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国家保安省
Ministerium für Staatssicherheit (MfS)
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国家保安省のエンブレム
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組織の概要
設立年月日 1950年2月8日 (1950-02-08)
解散年月日 1990年10月3日 (1990-10-3) (東ドイツの解散日)
種類 秘密警察情報機関
管轄 ドイツ民主共和国閣僚評議会Deutsch版
本部所在地 東ドイツの旗 東ドイツ 東ベルリン
標語 Schild und Schwert der Partei
(の盾と剣)
行政官

シュタージドイツ語: Stasi)とは、ドイツ民主共和国(東ドイツ)秘密警察諜報機関である国家保安省ドイツ語: Ministerium für Staatssicherheit英語: Ministry for State Security、略号: MfS)の通称で、英語の「state security」に相当するドイツ語の「Staatssicherheit」の短縮語である。徹底した監視態勢で、東ドイツ国民を震え上がらせるばかりでなく、西ドイツにもスパイを送り込み、東西両ドイツ国民から恐れられた。全盛期には対人口比で同じナチス政権下のゲシュタポソ連KGBを凌ぐ徹底的な相互監視網を敷いた。

歴史

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ツァイサー(左)とヴォルヴェーバー(右)

1947年8月16日、東ドイツのソ連占領軍当局は「第5委員部(K-5)」(秘密警察組織)を創設した。その委員(大臣に相当)には、ヴィルヘルム・ツァイサーDeutsch版を、副委員にはエーリッヒ・ミールケを任命した。形式上、K-5は人民警察刑事局に従属した。

東ドイツでは、1949年ドイツ民主共和国建国以前からソ連軍軍政下に自治組織であるドイツ経済委員会Deutsch版(DWK)があり、「人民警察」も組織されていた。この「人民警察」は「兵営人民警察」を経て国家人民軍となった。また、K-5やシュタージの創設にはナチス政権時代の秘密警察ゲシュタポ国家保安本部第III局と第VI局で国内諜報や国外諜報を担当した親衛隊情報部(SD)の出身者が相当数採用されたとの説もあるが、真偽や詳細については不明な部分がほとんどである。

1949年のドイツ民主共和国建国後、1950年に国家保安省が創設された[1]。国家保安相にはツァイサーが、次官はミールケが任命された。1953年、ミールケはベルリン暴動と関連して、ツァイサーを弾劾し、ツァイサーは解任された。国家保安省の地位は低下し、内務省に従属する庁扱いとなった。内務省国家保安局長には、エルンスト・ヴォルヴェーバーDeutsch版が、副局長にはミールケが任命された。

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-35339-0013, 80. Geburtstag Wilhelm Pieck, Glückwünsche.jpg
ヴィルヘルム・ピーク大統領(右背広姿の人物)80歳の祝辞を述べるミールケ
左背広姿の人物がヴォルヴェーバー

1955年、シュタージは省の地位を取り戻した。ミールケは、ヴァルター・ウルブリヒト支持の際、ヴォルヴェーバーを弾劾した。1957年11月1日、ヴォルヴェーバーは、健康上の理由で辞任し、ミールケが国家保安相となった。ミールケの下で、シュタージにはソ連国家保安委員会(KGB)と同様の軍隊式の階級制度および制服が導入され、ミールケ自身は少将となった(1959年に中将)。

1958年、シュタージに対外諜報を担当する「A」総局(HV A)が創設された。「A」とは偵察を意味するドイツ語の「Aufklärung」の頭文字である。「A」総局長兼国家保安省次官には、マルクス・ヴォルフ少将が任命された。

1971年、シュタージの策動の下ウルブリヒトは解任され、エーリッヒ・ホーネッカーと交代した。ホーネッカーは感謝の印に、ミールケをドイツ社会主義統一党政治局員候補にした。

1986年、ヴォルフが辞任。ヴォルフの後任には、ヴェルナー・グロスマンが任命された。当時「A」局では4,126人の職員が働いており、各国に4,500人以上のエージェントを有していた。

