9日
 
|-
 
!最年長在任記録
 
|[[大隈重信]]
 
|約78歳6ヶ月<br />(1916年(大正5年)10月9日の退任時)
 
|-
 
!最年少就任および在任記録
 
|[[伊藤博文]]
 
|約44歳2ヶ月<br />(1885年(明治18年)12月22日の就任時)
 
|-
 
!最年長就任記録
 
|[[鈴木貫太郎]]
 
|約77歳2ヶ月<br />(1945年(昭和20年)4月7日の就任時)
 
|-
 
!最多回数任命記録
 
|[[吉田茂]]
 
|5回
 
*1回目:1946年(昭和21年)5月22日
 
*2回目:1948年(昭和23年)10月15日
 
*3回目:1949年(昭和24年)2月16日
 
*4回目:1952年(昭和27年)10月30日
 
*5回目:1953年(昭和28年)5月21日
 
|}
 
 
 
=== 在任記録 ===
 
{| class="sortable wikitable"
 
!順位!!氏名!!在職日数!!在職期間!!class="unsortable"|元号
 
|-
 
!1
 
|{{Display none|かつら/}}[[桂太郎]]
 
|style="text-align:right"|2886
 
|[[1901年]]-[[1906年]]、[[1908年]]-[[1911年]]、[[1912年]]-[[1913年]]
 
|[[明治]]、[[大正]]
 
|-
 
!2
 
|{{Display none|さとう/}}[[佐藤栄作]]
 
|style="text-align:right"|2798
 
|[[1964年]]-[[1972年]]
 
|[[昭和]]
 
|-
 
!3
 
|{{Display none|いとう/}}[[伊藤博文]]
 
|style="text-align:right"|2720
 
|[[1885年]]-[[1888年]]、[[1892年]]-[[1896年]]、[[1898年]]、[[1900年]]-1901年
 
|明治
 
|-
 
!4
 
|{{Display none|よした/}}[[吉田茂]]
 
|style="text-align:right"|2616
 
|[[1946年]]-[[1947年]]、[[1948年]]-[[1954年]]
 
|昭和
 
|-
 
!5
 
|{{Display none|あへ しんそう/}}'''[[安倍晋三]]'''
 
|style="text-align:right"|{{Age in days|2011|12|25}}
 
|[[2006年]]-[[2007年]]、[[2012年]]-現在
 
|[[平成]]
 
|-
 
!6
 
|{{Display none|こいすみ/}}[[小泉純一郎]]
 
|style="text-align:right"|1980
 
|[[2001年]]-2006年
 
|平成
 
|-
 
!7
 
|{{Display none|なかそね/}}[[中曽根康弘]]
 
|style="text-align:right"|1806
 
|[[1982年]]-[[1987年]]
 
|昭和
 
|-
 
!8
 
|{{Display none|いけた/}}[[池田勇人]]
 
|style="text-align:right"|1575
 
|[[1960年]]-1964年
 
|昭和
 
|-
 
!9
 
|{{Display none|さいおんし/}}[[西園寺公望]]
 
|style="text-align:right"|1400
 
|1906年-1908年、1911年-1912年
 
|明治-大正
 
|-
 
!10
 
|{{Display none|きし/}}[[岸信介]]
 
|style="text-align:right"|1241
 
|[[1957年]]-1960年
 
|昭和
 
|-
 
!11
 
|{{Display none|やまかた/}}[[山縣有朋]]
 
|style="text-align:right"|1210
 
|[[1889年]]-[[1891年]]、1898年-1900年
 
|明治
 
|-
 
!12
 
|{{Display none|はら/}}[[原敬]]
 
|style="text-align:right"|1133
 
|[[1918年]]-[[1921年]]
 
|大正
 
|-
 
!13
 
|{{Display none|おおくま/}}[[大隈重信]]
 
|style="text-align:right"|1040
 
|1898年、[[1914年]]-[[1916年]]
 
|明治、大正
 
|-
 
!14
 
|{{Display none|このえ/}}[[近衛文麿]]
 
|style="text-align:right"|1035
 
|[[1937年]]-[[1939年]]、[[1940年]]-[[1941年]]
 
|昭和
 
|-
 
!15
 
|{{Display none|とうしよう/}}[[東條英機]]
 
|style="text-align:right"|1009
 
|1941年-[[1944年]]
 
|昭和
 
|-
 
!16
 
|{{Display none|まつかた/}}[[松方正義]]
 
|style="text-align:right"|943
 
|1891年-1892年、1896年-1898年
 
|明治
 
|-
 
!17
 
|{{Display none|はしもと/}}[[橋本龍太郎]]
 
|style="text-align:right"|932
 
|[[1996年]]-[[1998年]]
 
|平成
 
|-
 
!18
 
|{{Display none|たなか かくえい/}}[[田中角栄]]
 
|style="text-align:right"|886
 
|1972年-[[1974年]]
 
|昭和
 
|-
 
!19
 
|{{Display none|すすき せんこう/}}[[鈴木善幸]]
 
|style="text-align:right"|864
 
|[[1980年]]-1982年
 
|昭和
 
|-
 
!20
 
|{{Display none|かいふ/}}[[海部俊樹]]
 
|style="text-align:right"|818
 
|[[1989年]]-[[1991年]]
 
|平成
 
|-
 
!21
 
|{{Display none|たなか きいち/}}[[田中義一]]
 
|style="text-align:right"|805
 
|[[1927年]]-[[1929年]]
 
|昭和
 
|-
 
!22
 
|{{Display none|さいとう/}}[[斎藤実]]
 
|style="text-align:right"|774
 
|[[1932年]]-[[1934年]]
 
|昭和
 
|-
 
!23
 
|{{Display none|みき/}}[[三木武夫]]
 
|style="text-align:right"|747
 
|1974年-[[1976年]]
 
|昭和
 
|-
 
!24
 
|{{Display none|はとやま いちろう/}}[[鳩山一郎]]
 
|style="text-align:right"|745
 
|1954年-[[1956年]]
 
|昭和
 
|-
 
!25
 
|{{Display none|てらうち/}}[[寺内正毅]]
 
|style="text-align:right"|721
 
|1916年-1918年
 
|大正
 
|-
 
!26
 
|{{Display none|ふくた たけお/}}[[福田赳夫]]
 
|style="text-align:right"|714
 
|1976年-[[1978年]]
 
|昭和
 
|-
 
!27
 
|{{Display none|わかつき/}}[[若槻禮次郎]]
 
