徳川光貞
徳川光貞 | |
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時代 | 江戸時代 |
生誕 | 寛永3年12月11日(1627年1月28日) |
死没 | 宝永2年8月8日(1705年9月25日) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
藩 | 紀伊紀州藩主 |
氏族 | 紀州徳川家 |
徳川 光貞(とくがわ みつさだ)は、紀州藩の第2代藩主。初代藩主・徳川頼宣の長男で、徳川家康の孫。正室は伏見宮貞清親王の娘・安宮照子女王。子に5代藩主から8代将軍となった吉宗の他、綱教(3代藩主)・頼職(4代藩主)などがいる。極位極官は従二位権大納言。贈従一位。
3代将軍徳川家光や、他の徳川御三家の第2代当主(尾張藩主徳川光友・水戸藩主徳川光圀)とは従兄弟関係にある。
生涯
※日付=旧暦
寛永3年(1626年)12月11日、紀伊国和歌山城(現和歌山県和歌山市)に生まれる。幼名は長福丸。元服後、従兄弟にあたる3代将軍徳川家光から偏諱を賜い光貞と改名。
寛文7年(1667年)に父・頼宣から家督を継ぎ、元禄11年(1698年)まで31年間にわたり紀州藩の藩政を行う。法令27箇条を制定するなどの善政により、領民から慕われた。嫡男である綱教に5代将軍・徳川綱吉の長女鶴姫が嫁いだことにより、綱吉を屋敷へ招くなど将軍家と縁を深めるが、宝永元年(1704年)に鶴姫は死去した。宝永2年(1705年)には綱教が死去し、綱教の後を追うように薨去した。享年79(満78歳没)。紀伊徳川家の菩提寺である、長保寺(和歌山県海南市下津町)に葬られる。
文武両道の方針を貫いており、明律学を学んで刑法の基礎を作ったり、狩野興益や狩野探幽に師事して水墨画を描くなどした。
延宝5年(1677年)に出した農村法は家臣からの反発を受けたものの、以後は紀州藩の基本法となり、天和2年(1682年)には財政再建策の家中知行切地の合理化、元禄10年(1697年)には検地と名寄帳の整理、隠居後の元禄14年(1701年)には町人への間口税を新設する等、後に吉宗の時代にも継承された政策を実施した。[1]
紀州藩主としての治世は30年11か月であり、この間の江戸参府16回、紀州帰国16回、紀州在国の通算は16年であった。更に隠居期間が7年3か月あり、この間の江戸参府2回、紀州帰国3回であった。[2]
官歴
- 1631年(寛永8年)5月3日、従五位上に叙位。
- 1633年(寛永10年)9月5日、将軍徳川家光の偏諱を授かり光貞を名乗る。従四位下常陸介に昇叙任官。
- 1640年(寛永17年)3月4日、従三位参議右近衛権中将に昇叙転任。
- 1653年(承応2年)8月12日、正三位権中納言に昇叙転任。
- 1667年(寛文7年)紀伊国紀州藩主相続。
- 1690年(元禄3年)
- 5月4日、権大納言に転任。
- 5月12日、従二位昇叙。
- 1698年(元禄11年)4月22日、隠居。
- 1702年(元禄15年)5月28日、出家。對山を号す。
- 1705年(宝永2年)8月8日、薨去。
- 1832年(天保3年)3月5日、贈従一位。法号は清渓院殿二品前亜相源泉尊義對山大居士。
演じた俳優
- 映画「水戸黄門」(1960年)市川右太衛門
- NHK大河ドラマ「元禄太平記」(1975年)毛塚守夫
- NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」(1995年)大滝秀治
- NHK大河ドラマ「葵 徳川三代」(2000年)山本祐太郎
- TBS「水戸黄門第8部」(1977年)長谷川哲夫
- TBS「水戸黄門第16部」(1986年)岩井半四郎
- TBS「水戸黄門第29部~第30部」(2001年~2002年)舟木一夫
- TBS「水戸黄門第37部」(2007年)平幹二朗
- フジテレビ「影の軍団III」(1982年)小沢栄太郎
- テレビ朝日「暴れん坊将軍VI」(1994年)楠年明
- テレビ東京「徳川風雲録 御三家の野望」(1986年)加藤和夫
- テレビ東京「徳川風雲録 八代将軍吉宗」(2008年)松方弘樹
- 映画「忍ジャニ参上! 未来への戦い」(2014年)若林豪