1989年11月、ベルリンの壁が崩壊し、シュタージは国家保安局に改称した。同年12月、同局は解散された。

組織

シュタージには、以下の組織・部局が存在した

対国内諜報活動

シュタージは「軍隊式の階級」を持ち、正規職員は国家人民軍地上軍(陸軍)のものと酷似した制服を着用することもあった。

  • 国内活動向けの準軍事組織として、フェリックス・ジェルジンスキー衛兵連隊を有する。また、それ以外にIMドイツ語: Inoffizieller Mitarbeiter非公式協力者)と呼ばれた密告者を多数抱えており、彼らによって国民を相互監視し、国内の反体制分子を弾圧した。正規職員とIMの総数は、約190万人もいたとされ、東ドイツ人口の1割以上が「秘密警察関係者」という、恐るべきものであった。
  • 反体制分子と目された人々の『詳細な個人情報記録』は、東ドイツが崩壊した後、本人や家族に限り閲覧が出来る様になったが、それによって家族や親友やチームメイトや職場の同僚が、実は『シュタージの協力者であった』という真実を知り、家庭崩壊や極度の人間不信に陥った人々も少なくなく、中には精神病を患う者さえ発生した。
    • なお東ドイツ崩壊前に、個人ファイルの紙をバラバラに切り刻んだため、2017年現在でもドイツ連邦政府によって、ファイルの復元作業が行われている。
  • また、1973年に作成された要領で、ベルリンの壁を越えて西側亡命を図る者は、子供に対しても躊躇せず銃撃を加えることと規定され、厳しい東西対立を背景に、徹底的な弾圧を行った。ベルリンの壁を乗り越ようとし亡命に失敗、発砲などで命を落とした人は、およそ1200人を越えるといわれている。

対西ドイツ工作の成果

  • 1954年7月20日、西ドイツの連邦憲法擁護庁 (BfV) 長官代行オットー・ヨーン博士が東ドイツに亡命(のち西ドイツに帰国)。
  • 1985年8月15日、連邦憲法擁護庁防諜局長ハンス・ティートゲEnglish版が失踪した。8月19日、ティートゲは東ベルリンで記者会見を開き、西ドイツと決別し、東ドイツで新しい生活を送ることを明らかにした(実際は、自身のアルコール中毒や妻の死に起因する精神不安定が原因とされている)。後にベルリン・フンボルト大学において、BfVの活動を記述した「ドイツ連邦共和国における憲法擁護庁の防諜機能」という論文で博士号を取得。1989年、ソ連に亡命。
  • ギヨーム事件
    • 1956年、シュタージの諜報員ギュンターとクリステルのギヨーム夫妻は難民を偽装して西ドイツに入国した。ギヨームは1970年1月28日から首相官房で働き始め、能力を評価されて1972年にはヴィリー・ブラント首相の個人秘書に就任した。この時から西ドイツの政策、特に「東方政策」の内容は東ドイツに筒抜けになった。
    • 1973年5月24日、西ドイツの連邦憲法擁護庁に、ギヨームがシュタージのスパイ「ゲオルグ」であることを示唆する報告書が提出された。ギヨームは11か月の間監視下に置かれたが、現行犯逮捕されるようなミスを犯さず、シュタージのエージェントと接触を続けた。翌1974年1月、西ドイツの検察は証拠不十分のため、ギヨームに対する逮捕令状の申請を却下した。
    • だが捜査は継続され、同年4月24日、ギヨーム夫妻はスパイ容疑で逮捕された。ギヨームは自らを逮捕した捜査官に対し「私は東ドイツ国家人民軍将校で、国家保安省の職員でもある。将校としての私の名誉が尊重されることを望む。(Ich bin Offizier der Nationalen Volksarmee der DDR und Mitarbeiter des Ministeriums für Staatssicherheit. Ich bitte, meine Offiziersehre zu respektieren)」と述べ、自らが東ドイツのスパイであることを認めた。この事件は直ちに大きく報道され、ブラント首相の辞任の原因ともなった。
    • 1975年12月15日、ギヨームは禁固15年(妻クリステルは8年)を言い渡されたが、1981年10月、西ドイツのエージェント8人と交換で釈放された(妻クリステルは6人と交換)。その後、ギヨームはシュタージの諜報学校で講義を行い、1995年に死去した。ギヨーム夫妻事件は『世界で最も成功したスパイ作戦の事例』の1つと考えられている。
ファイル:Berlin Stasi Normannenstrasse 2005.jpg
ベルリンの旧シュタージ中央庁舎