|style="text-align:right"|690
 
|[[1926年]]-1927年、[[1931年]]
 
|大正-昭和
 
|-
 
!28
 
|{{Display none|はまくち/}}[[濱口雄幸]]
 
|style="text-align:right"|652
 
|1929年-1931年
 
|昭和
 
|-
 
!29
 
|{{Display none|みやさわ/}}[[宮澤喜一]]
 
|style="text-align:right"|644
 
|1991年-[[1993年]]
 
|平成
 
|-
 
!30
 
|{{Display none|おふち/}}[[小渕恵三]]
 
|style="text-align:right"|616
 
|1998年-[[2000年]]
 
|平成
 
|-
 
!31
 
|{{Display none|おかた/}}[[岡田啓介]]
 
|style="text-align:right"|611
 
|1934年-[[1936年]]
 
|昭和
 
|-
 
!32
 
|{{Display none|かとう たかあき/}}[[加藤高明]]
 
|style="text-align:right"|597
 
|[[1924年]]-1926年
 
|大正
 
|-
 
!33
 
|{{Display none|たけした/}}[[竹下登]]
 
|style="text-align:right"|576
 
|1987年-1989年
 
|昭和-平成
 
|-
 
!34
 
|{{Display none|むらやま/}}[[村山富市]]
 
|style="text-align:right"|561
 
|[[1994年]]-1996年
 
|平成
 
|-
 
!35
 
|{{Display none|おおひら/}}[[大平正芳]]
 
|style="text-align:right"|554
 
|1978年-1980年
 
|昭和
 
|-
 
!36
 
|{{Display none|やまもと/}}[[山本権兵衛]]
 
|style="text-align:right"|549
 
|1913年-1914年、1923年-1924年
 
|大正
 
|-
 
!37
 
|{{Display none|くろた/}}[[黒田清隆]]
 
|style="text-align:right"|544
 
|1888年-1889年
 
|明治
 
|-
 
!38
 
|{{Display none|のだ/}}[[野田佳彦]]
 
|style="text-align:right"|482
 
|[[2011年]]-2012年
 
|平成
 
|-
 
!39
 
|{{Display none|かん/}}[[菅直人]]
 
|style="text-align:right"|452
 
|[[2010年]]-2011年
 
|平成
 
|-
 
!40
 
|{{Display none|かとう ともさふろう/}}[[加藤友三郎]]
 
|style="text-align:right"|439
 
|[[1922年]]-[[1923年]]
 
|大正
 
|-
 
!41
 
|{{Display none|もり/}}[[森喜朗]]
 
|style="text-align:right"|387
 
|2000年-2001年
 
|平成
 
|-
 
!42
 
|{{Display none|ふくた やすお/}}[[福田康夫]]
 
|style="text-align:right"|365
 
|2007年-[[2008年]]
 
|平成
 
|-
 
!43
 
|{{Display none|あそう/}}[[麻生太郎]]
 
|style="text-align:right"|358
 
|2008年-[[2009年]]
 
|平成
 
|-
 
!44
 
|{{Display none|ひろた/}}[[広田弘毅]]
 
|style="text-align:right"|331
 
|1936年-1937年
 
|昭和
 
|-
 
!45
 
|{{Display none|かたやま/}}[[片山哲]]
 
|style="text-align:right"|292
 
|1947年-1948年
 
|昭和
 
|-
 
!46
 
|{{Display none|はとやま ゆきお/}}[[鳩山由紀夫]]
 
|style="text-align:right"|266
 
|2009年-2010年
 
|平成
 
|-
 
!47
 
|{{Display none|ほそかわ/}}[[細川護熙]]
 
|style="text-align:right"|263
 
|1993年-1994年
 
|平成
 
|-
 
!48
 
|{{Display none|こいそ/}}[[小磯國昭]]
 
|style="text-align:right"|260
 
|1944年-[[1945年]]
 
|昭和
 
|-
 
!49
 
|{{Display none|ひらぬま/}}[[平沼騏一郎]]
 
|style="text-align:right"|238
 
|1939年
 
|昭和
 
|-
 
!50
 
|{{Display none|してはら/}}[[幣原喜重郎]]
 
|style="text-align:right"|226
 
|{{Display none|1945年3/}}1945年-1946年
 
|昭和
 
|-
 
!51
 
|{{Display none|あした/}}[[芦田均]]
 
|style="text-align:right"|220
 
|1948年
 
|昭和
 
|-
 
!52
 
|{{Display none|たかはし/}}[[高橋是清]]
 
|style="text-align:right"|212
 
|1921年-1922年
 
|大正
 
|-
 
!53
 
|{{Display none|よない/}}[[米内光政]]
 
|style="text-align:right"|189
 
|1940年
 
|昭和
 
|-
 
!54
 
|{{Display none|きようら/}}[[清浦奎吾]]
 
|style="text-align:right"|157
 
|1924年
 
|大正
 
|-
 
!55
 
|{{Display none|いぬかい/}}[[犬養毅]]
 
|style="text-align:right"|156
 
|1931年-1932年
 
|昭和
 
|-
 
!56
 
|{{Display none|あへ のふゆき/}}[[阿部信行]]
 
|style="text-align:right"|140
 
|1939年-1940年
 
|昭和
 
|-
 
!57
 
|{{Display none|すすき かんたろう/}}[[鈴木貫太郎]]
 
|style="text-align:right"|133
 
|{{Display none|1945年1/}}1945年
 
|昭和
 
|-
 
!58
 
|{{Display none|はやし/}}[[林銑十郎]]
 
|style="text-align:right"|123
 
|1937年
 
|昭和
 
|-
 
!59
 
|{{Display none|うの/}}[[宇野宗佑]]
 
|style="text-align:right"|69
 
|1989年
 
|平成
 
|-
 
!60
 
|{{Display none|いしはし/}}[[石橋湛山]]
 
|style="text-align:right"|65
 
|1956年-1957年
 
|昭和
 
|-
 
!61
 
|{{Display none|はた/}}[[羽田孜]]
 
|style="text-align:right"|64
 
|1994年
 
|平成
 
|-
 
!62
 
|{{Display none|ひかしくに/}}[[東久邇宮稔彦王]]
 
|style="text-align:right"|54
 
|{{Display none|1945年2/}}1945年
 
|昭和
 
|}
 
 
 
