ヴィルヘルム・ピーク
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ラインホルト・ピーク(Friedrich Wilhelm Reinhold Pieck、1876年1月3日 - 1960年9月7日)は、ドイツの共産主義者、政治家。ドイツ民主共和国(東ドイツ)の初代大統領。彼以後は国家評議会議長が元首となり、大統領制が廃止されたので、最初で最後の大統領である。
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経歴
生い立ち
ピークは1876年、ドイツ東部ナイセ川沿いの街、グーベン(Guben)で馬車の御者の家に生まれた(現在グーベンは、ナイセ川を境にドイツ側のグーベン市とポーランド側のグービン市に分かれているが、彼は川の東側の現ポーランド領出身)。彼は大工となるべく学校に進んだが、当時の国際情勢から来るイデオロギーの影響や政治的野心から、彼は政治の道へ入った。
政治活動
大工として、ピークは木工労働者連盟に1894年に参加し、そこから1895年にドイツ社会民主党(SPD)に入党した。彼は党内で昇進し、1899年には党都市部議長となり、1906年には党の常勤の書記となった。1907年から翌年にかけてはベルリンにあった党の中央学校で学び、ローザ・ルクセンブルクの影響を受けている。第一次世界大戦が勃発するとピークは平和主義に賛同して戦争に反対の立場をとった。彼はドイツ帝国陸軍への徴兵には応じたが反戦的な態度から憲兵に逮捕され営倉に入れられた。脱走後ピークはしばらくベルリンに潜伏してスパルタクス団に入り、のちアムステルダムに逃れた。
1918年ベルリンに戻ると政治活動に戻った。彼はプロイセン州議会に加わる一方、ドイツ共産党(KPD)の結党に参加しその政治局員となった。翌年1月のスパルタクス団蜂起では虐殺されたローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトらと共に政府側の義勇軍に捕えられたが脱出に成功した。1921年にはKPDによりコミンテルンの代表委員に選ばれ、レーニンに接する機会を得た。1928年には帝国議会議員に当選している。国際的な共産主義活動が認められ、1931年にはコミンテルン代表委員長に選出された。
1930年8月5日の演説で、ピークは「労働者男女」に向けて彼のマルクス・レーニン主義的な世界観を概説している。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の勃興に憂慮を示し、ピークは彼の考える共産主義の体制とナチスの理想とする体制との違いを情熱的に解説している。彼は「共産主義者だけが労働者を救う」と論じ、これに反してナチスは労働者の味方になるどころか「党の指導のもとに大衆の過激化が進む」と述べている。ピークは「労働者たちが団結すれば強力だ」と信じ、ドイツ人は「戦争とファシズムの帝国主義的脅威に対する闘争を続け、社会主義の『ソビエト・ドイツ』実現のための闘争を続けなければならない」と主張した。
ソ連での活動
ピークはアドルフ・ヒトラーの政権獲得への反対と、ヨシフ・スターリンとの連携を行った。1933年のナチスの政権獲得と権力集中、共産党の非合法化により、ピークは1934年5月にフランスに亡命し、1935年にブリュッセルで開かれた党会議では獄中にあるエルンスト・テールマン議長に代わる議長代行に選出されモスクワに移った。モスクワでは彼はソ連共産党に様々な形で協力した。スターリンによる大粛清の時はソ連に亡命したドイツの共産主義者も多くが犠牲となったが、ピークはヴァルター・ウルブリヒトらのスターリンに忠実なグループに属してこれを免れた。1938年から1943年まではコミンテルンの総書記(General Secretary)となった。またピークは、ドイツの意図と将来の戦争への道に関してスターリンに助言する重要な役割を果たした。
1941年、ピークはウルブリヒトとともにスターリンと会い、ヒトラーについて徹底的に分析して警告を発し、赤軍を西へ進軍させるスターリンの希望について議論している。会合の指揮やその記録など、ピークの果たした役割はその50年後に記録が公開されるまで不明であった。1943年、ピークはナチスに抵抗するソ連主導のドイツ人抵抗組織、自由ドイツ国民委員会(Nationalkomitee Freies Deutschland、NKFD)の創設者のひとりとなった。NKFDは第二次世界大戦後のドイツの社会主義化という将来も視野に入れていた。1945年の終戦後、ピークは赤軍とともにドイツに入りドイツ共産党を再建し、ソ連をモデルにしたプロレタリアート独裁や共産主義体制を導入するため、ソ連占領地域の社会民主党と共産党を半強制的に併合させてドイツ社会主義統一党を誕生させた。
東ドイツ大統領
1949年、ピークは新しく建国されたドイツ民主共和国(東ドイツ)の初代共和国大統領(Präsident der Republik)となった。ドイツ社会主義統一党の指導者となったヴァルター・ウルブリヒトと違い、彼は国民の間からの人気もあった。ただしその在任の後期には健康状態の悪化から公式の場に現れることはほとんどなかった。
ピークは1960年の心臓麻痺による死去まで東ドイツの初代にして唯一の大統領を務めた。スターリニズムを世界へ、とりわけ東西の境界に位置するドイツへ広げるピークの能力をスターリンは信頼していた。彼のイデオロギーはスターリンからの全面的な信頼を得るのに役立ち、その結果東ドイツの指導者として最後まで務め上げることができた。
旧東ドイツ時代には彼の出身地グーベンが公式には「ヴィルヘルム・ピーク都市グーベン」と呼ばれたほか、ロストック大学も彼の名が冠されヴィルヘルム・ピーク大学と改名され、また各都市で大通りや広場に彼の名が付けられた。そのほとんどは1990年の東西ドイツ再統一の際に東ドイツ以前の旧名に戻されるか改名されたが、少数ながら現在も残っている所もある。
外部リンク
- Literatur von und über Wilhelm Pieck - ドイツ国立図書館
- Biografie des DHM
- Gerhard Keiderling: Wilhelm Pieck - erster Ehrenbürger nach 1945, www.luise-berlin.de
公職 | ||
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先代: カール・デーニッツ (ドイツ国大統領) |
ドイツ民主共和国大統領 初代:1949 - 1960 |
次代: ヴァルター・ウルブリヒト (国家評議会議長) |
党職 | ||
先代: (創設) |
ドイツ社会主義統一党議長 オットー・グローテヴォールと共同 初代:1946 - 1950 |
次代: ヴァルター・ウルブリヒト (ドイツ社会主義統一党書記長) |