ドイツ統一後

シュタージ解散後、米国とドイツ間で、シュタージエージェントの名前が記された「シュタージ・ファイル」の獲得を巡る暗闘が始まった。シュタージ・ファイルとは、一種のカードであり、情報源の項目にはエージェントの登録番号と偽名、本文の項目には提供情報のレジュメと日時が記載されていた。

1990年1月15日、東ドイツの人権活動家達がベルリンの旧シュタージ庁舎を占拠した。彼らは、大量のファイルを入手したが、対外諜報機関関係の書類だけは一つも見つからなかった。対外諜報関係の資料は、マルクス・ヴォルフがソ連に持ち出したとも、KGB駐東ドイツ支局が焼却したとも言われている。当時、CIAは「薔薇の木作戦」を実行し、大量のマイクロフィルムを奪取することに成功した。

ドイツ連邦政府は、この文書の返還を求めたが、アメリカ合衆国連邦政府は拒否し続けた。ある時CIAは、BfV駐ワシントン代表にエージェントのリストを閲覧させたが、この際に持ち帰りや複写機による複写が出来ず、筆写しか許されなかった。

ドイツもアメリカもシュタージの記録を解読できなかったことで、暗闘は先鋭化した。この問題は、文書の一部が解読された1999年1月になって、初めて解決した。解読された文書は、1969年から1987年までの記録であり、16万件を超える。現在、シュタージの文書解読と保管には、元反体制派の牧師ヨアヒム・ガウクを長とする40人の職員が従事し「ガウク機関」と通称される(2000年から長がマリアンネ・ビルトラーに交代し「ビルトラー機関」)。文書の総数は、9億件にも上るとされる。

2001年1月2日、インターネット上にエージェント10万人のリストが掲載された。リストには氏名だけではなく、彼らの評価や毎月の報酬まで書かれていた。

2007年11月、デンマークオーデンセ(Odense)で、サザン・デンマーク大学 (University of Southern Denmark)の冷戦研究センターが主催して、シュタージで諜報活動に従事していた約60人が「冷戦時代の緊迫した平和の生き証人」として証言する会合がもたれた[2]

2009年、西ドイツにおける学生運動、ドイツ赤軍らによるテロの激化の契機となった、警察官カール=ハインツ・クラスによるデモ参加学生ベンノ・オーネゾルク殺害事件に関して、クラスがシュタージのスパイだったという事実を示す資料が発見された[3]。この事実を各メディアが一斉にトップニュースとして報道し、ドイツ国民に衝撃を与え、高い関心を買うこととなった[4]ベルリンにあるオーネゾルクの慰霊碑に「スターリニズムによる犠牲者」の文字が付け加えられた。

シュタージの登場する作品

参考文献

  • 桑原草子(著)、『シュタージの犯罪』(中央公論社、1993年)
  • 関根伸一郎(著)、『ドイツの秘密情報機関』(講談社、1995年)
  • 河合純枝(著)、『地下のベルリン』(文藝春秋、1998年)
  • 秦郁彦(編)、『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』(東京大学出版会、2001年)
  • 熊谷徹(著)、『顔のない男 東ドイツ最強スパイの栄光と挫折』(新潮社、2007年)
  • カタリナ・ヴィット(著)、畔上 司(訳)『メダルと恋と秘密警察―ビットが明かす銀盤人生』(文藝春秋、1994年)
  • T・ガートン・アッシュ(著)、今枝麻子(訳)、『ファイル』(みすず書房、2002年)
  • アナ・ファインダー(著)、伊達淳(訳)、船橋洋一(解説)、『監視国家―東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆』(白水社、2005年)

注釈

関連項目

ドイツ連邦共和国の情報機関

外部リンク