=== 病気 ===
 
[[画像:Katō Tomosaburō cropped.jpg|thumb|130px|[[加藤友三郎]]]]
 
[[画像:Hayato Ikeda.jpg|thumb|130px|[[池田勇人]]]]
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!rowspan=3|病気により在任中死去した内閣総理大臣
 
|[[加藤友三郎]]||加藤友三郎は[[大腸癌]]を患っていた。[[青山 (東京都港区)|青山]]の自邸で死去。
 
|-
 
|[[加藤高明]]||加藤高明は[[心臓麻痺]]による[[心不全|急性心不全]]。かねてより[[腎臓|慢性腎臓炎]]と心臓疾患があったが、[[国会議事堂|議会]]で突然病状が悪化し6日後に死去。
 
|-
 
|大平正芳||大平は[[心筋梗塞]]による急性心不全。選挙運動中に[[過労]]と[[不整脈]]で倒れ[[虎の門病院]]に入院。12日後心筋梗塞を起こし死去。
 
|-
 
!病気により執務不能となり退任、ほどなく死去した内閣総理大臣
 
|小渕恵三
 
|[[脳梗塞]]。[[総理大臣官邸|首相官邸]]で発症、[[順天堂大学医学部附属順天堂医院]]に緊急入院するが昏睡状態となり退任。意識が戻らないまま約1ヵ月半後に死亡。
 
|-
 
!rowspan=3|病気により退陣した内閣総理大臣
 
|石橋湛山||石橋は脳梗塞。ただし当時の公式発表は「風邪をこじらせ肺炎を起こした上、脳梗塞の兆候がある事も判明」だった。「1ヵ月静養が必要」との診断を受けて即日退陣を表明。その後病状は回復し余生を全うした。
 
|-
 
|池田勇人||池田は[[悪性腫瘍|喉頭癌]]。治療のため[[国立がん研究センター|国立がんセンター]]に入院したが、約1ヵ月半後に退陣を表明。9ヵ月後[[東京大学医学部附属病院]]で病部摘出手術を受けたが、術後まもなく肺炎により死亡。
 
|-
 
|安倍晋三||安倍([[第1次安倍内閣 (改造)|第1次内閣]])は胃腸機能の低下による衰弱。元から持病([[潰瘍性大腸炎]])を抱えていたが、[[第21回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]の惨敗や、相次ぐ閣僚の不祥事への批判による重圧、首相としての過労が祟った。辞意表明の後、[[慶應義塾大学病院]]に緊急入院したが、[[首相臨時代理]]は置かなかった。[[自由民主党 (日本)|自民党]]の後継総裁が選出された後、辞任に至る経緯について会見を行い退陣。後に、自民党総裁および内閣総理大臣に再び就任。
 
|}
 
 
 
=== 暗殺 ===
 
[[画像:Tsuyoshi Inukai facing left cropped.jpg|thumb|130px|[[犬養毅]]]]
 
[[画像:Korekiyo Takahashi formal.jpg|thumb|130px|[[高橋是清]]]]
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!rowspan=3|在任中に[[暗殺]]された内閣総理大臣
 
|[[原敬]]||原は[[東京駅]]の構内で[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]職員[[中岡艮一]]に胸を刺される。刃渡り五寸の[[短刀]]が肺と心臓を貫通し即死([[原敬暗殺事件]])。
 
|-
 
|[[濱口雄幸]]<br />(死去時は元内閣総理大臣)||濱口は東京駅の[[プラットホーム|ホーム]]で[[右翼団体]]に所属する[[佐郷屋留雄]]に狙撃される。銃弾1発が骨盤まで達する重傷だったが、4ヵ月後に病躯を押して登院、しかしこれで症状が悪化し、1ヵ月後に内閣総辞職、その4ヵ月後に死去(濱口首相遭難事件)。
 
|-
 
|[[犬養毅]]||犬養は首相官邸に乱入した武装青年[[将校]]に銃撃される。左頬と右こめかみに[[銃弾]]2発を被弾、出血多量で約5時間後に絶命([[五・一五事件]])。
 
|-
 
!rowspan=3|暗殺された元内閣総理大臣
 
|伊藤博文||伊藤は[[満州]][[ハルビン駅]]の構内で[[韓国]]の[[民族主義]]運動家[[安重根]]に狙撃される。銃弾3発を被弾し約30分後に絶命。当時伊藤は枢密院議長。
 
|-
 
|[[高橋是清]]||高橋は[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の自邸に乱入した武装青年将校により銃撃される。銃弾3発を被弾した上、[[軍刀]]で刺し抜かれ即死。当時高橋は大蔵大臣([[二・二六事件]])。
 
|-
 
|[[斎藤実]]||斎藤は[[四谷]]の自邸に乱入した武装青年将校により銃撃される。[[機関銃]]弾を40数発浴び即死。当時齋藤は内大臣(二・二六事件)。
 
|-
 
!存命にもかかわらず新聞に死亡記事が出た内閣総理大臣
 
|[[岡田啓介]]||首相官邸に乱入した武装青年将校により岡田と容貌がよく似ていた義弟で秘書の[[松尾伝蔵]]が銃撃される。松尾を岡田と誤認した青年将校が総理死亡を発表(二・二六事件)。
 
|}
 
 
 
=== 軍事裁判関連 ===
 
[[画像:Kohki Hirota suit.jpg|thumb|130px|[[広田弘毅]]]]
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
![[自殺]]した元内閣総理大臣
 
|[[近衛文麿]]
 
|[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) によって逮捕状が発行され、逮捕を前に自邸で[[青酸カリ]]を飲んで服毒自殺。
 
|-
 
!自殺未遂した元内閣総理大臣
 
|[[東條英機]]
 
|極東国際軍事裁判で起訴され、収監を前に自邸で[[拳銃]]で自らの心臓を撃つが失敗。
 
|-
 
!rowspan=2|[[死刑]]に処された元内閣総理大臣
 
|東條英機||rowspan=2|極東国際軍事裁判で[[絞首刑]]判決。
 
|-
 
|[[広田弘毅]]
 
|-
 
!獄死した元内閣総理大臣
 
|[[小磯國昭]]
 
|極東国際軍事裁判で[[終身刑|終身禁固刑]]判決、のち獄中で病死。
 
|-
 
!終身刑となった元内閣総理大臣
 
|[[平沼騏一郎]]
 
|極東国際軍事裁判で終身禁固刑判決、のち仮釈放後に病死。
 
|-
 
!かつて逮捕されたことのある内閣総理大臣
 
|[[岸信介]]
 
|連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) によって逮捕されるが、不起訴となり、釈放される。
 
|}
 
 
 
=== 刑事裁判関連 ===
 
[[画像:Kakuei Tanaka cropped Kakuei Tanaka 197207.jpg|thumb|130px|[[田中角栄]]]]
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!rowspan=2|[[逮捕]]、[[起訴]]された元内閣総理大臣
 
|芦田均||芦田は[[昭和電工事件|昭電疑獄]]で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。
 
|-
 
|田中角栄||rowspan=2|田中は[[ロッキード事件]]で逮捕され起訴された。公判では[[地方裁判所|一審]]と[[高等裁判所|二審]]で有罪判決、[[上告審]]の審理途中で被告死去により[[公訴棄却]]。
 
|-
 
![[裁判|公判]]で有罪判決を受けた元内閣総理大臣
 
|田中角栄
 
|-
 
!rowspan=2|かつて逮捕、起訴されたことがある内閣総理大臣
 
|田中角栄||田中は法務政務次官時代に[[炭鉱国管疑獄]]で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。
 
|-
 
|福田赳夫||福田は[[大蔵省]]主計局長時代に昭電疑獄で逮捕され起訴された。公判で無罪が確定。
 
|-
 
!かつて[[逮捕許諾請求]]が出されたことがある内閣総理大臣
 
|佐藤栄作
 
|[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]][[幹事長]]時代に[[造船疑獄]]で東京地検が逮捕許諾請求を出したが、[[法務大臣|法相]]が[[指揮権 (法務大臣)|指揮権]]を発動して逮捕を見送らせた。
 
|}
 
 
 
=== 職歴 ===
 
==== 立法 ====
 
[[画像:Kijuro Shidehara.jpg|thumb|130px|[[幣原喜重郎]]]]
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!rowspan=2|かつて貴族院議長だった内閣総理大臣
 
|伊藤博文||1890年(明治23年)10月24日 - 1891年(明治24年)7月21日
 
|-
 
|近衛文麿||1933年(昭和8年)6月9日 - 1937年(昭和12年)6月7日
 
|-
 
!後に貴族院議長になった元内閣総理大臣
 
|伊藤博文
 
|1890年(明治23年)10月24日 - 1891年(明治24年)7月21日<br />一期目の内閣総理大臣を辞した後に貴族院議長となり、その後また内閣総理大臣に任じられている。
 
|-
 
!後に[[衆議院議長]]になった元内閣総理大臣
 
|幣原喜重郎
 
|1949年(昭和24年)2月11日 - 1951年(昭和26年)3月10日
 
|}
 
 
 
==== 行政 ====
 
[[画像:Fumimaro Konoe suit cropped.jpg|thumb|130px|[[近衛文麿]]]]
 
[[画像:Abe Nobuyuki cropped.jpg|thumb|130px|[[阿部信行]]]]
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!rowspan="9"|就任時に国務大臣経験が全くなかった内閣総理大臣
 
|伊藤博文||伊藤は[[勤王]]の[[志士]]であり、[[兵庫県知事]](当時は官選)、[[工部省|工部卿]]、[[内務大臣 (日本)|内務卿]]などを歴任したのち、 初代内閣総理大臣に任じられた。
 
|-
 
|近衛文麿||近衛は公爵であり、[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]を任めたのち、内閣総理大臣に任じられた。
 
|-
 
|[[阿部信行]]||阿部は[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]であり、[[台湾軍 (日本軍)|台湾軍]][[司令官]]、[[軍事参議官]]などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた<ref group="注釈">なお、[[陸軍省|陸軍]][[次官]]当時、陸軍大臣宇垣一成の病気療養に伴い陸軍大臣代行を務めた。この時は[[班列]]として閣員に列しているが、班列は正式な国務大臣ではない。</ref>。
 
|-
 
|鈴木貫太郎||鈴木は[[大日本帝国海軍|海軍]]軍人であり、[[連合艦隊司令長官]]、[[軍令部]]部長などを歴任したのち宮中に入り、長く[[侍従]]長として昭和天皇に仕えた。[[二・二六事件]]で瀕死の重傷を負うが回復し、その後[[枢密院 (日本)#歴代議長|枢密院議長]]を経て内閣総理大臣に任じられた。
 
|-
 
|東久邇宮稔彦王||[[皇族]]である稔彦王は陸軍軍人であり、[[第2軍 (日本軍)|第二軍]]司令官、[[防衛総司令部]]総司令官などを歴任したのち、内閣総理大臣に任じられた。
 
|-
 
|片山哲||片山は[[弁護士]]を経て衆議院議員となり、[[日本社会党]][[書記長]]、[[日本社会党委員長]]などを歴任したのち、[[日本国憲法]]の施行を目前に控えた[[第23回衆議院議員総選挙|第23回総選挙]]で社会党が比較第一党となったことを受けて、社会・[[民主党_(日本_1947-1950)|民主]]・[[国民協同党|国民協同]]3党連立政権の首班に指名され内閣総理大臣に任名された。
 
|-
 
|[[細川護熙]]||細川は参議院議員、[[大蔵省|大蔵]][[政務次官]]、[[熊本県知事]]を経て衆議院議員となり、[[日本新党]]代表などを歴任したのち、[[第40回衆議院議員総選挙|第40回総選挙]]で[[自由民主党 (日本)|自民党]]が過半数割れしたのを受けて、非自民・非共産8党派連立政権の首班に指名され内閣総理大臣に任じられた。
 
|-
 
|村山富市||村山は[[大分県議会]][[議員]]を経て衆議院議員となり、衆議院物価問題等に関する特別委員長、日本社会党[[国会対策委員会]][[委員長]]、日本社会党委員長などを歴任したのち、自民・社会・[[新党さきがけ|さきがけ]]3党連立政権の首班に指名され内閣総理大臣に任じられた。
 
|-
 
|鳩山由紀夫||鳩山は[[専修大学]][[経営学部]][[助教授]]を経て衆議院議員となり、[[内閣官房副長官]]、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]幹事長、[[民主党代表]]などを歴任したのち、[[第45回衆議院議員総選挙|第45回総選挙]]で民主党が大勝したのを受けて、民主・[[社会民主党_(日本_1996-)|社民]]・[[国民新党]]3党連立政権の首班に指名され内閣総理大臣に任じられた。
 
|}
 
 
 
==== 枢密院 ====
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!rowspan="10"|[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長の経歴を持つ内閣総理大臣
 
|伊藤博文||初代首相を退任後初代枢密院議長に就任、その後再び組閣。
 
|-
 
|山縣有朋||第一次内閣を退任後枢密院議長に就任、その後再び組閣。
 
|-
 
|西園寺公望||枢密院議長に就任後に首相に就任。
 
|-
 
|[[清浦奎吾]]||枢密院議長在任時に大命が降下し首相に就任。
 
|-
 
|平沼騏一郎||枢密院議長在任時に大命が降下し首相に就任。
 
|-
 
|近衛文麿||第一次内閣を退任後枢密院議長に就任、議長在任時に大命が降下し首相に就任。
 
|-
 
|鈴木貫太郎||枢密院議長在任時に大命が降下し首相に就任。
 
|-
 
|}
 
==== 司法 ====
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!かつて[[大審院|大審院長]]だった内閣総理大臣
 
|平沼騏一郎
 
|1921年(大正10年)10月5日 - 1923年(大正12年)9月6日
 
|}
 
 
 
==== 陸海軍 ====
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!rowspan="10"|陸軍の[[将官]]の経歴を持つ内閣総理大臣
 
|[[黒田清隆]]||就任時は[[陸軍中将]]。
 
|-
 
|山縣有朋||第一次内閣で就任時は陸軍中将、<br />第二次内閣で就任時は[[陸軍大将]]。<!--最終階級は元帥陸軍大将。--><!--不要-->
 
|-
 
|桂太郎||第一次内閣・第二次内閣で就任時は陸軍大将、<br />第三次内閣で就任時は退役陸軍大将。
 
|-
 
|[[寺内正毅]]||就任時は[[元帥 (日本)|元帥]]陸軍大将。
 
|-
 
|[[田中義一]]||就任時は[[退役]]陸軍大将。
 
|-
 
|[[林銑十郎]]||就任時は[[予備役]]陸軍大将。
 
|-
 
|阿部信行||就任時は予備役陸軍大将。
 
|-
 
|東條英機||就任と同時に陸軍中将から陸軍大将に進級。
 
|-
 
|小磯國昭||就任時は予備役陸軍大将。
 
|-
 
|東久邇宮稔彦王||就任時は陸軍大将。<!--職業軍人ではありません--><!--
 
|-
 
|[[田中角栄]]||-->
 
|-
 
!rowspan="6"|海軍の将官の経歴を持つ内閣総理大臣
 
|[[山本権兵衛]]||第一次内閣で就任時は[[海軍大将]]、<br />第二次内閣で就任時は退役海軍大将。
 
|-
 
|加藤友三郎||就任時は海軍大将、<br />退任(在任中死去)時に元帥海軍大将(死後追贈)。
 
|-
 
|[[斎藤実]]||就任時は退役海軍大将。
 
|-
 
|岡田啓介||就任時は退役海軍大将。
 
|-
 
|[[米内光政]]||就任と同時に予備役海軍大将に編入。
 
|-
 
|鈴木貫太郎||就任時は退役海軍大将。
 
|- <!--
 
|中曽根康弘||[[内務省 (日本)|内務省]]の官僚から、[[短期現役士官]]として、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで海軍に所属。最終階級は主計少佐。
 
|-
 
!rowspan=3|[[学徒出陣]]した内閣総理大臣
 
|竹下登||[[早稲田大学]]商学部在学中に陸軍の[[特別操縦見習士官]]に志願し第4期生として入校。卒業後は陸軍航空部隊などに所属。終戦後は大学に戻り卒業した。
 
|-
 
|宇野宗佑||[[神戸商業大学]]在学中に召集。陸軍に所属して朝鮮に渡る。終戦後は[[シベリア抑留]]を経て帰国。大学には戻らず政治家への道を志した。
 
|-
 
|村山富市||[[明治大学]]専門部政治経済学科在学中に召集。陸軍に所属。終戦後に大学に戻り卒業した。--><!--職業軍人ではありません-->
 
|}
 
 
 
==== 宮中 ====
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!かつて内大臣だった内閣総理大臣
 
|桂太郎
 
|1912年(大正元年)8月21日 - 同年12月21日<br />二期目の内閣総理大臣を辞した後に内大臣となり、その後また内閣総理大臣に任じられている。
 
|-
 
!かつて宮内大臣だった内閣総理大臣
 
|伊藤博文
 
|1885年(明治18年)12月22日 - 1887年9月16日<br />「宮中・府中(行政府)」の分離により、宮内省は内閣に属さないことと定められたが、伊藤自身は内閣総理大臣と宮内大臣を兼務した。
 
|-
 
!rowspan=2|かつて[[侍従長]]だった内閣総理大臣
 
|桂太郎||1912年(大正元年)8月13日 - 同年12月21日<br />桂は内大臣と侍従長を兼務していた。
 
|-
 
|鈴木貫太郎||1929年(昭和4年)1月22日 - 1936年(昭和11年)11月20日
 
|}
 
 
 
=== 学歴 ===
 
[[画像:Takaaki Kato suit.jpg|thumb|130px|[[加藤高明]]]]
 
[[画像:Kiichiro Hiranuma.jpg|thumb|130px|[[平沼騏一郎]]]]
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!初の[[学士号]]を持つ内閣総理大臣
 
|加藤高明
 
|加藤は[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]]を卒業し[[学士(法学)|法学士]]号を取得。加藤が卒業した東京大学は、現在の[[東京大学]]の前身に当たる大学である。加藤の卒業した(旧)東京大学は、その後、帝国大学、東京帝国大学を経て、現在の(新制)東京大学となった。<br />なお、学士号を持つ内閣総理大臣は、加藤以外にも多数いる。
 
|-
 
!初の[[修士号]]を持つ内閣総理大臣
 
|小渕恵三
 
|小渕は早稲田大学[[大学院]][[政治学研究科]]を修了し[[修士(政治学)|政治学修士]]号を取得。<br />なお、修士号を持つ内閣総理大臣は小渕以外には誰もおらず、現在でも唯一の例である。
 
|-
 
!初の[[博士号]]を持つ内閣総理大臣
 
|平沼騏一郎
 
|平沼は[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]より[[博士(法学)|法学博士]]号を取得。[[1887年]]に公布された学位令に基づき、法学博士号は文部大臣から授与されていた。その後、[[1920年]]の改正学位令の施行により、法学博士号は大学から授与されることになった。現在では、1991年の改正[[学校教育法]]の施行により、法学博士の後継である[[博士(法学)]]が大学から授与されている。<br />なお、博士号を持つ内閣総理大臣は、平沼以外にも、東京帝国大学より法学博士号を取得した芦田均と、[[スタンフォード大学]]より[[Doctor of Philosophy]]号を取得した鳩山由紀夫の2名がいる。
 
|-
 
!初の[[学位]]を持つ内閣総理大臣
 
|加藤高明
 
|加藤は東京大学法学部を卒業し法学士の学位を取得。1887年に学位令が公布される前は、法学士も学位の一つとされていた。学位令の施行により、法学士は学位ではなくなったため、それ以降は[[称号]]として授与された。1991年の改正学校教育法の施行により、法学士の後継である[[学士(法学)]]が学位の一つとなった。<br />なお、学位を持つ内閣総理大臣は、上記の加藤、平沼騏一郎、芦田均、小渕恵三、鳩山由紀夫の5名である。
 
|-
 
!初の新制大学を卒業した内閣総理大臣
 
|海部俊樹
 
|海部の後には旧制大学出身の内閣総理大臣が再び登場している(宮澤喜一)。
 
|}
 
 
 
=== 出自 ===
 
[[画像:Kinmochi Saionji formal.jpg|thumb|130px|[[西園寺公望]]]]
 
[[画像:Takashi Hara posing cropped.jpg|thumb|130px|[[原敬]]]]
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!皇族の内閣総理大臣
 
|東久邇宮稔彦王
 
|後に[[臣籍降下|皇籍を離脱]]した。
 
|-
 
!子孫が皇族になった内閣総理大臣
 
|吉田茂
 
|[[寛仁親王妃信子]]は孫。
 
|-
 
!兄弟姉妹が皇族になった内閣総理大臣
 
|麻生太郎
 
|寛仁親王妃信子は妹。
 
|-
 
!rowspan=2|旧[[公家]]の内閣総理大臣
 
|西園寺公望||西園寺は藤原北家[[閑院流]]で清華家の[[西園寺家]]当主。
 
|-
 
|近衛文麿||近衛は[[五摂家]]筆頭の[[近衛家]]当主。
 
|-
 
!旧[[大名|大名家]]の内閣総理大臣
 
|細川護熙
 
|[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]54万石[[細川氏|細川家]]当主。
 
|-
 
!初の[[平民]]内閣総理大臣
 
|原敬
 
|ただし、これは本人がかたくなに受爵を断り続けたため。原の祖父は[[陸奥国|陸奥]][[盛岡藩]]20万石[[南部氏|南部家]]の[[家老]]職にあった上級士族。
 
|}
 
 
 
=== 親族 ===
 
[[画像:Takeo Fukuda 1977 adjusted.jpg|thumb|130px|[[福田赳夫]]]]
 
[[画像:Zenko Suzuki cropped Zenko Suzuki 198007.jpg|thumb|130px|[[鈴木善幸]]]]
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="15%"|続柄!!width="25%"|氏名!!width="30%"|事柄
 
|-
 
!rowspan=2|一親等内に元内閣総理大臣がいる内閣総理大臣
 
|[[父]]と[[子]]
 
|福田赳夫と福田康夫
 
|康夫は赳夫の[[長男]]。
 
|-
 
|[[岳父]]と[[娘婿]]
 
|鈴木善幸と麻生太郎
 
|麻生の[[麻生ちか子|妻]]は鈴木の[[三女]]。
 
|-
 
!rowspan="6"|二親等内に元内閣総理大臣がいる内閣総理大臣
 
|[[兄]]と[[弟]]
 
|岸信介と佐藤栄作
 
|岸は兄、佐藤は弟。
 
|-
 
|rowspan=4|[[祖父]]と[[孫]]
 
|近衛文麿と細川護熙
 
|細川の[[母]]は近衛の[[二女]]。
 
|-
 
|岸信介と安倍晋三
 
|安倍の母は岸の長女。
 
|-
 
|吉田茂と麻生太郎
 
|麻生の母は吉田の三女。
 
|-
 
|鳩山一郎と鳩山由紀夫
 
|由紀夫の[[鳩山威一郎|父]]は一郎の長男。
 
|-
 
|[[配偶者]]が[[兄弟姉妹]]
 
※[[民法]]上の親族には該当しないが、あえて記載する
 
|加藤高明と幣原喜重郎
 
|加藤の妻は[[三菱商会]]創業者の[[岩崎弥太郎]]の[[長女]]。幣原の妻は岩崎の[[四女]]。
 
|}
 
 
 
=== 再就任 ===
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
!一度退任した後に別の人物を挟んで再就任した回数が最も多い内閣総理大臣
 
|伊藤博文
 
|3回
 
*1888年4月30日退任(第1次)、1892年8月8日就任(第2次)
 
*1896年8月31日退任(第2次)、1898年1月12日就任(第3次)
 
*1898年6月30日退任(第3次)、1900年10月19日就任(第4次)
 
|-
 
!rowspan=2|一度退任して再就任するまでの空白期間が最も長い内閣総理大臣
 
|大隈重信
 
|約15年5か月(歴代最長)
 
*1898年11月8日退任(第1次)、1914年4月16日就任(第2次)
 
|-
 
|安倍晋三
 
|約5年3か月(戦後最長)
 
*2007年9月26日退任(第1次)、2012年12月26日就任(第2次)
 
|-
 
!rowspan=2|一度退任して再就任するまでの空白期間が最も短い内閣総理大臣
 
|桂太郎
 
|約1年4か月(479日、歴代最短)
 
*1911年8月30日退任(第2次)、1912年12月21日就任(第3次)
 
|-
 
|吉田茂
 
|約1年5か月(510日、戦後最短)
 
*1947年5月24日退任(第1次)、1948年10月15日就任(第2次)
 
|-
 
!rowspan=3|一度退任して再就任するまでの間に挟んだ総理の数が最も多い内閣総理大臣
 
|大隈重信
 
|5人(8代)
 
*山縣有朋、伊藤博文、桂太郎、西園寺公望、山本権兵衛<br />(桂は3度、西園寺は2度任命)
 
|-
 
|山本権兵衛
 
|5人(5代)
 
*大隈重信、寺内正毅、原敬、高橋是清、加藤友三郎<br />(臨時代理の内田康哉を除く)
 
|-
 
|安倍晋三
 
|5人(5代)
 
*福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦
 
|}
 
 
 
=== 首相交代 ===
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="30%"|氏名!!width="40%"|事柄
 
|-
 
!7年連続で内閣総理大臣交代
 
|小泉純一郎→安倍晋三(第1次)(2006年)<br />安倍晋三(第1次)→福田康夫(2007年)<br />福田康夫→麻生太郎(2008年)<br />麻生太郎→鳩山由紀夫(2009年)<br />鳩山由紀夫→菅直人(2010年)<br />菅直人→野田佳彦(2011年)<br />野田佳彦→安倍晋三(第2次)(2012年)
 
|現代における主要国の首相交代では1位記録。過去には[[フランス第四共和政|第四共和政]]時代の[[フランスの首相|フランス]]で1946年から14年連続首相交代があったが、同国では首相は政権代表者ではない。
 
|-
 
!5年間で8回の内閣総理大臣交代
 
|東條英機→小磯國昭(1944年)<br />小磯國昭→鈴木貫太郎(1945年)<br />鈴木貫太郎→東久邇宮稔彦王(1945年)<br />東久邇宮稔彦王→幣原喜重郎(1945年)<br />幣原喜重郎→吉田茂(第1次)(1946年)<br />吉田茂(第1次)→片山哲(1947年)<br />片山哲→芦田均(1948年)<br />芦田均→吉田茂(第2次)(1948年)
 
|内閣総理大臣の交代の頻度では上記の記録を上回って最多となる。特に1945年は年間で4人の首相が在任しており(年間で3回の首相交代)、こちらも最多記録となっている。
 
|}
 
 
 
=== その他 ===
 
[[画像:Eisaku Sato 01.jpg|thumb|130px|[[佐藤栄作]]]]
 
{|class=wikitable width="70%"
 
!width="30%"|記録!!width="20%"|氏名!!width="50%"|事柄
 
|-
 
![[ノーベル賞]]を受賞した内閣総理大臣経験者
 
|佐藤栄作
 
|[[非核三原則]]の提唱が評価され[[1974年]](昭和49年)の[[ノーベル平和賞]]を受賞。
 
|-
 
![[近代オリンピック|オリンピック]]に選手として出場経験のある内閣総理大臣経験者
 
|麻生太郎
 
|[[モントリオールオリンピック]](1976年(昭和51年))に[[クレー射撃]]の代表として出場(結果は41位)。
 
|-
 
!rowspan=2|[[日本銀行券]]の肖像画に用いられた元内閣総理大臣
 
|伊藤博文||伊藤はC千円券(1963年(昭和38年) - 1984年(昭和59年)発行)の肖像。
 
|-
 
|高橋是清||高橋はB五拾円券(1951年(昭和26年) - 1958年(昭和33年)発行)の肖像。高橋は史上唯一の[[日本銀行|日銀]]総裁経験者の首相でもある。
 
|-
 
!外国政府高官を経験した内閣総理大臣経験者
 
|岸信介
 
|[[1936年]](昭和11年)から[[1939年]](昭和14年)にかけて[[満州国]]で[[総務庁 (満州国)|総務庁]]次長などの要職を歴任(満洲国には[[国籍]]法がなく、日本人は日本国籍を持ったまま満洲国の官職に就任できた)。
 
|-
 
!最高齢の内閣総理大臣経験者
 
|東久邇宮稔彦王
 
|1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日。存命期間102歳48日。
 
|-
 
!現行憲法下で最高齢の内閣総理大臣経験者
 
|中曽根康弘
 
|1918年(大正7年)5月27日生誕。
 
|-
 
!rowspan=2|100歳以上の内閣総理大臣経験者
 
|東久邇宮稔彦王||内閣総理大臣経験者では最高齢。
 
|-
 
|中曽根康弘||現行憲法下の内閣総理大臣経験者では最高齢。
 
|-
 
|}
 
 
 
=== 出身党派別人数 ===
 
(内閣総理大臣の氏名の後の年は就任した年)
 
[[画像:52 HatoyamaI.jpg|thumb|130px|[[鳩山一郎]]]]
 
[[画像:Hamaguchi Osachi 1-1.jpg|thumb|130px|[[濱口雄幸]]]]
 
{|class=wikitable align=center
 
!順位!!政党!!人数!!最初の内閣総理大臣!!直近の内閣総理大臣
 
|-
 
!1
 
|[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]||style="text-align:right"|22||鳩山一郎・1955年(昭和30年)||安倍晋三・2012年(平成24年)
 
|-
 
!2
 
|[[立憲政友会]]||style="text-align:right"|5||伊藤博文・1900年(明治33年)||犬養毅・1932年(昭和7年)
 
|-
 
!3
 
|[[大政翼賛会]]||style="text-align:right"|4||近衛文麿・1940年(昭和15年)||鈴木貫太郎・1945年(昭和20年)
 
|-
 
!4
 
|[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党(1998年(平成10年) - 2016年(平成28年))]]||style="text-align:right"|3||鳩山由紀夫・2009年(平成21年)||野田佳彦・2011年(平成23年)
 
|-
 
!rowspan="3"|5
 
|[[日本社会党]]||rowspan="3" style="text-align:right"|2||片山哲・1947年(昭和22年)||村山富市・1994年(平成6年)
 
|-
 
|[[立憲民政党]]||濱口雄幸・1929年(昭和4年)||[[若槻禮次郎]]・1931年(昭和6年)
 
|-
 
|[[憲政会]]||加藤高明・1924年(大正13年)||若槻禮次郎・1927年(昭和2年)
 
|-
 
!rowspan="10"|8
 
|[[新生党]]||rowspan="10" style="text-align:right"|1||colspan="2"|羽田孜・1994年(平成6年)
 
|-
 
|[[日本新党]]||colspan="2"|細川護熙・1994年(平成6年)
 
|-
 
|[[日本民主党]]||colspan="2"|鳩山一郎・1955年(昭和30年)
 
|-
 
|[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党(1950年(昭和25年) - 1955年(昭和30年))]]||吉田茂・1952年(昭和27年)||吉田茂・1953年(昭和28年)
 
|-
 
|[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]||吉田茂・1948年(昭和23年)||吉田茂・1949年(昭和24年)
 
|-
 
|[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党(1947年(昭和22年) - 1950年(昭和25年))]]||colspan="2"|芦田均・1948年(昭和23年)
 
|-
 
|[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]||colspan="2"|吉田茂・1947年(昭和22年)
 
|-
 
|[[日本進歩党]]||colspan="2"|[[幣原喜重郎]]・[[1945年]](昭和20年)
 
|-
 
|[[立憲同志会]]||colspan="2"|[[大隈重信]]・[[1914年]](大正3年)
 
|-
 
|[[憲政党]]||colspan="2"|大隈重信・[[1898年]](明治31年)
 
|}
 
*このほか、貴族院議員の首相には貴族院の[[院内会派]]に所属していた議員もいた(近衛文麿の[[火曜会]]など)。
 
 
 
== 幻の総理大臣 ==
 
総理大臣に就任してもおかしくない大物政治家でありながら早世などの理由で就任に至らなかった人物を「幻の総理大臣」と呼ぶことがある。[[福田和也]]「総理の値打ち」([[文春文庫]])・[[御厨貴]]編「歴代首相物語」([[新書館]])など歴代首相総覧の類では定番の項目となっているほか、[[浅川博忠]]「自民党・ナンバー2の研究」([[講談社文庫]])・[[小林吉弥]]「総理になれなかった男たち」([[経済界]])など「幻の総理大臣」を特集した書籍も出版されている。いろいろな人物が名前を挙げられるが、福田・御厨・浅川・小林がすべて挙げている人物として[[緒方竹虎]]と[[河野一郎]]、戦前も扱った福田・御厨がともに挙げている人物に[[井上馨]]・[[後藤新平]]・[[宇垣一成]]がいる。このほか、「辞退さえしなければ首相になれた」人物、すなわち戦前の[[徳川家達]]や戦後の[[伊東正義]]のように次期首相として推挙されながら辞退した人物も存在する。
 
 
 
== 辞令の書式 ==
 
*辞令は縦書きで、発令年月日は[[和暦]]、数字は[[漢数字]]での記載となる。漢数字には壱・拾などの[[大字 (数字)|大字]]は用いられず、また、十の位は簡略化せずに記載される(例:「一七年」でなく「十七年」、「二一日」でなく「二十一日」)。
 
*国会の指名奏上
 
{{Quotation|国会は衆議院議員○○君を<br />内閣総理大臣に指名いたし<br />ました。<br />よってここに奏上いたしま<br />す。<br />平成○年○月○日<br />衆議院議長(自署)<br />衆議院事務総長(自署)}}
 
*内閣総理大臣任命の助言と認証
 
{{Quotation|日本国憲法第六条第一項に<br />依り○○を内閣総理大臣に<br />任命するについて<br />右謹んで裁可を仰ぎま<br />す。<br />平成○年○月○日<br />内閣総理大臣(自署)(前内閣総理大臣)}}
 
裁可を表すため、この書面に天皇は自ら「可」の文字の印章を押印する。
 
*任命の辞令(官記)(※「任命する」の後に「。」は付されない)
 
{{Quotation|氏 名(新内閣総理大臣)<br />内閣総理大臣に任命する<br />御名御璽<br />平成○年○月○日<br />内閣総理大臣(自署)(前内閣総理大臣)}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Prime ministers of Japan|日本の内閣総理大臣経験者}}
 
歴史
 
*[[日本国歴代内閣]]
 
発足・組織・形態
 
*[[内閣総理大臣指名選挙]]
 
**[[組閣]]・[[親任式]]・[[認証官任命式]]
 
*[[国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範]]
 
*[[内閣 (日本)]]
 
**[[国務大臣]]・[[副大臣]]・[[大臣政務官]]
 
**[[内閣総理大臣補佐官]]・[[内閣総理大臣秘書官]]
 
*[[内閣総理大臣臨時代理]]
 
*[[大命降下]] - [[元老]]
 
*[[一人内閣]]
 
* [[内閣連帯責任]] {{small|([[:w:Cabinet collective responsibility|Cabinet collective responsibility]])}}
 
 
 
国会
 
*[[政府四演説]]、[[施政方針演説]]
 
*[[衆議院解散]]
 
*[[内閣不信任決議]]
 
 
 
施設・設備
 
*[[総理大臣官邸]]
 
*[[総理大臣公邸]]
 
*[[日本国政府専用機]]
 
*[[内閣総理大臣専用車]]
 
 
 
その他
 
*[[一内閣一仕事]]
 
*[[国民栄誉賞]]、[[内閣総理大臣顕彰]]
 
*[[内閣総理大臣杯]]、[[内閣総理大臣賞]]
 
*[[内閣支持率]]
 
*[[内閣総辞職]]
 
*[[番記者]]
 
  
 +
[[国務大臣]]の任免権を有し (68条) ,内閣を代表して議案を国会に提出し,一般国務および外交関係について国会に報告し,また行政各部を指揮監督する (72条) 。内閣の職権の行使は[[閣議]]によるが,内閣総理大臣が閣議を主宰する (内閣法4条2項) 。
 +
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
 
*[https://www.kantei.go.jp/ 首相官邸]
 
*[https://www.kantei.go.jp/ 首相官邸]
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{{日本関連の項目}}
 
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{{デフォルトソート:ないかくそうりたいしん}}
 
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[[Category:日本の内閣総理大臣|!]]
 
[[Category:日本の内閣総理大臣|!]]
1,178行目: 43行目:
 
[[Category:日本の行政]]
 
[[Category:日本の行政]]
 
[[Category:日本の行政官職]]
 
[[Category:日本の行政官職]]
[[Category:復興庁]]
 

2018/8/17/ (金) 09:07時点における版

内閣総理大臣(日本の旗 日本)
担当官庁 内閣
内閣官房
内閣府
官邸 首相官邸
任期 国会から指名される期間(再選可)
創設 1885年明治18年)12月22日
公式サイト 首相官邸
テンプレートを表示


内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん、: prime minister

内閣の首長で (憲法 66条1項) ,国会議員のなかから国会の議決で指名され (67条1項) ,天皇によって任命される (6条1項) 。首相ともいう。

国務大臣の任免権を有し (68条) ,内閣を代表して議案を国会に提出し,一般国務および外交関係について国会に報告し,また行政各部を指揮監督する (72条) 。内閣の職権の行使は閣議によるが,内閣総理大臣が閣議を主宰する (内閣法4条2項) 。

外部リンク

日本国歴代内閣総理大臣

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衛

寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一

濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎

阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂

片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮

三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曽根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹

宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎

安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
菅直人
野田佳彦